Inquiries into Philosophy
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2025 Volume 2025 Issue 52 Pages 207-223

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はじめに

和辻哲郎(1889–1960)は日本の近代思想史において極めて重要な地位を占めている哲学者・倫理学者であり、彼は古今東西の様々な思想を摂取し比較した上で、自らの倫理思想体系を構築した。和辻の人間の学としての倫理学は、道徳意識の学としての倫理学と区別され、長年にわたり重要視されている。一般に、和辻の倫理学体系の影響源は大乗仏教、ハイデガーの現象学的解釈学、ヘーゲルの人倫の体系にある1と捉えられているため、儒教思想の受容についてはあまり問題とされていない。しかしながら、古来より儒教思想などの中国思想は東洋思想の重要な一部分とされ、日本の文化や社会にも大きな影響を与えたとされている。そのような背景もあり、和辻の理解では人倫を中心とする立場に立っている儒教思想と、倫理学を人間の学として発展させようと努めている和辻の思想体系とが関わり合っていると考えられる。

和辻共同体論はヘーゲルの人倫学から影響を受けたとされるが、人間共同態2であって間柄の表現である人倫的諸組織において、人間関係の類型に応じてなすべき人間の実践的行為の仕方は、結果的には儒教の五倫にかなり近いものとなった。和辻によって儒教思想がどう理解されているのか、中国の儒教と比べて和辻に取り込まれた儒教は何が異なるのか、また、和辻倫理学において儒教思想はどのような役割を果たしているのか。本稿は、和辻倫理学における儒教思想の受容を探り出しつつ、これらの問題について検討してみたい。具体的には、儒教とヘーゲル哲学とを並行して研究する3ことによって成立した『倫理学』の「第三章 人倫的組織」を中心に、和辻自身の儒教理解、その理解と中国の儒教との相違、和辻倫理学における儒教思想の意義、という三つの側面から分析を試みる。

第一章 和辻の儒教理解

1.1 人倫を中心とする立場

和辻が儒教をどう理解しているのかについては、儒教を特に扱った和辻の『孔子』から窺えるだろう。

まず、和辻は孔子を「人類の教師」としてとらえている。和辻のいう「人類」とは、生物学的概念としての人類と区別される、地方的歴史的に可能なあらゆる人々である。そして、「人類の教師」と呼ばれているものは、生前から大衆の礼讃によってその偉大さが確立されてきたのではなく、歴史の流れの中でそれぞれの文化潮流及びその特異性を表現する代表者である。その人類の教師は元々、主として小さい人倫的組織、いわば「閉じた社会」における人倫の道や法を説くという役を務めている。ただし、彼らの教説は地域の制限を超えてあらゆる人に伝わる力を有し、また、その教説は自らの師への絶対的な信頼感を有する弟子によってより広く宣伝されていた。それにより、人類の教師の人格と思想は時間を超えることができ、幾つかの世代を通じて働き続け、その感化力が一層増大する。そのような偉大なる人類の教師を生んだ文化が、偉大な教師を生み出すとともにその絶頂・終幕に至り、一つの全体として後から来る文化の模範となるのである。人類の教師とされている孔子及び彼の教説・思想の特徴について、和辻はこう述べている。

孔子以前の時代には宗教も道徳も政治もすべて敬天を中心として行なわれた。天は宇宙の主宰神として人間に禍福賞罰を下す。だから天を敬い天命に従うことがすべての行ないの中心なのである。しかるに孔子は人を中心とする立場を興した。孔子における道は人の道である、道徳である。天を敬うのもまた道徳の立場においてである。(6: 3454

以上のように、和辻は孔子の伝記に関する考察において、孔子の中心思想について、孔子以前の主流——「天」を中心とする立場である「敬天」思想——と比較しつつ、孔子における道は道徳であるとしている。また、孔子の教説には「何らの神秘的色彩もなく、従って「不合理なるがゆえに信ずる」ことを要求する必要もない。すべてが道理なのである」(6: 344)と和辻は主張している。

孔子以前(春秋以前)には和辻の言ったように、「天」については主宰者としての「上帝」の君臨が想定され、「天」と「上帝」とは一体化される。また、上帝の下命から、一般的な人々の運命や道徳・正義の指標、また自然界の規律性などへと、「天」の含意の範囲が広がっていった。しかし、確かに孔子以降(春秋以降)に、儒教は合理的・人間中心的な思考へ転向したものの、実際には宗教的な意味合いを依然として残しているのである。例えば和辻にも論じている「五十にして天命を知る5」の「天命」という表現には、人々の生死・禍福などの「命運」の意義も含まれている6。「天命」が儒教において重要な地位を占めていることについて、『論語』にある「命を知らざれば、以て君子と為る無きなり7」をも挙げることができる。それは、天に与えられた自己の運命に対する自覚を持つことなしには君子になることができないということである。上述のことから、儒教における「天」は孔子以降においても、宇宙の主宰神として全く捉えられていないということはなく、また、「天命」も主宰神からの命令として重要視されていたため、本来の儒教は神秘主義的な色彩を有していることがわかるだろう。

また一方で、儒教を貫いている「孝」という徳目は儒教の死生観と深く関わり、宗教的な意味合いを持っている。加地8は原儒と原始儒教の成立について、孔子以前と孔子以降とを二分して説明している。加地によれば、孔子以前に原儒の時代があり、その時代では、儒において宗教性と礼教制とがかなり密着していたが、孔子の原始儒教の時代では、孔子が現実の倫理道徳及び礼教制を重んじていたが故に、その宗教性と礼教制とが分離する傾向が見られるとされる。とはいえ、例えば孔子が原儒たちの考えた過去—現在—未来にわたる生命論的な「孝」を統合し、死生の上に孝を置き、孝の上に礼を載せたように、儒における宗教性と礼教制とは、原始儒教以降の時代でより整合化された形ではあるが、依然として未分化でもあるとも加地は説明している。

