2025 Volume 2025 Issue 52 Pages 17-32
はじめに
私たちは「戦争」について何を知っているだろうか。まずは、「知らない」という応答がありえる。確かに、「戦争」というテーマは、学術的な活動や日常において普通に取り扱われるテーマではないかもしれないし、また個々人の興味関心事項であるとは限らない。次に、「知りたくない」という応答もありえる。それもまた、尊重されなくてはならない立場や姿勢である。それでもなお、私たちは、意識するかしないかを問わず、「戦争」という事象に常に接しており、そして何らかの情報を得ていることもまた事実である。
もし私たちが「戦争」について何らかを知っているとするならば、どのようなことを、どのように知っているのだろうか。「知っている」の度合いや程度は個々人について異なるだろう。しかし、「私たちは「戦争」について何も知らない」は事実ではないような気がする。まずは議論のベースラインとして、私たちは「戦争」について何らかの知識があるということから始めたい。そのうえで、私たちは(ときとして)「戦争」について何らかの判断や評価を行うことがある。具体的には、「戦争」と、それを取り巻く諸相について、「よい」、「悪い」、「正しい」、「正しくない」、「許容される」、「許容されない」といった判断や評価を行うことがあるだろう。また、もしそれを行う意思と能力があれば、そのような判断や評価を行うことができよう。さて、さらに議論を推し進めるのであれば、私たちはそのような判断や評価を「すべき」なのかもしれない。そして、ここからが「戦争倫理学」の入り口とある。
本稿の目的は、わが国の応用倫理学の領域において、生命倫理学や環境倫理学などと比較するまでもなく明らかに「マイナー」である戦争倫理学を、基礎的な概念や問いを検討することを通して、包括的かつ可能な限り網羅的に俯瞰することにある。本稿では「伝統的」な戦争倫理学を応用倫理学の視座よりなぞることで、その全貌とはいわないが、おぼろげながらでもその概要に迫りたいと考えている。本稿の内容は戦争倫理学を知る者にとっては釈迦に説法かもしれないが、上記の趣旨に鑑み、多の読者に戦争倫理学に関する一般的な情報と話題の提供を行うこととしたい。もし欲をいうのであれば、「実践倫理学」としての応用倫理学として、社会への積極的なコミットメントを行う一例を提示できればと考えている。本稿では上記の目的と趣旨を踏まえ、以下の45の話題について検討を行う。
本稿は3つの節に大別される。まず、第1節(1–12)では、議論を進めるためのさしあたっての共通認識としてのワーキング・ディフィニション(それが真実であるかどうかはさしあたり置いておいて、議論を進めるための共通理解・共通言語を担保するための定義ないし特徴づけ)と、戦争倫理学におけるいくつかの大きな問いについて検討を行う。次に、第2節(13–31)では、戦争倫理学における総論について検討を行う。最後に、第3節(32–45)では、戦争倫理学における各論を扱う。
第1節
1.戦争とは
武力が用いられる集団間の紛争、つまり「武力紛争(armed conflict)」である。具体的には次の特徴を見ることができる。行為主体としての複数の国家や政治共同体ないし非国家主体を当事者とし、共同体の運営(政治)に関わる何らかの政治的な目的を達成するための手段として、各紛争当事者のみならず他の行為体や行為者によっても正当化(または不当であると判断・評価)され、紛争当事者間でなされる組織的な集団行為であり、状況によっては敵側の構成員のみならず自らの構成員をも死に至らしめることも厭わず、また相手の意思にかかわらず、相手に対して暴力を行使したり、相手からの暴力を防御したりするための手段として武器や兵器を用いた運動的(kinetic)または非運動的強制力(統制された暴力、武力・軍事力)またはその両方の行使が継続的に生起する状態や状況(眞嶋2019b、41–42、一部改変)。
では、往々にして「戦争」の対極にあると考えられることがある「平和」とは何だろうか。最大幅の定義は「武力紛争がない状態」、最小幅の定義は「個人の心の安寧」といえるかもしれない。ひょっとしたら何らかの宗教を信じている信仰者にとっては「天国」や「極楽浄土」がそれにあたるのかもしれないが、必ずしも皆が信仰者であるわけではないことがポイントかもしれない。重要なのは、最大幅と最小幅の間に無限のように思われるグレーゾーンがあることである。例として、高強度紛争(high intensity conflict)は起こっていないが、テロやゲリラやクーデターや革命が起こっている状況は「平和」であるといえるだろうか。武力紛争の当事者ではない国家が統治する領域にいるが、世界のどこかにおいて武力紛争当事者である国家の軍隊の基地のそばにいる人々がそれを不安と感じていたら、それは「平和」であるといえるのか。近隣の治安はどうだろうか。失業率の上昇はどうだろうか。
