2025 Volume 2025 Issue 52 Pages 2-16
1.はじめに——平和論への〈私〉の視点の導入
本稿のねらいは、戦争の境界に関する問いから出発してエマニュエル・レヴィナスの平和論を整理し、平和論に〈私〉1の視点を導入することの意味を素描することにある。
最初の問いは、戦争の境界づけはいかにして可能か/不可能かというものである。本稿の第2節ではこの問いを以下の二つの問いに細分化する。戦争の境界づけはいかになされうるか(戦争に関する認識論的な問い)、そして戦争が「ある」とはどのようなことか(戦争に関する存在論的な問い)というものである。これらの問いを扱う過程で、2000年代以降にレヴィナス読解を積み重ねてきたジュディス・バトラーの『戦争の枠組』(2009)における戦争の認識論を確認する。その上でレヴィナスの第一主著『全体性と無限——外部性についての試論』(1961)の序論における戦争の存在論を、停戦や終戦を目指す平和主義への批判として位置づける。
本稿の第3節においては、戦争の休止ではない「平和」はいかに思考されるのか(平和の形而上学2)を問い、そのために『全体性と無限』結論部第12節およびバトラーによるレヴィナスの対面論に対する批判に着目する。この節においては、レヴィナスが戦争の下位概念ではない「平和」を導出していることを確認し、これを説得的に提示することを試みる。最後に、1975年に「戦争」を主題とするフランス語圏ユダヤ知識人会議において発表されたタルムード講話「火によってもたらされた被害」(「バーバー・カマ」60aから60bに関する議論)から、「責任」の生成に関する問題を扱うことで、「平和」が「誰にとってのものか」という問いが現れる場面を確認する。
1961年から1970年代にかけては、レヴィナスの議論に多くの変遷があることはよく知られている。しかしレヴィナスは、1961年までの時期にも、1970年代およびその後においても、一貫して「平和」とは「〈私〉の平和」であると述べる(ex. TI, 342/548, AE, 215/313, 218/318)。この「〈私〉の平和」の有意味性を確保することが本稿の最終的な課題である。これは、クレティアンがそのレヴィナス研究において提示した、「私だけが定式化でき、定式化しなければならないような倫理は、維持可能か」(Chrétien (1991), 273)という問いに応答するという課題でもある。本稿ではクレティアンの問いを別の仕方で捉えてみたい。本稿はこの問いにおける〈私〉の境界を問い直すとともに、本稿が論じる「平和」は維持されるというよりはむしろ絶えず生成されることについて、タルムード講話で立てられた問いに着目しながら示唆を与えるという目論見をもつ。
レヴィナス研究という観点からさらに言えば、レヴィナスの議論をある種の利己主義として批判する諸論考(cf. Lingis (1999))、利他主義としてレヴィナスの議論を読解する諸論考(cf. Hayat (2014))、レヴィナスの議論を他律の倫理として自律の倫理と対置しそのアプローチの限界を指摘する諸論考(cf. Renaut (1989), Dekens(2003), Chrétien(1991))への応答の端緒を開くことを本稿は目指す3。本稿は、レヴィナスの議論を次のように解釈する。第一に、レヴィナスの議論は、国家に代表される何らかの集団を主体とみなす様々な戦争論に対して、〈私〉と「他人」の境界に関する問いが不可避な文脈を提示する。第二に、レヴィナスの議論は、「動揺(inquiétude)」という事態を通じて構成される〈私〉に関するものであり、この「動揺」が——「動揺」を安定へと向かわせようとするさまざまな試みに反して(cf. Chalier (2002), 序章)——「平和」を基礎づける。こうした解釈に基づいて、本稿はレヴィナスにおける「〈私〉の平和」についての議論を、現に存在しているとは言えない「平和」のメカニズムの提示として位置づけることを提案する。
2.戦争の境界について
2-1.バトラーによる戦争の認識論
戦争の境界に関する問いは、戦争の概念規定を行う際に生じる。さしあたり、「何」が戦争であるかという問いを「戦争の主体」から考えてみよう。「誰が」戦争を行うのかという、戦争の主体に関する規定は、とりわけ国家を単位とする具体的な出来事との関わりのうちで常に変動する現実を分析するためになされる。したがって戦争の定義において、戦争の行為主体は時代の情勢によって変動する。ウェストファリア条約(1648)においては戦争を行う主体は主権国家であるとされた。しかし近代国家の成立以前には戦争の主体としての国家という概念はなかった。また、20世紀における数々の、必ずしも国家を主体とすることなく行われた紛争を「戦争」と呼ぶか否かについてはそれぞれのケースに応じて議論がなされる。第二次世界大戦後、ヤスパースは『戦争の罪を問う』において、「自己の属する国家の犯した行為」に対する、国民である「われわれ一人一人」の政治的な「責め」という問題を論じた(Jaspers (1979), 37/80)。21世紀には、非国家的な集団によるテロ攻撃に対する国家の軍事行為も戦争に含まれる場合がある。
