2025 Volume 2025 Issue 52 Pages 81-112
序
H. -G. ガダマー(1900–2002)は、主著『真理と方法』(1960)1において展開した「哲学的解釈学」によって、哲学分野における様々な領域に影響を及ぼしている哲学者である。しかしその影響力・知名度の大きさにもかかわらず、『真理と方法』の全貌・内実は、出版から60年以上経過した現在においても、未だ十分に検討されているとはいえない。また非専門家から見たガダマー解釈学のイメージについても、十分明晰に理解されているとは言い難い状況である。例えば、現代の西洋哲学者一人一人の思想の概要を紹介する入門書である『現代思想の冒険者たち』シリーズでガダマーが取り上げられた際、担当著者の丸山高司はその副題に「地平の融合」と付した。一見するとこの「地平の融合」概念がガダマー解釈学の中心的立ち位置を占めるように思われるが、この概念もまた、どのような事態を指し示しているか、またどのような身分を持っているか(経験される現象の記述、理論的構造の説明、理念的に描写されるモデル、など)についても、広く知られているとは言い難い。そもそもガダマー研究内部においても、ここで挙げた一例さえ、統一的解釈が持たれているとみなすことは難しい。
本稿では、『真理と方法』の第一部、第二部、第三部それぞれについて三人のガダマー研究者が各部の概要とその意義を、各々が重視するガダマー解釈学の特徴、独自性への解釈にそれぞれ立脚した上で紹介する2。これにより、ガダマー解釈学のその内容の複層性、豊かさ、またその射程や限界がいかにして語られうるのかを各々の見地から提示することが可能となる。またこのような試みは、ガダマー解釈学をある程度受容した上でそれを解釈するということの困難さを、ある意味でパフォーマティヴに示すことにも接続するであろう。
1.歴史的媒介としての芸術論
——『真理と方法』における解釈学的美学の体系的理解へ向けて
1. 1. はじめに
ガダマーにとって、解釈学的な理解経験とは何であるかということに迫るための重要な手がかりとなったのは、芸術作品の存在とその経験をめぐる思索であった。「芸術作品の経験がそのうちに理解を含み、そしてそれ自身が、科学的な方法において考えられる意味とはまったく異なるような解釈学的な現象である」(WM, 106)と述べられるように、近代以降の自然科学的な方法意識によって覆い隠され、それゆえに精神諸科学においてあらためて見いだされるべき真理概念の究明は、芸術経験への問いからはじめられる。そのため、『真理と方法』の第一部にあたる芸術論は、全三部からなるその著作の恰好の導入であるとともに、そこでの議論全体にわたるフレームをも構築している。そこで本章では、つねに伝統との対峙──その復権/超克の葛藤──から紡がれたガダマーの思索を、人文主義的伝統の受容と近代の美学的伝統への批判的見地、そして芸術作品の存在論という『真理と方法』第一部における理路をたどりながら確認していきたい。芸術論の素地となるそれらの論点を粗略ながら整理しつつ、芸術論の体系的意義を検討することをつうじて、ガダマーによる「歴史的媒介」としての芸術理解が、いかにして解釈学的経験の包括性へとひらかれるにいたるのかを跡づける。またそのことを踏まえて、『真理と方法』第二部、第三部における精神科学的方法論および言語性の問題へと架橋しうる連関を提示することを試みる。
1. 2. 『真理と方法』における芸術論の導入として
——人文主義的伝統の受容と近代の主観主義の克服
まずは、芸術論をめぐるガダマーの基本姿勢を確認するところからはじめよう。『真理と方法』第一部「芸術経験を手がかりとした真理問題の展開」において論じられる一連の議論のなかでとりわけ枢要となるのは、近代美学の主観主義的な思潮の克服と、芸術作品の存在のありかたへの問いというふたつの論点である。
ガダマーは自身の企図について、理解という解釈学的経験に対応するような認識および真理概念を、芸術経験や歴史的伝統を起点として展開する試みであると言明している(WM, XXIX)。ここで意味される芸術経験や歴史的伝統において媒介される真理とは、科学的方法といった認識や手段では検証しえない領域のものであり、個々の現象のその都度の歴史的具体化をつうじて理解されるものである。芸術経験のうちに「科学への真理要求とは異なっているが、しかしそれにはけっして劣らない真理要求」(WM, 103)を求めるガダマーにとって、美学の課題となるのは、「芸術の経験がある独自の認識のありかたであることを基礎づけるという、まさにそのことのうちにある」(ebd.)。そのため、『真理と方法』の芸術論においてまず俎上に載せられるのは近代美学的な思考の枠組みであり、とりわけその筆頭であるカントが基礎を打ち立てた美学理論は、美という現象を趣味判断の普遍的および経験的側面を正しく考慮していたという点で認められるいっぽうで(WM, 49)、その基礎づけは美学の主観化を内包しているかぎりで克服されるべきものとみなされた(WM, 47)。
このように、精神諸科学にとってのあらたな真理概念を、まず芸術作品の存在のありかたとその経験に求めたガダマーは、『真理と方法』の冒頭においてまず、「教養Bildung」「共通感覚sensus communis」「判断力Urteilskraft」「趣味Geschmack」という四つの概念を「人文主義的主導概念」として問い直すことからはじめている。ガダマーはこれらの概念が、近代美学の思潮を経るなかで、人文主義的な伝統のもとでほんらい有していた豊穣な意味内容を限定的に切り詰められてしまったとし、それらがかならずしも美学領域に限定されない概念であることを、概念史的な歴史変遷から明らかにしている。本稿では紙幅の関係上、個々の概念について詳らかに言及することはできないが、以下にその概略をまとめてみよう。
「教養」概念が示すのは、自分とは異なるものにたいしてより普遍的な視点を見いだすと同時に、自己や私的な諸目的にたいしても節度と距離をわきまえることによって、自分自身を超えた普遍性へと高められる感覚である(WM, 22f.)。ガダマーは、人が直接に経験するものとは本質的に異質な存在のありかたを受容しそれを認めることを学ぶなかで、異なる存在が自身のうちに取り込まれることで姿を変えながらも、それによってまた自己自身もあらたに形成されていく過程を、精神の基本運動であるとしている。こうした「形成bildenを経た意識」(WM, 20)としての「教養」の実践的側面は、精神科学という学問における判断形成や認識のしかたをいわば土壌のように支えるものであることを、ガダマーは指摘している。
これはまた、共同体的地平において共通性をともに形成する「共通感覚」の実践的理念とも共鳴するものとなっている。「共通感覚」においてガダマーが強調するのも、真理と誤謬の判断がそこではじめて可能となる先行的かつ中間的な場(トポス)として位置づけられる「真(理)らしきものdas Wahrscheinliche」にたいする感覚を養う実践的性格である。それは、主体の経験の地平をつねに先行的に構成しながら判断の遂行を規定すると同時に、その都度の経験によっても更新され、あらたな地平の獲得へとひらかれるものである。
さらに「判断力」概念をめぐる考察においてガダマーは、カント的な規定的判断力と反省的判断力の区別をとりあげつつ、普遍と特殊をめぐる近代的な理論構造が内包する認識論的な二項図式のありかたを再考する手がかりを指摘し、続く「趣味」概念との連関のもと、それがたんなる美的判断力に尽きるものではなく、個人と他者、さらにいえば共同体との「中間Mitte」における媒介として機能する共同体的な概念であることを示している。そこで「趣味」概念は、私的な趣味と共同体的理念との調和を形成する精神的な識別能力とされ、ガダマーはこの点に、趣味の主観的性質をアプリオリに正当化したカントの美的判断力との相違を特筆している。
ガダマーにとって、こうした人文主義的伝統にもとづく概念群をいまいちど反省し、そのほんらいの意味内容を取り戻すことは、近代美学の乗り越えという課題と軌を一にするものであった。これらの問題意識をもとにガダマーは、「どのようにして美的経験の真理を正当に評価し、カントの〈美的判断力批判〉を端緒とする美についての徹底的な主観主義化を乗り越えることができるのか」(WM, 103)という問いを発展させていく。ガダマーによれば、カントが時間と空間の形式を「超越論的感性論transzendentale Ästhetik」として論じ、さらに『判断力批判』において美と崇高の理論を〈美的判断力批判〉として展開したことは、「伝統の中断であると同時にひとつのあらたな始まり」(WM, 46)を示すものであった。すなわち、ガダマーのみるかぎり、カントが美的経験の認識形式を主観的普遍性に基礎づけ超越論的に正当化したことによって、美的な領域は認識や実践の領域から自律的であるとみなされることになった。そのことにより判断力や趣味といった概念は人文主義的な伝統のもとでの実践的な意義を失い、それにともなって精神諸科学における固有の真理要求を承認する道は閉ざされてしまったのである。
さらに、近代における美や芸術の「ästhetisch(感性的・美的)」なものの含意は、シラーを介してより徹底した主観化をたどることとなる(WM, 87)。そこでは、美しい仮象としての芸術と現実との対立関係が先鋭化され(WM, 88)、芸術はもっぱら純粋に美的な質において理解される。芸術作品を美的な質のみにもとづいて捉えようとするかぎりにおいて、その作品がそもそももちうる目的や機能、内容的意味といったものは、外的な契機とみなされ除外されてしまう。芸術作品にたいして、美的に経験される性質とそうでないものを区別するこうした意識を、ガダマーは「美的意識ästhetische Bewußtseins」と呼び、さらにそれがある種の「抽象化Abstraktion」をともなうものであるとして批判的考察の対象とした。芸術作品が意味をもって成立するはずの現実的な連関をすべて度外視し、美的意識によってただ純粋な芸術作品として鑑賞することによって、作品がほんらい根ざしている世界や現実への帰属性をも失ってしまうことを、ガダマーは何より問題視したのである(WM, 91f.)。
