2025 Volume 2025 Issue 52 Pages 268-285
はじめに
本稿の目的は、現代の感情の哲学およびハイデガー現象学を参照しつつ「恐れ」の感情について考察し、両者において恐れの「対象」とはどのようなものであるのか、また恐れのうちに「私」という契機はどのようなかたちで含まれているのかを明らかにすることを通じて、感情の哲学が抱えている課題に対してハイデガー現象学の観点から応答することである。
論述は次のように進む。感情の哲学における「認知理論」と呼ばれる立場が、恐れの「対象」および恐れにおける「私」という契機に関して何を述べているのかを確認し、その不十分な点を指摘する(第1節)。次に、認知理論へのアンチテーゼとして出てきた「知覚理論」の主張とその要点を、信原幸弘およびジェシー・プリンツの議論を参照しつつ整理し、恐れの対象と私に関して《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》という定式をつくる(第2節)。最後に、この定式に対してハイデガー『存在と時間』の「恐れ」論から応答することで、恐れの感情の記述におけるハイデガー現象学の有効性を主張する(第3節)。
1.感情の「認知理論」における恐れ
「感情の哲学」とは、分析哲学のフレームを用いながら心について研究する「心の哲学」のうち、とりわけ感情(emotion)1を主題的に扱う一分野のことを指している。西村清和によれば、心の哲学の中で心的状態としての感情について盛んに論じられるようになったのは1970年代以降のことであり、そこでは感情の「認知理論」と呼ばれる、感情を「命題的態度」2として捉える立場があらたに登場した3。この立場は、感情に関する伝統的な「感覚理論」へのアンチテーゼとして提示されたものである。
〈感覚理論〉とは20世紀前半まで支配的であった考え方で、感情を、知的認識や理性にもとづく道徳判断にしばしば対立する「感覚」に関係するという点で不合理なものと見なし、それ自体は知性や理性によって制御される必要があるとする立場である(西村2018、2–3頁)。これに対して〈認知理論〉は、感情を「判断」や「信念」の内容とされる命題に関わるものとし、それゆえ感情にも或る種の「合理性」を認めようとする立場である(同上)。
〈認知理論〉の代表的な論者としては、1973年に論文「感情と選択」を発表したロバート・ソロモンや、1987年に『感情の合理性』を公刊したロナルド・ド・スーザを挙げることができる。ド・スーザによれば或る感情、たとえば怒りの対象は「命題的対象(propositional object)」であり、怒りはその感情の「根拠を特定する命題」によって規定されている(De Sousa 1987, pp. 126–127)。感情の対象が命題だということは、その対象について何らかの記述(description)がなされうるということであり、これによって感情の合理性を評価することが可能となる(ibid., p. 139)。
またソロモンも感情を命題的態度として捉えている。例えば「ジョンが私の車を盗んだことに私は怒っている」とは「ジョンが何らかの仕方で私を不当に扱ったと私は信じている」ということを意味しており、この点で感情は信念によく似ていると述べた後、ソロモンは「感情は判断──規範的な、そしてしばしば道徳的な判断である」と言う(Solomon 1973, p. 27)。ここからソロモンは、感情を「不合理で混乱をもたらすものというよりも合理的で目的に適ったもの」と見なす(ibid., p. 20)。
すると〈認知理論〉において「恐れ」の感情は、命題の形をした判断・信念内容(命題的対象)をもった心的状態(命題的態度)であるということになる。サメが海にたくさんいるのではないかと私が恐れる場合、私は「サメが海にたくさんいる」という命題の形をした判断・信念内容をもっており、それに対して恐れという命題的態度をとっている、と言える。
このような視点は幾らかの説得力を有している。実際、私たちは或る対象(事態)に関する何らかの判断・信念内容をもち、それに対して恐れを抱くことがある。例えば、ハナブサイソギンチャクの触手には刺胞(毒針)があってそれに刺されると酷い痛みに襲われるということを知り、それに関する判断・信念内容をもち、結果としてハナブサイソギンチャクを恐れる、といったことはいかにもありそうだ。恐れを命題的態度と考えることで、こうした出来事に一つの説明を与えることができるだろう。
また、以上の視点をもつ〈認知理論〉は、〈感覚理論〉を批判することに或る程度成功していると言える。なぜなら感情を命題的態度として捉えることで、その従属節(that節)すなわち命題の内容が真であればその感情は合理的である(偽であれば不合理である)、という仕方で感情に対して合理性を問うことが可能になるからだ。先の例で言えば、或る人が「ハナブサイソギンチャクに刺されると酷い痛みに襲われるということを恐れている」とき、「ハナブサイソギンチャクに刺されるとひどい痛みに襲われる」という命題=事態が真であれば、その恐れは合理的であるということになる。このような仕方で感情の合理性を問いうることも〈認知理論〉の特長であろう。
だが感情は、つねに命題の形をした判断・信念内容(命題的対象)をもった心的状態(命題的態度)である、というわけではないように思われる。というのも、判断・信念内容が変化しても当の感情が変化しない場合がありうるからだ。例えば飛行機に乗ることに恐れを抱く人は、仮に飛行機が統計的には自動車よりも安全だという判断・信念内容を新たにもったとしても、しばしば恐れを抱き続けるだろう4。或る感情とそれに伴う判断・信念内容のこうした食い違いは、感情と命題的態度とが必ずしもイコールで結べるものではないことを示唆している。
そうであるならば恐れの感情に関して問題となるのは、そこに含まれうる命題の形をした判断・信念内容(命題的対象)ではないのではないか。むしろ逆に、まさに私の抱いている感情が「恐れ」であることを成り立たせている、或るもの(対象)がもっている「恐ろしさ」という性質の方なのではないか。後者が導くのは「なぜ」その対象が私に恐れを抱かせるのかという問いである。感情を命題的態度と見なす〈認知理論〉は、客観的な事態としての命題的対象を重視し、また「私」という契機を単なる「信念ないし判断主体」(西村2018、13頁)として捉えている。それゆえ、私(たち)が恐れている当の対象はどのような「恐ろしさ」を有しているのかという問いへのアプローチとしては適していないように思われる。