「何」が戦争であるかという問いを「戦争における行為」から思考してみても、やはり戦争の内実を定めることは困難であろう。技術の進展および政治的状況に伴って、「戦争」に特有の「暴力行為」の範囲や内容も変化するからである(Chamayou (2018), 第1章)。「戦争における行為」に関する規定は、技術の恩恵を受けて制作された物(武器など)の使用及びその流通に左右される。
結局のところ、ある状況を戦争たらしめるのは「これは戦争である/戦争を開始する」という宣言であると通常は理解される。しかし、こうした宣言は、戦争の内実に関する定義になんらかの寄与をなすものではない。ある特定の時代や地域において何が戦争であるのかについての共通了解がある程度得られているとしても、戦争に関するルールは現実の暴力の行使によって絶えず脅かされ、政治において要請される正当化の営みは絶えず戦争の境界をずらしていく。西谷は戦争の定義づけよりも戦争に関する多様な了解を確認することを優先した(西谷(2015), 122)。ラトゥールによると、近代主義者たちは「ただ世界の治安を維持していた」(Latour (2002), 26/47)のであり、「自分たちはかつて誰とも戦争をしたことはないと胸を張って言うことができた」(Latour (2002), 26/47)。
一つの戦争の見え方が立ち位置によって異なることもある。2023年12月13日および14日、パリ=ソルボンヌ大学のエマニュエル・レヴィナス・センターでは、「ユダヤ人、戦争と悲劇的なものの意味」を主題とする第四回新ユダヤ知識人会議が開かれた4。この会議の直前の10月7日にはハマスによるイスラエル侵攻があったため、講演者の多くがこの出来事に言及した。いく人かの講演者は、ハマスの侵攻によってイスラエルが受けた損害を強調した。ただしこうした議論では、先に侵攻されたという理由で応戦する側が与える被害についての議論が十分になされないという問題が生じる。実際、会議においてはそのような傾向が見られた5。
以上の様々な議論や事柄が示すように、何らかの暴力的出来事にいかなる名前を与え、それをどのように価値づけるかという問題は、その出来事の切り取り方に依存する。フロイト−アインシュタイン往復書簡が示したように、「裁判というのは人間が創り上げたもの」(アインシュタイン&フロイト(2000), 13)であって、「周囲のものからもろもろの影響や圧力を受けざるを得ない」(アインシュタイン&フロイト(2000), 13)。つまり、戦争に関して完全に中立な第三者は存在しないのであり、戦争の定義は基本的に政治的な必要からなされる。
こうしてさまざまに人間が戦争を認識するありさまを、バトラーは「枠組(frames)」という術語を使って説明した。「枠組」は、政治的状況に応じて作られる。「枠組」はそもそも「政治性に満ちた」(Butler (2009), 1/9)ものであり、「それ自体が権力の働き」(Butler (2009), 1/9)であり、写真のフレームのように何らかの経験を切り分け、その経験を認識可能にする装置である。私たちは自らの生を権力の働きの外部に求めることはできず、それゆえどの「枠組」を選ぶか主体が選択することはできない。こうした「枠組」概念を提示した上で、技術の進展と国際情勢の変化、そして戦いの当事者たちの観点といったものを通じて、ある状況を「戦争」と呼ぶための装置を、バトラーは「戦争の枠組」と呼んだ。
バトラーは、「戦争とはまさしく、一部の人にとってのあやうさを最小限にとどめ、別の人々にとっては最大化しようとする試みなのだ」(Butler (2009), 54/73)と述べる。例えば、政治的な目標をもち、それを達成するために戦争を企て、指揮をする側にとっては、戦争とは最悪の事態を避けるための政治的手段である。その一方で、強制的に徴兵され最前線に出る兵士や爆撃を受ける可能性がある地域に住む民間人にとっては、戦争とは自分の生を危険に曝すものだ。戦争の定義はあらかじめ与えられているわけではない。戦争の「枠組」とは、バトラーの言葉で言えば、「戦争の遂行に絶対必要なものとして経験を選択的に切り分けるやり方」(Butler (2009), 26/38)である。そしてこの「枠組」に沿って、戦争が定義されていく。
以上のバトラーの議論は、一連の政治的出来事のうちある出来事を「戦争」の枠組に入れ、別の出来事をその枠組から外す方法を模索するという目的に応じている。戦争は暴力を伴う出来事であり、私たちの「生」を危険な状態に置く。そして「枠組」は、「認識できるものの領域それ自体の範囲を定めようと目論んでいる」(Butler (2009), 2/10)のである。たとえば私たちは身体として存在するのだが、バトラーは、私たちが「傷つきやすい身体」として、つまり保護されるべきものとして認識されたり、もしくはそのような身体としては認識されなかったりするのは「枠組」によると考えている。身体が「危うい(precarious)」ものとして感知されるためには、枠組を通じて認識されることが必要になるのだ。このような筋道で、バトラーは戦争の認識論を存在論と不可分なものとして結びつける。「枠組」なしには、私たちの生が価値あるものとして存在することはできないのである。