近代美学的な伝統を再検討するにあたってガダマーが試みたのは、芸術経験を美的な抽象化や自然科学的な認識概念によって捉えるのではなく、真理を媒介する固有の認識様式として、歴史的な現実における連続性とともに統一的に考えることであった。こうした見地に基礎をおきながらガダマーは、近代美学の超克という論点と両輪をなすもうひとつの課題となる、芸術作品の存在論へと向かっていく。芸術作品の存在のありかたと芸術経験の真理を問うことによってまさに、「精神諸科学が営む理解のなかで、真理への問いがあらたにたてられるような次元がひらかれることを目の当たりにする」(WM, 106)。この「理解」という解釈学的現象が『真理と方法』の全篇にわたって論じられるさいに中心的地位に据えられるのが、「遊びSpiel」という概念である。「遊び」は『真理と方法』における芸術・理解・言語をめぐるいずれの議論にも深くかかわる鍵概念として設定されているが、この概念がはじめて問われる場面こそ、芸術作品の存在論についての文脈である。つぎにこの点について確認しよう。
1. 3. 芸術作品の存在論
——芸術経験および理解経験の媒介としての「遊びSpiel」
ガダマーの芸術作品の存在論において、「遊び」概念はあらゆる芸術形態に共通の根本性格として機能する。ガダマーが「遊び」に着目するのは、近代美学の主観主義化への批判という経緯と密接にかかわっており、とりわけこの概念が従来、 カント(構想力と悟性の「遊動Spiel」)やシラー(「遊戯衝動Spieltrieb」)において主観のはたらきと強く結びつけられて論じられてきたからである。ガダマーの主張を先取りして述べるならば、「遊び」においてその主体となるのは、遊ぶ者ではなくむしろ「遊び」という運動の包括的な全体そのものである。芸術経験において問題とされるのは、作品を鑑賞する者の主観の形式やたんなる美的意識の対象としての芸術作品ではない。ガダマーの解釈学的な立場からみれば、芸術作品を経験し理解するということは、作品のもつ地平とわれわれの地平が一体となって経験されるものとして捉えられるべきなのである。
では、「遊び」概念の存在論的分析においてガダマーはいったい何をめざしていたのか。それは、芸術作品の存在とその経験における近代美学的な主客の対立構造を見直し、芸術経験にそなわる独自の認識価値を再構築することである。「遊び」とはほんらい、遊ぶ者と遊ばれるものとのあいだにおける主客の区別のつかない相互運動をとおしてあらわれてくるものである。ガダマーは「遊び」のいきいきとした動性におけるこの「中間的medial」3で「自己表現的Sichselbstdarstellen」な次元に根源的な意味を見いだし、そうした「遊び」の本来的なありかたが完成される次元こそ芸術の「遊び」であるとみなした(WM, 111)4。
「遊び」が芸術の「遊び」へと転換する事態において、ガダマーは「演技Spiel」5の議論へと接続する。「遊び」が芸術としての「演技」へと全面的に転換することをガダマーは「形態への変容Verwandlung ins Gebilde」と呼んでいるが(WM, 116)、このとき芸術の「遊び」は「演技」として観る者を巻き込みながら意味の全体を表現するものとなり、そこで「演技」をつうじてあらわれる意味内容は、作品の「理念性Idealität」へと高められる。それにより芸術の「遊び」は、作品としての存在性格へと形態化することになる。「遊び」の純粋な運動そのものを本質とする芸術作品の存在は、いわば現実化のはたらきそのものとしての「エネルゲイア」という性格だけでなく、つくられたものとしての「エルゴン」という性格をも帯びている(ebd.)。芸術の「遊び」は、反復される上演とその都度の鑑賞に堪えうる作品存在として、理念性および現象性をともにあわせもっているのである。こうして作品としての「絶対の自律性」(ebd.)をもつにいたった「遊び」は、芸術作品の表現のうちで「真理」を発揮するものとして「真なるものへの変容Verwandlung ins Wahre」を遂げる(WM, 118)。ガダマーは芸術における真理の表現について、アリストテレスのミメーシス論に依拠しながらつぎのように言及している。つまり、ミメーシスによる現実の再認識が既知のものの再認というよりもむしろ現実を上回るものの本質認識であったように、芸術作品の存在もまた、表現された事柄が現実を模写するだけにとどまらない、現実の「高められた真理」の再認識を可能にするような卓越した存在としてあらわになるのである。
このように芸術作品の存在のありかたは、「遊び」の動的な本質である「自己表現Sich-Darstellung」という特質をつうじて規定されることによって、芸術作品それ自身の表現において、理念性をあらわすと同時に、表現として現象するものとなる。芸術作品は、その都度の歴史的地平において理念性と現象性が統一的に経験される「全体的媒介」(WM, 125)として捉えられるのである。『真理と方法』におけるこのような芸術作品の存在論は、以上のような「遊び」概念を雛形とし、上演芸術(演劇、音楽など)を中心とした議論から、さらに「像Bild」概念を対象とした造形芸術の考察へと展開されてゆく。
「像」概念にかんしてガダマーは、絵画のみならず彫刻や建築物をも含めた造形芸術一般を包括しうる議論を行なっている。そこでもまた、芸術作品がたんなる「模倣」や「模写」ではないというミメーシス的な本質認識にならって示された「遊び」の議論の内容が、「どのような点で像Bildは模像Abbildから区別されるのか」という観点へと引き継がれている(Vgl.WM, 119 ff.)。模像がそこに示される原像的な何かをただ再現(模倣)することにのみ寄与し、模像の存在そのものは二次的なものとして背景に退いてしまうのにたいして(WM, 143)、像は原像への指示をもちながらも、同時に像自身の存在も呈示する。像が模像と決定的に異なるのは、表現と表現されたもの(原像的なもの)とのあいだに本質的な関係が見いだされるとともに、像表現それじたいが固有の現実性をもつという点にある。像のこの独自のありかたをガダマーは「像の存在価Seinsvalenz」(WM, 146)と特徴づけているが、そうした像においてはじめて表現されうるものは、像の固有の存在価によって意味の増大、すなわち「存在の増加Zuwachs an Sein」(WM, 145)がもたらされる。ガダマーが像と模像の相違に見いだすこうした観点もまた、「遊び」から派生した表現と表現されたものの「存在論的交錯」(WM, 142)にもとづいたものとなっている。
このようにしてガダマーは、「美的意識ではなく、芸術の経験、そして芸術作品のありかたを問う」(WM, 108)ために、 「遊び」をあらゆる芸術形態に対して原理的な意味をもつ概念として自身の芸術論に中心的に導入するにいたった。また、このことは同時に、『真理と方法』第一部の議論そのものが、人文主義的な伝統の受容および近代美学的な主観主義の乗り越えという、それじたい歴史的な課題を抜きにしては考えられないものであった。精神諸科学にとって見直されるべき真理概念を芸術経験への問いからはじめたガダマーのモチベーションは、芸術作品との関係性やその真理経験を、個人や他者の共同体的地平との相互的な交わりを媒介的に包括する地平から醸成することによって、歴史や伝統との連関のもとで解釈学的な学問性を築こうとする『真理と方法』の哲学的遂行をじゅうぶんに反映していたものといえる。
1. 4. 『真理と方法』における芸術経験の歴史的媒介性の体系的意義
前節までは、『真理と方法』における芸術論の原理的構造を、ガダマーの行論にしたがいながら確認してきた。そこで示されていたのは、美的なものの意味を「遊び」の普遍的な構造から把握することによって、上演芸術のみならず絵画や彫刻といった造形芸術もまた、存在論的見地から同じ存在様式をもっているということであった。こうした議論を踏まえつつ、ここからは、芸術経験の歴史的媒介性という観点から、芸術経験と解釈学的な理解経験の連関について指摘してみたい。
ガダマーは、上演芸術や造形芸術といった芸術作品をめぐる存在論的観点を、テクスト一般の解釈学的な問題として展開するための予備的考察として、「文学 die Literatur」という芸術様式について言及している。ガダマーのみるところ、文学的芸術作品の本質をなすのは、それが言語によって伝えられ、また、読むことによって受容者のその都度の現在に生かされるという点にある。文学が書き記されて在るという「書記性 die Schriftlichkeit」は、すべての言語的伝承の根源的所与のひとつであると同時に、そのテクストの統一性には〈読書 die Lektüre〉という行為が対応している(WM, 165f.)。いかなるテクストであれ、それは歴史的な懸隔によってあたかも何らかの形式と化して存続しているものではなく、むしろ生きた伝承として、のちの時代の受容者にたいしての関係を抜きにしては考えられないものである。文学作品を経験するための読書という行為は、作品において読まれる内容が表現にもたらされるひとつの出来事とみなされる。このとき、理解しつつ読むということは、ある種の再生産であり解釈なのである(WM, 166)。
ここで問題となるのは、文学的芸術作品の存在様式は、言語芸術としてすでに固有の価値を認められた文学作品のみに限定されるのではなく、より包括的な意味を示唆しているということである。「文書 die Schrift」という存在様式には、言語による一切の伝承が属している。つまり、あらゆる種類の——宗教的、法律的、経済的、公的、あるいはまた私的な——テクストのみならず、伝承されたテクストを学問的に解釈する精神科学の営みそのものが言語的伝承の全体に属している。文書という形式が帰属するすべての学問的研究は、本質的に言語性と結びついているのである(WM, 167)。むろん、美的意識を尺度とすれば、文書はその個々の形態におうじて美学的にさまざまな境界づけがなしうるとはいえ、理解という行為がめざしているのは、言語的芸術作品のもつ表現形式上の美的性質といった個別の評価ではなく、テクストがわれわれにたいして何を語っているかということであるとガダマーは述べる。たしかに詩や散文、さらには〈学問的〉な散文とのあいだに違いがあることに疑いの余地はないが、それらの違いは、さまざまな言葉が掲げる真理要求の多様性に依拠している(WM, 168)。その意味で、作品のうちに万人にとって真理であるものが表現されているかぎり、文学的芸術作品と広義の文書との表現形式上の区別はそれほど本質的ではない。肝要であるのはむしろ、言葉によるさまざまな表現形式が、そこにおいて言表されるべき真理を賦活するという点にある。そのような文書のありかたは、われわれにとって疎遠でありながらも理解を要求するものであり、文書における過去からの伝承は、読むという解釈学的行為をつうじて、あたかも現在のものであるかのようにわれわれに語りかけているのである(WM, 168f.)。