ところで、当然ながら〈感情の哲学〉の内部でも、感情を考えるにあたって〈認知理論〉では不十分であるとする立場は出てきている。西村によれば、それはとりわけ2000年以降に見られるようになった感情の「知覚理論」と呼ばれる、文字通り「感情を知覚との類比で考えようとする」立場である(西村2018、24頁)。代表的な論者の一人としては、2004年に『はらわたが煮えくりかえる──情動の身体知覚説』を公刊したジェシー・プリンツがおり5、また日本において感情を知覚との関連性のもと〈感情の哲学〉の観点から論じている信原幸弘を挙げることもできる。
そこで次節では、信原の議論を参照しつつ〈知覚理論〉における基礎的な考え方を確認した上で、プリンツが恐れの「対象」の性質および恐れにおける「私」という契機をどのように捉えているのかを整理する。
2.感情の「知覚理論」における恐れ
2. 1 価値的性質と〈私にとって〉という相対性──信原説から
信原によれば、感情は事物や世界の「価値的性質」を捉えている。私たちに立ち現れる事物(対象)は「事実的性質」と「価値的性質」を伴っており、事実的性質とは例えば或るものの色や音、匂いであって、それぞれ視覚器官や聴覚器官、嗅覚器官によって「知覚」されることで捉えられる。それに対して価値的性質とは例えば或るものの「恐ろしさ」や「美しさ」であり、それらは感情によって捉えられるとされる(信原2017、4–6頁)。例えばカラスは黒色であり、くちばしを持ち、カアカアと鳴いて威嚇し、こちらへ向かって飛んでくる。それとともに、そのカラスは恐ろしい。このカラスは事実的性質とともに、「恐ろしさ」という価値的性質をもっていると言える。
感情が価値的性質を捉えるということは、感情は或る仕方でその対象を「評価」6しているということだ。信原は感情を、或る種の「直感的な評価」とする(信原2017、Ⅳ頁)。こうした見解には〈認知理論〉に対する批判的な視点が含まれている。すなわち、私たちはカラスの恐ろしさを「直感的」に捉えるという仕方で当のカラスを恐れているのであって、「カラスがカアカアと鳴いている」という命題の形をした判断・信念内容をもち、それに対して恐れという命題的態度をとっているわけではない。むしろ、そういった判断・信念内容をもっていなくともカラスの「恐ろしさ」という価値的性質を捉えることは可能である、というのが信原の主張であると言えよう。
ここで次のような疑問が生じるかもしれない。すなわち感情が「直感的な評価」でありその対象が価値的性質を有するのならば、その性質は、対象に価値があると「見なす」といった私の任意の振る舞いによってはじめて付与されるものではないか。言い換えれば、或る感情の対象が有する価値的性質は、私が任意に「価値づけ」したものなのではないか、ということだ。
たしかに同じカラスでも、或る人には恐ろしいが、別の人には恐ろしくないということがありうる。だがこれは、感情的な評価としての恐れが個々人の任意の価値づけだということを意味しているのではない。むしろこれは「恐ろしいもの」が〈誰かにとって〉恐ろしいということ、すなわち或るものの「恐ろしさ」という価値的性質が(人に)「相対的」であることを意味しているのである(信原2017、37頁)。
価値的性質はそのうちに或る種の「相対性」を、すなわち〈誰々にとって〉を含んでいる。そして恐れるのはまさに各々「私自身」なのだから、価値的性質がそのうちに含んでいるのは〈私にとって〉という「相対性」である。恐ろしいものの「恐ろしさ」という価値的性質はこのような「相対性」をもっており、それによって「私」が恐れの一つの契機として、単なる「主体」とは異なるかたちで問題となっていると言える。ここで、恐れにおける対象の「恐ろしさ」および「私」という契機に関するこのような見解を、《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》と定式化しておく。
恐れ(感情)について考える上で、〈私にとって〉という契機はきわめて重要な要素であるように思われる。というのも、この契機が恐れのうちに含まれていることが、恐れを抱くという経験がまさに「この私のもの」であって他の人のものではないことを成り立たせているからだ。信原による以上の議論は、この点を考えるための一つの視座を提供している。
とはいえ信原は、恐れにおける対象の「価値的性質」および〈私にとって〉という契機がどのようなものであるのかを具体的に説明してはおらず、あくまでその重要性を示唆するに留まっている。したがって次項では「恐ろしさ」という価値的性質および〈私にとって〉という契機の意味するところを明確にすべく、プリンツによる議論を参照しつつ《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》とはどういうことかについて検討していく。
2. 2 関係的で相対的な性質──プリンツ説から
恐れの対象は或る種の「恐ろしさ」を有しており、〈私にとって〉「恐ろしいもの」である。これが、先に信原を通じて確認した「価値的性質」とその「相対性」から、恐れについて言えることであった。ところでこの視点はプリンツも共有しているものだ。それは、恐れが表象(評価)7しているのは対象の「私にとって恐ろしいという性質」(Prinz 2004, p. 60)であると彼が述べていることからも読み取れる。ここでは恐れの対象が「恐ろしさ」という「性質」を有しており、そうした性質が〈私にとって〉という「相対性」をそのうちに含んでいることが言われている。
さてプリンツは、この〈私にとって〉という「相対性」に着目することを通じて、以下のような見解を提示している。
この「自分にとって(to us)」が重要である。これが示唆しているのは、感情は自分に関わるものによって誘発されるということである。つまり感情は、外的状態と自分との関係を表象していると考えられるのだ。感情が表象しているのは、有機体と環境との関係なのである。(Prinz 2004, p. 60)