2-2. 戦争の存在論——レヴィナス『全体性と無限』序論
上記で確認したバトラーの議論に従うならば、認識の「枠組」にしたがって戦争が境界づけられるということになる。この議論に加え、バトラーは傷つく身体の存在を指摘することで戦争の認識論と戦争の存在論を接続した。このとき、戦争の存在は認識の「枠組」に従属することになる。それでは「枠組」に従って戦争として認められない場合には、戦争は存在しないのか。バトラーの議論の内部ではそうである。ただしバトラーは、「戦争」はなんらかの状況に制約されて生じると述べることによって、「戦争」が何であるかを明らかにしているわけではない。それに対してレヴィナスの『全体性と無限』序文が認識の「枠組」に従属することのない戦争の存在論を提示していたことを思い起こしたい。
レヴィナスは『全体性と無限』の序論冒頭で、「戦い(polemos)」を万物の起源とみなすヘラクレイトスに言及する(TI, 5/15)。レヴィナスが念頭においているのは、ハイデガーの『形而上学入門』第二章第一節であろう。ここでハイデガーは、存在者が生じるためには相互の分離と統一がなければならないということを指摘し、この分離と統一の運動を「ポレモス」としての根源的な「闘争(Kampf)」——「人間的な意味での戦争では全くない」もの——と位置づけた(Heidegger (1976), 66/68)。戦争は「純粋な存在の純粋な経験」(TI, 5/16)として生起するとレヴィナスは述べるのだが、このとき「人間的な戦争」が休止状態にあるとしても存在者は「戦争」から逃れることができないというこの議論を踏まえている。この議論によれば、戦争は、「分離」と「統一」を通じて同一的なものとして自らの境界を維持し続ける、存在者たちの出現として存在する。
このように戦争の存在論を提示することの利点は、ある種の平和主義において目指される「平和」が存在論的には「戦争」の下位概念でしかないという事実を明るみにすることにある。
しばしば、政治的言説においても哲学的言説においても平和は「戦争の休止」もしくは「戦争の不在」として捉えられる。例えば第二次世界大戦前後によく知られていたマリタンらの人格主義の立場からの平和主義の主張(Maritain (1945))やシモーヌ・ヴェイユの平和論(Weil (2017))は、戦争を終わりもしくは休止に至らせるための政治的行動に関するものだ。しかし、この場合平和は戦争を前提とするのであって、戦争の下位概念としてのみ意味を持つことになる。「戦争の結果として生まれた帝国間の平和は戦争にもとづいている」(TI, 6/17)。そうした平和を、レヴィナスは「一方の敗北と他方の勝利で終わる戦闘の終焉」(TI, 342/548)であるとみなす。戦闘の終焉が示すのは、勝者と敗者の決定だ。この決定は支配-被支配の構造を生み出し、支配者側による暴力および被支配者側による抵抗を含意することで、次の戦闘の遠因を作り出す。あるいは、条約や協定による和解は次の戦争の準備期間をもたらす可能性がある。このようにもたらされた平和は戦闘の再開につながるだろう。したがって、戦闘の終焉は平和の永続を意味しない。レヴィナスは、再度の戦闘を念頭において迎えられた終戦後の状態を「平和」とみなす考えを斥ける。
他方、戦争が必然的に存在することを認めるレヴィナスの議論には難点もある。レヴィナスによる平和主義批判は、「戦争」と「戦争ではない状態」を区別して後者を目指す政治的実践の努力を無に帰してしまいうるのだ。政治的に目指される平和は、現実に生じる被害をより小さくすることを目指す実践である。それに対してレヴィナスの議論は、レイも指摘しているように、「戦争を甘受する哲学」(Rey (2001), 79/62)となるのではないか。しかしレヴィナスは平和主義の批判を通じて「戦争」を肯定しているわけではなく、平和主義を批判しつつも「平和」を思考しようとしている。レヴィナスの議論においてこの道行きを次節で検討したい。先取りすれば、レヴィナスもまたバトラーと同様〈私〉の観点を想定する。ただし、他人に応答せざるものを得ないものとして〈私〉の観点を想定することで、戦争の休止としての平和ではなく戦争が前提する「平和」を思考する。これによってバトラーが述べる意味における「枠組」の内実を捉え直すことが可能になる。
3. 平和の形而上学
3-1. 「多元性」としての平和
戦争の休止ではない「平和」を思考するという課題にあたって、『全体性と無限』の中で「存在」に「生成(le devenir)」を対置するレヴィナスの議論に着目しよう。この議論は二つの文脈から構成されている。
第一に、『全体性と無限』第1部B「分離と言説」の第1節の中に、「生成」が「存在の観念と根本的に対立する観念としての価値を獲得する」「あらゆる統合への抵抗を名指す」(TI, 53/93)旨の記述がある。これは、〈私〉を構成する感性的経験が「多元性(pluralité)」をも構成するという文脈においてなされる記述である。レヴィナスは続けて「パルメニデス的一元論を破壊する生成の概念が成し遂げられるのは、ひとえに感覚の単独性によってである」(TI, 54/94)と述べる。「感覚」の主体は国家や何らかの集団ではなく、〈私〉に他ならない。