本来の儒教にあるこのような神秘主義的な部分を、和辻は完全に取り除こうとしていた。苅部によれば、それは和辻が儒教を「『人間の学』として完結させようと9」したためである。『倫理学』でも、「神秘主義的色彩を全然欠いている」(11: 314)孔子の「関心事は、ただ生きている人々につくすこと、すなわち人倫の道だけであった」(11: 314)と、同様な孔子像が示されている。このように、儒教思想を主な考察対象とした『孔子』についての分析を通し、和辻の儒教への態度が明らかになった。要するに、孔子の人類の教師としての人格、孔子の教説の持つ時空を超えられる感化力、及び孔子以降の儒教の人間中心的な人倫観を、和辻は称揚している。

1.2 間柄のうちに働く不変なる「人倫の道」

和辻は西洋哲学的な自己概念について、「個人的意識の分析から倫理学を取り扱うすべての立場は、倫理学が実践的行為的連関としての主体の学であるということに適しない」(10: 36)としている。彼は倫理学を「人間」の学として、その第一の意義を、倫理を単に個人意識の問題とする近代の誤謬から脱却することとして規定する。また、和辻の『人間の学としての倫理学』において、「人間」は既に間柄において生きていると規定され、間柄の表現はまず人間の結合形態、つまり「共同態」に認められている。さらに、この人間共同態、及び人間共同態における秩序は常に「人倫10」という言葉で言い現わされ、「人間存在のなかにはすでに倫理があり、人間共同態の中にはすでに倫理が実現せられている」(9: 36)と彼は主張している。要するに、和辻倫理学において貫かれている対象としての人間は、孤立的な個人ではなく、共同体における社会性を担っている一員として捉えられている。そのため、共同体意識を特に重要視する儒教の人倫思想は、人間を孤立的な個体ではなく、個人性と社会性を有する共同存在としてとらえている和辻の倫理学体系を補助できるだろう。

「儒教は孔子に由って共同体の意識を掬いあげて成立したものである11」と加地は説明している。周知のように、儒教において倫理の中心は「仁(人間愛)」であるが、社会的には五常の徳(仁義礼智信)とそれを支える三綱(君は臣の綱、父は子の綱、夫は妻の綱)と五倫(父子間の親愛、君臣間の正義、夫婦間の区別、長幼間の序列、朋友間の信義)が重視されている。「仁」の思想は、家族などの共同体における対人関係を特に重視し、「家(家族)」を土台にした孝という徳目を普遍化して拡大し、国家の政治活動にも及ぶ徳目としたものである。また、仁の実践は現実の身分血縁による階層秩序の強化の仕方であり、冠婚葬祭などの社会形式に従うことを要請するものである。要するに、五倫五常は概ね強い非対称的・上下的な人間関係として、日常生活のうえでその秩序を具現化するための人々の生活への規制、いわば実践道徳である。この五倫五常の思想について和辻は、『人間の学としての倫理学』の第一章において、「倫理」という言葉について以下のように述べている。

人倫五常とは人間共同態における五つの「常」、すなわち五つの不変なることである。ところで人間共同態において「不変なること」とは何を意味するであろうか。人間生活の不断の転変を貫ぬいて常住不変なるものは、古くより風習として把握せられていた。風習は過ぎ行く生活における「きまり」「かた」であり、従って転変する生活がそれにおいて転変し行くところの秩序、すなわち人々がそこを通り行く道である。人倫における五常とはまさにこのような秩序あるいは道ほかならぬ。しかるに人間共同態は本来かくのごとき秩序にもとづくがゆえに可能なのである。〔…〕五倫五常は、人間共同態における五つの秩序であるとともに、また人間共同態を共同態たらしめる五つの秩序でもあるものである。従って人倫五常をいう代わりに人倫そのものが五倫と呼ばれるのも不思議ではない。五倫は五種の共同態を意味しつつ同時に五種の常すなわち秩序を意味している。(9: 8–9)

和辻の理解では、儒教思想で説かれている五常とは人間共同体における五つの「常」、すなわち人間生活の不断の転変を貫いて不変なる五つのものである。つまりそれは絶えず転変している生活における「きまり」「かた」であり、道であり、秩序である。また、五倫は五常の内容であり、五常はそれぞれの共同体の成立を可能にする根底・基礎である。同様のことは講演筆記である「国民道徳論」においても論じられ、具体的に和辻は「現にわれわれ日本人は儒教道徳を取り入れているが、これはシナの古き時代にできたにもかかわらず、人間のまさに践むべき道を示しているものとして過去にも取り入れたし、現に取り入れているのである。」(B2: 52)と言い、儒教道徳の不変性、及びそれが実践道徳の指標として日本文化の中に融合されていることを認めている。なお、「国民道徳論」の中で、和辻は人間生活・風習の「かた」において「道徳」を把握しようとし、道徳について「無限に変化する行動の内で、それは善い他は悪いという直接の理解ができて、この善いとされたものが一定の型・習・常として固定するのである」(B2: 56)と述べている。さらに、その「型は行為の基準となるのである」(B2: 57)。要するに、儒教のいう五倫五常的人倫観は「間柄」のうちに働く不変なる「人倫の道」であり、共同体・社会生活における人間の行為の規範を体系化するための基準・指標だと和辻は考えており、彼の著作においてそのような儒教理解は一貫している。

第二章 中国の儒教と比較した和辻の儒教理解の特徴

2.1 夫婦内外的不平等からの脱却の試み

中国の儒教と比べ、和辻に取り込まれた儒教はいったいどのような形で変容しているのかについて、まず、最も私的な存在である第一段階にある「閉鎖性」を取り上げて考えてみよう。

和辻のいう共同存在の実現段階は、段階的に「私」を脱却することによって最終的に人倫的組織の頂点である完全なる「公」に達する。和辻は共同存在の実現段階の出発点として夫婦という二人共同体をあげている。それは、自と他とのみである、きわめて親密なる我れ汝関係・二人関係である。このような我れ汝関係の内において、つまりただひとりの対象に対して徹底的な相互参与を求めると同時に、その関係の外である「あらゆる他の人」に対して相互参与を排除することによって、二人関係は最も顕著に私的存在の性格を有する。この二人関係は顕著な私的存在でありながら顕著な共同存在の実現でもある。ここに、共同存在の実現段階の出発点が見出され得るのである。このように必然的に二人性を有しつつ本質的に第三者の参与を排除する共同存在は、夫婦共同体である。