しかし、ここに何らかの違和感を読み取ることができるかもしれない。というのは、たとえ武力紛争下においても、その状況下という「日常」において、そこで暮らす人々が心に安寧を持たないとはいいきれないからである。
2.倫理とは
社会における人間の生きかた、あるべき姿、または個人によって構成される集団のありかた、あるべき姿といえよう。そのあるべき姿を指し示すのが倫理規範である。それは、社会における人間の生きかた、あるべき姿、または個人によって構成される集団のありかた、あるべき姿を示す規範的指針といえる。または個人や社会の間での約束事、ルール、取り決めごとといえよう(その具体的な内容が何であるか、また行為者間や社会の間で共有されているかはさしあたりおいておく)。
3.倫理学とは
先の2.で示した「社会における人間の生きかた、あるべき姿、または個人によって構成される集団のありかた、あるべき姿」に関する学問といえよう。
ここで注意すべきは、「である」と「すべき」の違いである。倫理学は、「である」を扱う「記述倫理学」と「すべき」を扱う「規範倫理学」に分けることができる(なお、ここでいう「規範倫理学」は、いわゆる狭義の「倫理学」における「メタ倫理学」と「応用倫理学」に並ぶ、3つの分野の内の一つである「規範倫理学」を意味するものではないことに注意されたい)。
「記述倫理学」は、私たちや他の人々が実際にどのように道徳判断を行っているかということを問う領域である。例えば、「相手との物理的または心理的またはその両方の距離が遠ければ遠いほど、その相手からの同意や合意を得ようとしない。その理由の一つとして共感の度合いの違いが考えられる」というのは「記述倫理学」の領域であり、「である(ではない)」が問題となる。この点において「記述倫理学」は人類学、社会学、道徳心理学との親和性が高い。
「規範倫理学」は、私たちや他の人々がどのように道徳を行うべきか、またはどのような道徳原則に従うべきであり、それらの原則に基づく道徳判断や道徳的理由付けを問う領域である。例えば、「相手との物理的または心理的またはその両方の距離が遠い近いに関わらず、その相手から同意や合意を得なければならない。その理由の一つとして平等や相手を自分と同じ一人の人間として扱うという重要な道徳的価値(を尊重すべきであること)が考えられる」というのは「規範倫理学」領域であり、「すべき(すべきではない)」が問題となる。ここで私たちが扱うのは後者、つまりここでいうところの「規範倫理学」である。
4.戦争に倫理はあるのか
「戦争に倫理なんてない」という考えがあるかもしれないが、それは本当だろうか。「ある」か「ない」かといえば、「ある」といえる。というのは、人間の行いには倫理が伴うし、倫理は生き方に関する問題でもあるからだ。
人間や集団の行為には倫理が伴う。例えば、人工妊娠中絶や安楽死といったトピックは、生命を奪うことに関する倫理問題を提示する。戦争においても、人間の殺傷は深刻な倫理問題を惹き起こす。もっといえば、動物、植物、さらには文化財や環境に対しても被害や損害を与える可能性がある。
では、「戦争では倫理的であるべきではない」というのはどうだろうか。この言明もまた、「戦争ではルールに従うべきではない」という規範的指針である。すると、「戦争ではルールに従うべきではない」という言明は(それ自体が道徳的に正しいかどうかの判断はさしあたり置いておいた上で)、2.で示した、人間が社会生活を送る上で、また人間によって構成される集団が頼る(べき)規範的指針のひとつの表れである。
5.戦争倫理とは
戦争倫理とは、2.に基づき、「戦争という状況における、社会における人間の生きかた、あるべき姿」といえる。
6.戦争倫理学とは
2.と3.に基づき、「戦争という状況において、社会における人間の生きかた、あるべき姿、または個人によって構成される集団のありかた、あるべき姿」に関する学問。具体的には、戦争そのものの(道徳的な)正しさや不正、戦争遂行において用いられる戦闘や攻撃の方法や手段の(道徳的な)正しさや不正、さらに武力の行使に関わる暴力の諸相に関する道徳的な正しさや不正について分析、検討を行う営みである。
7.何のために戦争倫理学を考えるのか、その目的とは?