第二に、第4部Cにおいてもまた、レヴィナスは、「パルメニデス的な存在の哲学から抜け出る」(TI, 302/484)ために「生成」に関する議論を提示する。これは「繁殖性」の時間に関す文脈である。ここで問題となっているのは「父」に対する「子」としての〈私〉の生成である。「世代」の意味を確認するこの文脈において、レヴィナスは「存在」の哲学に「生成」の哲学を対置するために必要なのは〈私〉——「常に起源にありながらも、自分の実体を更新することに障害を見い出さない」(TI, 302/484)ような「自我」——であると述べる。この「繁殖性」の議論を通じて明らかにされるのは、〈私〉は常に生成の途上にあり、それゆえ「実体」としての〈私〉の境界は常に揺れ動き、更新されつつあるということだ。
レヴィナスにしたがえば、「生成」する〈私〉という視点の導入こそが平和論において必要なものになる。『全体性と無限』結論部第12節には、平和は「道徳性と現実の一致を請け合う〈私〉を起点として」(TI, 342/548)構想されるとある。この著作の序文ではレヴィナスは現実と戦争を等しいものとみなしていた(TI, 5/15)。戦争においては「道徳」が宙吊りにされてしまう(TI, 5/15)。たとえば「道徳性」の内実として「殺人の禁止」の遵守を想定するとしよう。このとき「道徳性と現実の一致」が指し示すものは、「現実において殺人の禁止という命令が守られること」だ。しかし「現実」において殺人は常に生じうる。必要なのは、「道徳」と「現実」が一致するような——つまり「現実」において「殺人の禁止」の命令に応じる——ものの見方6である。〈私〉の「ものの見方」を通じて「平和」を思考することができるとレヴィナスは述べている。
〈私〉の「生成」としての「平和」についての思考は、人間が根本的に「多」というあり方をしている——多元的である——という考えを要請する。『全体性と無限』の企図の一つは「多元性」を示すことにあり7、その結論部においては、「平和」は「多元的様態(pluralisme)」であると要約される(TI, 342/548)。
この企図は第二次世界大戦中、捕囚時代にレヴィナスが残したメモのうち、「手帳7」における「繁殖性」の記述(Œ1, 175/209)に現れている。これは先ほど提示した「生成」の二つの文脈のうち、第二の文脈に関するものだ。戦後に発表された「時間と他者」(1948)の計画の中では、レヴィナスは「統一性として融合することなき多元性に向けて歩んでいくこと」(TA, 20)を挙げ、時間論に着手した。「一」と「多」の問題は伝統的にはカテゴリー論における類種関係の問題に属する。これに対してレヴィナスは、時間論を通じて出来事の生成を思考する道を選ぶ。具体的にはレヴィナスは、「死」、「エロス」、「繁殖」といった諸々の出来事からなる場面を、生物学における肉体の機能に着目する議論とは別の仕方で描きだす。「死」は肉体の機能停止から捉えられるのではなく、主体が自分自身を他なるものに委ねる実存様態として取り出される8。「エロス」は、支配と被支配の関係に帰着する自他関係とは区別された、主体の権能を逃れ出る他人への接近として描かれる。そして「繁殖性」の分析のうちでは自己の二重化の問題が取り出される(TA, 86)。この過程で絶えざる主体の終わりと産出からなる時間が構想される9。〈私〉は「繁殖性を通じて自我の時間となる無限の時間を請け負う」(TI, 342/548)。
1949年の論考「多元性と超越」および『全体性と無限』結論部において現れる平和論に直接に関係するのはこの最後の「自己の二重化」という論点である。この箇所におけるレヴィナスの議論の特徴は、実体と属性の関係、因果関係、能動-受動の関係として認識されない関係として、産出-被産出という自己の二重化の構造を取り出す点にある。一方で、自己は他人への接近を通じて未来に「他」を産み出す——遺伝子を共有する実子を生むことと、〈私〉の自己刷新の双方を意味する——。他方で〈私〉は「産出されたもの」でもある。
こうして、レヴィナスは戦後から『全体性と無限』までの間に、〈私〉の経験——死、エロス、繁殖性——の分析を通じて、主体の成立という点においては他人が〈私〉に先立っていながら、それでもなお〈私〉は常に〈私〉の視点に立脚しているという構造を描き出す。「平和とは私の平和でなければならない」(TI, 342/548)とは、これらの出来事が常に他人との関係において生成途上の〈私〉によって経験されることを意味することになる。この議論を受け入れるならば、「平和」を思考するさいに戦争を前提することなく、すなわち「平和」を「休戦」とみなすことなく、「平和」の肯定的な意義を取り出すことができる。
ただし、このような〈私〉の成立の時間的構造についての議論がいかにして平和論と結びつくのかという問題に関して、さらなる議論が必要である。その議論が「対面」に関わるものである。以下においてこの問題を扱う。
3−2. バトラーによるレヴィナスの「対面」論の読解
『全体性と無限』の平和論は、1940年代以降にレヴィナスが論点を提示し始めこの著作の第四部に結実する「繁殖性」の議論に加えて、1950年代以降の諸論考からこの著作の第一部および第三部において主題的に扱われる「対面」に関する議論から構成される。