そのような極めて顕著な私的存在である二人共同体を維持するために、夫と妻各自のなすべき行為の仕方が、「夫は外に向かって労働し、あるいは生活資料の獲得によって、あるいは生活を脅やかす力との争闘によって、あるいはその他のあらゆる仕方をもつて、夫婦の形成する私的存在をささえ、衛り、育てる」(10: 379)こと、「は内にあって夫を助け、慰め、和らげ、その優しさや柔らかさをもってかえって夫の活動力や争闘力を高める」(10: 379)ことと規定されている。その理由として、夫婦の「陰陽内外の補足的関係が密接に成り立つところに夫婦の和合は積極的に実現されるのである」(10: 379)と和辻は述べている。ここで和辻は、古来より陰陽内外をもとにして把握されてきた男女内外の別によって夫婦の道を(妻の)「貞操」として規定している。和辻のいう「婦の道」について、関口12によれば、それは王朝文化の伝統である江戸時代の女訓書、及び「内を治める」という女性観を唱えている儒教、という二つの要素の影響を受けている。つまり、儒教的家族制に現れる閉鎖性が二人共同体の持つ「閉鎖性」の成立を補強できると考えられる。

それとともに、一方で、和辻は儒教における非対称的な人間関係を調整しようと試みたとも考えられる。この二人関係において、男女内外に基づいた「妻の信は貞操」(10: 579)という和辻の主張は一見、男尊女卑を特徴とする儒教的女性認識にかなり一致しているように見えるが、その内実は若干異なっている。儒教の説いている男女内外について、『礼記』に「外言は梱より入れず、内言は梱より出ださず13」とあり、そこから儒教社会の男尊女卑的特質は、男女という人間関係を尊卑で分別し、卑の積極的自覚を堅持する女性の支えを得た家父長男性が、尊の自覚に依拠して共同体の構成員を率い、社会活動を主導する責務を遂行する点で顕著であることがわかる14。また、儒教では、家父長制や階層秩序の正当性を強化するために、より低い社会的地位におかれてしまった女性の貞操・貞潔の当為性が主張されている。

それに対して、和辻が妻の貞操を夫婦の道としてとらえているのは、非対称的な人間関係を強化しようとしたためではなく、夫婦の間における恋愛関係、及び両者の人格の相互参与でなければ成立し難い性愛関係に着目したためであると考えられる。従って、愛情・性愛関係に基づいた最も私的な共同存在として、夫婦は互いにただひとりの対象に対して徹底的な相互参与を求めると同時に、その関係の外に対して相互参与を排除するがゆえに、実は双方向の愛、夫婦間の相互参与、いわば夫婦相和の実現にとって、男の操は女の操と同様に不可欠だと和辻は考えている。

そして、男女の操の相違について、「女の操が前述のごとく夫に対する貞操であるに対して、男の操はただに妻に対する貞操をのみ意味するのではない」(10: 378)と和辻は述べている。男の操は「公共的な種々の共同存在の形成に当たって己が任務に忠実であること、公共的にかけられた信頼に対して死を賭しても裏切りを拒むこと、公共的に表示した己れの立場をいかなる艱難の前にも守り通すこと」(10: 377–378)である。つまり、恋愛の心情と人格的相互参与としての身体的性的交渉による人倫的合一を実現する二人共同体において、男の操と女の操は両方とも夫婦相和の実現には必要不可欠であるが、女の操は夫のみに対する貞操であるのに対して、男の操は妻に対する貞操のみを意味するのではなく、家族的存在を超えて公共的な場面に対する操守をも意味するとされている。家族の人倫的意義15についての説明では、家の現実、すなわち日常的な衣食住の共同に即して夫婦・親子・兄弟の道を実現すると和辻は主張している。そのうち、「誠実な妻は夫の嗜好をすみずみまで心得ている」(10: 432)ことが日常生活における夫婦の人倫的合一の実現の表現だとされている。このように和辻は、二人共同体の閉鎖性を構築する際に、既存の儒教的な夫婦内外の関係を超克しようと試みたように思えるが、最初から陰陽内外の補足的関係に立脚した夫婦の道についての和辻の考えは結局、「夫は妻の綱」的な不平等性を完全に乗り越えられなかったのだと考える。

2.2 「孝悌」における「友愛」の重視

「孝悌は仁の本16」の言う通り、儒教において最も基本的な人間関係は血縁的善意に基づく親子関係と兄弟関係であるため、社会秩序の基本とされているのは「孝」と「悌」である。それは家族愛(家庭道徳)が諸徳の基本として広がり、社会・国家(政治道徳)にも及び、人間の最高道徳としての仁道に達した。和辻はその子の孝行と弟の悌順を、家族的共同体における信頼関係の構築と維持のための、人間共同態の行為の仕方の根本的な理法として扱っていると考えられる。

しかし、儒教において「孝」と「悌」の実践が特に強調されているのは、それを階層的社会秩序の維持のための方針として、目上の人に逆らうことないという人間の行為の規範、非対称的な上下関係を維持・強化するための道徳だからである。なぜならば、儒教倫理で「生む」こと自体が「善」であるがゆえに、子にとって肉親との間のみにあるかけがえのない血縁関係、絶対的な善意、不可逆的非対称的な関係が既に生み出されているのである。『礼記』の「祭儀篇」において、「身は父母の遺体なり、父母の遺体を行なうや、敢て敬せざらんや17」と述べられている通り、子の肉体は親が「した」ものであるため、身体を大切に扱い、傷つけないように慎重に行動しないといけないということである。つまり、儒教の「孝」が強調しているのは子の親に対して発した自然的な愛の感情ではなく、子(下位者)の親(上位者)への服従的義務的な行為の仕方なのである。加地18によると、それは他面において儒教の死生観——「生命の連続」と関わっている。また、その「生命の連続の自覚」としての「孝」について、「われわれは個体ではなく一つの生命として、現在と言いながらも、実は過去をずっといっしょに生きてきたのであり、これからもいっしょに生きてゆく運命を共通する生物なのである。しかも、過去も未来もすべて現在が含みこんでいる。儒教はそれを言うのである。19」とも加地は述べている。つまり子の身体は実際上、自己の所有物ではなく、家・家族という全体の生命の連続性としての身体であるため、その個体性を有しない、というのが儒教的身体観である。

