2024 Volume 65 Issue 1 Pages 2-28
バチカンと中国は2000年代に入ってから,外交関係樹立へ向けた協議を非公式に,断続的に続けてきた。その間には,2018年に両国間で合意したとされる,中国国内でのカトリック教会の活動に関する「暫定合意」に象徴されるように,進展の動きもみられた。だが,現実には両国間の外交関係樹立は実現していない。その背景には,カトリック教会およびローマ教皇庁と一体の存在としての前者と,無神論的価値観に基づく宗教政策を推進している後者のあいだでの,宗教の位置づけをめぐる認識の相違が影響を及ぼしている。加えて,習近平指導部が掲げる「宗教の中国化」も,この問題をより複雑なものとしている。このような状況のもと,バチカンによる対中政策は,「カテキズム」の内容に象徴される,カトリック教会の宗教的規範とそれに基づく伝統を「原則」とした上で,それらと合致する範囲での「一致」の実現を模索することを軸として,展開されている。
The Vatican and China have engaged in informal and intermittent negotiations aimed at establishing diplomatic relations since the early 2000s, with occasional progress, including “the provisional agreement,” which covers the Catholic Church’s religious activities in China. However, formal diplomatic relations between the Vatican and China have yet to be established. The reason why is thought to be related to differences in perception regarding religion between the Vatican, which is considered one and the same with the Catholic Church and the Holy See (Roman Curia, Curia Romana), and China, whose religious policy is based on atheism. In addition, “the Chinization of religion” (Zongjiao zhongguo hua), a new religious policy promoted by president Xi Jinping, makes the situation more complicated and difficult. Under these circumstances, the Vatican strives to advance their diplomatic policy regarding China based on “principle” and “consensus.” The former encompasses the ideas symbolized in the Catechism as the religious and traditional norms of the Catholic Church, while the latter is aimed at realizing a common understanding that accommodates the religious and traditional norms of the Catholic Church.
はじめに
Ⅰ 「原則」と「一致」をめぐって――バチカン・中国双方の立場から――
Ⅱ 中国におけるカトリック教会
Ⅲ バチカン・ローマ教皇庁の対中姿勢の変遷――「原則」と「一致」のあいだで――
おわりに――「原則」と「一致」,そして「暫定合意」のゆくえ――
バチカン市国(以下「バチカン」)と中国のあいだでは2000年前後から,外交関係の樹立へ向けた非公式な接触が断続的に続いている。その間,両国間では2018年に成立したとされる,司教の叙階(任命)を中心とした中国のカトリック教会の活動に関する2年間の「暫定合意」の達成などの動きもみられた(注1)。その後,同合意は正式の合意と外交関係の樹立へと発展しないまま,満期を迎えた2020年10月段階でさらに2022年10月まで「延長」され,今日に至っている。このように,両国間の外交関係樹立をめぐる動きには事実上,何らの進展もみられないのが現状である。
その背景に,当事者の一方であるバチカンが2000年の歴史と13億2000万人(注2)の信徒を有するカトリックという世界宗教と,その総本山としてのローマ教皇庁と事実上不可分であることに起因する特殊性が存在していることは,いうまでもないであろう。一方,中国は憲法で「宗教信仰の自由」の保障を標榜しつつも(注3),無神論的価値観を理論的支柱とする社会主義国家として,実際の宗教政策においてはキリスト教を含む宗教組織の活動を著しく制限している。たとえば,1957年に中国政府公認の「カトリック教会」として成立した「中国天主教友愛国会」(1962年1月に「中国天主教愛国会」に改称。以下「愛国会」)は「カトリック教会」の名称を冠し,ローマ教皇との関係についても「教皇に服従する」(注4)との立場をとっているが,実際には教皇を頂点とするカトリック教会の位階制と断絶したかたちで存在し続けている。このような状況もあり,両国の外交関係樹立をめぐる問題は,他国の事例とは異なる性格を帯びたものとなっている。加えて,2012年末に成立した習近平指導部が2015年に「宗教の中国化」を打ち出して以降激化している,「愛国会」を含む宗教団体への統制強化も,新たな火種となりつつある。
このように,バチカンと中国の外交関係樹立をめぐっては,中国におけるカトリック教会の活動にかかわる問題が,台湾とバチカンとの外交関係継続の是非と並ぶ最大の懸案事項となっているといってよいであろう。そして,それが単に外交上の駆け引きといった次元にとどまるものではなく,カトリック教会とローマ教皇庁の信仰,伝統という本質的価値観への堅持という姿勢に基づくものであることは,先述の「暫定合意」をめぐる経緯からも読み取れるであろう。たとえば,「暫定合意」における司教の任命をめぐる内容は後述するように,伝統的に教皇権と不可分かつ不可侵の権限と位置づけられてきた。さらに,カトリック教会の位階制に属する司祭,修道者は教皇とのあいだで,組織,教義等のカトリック教会の伝統と「原則」にかかわる部分での「一致」を保つことが事実上の義務とされてきた。この意味において,「原則」と「一致」は事実上,表裏一体の関係にあるといえよう。以上の点をふまえた場合,バチカンの「原則」としてのカトリック教会の教義や伝統的価値観に関する理解が,バチカンと中国の関係を検討する上で重要な要素となると考えられるのである。