ここでは、感情が表象している対象とは「外的状態と自分との関係」「有機体と環境との関係」だとされている。「外的状態」とはおそらく「環境」のことを指しているだろうから、煩瑣になるのを避けて〈感情の対象は「環境と自分との関係」である〉と言い換えておこう。
この「関係」のうちには〈私にとって〉という契機が含まれている。なぜなら〈感情の対象は「環境と自分との関係」である〉というテーゼは、或る感情において「私は対象を自分自身と関係づけて表象している」(Prinz 2004, p. 60)ということを意味しているからだ。そうであるならば、恐れにおいて「恐れの対象(恐ろしいもの)は、〈私にとって〉恐ろしい」という仕方で自分と関係している、ということになる。
恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい、これは先に見てきた信原による議論の要点を筆者が定式化したものと同じことを指している。そしてここには何らかの仕方で「環境と自分との関係」が表現されているということが、プリンツによる議論を参照することで見えてきた。次に確認すべきなのは、ここで言われている「関係」とはいかなるものであるかということだ。
とはいえ《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》という定式は、それ自体では循環してしまっている。これでは、そこに何らか表現されているであろう「環境と自分との関係」に関してこれ以上掘り下げることができないのではないか。
この地点から議論を進めるにあたってプリンツは、アンソニー・ケニーによる感情の「対象」を二つに分類するという議論を参照することで、自身の議論を補強している。ケニーは感情の対象を「個別的対象(particular object)」と「形式的対象(formal object)」に分類している(Kenny 1963, p. 74, pp. 189–194)。プリンツによれば、前者は「感情を誘発した出来事(event)そのもの」を、後者は「それがあるためにその出来事が情動を誘発することになった性質」を指しており、感情は後者の「形式的対象」を表象するとされる(Prinz 2004, p. 62)。例えば悲しみは〈喪失〉という性質を、恐れは〈危険である〉という性質を表象している(Prinz 2004, pp. 62–63)。
〈危険である(being dangerous)〉という性質は、〈毒である〉という性質と同じように、関係的で相対的な性質(a relational and a relative property)である。特定の事物は特定の生物にとってのみ危険であり、それが危険であるかどうかは生物種に依存している。しかし、〈危険である〉ということは、危険なものとして表象されることに依存しているわけではない。〔⋯〕たしかに、実際には私たちが恐れてはいない事物が〈危険である〉という性質をもつ場合はあるが、恐れが表象するものは〈危険である〉という性質なのである。(Prinz 2004, pp. 63–64)
ケニーによる議論を踏まえた上でプリンツは、恐れが表象しているのは「私にとって恐ろしいという性質」というよりも、「形式的対象」としての「〈危険である〉という性質」だ、としている。また〈危険である〉という性質は、それがあくまで特定の誰かにとってのみ危険であるがゆえに「関係的で相対的な性質」であるとしつつ、他方でそうした性質は、私(たち)がそれを危険であると表象することに依存しているわけではないとも述べている。
卵アレルギーのため卵料理を恐れている人を例にとってこのことを考えてみよう。ここで恐れが表象しているのは、卵料理が有している「形式的対象」としての「〈危険である〉という性質」である。卵料理が〈危険である〉のは、卵アレルギー保持者にとってそれが〈毒である〉からで、しかもそれは卵アレルギーを持っている人「にとってのみ」〈危険である〉。卵料理は、卵アレルギー保持者にとって(のみ)〈危険である〉という性質を有しており、それゆえこの性質は「関係的で相対的」だと言われている。
他方で、卵料理を「私(各々のアレルギー保持者)が恐れてはいない」場合でも、その卵料理は〈危険である〉という「関係的で相対的な性質」を有していることがある。卵アレルギー保持者にとって卵料理は、それを恐れていようがいまいが危険である。つまり卵料理は〈危険である〉という性質をそれ自体として有しているのであり、卵アレルギー保持者がそれを恐れる(危険なものとして表象する)から〈危険である〉わけではない。恐れの対象は、このような意味での〈危険である〉という性質だ、ということになる。
ここから言えるのは、恐れの(形式的)対象としての〈危険である〉という「関係的で相対的な性質」とは、卵アレルギー保持者のうちの誰にとっても〈危険である〉という、いわば「一般的な性質」だということである。恐れていようがいまいが、卵アレルギー保持者〈にとって/のうちの誰にとっても〉、すなわち特定の人々においては「一般的」に、卵料理は危険なのだ。よってプリンツの言う「環境と自分との関係」とは、そもそも卵料理が提供されているという「環境」に置かれているからこそ、「私=各々の卵アレルギー保持者」〈にとって=のうちの誰にとっても〉「一般的」に卵料理は危険であり、それに対して各々が恐れを抱く、という関係性を指していると言える。
プリンツは、「私にとって恐ろしいという性質」を「〈危険である〉という関係的で相対的な性質」へと、また〈私にとって〉を〈〜のうちの誰にとっても〉へと変換することで、《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》という定式を《恐ろしいものは〈〜のうちの誰にとっても〉「一般的」に危険である》と言い換え、先に言及した「循環」を回避するのである。
だがプリンツによる以上の議論に対して、二つの問題点を指摘することができる。
第一に、そもそもこれは恐れの対象が有する「恐ろしさ」の説明にはなっていない。先に確認したように、プリンツは「私にとって恐ろしいという性質」を「〈危険である〉という関係的で相対的な性質」へと置き換えているが、恐れていようがいまいが〈危険である〉或るものは、あくまで「危険なもの」であって「恐ろしいもの」ではない。「危険なもの」はもはや、必ずしも恐れと関係せずともそれ自体で成立するものとなっている。こうした変換を行うには〈危険である〉とは具体的にどのような性質であるのかを説明することが不可欠だ。しかしプリンツの議論ではこの点が十分に扱われていない。