ガダマーは、真理が生起する場面を、まさにその都度の芸術経験において作品とわれわれが属する地平の統一的連関がひらかれる次元にこそ捉えようとしていた。芸術作品の表現が鑑賞者によって経験されるとき、作品のもつ歴史的地平が受容者の地平へと到来する。このようにガダマーは、芸術作品を経験することの範型を「読書」、すなわち「読むこと das Lesen」という経験との類縁性に見いだしていたのである6。
ここで重要なのは、「読むこと」とは、テクストという対象にかぎらず、空間芸術や時間芸術をも包括する事態として共通的に理解されうるものとされる点である7。ガダマーによれば、芸術経験としての「読むこと」は、すでに「遊び」の概念が示していたのと同様に対象化された認識の状態ではまったくない。たしかに芸術作品はそれじたい、歴史的な時間や空間の隔絶を超えた現前性をもつものであり、われわれは芸術経験の同時性においてその存在を把握する。しかしガダマーが重視するのは、個々の芸術的対象にたいして普遍的な美的価値を見いだす認識や、自然科学的な方法論や対象化によって把握する経験ではない。ガダマーによれば、芸術作品に固有の存在様式はほんらい、制作が完了することによってはじめて存在するものではなく、その都度形成される意味経験のなかで、過去と現在が媒介されつつ作品の地平とわれわれの地平が一体となって動いてゆく過程に本質的に支えられている。それゆえ、芸術作品が具体的でいきいきとした表現として経験されるには、「読むこと」という解釈学的行為によって、ひとつの統一的な意味が練りあげられるプロセスが必要となる。そうした芸術経験の複層性と統一的な意味の形成の過程に鑑賞者が入りこむことではじめて、芸術作品のほんらいの存在は完成する。芸術の「遊び」が「形態への変容」として示されていたように、どのような芸術作品も表現の形態化として、解釈学的経験の過程のうちではじめて意味が完成されると同時に、作品の意味経験というその都度あらたな形成のさなかにありつづけるのである。
われわれは、芸術作品のありかたが遊びであり、それは観る者による受容があってはじめて完結するということを示すことができたが、このことはテクスト一般についても同様である。理解することにおいてはじめて、死せる意味の痕跡はふたたびいきいきとした意味へと変貌する。(WM, 169)
理解とは芸術作品の意味や真理に参与することであり、このことによって作品の意味が自律的に作者にとっても鑑賞者にとっても共有されうるものとなる8。「遊び」という様態から芸術作品を理解するとき、われわれは作品の「意味現前 Sinnpräsenz」(WM, 171)を経験している。そうした芸術作品を経験するということが解釈学的な理解経験との連関から捉えなおされるさい、それは「読む」という実践的な営為をつうじてその都度作品の意味に出会い、理解の地平があらたに生成されうる場面として把握される。上演芸術や造形芸術といったあらゆる形態の作品存在の意味内容が、その都度の受容の契機においてあらたに経験されていくのと同様に、 文字によって書かれたテクストの書記性という性格にもとづいたありかたにおいてこそ「過去から到来する伝承」(WM, 169)の全容がわれわれに示されてくる。過去から伝承されてきた芸術やテクストは、それらが本来属していた世界から引き離されており、現在から見て疎遠なものとして意識されるが、解釈学的反省によって芸術作品の意味を真に感得するということは、作品が本来の使命を全うしていた歴史的な諸条件をたんに再構成することでもなければ美的体験の対象とすることでもない。ガダマーが芸術経験を手がかりとして導きだす解釈学的な理解経験とは、伝承とそれに帰属しつつも歴史的な隔たりをもつ解釈者との地平が、つねに相互にはたらきあうことで形成されつづけていく出来事としての経験である。理解の本質は、現在に生きるわれわれや世界に向けて自己を表明するものすべて──あらゆる伝承、芸術および法律、宗教、哲学など──の過去の精神的所産の復元にあるのではなく、現在の生との媒介を行なうことにある。かくしてガダマーはつぎのように述べる。「こうして解釈学的意識は、美的意識の広がりをはるかに越えた包括的な広がりを獲得する。すなわち、美学は解釈学へと解消されなければならない」(WM, 170)。このように、ガダマーは芸術経験の領域のうちに立てられる解釈学的な問題設定を手がかりとして、芸術を理解するということにはつねに歴史的媒介がともなっていると主張する(WM, 171)。ガダマーの芸術論において明らかとなるのは、美的抽象化と歴史化にたいして際立った優位性を示す理解という解釈学的現象のひとつの側面であり、そこで理解とは、芸術をはじめとするあらゆる伝承の意味生起の根幹をなすものなのである。
1. 5. おわりに
ガダマー自身が人文主義や近代美学の思想的伝統に対峙し、そこから自身の思索をたちあげた『真理と方法』第一部の芸術論において示されるのは、存在論的かつ歴史的な媒介性という芸術作品の存在とその経験の位相が、解釈学的な理解経験との有機的な連関を示すものとして位置づけられているという体系的帰結であった。『真理と方法』の芸術論において導入されるこうした観点は、「理解において生じる地平融合は言語の本質的なはたらき」(WM, 383)と主張されるように、第二部の歴史論を経て、言語論が論じられる第三部にいたってもっとも原理的な次元のもとで論じられることとなる。そこで言語は、理解における意味の出来事であるとともに、そのうちで解釈学的なプロセスが遂行される普遍的な媒体とみなされる。「言語の思弁的な構造は、固定された所与の模写なのではなく、言語にいたることZur-Sprache-Kommenであり、言語においては意味の全体が予示される」(WM, 478)と述べられることからもわかるように、過去からの伝承は、言語という媒介において意味として到来し、われわれの世界経験となる。そうした意味で言語は、われわれ自身と世界が根源的な共属関係にあることを示す「中間・媒介Mitte」として機能している。それと同時に、「言語にいたる」という事態は、言語の媒介性にもとづいて意味が生起する「出来事」の過程である。過去と現在の歴史的地平が統一的に経験されるこのような解釈学的経験の様相は、ガダマー自身が強調しているように、『真理と方法』第一部・第二部における美的意識批判ならびに歴史意識批判にたいする問題提起を起点として、第三部の存在論的な言語の普遍性へといたる構成を踏まえた体系的連続性のもとでこそ、その包括的射程を示すものとなっているといえよう。
芸術理解の経験とは、意味の裂け目から生じるあらたな余剰に身をひらいていく営為にほかならない。それは、言語や作品の「間Weile」に身をゆだね「留まることVerweilen」である9。ガダマーのテクストもまた、それじたいひらかれた作品として理解の過程のなかで成立しつつ、理解をつうじて変容しつづける地平であるといえるだろう。「芸術の言葉との出会いはすべて終わりのない完結されない出来事との出会いであり、それじたいがこの出来事の一部分なのである」(WM, 105)。
2.⽅法・精神科学・真理/事柄
——人文科学論としてのガダマー解釈学
2. 1. はじめに
本章では、『真理と方法』第⼆部での議論に主に着目する。ここでの議論のうち、特に「精神科学」の⽅法論についての既存の⽅法論への批判を取り上げる。この作業により、ガダマー解釈学の体系をこれらの批判を乗り越えた「精神科学」を記述するものとして再解釈することが可能となる。ここでの「精神科学」とはまずもって、歴史学や文学研究などの、⽂献解釈を伴う⼈⽂学研究を表すものである。われわれのみるところ、精神科学が学問としてどのように営まれているのかをガダマーは第⼆部において説明しようとしている。
〈精神科学論としてのガダマー解釈学〉としてガダマーの思想を追うことの利点は、一つにこの手続きによってガダマー解釈学のうちで現れる種々の概念の諸連関を総覧することが可能となる点にある。言い換えると、既存の精神科学像を批判し、それを乗り越えるものとしての精神科学論・学問論としてガダマーの解釈学を再構成することにより、ガダマーの豊かで広範な、少しネガティヴに言えばさまざまな方向へとすぐに拡散してしまう議論を、ガダマーの問題意識に則してよりシャープに記述することを本章では企図する。
本章での具体的操作は以下である。まず、『真理と方法』第二部に提⽰される諸概念の説明を⾏いながら、既存の精神科学観に対するガダマーの批判のポイントを押さえる。そしてこの批判をガダマーがどのように乗り越えようとしたか、またその時どのようなアイデアを底敷としていたのかを確認する。これらの操作ののち、ガダマーが捉えようとした、精神科学内に存する独⾃の営み、また真理観の⼀部を提⽰することが、本章の議論の⽬的である。
2. 2. 精神科学と「⽅法」——⾃然科学の対⽴項としての精神科学像批判
まず精神科学とは(少なくともガダマーの思想のなかで)どのような学問に当てはまる語であるのかを確認する。
「精神科学 Geisteswissenschaft」の成り立ちを、『真理と方法』冒頭でガダマーは以下のように⽰している10。その語の由来はジョン・ステュアート・ミルの『論理学体系』(1843)における「道徳科学(moral science)」の独訳にある。ミルは、政治や社会において改⾰を有効に遂⾏する場⾯においても科学的知識が必要であるとし、最も正確な知識を提供するものとして帰納的論理を扱う⾃然科学を挙げた。すなわち、政治、社会などの⼈間の精神がかかわってくる分野においても、科学の⽅法論を⽤いた知識を利⽤できる、また正確さや有効性を求めるときにはそれが不可⽋であると考えたのである。よって、ミルが道徳科学という語を⽤いて道徳科学独⾃の体系を展開しようとしていたわけではない。ミルが意図していたことはむしろ逆であり、⾃然科学全体を貫く帰納的論理の⽅法論が精神的な事柄を取り扱う諸学問においても唯⼀の⽅法論として妥当することを⽰そうとしていたのである。ここで考えられているのは、⾃然科学の⽅法論を「精神に関わる学問」にも流⽤できるということ、そのことによって精神に関わる学問においても⾃然科学と同様の類型性、再現性、客観性が獲得できるのではないかということである。
ミル、または『真理と方法』でのガダマーの論敵であるディルタイや新カント派が考えるような仕⽅で、⾃然科学的な枠組みのもとで精神科学を捉えることは不可能であるとガダマーはいう。ガダマーの精神科学論はこの批判的視座を徹底することを起点として展開される。
⾃然科学的な「⽅法」をもつことをその学問の妥当性の担保だとみなすような学問観への批判、すなわち、その研究を遂⾏する際に⽤いた「⽅法」を、誰にとっても再現可能であるような形で提⽰することが、⾃然科学の領域のみならず、精神科学においても有効な議論とみなす論陣に対する批判、これが『真理と方法』全体の骨子であることは、その序論においても度々述べられている。(WM, 1ff.)