それらのなかでもとくに重要と思われるのが「カテキズム(Catechism)」である。カテキズムは「教理問答」などと訳され,「カトリック教会の教えの内容」(注5)と同一のものと位置づけられる。このような定義をふまえた場合,カテキズムはカトリック教会の宗教的規範そのものであり,教会にかかわる問題の指針となる「原則」であるといえよう。そして,カトリック教会が外部との接触において自らの伝統と信仰を堅持する必要性を迫られるとき,それらは外部との関係性を規定する「原則」となるのである。これをバチカンと中国の外交関係に当てはめるなら,カテキズムの内容がバチカンの対中政策における「原則」としての性格を有することが,容易に明らかになるであろう。ここに,カテキズムに着目する意義が存在している。しかし,これまでのところ,バチカンと中国の関係についてカテキズムとの関連性から論じられることは,少なくとも日本での現代中国研究においてはほぼ,なかったといってよい。その理由としては,両者がその性格において完全に異なる領域に属する事象であることに加え,研究対象としてのカテキズムの特殊性が少なからぬ影響を及ぼしていると考えられる。中華人民共和国におけるキリスト教の状況をめぐる数少ない論考としては,松谷曄介のものが挙げられる。ただ,松谷の論考はプロテスタント教会の事例をおもな関心としており,カトリック教会については補足的な位置づけとなっている[松谷 2021, 191-231]。一方,バチカンと近現代の国際政治とのかかわりをめぐる研究に目を転じると,松本佐保がバチカンと近現代の世俗の国家権力との関係についての著書において,バチカンが世俗の国家権力との関係性を構築する過程について考察している。松本はそのなかで,バチカンと冷戦体制下のソ連・東欧諸国との関係についても検討しているが,カテキズムとの関係については関心の対象とはしていない。また,松本の論考はおもにバチカンと欧米諸国および冷戦体制下のソ連・東欧の関係に重点がおかれているため,中国に関する言及は全体を通して五行程度の記述にとどまっている[松本 2013]。
日本国外での研究については,中華人民共和国の成立以降のカトリック教会に関するMyers[1991],「愛国会」を含むカトリック教会と共産党政権の関係について,「宗教の中国化」をめぐる前者の対応に着目し検討したRychetska[2020],「暫定合意」に象徴される中国政府とカトリック教会の関係をフランス革命期,とくにナポレオンと教皇の関係と対比したvon Arx[2018]やRespenti[2019]のものが挙げられる。Myersは「愛国会」の成立の経緯や「愛国会」による司教の叙階等をめぐる問題について,カトリック教会の宗教的価値観をふまえて論じているが,カテキズムの内容などに基づいた検討はしていない。また,Myersは共産主義をめぐるローマ教皇庁の文書や,本稿でとりあげる教皇ヨハネ23世(Pope, John XXⅢ(教皇在位:1958~1963))と教皇パウロ6世(Pope, Paul Ⅵ(教皇在位:1963~1978))の対中姿勢については,一切言及していない[Myers 1991]。Rychetskaは「宗教の中国化」という新たな政策下での中国のカトリック教会と共産党政権の関係について,聖職者や信徒への聞き取りをもとに考察している[Rychetska 2020]。ただ,RychetskaもMyersと同様,両者の関係性をめぐってカテキズムが及ぼしている影響については検討の対象としていない。von ArxとRespentiも同様である。
それに対して,Lynchはバチカンと中国の関係正常化をめぐる双方の論理について論じた際,カトリック教会の「第2バチカン公会議」(1962~1965)で採択された「信教の自由に関する宣言(Digitatis humanae)」[第2バチカン公会議文書公式訳改訂特別委員会 2013, 465-485]と,1982年に採択された「中華人民共和国憲法」第36条における「宗教の自由」の概念を対比している[Lynch 2014]。Weigelも同様の関心から,「暫定合意」をめぐる問題についてカトリック教会の「教会法(Canon)」と,第2バチカン公会議文書の1つである「教会における司教の司牧任務に関する教令(Christus dominus)」[第2バチカン公会議文書公式訳改訂特別委員会 2013, 277-315]における論理をふまえ,その是非を論じている[Weigel 2016]。これらはバチカンと中国の関係をカトリック教会の公文書に依拠し,カトリック教会の論理を軸に着目した点に特徴があるが,バチカンの対中関係におけるカテキズムの影響についての分析は十分とは言い難い。
一方,この問題についてのカトリック教会の立場からの研究としては,松隈による,現代中国におけるカトリック教会の歴史に関する論考が挙げられる[松隈 2008]。ただ,松隈の論考は2007年までの動向を対象としていることに加え,ローマ教皇庁の対中政策とカテキズムの関係については論じていない。その理由としては,松隈の論考がカトリック教会の刊行物という,カトリック教会の関係者をおもな読者として想定した媒体に発表されたことが大いに関係していると考えられる。このように,バチカン,ローマ教皇庁そしてカトリック教会と中国の関係をめぐる研究において,カテキズムが関心の対象とされることはほぼ,なかったといってよい。だが,「国家」あるいは外交主体としてのバチカンと宗教組織としてのカトリック教会,ローマ教皇庁の不可分性に着目した場合,カテキズムの文言に示される「原則」,さらに「一致」という概念への理解は,バチカンと中国の関係性をめぐる問題を考察する上で一定の意義を有するであろう。
本稿ではこれらの点をふまえ,カトリック教会,ローマ教皇庁の「原則」の指針としてのカテキズムに加え,第2バチカン公会議において正式に承認された文書のなかから,バチカンと中国の関係をめぐる問題と関連する項目をとりあげ,その特徴について検討する。その上で,それらがバチカンと中国の外交関係の展開に及ぼす影響について,「原則」と「一致」という概念を軸に考察する。それにより,バチカン,ローマ教皇庁およびカトリック教会と中国の関係についての新たな知見を提示することを,本稿の目的とする。