第二に、「恐ろしさ」という性質が〈危険さ〉という「一般的な性質」へと置き換えられることによって、恐れにおける「私」という契機が「〜のうちの誰でも」という「任意の私」へと狭められている。卵アレルギー保持者〈のうちの誰にとっても〉卵料理は〈危険である〉としても、「この私」たる各々のアレルギー保持者が抱く「恐れ」及びその対象の「恐ろしさ」はそれぞれに異なっているはずである。結局のところプリンツは、恐れにおける「この私」という契機の重要性を見逃してしまっている。
ゆえに本節での議論から、少なくとも次のように言うことができる。〈知覚理論〉の立場に位置する信原とプリンツの議論を通じて「恐れ」について見てきたことで、《恐ろしいものは〈自分にとって〉恐ろしい》という定式をつくることができた。その点で〈知覚理論〉は恐れの対象と恐れにおける「私」という契機を探究する議論の出発点を提示していると言える。しかし、その定式の内実を説明するという点では不十分である。
したがって次節では、ハイデガー『存在と時間』の第30節「情態性の一様態としての恐れ」(以下、「恐れ」論と略記)を参照することで「恐ろしさ」及び「この私にとって」という契機をより具体的に記述し、《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》とはどういうことか、という問いに応答する。
3.ハイデガー「恐れ」論からの応答
3. 1 恐れの対象
恐れの〈何に対して(Das Wovor)〉、すなわち恐れの対象は「恐ろしいもの(Furchtbare)」であり、それは或る種の「恐ろしさ(Furchtbarkeit)」をもっている(SZ, 140)8。ハイデガーは恐ろしいもの分析にあたって、その恐ろしさに着目する。
このような方針は〈知覚理論〉においても同様に見られたことである。先に確認したように、信原/プリンツは恐れの対象を、その「価値的性質」としての「恐ろしさ」/〈危険である〉という「関係的で相対的な性質」から分析していた。だがハイデガーが着目する「恐ろしいもの」の「恐ろしさ」は、「性質」とは異なるものだ。
どのように両者は異なるのか。形式的には、恐ろしいものを規定するのに用いられるカテゴリーが異なっていると言える。信原/プリンツにおける事実的性質や価値的性質/関係的で相対的な性質は、ハイデガーにおいては「事物的存在性(Vorhandenheit)」というカテゴリーのうちに含まれるものであろう。これは、現存在ではなく〈物〉である存在者の存在(の仕方)を規定する最広義のカテゴリーのうちの一つである。もう一つのカテゴリーは「手許的存在性(Zuhandenheit)」と呼ばれている。
ハイデガーによれば「恐ろしいもの」は、手許的存在者(Zuhandenen)、事物的存在者(Vorhandenen)のいずれかの存在の仕方を有している9。これらはいずれも世界内部的存在者として、そのときどきに私に対して「出会われうる(begegnen kann)」(SZ, 55)ものである。私たちの日常的な行為において出会われているのはたいてい、自分が親しみつつ使用している手許的存在者、例えばハンマーや机、窓、部屋といった「道具(Zeug)」(SZ, 68)であって、事物的存在者ではない。したがって「恐ろしいもの」をひとまず、手許的存在者として規定しておこう。
だが恐ろしいものが「手許的」存在者であるとはどういうことか。そうした規定に、恐ろしいものは当てはまらないのではないか。また恐ろしいものが手許的存在者であるとして、それが有する「恐ろしさ」とはどのようなものか。
この疑問を解消するためには、恐ろしいものを「手許的存在性」によって規定することの意義、及びそのように規定された「恐ろしいもの」における「恐ろしさ」の所在を明らかにすることが求められる。また、この作業を経ることで《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》とはどういうことかという問いに応答することも可能となるだろう。以下、ハイデガーによる「恐ろしいもの」とその「恐ろしさ」分析のプロセスを実際に追っていくこととする。
・有害なものとその適所性
「恐ろしさ」の所在を明らかにするためにハイデガーがまず着目するのは、恐ろしいものがもつ「脅かす(Bedrohlichkeit)という性格」(SZ, 140)である。恐ろしいものは私たちを「脅かす」。池田喬も述べているように、恐れの対象が何であっても、その或るものは「「脅かす」という側面が顕著になって」現れる(池田2024、151頁)。ハイデガーは、この「脅かす」という性格に含まれている三つの契機──①「有害である」という「適所性」を有していること、②「近さのうちで接近してくる」がゆえに「脅威を与えてくるもの」であること、③「出会うかもしれない」こと──を整理することによって、或る手許的存在者が「恐ろしさ」をもって私たちに対して出会われる(経験される)ための諸条件を探求する。
さて、脅かすという性格を構成する三つの契機のうちの一つとして、最初に挙げられているのは以下のことである。
出会われるものは、有害である(Abträglichkeit)という適所の仕方を有している。そのものは或る適所連関の内部で姿を現す。(SZ, 140)
ここで言われているのは、出会われる或るものが「恐ろしいもの」であるには、その或るものがまず「有害である」という仕方で「適所」に在ることが必要だ、ということである。
有害なものが「適所」に在るとはどのようなことなのか。ここで、ハイデガーによって提示されている「適所性」概念を確認しておこう。ハイデガーによれば「適所性」とは、或るものが「~によって~のもとで」適所に在ることを指している。適所性とは手許的存在者の「存在性格」である。
存在者は、自分がそれである当の存在者として、或ることへと指し向けられて(verwiesen)おり、それへと向けて発見されている。その存在者によって或ることのもとで(mit ihm bei etwas)という在り方にあって、当の存在者は適所(Bewenden)を有する。手許的存在者の存在性格は適所性(Bewandtnis)である。(SZ, 84)