「平和」についての思考に〈私〉の生成の議論を組み入れることは、相手を「殺す」かもしくは「殺さない」ことを決定する当事者についての議論を要請する10。この課題にあたって『戦争の枠組』におけるバトラーのレヴィナス批判を確認しよう。
バトラーは、「暴力を加えるか加えないか」という問いがあらわれる場面に着目し、「非暴力」についての議論を二者関係の間で生じる具体的な出来事から始める点においてレヴィナスに与する(Butler (2009), 77/102)。「暴力が最善の道であるかどうかを決めるのは、特権を持つ者の見解だけではない」(Butler (2009), 177–178/213)とバトラーは述べる。暴力を振るうかどうかということは、国家の方針を決定する権力を有する人々のみの関心事ではない。「権利を奪われた者たち」も反撃するかどうかを決定しなければならない。この議論のためにバトラーは、人種や民族やジェンダーといった様々な属性の知覚と、平和的な自他関係を構成する「顔の迎え入れ」——暴力を振るわないようにという訴えに応答すること——を区別する。知覚と「顔の迎え入れ」の区別はレヴィナスも行っていることだ。『全体性と無限』第三部Aは、「顔は視覚に与えられているのではないだろうか」(TI, 203/329)という問いから始まる。この節でレヴィナスは感覚論を展開し、享受と知覚を区別したうえで、「眼差し」と「言語が前提とする顔の迎え入れ」を区別していた(TI, 206/333)。
ただし、知覚と「顔の迎え入れ」の関係についてバトラーはレヴィナスの議論を批判する。レヴィナスは、他人の形象に関する知覚がまずあって、「顔の迎え入れ」という出来事が生じるという順番を認めることなく、「他人」が〈私〉に対して「直接に(媒介なしにimmédiatement)」現れると述べる。バトラーはこれに対して、顔の「知覚」が「顔の迎え入れ」に先立つこと、そして顔の「知覚」の仕方を定めるのは政治的「枠組」によって決定された規範であることを主張する。そしてバトラーは、レヴィナスが「知覚」と「顔の迎え入れ」を区別することを受け入れならも、レヴィナスが後者のみを平和的関係の分析の対象とすることを拒絶する。
バトラーは『戦争の枠組』において、脆く傷つきやすい「生」に際して助けを求める声を聞き取るための「枠組」を問題とする際に、「わたしたちが憤りや反感、批判をもって応答できるかどうかは、部分的には、人間という弁別的な規範が視覚および言説の枠組みを通していかに伝えられるかに、かかっている」(Butler (2009), 77/102)と述べた。他人の顔がどのようなものとして受け取られるかは、その顔を見る〈私〉を形成する「枠組」によって、また「枠組」をもたらす規範によって規定されるというのがバトラーの主張である。バトラーによれば、私たちが見るのは、白人や黒人や黄色人種の顔であり、男性や女性、もしくは老人や成人や子供の顔である。ある人はすぐさま助けられるべき人として、またある人は攻撃すべき相手として〈私〉の目に映る。したがってバトラーが求めるのは、「枠組」に沿った行動の要請と「顔の迎え入れ」の訴えの間で生じる葛藤を〈私〉が克服して非暴力的に振る舞う選択をするための条件である。この葛藤の場面をレヴィナスが議論していないこと、そしてバトラーが用いる意味においての「枠組」——「私たちに世界を与える枠組」、もしくは「現象の領域の境界を定める枠組」(Butler (2009), 180/216)——についての議論が不在に思われることが、バトラーには「不十分な」ものに思われる(cf. Butler (2009), 179/215)。バトラーからレヴィナスに対して提示される問いは、「枠組」なしに他人との関係を思考すること——言い換えれば、戦争の「枠組」なしに平和を思考すること——にいかなる意味があるのかということに帰着するだろう。
確かにレヴィナスはバトラーの「枠組」に相当するものについての議論は行っていない。しかしバトラーが「枠組」の内容として提示する「世界を与える」という語を、レヴィナスは『全体性と無限』第四部冒頭部で「秩序」という語とともに用いている。
対話者たちに共通の秩序は、ある者が他者に自分の所有物である世界を与えるという肯定的な行為によって[…]打ち立てられる。(TI, 282/452[強調はレヴィナスによる])
レヴィナスはここで秩序が通常もつ機能を問い直している。
秩序は通常、主体にとってあらかじめ存在している「非人称的な思考」(TI, 282/452)であり、反復的で安定したしかたで私たちに「ものの見方」や行動の指針、さまざまな事柄の価値づけをもたらす。この場合、「世界」は各人に対して「枠組」としてあらかじめ与えられていることになる。しかし、秩序は、あらかじめ存在していて他人を「いかに見るか」の「枠組」を〈私〉に与えるものであるならば、暴力的に機能しうる。「枠組」は「敵」と「味方」の弁別を可能にするからである。秩序がこのように機能するとき、「枠組」によって規定された「ものの見方」と他人への応答の要請の間で〈私〉は葛藤を覚えることになるだろう。