カテキズムの性格を考えた場合,その内容には本来,外交問題に直接的にかかわる部分は存在しないといってよい。しかし先述のごとく,バチカンとローマ教皇庁,カトリック教会は事実上一体の,不可分の存在であるがゆえに,カテキズムはバチカンと中国の外交関係をめぐる指針としての性格をも有することとなるのである。とくに,教皇権をめぐる内容はカトリック教会の2000年の歴史の上に成り立つ「原則」であることに加え,中国との外交関係樹立における懸案事項としての司教の叙階,さらに教皇庁と「愛国会」の関係性にもかかわる点において,バチカンにとって譲歩し得ない「原則」であるといえる。ここに,教皇と司教の関係が対中関係における第1の「原則」となる。同様に,教皇庁と「部分教会」,すなわち世界各地のカトリック教会の「教区」との関係をめぐるカテキズムの記述も,「愛国会」への対応の指針としての性格を含んでいるといえる。その点において,その内容は第2の「原則」とみなし得る。また,中国がカトリック教会の価値観と根本的に相容れない無神論を国家統治の理念の柱と位置づけ,かつ習近平体制下で「宗教の中国化」が加速している現状にあっては,無神論的価値観を掲げる国家との関係性についていかなる整合性を見出すかが,重要な意味をもってくるであろう。これにより,「無神論的共産主義」をめぐるカテキズムやカトリック教会の公式見解が,バチカンと中国の外交関係をめぐる第3の「原則」としての位置づけを有することになるのである。そこで,以下の部分ではこの点について,カテキズムにおける記述をふまえながら検討する。それにより,本稿の問題設定としての「原則」と「一致」についての筆者の理解を示すこととする。
2. ローマ教皇と司教,「普遍教会」と「部分教会」をめぐってカテキズムにおいては,ローマ教皇は「ローマの司教,ペトロの後継者」であり,「司教たちの一致と信者の大きな群れとの一致の,永久にみえる源泉であり基礎」とされる[日本カトリック司教協議会 2002, 274]。このような「一致」を前提として,「ペトロの後継者と彼と交わりのある諸司教によって治められる」[日本カトリック司教協議会 2002, 255]ことが,カトリック教会の特質であるといえる。そして,カトリック教会の位階制において,教皇と司教団の関係は「ペトロの後継者たるローマ教皇がその頭としてともに考えられるのでなければ,権威をもつこと」はなく,後者の宗教的権能も「ローマ教皇が同意するときだけにしか」行使できない[日本カトリック司教協議会 2002, 291]。また,司教の任命は「司教を任命し立てる権利は権限のある教会権威者の固有,独自かつそれ自体排他的なもの」と位置づけられる[第2バチカン公会議文書公式訳改訂特別委員会 2013, 291]。ここに,教皇を頂点とするカトリック教会の位階制と,それに基づく教皇の権能に対する聖職者および信徒の承認と受容こそが,カテキズムにおける「原則」であることが示される。そして,聖職者および信徒がカトリック教会における「原則」として受容するとき,教皇との「一致」が実現することとなるのである。
この「原則」と「一致」はまた,教皇を頂点としたローマ教区,すなわち教皇庁と世界各地に存在するカトリックの「部分教会」としての「教区」(注6)の関係性をも規定する。司教は各地の「教区」の責任者として,「キリスト信者の共同体」である「部分教会」と,カトリック教会において「より優れた起源をもつ」ローマ教会すなわちバチカン,そしてローマ教皇を結びつける存在とされる。そして,「部分教会」に対するローマ教会の優越性という前提に基づき,「各教会,すなわち,全世界の全ての信者は,当然,この教会と一致していなければなりません」という「原則」が,ローマ教会と「部分教会」の関係の基礎とされる[日本カトリック司教協議会 2002, 261]。この関係性を基盤とした教皇と司教,教区,信徒の結びつきの性格を表現する概念こそが,「一致」であるといえよう。それがカトリック教会の伝統に由来する「原則」と不可分の関係をなしている点に,その特徴が存在している。そして,この「原則」と合致しない関係性がローマ教皇と司教団のあいだに出現した場合,後者の権能は「ローマ教皇がその頭としてともに考えられるのでなければ,権威をもつことはあり得ない」がゆえに,「一致」とは相容れないものとなる[日本カトリック司教協議会 2002, 274]。換言すれば,教皇庁と部分教会との関係性を規定する「原則」が両者のあいだで保たれ,かつ後者がそれに基づく教皇の権能を受け入れるとき,両者のあいだには「一致」が出現することになる。逆にいえば,この「原則」が何らかの理由で保たれない場合,両者間には「一致」は出現し得ない。
以上のように,カテキズムにおける「一致」には,カトリック教会内における教皇を頂点とした位階制への受容とそれに基づく組織原則,およびローマ教区を頂点とした普遍教会と部分教会の関係性という二重の性格が含まれているといえよう。そして,両者は事実上不可分の関係をなしているといえる。当然のことながら,中国との関係をめぐっても,この二重性が影響を及ぼすこととなると考えられる。
3. 「無神論的共産主義」と政治体制をめぐって無神論はカテキズムにおいて,「敬神徳」と相容れない価値観と位置づけられる[日本カトリック司教協議会 2002, 628]。教皇ピオ11世(Pope, Pius ⅩⅠ(教皇在位:1922~1939))は回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス(Divini Redemptoris)」(1937)において,「無神論的共産主義」を「キリスト教文明を救いたいと望む者は,いかなる領域においても,これと協力するのを受諾する事ができない」として,拒絶する姿勢を鮮明に打ち出した[教皇ピオ11世 1959, 126]。その後,第二次世界大戦終了後における東西冷戦構造の拡大のなかで共産主義勢力の伸長が顕著なものとなると,ローマ教皇庁はカトリック教会に無神論的共産主義思想が浸透する危険性への警戒感を強めた。1949年7月に教皇庁「検邪聖省(現在の「教理省」)」が教皇ピオ12世(Pope, Pius ⅩⅡ(教皇在位:1939~1958))の承認を受けて発表した「共産主義に関する聖省令」では,カトリック信徒による共産主義者との連携や共産主義への同調,共産党への入党等の行為が,「破門」の対象と規定された[教皇ピオ11世 1959, 155, 156]。
一方,政治体制と教会の関係をめぐっては「教会はいかなる政治体制にも結びついてはならない」との前提のもと,「いつ,どこにおいても,真の自由をもって信仰を説き,社会に関する自らの教えを伝え,人々のあいだにおいて自らの任務を妨げられることなく進行する」ことが教会の「権利」とされる[第2バチカン公会議文書公式訳改訂特別委員会 2013, 686]。この点から,国家権力と教会のあいだには事実上の相互不干渉の原則が生じるとともに,「教会と政治共同体のあいだに起こり得る衝突の回避,もしくは緩和」を目的とした「適切な協定」により,両者間での何らかの不一致が宗教の枠を超えた政治的対立へと発展する可能性の回避が,教会の自立を保障する上で必要とされるのである。とくに,「国家が教会を公然と迫害するところまで教会の活動の自由を妨げ,その活動領域に大胆に踏み込もうとする場合」には,両者間での対立回避をめぐる教会の「経験は常に参考となる」とされる[教皇庁正義と平和協議会 2009, 339]。