「方法」に則する精神科学というプロジェクトは、何が問題であるのか。さまざまな理由をガダマーがあげるが、『真理と方法』第二部ではこれを特に歴史学の文脈から考察している。ガダマーは、当時の歴史学で広がりつつあった手法を、「歴史意識historische Bewußtsein」という研究主体側の態度としてまとめあげたうえで批判する。「歴史意識」とはすなわち、〈過去の歴史を解釈者たる自身とは隔てられたものとして扱い、その資料の内容について価値中立的な立場から解釈を行う〉という態度だと言える。
2. 3. 地平の存在——作⽤史的意識と先⼊⾒との関連から
ガダマーが上記のような精神科学像を批判するとき、その⼒点は複数あるが、その⼀つとして「地平」の存在が挙げられる。この指摘は特に、歴史的に、つまり成立時とわれわれの現在が、時間や空間で隔てられている書物を読む際に際⽴ってくる。ガダマーが既存の精神科学像、また歴史学、また既存の(哲学的)解釈学と呼ばれるものを批判するとき、その批判は「作⽤史」、そして「地平」の⾃覚と徹底が不⼗分であるという点に収斂していく。
「地平 Horizont」とは、〔『真理と方法』内では、その説明においては歴史学をまずもっての対象として⾒ているであろう〕精神科学の遂⾏の観点で⾔えば、以下のように考えられる。研究対象、すなわち解釈対象たる資料(その作成者)と、その解釈者には各々の地平が存している。そのようにまず想定することが、理解を遂⾏する上で肝要である。なぜならば、「すべての理解において、はっきりと意識されているか否かにかかわらず、この作⽤史の作⽤が働いている」(WM, 307)ためである。歴史に拘束されており、その拘束から逃れる、超越することや、その拘束の全容を完全に把握することが不可能であると⾃覚する。このことこそが、精神科学の遂⾏時に働く理解を理解する上で要求されているとガダマーは考え、この拘束というイメージを「地平」によって表現することを試みる。
上記のような拘束性を十分に自覚することを「作⽤史的意識 Wirkungsgeschichtebewußtsein」とガダマーは呼ぶ。「実際に歴史的である思考は、みずからの歴史性をともに考えなくてはならない」(WM, 305)とガダマーが強調するのは、精神科学の⼀つとして歴史が研究される場、すなわち歴史的資料が読解され、解釈される場において、上記のような⾃然科学的「⽅法」においてのそれと同様に研究対象と研究する主体との関係を捉えることを批判するためである。ここで批判されている研究上の態度を歴史主義とも表現するが、それを⼤まかにまとめるならば、以下のようになる。つまり、歴史的な対象を⾃⼰から完全に分離することや、対象を完全に客観的⽴場から眺めることが可能であるとする態度だといえよう。ガダマーにとって歴史的な資料は「対象 Gegenstand」ではなく、歴史が理解されるその最中においてその資料は、「〔その研究を進めている主体とその資料との〕統⼀であり、歴史の現実性と歴史理解の現実性とが同様にそこに置かれるような関係である」(ebd.)ものとして存在すると、ガダマーは主張する。ガダマーのこの⽴場をより説明するのに、さらに導⼊される概念が「地平」であり、また理解の過程の表現として⽤いられるのが「地平の融合Horizontverschmelzung」である。
⾒ることの可能性を制限する⽴脚地と叙述される「状況 Situation」概念として、地平は導⼊される。「地平はある点から⾒えうる、包括され取り囲まれたすべてのものへの視界である」(ebd.)。視界たる地平は、もちろん対象と研究する主体とで同⼀のものを共有してはいない。しかし、完全に別物であるわけでもない。理解される対象としてわれわれの前に現れるものがもつ地平は、それが歴史的なものであるならば特に分かりやすいが、それらがわれわれの地平を構成するものを含んでいることが理解される。この時、⾃⾝の地平に変動が起こる。この変動は、地平とは唯⼀の地平があるのだという発⾒に主体を⾄らしめる。これをガダマーは「地平の融合」と称する。
このようなガダマーの主張は、先ほどの既存の精神科学像批判と重ね合わせて論じられる、「先⼊⾒」の失墜に対する批判を経てなされている。
「先⼊⾒ Vorurteil」とは、⽇本語の「先⼊観」が「偏⾒」のようなネガティヴなイメージを持たれていることからもわかるように、物事を正しく理解する場においては悪しきもの、取り払われるべきものと通常⾒なされる。しかしガダマーにとって、そのような「先⼊⾒」理解はさらに検討されねばならない。というのも、先⼊⾒が地平を構築するためである。それゆえガダマーは、先⼊⾒をむしろ理解の起点で働く契機として扱うべきだと主張する。ガダマーが主張するのは、有限な存在者である解釈者が、その先⼊⾒の効⼒を正しく11⾃覚しながら、その先⼊⾒の改訂可能性を常に考慮しながら、すなわちその改訂の幅がかなり⼤きなもの(⾃⾝の価値観を⼤きく転換させるようなもの)でもありうるという前提をもちながら、理解する対象に臨むべきである、ということである。
ガダマーの議論を詳細に追うことは紙幅の都合上難しいため、批判的に検討される歴史主義の超克として描出される主張を要約すると以下のようにまとめられる。先⼊⾒を持ち続けたままに物事を⾒ることを拒み、諸々の先入見から解放され、真に客観的に、妥当に、⾃⾝が判断するということを、目指すべき正しさや確からしさとして据える。このような理念をもった学問形態は精神科学にふさわしくない。そして歴史主義での志向性に見られるような、⾃⾝の先⼊⾒の効⼒を無⼒化する努⼒こそが学問における客観性担保につながるという信念を、既存の学問論・精神科学論からガダマーは⾒出す。上記の「作⽤史」「地平」でも論じたように、精神科学での理解のあり⽅を検めるならばこのような信念のもとで「⽅法」を精神科学に樹⽴しようとする試みにわれわれは懐疑的にならざるを得ないという帰結が導き出されるのである。
2. 4. 適⽤——その背景に存する伝統と伝承
ここまで、ガダマーの精神科学への理解のうち、既存のものに対する批判的論点の紹介を主に⾏なった。では、これを踏まえてガダマーはどのような精神科学のあり⽅を提唱するのだろうか。『真理と方法』第⼆版において追加された前書きにおいて、ガダマーは⾃⾝が 『真理と方法』で展開した議論はあくまで〈なすべき精神科学像の提⽰〉ではなく、〈精神科学の実態の記述〉であったと⾃⼰⾔及している。しかしそれは、ガダマーが正しく遂⾏されているとみなしている精神科学のあり⽅の記述でもある。ガダマーが意識的に⾏なっていた「書く」 という⾏為、その帰結として著された「テクスト」、その両側⾯を意識しながら、ガダマーの描く精神科学像を追っていこう。ここでは、この像の中核を捉える鍵となる概念の⼀つとして「適⽤」を紹介する。そしてこの概念をガダマーが重視する理由の⼀つとして考えられる、ガダマーの「伝統」「伝承」概念の理解にも触れる。
これらを辿ることではじめて、われわれは精神科学の探求において⾒出される「真理」のその⼀端を担う「事柄」について論ずることが可能となる。ではまず「適⽤ Anwendung」を解釈することから始めよう。⾃然科学の「⽅法」が精神科学には適⽤できない以上、精神科学はどのような学問であるのか、つまり実際にどのようにその学問が遂⾏されているかを、「⽅法」モデルを⽤いずに独⾃のモデルを形成しなくてはならない、これがガダマーの課題であった。
この状況で、ガダマーが重視するのが「適⽤」概念である。その中⼼的な意味として、ここでわれわれは次の点を強調したい。知を獲得する時、つまり何かを理解・解釈するに際し、われわれにつねに起こっている現象とは、「解釈者の現在の状況に対し、理解されるべきテクストの適⽤」(WM, 313)だということである。
上記の議論においても、歴史的に隔てられたテクストにおいても、それがもつ地平と解釈者のもつ地平が⼀つであることが、そのテクストの理解の場に際して⾒出されるとガダマーが主張していることに触れた。この議論に接続する形で、⾃⾝と理解される他なるものとしての対象との関係が、今度は「適⽤」という形で語られる。
この議論を⾏う上で、ガダマーは次の戦略をとる。すなわち、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』から「フロネーシス φρόνησις」を持ち出し、ここで考えられているような知のあり⽅が、解釈学の構造をうまく説明してくれている、と主張する。「〔…〕アリストテレスの分析は、解釈学の課題に位置づけられた諸問題のモデルとして、事実その真価が発揮される。」(WM. 329、強調はガダマーによる)
ガダマーの「適⽤」概念を(多少乱暴にではあるが)把握するため、ここではガダマーの議論をかいつまんで説明する。フロネーシスとは、⾃⼰の存在から切り離された⟨純粋な⟩ 知としての学的知識(エピステーメーἐπιστήμη)とも、制作の時に⾏使される技術的知(テクネーτέχνη)とも区別される。前者について、学的知識とは、理念として抱かれるものであり、「正しい」知識がある。また、⼈に直接教えることができる特徴をもつ。後者について、技術的知とは、⽬的を遂⾏するために、個別具体的状況に応じてどのように⾃分が⾏動すべきか、対象を扱うべきかが分かるが、その知を使ったり使わなかったりすることができるものである。
これらと対⽐すると、フロネーシスの特徴は以下のように記述できる。すなわちそれは、⾃⾝の個別具体的状況において「適⽤」させることができるようになって、はじめて獲得できたとわかるような知である。また、⾏使する/しないことを選択できるものではなく、獲得したら常に⾃⾝の⾏動に効⼒をもつような知である。(WM, 318ff.)
『真理と方法』において、精神科学の研究遂⾏過程(解釈の場)で⾏使されるのは、主にはフロネーシス的な知の獲得、すなわち「適⽤」だとされる。ガダマーにとってこれは、精神科学のあり⽅の記述であり、またガダマーが描き出そうとする「哲学的解釈学」の説明でもある。これによってガダマーは、以下のように先に挙げた課題と対峙できていると考える。
精神科学において、⾃⾝の個別具体的状況と切り離された̶̶先⼊⾒の拘束からの超越不可能性や、地平としてわれわれがもつ理解に際して常に⽤いられる視界のあり⽅を度外視した̶̶⾃然科学的「⽅法」によっては、その学問内で提⽰された成果の妥当性(=扱いたい対象・現象の正しさや真理を捉えている)を担保することは叶わない。というのも、「⽅法」を⽤いることで、その解釈者の個別性を漂⽩できたように⾒えたとしても、常に状況の特殊性や遂⾏主体の特殊性・有限性によって、その都度正しさが規定し直されるためである。
このような精神科学像をガダマーが⾒出す理由、⾔い換えればアリストテレス的なフロネーシスを重視する理由の⼀つには、彼の「伝統」「伝承」概念への理解が関わっている。
加藤も指摘するように、『真理と方法』の中で明⽰的に、ガダマーは(アリストテレスを念頭においた)古代倫理学の優越性を次の点に⾒ている。つまり、伝統への帰属性を退けるべきものとしてでなく、その理論の構造に組み込んでいる点、それによって「理解」における被投性の契機、⾔い換えれば理解という出来事に際して働く「先⼊⾒」や「作⽤史」、「地平」の存在を(もちろん、批判対象たる近代的な道徳哲学、ひいては精神科学論と⽐べてではあるが)うまく捉えている点である。(加藤 2012, 81)
特に「先⼊⾒」との⽂脈で、「伝統 Tradition」「伝承 Überlieferung」の重要性は語られる。上述で議論したように、先⼊⾒は排されるべきでなく、“正しく”⽤いられるべきだとガダマーは主張した。「先⼊⾒」を⾏使する正しさをもたらす「権威 Autorität」、それこそが「伝統」である。もちろん、〈権威に裏打ちされた伝統を正しさの根拠として⽤いることは危険ではないのか〉という課題がここで即座に出されると思われるが、ここでは権威が承認を経てはじめて効⼒を持つこと、その承認には実際には理性が働いているとガダマーが主張していることへの⾔及にとどめる。
2. 5. 事柄——真理のあり⽅
前節最後において、「伝統」/「伝承」、その効⼒のあり⽅を⽰すものとしての「権威」をガダマーがどのように捉えているかを紹介した。その際にも⾔及し、また留保したが、次の疑念が残る。つまりガダマーの議論は、ただ既存の権威が(承認をそれまでに経ていたとしても)現に奮っている「正しさ」、もしくは「真理」をそのまま肯定することを要請しているのだろうか。そうではないならば、精神科学の営みにおいてどのように正しさを、真理へ向かっていることを担保するのだろうか。
この疑問についてガダマーの思想のうちから何かしら応答するためには、われわれは「事柄 Sache」に⾔及することを避けては通れない。というのも、理解が正しさへと、真理へと向かっている状況を、ガダマーは様々な⽂脈において何度も、事柄へと向かう理解(解釈)であることを主張するためである。