例えば釘を打つ〈ための〉ハンマーは、そのハンマー「によって釘を打つことのもとで」〈役にたつ〉という適所性を有している(ebd.)。このハンマーはこうした仕方で適所に在るのだが、ここで重要なのはこのハンマーが釘を打つこと「へと指し向けられて」いることである。適所性はそのうちに、すでに他の存在者(ここでは釘)への「指示(Verweisung)」を含んでいる。
「有害なもの」は適所に在ると言われているのだから、そこにはこのハンマーに見られるような構造を同じく見出せるはずである。例えば道を歩いていて、こちらに向かって吠えてくる犬に出会った場面を考えてみよう。このとき、吠えてくる犬は或る種の「有害さ」をもっている。なぜならこの犬は、当の犬「によって道を通ることのもとで」〈有害である〉という適所に在るからだ。この犬は「有害」であり、しかも道(を通ること)「へと指し向けられて」いることにおいて「有害である」。有害なものが適所性を有している(適所に在る)とは、それが他の存在者との指示関係において「そこに在ってしかるべき所」に在る、ということを意味している。
ここから読み取れるのは、「有害である」とは一つの「指示」だということである。ハイデガー自身も、有害であることを或る種の「指示」として、「役に立つこと」「利用できること」等と列挙している(SZ, 83)。有害なものはあくまで「それによって或ることのもとで」〈有害である〉のだから、ハイデガーにおける「有害である」こととは、厳密に言えば「存在者の性質(Eigenschaften)ではない」(SZ, 83)のであって、むしろそれは他の存在者との関係において「適所に在る仕方」だと言える。
ここまで、有害なものが適所性の「指示」構造を有していることを確認してきたが、これによって次のことを言えるようになる。手許的存在者としての「一つの道具が決して「存在し」ない」(SZ, 68)ように、同じく手許的存在者である「有害なもの」もそれ単体で存在するわけでは決してない、ということだ。先に見たように、吠えてくる犬は「道を通ること」への指示をそのうちに含む適所性を有していた。こうした指示はまた別の存在者へと差し向けられており、例えば道は「それによって家に帰ることのもとで」、家は「それによって寝ることのもとで」、といった仕方で関連しているのであって、このようにして或る「指示全体性(Verweisungsganzheit)」(SZ, 70)は形成されているのだ。「道具の存在には、そのつどすでに一箇の道具全体(ein Zeugganzes)がぞくしており、道具全体のなかで道具は、まさにその道具がそれである、当の道具でありうる」(SZ, 68)とハイデガーが述べていることを踏まえれば、そもそも有害なものは或る指示連関によって構成された「道具全体性(Zeugganzes)」(ebd.)、すなわち「適所全体性(Bewandtnisganzheit)」(SZ, 84)のうちでこそ当の「有害なもの」でありうるのであって、それ単体で「有害である」わけではないのである。
以上の議論によって判明したのは、一見すると自明であるような、私たちを脅かす恐ろしいものが「有害である」ということの内実が、その「有害なもの」単体について考えているだけでは見えてこないということである。有害なものはそれ単体で私たちに対して出会われるのではなく、あくまで私たち現存在がその都度そのうちで行為している環境世界(Umwelt)10──これは何らか特定の適所全体性(適所性の指示連関)によって構成されている──において、さまざまな手許的存在者との関係のうちで出会われる。例えばノコギリが有害なものとして私たちに対して出会われるのは、それ単体で「有害なもの」としてではなく、作業場(という環境世界)のうちで私が椅子を自作しており木材を切るためにノコギリを探しているという状況において、そのノコギリが棚ではなく床に置いてあったときだ。ノコギリが床に置いてあると、間違って踏んで足を怪我してしまうかもしれない。このときそのノコギリは、当のノコギリ「によって木材を切ることのもとで」〈有害である〉という適所性を有しており、それによって有害なものとして私たちに対して出会われているのである。
・脅威を与えてくるものと、近さのうちで接近してくること
さて、「恐ろしいもの」がそれとして私たちに出会われるためには、それがまずもって「有害である」という適所性を有していることが必要であった。しかしこれだけでは、有害なものが「脅かすという性格」をもっていると言うことはできない(し、ひいては恐ろしさを有する恐ろしいものであるとも言えない)。それは「穏やかでない」ものとして「熟知」されているが(SZ, 140)、あくまで有害なものとして或る場所を占めている(適所に在る)だけである。それが私を「脅かす」には、もう幾つかの契機が必要だ。
二つ目の契機として提示されているのは、有害なものが「脅威を与えてくるもの(Drohendes)」だということである。「脅威を与えてくるもの」としての有害なものは、「近さのうちで(innerhalb der Nähe)接近してくるもの」であるが、他方で「手懐けられるほどの近さにはまだ来ていない」ものである(SZ, 140)。この、或るものが脅威を与えてくるのはそれが「近さ」のうちで「接近してくる」からだという見解は、ごくあたりまえのことを述べているように思われる。言うまでもなく私たちは遠くにいるシャチよりも、近くにいて接近してくるシャチの方に脅威を感じる。
だが注意すべきは、ここで言われている「近さ」が決して、単なる物理的な「距離」や「位置」としてのそれを表しているわけではない、ということだ。
日常的な交渉の〔関わる〕手許的存在者は、近さ(Nähe)という性格を有している。〔⋯〕「手許に」存在するものはそれぞれに異なる近さを有するが、この近さは、距離(Abständen)の測定によって確定されているのではない。(SZ, 102:亀甲括弧内引用者)
近さが意味しているのは、その道具がただ単にどこかで事物的に存在し、自分の位置(Stelle)を空間中に有していることではない。道具として本質的に、備え付けられ、納められ、あるいは組み立てられ、整備されているということである。道具にはその場所(Platz)がある。(ebd.)