戦争と平和を巡る議論は、ときとして感情的、またはイデオロギー的な方向付けで語られていることがある。残念なことに、それは、議論を行うための共通の土俵を見失い、またはそのような土俵の構築や共有どころか、その可能性についてさえ見逃してしまっていることが多いように見受けられる。なぜ残念なのか。それは、立場を異にする人々が異なる視座で戦争と平和を議論する機会を逸することになるからである。
8.「正しさ」とは
ざっくり分けて、「法的な正しさ」と「道徳的な正しさ」を考えてみよう。法的に正しいことと道徳的に正しいことは重複する場合もあれば、相反する場合もある。例として、人工妊娠中絶を考えてみよう。ある国や地域では人工妊娠中絶は法的に正しい(合法)とされるが、他の国や地域では法的に正しくない(違法)とされる。しかし、人工妊娠中絶が合法とされる領域においても、人工妊娠中絶は道徳的に正しくない(道徳的に許容されない)と判断する人もいるだろう。逆もまた然りである。このことは、安楽死を例にとっても同じ構図をみてとれよう。それでは戦争はどうだろうか。戦争もまた、それが人間や人間によって構成される集団による行為である以上、法的な正不正のみならず道徳的な正不正の判断の対象になりうる。
9.道徳判断とは
道徳判断とは、個人の価値に関する信念や良心、または個人や集団の倫理規範に照らし合わせて行われる、善悪や正不正に関する価値判断といえよう。
10.「すべき(すべきではない)」とは
「すべき」は行為を義務とすることを示唆し、「すべきではない」は行為の禁止義務を示唆する。双方とも規範的指令である。例えば、「困っている人がいたら助けるべき」というのはその行為が義務として課されることを、また「病院でタバコを吸うべきではない」というのはその行為の禁止義務が課されることを示唆する。
11 .「許容される(されない)」とは
「許容される」は「すべき」とまではいえないが、「すべきではない」とまでもいえず、受け入れられること(の可能性)を示唆する。「許容されない」は「すべきではない」とまではいえないが、受け入れられないこと(の可能性)を示唆する。
12.「戦争倫理学の方法論」とは
戦争倫理学が応用倫理学の一部であることを踏まえ、応用倫理学の方法論から話を始めよう。応用倫理学の方法論は、典型的なものが3つ挙げられる。ひとつはトップダウン型、もうひとつはボトムアップ型、そしてもうひとつは生命倫理4原則のような中範囲理論である。
トップダウン型とは、大理論(グランドセオリー)に基づき、事象を分析する手法である。例えば、(もっとも素朴なヴァージョンの)功利主義を例にとってみよう2。「最大多数の最大幸福」を武力紛争に応用したらどうなるだろうか。ひょっとしたら、武力紛争法や慣習で禁止されていることでも、結果として最大多数の最大幸福につながる(期待される)としたならば、それらの規則はひっくり返ることになるかもしれない。実際のところ、武力紛争における個別事例を分析し判断を下し規範的指令を導くのであれば、功利主義に照らして、そのような法や慣習に反することが有益であると考えられる場合もあるだろうしかし、武力紛争を全体として考える上では必ずしも有益とはいえない。というのは、他の事例でもあるように、「最大多数の最大幸福」を実現するという目的のために、ある特定の個人や人々を意図的に犠牲にすることを厭わないような、私たちのこれまで重要と考え、またそれを重視して生きている基本的な道徳的価値、つまり、自由、自律、権利、尊厳、互恵・互酬などを踏みにじるような規範的指令を導き出すような結論に至ることを否定できないからである。
ボトムアップ型とは、いわゆる黒から白のグラデーションの間での個別の判断に基づく方法論である。最も簡単な形式だと次のようになる。
心地よい例ではないかもしれないが、ひとえに学術的な目的として論点を明確するため、以下について考えてみよう。
1.乳児を遊び半分で殺害することは悪い。
2.胎児の生命を絶ちたいという目的のみで人工妊娠中絶をすることは悪い。
3.妊娠継続によって母体の生命が深刻かつ緊急の危機にさらされ、母体の生命にそのような危機があったときには、母体だけではなく、その母体が妊娠している胎児の生命にも危害が及ぶ場合、母体の生命を救うために人工妊娠中絶を行うことは悪い(前提として、妊娠が継続された場合には、遅かれ早かれ母体および胎児の生命が失われることはほぼ確実に見込まれている)。