4. 表裏一体の関係としての「原則」と「一致」これらの内容をバチカンと中国の関係に当てはめた場合,第1に教皇と「部分教会」の関係,第2に教皇と司教の関係をカトリック教会の「原則」と合致するかたちで解決することが,バチカンにとっての課題となるのである。同様に,「諸部分教会」が「ローマ教会との交わりによって,完全に普遍教会となる」だけでなく,「全世界のすべての信者は当然,この教会と一致していなければならない」という「原則」に基づき,中国のカトリック信徒が司教を通じてローマ教皇と「一致」することも,不可欠となる。
以上の点をふまえた場合,バチカンが中国との外交関係樹立を模索する際には,カテキズムの文言に象徴されるカトリック教会の「原則」を堅持しつつ,「愛国会」とのあいだで「一致」を見出すことが,不可避的な課題となるといえる。逆にいえば,「原則」と「一致」はバチカンにとって譲歩し得ない一線であるといえる。
5. 中国にとっての「原則」中国政府はそれに対し,バチカンとの関係はあくまでも「国家関係」であり,バチカンと台湾の外交関係の断絶を最優先課題と位置づけている。一方,バチカンにとっての関心事である宗教問題に関しては,「国家関係が改善された後に」論じられるものとする立場を堅持し,中国でのカトリック教会の活動に関しても,「中国のカトリック教会が愛国主義の旗幟を高く掲げ,独立自主自弁の教会という方針と,司教を自ら任命することを堅持することを支持する」姿勢を崩していない。そして,中国政府のこのような立場が「中国とバチカンとの関係が改善するかしないかにかかわらず」(注7)という,いわば譲歩の余地のないものとして示されている事実からは,それらがバチカンとの外交関係正常化をめぐる中国の「原則」としての性格を有していることが容易に窺えるのである。ここから,バチカンとの外交関係樹立をめぐる中国の「原則」が明らかになるであろう。それは第1に台湾とバチカンの外交関係断絶であり,第2にバチカンの「原則」に対する実質的な拒絶に他ならない。加えて,2015年以降,習近平指導部により提起されている「宗教の中国化」は,中国にとっての第3の「原則」としての存在感を急速に強めつつある。
以上の点からいえば,中国のこのような「原則」はバチカンとの何らかの妥協ではなく,逆に「原則」をめぐる溝をより深める状況を生み出しているといえる。その上,「宗教の中国化」という新たな「原則」が強調されることにより,双方の「一致」はより困難なものとなっているといえよう。
このような,「原則」をめぐる一種の膠着的状況は,中国でのカトリック教会(注8)の在り方にも大きな影響を及ぼしている。ローマ教皇庁は教皇ヨハネ23世が,中国のカトリック教会が「普遍教会」としてのカトリック教会から分離した状態にはおかれていない,との見解を示して以降(注9),中国には「1つのカトリック教会」のみが存在するとの立場をとっている[松隈 2008]。この点からいえば,教皇庁は中国のカトリック教会を「普遍教会」の一部として,論理上は認めているといえる。反面,教皇庁のかかる認識は多分に抽象的な側面を有しており,ある種の曖昧さは否めないように思われる。
しかし,これらを単に教皇庁,バチカンの対中姿勢における一貫性の欠如の表れとしてのみ理解するなら,そこからは中国との関係をめぐり教皇庁,バチカンが完全に受動的な立場におかれているといったイメージ以上のものは見出せないであろう。換言すれば,まさにこのような一見矛盾した,時に説得力を欠いたようにみえる論理とそれに基づく方針を「原則」と「一致」という観点から再検討した場合,そこからは「原則」と「一致」のあいだで中国との関係構築を模索する教皇庁の姿勢を見出すことが,可能になると思われるのである。以下の部分ではこれらの点をふまえ,中華人民共和国の成立(1949年10月)から本論の作成時点(2022年8月)に至るまでの,教皇庁,バチカンと中国のカトリック教会の関係について概観し,その特質について検討する。
1. 「中国天主教愛国会」(「愛国会」)中華人民共和国の成立以降,中国政府はカトリック教会およびプロテスタント諸教会内部の「愛国人士」の活動への積極的支援という形式により,キリスト教への介入を本格化させた。その目的が事実上,中国国内の教会と海外の影響を遮断した上で,政府の統制下におくことにあったことは,1950年8月に中国共産党中央が発表した「カトリック,プロテスタント問題に関する指示」における,「帝国主義による侵略の道具としての教会を,中国人自身が行う宗教事業に変化させる」(注10)との内容からも明らかであった。これを中国におけるカトリック教会の活動と照らし合わせた場合,ローマ教皇による中国での司教の叙階や,外国人の司祭・修道者による活動が困難になることは,容易に想定し得た。その後,1951年2月に「中華人民共和国懲治反革命条例」(注11)が中央政府により批准されると,「反革命活動」等を口実としたカトリック教会への圧迫が激化することとなった(注12)。同時に,カトリック教会内部では1950年11月,四川省広元県の王良佐(広元天主堂司祭)ら500名が「天主教自立革新運動宣言」を発表し,「国を愛し,人民を愛する立場に基づき,帝国主義との各方面での結びつきを断固として断つ」とする立場を鮮明に打ち出した(注13)。これにより,事実上ローマ教皇庁の指導からの分離を目的とした「革新運動」が,当局の支持を受けるかたちで中国のカトリック教会で急速に拡大し始めた。一方で,このような動きに批判的な司祭,修道者や信徒に対しては,「帝国主義者のスパイ」等の容疑による逮捕が大規模に行われた。たとえば,1955年9月に逮捕されたイグナチオ龔品梅(Ignatius, Kung Pingmei(1901~2000)。イエズス会士,上海教区司教,後の教皇庁枢機卿)の事例はその典型といえよう[中津 2019]。