父母子という三人共同体において、親と子は「生む」と「生まれる」の関係であると和辻も考えている。夫婦という二人共同体は子供を「生む」という行為を通じて、父母子という三人共同体への転化を実現するのである。彼は以下の通りに述べている。

二者の合一が二者の一体化を意味せずして二者と相並ぶ第三者となること、すなわち二一が三を生ずること、これが「生む」という現象である。それとともに男女の性的存在共同は親子の血縁関係に転化する。男女の性的共同存在は必ずしも生むという契機を含まず、またこの契機なしにその本質的意義を有するのであるが、親子関係は本質的に「生む」「生まれる」という連関を含むのであり、そうしてこの事態がまさに「血縁」として言い現わされたのであった。(10: 383)

ここにおいて、和辻のいう「生む」は、男女の性的関係を親子の血縁関係への転化、また二人共同体から三人共同体への変化の契機になることがわかる。つまり、彼の唱えている「生む」と「生まれる」の関係は、血縁的「善意」に基づくのではなく、親と子との間のみにある本質的意義としての血縁的「閉鎖性」に基づくのである。その閉鎖性は外部からの第三者の参与を排除することにより、親子の間の厳密な相互媒介性の成立、および親子の信頼関係の構築には必要不可欠な契機となる。また、「子の信は孝行」(10: 579)であると和辻は主張しているが、『倫理学』下巻の「第四章 人間存在の歴史的風土的構造」の「第五節 国民的当為の問題」において、日本で重視されている「孝」は本来の儒教の支配的なイデオロギーを持つ「孝」とは異なり、「わが国の孝は一面においては父母と子との間の愛の尊重であって、家長たる父への奉仕関係ではなかった」(11: 350)と和辻は述べている。これにより、和辻のいう三人共同体における人倫の道としての「孝」の実践を通じて求めているのは、家父長制の正当化や上下的な人間関係の強化ではなく、家族愛に基づく人倫的組織の実現であることが明らかになった。とはいえ、子が自らの身体髪膚を傷つけないように行為することが、和辻のいう人倫の道の自覚である理由は、親に与えられた肉体が親子関係の維持のための重要なかけ橋のような存在だからである。なお、親子の道の実現における「孝行な子は親のために雪中の筍を掘る」(10: 432)のような、子から親への片方向的な配慮の心情・行為が和辻に称揚されている。このように親の目線・立場から子の従順の行為的表現を基準として人倫の道の実現を追究することにより、結局、和辻のいう「孝」は儒教で説かれている非対称的な人間関係から完全に脱却したとはいえないだろう。

一方、父母子の関係を媒介として、複数の子供の間にある同胞愛が生じ、兄弟姉妹・同胞共同体という新しい関係が成立する。兄弟の共同体は父母子の関係のような厳密な相互媒介性を必要としなくなり、父母の慈愛に基づいて開放的な性格を持つ共同存在となる。「兄弟的存在共同の実現が、まさに「友」として言い現わされた兄弟の道にほかならない。「友」は友愛である。兄弟のいつくしみ、兄弟仲よきことである。友悌、友睦などとも言われる。〔…〕兄弟の「友」はまた「悌」とも呼ばれるが、悌は一面に兄に対する弟の敬愛を意味している。兄弟関係におけるこの長幼の序もまた兄弟関係の時間性に基づくのであって軽視することができぬ」(10: 410)。兄弟の道としての「友」は友悌、友睦を意味し、それは「兄が弟をかばい、弟が兄を敬う」(10: 410)ということでもあり、「兄弟態と友人態との近接を示すもの」(10: 410)でもある。元々儒教のいう「悌」の定義について、「其の人と為りや孝弟にして、上を犯すを好む者は鮮なし20」や「弟子入りては則ち孝、出でては則ち悌たれ21」などを挙げることができる。儒教で説かれている「悌」は単に血縁的関係を有する兄上を案ずる家族愛や他者への尊敬・配慮の心情ではなく、「悌順」のことであり、「孝」と同様に年少者(下位者)の年長者・目上の人(上位者)に対する服従的義務的な行為の仕方を強調しているのである。

ここで和辻によって強調されているのは、人間存在の時間性に基づく長幼の別、及びその長幼の別に基づいた兄弟的存在共同における「友愛」と名付けられた同胞愛のことである。彼は西洋にも見られる「兄弟態」について、それは血縁関係に基づいた「同胞」の意を表出するのみならず、「同時に友情的共同存在を意味している」(10: 410)と説明している。つまり、和辻のいう兄弟の道である「悌」が、友人及び友人の間に現れる友愛という含意を有するのは決して偶然的ではないのである。このように和辻によって、本来の儒教にある長幼の別・地位の差を強化するための「悌順」が「友愛」へと転化されていき、元々「悌順」において強調されていた強い上下関係、また年長者・目上の人への「順(従順・服従)」の色が薄められていることがわかる。

要約すると、和辻のいう「悌」は、儒教的上下関係や階層秩序を強化するための行為規範である「悌順」というよりは、むしろ友情・他者への配慮の心情、つまり「友愛」のことを重んじていると言えるだろう。それ故、同胞共同体・兄弟的存在共同は親子関係のような厳密な相互媒介性を必要としなくなり、父母の慈愛に基づいて開放的な性格を持ち、血縁的共同体の地盤から出て友情的共同存在の境にまで達した共同存在となったのである。さらに、和辻のいうより開放的特質を有する地縁的・文化的共同体は、またその兄弟の道、即ち「友悌(友愛)」の延長線上にあると考えられる。