4.妊娠継続によって母体のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)が深刻な危機にさらされており、出産後において母体ならびに新生児のQOLが著しく深刻に喪失することが予測される場合には、人工妊娠中絶を行うことは悪い。
初めの2つを悪くないと考える人は少ないかもしれないが、まったくいないわけでもないかもしれない。しかし、私たちの多くは、そのように考える人たちをどのように評価するだろうか。おそらく、道徳的に非難し、道徳的な嫌悪感を抱くかもしれない。それでは、3つ目はどうだろうか。生命倫理学における人工妊娠中絶の道徳的是非に係る基本的な問いではあるが、基本的であるからこそ重要な論点となる。ポイントは、「1」「2」と「3」「4」では、少なくとも直観では何かが違うと感じるかもしれないし、おそらく道徳判断が割れるかもしれないというところにある。また、「3」と「4」の間においても、私たちの判断や評価は割れる可能性がある。このように、明らかなところからグレー(疑義ないし判断が分かれる)なところを考えていくのがボトムアップ型の方法論である。
重要な点は、その線引き、道徳判断の相違には何らかの理由があるはずであるということである。それを探るのが「理由付け」である。
戦争倫理学における中範囲理論は、その代表的なものとして、後にみる正戦論を挙げることができる。
第2節
13.戦争にルールはあるのか
英語に「All’s fair in love and war」というフレーズがある。訳すと「恋愛と戦争では何でもあり」である。確かに、そのように考え、そのように振る舞う人はいるかもしれない。しかし、そのように考えず、そのように振る舞わない人もいるだろう。
では、「恋愛と戦争では何をしてもよい」や「恋愛と戦争ではどのような行いも躊躇すべきではない」はどうだろうか。やはりそれもまた、(正しいか正しくないか、称賛されるか非難されるかはおいておいたとしても)ひとつの倫理のあり方で、ルールといえるかもしれない。
しかし、武力紛争を制限する法的ルールは存在する。それは国連憲章である。また、武力紛争を遂行するにあたっての法的ルールも存在する。それは武力紛争法(国際人道法・戦時国際法とも呼ばれる。)である。その代表例として、戦争における非戦闘員の保護を定めた1949年のジュネーブ諸条約や、特に民間人の保護を定めた1977年のジュネーブ条約追加議定書を挙げることができる。
14.戦争倫理学の視座とは
主に(政治的)現実主義、平和主義、正戦論の3つがある。詳しくは、下記の問い15–17を参照されたい。
15.(政治的)現実主義とは
ひとことでいうなら、ホッブズの『リヴィアサン』のような世界観である。ゼロサムを基本的な考え方とし、それに基づいた行動様式を指令するとともに、そのように行動する。しかし、必ずしも好戦的な立場をとるとは限らない。むしろ冷静であると共に悲観的である。国家の存続が最も基盤的な価値とみなし、国益に叶わないような軍事行動には慎重である。つまり、「無駄遣い」はすべきではないし、しないという立場である。詳しくは、眞嶋2015、92–96を参照。
16.平和主義とは
絶対平和主義と条件付き平和主義に分けられる。条件付き平和主義は、限りなく絶対平和主義に近い立場から正戦論や現実主義に近い立場まで幅広いスペクトラムを持つ。詳しくは、眞嶋2015、96–103を参照。
17.正戦論とは
その本質は「制戦論」といえる。正戦論は、第一義的には武力紛争一般や個々の武力紛争を正当化するためのものではなく、個々の武力紛争、また個々の攻撃や戦争の手段や方法を批判的に検討するための枠組みである。正戦論は「戦争の正義」、「戦争における正義」、「戦争後の正義」3つのフェイズによって構成される。
詳しくは、下記の問い18–28を参照。
18.「戦争の正義」とは
「「戦争の正義(jus ad bellum)」は、「戦争の正しさ」とも呼ばれることがある。この括りは、その武力紛争を開始することが道徳的に許容されるか否かを判断する際に用いられる。なお、注意すべき点は、武力を行使するか否かの時点で検討されるべきものであり、本質的には「後付け」、つまり現在から過去を一方的に断罪するものであってはならないということである」(眞嶋2024、11)。