ハイデガーによれば、私たちの日常的な交渉(行為)において出会われている手許的存在者は「近さ」という性格を有しているが、それは測定によって確定される物理的な「距離」ないし「位置」を意味しているのではなく、むしろ手許的存在者がそれぞれ有しているそのしかるべき「場所」のことを意味している。例えば、手許的存在者としての道具は或る「場所」に「備え付けられ」ているという仕方で存在している。それは使いやすい「場所」に置かれており、私が使用においてそれに出会いうるものとして、或る「近さ」のうちに存在しているのだ。手許的存在者が「近さ」のうちに、すなわちしかるべき「場所」に在ることで、私たち現存在はその手許的存在者にさまざまな仕方で出会うことができるのである。
そしてこの意味での「場所」は、様々な場所の「全体」のうちにあるからこそ当の「場所」たりうる。
そのときどきの場所は、~のためにあるこの道具の場所として、環境世界において手許にある道具連関が互いに方向を合わせられている、さまざまな場所の全体から規定されている。(SZ, 102)
これは先に見た「適所性」の議論と関連している。ここで言われている「場所」とは、適所に在ることを手許的存在者の「空間性」11において問題にしたものだ。「そのときどきにそこへ場を得ていること(jeweilige Hingehörigkeit)は〔⋯〕手許的存在者がその適所性に沿って、或る道具全体に帰属していること(Zugehörigkeit)に対応している」(SZ, 102-103)。手許的存在者がそのつど適所全体性(適所性の指示連関)のうちで当の手許的存在者として在るように、「場所」も「場所全体性」(SZ, 103)のうちで当の「場所」なのである。
以上のことから、有害なものが「脅威を与えてくるもの」として「近さのうちで接近してくる」とはどういう事態であるかについて、説明を与えることができる。或るものが有害であるという仕方で適所に在るとは、その或るものが私に対して出会われうる「近さ」のうちに、すなわちしかるべき場所に在ることを意味している。このような在り方をしているからこそ、当の有害なものは私に対して出会われうるものとして「接近してくる」ことができ、実際に接近してくることにおいて「脅威を与えてくる」のである。
例えばシャチは「有害なもの」として、単に物理的に近くにいて接近してくるがゆえに「脅威を与えてくる」のではない。むしろそれ「によってシュノーケリングすることのもとで」〈有害である〉という適所性を有している当のシャチは、私に対して出会われうる「近さ」のうちに/しかるべき「場所」に在るがゆえに、私に対して「接近してくる」ことができる。こうした在り方をしているシャチがまさに「接近してくる」という事態において、当のシャチは「脅威を与えてくる」。要するに、このように「接近してくることのうちで、有害であることが放射されるのであり、有害さはその点で脅威を与えてくる性格(den Charakter des Drohens)を有する」のである(SZ, 140)。
そうであるとすれば、先に触れておいた「手懐けられるほどの近さ」という表現は、物理的にきわめて近くにあることを意味しているのではなく、まさに「手に懐いて」いること、すなわち出会われる或るものがもはや「脅威を与えてくるもの」ではなく目立たない親密なものとなったことを意味していると言えるだろう。
他方で、「最高度に有害でありえ、しかも絶え間なく近づいてくるもの」であっても、それが「近さのうちで接近してき」ておらず「距たりのうちに(in der Ferne)」あるならば、それはその「恐ろしさ」という点では蔽われたままだ(SZ, 140)。例えば水銀が教室に放置されているとき、その水銀は私たちにとって当の教室で過ごすことのもとで「毒であり有害であり」うるが、それが或る近さのうちで接近してくるものでなければ(自分が全く入らない教室に置かれているという意味で距たっていれば、またそもそも水銀体温計のガラスで適切に保護されており道具として「手に懐いて」いれば)、それは脅威を与えてくる有害なものではないし、ましてや「恐ろしいもの」ではないのである。
・遭遇(しない)可能性
ここまでの議論を確認しておけば、或る手許的存在者が「恐ろしさ」を有する「恐ろしいもの」であるには、少なくともその或るものは「有害である」という適所性を有しており、「近さのうちで接近してくる」がゆえに「脅威を与えてくるもの」でなければならない。そしてハイデガーはもう一つ、「脅かすという性格」を構成する契機を提示している。それは「出会うかもしれないし、出会わないかもしれない」という可能性である。
近さにのうちで接近してくるものとして有害なものは、脅威を与えてくるものであり、それは出くわすこともあり、出くわさないこともある。接近してくることで、この「来るかもしれないし、結局のところやはり来ないかもしれない」というのが切迫してくる。恐ろしい(Furchtbar)、と言われるのはこのことである。(SZ, 140–141)
当然のことだが、有害なものが「近さのうちで接近してくる」ということは、それに出会う可能性が高まるということである。しかしハイデガーによれば、単に出会う可能性が高まることが重要なのではない。むしろ有害なものが「脅威を与えてくるもの」として或る「近さ」において「場所」を有していることで、「来るかもしれないし、結局のところやはり来ないかもしれない」という可能性、「結局やって来ずに通り過ぎていく可能性」(SZ, 141)を帯びるということが重要なのである。
この可能性において、「有害なもの」は「脅かす」という性格をもった「恐ろしいもの」として、まさにその「恐ろしさ」を発揮する。この可能性が高まってゆくことで、恐ろしいものの「恐ろしさ」は「募って」ゆく(SZ, 141)。たしかに恐ろしいものに〈絶対に〉遭遇するのならばそれなりの「心の準備」ができるし、〈絶対に〉遭遇しないのならばそもそも「恐ろしい」わけがない。「出会うかもしれない」という可能性が、或るものの「恐ろしさ」を生じさせていると言える。
ここまで、「恐ろしいもの」の有する「恐ろしさ」について、その「脅かすという性格」を構成している諸契機を整理しつつ確認してきた。或るものが「恐ろしさ」を有する「恐ろしいもの」であるためには、それが、「有害である」という適所性を有していること、「近さのうちで接近してくる」がゆえに「脅威を与えてくる」ものであること、「出会うかもしれないし、出会わないかもしれない」という可能性を帯びていることが必要である。
これが、ハイデガーを通じて恐ろしいものを「手許的存在者」として規定することで見えてくる、「恐ろしいもの」とその「恐ろしさ」の内実である。そして以上の議論から、先に定式化した《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》ということのうち「恐ろしいもの」と「恐ろしい(恐ろしさ)」とが明らかになった。残るは恐れにおける〈この私にとって〉という契機である。恐れを抱くという経験がまさに「この私のもの」であるとはどういうことかを、次項で見ていくことにする。