2.3 完全なる「公」の実現の努め

和辻によれば、上述の兄弟の道に基づいて発展したのはまず親族である。親族とは血縁関係を基盤とし、兄弟関係と婚姻(夫婦)関係を媒介として成立した単一の家族を超えた共同存在である。それは夫婦・親子・兄弟の諸関係によってつなげられた複数の家族の間(血縁者及びその配偶者)における関係である。親族において冠婚葬祭などの儀式によって同族の一体感を持つようになるのは、儒教における「礼」と関連付けられるかもしれない。しかし和辻が強調しているのは、「一つの家族においてその成員を失った悲しみは、同時に他の家族にとっても悲しみであり、従って親族全体の悲しみになる。一つの家族において祭る先祖は、同時に他の家族にとっても先祖であり、従って親族の一体感が祭りに表現せられる」(10: 442)というように、儀式を通して喜びや悲しみなどの私的心情を共有することにより、さらなる「公」への段階の実現につとめる点である。

儒教で説かれている「礼」は、最初は人間関係をスムーズに進めるための外面的な作法としての社会的習慣であったが、さらに拡大されていくと、家族、隣人、君臣など、年齢・立場・地位の上下関係に及んでいき、祖先・神霊にまで進んで、またその外面が内部に向かうと、上下関係における敬意の問題となり、精神的な面に広がっていき、人格を確立させる基本的なものに及んでいく22。儒教において、礼を支える心は祖先への尊敬であるため、礼は、常に大がかりな儀式に必要であり、その一つは祖先を祭るときの作法が最大のものである23。「礼による統治」の内実について、『倫理学』下巻の「第四節 世界史における諸国民の業績」において、中国古代の「礼の尊重は人倫的な秩序の尊重である。従って礼による国家の組織は、人倫的組織としての国家の意義の自覚にほかならない。ところで、ここに問題とされた人倫的秩序は、主として血縁共同体の秩序であった。いわゆる宗法的秩序がそれである。」(11: 315)と和辻は説明している。つまり、和辻の説いた儀式の役割は、外面的な作法としての社会的習慣から拡大し地位の上下関係における敬意の問題となった儒教の説いた礼による統治とは異なっている。

他方、すでに指摘したように、和辻のいう完全なる「公」への道の第一段階は、最も公共性が欠如した状態、即ち完全なる「私」を表す性格を有する共同存在である。人倫の道の実現とともに「私」が一層超克され、家族的親族的共同存在より更なる公共的な世間への発展が積極的に実現されるのは、血縁関係の代わりに土地の共有を基盤とした地縁的共同存在である。さらに、土地と労働を媒介とした共同存在の実現において、「人倫的合一と経済的活動との結合し来たる最初の契機を見いだし得る」(10: 469)のである。言い換えれば、土地・労働の共同ないし財を媒介としてさらに発展すると「経済的組織」が成り立つ。ここでの「経済」は経世済民を意味し、民を済うことに重点を置いて社会を秩序立てるのであり、その目標が現実的な衣食住の安寧に限定され、またその手段も社会的秩序に限定されているため、経済活動のねらいは、欲望充足を通じての人倫的合一である。そのような物質面に対して、精神面においては、言語活動による文化財の共有を通じて成立したのは文化共同体である。そのうち、最も広範囲の共同性を実現する集団は、「言語の共同」という本質を有する、精神的文化的な統一としての民族24である。地縁共同体は他者の無制限の参与を拒絶するがゆえに、集中的・限定的であるのに対して、文化共同体はその集中性と限定性を超克し、よそ者の参与を拒絶しなくなり、放散的・開放的でありながらも、それ自身の閉鎖性は解消されていない25。要するに、第一段階の二人共同体から文化共同体に至るまでのあらゆる共同体つまり、それぞれの共同性の実現は私的性格とは離れることができず、しかもその私的性格は共同体の拡大により薄まっていくのではあるが、完全に失われることはないと和辻は考えている。

「私」をもとにして成り立ち、またそれを完全に超克し、民族の全体性を実現するのは完全なる「公」、つまり国家にほかならない。国家は人倫の体系であり、「あらゆる共同体を体系的に統一するもの」(10: 600)であり、そして、「国家の力の根源は全体性の権威である」(10: 603)。そのため、国家が正しい統治を行うことにより、人倫的諸組織に輪郭・形式、つまり個人としての行為者に対する規範的制約などを提供し、共同体の実現を保証して促進する。それは一言でいうと「仁政」の実現なのである。「仁政とはただ人民に衣食住の安全を保証することなのではなくして、正しき統治により仁を国家的に実現すること、従ってあらゆる人倫的組織の実現を保証することであった。仁政の始まりと五倫の自覚的実現の努力とは常に結合して物語られた。してみると、正義が国家において実現せられるということと仁政が国家において行なわれるということとは実は一つなのである」(10: 624)。つまり、仁政の実践とは、正義の実現を意味しているのである。

このように、和辻のいう人間は個人的・社会的なる存在であるため、人間にとっての法律・制度などの国家の統治や強制力に基づく行いは個人的・社会的なる人間の共同の良心である。従ってそれは、人々の行為規範を体系化すること、いわゆる国民の服従的義務的行為の実現を目指しているのでもなければ、国民への支配が最終目的とされているのでもないのである。その点では、和辻の「仁を国家的に実現する」という考え方と、支配的なイデオロギーが中心とされ、強い非対称的な人間関係・階層秩序の合理性や正当性が強調されている本来の儒教の政治道徳とは、大いなる違いがあると考えられる。彼が「倫理」という言葉に表れてきた中国古代の社会形態に基づいた人倫のイデオロギーをそのまま取り込むつもりはない26のもその所以であろう。にもかかわらず、人倫が中心となり、また個体性より全体性が重要視される儒教思想が、ある程度「人間関係における道としての倫理の意義を蘇生せしめようと試みる」(10: 14)という和辻の意図を支えていることは、何一つ不思議ではないだろう。

第三章 「人倫的組織」における理想的な人間の行為の仕方

3.1 家族的諸共同体における人倫の道

和辻のいう「人倫的組織」とは共同性の実現の段階であり、つまり家族・朋友・国家などのような人間の結合形態・共同態であって間柄の表現である。苅部27によれば、和辻が論じた人間関係の類型に応じてなすべき人間の実践的行為の仕方は儒教の五倫に近いものとなった。