「平和」を思考するためには、そうした秩序とは異なる秩序を思考しなければならない。レヴィナスが提示するのは「対話者たちに共通の秩序」である。これは、対話という出来事として創設される、常に「生成」の途上にある秩序である。レヴィナスは、こうした秩序の創設を、葛藤する意識に先立つ他人の現前として捉える(cf. EN, 39)。バトラーが述べるところでの「枠組」は既存のものであれば〈私〉の倫理的葛藤を引き起こす。しかしレヴィナスにしたがえば、認識の「枠組」は「対話者たちに共通の秩序」として事後的に創設されるのであり、この時「枠組」は「顔の迎え入れ」——「平和」——を前提することになる。
3−3 誰のための「平和」
『全体性と無限』においては、呼びかける「他人」と応答する〈私〉は分離されていると記述されている箇所が多い(ex. TI, 63/109)。しかし〈私〉と「他人」の境界は「応答」という出来事の際にはすでに明確なものであるのか。また、「応答」という出来事の生起は対面の場に限定されないのではないか。そうした問いに答える議論を、レヴィナスは『全体性と無限』よりのちの時期に展開していく。
レヴィナスの後期テクストのうち、タルムード講話における賠償責任に関する議論を参照しよう11。賠償責任は基本的に被害者に対して加害者が担うものである。しかし意図と無関係に被害が生じたら、もしくは意図を超えて被害が広がっていったら、責任は誰がどこまで負うべきなのか。またこの場合、被害者とは誰なのか。
第四次中東戦争ののち、1975年に行われた第16回パリユダヤ人知識人会議「戦争に直面したユダヤ意識」においてレヴィナスは「火によってもたらされた被害」と題された講演を行った。問題となったテクストが含まれる「バーバー・カマ」は、損害賠償に関する民事問題を扱うミシュナーであり、レヴィナスはこの講話で火災に対する出火者の責任とその補償の範囲を検討するゲマラーを読解する。レヴィナスが扱うのは、「もし誰かが火事を出したら、その火が木や石や土に損害を与えたら、その者は損害を賠償しなければならない」というテクストである。レヴィナスは、これに対してなされたラビたちの議論のうち、「出火責任者の用心や権能がカバーしきれないものに関する責任」(DSS, 159/232)という考えに着目する。
通常は、行為に応じて被害に対する補償が支払われる。「ある者が損害を引き起こした張本人であることを指す」ような責任概念は、ガシェによると、18世紀の終わりに政治用語として登場し、ナポレオン法典において法律上の意味を定められるようになった(ガシェ(2012), 214)。こうした責任概念を受け入れる場合、主体の自由な選択による行為の帰結に応じて果たすべき責任が限定されることになるだろう。しかし、レヴィナスのテクストにおいては火事の際の延焼、つまり各人の意図を超えた結果が生じる場合が扱われている。火事のみではなく、戦争においても常に、各人の意図を超えて被害は拡大していく。意図と結果のこの不一致を、レヴィナスは「戦争の非合理性」と呼び(DSS, 163/237)、さらに「統御不能」であり「非合理性」によって特徴付けられる戦争という状況において、意志と行為の因果関係によって〈私〉の「責任」に限界を設けるという思考を問いに付す。
この非合理性に関して、レヴィナスは「責任」の概念を何らかの動機や何らかの目的に応じてなされた行為の結果に見合った報い、代償、罰の概念からではなく、「応答可能性(responsabilité)」から思考する12。さて、このことをどのように理解すべきか。
例えばヴァルデンフェルスはレヴィナスの責任概念を論じる際に、近代法の文脈にしたがって責任主体が「行為者」であるという観点を保持することから始める(Waldenfels (2000), 262)。この場合、「予見することも計画することもできず、ましてや覆すこともできない結果、他人を苦しめることになる結果、あるいは他人によって実行されたとはいえ、自分自身の行動の結果である結果」(Waldenfels (2000), 271)への責任については行為者の行為と結果の関係を拡大解釈することで説明を与えることになる。ところが、ヴァルデンフェルスも分析していくように、この解釈に従うとレヴィナスの議論のうち「責任」が必ずしも「行為者」と結びつかない箇所を説明できなくなる。例えば上記のタルムード講話において、レヴィナスは「火の力が責任を免れさせることはない」(DSS, 161/235)と述べるとともに不慮の出来事に対しても「応答可能性」は課されていると認める。このとき行為者が責任を負うかどうかということは問題とならない。つまり、行為者の行為と責任の結びつきがここでは緩められ、「応答可能性」から主体を思考することが徹底されている。そうすると、応答する者が「誰か」ということが応答の以前には確定されていないということが帰結する。
応答する者が「誰か」が応答より前には明らかではないならば、「応答」が「誰のための」ものか——この問いをより広い文脈に置くならば、「平和」が誰のためのものであるのか——も、応答より前には確定されてはいないことになる。「平和」は〈私〉のためのものであるのか、〈私〉が応答する「他人」のためのものであるのか。ある国民や民族のためのものなのか、万人のためなのか。この問いにおいて、「繁殖性」の問題に引き続き、〈私〉と「他人」の境界の問題を主題化することができる。