3. 2 恐れの理由
本節前項にて、ハイデガーの提示する手許的存在性というカテゴリーによって「恐ろしいもの」を規定し、その「恐ろしさ」の内実を明らかにしてきた。そこで本項において試みるのは、恐れにおける〈私にとって〉という契機についてハイデガーによる「恐れの理由」分析を通じて探求することで、《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》ということの内実をより明確にすることである。
恐ろしいものが〈私にとって〉恐ろしいのは、恐れの経験が「この私のもの」だからである。「なぜあなたはその対象を恐れているのか」と問われれば、結局のところ「私が危険な目に遭っているから/脅かされているから」と答えるだろう。恐れているときに私たちは、自分の存在を案じている。ハイデガーが恐れの「理由」について問うのは、こうした経験の第一次的な「理由」であるところの「この私の存在」を問うためである。
ハイデガーは、私たちが「なぜ」恐れるのかについて、以下のように述べている。
恐れが〈なにを案じて(Worum)〉恐れるのかというと、恐れる存在者自身、つまり現存在である。自分の存在においてその存在自身が問題である存在者のみが、恐れることができる。(SZ, 141)
ここでは、①「現存在」たる私たちは何かを恐れるときに自分自身を「を案じて」恐れているということ、②私たちが「恐れることができる」のは、それぞれの私にとって「自分の存在においてその存在自身が問題である」からこそであるということが言われている。これらの抽象的で謎めいた記述が何を意味しているのかを明瞭にするために、以下では〈なにを案じて〉という概念および「自分の存在においてその存在が問題である」という表現に着目し、それらを『存在と時間』における幾つかの重要概念を手がかりに読解していく。
・なにを案じて/なにのゆえに
まず、恐れの〈なにを案じて〉とは何を意味しているのか。ハイデガーはこの概念に関してほとんど説明をしていない。そこで、これに近しい概念である〈なにのゆえに〉とはどういうものかを確認した上で、それをもとに〈なにを案じて〉の解釈を試みる。
ハイデガーは〈なにのゆえに〉に関して、以下のように述べている。
適所全体性そのものは、最終的にはひとつの〈何のために(Wozu)〉に帰着する。そのもとではもはや、どのような適所性も得られることがない。〔⋯〕こうした第一次的な〈何のために〉は、〔⋯〕ひとつの〈なにのゆえに(Worum-willen)〉である。この「〜のゆえに(Um-willen)」はつねに現存在の存在に関わり、この現存在にとっては、自分の存在において本質からしてこの存在自身が問題である。(SZ, 84)
〈なにのゆえに〉とは「第一次的な〈何のために〉」であり、適所全体性(適所性の指示連関)を追っていくと最終的に辿り着くところである。例えば釘を打つ〈ための〉ハンマーは、当のハンマー「によって釘を打つことのもとで」〈役にたつ〉という適所に在り、この釘(を打つこと)はそれ「によって風雨を防ぐことのもとで」適所に在るが、風雨を防ぐことは「現存在の宿りのゆえに(um-willen)、つまり現存在の存在のひとつの可能性のゆえに「在る」」(ebd.)。このような適所性の指示連関によって構成された適所全体性は、最終的に「現存在の存在」〈のために〉、すなわち〈なにのゆえに〉に帰着する。現存在の存在が、いわば適所全体性の〈最終的な理由〉となっているのだ。
こうした〈なにのゆえに〉としての「現存在の存在」自身が、当の現存在にとって「問題である」。これと同様の表現が、本項の冒頭でブロック引用した恐れの〈なにを案じて〉に関する記述においても用いられていた。であれば恐れの〈なにを案じて〉は、〈なにのゆえに〉と同様の構造を有しているはずだ。すなわち〈なにを案じて〉とは、「有害である」という適所性の指示連関によって構成された適所全体性の〈最終的な理由〉としての、「脅かされうる現存在の存在」を意味しており、そうした存在=〈なにを案じて〉が現存在にとって「問題である」と言えよう12。
・問題としての実存
ここまで、恐れの〈なにを案じて〉が、適所全体性の〈最終的な理由〉としての「脅かされうる現存在の存在」を指していることを見てきた。次に確認すべきなのは、なぜ恐れにおいては〈なにを案じて〉が「問題である」のかという点だ。この問いに応答することで、恐れの経験がまさに「この私のもの」であるとはどういうことかについて、説明を加えることができるだろう。
ひとまず、私たちが恐れることを可能にしている契機としての「自分の存在においてその存在自身が問題である」という表現に着目し、それが「問題である」ところの「自分の存在」とはどのようなものか、またそれが「問題である」とはどういうことかを整理しよう。鍵を握っているのは、ハイデガーによって提示されている「実存(Existenz)」という概念である。
実存とは現存在が「つねに何らかの仕方であれこれと関わっている存在」のことであり、実存している現存在は「自分のものとして、そのつど自らの存在でなければならない」(SZ, 12)。私たちは様々な手許的存在者の存在に日々関わっているだろうが、「つねに」関わっているのは各々「この私の存在」でしかありえず、それは死ぬまで手放せない。つまり、この私の存在は誰かに譲渡することができないという点で「そのつど私のもの(je meines)」(SZ, 41)なのであって、またそうでしかあり得ないのである。
よって、それが「問題である」ところの「現存在の存在」すなわち恐れの〈なにを案じて〉は、「実存」としての「この私の存在」のことを指している。そしてそれが「問題である」のは、実存している現存在にとって「この私の存在」が「そのつど私のもの」でしかあり得ないからなのであって、恐れの経験がまさに「この私のもの」であるのも、そうでしかあり得ないからなのである。
恐れの〈なにを案じて〉は「問題でしかあり得ない」のであり、それゆえ恐れの経験も「この私のもの」でしかあり得ない。こういった意味で現存在はそもそも実存しているがゆえに、「恐れることができる」。つまり私たち現存在は、「そのつど私のもの」でしかあり得ない実存へとつねにすでに関わっているのだが、「恐れ」はそれへと関わる仕方の一つの様態なのであって、脅威を与えてくる有害なものによって脅かされうる「実存=この私の存在」〈を案じて〉いるがゆえに、私たち現存在は対象を「恐れる」のだ。
最後に、本節におけるハイデガー読解の成果を踏まえて《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》という定式を書き直しておこう。《恐ろしいものは、〈脅かされうる私の存在「を案じて」という仕方で「そのつど私のもの」でしかあり得ない「実存」へと関わっているからこそ〉、恐ろしい》。恐れにおける〈私にとって〉という契機には恐れの経験が「この私のものである」ことが含意されているが、重要なのは、そこには、実存としての〈なにを案じて〉が「問題」でしかあり得ないがゆえに、当の恐れの経験も「この私のものであらざるを得ない」ということも含意されている、ということなのである。