とりわけ家族的諸共同体に表出する際に、行為の仕方の根本的な理法としての「信」が各段階に応じて妻の信は貞操・子の信は孝行・弟の信は悌順、と規定されている。それと本来の儒教思想との異同について前章で論じたのだが、和辻の共同体論におけるその儒教的人倫観の働きを明らかにしたい。

第一に、二人共同体における「妻の信は貞操」(10: 579)である。和辻によれば、第一段階である夫婦共同体は人間存在の最も私的な存在であるため、根本的人間の道である信頼を実現する場所としては「最も深刻な要求の行われる段階」(10: 378)である。つまり、夫婦共同体の閉鎖性に即して、信頼関係の維持は「夫婦相和」である。夫婦の道の成立及びその根拠について和辻はこう述べている。

夫婦の道はまず「貞実」「貞操」などとして把握せられる。これは夫婦共同体の閉鎖性に即した道なのである。〔…〕夫婦の和合の道としてあらわに説かれ得るのは、夫婦の間の補足的関係である。これは古くより陰陽の関係として把握せられていたものであって、夫婦別ありという法則の基底ともなっているであろう。夫婦の生活に「分業」の第一歩を認めようとする思想もここから出発する。我々もまたここに夫の道、の道の差別を明白に見いだすことができる。(10: 375–379)

和辻には、夫婦の道は、身心一如を徹底することを意味している「貞操」として把握されている。ここにおいて特に妻の貞操が強調されているのである。その理由は、夫婦の間は陰陽内外の補足的関係だからである。具体的には、日常生活の分業は男女内外の別により、夫の道は外に向かう労働作業などの公共的な社会活動が中心であり、反対に妻の道は内にあって夫に対する配慮・支援を中心とするというふうに二分されている。妻の貞操は以外の人に身をまかせず、男女の性愛関係に基づく二人共同体の厳密な相互媒介性をしっかりと守っている証だと考えられる。

第二に、三人共同体における「子の信は孝行」(10: 579)である。夫婦という男女の恋愛・性愛関係は子を「生む」ことにおいて、「子は己れが肉体的に母とつながっているということを知る前に、すでに久しく母と存在を共同し」(10: 385)、親子の血縁関係に転化すると和辻は述べている。親子関係はその「生む」過程、つまり母親と胎児との間に既に存在しているのである。子は母との「融けあっている」肉体的貫徹としての存在共同であり、また、夫は「妻への信頼を持つ限り、嬰児が彼の子であることを確信する」(10: 385)ことを通じ、夫婦の間の「主体的な肉体」を含めての全存在の主体的合一が現れてきた。のみならず、その主体的合一から父母子の間における信頼関係を維持するための理想的な行為の仕方が見出されうるのである。

父母子という三人共同体における間柄の形成及びその信頼関係の構築は「孝28」であり、それは、子が自らの身体髪膚を守ることによって親子関係を大切にするという親子の間柄の表現でもある。和辻の説いている「孝」の実践は、単なる個体の立場に立った生命保存の行いでもなければ、「家」という全体の生命の連続の自覚としての儒教的な親孝行でもない。それは親の心情をも考慮しつつ存在共同を実現するための働きであるため、親子の存在共同の土台、さらに人倫の道の自覚になる。しかも、父母の中にいつも子がいて、子の中にいつも父母がいるという外部の第三者の参与を絶対的に拒絶しているが、お互いに分離できず、三人共同体には厳密な相互媒介性をも必要とするため、閉鎖的関係をも有している。

第三に、同胞共同体における「弟の信は悌順」(10: 579)である。厳密な相互媒介性を持つ父母子の関係を媒介として、複数の子供でできた兄弟姉妹という新しい関係が成立する。このような共同存在において、長幼の順序は兄弟関係の時間性に基づくものでかなり重要である。ここの「悌」は、前章で論じたように上下関係よりは友愛を重んじるがゆえに、同胞共同体は、厳密な相互媒介性を超克した開放的な性格を持つ共同存在となり、血縁的共同体の地盤から出て友情的共同存在の境にまで達した共同存在ともなった。さらに、友悌に基づいた兄弟の道は、和辻のいう、より開放的特質を有する地縁的・文化的共同体における人倫の道の手本ともなったと考えられる。

3.2 より公共的な共同存在への人倫の道

親族は血縁関係に基づいた複数の家族からなる共同存在であり、家族間の関係において、前述の兄弟の道である友愛を実現しなくてはならないため、親族の道として最も重要なのは相互の扶助の行為である。血縁関係の代わりに土地の共同、いわば人間の空間性に基づいたものは地縁共同体である。和辻によれば、人間は土地においてのみ「家」を持つことができるが、土地を占めて生産を共同するのは一つの家のみならず、多くの家族である。地縁共同体は土地や労働の共同を媒介としてより公共的な共同存在を実現する段階であり、それにおいて欠けてはならぬ行為の仕方はお互いに譲り合うことであるがゆえに、隣人の道は様々な控え目、慎み、気兼ね、遠慮である。それを体現した模範的な姿は郷党における孔子の姿29なのである。和辻によれば、土地・労働の共同ないし財を媒介としてさらに発展すると、より広い生産関係や分配関係に立脚する「経済的組織」が成り立ち、また、「経済的活動におけるさまざまの職業の別を人倫的組織における職分の別として理解することができる」(10: 489)。苅部30が指摘したように、親族における相互扶助の行為と、地縁共同体における控えめ・遠慮の心情及び行為の仕方と、経済的組織における職分の自覚と、どちらも儒教的人倫観と似通っているものである。