「戦争の正義」を構成する原則は、「正当な事由」、「正統な機関」、「正しい意図」、「最終手段」、「成功への合理的な見込み」、「結果の比例性」の6つである。
「上記の6つの原則を全て同時に満たした場合、その武力紛争を行うことは正しいとされる(道徳的に許容される)。逆にいえば、上記の6つの原則の一つまたはそれ以上が満たされない場合、その武力紛争は不正であるとされる(道徳的に許容されない)。上記の原則は、国連憲章(個別または集団での自衛権・同憲章第七章に基づく強制的軍事行動)と、国際関係において求められる一般的な慣行となぞらえてみることもできるだろう」(眞嶋2024、12)。
19.「正当な事由」とは
「武力紛争は、正当な事由に基づいて行わなければならない」。詳細は、眞嶋2024、20を参照。
20.「正統な機関」とは
「武力紛争は、正統な機関によって行わなければならない」。詳細は、眞嶋2024、20を参照。
21.「正しい意図」とは
「武力紛争は、正しい意図に基づいて行わなければならない」。詳細は、眞嶋2024、20を参照。
22.「最終手段」とは
「武力紛争は、他の平和的・非強制的・非軍事的手段が試みられ、それらが尽きた後の最終手段として行わなければならない」。詳細は、眞嶋2024、20を参照。
23.「成功への合理的な見込み」とは
「武力紛争は、成功への合理的見込みに基づいて行われなければならない」。詳細は、眞嶋2024、20を参照。
24.「結果の比例性」とは
「武力紛争は、それによってもたらされるよいことと悪いこととの結果が釣り合うことが見込まれていなければならない」。詳細は、眞嶋2024、20–21を参照。
25.「戦争における正義」とは
それが「正しいか不正かにかかわらず、武力紛争が生じる場合がある。すると、その武力紛争において、正戦論は次のフェイズでの道徳判断の枠組みを提示する。「たとえ不正に開始された武力紛争でも、それを正しく戦う(道徳的に許容される戦闘の手段や方法に則って遂行する)ことができる」、逆に、「たとえ正しく開始された武力紛争でも、それを不正に戦うことかできる」ということを示すのが「戦争における正義(jus in bello)」の原則である」(眞嶋2024、12)。
「「戦争における正義」または「戦争における正しさ」は、一旦開始された武力紛争における個々の戦闘や攻撃において、その戦闘や攻撃の手段や方法が道徳的に許容されるか否かの判断を扱う。ここで注意すべきは、「戦争における正義」は「一連の軍事作戦の手段や方法」をひとまとめとして扱うのではなく、「個々の戦闘や攻撃の手段や方法」を問うことである」(眞嶋2024、12)。
「戦争における正義」を構成する原則は、「区別」と「手段の比例性」の2つである。
「上記の2つの原則が全て同時に満たされた場合、その個別の攻撃を行うことは正しいとされる(道徳的に許容される)。逆に、上記の二つの原則の一つまたはそれ以上が満たされない場合、その個別の攻撃は不正とされる(道徳的に許容されない)」(眞嶋2024、12)。
26.「区別」とは
「戦闘員と民間人・非戦闘員とを区別し、後者を保護しなければならない」。詳細は、眞嶋2024、21を参照。
27.「手段の比例性」とは
「個々の攻撃においては、その攻撃によってもたらされることが見込まれる軍事的利得と、その攻撃によってもたらされることが見込まれる民間人・非戦闘員への付随的被害とが釣り合わなくてはならない」。詳細は、眞嶋2024、21を参照。
28.「戦争後における正義」とは
それが正しく開始されたか否か、正しく戦われた否かに関わらず、その武力紛争は遅かれ早かれ終結を迎える。「戦争後の正義(jus post bellum)」は、武力紛争終結後において検討・実施されるべき事項である。武力紛争終結後において望まれるまたは求められる正義の構成要素はおおよその見立てはあるものの、「戦争の正義」や「戦争における正義」ほど確定されていない。。詳細は、眞嶋2015、158-173を参照。
29.戦闘員とは
ひとことでいうと、「敵対行為への直接参加を行っている者」である。もちろん、「敵対行為への直接参加」が何を意味するか、それはまた幅広いスペクトラムにある。例えば、戦闘地域で武装していたら、味方ではない者によって「敵対行為への直接参加」を行っているとみなされるだろう。しかし、小学生が戦地の兵士に励ましの手紙を書くことは「敵対行為への直接参加」を行っているとはいえない。