ガダマー解釈学における「事柄」とは何か。これは、本章では、もしくは本稿全体では到底解けない問いである。それでもわれわれは、「事柄」について、「事柄」に向かって、この場で何かしら⾔及しなくてはならない。『真理と方法』 に限定しても「事柄」はさまざまな仕⽅で導⼊され、説明され、規定されるが、ここではそのうちの⼀つを取り上げる。
「事柄」は、その概念の出⾃として、⼀つにハイデガーの『存在と時間』での解釈学的循環についての記述が挙げられる。『真理と方法』で直接引⽤している 『存在と時間』の箇所は、「先⾏把握 Vorgriff」などの理解に際して⾒出される先-構造が、「事柄そのもの」から練り上げられ、学問的主題を確保する、という部分であった。ここから、ガダマーはハイデガーの呈した循環構造を保持した⾃⾝の解釈学の帰結として、「完全性の先⾏把握 Vorgriff der Vollkommenheit」を提出する。全ての理解を導く前提としての「完全性の先⾏把握」とは、「内容的 sachlich」にはその都度規定される。
このように、テクストが完全に⾔表しているとされる内容こそ、「事柄 Sache」である。この規定が理解の場において働くことが、理解そのものが可能となる前提となっている。またこの前提は、しばしば懐疑を向けられる。というのも、理解は「事柄の理解」としてテクストが事柄を完全に⾔表することを前提しているが、われわれはしばしば理解が困難である場に直⾯するからである。この時ガダマーは、事柄が、対⾯するテクストのうちで不完全にしか⾔表されなかったのでは、と最初から疑いをもつことは不適切だとする。テクストに存する他者の思いなしを思いなしとして際⽴たせることは、理解においてはあくまで第⼆義的なものである。テクスト解釈において補助的に働かされるテクスト批判的な吟味とは、この第⼆義的な視座を指す。(WM, 299)
ガダマーの「事柄」、もしくは真理観を捉えることは、(その主著の題名が『真理と⽅法』であるにもかかわらず、もしかしたらそうであるが故に)⼀筋縄ではいかない。 また「事柄」について、その(存在論的)⾝分や性質を詳細に語ることはこの場においては不可能である。それゆえ、以上のような説明によって、事柄への到達を⽬指して精神科学の中ではどのように研究に(解釈に)あたるべきだとガダマーが考えていたかを紹介するに、本章ではとどめる。
2. 6. おわりに
本章では、『真理と方法』第⼆部の主要概念を取り上げ、その概要の説明を⾏った。この時特に「精神科学」の⽅法論についての既存の⽅法論への批判とこの批判をガダマーがどのように乗り越えようとしたかを確認した。ガダマーが捉えようとした、精神科学独⾃の営み、また真理観の⼀部を提⽰することが本章の⽬的であったが、ある程度成功していることを祈る。
最後に、ガダマーの精神科学論と現代論じられている⼈⽂学・社会学⽅法論やそれらの妥当性に関する議論との接続について、本章執筆担当者の⾒⽴てを簡潔に提⽰したい。
昨今の⽂系学問を取り巻く状況のうち、負の側⾯の⼀部を打破するポテンシャルをガダマー解釈学は有していると本章執筆担当者は考える。 ⽂系学問、特に⽂献読解を主たる⼿法とする学問群に対する軽視という側⾯に焦点を当てたい。⾃然科学的な数値(≒「データ」)での表現、それらをエビデンスとした議論の提⽰ができない学問であるからこそ、⽂系学問はあいまいで怪しげ、個⼈の思いなしの単なる集積ではないかとみられることがあり、それにより⽂系学問が軽視されるという事態が生じている12。
これらと関連した社会的通念、また学問内での危機意識の表れとして、量的⼿法・統計学的⼿法を⽤いた社会学や⼼理学の台頭、実験哲学の出現などを例挙することもできるかもしれない。しかし本章で⾏った議論を振り返ってみても、根拠のある学問、客観性を常に確保できている学問であるとはどのようなことか、それらがどのような学問にどの程度有効な指摘であるのかは、かなり慎重に熟慮されねばならないように思われる。また同時に、そういった客観性・妥当性に依らない仕⽅での、怪しげでない学問としての像の提⽰が、たとえばガダマー解釈学的なアプローチからも可能ではないか。本章執筆担当者はそのように感じる。とはいえ、このような発想はいささか古めかしい感じが拭えないようにも思われる。学問内で働く統計や因果についての科学哲学分野での先⼈の議論を具に検討した上で、より豊かな議論を重ねるための準備に努めたい。
3.『真理と方法』における第三部の位置づけと射程
——「解釈学の存在論的転回」に着目して
3. 1. はじめに
『真理と方法』第三部の位置づけに関して問題にする際、最初に着目されるべきなのは、それが「言語を導きの糸とした解釈学の存在論的転回」と題されているということである。管見では、この「解釈学の存在論的転回」は二重の意味を含み持っている。それゆえ、本章ではまず、この二重の意味に関して概観することからはじめたい。
「解釈学の存在論的転回」の第一の意味をめぐって、まずは、ガダマー自身が自らの解釈学の射程の包括性を打ち出そうとしていたという事実を確認しておかなければならない。ガダマーは、彼の解釈学の理論的枠組みにおける主要な契機の多くを、精神科学の問題圏において、歴史的伝承としてのテクストの理解・解釈という場面を想定して提出している。そのため、彼の立場は、「精神科学の方法論的基礎づけ」をもっぱら念頭においているものとしてみなされることが多い。事実、そのような側面は多分に指摘されうるのであるが、ガダマーは他方で、彼の解釈学の射程が「一般に理解が向けられうるすべてのもの」(WM, 478)や、「世界経験」と呼ばれるものにまで及んでいく旨を、明らかに主張している。そして、このことにより、「理解されうる(ものの)存在」を問題にする存在論として自身の立場を構想していたのである。以上のことから、「解釈学の存在論的転回」の第一の意味として、精神科学の方法論的基礎づけという限定的意義を克服する射程の包括性の提示という彼の企図を読み取ることができる13。
他方で、第二の意味に関しては、G.フィガールが示唆に富んだ考察を展開している。彼は、倫理学における実践から理論への転回に関して、さしあたり次のように述べている。
倫理学はそれ自身、どのように人びとが自らの生を導き、生を活動において成就するかに関わるから、〔倫理学における〕理論的考察はそれ自身、依然として、生にその活動において関わらなければならない。しかし、理論的考察は、どのように生が「経験され」また成就されるのかというアスペクトの下で生に関わるのではない。それはむしろ、活動そのものの構造にまさに関わり、どの程度までその構造が生の存在を構成しているのかを問うことに関わっているのである。(Figal 2002, 104.〔〕は本章執筆担当者による)
フィガールが提示するこの倫理学の喩えは、ガダマーの『真理と方法』における道程を極めて正確に映し出している。ガダマーは、ハイデガーが『存在と時間』において「理解」を実存カテゴリーとして位置づけたことに依拠することによって、理解が「主観が態度をとるあり方のうちのひとつなのではなく、現存在が存在する仕方そのもの」(GW2, 440)であること、「世界内存在である現存在の根源的な遂行形式」(WM, 264)であることを強調する。解釈学は、この人間的現存在にとって根源的な存在様態である理解にどこまでも関わらなければならない。このことが、上の引用の、「生にその活動において関わる」という倫理学における不断の課題に対応する。他方で、それだけではなく、解釈学はこの理解に通底する構造連関を、或る別の位相において問題にすることが可能なのである。すなわち、この存在様態の構造を分析していわばそのメカニズムを提示する存在論たることが可能なのである14。言うまでもないが、このことが上の引用の「活動そのものの構造にまさに関わり、どの程度までその構造が生の存在を構成しているのかを問うこと」に対応している。フィガールは、ガダマー解釈学内部でこの意味での存在論の位相が出現してくることを指して、「ひとつの哲学的な解釈学a philosophical hermeneuticからひとつの解釈学的な哲学が出来してくる」(Figal 2002, 104)と述べている。さらに言うならば、ガダマーにとって、ここで問題にされる構造連関とは、「言語」をめぐるそれに他ならない。ガダマーは、『真理と方法』第二部の終わりに差しかかって、第三部を主導する構想として、「理解において生じる地平の融合は、言語の本来的な働きLeistungである」(WM, 383)ということを述べるのであるが、この記述はまさに、理解に通底する構造連関を担うものとして言語が位置づけられることの表明として受け取られなければならないのである15。以上が、「解釈学の存在論的転回」が含み持つ第二の意味に関して、確認されるべき事柄である。
さて、これまで述べてきたことからガダマーの「解釈学の存在論的転回」の構想を要約するならば、次のようになるであろう。すなわち、第一に精神科学の方法論的基礎づけという限定的意義を克服する射程の包括性を提示すること、第二に理解の構造連関を、言語をめぐるものとして、言語によって担われているものとして開示すること、この両者を解釈学的哲学たる存在論的位相において統一的に企図すること、これこそが、「解釈学の存在論的転回」および『真理と方法』の第三部が本来従事すべき仕事なのである。
それでは、この「存在論的転回」によって生じる新たな位相へと、われわれはどのような仕方で立ち入っていくべきなのであろうか。それには、ガダマーが標榜している通り、「言語を導きの糸」とする他ないのである。しかし、ガダマー自身、言語が「われわれの思考にとって不気味なほど近くにあり、それが働いていたとしてもほとんど対象化されることはない」(ebd.)がゆえに、言語を独立の考察対象にすることに伴う独自の困難を理解していた。そこで、手掛かりとして求められるのが「対話 Gespräch, Dialog 」である。ガダマーは、「われわれ自身であるところの対話から、言語という暗がりへと接近することを、われわれは試みる」(ebd. 強調は本章執筆担当者による)と述べている。それゆえ、本章もまた、言語に関して対話と一体的な仕方で問うことを、論述の一貫した指針として採用することとしたい。そのうえで、まずはテクストの理解に認められる対話の論理構造としてガダマーが提示する「問いと答えの弁証法」の概要を確認する(3-2)。次いで、この「問いと答えの弁証法」が言語のパースペクティヴから位置づけ直される仕方の次第を提示する(3-3)。そして、今度は、ガダマーにおける「思弁的なもの」という契機に着目することで、言語そのものの存在論的構造を弁証法との連関のもとに問う (3-4)。最後に、この「思弁的なもの」をめぐる考察の成果を受け継ぎつつ、ガダマーの立場が美の形而上学と接近する地点から解釈学的真理の在り方を見定める (3-5)。本章の最終的に目指すところは、「解釈学の存在論的転回」の第二の側面である言語をめぐる構造連関の開示に重点を置きつつ、第一の側面に関わるガダマー解釈学の射程の包括性についてもその一端を示すことで、『真理と方法』第三部におけるガダマーのプロジェクトを全体として跡づけることにある。
3. 2. テクストとの対話における論理構造
ガダマーは、一般に対話というとき、ふたりの人間の間で生じる対話を一貫してそのモデルとして考えているが、対話はテクスト理解Verständnisの場面においても、テクストとその解釈者の間における対話として成立しているという。そして、この対話が有する論理構造として「問いと答えの弁証法」を指摘する。以下では、対話から言語へと接近するという便宜上、この「問いと答えの弁証法」の具体相を確認しておく必要がある。
まず、人間同士の間で生じる対話の場合とは異なって、「テクストは〈あなた〉のようにわれわれに語りかけることはしない」(WM, 383)から、「われわれ理解する者は、テクストをわれわれからはじめて語ることへともたらさzum Reden bringenなければならない」(ebd.)とガダマーは述べる。しかし、このことは、われわれが恣意的に始められることではなく、「最初にあるのはむしろ、テクストがわれわれに立てる問いであって、伝承の言葉にわれわれが捉えられていることBetroffensein」(WM, 379)であると彼は付け加える。それでは、「テクストがわれわれに問いを立てる」というとき、一体何が生じているのであろうか。以下の議論のためにも、ここで、「問い」が持つ諸機能についてその輪郭を示しておく必要がある。
本章執筆担当者の見るところ、ガダマーは問いが有する本質的特徴として次の二点を挙げている。それは、第一に①「未決定の状態に置くことins Offene stellen」(WM, 369)や「宙に浮かせることin die Schwebe bringen」(WM, 380)であり、第二に、②「意味Sinn」(WM, 368)すなわち「方向感覚Richtungssinn」(WM, 368, 370.)を持つということである。