以上の地縁的諸共同体は他者の無制限の参与を拒絶し、集中的・限定的であるのに対して、文化共同体はその集中性と限定性を超克し、よそ者の参与を拒絶せず、放散的・開放的である。その理由として、言語は人間存在にもっとも根源的なものとしていかなる間柄の形成にも参与しているがゆえに、芸術、学問、宗教などの言語活動は間柄の本質的特徴、いわば我れと汝との相互了解性の表現であると和辻は考えている。言語の共同によって友人共同体が成立しうる。その理想的な友人的共同体について、『論語』で描かれた「孔子とその門下との美しい友人的共同存在」(10: 574)であり、つまり、学問のために地域的制限を超えて遠方から集まってくる人々と孔子との友人的共同存在である。このように、友人共同体は言語・文化の力を用いて「思想」を伝えることによって地域の制限などのような種々の限定を乗り越えるため、友人の道は最も一般的な人間の道となる。

言語活動による文化財の共有を通じて成立した文化共同体の中で、最も広範囲の共同性を実現する集団は、「言語の共同」という本質を有する、精神的・文化的な統一としての「民族」である。その上、民族の全体性を実現し、「私」を完全に超克するのは、完全なる「公」として存在する国家である。国家は人倫の体系であり、「あらゆる共同体を体系的に統一するもの」(10: 600)であるため、国家が正しい統治を行い、人倫的諸組織に形式を提供し、共同体の実現を保証し促進する。「国家は家族より文化共同体に至るまでのそれぞれの共同体におのおのその所を与えつつ、さらにそれらの間の段階的秩序、すなわちそれら諸段階を通ずる人倫的組織の発展的連関を自覚し確保する。国家はかかる自覚的総合的な人倫的組織なのである」(10: 595)。前章で既に述べたように、和辻倫理学において、人間にとっての法律・制度などの国家の統治や強制力に基づく行いは、国民の服従的義務的行為の実現を目指しているのでもなければ、国民への支配が最終目的とされているのでもない。国家の統治や強制力による国民の共生こそが和辻国家論のねらいなのである。そのため、国家の正義の目標とされるのは全ての個人にも平等に自らの人倫的可能性を与える保証と人倫的可能性の実現の保証31なのである。そこで、「このような国家の保証を東洋では久しく仁政と呼んで来た」(10: 624)。つまり、その「全体性」への配慮の実現が「仁政」を通じるのであると和辻は考えている。「正しき統治により仁を国家的に実現すること、従ってあらゆる人倫的組織の実現を保証することであった」(10: 624)。この国家的に実現されるべき「仁」とは、シナ古代の「仁」を意味しており、「私なき慈愛であるが、しかし善悪の別なく愛するのではなくして善を活かし悪を除くように愛するのである。従って無私の慈愛は正義を含んだものになる」(10: 658)ということである。ここで仁政=正義とされており、さらにそれは国家の根本的な行為の仕方とされ、「万民をしておのおのその所を得しめると言い現わされているあの人倫の道である」(10: 623)と解釈されている。国家が「正義即仁愛の実現を根本の道とすることは、ただに国内的に人民に対する場合のみならず、他の国家に対する場合においても変わりはない。国家は万邦をしておのおのその所を得しめることを目ざさなくてはならないのである。いかなる民族も、家族を形成し地縁共同体を形成し、そうして言語、宗教、芸術、思想等の共同を実現せざるはない」(10: 624)。

要約すると、和辻の求めているのは、国家の統治を通じて文化的精神的合一による共同存在の実現なのである。そのため、和辻にとって、「仁」の国家的な実現は「無差別平等」という理想的な状態とかなり近く、正義の実践ともなるのである。この「仁政=正義」から、和辻は、国家の統治の確立を、儒教の人倫的法則によって促進できることとして認めていることがわかった。

おわりに

人倫的諸組織において、和辻が求めているのは終始、尊重しあった上で行為することによる人倫的合一の実現である。その点では、強い非対称的な人間関係と階層秩序が強調されている本来の儒教とは、大いなる違いがあると考える。それ故、人倫的諸組織に応じてなすべき人間の行為の仕方は結果的に儒教の五倫に近いものとなりつつも、和辻に取り込まれた儒教思想は本来の儒教の人倫観と完全に一致しているとはいえない。

一方、人間は日常人倫の実践的行為的連関においてのみ捉えられる間柄存在であるがゆえに、人間の行為を規定するのは、人間関係なのであると和辻は主張している。全体性が中心とされ、共同体における人間関係を重要視する儒教倫理は、ある程度和辻のその倫理観を支えている。そして、和辻にとっての儒教思想の意義は、人倫的・政治的国家を実現するための指導原理でもあり、また人倫的国家の統治の下で諸共同体における合一が求められている人倫の道でもある。従って、和辻倫理学における儒教思想の受容について考察することにより、全体性を優位におく和辻的倫理観の成立に新解釈を提示することができるだろう。

参考文献

和辻哲郎著、安倍能成編(1962)『和辻哲郎全集第六巻』岩波書店.

和辻哲郎著、安倍能成編(1962)『和辻哲郎全集第十巻』岩波書店.

和辻哲郎著、安倍能成編(1962)『和辻哲郎全集第十一巻』岩波書店.

和辻哲郎著、安倍能成編(1992)『和辻哲郎全集第別巻二』岩波書店.

和辻哲郎著、苅部直編(2017)『初稿倫理学』ちくま学芸文庫.

加地伸行(2010)『論語 増補版』講談社学術文庫.

加地伸行(2011)『沈黙の宗教——儒教』ちくま学芸文庫.

加地伸行(2015)『儒教とは何か 増補版』中公新書.

金谷治(1998)『大学・中庸』岩波文庫.

江連隆(1996)『論語と孔子の事典』大修館書店.

下見隆雄(2005)『礼記』明徳出版社.

関口すみ子(2007)『国民道徳とジェンダー 福沢諭吉・井上哲次郎・和辻哲郎』東京大学出版会.

溝口雄三・丸山松幸・池田知久編(2001)『中国思想文化事典』東京大学出版会.

吉沢伝三郎(2006)『和辻哲郎の面目』平凡社.

遠山敦(1987)「和辻哲郎の儒教把握について——『日本倫理思想史』を手掛かりとして」 『倫理学紀要4』, pp.113–131, 東京大学大学院人文社会系研究科.

板東洋介(2021)「乏しき時代の『論語』—和辻哲郎『孔子』をめぐって—」木村純二・吉田真樹編『和辻哲郎の人文学』ナカニシヤ出版, pp. 176–210所収.