「革新運動」は1957年7月に中国政府の支持を背景として,「愛国人士」による「中国天主教友愛国会」(以下「愛国会」)の成立により完成した。それに伴い,「愛国会」は「自選自聖」,すなわちローマ教皇の任命によらず,かつ教皇庁の認可を経ない状態での司教の叙階を本格化させた。その際には,「愛国会」主席兼瀋陽教区大司教であったイグナチオ皮漱石(Ignatius, Pi shushih(1897~1978))が1959年7月に行われた姚光裕の北京教区司教への叙階式において,当時のカトリック教会の典礼での使用言語であったラテン語ではなく中国語を用いることにより,「教皇庁による中国の教会に対する干渉」への抵抗を示すという事例も出現した[趙 2012, 113]。その後,1958年から1963年までのあいだにこの方式で「叙階」された司教は50数名であった。そして,これらの叙階により,中国の教会と教皇庁との関係は断たれた[松隈 2008]。「愛国会」は1962年に正式名称を「中国天主教愛国会」へと変更し,「プロレタリア文化大革命(1966~1976,以下「文革」)の終結後,1980年5月には「中国天主教教務委員会」と「中国天主教主教団」の成立を経て,今日に至っている。「愛国会」が管理する教会(小教区)の数は(注14)全国で251カ所,さらに550万人の信徒と7000人余りの聖職者を擁している(注15)。また,「愛国会」の「主教団章程」では,「聖書と聖伝に基づき,一,聖,公にして使徒継承の教会の伝統と第2バチカン公会議の精神によって」(注16)活動するとの理念が掲げられている。これらの内容,とくに「聖書と聖伝に基づき,一,聖,公にして使徒継承の教会の伝統」という部分はカトリック教会の伝統の根幹をなすものである(注17)。カトリックの信仰を堅持する存在としての「愛国会」の自己認識が,ここから窺えるであろう。
「愛国会」はローマ教皇および教皇庁との関係について,1957年7月の「愛国会」成立時に採択された「中国天主教友代表会議決議」(以下「代表会議決議」)における,「信仰と行いという教義において教皇に服従する」との立場を公式には維持している。しかし,それが教皇を頂点とするカトリック教会の位階制との無条件での一致を意味するものではないことは,「代表会議決議」が教皇庁およびローマ教皇との関係について「祖国の利益と独立の尊厳に反しないという前提のもとで」(注18)という,恣意的な解釈が可能な条件をつけている事実からも,明らかである。司教の叙階に関しても,1992年9月に中国天主教第5回代表会議で採択され,2017年2月に改訂された「中国天主教主教団章程」(以下「章程」)において,「中国天主教代表会議」が司教の任命,叙階に関する権限を有するとの規定がなされた(注19)。この内容は,同会議が教皇庁とは無関係に司教候補者を選び,叙階する方針を正式に確認したものといえる。同様に,「章程」における「民政部の業務指導と監督,管理を受ける」(注20)との規定からは,「愛国会」が自らの活動に関して,ローマ教皇庁の指針ではなく国家宗教事務局と民政部の指導の優越を受け入れざるを得ない状況下にある事実が,容易に読み取れる。たとえば,「愛国会」の公式ホームページには,「愛国会」の聖職者による中国共産党史の学習に関する記事が掲載されている(注21)。これらの内容はその性格上,「無神論的共産主義」をめぐるローマ教皇庁,カトリック教会の見解と相容れないものと考えてよいであろう。それにもかかわらず,本来的にキリスト教の信仰と一致しない内容を掲載している点に,「愛国会」がおかれている状況が端的に示されている。
それに対し,教皇庁は「愛国会」のこのような方針を認めない姿勢を堅持している。たとえば,教皇ベネディクト16世(Pope, Benedict ⅩⅥ(教皇在位:2005~2013))は2007年6月の「聖霊降臨の主日」に発表された「中華人民共和国におけるカトリック教会の司教,司祭,奉献生活者,信徒への手紙」において,「国家が設立した,教会の枠組みと無関係の機構が,司教の上に存在し,教会団体の生活を指導することは,カトリックの教義と合致しない」,「聖座から「独立」した教会を設立することは,カトリックの教義と相容れない」として,「愛国会」の存在形式に対して批判的な見解を示した。教皇は「愛国会」による叙階についても,「教皇による任命を受けず」「合法的な身分を獲得していないにもかかわらず叙階を受けた」司教が存在する事例が少なくないと指摘した。教皇はさらに,前述の「章程」に「教会の教義と相容れない要素が含まれている」として,「愛国会」の「天主教主教団」を承認しないとの立場を明確にした[教宗本篤十六世 2007, 8, 9, 11]。このような事情もあり,教皇庁はこの司教団を認めていない[松隈 2008]。
2. 「忠貞教会」(「地下教会」)「忠貞教会」(「地下教会」)は「愛国会」に批判的な立場をとり,ローマ教皇を頂点とするカトリック教会の位階制およびローマ教皇への忠誠というカトリック教会の伝統的立場に立つ司祭,修道者,信徒のグループである(注22)。本稿ではより一般的と思われる「地下教会」の呼称を用いる。
文革終了後の1978年,ローマ教皇庁「宣教聖省」(現「福音宣教省」)のアンジェロ・ロッソ(Angelo, Rosso)枢機卿は中国の聖職者に対し,第1に,自身が所属する教区以外で秘跡(注23)を授けること,第2に,司教が神学校での教育を受けていない独身男性信徒を司祭として叙階することを,特例として承認した。これを契機として,「愛国会」から距離をおいた新たな組織が成立するに至った。これが,「地下教会」の起源である[松隈 2008]。その際,主要な役割を果たしたのは,1951年4月に教皇ピオ12世により河北省保定教区司教に叙階されたペトロ・ヨゼフ范学淹(Peter, Joseph Fan xueyan(1907~1992))であった。范は1958年5月,河北省当局が招集した会議において「愛国会」への協力を拒絶したために批判闘争にかけられ,10年の労働改造刑を宣告された。范は1970年7月に労働改造を終了し本籍地に戻ると,「教皇から叙階された司教」として極秘裏に司教の権能を行使し始めた。1976年6月には教皇パウロ6世が范の「銀祝」,すなわち司教叙階25周年を祝う書簡を送った。文革末期という政治,社会状況をふまえた場合,この書簡が范の手元に届いたかは定かでないが(注24),結果的に司教としての范の地位に対する教皇庁の支持が明確に示されることとなったといえよう。
その後,范は「宣教聖省」の先述の決定をふまえ,1981年1月,河北省の信徒であったヤコブ蘇志民(James, Su zhiming)ら3名を秘密裏に司祭に叙階した(注25)。これが,「地下教会」による初めての司教叙階となった。范はさらにユリウス賈治国(Julius, Jia Zhiguo(1935~),河北省石家庄市正定教区),周善夫(同省保定市易県教区),カジミェシュ王弥禄(Casimir, Wang Milu(1943~2017),同上)の3人の司祭をそれぞれ,正定教区,易県教区および天水(甘粛省)教区の司教に極秘裏に叙階するとともに,賈治国に閔慶昌(河北省石家庄市趙県教区副司教)を趙県司教に叙階することを依頼した。これらは当初,ローマ教皇庁の許可を受けていなかったが,教皇ヨハネ・パウロ2世(Pope, John and Paul Ⅱ(教皇在位:1978~2005))は一連の叙階を教皇としての立場から祝福すると同時に,中国の司教がこれ以降,事後承認的な形式で司教の叙階を行うことを認めた。その後,賈と周は11名を河北省内の保定,易県,趙県,安国(保定市),献県(滄州市),順徳(邢台市)各教区の司教および補佐司教に叙階した[傅・解 1999]。