確かに、現代の戦争においては、ゲリラやテロリストといった戦闘員は、普通の兵士のように制服を着たり武器を公然と所持していなかったりするだけではなく、意図的に民間人のふりをして攻撃していることもあるのに、戦闘員と民間人を区別して後者を保護することは可能なのかという点が疑問に思われるかもしれない。
まず、「可能」かどうかは事実に関する問題であることに注意されたい。おそらく、民衆に紛れることを是とするゲリラや武装勢力は過去において存在したし、現在も存在するし、未来においても存在するだろう。その場合、戦闘員と民間人を区別することは事実として困難になることに間違いはない。しかし、既に述べたように、「できる(可能性)」という事実に関する問題と「すべき(処方)」という規範に関する問題は異なる。戦闘員と民間人との区別が不可能ないし困難だから、誰でもが攻撃対象であってもよいのかという問いが重要である。
ベトナム戦争を描いた映画『フルメタル・ジャケット(Full Metal Jacket: 1987)』での一場面、ヘリコプターから無差別に銃撃する兵士の言葉は「逃げる奴は皆ベトコン(南ベトナム民族解放戦線の戦闘員)だ。逃げない奴は皆よく訓練されたベトコンだ」である。(もしそうでなければならない状況において)そのような軍隊の構成員でありたいと思うだろうか。この問いは後にみる軍事専門職倫理に関連する。
現代の武力紛争において、事実問題として、戦闘員と民間人を区別して後者を保護することは不可能ではないにせよ、困難な場合があることは明らかである。だからといって、「できない、困難だからしなくてよい」となるのか。またそのようにしてよいのか。
確かに、戦闘員の中には戦闘に関わりたくない者やむりやり徴兵されたような「不遇な戦闘員」がいる場合があるだろう。そのような戦闘員は非戦闘員と同様に保護の対象にしなくてよいのかという疑問があるかもしれない。
しかし、「徴兵された平和主義者」であっても、戦闘員であり、軍の指揮系統に入っており、また直接の敵対行為に参加している場合には、保護される権利を失う。それは、たとえ子供であっても同様である。それゆえ、武力紛争において「弱い立場に置かれる人々」を保護するために、子どもを戦闘員とすることは国際条約(例えば、「児童の権利に関する条約」)によって規制されている。詳細は、眞嶋2015、121-126を参照。
30.非戦闘員とは
ひとことでいうと、戦闘員ではない者である。つまり「敵対行為への直接参加を行っていない者」である。例として、病気や負傷した者や捕虜が挙げられる。非戦闘員には、国家やほかの政治共同体の正規の軍事組織に所属し、その指揮系統にある者、つまり兵士も含まれる場合がある。例として、軍隊の医療従事者や従軍聖職者を挙げることができる。それらの兵士は戦闘に参加することもできるが、その時点で非戦闘員としての保護的地位を失う。詳細は、眞嶋2015、121-126を参照。
31.民間人とは
ひとことでいうと、「兵士ではない者」である。つまり「国家やほかの政治共同体の正規の軍事組織に所属し、その指揮系統にある者ではない者」である。民間人も戦闘員になることはできるが、その時点で民間人としての保護的地位を失う。詳細は、眞嶋2015、121-126を参照。
第3節
32.非戦闘員を攻撃することは道徳的に許容されるのか
直接の攻撃や無差別な攻撃は許容されない。しかし、もし「戦争における正義」の2原則を援用するのであれば、正当な軍事目標に対する攻撃を行うにあたり、ある程度までの付随的に引き起こされる民間人や民用物への被害は許容される。問題は、「ある程度」とはどの程度なのかというにあるかもしれない。ここで恣意的な線引きを行うことは危険かもしれない。というのは、「ここまでが限度」が「ここまでの限度ならヨシッ」になってしまうことが危惧されるからである。
33.「テロ」は道徳的に許容されるのか
もしそれが圧政を打倒し弾圧された人々を開放するための唯一の手段であるならば、議論の余地はありそうである。詳しくは、眞嶋2015、240–256を参照。
34.「拷問」は道徳的に許容されるのか
現実においてはおそらく許容されない。詳しくは、眞嶋2015、217–240を参照。
35.「暗殺」は道徳的に許容されるのか
現実においても許容される場合がある。詳しくは、眞嶋2015、240–256を参照。