苅部直(2012)「二十世紀の『論語——和辻哲郎『孔子』をめぐる考察」『季刊日本思想史』79号, pp. 183–194 所収.

子安宣邦(2009)「和辻倫理学とは何か(第7回)人間共同体という倫理学の語り——和辻におけるヘーゲルとは何か」『現代思想37(13)』青土社, pp.18–25所収.

Bret W. Davis (edit.), 2020, The Oxford Handbook of Japanese Philosophy, New York: Oxford University Press.

Watsuji Tetsurō, 1996, Watsuji Tetsurō’s Rinrigaku: Ethics in Japan, Yamamoto Seisaku and Robert E. Carter (trans.), Albany: State University of New York Press.

Footnotes

板東(2021)、p.183を参考。

「共同態」と「共同体」という表現は、両方とも和辻の文章で用いられている。その意味について、まず、『初稿倫理学』では、「倫理学——人間の学としての倫理学の意義及び方法」の「第三章 人間の学としての倫理学の方法」の「一五 人間存在への通路」で、「〔…〕間柄の表現は先ず第一には家族・朋友・町・組合・会社・政党・国民・国家・国際聯盟等々の如き人の間の結合形態に認められなくてはならぬ。だから、我々は日常生活に於て無限に豊富な存在への通路から、特にこれらの人間結合形態を択び出し、それを優越なる意味に於て存在への通路とすることが出来る」(SR: 158)と和辻は説明している。このことから、「態」とはある種の「形態」であることがわかる。つまり「人の間の結合形態」・「人間結合形態」は、人間「共同態」のことである。それは具体的に言えば、家族から国家に至るまでの様々な「共同体」(一般に英訳ではcommunityと表現、英訳は Watsuji Tetsurō’s Rinrigaku: Ethics in JapanThe Oxford Handbook of Japanese Philosophyにおける和辻共同体論についての説明を参考)のことである。また、『倫理学』における「同胞共同体」についての和辻の説明で、「兄弟態(brotherhood, Brüderschaft, fraternité)」(10:410)という表現が使用されているように、ここでの「態」とは英文の「-hood」、独文の「-schaft」、仏文の「-ité」という接尾辞の意味合いがあり、共同体における人間関係・間柄そのものが表出している状態をも示している。

要するに、「共同態」は人間の「結合形態」でありながら、それと同時に間柄の表出の意を含む人間の「共同体(community)」をも意味していると理解してよいだろう。本稿ではそれ故、「共同態」という言葉を人間の集まった形態、即ち人間集団である「共同体」だと理解した上で和辻の共同体論についての考察を行う。

苅部(2012)、p.185–186を参考。『孔子』の成立時期について、それは概ね儒教とヘーゲル哲学とを並行して研究し、また『倫理学』上巻が完成され、中巻(つまり「人倫的組織」をメインとする内容)についての構想が立てられる時点である。そのため、ほぼ同じ時期に成立した『孔子』と『倫理学』の「第三章 人倫的組織」における和辻の儒教への態度と彼の儒教理解は一致していると考えられる。

岩波版和辻哲郎全集第六巻345頁。

本稿では、和辻からの引用は、岩波版和辻哲郎全集とちくま学芸文庫の初稿倫理学を用いる。和辻哲郎全集の引用は、略号を用い、丸括弧に全集巻数と頁数を付記する。初稿倫理学の引用は、丸括弧にSRと明記したうえ頁数を付記する。引用文中の傍点・振り仮名はすべて原文によるものである。

『論語』為政篇。以下の原文と現代語訳は加地(2010)、pp.36–37を引用、傍点筆者。

〈原文〉〔…〕五十而知天命。〔…〕

〈現代語訳〉五十歳を迎えたとき、天が私に与えた使命を自覚し奮闘することとなった。

和辻が以上の『論語』為政篇の一文についての原典批判は、6: 324–326にて展開されている。

『岩波哲学・思想事典』、pp.1131–1132を参考。

『論語』堯曰篇。以下の原文と現代語訳は加地(2010)、p.450を引用、傍点筆者。

〈原文〉孔子曰、不知命、無以爲君子也。〔…〕

〈現代語訳〉孔子先生の教え。〔人間は、神秘的な大いなる世界における、ごくごく小さなものであるから〕自分に与えられた運命を覚らない者は、教養人たりえない。

加地(2015)、pp.78–80を参考。

苅部(2012)、p.192。

9: 8–9を参考。

加地(2015)、p.125。

関口(2007)、pp.231–232を参考。

『礼記』曲礼篇。以下の原文と現代語訳は下見(2005)、p.66を引用、傍点筆者。

〈原文〉外言不入於梱、内言不出於梱。

〈現代語訳〉男は家の外での仕事のことを家庭内に持ち込むことをせず、女は家の内での問題を外に持ち出さない。これが男女における社会的自覚というものである。

『中国思想文化事典』、pp.189–190を参考。

10: 431–432を参考。

『論語』学而篇。

『礼記』祭義篇。

加地(2011)、pp.87–89を参考。

前掲書、p.83。

『論語』学而篇。以下の原文と現代語訳は加地(2010)、p.18を引用、傍点筆者。

〈原文〉有子曰、其爲人也孝弟、而好犯上者鮮矣。〔…〕

〈現代語訳〉有先生の教え。その人柄が、父母に尽くし兄など年長者を敬うような場合、反逆を好むというような人間は少ない。

「弟」は、「悌」に同じ。(前掲書、p.19)

前掲書p.22を引用、傍点筆者。

〈原文〉子曰、弟子入則孝、出則悌。〔…〕

〈現代語訳〉老先生の教え。青少年は家庭生活にあっては孝を行ない、社会生活にあっては目上の人に従え。

『論語と孔子の事典』、pp.200–201を参考。

前掲書、pp.217–222を参考。

10: 584–586を参考。

10: 592–593を参考。

10: 14を参考。

苅部(2012)、p.186を参考。

10: 399–400を参考。

10: 468を参考。

苅部(2012)、p.186を参考。

10: 623–624を参考。

 
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