リンギスのように、レヴィナスの議論のうちに「私の注意、私の時間、私の資源を他の人のために犠牲にすること」(Lingis (1999), 406)の重視を見出だし、ある種の「相互的なエゴイズム」(Lingis (1999), 406)を見てとる場合には、「私(エゴ)」を起点として思考された平和は、「私(エゴ)」のためのものであるということが帰結する。
さらに、レヴィナスの議論を「他律の倫理」と解釈し、これに「自律」を対置する議論がある。カントに即して言えば、「自律」は経験から独立した道徳法則を理性が自己に課すことについて言われる。たとえばデーケンスは、「レヴィナスにとって、カント的自律性とは、義務として外からもたらされるものを絶対的に拒否すること」(Dekens(2003), 83)であり、それに対してレヴィナスにおける他律とは「トラウマを負わされ、その地位を決定的に奪われたときに初めて道徳的であると言える主体性の道徳性の必須条件である」(Dekens (2003), 83)とまとめた。この解釈にしたがえば、「自律の倫理」は、法則に基づいて理解される人間性について言われ、「他律の倫理」は、応答の相手である他人について言われるということになる。
上記のレヴィナス解釈はそれぞれ説得力を持つのだが、この整理の方法に注意を促しておきたい。上記においてはそれぞれ「エゴ」と「他人」、「自律」と「他律」が対比されている。こうした対比は、「私(エゴ)」と「他人」の境界が認識可能な「枠組」のうちに与えられているという前提に基づいて初めて可能なものだ。しかしレヴィナスの議論のうち、自他の境界が他人への「応答」に対して事後的に作られるという内容を重視するならば、こうした整理は——レヴィナスの語彙に依拠してはいるが——有効ではないように思われる。より重要なのは、自他の境界が絶えず生成される、いうなれば安定した境界に対して「動揺(inquiétude)」がもたらされる出来事を解釈し、「動揺」が主体の構成である(cf. AE, 131/198)ことの内実を示すことではないか13。本稿ではかなり足早にではあるが、「繁殖性」における自他の生成、「対面」における秩序の生成、「意図されていない被害」に対する「責任」の生成という三つの主題を通じて、この「動揺」に着目するための材料を提示してきた。
レヴィナスは「平和」の特徴として「動揺」を挙げる(AE, 218/317)。さらに、レヴィナスは「ひとり私のみが確立すべき平和」が問題である(AE, 259/378)と述べる。ここまで論じてきたことにしたがって、レヴィナスが述べる「唯一性(unicité)」を、〈私〉が他人から区別された「一つの個体」であることについて述べられているのではなく、自他の境界の生成について言われていると考える必要があるだろう。この意味における「動揺」という人間の根本的なあり方の肯定が「平和」の構築の基礎となる。
4 結論
本稿では、平和論に〈私〉の視点を導入することの意味を素描してきた。
第2節においては、戦争はいかにして境界づけられるかという問いを扱い、この問いを戦争の認識論と戦争の存在論に分割した。まず、戦争とは「何」であるかという問いが認識的枠組と不可分であることを、バトラーの「枠組」概念を導入しつつ説明した。次に、レヴィナスが『全体性と無限』序論で行っている戦争の存在論の検討を通じて、「戦争の休止」とは異なる平和論を思考するための準備作業を行った。
第3節では、『全体性と無限』における「多元性」の生起という出来事を検討したうえでバトラーによるレヴィナスの「対面」論の読解を確認し、バトラーとレヴィナスの争点を「枠組」に関する議論のうちに見出した。レヴィナスは「枠組」なしに自他の「アレルギーなき関係」という出来事が生じると述べるのに対して、バトラーは自他の関係に「枠組」を前提する。バトラーが述べる「枠組」はレヴィナスが見るところでは、自他の関係を通じて事後的に形成されるのである。こうして、平和とは「誰にとって」のものであるかという問いが生じる。これに対して、本稿は「誰」の内実を決定するのに先立って「応答」という出来事が問題となっており、これに伴う自他の境界の「動揺」が「平和」を基礎づけているというレヴィナス読解を提示した。
「戦争」は必然的に人々を巻き込みつつ、「味方」と「敵」、「われわれ」と「あなたがた」の対立として生じる。それゆえ、「戦争の休止」——たいていは統治者の政治的決定と制度の運用による——を出発点とするのではない仕方で平和を思考するためには、「殺人」を犯さない〈私〉の視点を無視することはやはりできない。本稿はレヴィナスの複数の議論の分析を通じて、この〈私〉と「他人」の境界が絶えず揺るがされるいくつかの場面についての思考に行き着いた。こうして、本稿は〈私〉の「動揺」——自他の「対立」ではない——の絶えざる肯定こそが「平和」の生成に他ならないという結論に至ったのである。
参考文献表
レヴィナスの著作については以下の略号を用いる。