そして,1989年11月21日,「地下教会」の司教,司祭10数名と信徒30数名が陕西省高陵県で「三原会議」と称される秘密会議を開催した。この会議において,「愛国会」の「中国天主教主教団」に対抗するかたちで,「地下教会」の司教団である「中国大陸主教団」が成立した。ここに,中国のカトリック教会には2つの司教団が同時並行的に存在することとなった。ただ,教皇庁は「愛国会」の「天主教主教団」と同様,「地下教会」の「中国大陸主教団」についても正式には承認していない[松隈 2008]。ヨハネ・パウロ2世が范学淹による司教叙階を承認した事実を想起した場合,「中国大陸主教団」をめぐる教皇庁の動きは一貫性を欠いたもののようにみえる。それにもかかわらず実際にはこのような対応がとられる理由としては,「中国大陸主教団」の成立が事実上,「天主教主教団」と同様,カテキズムの文言に示された「原則」と合致しない状態でなされたことが関係していると考えられる。その点において,中国の2つの「主教団」をめぐる教皇庁の対応は,「原則」に基づくものであったとみなし得る。しかし,一方ではこのような対応の結果,中国のカトリック教会は形式上,「普遍教会」の一部と認められつつも,教皇庁が公式に承認した司教団は存在しないという,極めて難解な状況が出現するに至ったといえる。
教皇庁はその後,「愛国会」と「地下教会」双方の司教の叙階に関し,事後承認的に認可する方法をとっている。ただ,すべての申請が承認されるわけではなく,教皇庁が不適格と判断した場合は認可がなされない。加えて,バチカンと中国の外交関係をめぐる動向も,司教叙階の手続きに影響を及ぼしている。後述する,広東省汕头教区と福建省閔東教区での「愛国会」と「地下教会」の関係をめぐる動きは,その端的な例といえる。
3. カトリック香港教区,マカオ教区「愛国会」,「地下教会」のこのような状況に対し,それとは異なるかたちで存在しているのが香港教区とマカオ教区である。両教区においては,司教の叙階は教皇の任命によりなされており,現状(2022年時点)では「愛国会」は両教区の運営にはかかわっていない。これは当然,「特別行政区」としての香港,マカオの位置づけを反映したものである。これと関連し,バチカンと中国の「暫定合意」の2年間の再延長が決定した2020年9月には,同合意における司教の任命に関する合意事項が香港には適用されない,との確認がなされたとされている[自由亜州電台 2020年9月20日]。換言すれば,暫定合意が将来的に正式な合意に移行した場合でも,香港教区が「部分教会」としての地位を保ち続けることが,形式上は保証されたといえる。
しかし,「香港特別行政区国家安全維持法」(2020年6月30日制定。以下「香港国安法」)第3章における「香港特別行政区政府あるいは中央人民政府が制定し,執行する法律,政策に対して重大な妨害を進め,深刻な結果を生じさせる可能性のある」行為(注26)への処罰という,当局による恣意的解釈が可能な規定に着目した場合,ローマ教皇庁と香港教区の関係が将来的に何らかのかたちで香港国安法の影響を受ける可能性は,十分に想定し得るであろう(注27)。加えて,習近平体制下において「宗教の中国化」が強調されている現状を鑑みれば,香港教区とマカオ教区が将来的に「部分教会」としての位置づけを保証されることは,両教区が「宗教の中国化」からの自由を維持し続けることを意味する。中国政府の立場からみれば,これは事実上「宗教の中国化」の不徹底の象徴に他ならない。これらの点から考えれば,両教区が将来的に普遍教会としてのカトリック教会の枠内にとどまることが可能であるか否かは,なお流動的といえるかもしれない(注28)。
バチカン・教皇庁は中国との関係において,外交関係樹立という国家間関係の構築に加え,カトリック教会の教義と伝統にかかわる問題に同時並行的に対処せざるを得ない状況におかれ続けてきた。この状況下において,バチカン・教皇庁が中国政府や「愛国会」と接触する場合,基本的にはカテキズムに象徴される「原則」をその指針として堅持する一方,中国国内のカトリック教会の状況をふまえ,「原則」と合致する範囲で「愛国会」との「一致」を模索することが,重要な意味をもってくるであろう。ここに,カトリック教会にとって譲歩し得ない「原則」と,それとの合致を前提とした「一致」のあいだで妥協点を見出すことが,バチカン・教皇庁の対中接近をめぐる課題となるのである。
2. 教皇ピオ12世と「原則」の堅持1950年代初頭から本格化した,中国におけるカトリック教会への圧迫と「三自革新運動」,さらには「愛国会」の成立へと至る動きに対し,「原則」を堅持する立場から厳しい姿勢を示したのは,前出の教皇ピオ12世であった(注29)。ピオ12世は中国のカトリック教会への圧迫が本格化した1950年代初頭から,中国のカトリック教会が「愛国会」の成立によりカトリック教会の位階制から離脱した1957年以降までのあいだ,「クピムス・インプリミス(Cupimus Imprimis)」(1952年),「アド・シナルム・ジェンテム(Ad Sinarum Gentem)」(1954年),「アド・アポストロルム・プリンキピス(Ad Apostolorum Principis)」(1958年)という文書を相次いで発表し,一連の動きを「教会の世界性あるいは“普遍性”を否定するものであるがゆえに,もはやカトリックではない」(注30)として,カトリック教会の「原則」としての「普遍性」を堅持する立場から厳しく批判した。そして,1957年8月に「愛国会」が成立すると,ピオ12世は「カトリックに無神論的唯物主義を押しつけるもの」(注31)として非難した。ここに,「愛国会」はカトリック教会の「原則」とすべてにおいて相容れない道を選択したがゆえに,「部分教会」としての性格を有し得ない組織と位置づけられることとなったといえよう。換言すれば,ピオ12世は「愛国会」成立に至る動きを純粋にカトリック教会の「原則」に基づいて評価し,すべてにおいてそれに反するものとみなしたのである。その意味で,ピオ12世の対応はカトリック教会の最高指導者としてその「原則」を堅持すると同時に,それに何らかの脅威をもたらし得る,いかなる譲歩や妥協をも拒むものであったといえる。当然ながら,双方の主体的な意思,とりわけ「愛国会」が教皇庁の「原則」に歩み寄るかたちでの「一致」への可能性が生じる余地は,そこには存在し得なかった。
3. ヨハネ23世とパウロ6世における,「原則」の堅持と「一致」への模索教皇庁のこのような姿勢に微妙な変化が生じたのは,教皇ヨハネ23世と教皇パウロ6世の在任期間であった。この時期におけるバチカン,ローマ教皇庁の対中姿勢の特徴としては,ピオ12世以来の「原則」の堅持に加え,カトリック教会としての性格を否定された「愛国会」とのあいだで,「一致」への働きかけを模索する動きが現れ始めたことが挙げられる。のみならず,無神論的価値観を基本的価値観とする中国共産党,中国政府との接近の試みがなされたことも,ピオ12世の在任期間との相違の1つであった。