前述のように「テクストがわれわれに問いを立てる」と言われているとき、これには第一の特徴が主に関係している。歴史的伝承としてのテクストが「未決定の状態に置き」、その妥当性を「宙に浮かせる」もの、それはわれわれの「先入見 Vorurteil」および先行理解である。先入見は、それが先入見である限り「不断に意識されることなく働いている」ものであり、われわれは自由にそれを目の前において対象化することはできない(Vgl. WM, 304.)。先入見がそれとして意識化されるただひとつのあり方は、何か先入見に組み込まれないような独自の他者性を帯びたものから刺激され、誘われることである (ebd.)。テクストがこのようなあり方をしているとき、テクストは「われわれに何かを要求し語りかけてくるansprechen」のであり、その「真理要求 Wahrheitsanspruch」(ebd.)をわれわれは経験するのであるとガダマーは述べる。「テクストがわれわれに問いを立てる」というときに意図されているのは、テクストがそれ独自の他者性を通じてわれわれの先入見・先行理解に語りかけ、その妥当性を宙吊りに付すという事態に他ならない。
それでは、このように問いを立てられることによって「伝承の言葉に捉えられた」われわれはどうするのかといえば、「このわれわれに立てられた問いに答えるために、〔……〕伝承されたものがそれに対する答えとなるであろう問いを再構成しようと試みる」(WM, 379)のである。ここで再構成される問いには、前述した問いが有する第一の特徴のみならず、その第二の特徴、すなわちそれが「意味」・「方向感覚」を持つということが活かされている。ガダマーはこの問いが持つ意味を、「答えがそこにおいてのみ提出されることができるような方向」(WM, 368)であるとさらに詳細に定義する。すなわち、われわれは、テクストで述べられていることおよびその内容を答えとして予期するといった仕方で、このテクストがそのもとで答えとして提出されることが可能であるような方向性を、このテクストそのものから取ってきて再構成しているのである。この「テクストの内容を答えとして予期する」ということには、他ならぬ「完全性の先行把握」が働いている16。
しかし、ガダマーはこれに留まらず、この問いが持つ意味の方向性という側面に、さらに問いの第一の特徴、すなわち「未決定の状態に置き」、「宙に浮かせる」という機能を再び活かし出そうとしている。ガダマーによると、「問われている事柄 das Gefragte をその疑わしさに関して in seiner Fraglichkeit 開示する offenlegen ことが、問うことの本質を構成している」(WM, 369)。この記述が意味するのは、テクストの内容を答えとして予期すると同時に問いを再構成することは、とりもなおさずテクストとわれわれ解釈者の間に置かれていた事柄がそのままのあり方で妥当するということに関して疑いを向け、その妥当性を未決定の状態に置くことでもある、ということである。ガダマーはこのことを指して、「問いを通じて事柄を破り開くことAufbrechen der Sache」(ebd.) であると述べている。しかし、事柄を破り開き、その妥当性を未決定の状態にすることは、ただいたずらに際限なく行われるものなのではない。それは、疑わしいものに対して「決定している諸前提を明確に定めること」(ebd.)を含んでおり、「問いの地平 Fragehorizontを通じて規定された限界づけUmgrenzung」(ebd.)でもあるのである。すなわち、われわれによって再構成される問いは、事柄がそのままに妥当するということに関して疑いを向けると同時に、すでに決定していてもはや問われる必要のない諸前提を明確に定めることで、かえって真に問われるべき未決性の領域を「意味」として規定するのである。これが、「問いが意味・方向感覚を持つ」ということにおいて真に看取されるべき事態である。このようなある種の「意味の地平Sinnhorizont」(WM, 379)の内部においてこそ、テクストで語られる内容はそれ自身「意味」を持ってくる。テクストとの対話として描き出されたガダマーの考える理解の運動は、テクストがわれわれに問いを立て語りかけてくることに対して、われわれが問いを投げ返すことを通じて新たな地平を獲得し、それに伴ってテクストの意味が新たに活かし出されていく絶えざる営みに他ならない。ここで「絶えざる」と言ったのは、歴史的伝承としてのテクストがわれわれに語りかけてくるだけ「意味の地平」もまた形成されていくのであり、「原理的に完結不可能」(WM, 379)なプロセスが想定されうるからである。
以上、テクストとその解釈者の間で生じている対話の論理構造である「問いと答えの弁証法」がどのようなものであるかについて概観してきた。『真理と方法』の第三部は、この「問いと答えの弁証法」そのものを言語のパースペクティヴのもとに位置づけ直すことからはじまっている。次節では、ここに見られるある種のパースペクティヴの転換の次第について確認したい。
3. 3. テクストの理解に見出される言語性 (Sprachlichkeit)
ガダマーは、『真理と方法』第三部第一節「解釈学的経験の媒体としての言語」において、「解釈学的対象の規定としての言語性」と「解釈学的遂行の規定としての言語性」という二つの規定を提示する。本節では、さしあたりこの両規定のそれぞれを別個に検討するが、最終的にはガダマーが両者を不可分なものとして関係づけていることを確認することで、彼がテクストの理解に見出される言語性のもとで何を意図しているかについて、その全体像を把握することを試みる。
3. 3. 1. 「解釈学的対象の規定としての言語性」
まず、第一の規定「解釈学的対象の規定としての言語性」において、議論の俎上に載せられているのは、テクストなどの文字による伝承に認められる「書記性Schriftlichkeit」である。ガダマーは、「伝承の本質が言語性によって特徴づけられているということが、明らかな仕方でその十全な解釈学的意義を持つようになるのは、伝承が文字による schriftlich ものになるところにおいてである」(WM, 393)と述べている。それでは、書記性にこのような優位性を与えているものは一体何であるのか。管見では、その最たるものは、「意味の領域」に対する構成的機能であることになる。ガダマーは次のように述べている。
書記性が解釈学的現象にとって主要なものであるのは、文字においては、受取人や読者といった特定の宛先と同様に、書き手や著者からの分離が、独自の現存在へともたらされるからである。文字によって固定されたものは、いわばすべての人の眼前で意味の領域 Sphäre des Sinnes へと高められたのであり、読むことのできる者なら誰でも等しくそこに参与することができるのである。(WM, 395f.)
ここでガダマーが言わんとしているのは、書き手・著者の創作過程における心理的契機および特定の読者・受取人といった同時代的文脈から切り離された、テクストないし「文字的なもの das Schriftliche」が持つ自律性である。彼によれば、このような自律性を可能にしているのは、書記性が「意味の理念性」を保持しているという事態である。
「書記化できるということは、語ること Sprechen そのものが、その語ることにおいて伝達されている意味の純粋な理念性 Idealität に参与しているということに基づいている」(WM, 396.) という記述が見られる。ガダマーの立場は、あくまで「語り Rede, Sprechen」 こそが「本来的な言語」(ebd.) であるということを前提しているのであるが、彼は語りによる音声言語を中心に据えつつも、音声言語と書記言語との間に連続性を考えているのである。そして、この連続性を実現しているのが「意味の理念性」である。つまり、ガダマーは、音声言語は必ずしも「意味の理念性」に関与せずとも存在しうるが、書記言語が存在するためには不可避的な仕方でこの理念性の媒介が要請されると考えていることになる。「意味の理念性」は、なるほど書記性に固有のものではないが、それの存立条件となっているのである。書記性は、「意味の理念性」が伝達されているような状態にある語りを固定し、抽象化することで、当の理念性を保持している。その結果、書記性は「言語の抽象的理念性」(ebd.)であることになり、テクストに向かい合うわれわれもまた、この「意味の理念性」に接近することが可能となるのである。
以上の考察から、著者の心理的契機および特定の時代的文脈に限定されないテクストの自律性は、「意味の理念性」によって担われているものであるとガダマーが考えていることが明らかとなった。彼は、さらに「言葉の理念性 Idealität des Wortesこそは、過去の現存在の遺物につきものであるような有限で移ろいやすいという定めを越えて、あらゆる言語的なものを際立たせる」(WM, 394、強調は本章執筆担当者による) とも述べている。この「言葉の理念性」という表現は、書記性の特権的なあり方を象徴的に言い表しているものとして、理解されることができるであろう。このような書記性に認められる「言葉の理念性」こそが、まさに、テクストがわれわれに立てる問いの「真理要求」をより一層説得的なものにし、「完全性の先行把握」をわれわれが遂行することの一層普遍的な妥当性を与えているのである。このことは、すなわち「問いと答えの弁証法」を通じてテクストの意味が新たに活かし出されることを促進することと軌を一にしている。上の引用で「意味の領域」とされているのは、まさしく、「問いと答えの弁証法によって閉じられた循環 Kreis」(WM, 392.) の過程全体に相当するものである。そうであるとすれば、文字によって固定されたものがこの領域に高められるとされているのも、以上の考察から納得がいくものとなるであろう。言語性に関する第一の規定のもとで見てとられた書記性は、それが有する理念性を通じてテクストの自律性をもたらし、「意味の領域」が「問いと答えの弁証法」を通じて展開されるうえでのまさに構成的な役割を担っているのである。
3. 3. 2. 「解釈学的遂行の規定としての言語性」
この第二の規定のもとで、ガダマーは、理解の対象のみならず、「理解そのものが言語性への或る原理的な関係を持っている」(WM, 399)ということを明らかにしようと試みている。この第二の規定を論じた章の冒頭部分においては、次のように述べられている。
テクストの見解をその事柄に即した内容において表現へともたらすzum Ausdruck bringenことができるためには、われわれはその見解をわれわれの言葉Spracheへと翻訳しなければならない。すなわち、われわれはその〔テクストの〕見解を、その中をわれわれが、語りながらsprechend、語り出す用意ができている状態にありながらaussprachebereit動く、可能な諸見解の全体へと関連づけるのである。(WM, 399.〔〕は本章執筆担当者による。)
くわえて、ガダマーは「遡行的変容 Rückverwandlung 」という術語を用いることで、第一の規定(書記性)との連関をもまた、同時に際立たせている。彼は次のように述べている。
あらゆる文字的なものは、〔…〕ある種の疎外された語りRedeであって、記号を語りや意味へと遡行的に変容するRückverwandlung必要がある。書記性によって、意味にはある種の自己疎外Selbstentfremdungが降りかかっているので、この遡行的変容が真の解釈学的課題として立てられなければならない。(WM, 397)
ここで、上記二つの引用を総合的に読み解いてみたい。なるほど、テクストに見出される書記性は、前述したような優位性を持ってはいるが、そのままの状態ではその優位性が発揮されているとは言い難い。テクストは、あくまで「ある種の疎外された語り」にとどまっているのである。そこで、ガダマーは、「テクストの見解をわれわれの言葉へと翻訳」し、「その中をわれわれが、語りながら、語り出す用意ができている状態にありながら動く、可能な諸見解の全体へと関連づける」必要性を説いている。ここで、われわれは、前述した「問いと答えの弁証法」との連関への明らかな指示があることを読み取らなければならない。それというのも、「われわれの言葉へと翻訳」し、「可能な諸見解の全体へと関連づける」ということは、解釈者がその都度新たに「問いの地平」ならびに「意味の地平」を獲得していくことと相即するからである。そして、まさにこの「意味の地平」の獲得・形成によってこそ、テクストの意味が新たに活かし出されていくことができたのであるから、ここで「意味」へと変容させ、「意味」を自己疎外から取り戻すといった表現がなされているのも理解できるであろう。また、この変容が「遡行的」であり、変容以前に「疎外」状態が前提されているのは、文字こそは「意味の理念性」を固定化・抽象化している当のものであり、それ以前にも、音声言語において「意味の理念性」は想定されるべきものであったからである。そして、まさに「問いと答えの弁証法」は、問いに対してさらに問いを投げ返すような往還関係である以上、それ自身音声言語的なあり方をとっているという点では、文字によって固定される以前の状態と質的な差異はないからである。