36.「自殺攻撃」は道徳的に許容されるのか
現実においても許容される場合が十二分にある。詳しくは、眞嶋2019b、85–101を参照。
37.人質を取ることは道徳的に許容されるのか
現実においてはおそらく許容されない。詳しくは、眞嶋2019b、102–119を参照。
38.軍需工場への攻撃は道徳的に許容されるのか
「区別」と「手段の比例性」を満たしている限りにおいて、道徳的に許容される。軍需工場には企業の被雇用者や動員された民間人も働いているかもしれない。ポイントは、攻撃の標的はあくまでも軍需工場であって、そこで働く人々、非戦闘員ではないというところである。もし「戦争の正義」の2原則を援用するのであれば、それらの非戦闘員に対して付随的な被害が出ることが予見されたとしても、予見される軍事的利得と釣り合っている場合には許容されうる。詳しくは、眞嶋2019b、133–147を参照。
39.文化財や芸術作品の破壊は道徳的に許容されるのか
「区別」と「手段の比例性」を満たしている限りにおいて、おそらく例外的だが道徳的に許容される。例えば、人類の歴史にとってかけがえのない唯一無二の古代遺跡や、貴重な図書を所蔵している図書館や、世界的に価値がある多くの芸術作品や美術品を所有する美術館が軍事的に重要な基地として使用されている場合はどうだろうか。軍事目標を攻撃することが無形文化財の存続を脅かすことが見込まれる場合はどうだろうか。敵戦闘員によって人間国宝が人質に取られている場合はどうだろうか。これらはについて検討を行う余地はありそうである。
また、上記の問いから派生する興味深いことは、そのような文化財を保護するために武力を行使することは道徳的に許容できるのかということである。例えば、シリア中部にある古代都市遺跡パルミラを例にとってみよう。パルミラは2015年5月から2016年3月まで、また2016年12月から2017年3月までの2度にわたり、イスラム系過激派組織「イスラム国(Islamic State: IS)」に占領された。その間において、遺跡はことごとく破壊された。ここで反実仮想を行ってみよう。「国際の平和と安全の維持」の名のもとに、遺跡を保護するために多国籍の軍隊によって構成される部隊を派遣し、軍事行動を行うことは(法的な問題はさておき)道徳的に許容できるだろうか。ポイントは、遺跡を保護するために戦闘地域に軍隊が投入されるということである。さて、遺跡には人命を犠牲にしたり危険に晒したりするほどの価値があるのだろうか。
40.自律型兵器システム(LAWS)の使用は道徳的に許容されるのか
「区別」と「手段の比例性」を満たしている限りにおいて、道徳的に許容される。現状では「有意な人間の関与」があることを国際的な法的規制の基準とされている。
しかし、未来はどうだろうか。想像してみよう。識別や同定から攻撃を行うか否かの判断、攻撃を行う場合にはその場所、タイミング、方法や手段の選択と実行、攻撃の成果の確認と評価までをすべて行う完全自律型の兵器システムが導入されるようになったらどうなのか。もしその兵器システムがミスしたり誤作動したりしたらどうなるのか。もっといえば、完全自律型兵器システムが兵士に対して指揮統制を行う、つまり戦場においてAIが人間の指揮官となることについての倫理問題は検討の余地があるだろう。関連する議論は、眞嶋2019aを参照。
41.対人地雷の使用は道徳的に許容されるのか
対人地雷は戦闘員と非戦闘員の区別なく無差別に殺傷する兵器であり、国際条約で禁止されている。しかし、対人地雷を保有しているにもかかわらず、同条約に署名、同条約を批准していない国家はどうだろうか。
対人地雷が無差別な殺傷兵器であることの問題は大きく分けて2つある。ひとつは、「いい加減な管理」、具体的には埋設した場所が戦闘によって分からなくなってしまうことである。例えば、カンボジアを例としよう。1970年から1993年まで内戦にあったカンボジアでは、その北西部に未だに数多くの地雷が埋設されており、今日に至るまで多大な死傷者が出ている。
もうひとつは、「適切な」使用のあり方についてである。理念的な話として、ある国家が、隣接する敵対国家からの攻撃を抑止したり防止したりする目的で対人地雷を国境沿いに敷設し、厳格に管理を行っていたとしよう。また、避難民に対して地雷原の場所を明示し周知しているとしよう。そうであれば無差別という問題はある程度回避できるかもしれない。