バチカン・教皇庁の対中姿勢における「原則」堅持の姿勢には先述のごとく,教皇ヨハネ23世が,「愛国会」がカトリック教会から分裂した状態にはおかれていないとの見解を示したことを契機として,変化の兆しが生じ始めた。ピオ12世による「愛国会」と中国への強硬姿勢と比較した場合,ヨハネ23世の対中姿勢は「原則」を念頭におきつつも,原則一辺倒的な姿勢からの転換を図ったものであったといえる。そこには,改革派教皇として「第2バチカン公会議」を招集し,カトリック教会内における諸改革を推進したヨハネ23世の個性もある程度,影響を及ぼしたとみてよいであろう。
反面,ヨハネ23世は,教皇の立場で「愛国会」を中国の司教団として正式に承認する可能性については,慎重な姿勢を崩さなかった(注32)。その要因としては,「愛国会」の成立をめぐる経緯が,教皇と司教および司教団との関係に関するカテキズムの「原則」と照らし合わせて,いかなる理由であれ正当化し得るものではなかったことが挙げられるであろう。その限りにおいて,ヨハネ23世は前任者からの「原則」を継承したといえる。その上で,教皇庁と「愛国会」の将来的な「一致」へ向けて初歩的な試みを行った点に,ヨハネ23世の対中姿勢の特徴が存在していたといえよう。ただ,教皇のこのような姿勢に対し,「愛国会」が「一致」への方向性をもって呼応することは,なかったのである。
一方,教皇パウロ6世の対中姿勢の特徴としては,「愛国会」に加え中国共産党と中国政府への接近を試みたことが挙げられる。たとえば,教皇は1970年に開催された「国連食糧農業機関(FAO)」の総会において,中国を同機関の正式メンバーとして受け入れることを要請している(注33)。また,1971年に中華人民共和国による国連代表権の獲得が実現すると,台北駐在の教皇庁大使が「臨時代理大使」に格下げされた(注34)。一方,宗教面では,1970年末のアジア歴訪中の12月,教皇はイギリス領香港でミサを司式した。これはカトリック教会の歴史上初めての,ローマ教皇による中国大陸への訪問であった。ここから教皇の対中関係改善への強い意欲を読み取ることは,論理の飛躍ではあるまい。
パウロ6世のこのような行動の背景には,中国での文革の発動(1966年5月)に伴い,「愛国会」の聖職者,信徒への圧迫が激化していたことが,少なからぬ影響を及ぼしたと考えられる。教皇は1967年1月6日,カトリック教会で降誕節の最終日と位置づけられる「キリストの公現」の祝日に,バチカンの聖ペトロ聖堂で行われたミサにおいて,中国のカトリック教会での初めての中国人司教の叙階(1926)40周年と,中国での司教叙階にかかわる「聖統制」の導入(1946)20周年を祝った(注35)。教皇は同時に,文革におけるカトリック教会の聖職者,信徒への圧迫に対する憂慮を表明し,中国に向けて「自由と平和」と対話の呼びかけを発した(注36)。その目的は,教皇庁と「愛国会」がカトリックの信仰を紐帯として「一致」していることを示すことにより,「愛国会」の聖職者,信徒を精神的に支えることにあったと考えられる。この意味で,教皇の動きは中国のカトリック教会を「普遍教会」の一部と位置づける,ヨハネ23世以来の路線を継承するものであったといえる。また,中国との「対話」への意欲をクリスマス最終日のミサでの説教という,宗教的に極めて重要な場で表明した点は,ヨハネ23世よりも踏み込んだものだった。ただ,文革当時の状況を鑑みれば,パウロ6世のこのような動きは本来の意図とはかかわりなく,中国当局が「愛国会」と「外国」との潜在的関係への疑念を強め,結果的に「愛国会」の聖職者,信徒に不利に作用する可能性を有していたといえるかもしれない。
以上のように,ヨハネ23世とパウロ6世は対中姿勢における「一致」,とくに「愛国会」を「原則」と合致するかたちでの教皇庁との「一致」へと誘導すべく,「原則」の範囲内で融和姿勢を示したといえる。だが,文革という政治,社会状況下におかれた「愛国会」がそれに呼応することは事実上,不可能であった。
4. ヨハネ・パウロ2世と「原則」の重視1978年に教皇に就任したヨハネ・パウロ2世は前任者と同様,中国との関係改善へ向けた姿勢を示す一方,カトリック教会の「原則」を堅持する立場をより鮮明に打ち出した。この姿勢はとくに,教皇と司教の関係性をめぐる動きにおいて顕著であった。
ヨハネ・パウロ2世は教皇就任後1981年2月,訪問先のマニラで対中関係改善の意欲を示した。その後,1998年には「アジア特別シノドス(司教会議)」に,1949年にピオ12世により司教に叙階されたマチアス段蔭明(Matthias Duan Yin-Ming(1908~2001),四川・万県教区司教)と,「愛国会」の徐之玄(万県教区協働司教)を招請した。両者の出席は実現しなかったが(注37),この試みは「愛国会」による教皇との「一致」へ向けたきっかけを教皇の側から提供した点で,ヨハネ23世による「第2バチカン公会議」への「愛国会」代表団の招請の試みからさらに一歩踏み込んだものであったといえる。一方で,マチアス段蔭明が「愛国会」の司教であると同時に,ピオ12世により叙階された司教であった事実からは,「原則」の堅持をめぐるヨハネ・パウロ2世の姿勢を窺い知ることができるであろう。
それが顕著に示されたのは,おもに司教の叙階にかかわる局面においてであった。たとえば,教皇就任直後の1979年に新たな枢機卿を任命した際には,当時上海で投獄されていた先述の龔品梅を「心のなかで」枢機卿に加えた[松隈 2008]。また,1981年6月には,1950年10月に教皇ピオ12世により広州教区司教に叙階された後,1958年2月に「反革命罪」で投獄され,1980年に釈放されたドミニコ鄧以明(Dominic, Tang Yee-ming)をバチカンに迎え,1959年以降空位であった広州教区大司教に叙階した(注38)。この決定は,ピオ12世による叙階の正統性という「原則」を再確認すると同時に,中国のカトリック教会に対する権能が「愛国会」あるいは中国政府ではなく教皇にあること,換言すれば,カトリック教会の位階制における教皇と司教の関係に関する「原則」こそが,司教叙階の「原則」であるとの意志を明確に示すものであったといえる。それに対し,「愛国会」はこの叙階を「中国の教会の主権を無視した,非合法な任命」(注39)と非難した。この反応は実質的に教皇と司教の関係をめぐる「原則」を拒絶した点において,「愛国会」自身がカトリック教会の「原則」の埒外にあることを,自ら表明するに等しいものであった。その後,先述の龔品梅が1988年にアメリカへ出国すると,ヨハネ・パウロ2世は1991年に龔をバチカンへ招き,正式に枢機卿に叙階した。「愛国会」はこれに対しても鄧以明の叙階の際と同様,非難する姿勢を打ち出した(注40)。そして,2000年10月に教皇が近代中国における120名の殉教者を「列聖」,すなわち「聖人」の称号を与えたことにより,バチカンと中国の対立は決定的なものとなった。