おわりに
本稿の内容を簡潔に確認しておこう。
まず第1節では、〈感情の哲学〉における一つの立場である〈認知理論〉の見解を整理しつつ、恐れの感情を命題的態度として捉えているがゆえにその対象の「恐ろしさ」を説明できていないこと、そこで「私」という契機が単なる判断・信念主体として考えられてしまっていることを指摘した。
次に第2節では〈認知理論〉と対立する立場である〈知覚理論〉の見解を整理しつつ、その問題点を指摘した。第1項では信原の議論を参照しつつ「価値的性質」とその「相対性」という概念に着目し、それをもとに《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》という定式を作成した。第2項ではプリンツを参照しつつこの定式の内実を明確化することを試みたが、彼によって提示された恐れの対象としての〈危険である〉という関係的で相対的な性質が、結果的に「恐ろしいもの」とその「恐ろしさ」、及び〈私にとって〉という契機を捉えきれていないことを指摘した。
そして第3節第1項では、ハイデガーによる「恐れの対象」分析を読解しつつ、「手許的存在性」というカテゴリーを導入することで「恐ろしいもの」とその「恐ろしさ」の内実を明らかにした。第3節第2項では、ハイデガーによる「恐れの理由」分析を読解しつつ、恐れの経験が「この私のもの」であるとはどのようなことかという問いに取り組み、この問いに対して、実存としての〈なにを案じて〉が「問題」でしかあり得ないがゆえに、恐れの経験も「この私のものであらざるを得ない」のだ、と回答した。その上で《恐ろしいものは〈私にとって〉恐ろしい》という定式を、本節でのハイデガー読解を踏まえて書きなおした。
以上の議論から、「恐れ」の感情について、《恐ろしいものは〈自分にとって〉恐ろしい》という観点から〈感情の哲学〉およびハイデガー「恐れ」論を参照することで、幾らか明らかにできたのではないかと思われる。
参考文献
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Kenny, A. (1963). Action, Emotion, and Will. London: Routledge & Kegan Paul.
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────(2017)『情動の哲学入門──価値・道徳・生きる意味』勁草書房。
信原幸弘編(2017)『ワードマップ心の哲学──新時代の心の科学をめぐる哲学の問い』新曜社。
Prinz, J. J. (2004). Gut reactions: A perceptual Theory of Emotion. Oxford University Press. (=源河亨訳(2016)『はらわたが煮えくりかえる──情動の身体知覚説』勁草書房。)
Solomon, R.C. (1973). Emotions and Choice, in The Review of Metaphysics, XⅦ, I, pp. 20–41.
戸田山和久(2016)『恐怖の哲学──ホラーで人間を読む』NHK出版。
しばしば「emotion」は「情動」とも訳されるが、本稿では訳・呼称を「感情」に統一する。
命題的態度とは「命題の表象から成る心的状態」であり、「その命題へと向けられた態度」である(Prinz 2004, p. 22)。また命題とは「事態(state of affairs)」のことであり、それは平叙文を用いて記述できる(ibid.)。例えば「地球が太陽の周りを公転している」といった(ように記述される)事態=命題に対して、或る人が「信じる(believe)」という態度を向ける(「信念(belief)」という命題的態度をとる)とき、その人は〈地球は太陽の周りを公転していると信じている〉という心的状態にあると言える。
西村2018、2頁。以下、感情の哲学の歴史的な流れに関しては、西村2018の第1章を参照した。
この具体例は信原による記述、および信原を参照している戸田山の記述を参考にした(信原2014、8–9頁、戸田山2016、39–41頁)。なお信原および戸田山は、こうした感情と判断・信念内容の食い違いを「錯視」になぞらえて説明している(同上)。
他にも西村は〈知覚理論〉の代表的な論者として、2007年に論文「何をすべきなのかを見ること(Seeing What to Do)」を発表したサビーネ・デーリングを挙げている(西村2018、24頁)。デーリングは例えば、「感情的意識は知覚的意識と同様、第一に世界についての意識である」と述べている(Döring 2007, p. 377)。なお本稿では紙幅の都合上、デーリングを扱うことはできない。
プリンツによれば、「評価(appraisal)」という用語はマクダ・アーノルドの影響のもと感情研究において流通するようになったものである(Prinz 2004, p. 14)。
〈感情の哲学〉においては、感情は「評価」という契機を含んでおり、評価するとは「表象」することであると言われている。そしてここから、感情とは表象することである、とされる(Prinz 2004, p. 52、信原2014、16–17頁)。この点の詳細については、プリンツの著書『はらわたが煮えくりかえる』の第3章を参照されたい。
Heidegger, M. (1927[1967]). Sein und Zeit, 11.Auflage., Max Niemeyer Verlag. (=熊野純彦訳(2013)『存在と時間』1〜4巻、岩波書店)。以下、「SZ原著ページ数」と本文中に略記する。また引用にあたって翻訳を一部改めた部分がある。
厳密には他者(共同現存在)も恐ろしいものとして出会われうる。しかし本稿では「恐ろしいもの」として、現存在ではない〈物〉を主に扱うため、共同現存在については扱わない。
例えば作業場・工房のような「「自分の」身近な(家政的な)環境世界(Umwelt)」(SZ, 65)。池田によれば「(環境)世界とは、ハンマーや釘といった世界内部的な個々の道具がそこに帰属する全体的連関であり、〔⋯〕その連関構造は指示連関とか適所全体性として特徴付けられていた」(池田2011、89頁)。
ハイデガーは「空間」「空間性」という言葉を用いる際、それが意味するところを、その一般的な意味合いである「三次元的」な空間から慎重に区別している。「まず、三次元的な多様体のうちに可能的な位置(Stellen)が与えられており、それらを事物的に存在している物が埋めてゆく、などということは決してない。このような空間の三次元性は、手許的存在者の空間性のうちにまだ包み隠されている」(SZ, 103)。
ただしハイデガーは恐れの〈なにを案じて(Worum)〉とは「現存在」だと述べており、「現存在の存在」という言葉を用いていない。ここでは、「現存在」という表現のうちにその「存在」がすでに含意されている点に鑑み、〈なにを案じて〉は「現存在の存在」を意味しているとする。