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TI : Totalité et infini. Essai sur l’extériorité, Paris, Le Livre de poche, coll. « Biblio Essais », 2000 [La Haye, Martinus Nijhoff, 1961]. (『全体性と無限』藤岡俊博 訳、講談社、2020年)
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参考文献
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本稿は、科研費・基盤C「フランス現象学を起点とした偶然性概念の哲学的射程およびその思想史的意義の検討」(課題番号24K03346)の成果の一部である。
本稿で〈私〉と山括弧を用いる際には、レヴィナスの術語を示す。本稿の内容を先取りするならば、〈私〉とは、自他の境界が生成される出来事を指しており、ある個体を自己言及的に指し示す「私」と区別される。
レヴィナスにおける「形而上学」という術語の用法には注意しなければならない。レヴィナスは1950年代から『全体性と無限』までの時期において、自他の関係及び「平和」についての議論を「形而上学」として提出していた。ただし『全体性と無限』より後、レヴィナスは「形而上学」という語をもっぱら伝統的な哲学の学問領域を示すために用いる(ex. AE, 10/9, 18/35, 131/197)。本稿では、『全体性と無限』において肯定的に言及されていた「形而上学」的な思考を出発点として、レヴィナスの後期平和論までを議論の対象とする。
『全体性と無限』までの時期とそれ以降の時期において、自他の境界線がいかに引かれるかという点に関してレヴィナスの論じ方に変化が見られる。しかし、自他の「分離」「隔たり」を主題化するという点について言えば、レヴィナスの問題設定自体が変化しているわけではない。
会議の様子は以下で確認できる(2024年10月15日閲覧)。
https://www.mahj.org/fr/programme/les-juifs-la-guerre-et-le-sens-du-tragique-30784
なお、レヴィナスは「応戦」を「正しい戦争」として肯定する議論に対しては反対の立場をとる。ex.「戦争に対してなされる正義の戦争においても、ほかならぬこの正義ゆえに不断におののき、震撼し続けなければならない」(AE, 232/413)。
『全体性と無限』の序文でレヴィナスは「倫理はそれ自体ですでに「光学(ものの見方optique)」である」(TI, 14/29)と述べる。
レヴィナス『全体性と無限』要約(Levinas, 1961)を参照。
レヴィナスは、死という否定性を介して「自己からの自我の解放に至るような弁証法の連続性」(TA, 87)を描いた。レヴィナスのこの箇所における「弁証法」に関して、レヴィナスはコイレのヘーゲル分析を参照しているとフランクは指摘する(Franck (2001), 152/162)。Ari Simhon (2006)第3章、特にpp. 142–146も参照。
こうした時間についてのレヴィナスの発想は、一方ではデカルトの連続創造説に由来し、他方ではユダヤ教の「メシア的時間」および「終末論」に由来する(連続創造説に関してはŒ1, 60/71、終末論に関しては、Levinas (2012), 28等)。
「殺人をするか否か」というのは「殺害の倫理に関わる問い」であって、「戦争の倫理に関わるものではない」という指摘も可能である(Chamayou(2018), 218/182)。シャマユーは武器を使用した遠隔戦争における「暴力状態」を分析している。しかし遠隔使用の武器があらゆる対人的な闘争を排するというわけではないだろう。
「責任」の問題はレヴィナスの中期から後期諸著作にかけて登場するが、ここでは「責任」の「生成」についての議論を扱うために、この問題を中心的に論じている後期テクストを選択する。
この「責任」は、『存在の彼方へ』の言葉を用いるならば、「先行的関与なき——現在なき——起源なき——無起源的責任」(AE, 239–240/349)と言っても良いだろう。「責任」の範囲という問題については、レヴィナスは『全体性と無限』では、「責任の無限が言い表しているのは、今まさに責任が広大無辺であるということではなく、引き受けられるに応じて責任が増大していくということである」(TI, 274/439–40[強調はレヴィナス])と述べていた。「引き受ければ引き受けるほど増大する」有責性をこの部分から読み取る解釈としては、例えば佐藤義之(2020)を参照。しかし、例えば一度損害を与えたという理由で加害者が被害者から永続的に賠償を求められるような事態を想定するならば、レヴィナスの議論は受け入れ難くなるだろう。この問題を解消するのが、責任を「増大」としてではなく「無起源性」から理解する解釈である。この解釈の糸口を本稿ではタルムード講話および後期レヴィナスの議論に求めている。渡名喜(2021)397–402頁も参照。
本稿においては、「動揺」を主体の構成についての認識論的な概念とみなす。ただし、レヴィナスの著作の中で「動揺」がある種の心理的状態ないしは心性と結びつく文脈もある(cf. AE, 121/183)。