42.クラスター爆弾の使用は道徳的に許容されるのか
クラスター爆弾もまた戦闘員と非戦闘員の区別なく無差別に殺傷する兵器であり、国際条約である「クラスター弾に関する条約」によって原則として生産・保有・使用が禁止されている。しかし、クラスター爆弾を保有しているにもかかわらず、同条約に署名、同条約を批准していない国家はどうだろうか。また、同条約は「スマートクラスター爆弾」の保有を禁止の例外としている。
対人地雷と同様に、クラスター爆弾が無差別な殺傷兵器であることの問題は不発弾である。不発弾の場所が分かりづらく、たとえ武力紛争が終結しても、その後まで残り続け、人々を無差別に殺傷する可能性がある。
スマートクラスター爆弾の使用が例外的に許容される理由は、不発弾の割合の減少や不発弾の不活性化にあるかもしれない。この背景には「手段の比例性」の考えをみてとることができる。とはいえ、民間人の殺傷を意図してスマートクラスター爆弾を用いることは可能であるし、たとえ正当な軍事標的への攻撃であっても、人口密集地域での使用は付随的被害の増大が見込まれることがある。
43.核兵器の使用は道徳的に許容されるのか
核兵器は戦闘員と非戦闘員の区別なく無差別に殺傷する兵器の最たるものと考えられる。核兵器は国際条約で禁止されている。しかし、核兵器を保有しているにもかかわらず、同条約に署名、同条約を批准していない国家はどこだろうか。
無差別という点では対人地雷やクラスター爆弾と同じである。しかし、最も深刻な問題は、放射性物質にある。周知のように、放射性物質は人体や動物の遺伝子に不可逆的なダメージを及ぼす。それは往々にして被ばくした当人の健康を害する結果をもたらす。加えて、ダメージを受けた遺伝子が当人の子孫にまで影響を及ぼす可能性があるというところに核兵器の特異性がある。ここにおいて核兵器の使用は道徳的に許容されないことは明白である。
なお、劣化ウラン弾もまた、放射性物質を含有し、それが使用された場合には衝撃によって飛散し、長きにわたって残留する可能性があるという点で、その使用に道徳的疑義が生じる。
44.国家防衛は道徳的に許容されるのか
国家防衛を行う国家が国家防衛の名目のもとにその領域にいる人々の同意なくまた意思に反するところで深刻な犠牲を強いるところであるならば、そのような国家防衛は道徳的に許容されないかもしれない。詳しくは、眞嶋2015、193–204を参照。
45.軍事専門職倫理とは
国家運営に係る軍事政策の執行官としての専門職業人の倫理である。その姿勢は基本的には15.で見た戦争倫理学の3つの視座の一つである政治的現実主義である。詳しくは、眞嶋2015、210–217を参照。
おわりに
本稿では、戦争倫理学を巡る45の基礎的な概念や問いを検討することを通して、当該領域を包括的かつ可能な限り網羅的に俯瞰することを試みた。本稿を通して、戦争倫理学における問いのあり方と、問いへの応答のあり方を提示してきたつもりである。本稿が戦争倫理学についてのいっそうの理解の深化と、当該領域における更なる議論の進展に資すとすれば幸いである。
参考・引用文献
伊勢田哲治、「戦争倫理学における功利主義的思考 : 現代功利主義からの議論の検討」、『応用倫理学研究』第3号(応用倫理学研究会編)、2006年、1-17。
眞嶋俊造、「正戦論の限界に関する批判的検討」、『哲学』第75号(日本哲学会編)、2024年、10–22。
眞嶋俊造、「人工物が人間を殺傷することを決定し実行することは、道徳的に許容されるのか——自立型致死兵器システム(LAWS)を巡って」、『現代思想』、9月号、Vol.47-12、2019年a、64–71。
眞嶋俊造、『平和のために戦争を考える——「剥き出しの非対称性」から』(丸善出版)、2019年b。
眞嶋俊造、『正しい戦争はあるのか?——戦争倫理学入門』(大隅書店)、2015年。
本稿は2024年度哲学若手研究者フォーラム研究集会での口頭によるテーマレクチャーの記録であり、多くの節は末尾に掲げた参考文献のうち、拙書ならびに拙稿に全面的に依拠することを付す。
功利主義と戦争倫理学を扱った先行研究として、伊勢田哲治、「戦争倫理学における功利主義的思考 : 現代功利主義からの議論の検討」、『応用倫理学研究』第3号(応用倫理学研究会編)、2006、1-17を挙げることができる。