以上の議論からわかるように、ガダマーが第二の規定「解釈学的遂行の規定としての言語性」のもとで位置づけようと試みているのは、「意味の地平」のその都度の獲得と不可分な仕方で生じる「遡行的変容」を端緒として展開されていく語りとしての言語性、書記言語をも内なる媒介的・段階的契機として含むような音声言語のあり方である。繰り返すまでもないが、ここに見出されるべきは「問いと答えの弁証法」の変奏としての言語性なのである。事実、ガダマー自身も、「われわれは今や一切の理解の言語性へと向けられているが、われわれは、問いと答えの弁証法において示されたことを、別の側面から新たに言語へともたらす zur Sprache bringen のである」(WM, 400.) と述べている。後年の論文では、この第二の規定としての言語性に、「口頭性 Mündlichkeit」という身分が明確に付与されている17。
3. 3. 3. 普遍的媒体としての言語——言語性に関する二つの規定の統合
以上のことから、ガダマーがテクストの理解において見出される言語性を問題にする際、二つの規定の不可分な連関を捉えているということが見てとられた。これは、書記性と口頭性の不可分な連関と言い換えることもできる。しかし、以上の考察が明らかにした両者の連関の仕方は、書記性がひとつの媒介的な契機として口頭性の次元に組み込まれることで、「問いと答えの弁証法」を通じた「意味の領域」の展開に活かし出されていくというものであった。それゆえ、巨視的に捉えるならば、「意味の領域」の展開を不断に担っていくような口頭性の次元をガダマーは全体として考えているということになる18。彼は、「言語は、そのなかで理解そのものが遂行される普遍的媒体das universale Mediumである」(WM, 392)とする提言をしているのであるが、管見の限りでは、この「普遍的媒体」が意味するところもまた、不断に続いていくような口頭性の次元の全体に対応するものとして理解されなければならない。そこで、次に問題となるのが、この口頭性の次元の全体において「普遍的媒体」として機能している言語そのものを、その存在論的構造に関して明らかにすることである。ガダマーは、このことを「思弁的なもの」という概念を手掛かりにすることで行っている。
3. 4. 「思弁的なもの」としての言語
ガダマーは、『真理と方法』第三部第三節「解釈学的存在論の地平としての言語」において、言語に関する新たな規定を取り出してくる。それは、「中間・中心Mitte」という規定である。彼は、「言語という中間・中心から考えられる弁証法があるvorliegen」(WM, 469)と述べたうえで、これを「解釈学的弁証法」(ebd.)であるとしている。そして、この「解釈学的弁証法」とプラトンやヘーゲルなどの「形而上学的弁証法」との共通点を「思弁的なものdas Spekulative」(ebd.)と呼んでいる。本節では、紙幅の都合上、両弁証法を比較対照することには従事せず、ガダマーが「思弁的なもの」という概念のもとに見てとっている基本的なモチーフを確認し、言語が「中間・中心」という身分を付与される所以、およびそこに見出される「解釈学的弁証法」について、概略的に提示することを試みる。
ガダマーは、第一に、この「思弁的なもの」の意味するところをその語義に従って分析している。彼は、トマス・アクィナスの『神学大全』を参照しつつ、それがラテン語で鏡を意味するspeculumに由来することを明らかにする(WM, 469. Anm. 106)19ことで、さしあたりそこに反映の関係を指摘している。それは、「池に映る城」という例を用いて、以下のような仕方でなされている。
思弁的とはここでは反映する関係を意味している。反映することは、ある絶えざる交替である。何かがある別のものにおいて反映しているということは、およそ池に映る城のように、池が城の像を投げ返すことを意味する。鏡像は、観察者という中間によって光景そのものと本質的に結びついている。鏡像は、それだけではいかなる存在も持たないが、光景そのものを現象させる現象・見かけ Erscheinung のようなものなのである。それはまた、或る二重化Verdoppelungのようであるが、ひとつのものが現実存在していること Existenz von einem にすぎない。(WM,469f.)
この引用からわかるように、「池に映る城」は鏡像であって、「城そのもの」とは確かに別のものである。他方で、「池に映る城」は、「それ自体ではいかなる存在も持たず、〔……〕光景そのものを鏡像という仕方で現出させる」と述べられているように、「城そのもの」と不可分に結びついてもいる。別言すれば、「池に映る城」という鏡像に見出されるのは、「城そのもの」が反映的な仕方で現出しているという事態に他ならない。それゆえ、この比喩を用いることによるガダマーの狙いは、実は、反映関係そのものを主題化することに尽くされるわけではないと言える。そうではなくて、彼がより一層重点を置いているのはむしろ、この反映関係を通じた光景(=「城そのもの」)と鏡像(=「池に映る城」)との間の不可分な結びつきであり、この反映関係にあって光景そのものが鏡像として現出し、また「現実存在している」というあり方なのである。このようなあり方に関して、ガダマーは、「存在すること」と「現出すること」の区別をそれ自身のうちに内包しつつも、「まさにいかなる区別というべきものでもないような区別」であるとし、「思弁的一体性・統一性 spekulative Einheit」であると述べている (WM, 479.)。
このような「思弁的一体性」にどこまでも纏綿されているのが、ガダマーにとっては、「中間・中心」としての言語の位相なのである。そして、そこには不可分な仕方で「言葉の弁証法」が見てとられなければならないという。この位相に関して、端的な仕方で述べられている箇所があるので引用する。
言葉の弁証法が、それぞれの言葉に多重化 Vielfachung のための内的な次元を割り当てる。つまり、それぞれの言葉はあたかも或る中間・中心から突如として現れ出るかのようであって、或る全体との連関を持っている。そして、この全体を通じて、それぞれの言葉ははじめて言葉であることができる。〔……〕それぞれの言葉は、全体の瞬間の出来事として、述べられざること das Ungesagte をも共に現に存在させているのであって、この述べられざることにそれぞれの言葉は応答しつつ合図を送りつつ関わっているのである。〔……〕人間の語り Sprechen はすべて有限なのであるが、その語りには展開されて解釈されるべき意味の無限性があてがわれている。(WM, 462.)
さしあたり目につくのは、それぞれの言葉がそれだけで独立した存在を持つというのではなく、全体との連関が強調されているということである。そして、全体と連関を持つことと軌を一にして、その都度の有限な言葉に「述べられざること」が共に現に存在することになるとされている。さらには、この「述べられざること」は単にそこにあてがわれているのではなく、「多重化Vielfachungのための内的次元」として、「展開され解釈されるべき意味の無限性」としてあてがわれているのである。このことからわかるのは、それぞれの言葉は、述べられざる内的次元を伴うことによって全体との連関を保持しつつ現れ出るがゆえに、この全体との「思弁的一体性」において考えられているということである。しかし、それは、そこで完結しうるような一度きりの一体性なのではなく、当の内的次元のために、別様な一体性の実現へとさらなる運動を展開していく可能性を内包しているものなのである20。こうして、「言葉の弁証法」が惹起されていくことになる。ガダマーが「中間・中心」として言語を規定するとき、そこには、「述べられること」と「述べられざること」とを共に含む全体としての中間的位相という含意が少なからず認められるのであって21、このようなあり方からして不可避的に、「解釈学的弁証法」が「言葉の弁証法」として展開されることになるのである。
ところで、ガダマーにとってこのような全体が何であるのかと言えば、それは理解において問題になっている「事柄そのもの」(=意味の全体)である。すなわち、その都度の解釈の言葉は、この「事柄そのもの」を完全な仕方で映し出すことはできないが、それとの「思弁的一体性」は保持しており、このことを通じて、事柄に関して更なる別様な理解・解釈が新たな言葉において生じていく可能性が担保されているのである。しかし、ガダマーは、このようなその都度の言葉における事柄の反映的現出に関して、「事柄そのものが言語へと到ることdas Zur-sprache-kommen der Sache selbst」(WM, 384)というような表現を採用しており、われわれ解釈者の意のままにならないような理解及び言語の出来事的性格を強調している。さらには、「解釈学的弁証法」に関して、古代弁証法との連関を考慮に入れつつ、ヘーゲルに見られる術語に従って、「事柄そのものの働き Tun der Sache selbst」(WM, 468)によるものであると述べている22。このような「事柄そのもの」に付与されるある種の主体性を、自らの体系のうちでしかと位置づけるために、ガダマーは「思弁的なもの」の問題圏をさらに敷衍させる必要があった。そこで要請されたのが、「美の形而上学」というモデルである。
3. 5. 美の形而上学というモデル——解釈学の普遍的位相
前節では、「思弁的一体性」に端を発して、「述べられること」と「述べられざること」を共に含む全体としての言語という中間的位相、およびそこに不可分な仕方で認められる「言葉の弁証法」というあり方を見届けた。ガダマーは、この「思弁的一体性」という存在構成に依然として立脚しつつ、『真理と方法』の最終章において「或る形而上学的概念」との近接性に言及する(Vgl. WM, 481)。それは、「美の概念」(ebd.)である。
それでは、ガダマーは美の優位性をいかなる点に見出したのであろうか。彼がプラトンを引き合いに出して述べるところによれば、「善に対する美の際立った特徴というのは、美が自らをそれ自身のほうから表現し、自らをその存在において直接的にはっきりと理解できるようにするeinleuchtend machen」(WM, 485)という点にある。美は、「イデアと現象の間の媒介という存在論的機能」(ebd.)を持つがゆえに、「美のイデアは、美しいもののうちに、分たれることなく完全に、真なる仕方で現前している」(ebd.)のである。
ガダマーは、さらに、この美が有する「自己表現 Sichdarstellen」および「輝き出てくることHervorscheinen」(WM, 486)という優位を、「光の存在様式」(ebd.)と結びつけて考えている。「光は、それが照らすものの明るさなのではなく、他のものを見えるようにすることによって、それ自身見えるようになっている」(ebd.)のである。さらに、ガダマーは、この光によって、目に見えるもののみならず、「可知的なものの領域も分節される」(ebd.)ということを、プラトンや新プラトン主義の「光の形而上学」、およびアウグスティヌスの『創世記註解』等に依拠する仕方で提示する。そして、ここから、「美しいものが現出することVorscheinと理解可能なものがはっきりとわかることdas Einleuchtendeとの間の密接な関連性」(WM, 487)が指摘されるのである。ここに至って、ガダマーは、「事柄そのものが言語へと到る」という理解および言語の存在様式と、それ自身で現象することでイデアと現象との間の媒介を果たすという美の「自己表現」というあり方を、「出来事(性起)的性格 Ereignischarakter」(WM, 488)という共通項のもとに明確に結びつけることを企てているのである。
ところで、この美に特徴的な「自己表現」というあり方は、『真理と方法』第一部においてガダマーが芸術作品の存在論を展開した際に、他ならぬ「遊びSpiel」の本質的特徴として提示されたものであった23。理解および言語の出来事的性格が、美の存在様式との親近性のもとに位置づけられた今、ガダマーはこの「遊び」の概念のもとに、解釈学における真理を見出すことになる。彼は、次のように述べている。
真理が意味するところのものは、ここでもまた、再び遊びの概念から最もよく規定されうる。すなわち、理解においてわれわれに出遭われてくる事物の重みが、いわばどのように働きかけてくる sich ausspielen のかということは、それ自身言語的な過程であり、いわば思いなされていることの周りを戯れる umspielen 諸々の言葉との遊びなのである。(WM, 493)
このような「言語の遊び sprachliche Spiele 」(ebd.)について語るとき、ガダマーは、遊びの主体が遊ぶ者やその意識であるのではなく、遊びそのものであるということを改めて思い起こさせている。本来的な理解においては、われわれが言語やそれが語り出す内容と遊ぶのではなく、言語そのものが、「われわれに語りかけ、提案しては撤回し、問い、答えにおいてそれ自身満たされる」(WM, 494)といった仕方で、遊んでいるのである。前述したように、「事柄そのもの」はどこまでも言語という中間的位相に纏綿されているから、この言語の遊びは、前節の最後に提示した「事柄そのもの」の主体性をも含意している24。当のわれわれの方は、理解する者として、この「真理の出来事 Wahrheitsgeschehen」(ebd.)としての言語の遊びに取り込まれるというのが、『真理と方法』におけるガダマーの結論である。対話から出発し、「思弁的なもの」という契機を経てきた言語をめぐる思索は、その終着点において、再び「遊び」のもとに行き着いたのである。
3. 6. おわりに
本章は、『真理と方法』第三部の題目になっている「解釈学の存在論的転回」に焦点を当てたうえで、この「転回」が二重の意味を統一的に遂行している点を指摘することから出発した。そして、ガダマーの述べるところに従い、対話と言語との不可分な連関を重要な参照軸としたうえで、最初に「問いと答えの弁証法」というテクストの理解に見られる対話の論理構造の概要を提示した。次いで、この「問いと答えの弁証法」を言語のパースペクティヴから位置づけ直した。さらに、「思弁的なもの」という言語に関する規定を検討することで、言語そのものの存在論的構造を明らかにした。そして最後に、理解および言語の存在様式が美の形而上学と接近する地点を指摘し、そこにおいて、『真理と方法』第一部からして重要な契機であった「遊び」が、「言語の遊び」として解釈学的な真理のもとで再び取り戻されたことを見た。
ところで、本章の一連の議論は、対話から出発してそれに先立つ部分を受け継ぐ仕方で展開された。つまり、「われわれ自身であるところの対話から、言語という暗がりへと接近すること」を順次試みていった結果、最終的にその暗がりは、「言語の遊び」のもとに照射されることとなったのである。ガダマーは、『真理と方法』においては明言することはないが、論文「人間と言語」(1966)において、「いかなる対話の遂行形式も〔…〕、遊びの概念から記述されうる」(GW2, 151)と述べている。ガダマーにとって、「言語の遊び」は、テクストとの対話から、人間同士の対話、「一般に理解が向けられうるもの」の理解、およびそれに伴われる「思考」25に至るまで、あらゆる対話を統べている「真理の出来事」なのである。このことを指摘することで、「解釈学の存在論的転回」の第一の側面であるガダマー解釈学の射程の包括性の提示に関する示唆を与えつつ、結びとしたい26。
結
本稿全体において、われわれはガダマーの『真理と方法』での各部の議論を都度参照し、各々の見地からの考証を提示した。『真理と方法』という作品は、またガダマーの思想体系は、いかに広範なトピックについて豊かな議論を展開していたか。ここまでの議論を追ったことで、このガダマー解釈学の途方も無い奥行きの深さが、本稿の読者には容易に推測できることと思われる。
「『真理と方法』とはこのような著作である」「『真理と方法』はこのようなことが書かれている」といった説明は非常に困難である。これは、他の哲学的著作についてはこのような説明が容易であるということを決して意味しない。しかし、その問題設定、議論の意義、また射程の広さから、『真理と方法』にはこの類の困難さにおいて固有のものが存しているように、われわれには感じられるのである。「『真理と方法』とはいったいどのような書物か」という「問い」に対する、本稿に寄与した三者三様の「答え」の一端が、各節には顕わとなっていたであろう。これから『真理と方法』の読解にあたる、すなわち『真理と方法』に対峙する読者においては、個々の読者自身の「地平」からこの書物にあたる際の一つの、いや三つの「方向づけ」が、本稿での一連の議論によってなされることを期待する。
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本稿ではガダマーからの引用・参照を Gesammelte Werkeから行い、GWと略記した上で巻数、頁数をそれぞれアラビア数字で示す。また『真理と方法 Wahrheit und Methode』のみWMと略記し、引用・参照時にはGWの頁数を示す。また、全集に未収録のテキストから引用する場合は、その都度註記する。また強調について、特に断りのない場合はガダマーによるものであるが、各章執筆担当者によるものの場合は都度その旨を記載した。訳出については、既訳も参照したうえで、とくに断りのないかぎり訳は各章執筆担当者によるものである。
第一部(本稿第一章)を土方が、第二部(本稿第二章)を下山が、第三部(本稿第三章)を川村がそれぞれ担当する。
ここで「中間的」とした「medial」という語は、ギリシア語文法における中動態を含意するものとして「中動態的」と訳すこともできる。そのように捉えるならば、主体が行なった何らかの行為が自分自身の状況そのものに還元される事態、すなわち行為の主体がその過程のさなかにあることを示しているとも考えられる。ただし本稿では、「遊び」の媒介的性格をより強調するために「中間的」という訳語を採用した。
ガダマーは「遊び」概念の考察をはじめるにあたって、「Spiel」というドイツ語の多義性から言語学的な分析をはじめている。そこでは「遊び」に三つの段階が示されている。第一に、波や光の動きや戯れといった「自然」の遊び、第二に、ボール遊びやカードゲーム、スポーツ競技などに代表される「人間」の遊び、そして第三に、演技や上演といった「芸術」の遊びである。
「芸術」の遊びとして「Spiel」を捉えるさい、この語は「演技」のほかに「上演」という意味ももちうるため、じっさいには演劇だけにとどまらず、音楽や舞踏などひろく時間芸術を指すものとなっている。
じっさいガダマーは、『真理と方法』以降の晩年にいたってからも、芸術作品の経験様式を「読むこと」から考察した論考をいくつか残している。Vgl. H.-G.Gadamer, Über das Lesen von Bauten und Bildern (1979), GW8, S.331-338. --, Bildkunst und Wortkunst (1994), In: G. Boehm (Hg.), Was ist ein Bild?, S. 90-104.
とりわけ造形芸術の観点から、芸術経験が「読むこと」という解釈学的経験に集約され、形象の豊かな意味経験が言語主義的な解釈学の枠内で意義づけられることへの批判的言及がなされている文献としては、三木順子(2002)(とくに94-99 頁)が挙げられる。
この点にかんしてはウォーンキーも以下のとおり指摘している。Cf. Geogia Warnke, GADAMER: Hermeneutics, Tradition and Reason, Politey Press,Cambridge, 1987, pp. 65-72.
Hermeneutik-Ästhetik-praktische Philosophie; Hans-Georg Gadamer im Gespräch, hrsg. C. Dutt, Heidelberg, Universitätsverlag C. Winter Heidelberg GmbH, 1993, S. 64.
もっとも、『真理と方法』執筆時に定説だったこの説明は、現在では否定されており、誤った理解であることが広く受け入れられている。(Diemer 1974, 211ff.)
ここでの〈先入見の影響を正しく認識すること〉については議論の余地がある。本稿後節で軽く触れるが、紙幅の都合上詳細には立ち入らない。
文系学問の軽視という主題とは少し逸れるが、人文学分野の学問での主な手法たる「質的研究」における客観性・妥当性の議論とガダマー解釈学の接続については、下山(2024)で論じた。
ガダマーが、「精神科学の方法論的基礎づけ」という立場を意識的に相手どっていたことは、次のような記述から明らかである。「われわれの問題設定は、その具体的な出発点であった美的意識および歴史意識に対する批判とそれに取って代わるべき解釈学から、或る普遍的な問いの方向へと拡張した。〔…〕解釈学は、〔…〕哲学の普遍的な位相なのであって、単にいわゆる精神諸科学の方法上の基盤であるのではない。」(WM, 479)
それゆえにガダマーは、「普遍的・存在論的構造」(WM, 478)という表現を用いている。
ここで言われている「働きLeistung」には、フッサールの言ういわゆる超越論的主観性の「働き(能作)」の含意があると考えられる。
本稿第二章第五節を参照。
論文「文字への途上?」(1983)では、「口頭性と書記性との間には、それゆえ、いかなる鋭い分離 Trennung も存在しないのである。両方のあり方で伝承は遂行されるのであって、両方の場合において、そこで伝承が初めて完成されるのは、新たな口頭性においてなのである」(GW7, 261f.)というような仕方で、両者が明確に並置されたうえで、その不可分な連関が提示されている。
この点に関して、書記性をより一層重視しつつ、両規定の統一として「言語性」を捉える小平 (2020) のような示唆に富んだ解釈も見られる。小平は、言語性の第一の規定に関して、「理解の生起そのものを可能とする超越論的地平である」(小平 2020, 178.) と述べている。そして第二の規定に関しては、「理解の事実的な遂行過程そのものを経験世界内部において構成する現実性である」(同上)としている。さらに、それだけではなく、「解釈可能性そのものを開示することが理解の現実的遂行のうちに含まれている」(小平2020, 180.) 点についても指摘している。最終的に、これらの考察から、「言語性」が「理解の可能性と現実性との循環的媒介」(同上) をなすような自己運動として解釈されている。
すでに、『真理と方法』第三部第二節「西洋思想史を通じた〈言語〉概念の刻印」においても、トマスが発見した輝かしい比喩として、「言葉は、そこにおいて事柄が見られる鏡のようなものなのである」(WM, 429)という記述が見られる。
論文「言語と理解」(1970)においても、この述べられざる内的次元は、「語りRedeにおいて存している喚起する力 Evokationskraftを成す」とされており、また「さらなる語り Weitersprechen の開け Offene へと指示する」ものであると述べられていて、それが有する機能がより明示的な仕方で打ち出されている(GW2, 197f.)。
言語が何と何との間の中間であり、ないしは何の中心であるかについては、ガダマー解釈学をどの視角から論じるかによって、様々に言い表すことができるが、本稿の当該箇所では、言語の存在論的構造を問う便宜上、「述べられること」と「述べられざること」との中間とした。
「事柄の働き Tun der Sache」という表現が、ヘーゲル『論理学』客観的論理学第二巻本質論第3章「根拠」C.「条件」に見出される (Vgl. Hegel GW11, 319.)。
「遊びとは、或る際立った意味において自己表現である」(WM, 113)。
ガダマーは、論文「理解と言語」(1971)や「ヘーゲル論理学の理念」(1971)において、ハイデガーの術語を援用しつつ、言語そのものが「開蔵Entbergung」と「保蔵Bergung」という二重の動性を有している旨を主張しており(Vgl. GW2, 198. GW3, 83.)、「事柄そのもの」がその都度の解釈の言葉において完全な仕方で現出することはなく、述べられざる内的次元を伴う思弁的一体性が考えられうる所以を説得的に提示しようと試みていると考えられる。
ガダマーは、思考のモデルとしてプラトンの『ソピステス』における「魂の自己自身との対話」を挙げ、そこに、「自らに言うSichsagen」という仕方で「内なる言葉」を紡ぎ、はたまたそれを「内なる耳」でもって聴くというある種の「内的な対話」を見出している。彼は、このモデルを非常に好んで用いている。Vgl. WM, 184, 411, 425, 426; GW2, 152, 184, 200, 201, 204; GW3, 68, 69; GW7, 263, 269 u. ö.
「存在とは言語、すなわち、自己表現 Sichdarstellenである」(WM, 490.) 等の記述は、「言語の遊び」が有する射程の包括性を端的に言い表していると考えられる。