ヨハネ・パウロ2世の一連の動きは,「愛国会」および中国との対立を激化させた点において,パウロ6世の対中姿勢とは方向性を異にするものであった。一連の動きからは,教皇の対中姿勢における政治的意図を見出すこともできるであろう。しかし,鄧以明と龔品梅の叙階や殉教者の列聖は中国との政治的発展に発展したものの,その本質からいえば宗教的行為以上のものではなかった。また,それらの行為の基準となったのはカトリック教会の「原則」であった。それらを具体化した場合に生じ得る中国との対立について,教皇庁が想定していなかったとは考え難いが,少なくとも中国への政治的挑発を第一義的なものとした行為でなかったことは明らかであろう。たとえば,先述の「愛国会主教団」と「中国大陸主教団」という2つの「主教団」,とくに後者の成立に至る経緯についてみた場合,教皇が後者を正式な司教団として認可するという選択肢もあり得たはずである。しかし,実際にはそれがなされなかった事実からは,ヨハネ・パウロ2世が中国との政治的対立を積極的には志向していなかったことが読み取れるであろう。より重要な事実として,この2つの「主教団」は教皇と司教,「部分教会」の「一致」という,根本的な「原則」を欠いたかたちで存在していた。この点からいえば,教皇が2つの「主教団」を承認するという選択は論理上,「原則」と合致しないものだったのである。
以上のように,ヨハネ・パウロ2世の対中姿勢の根幹に存在していたのは,カトリック教会の「原則」の堅持であり,政治的意図ではなかった。それが中国の「原則」と衝突するに及び,「原則」をめぐる両者の対立は教皇庁の意図とはかかわりなく,政治的性格を帯びるに至ったといえよう。
5. 21世紀のローマ教皇とバチカン・中国関係教皇ベネディクト16世と教皇フランシスコ(Pope, Francis(教皇在位:2013~))の対中姿勢の特徴としては,ベネディクト16世がピオ12世やヨハネ・パウロ2世と同様,カトリック教会の位階制の枠組みを前提とした教皇と司教,司祭との「一致」,および普遍教会と部分教会の「一致」という「原則」を堅持する姿勢を示したのに対し,教皇フランシスコの場合には「愛国会」との「一致」により強い関心を示している点に,両教皇の対中姿勢をめぐる相違がみられる。加えて教皇フランシスコによる対中関係の改善の模索は,「愛国会」さらには中国との協調を意識するかたちで進められてきた。このような姿勢は「愛国会」との「一致」,すなわち教皇を頂点とするカトリック教会の位階制,さらには普遍教会への「愛国会」の将来的な糾合へ向けた教皇フランシスコの柔軟性を示すものとみることも出来るであろう。2018年の「暫定合意」とそれにかかわる動きは,その1つといえよう。反面,教皇フランシスコのこの種の方向性については,教会の内外から,中国との関係改善を優先した「譲歩」とする厳しい見方も示されてきた。
一方,両教皇のこのような動きに対し,「愛国会」は「一致」への積極的な姿勢を示していない。その背景には,この種の「一致」をめぐる中国当局の意向が影響を及ぼしているとみてよいであろう。具体的にいえば,教皇庁と「愛国会」の「一致」を認めることは中国当局にとって,国内の宗教組織に対する政府の管理という「原則」の大幅な修正,あるいは放棄に他ならない。それが中国当局にとって容認し得ないものであることは想像に難くない。とりわけ,習近平指導部が「宗教の中国化」を新たな「原則」として打ち出している現状において,中国当局がこの種の「一致」を認める可能性はこれまで以上に少なくなっているといってよい。それにもかかわらずバチカンが中国との外交関係樹立を目指す場合,「愛国会」を教皇との「一致」へと誘導することに加え,中国当局からこの問題をめぐる妥協を引き出す必要性が生じるであろう。ここに,「原則」と「一致」のあいだでバランスを保ちつつ,前者を堅持する姿勢を明確に示し,最終的には「愛国会」をカトリック教会の位階制との「一致」へと誘導することが,21世紀のバチカン,ローマ教皇庁の対中姿勢における課題となるのである。ただ,「原則」と「一致」をめぐるベネディクト16世と教皇フランシスコの先述の方向性の相違に着目した場合,「一致」の内容自体にも,変化が生じていると考えるのが自然であろう。そこで,以下の部分ではベネディクト16世と教皇フランシスコという21世紀の教皇の対中姿勢について,「愛国会」との「一致」をめぐる言説とその内容の変遷に着目し,検討する。
(1) ベネディクト16世における「原則」と「一致」先述のごとく,ベネディクト16世は2007年6月,中国のカトリック教会関係者宛の書簡のなかで,「愛国会」と「天主教主教団」に対してカトリックの教義をふまえ厳しい評価を下している。教皇は一方で,中国のカトリック教会を「普遍教会であり,キリストの教会の臨在」とする見解を提示した。これは,カトリック教会の「原則」に基づいて「愛国会」とくに「天主教主教団」への批判的見方を示す一方,「普遍教会」としての「中国のカトリック教会」という抽象的概念という表現を用いることにより,少なくともカトリック教会としての自己認識を放棄していない「愛国会」(注41)を,その範疇から完全には除外しないことを示すものであったとみてよいであろう。ここに,教皇は「愛国会」に厳しい評価を下す一方,「愛国会」が将来的に教皇庁との「一致」へ進む余地を残したといえる。このような姿勢は,ベネディクト16世が2008年5月に,毎年5月24日を「中国の教会のために祈る日」と定めるとともに,中国の教会が「教会のいしずえの岩であるペトロと一致する」(注42)ことを願う文言を,祈りの内容として正式にも示されている。ただ,それが教皇から「愛国会」への無条件での歩み寄りと,それによる「一致」を目指したものではないことは,この祈りの文言からも明らかになると思われる。具体的にいえば,「教会のいしずえの岩であるペトロ」とはカテキズムにおいて,「ローマの司教,ペトロの後継者」としての教皇を意味する[日本カトリック司教協議会 2002, 274]。この点をふまえた場合,教皇庁と「愛国会」の関係性において後者が「ペトロ」との「一致」,すなわち「愛国会」が教皇を頂点とするカトリック教会の位階制という「原則」を受け入れることを前提とし,その上で自らの自発的意思によって位階制への復帰を促すことが,この祈りでの「一致」の意味といえよう。それとの関連でいえば,ベネディクト16世はカトリック教会の伝統と「原則」を堅持する立場から,「愛国会」がそれらと合致しない行動を示した場合には断固とした姿勢を示した。「愛国会」が2010年11月と2011年6, 7月に教皇の認可を経ないままに4名の司教を叙階した際に,教皇が彼等を破門したことは,それを明確に示すものであった(注43)。このように,教皇は「愛国会」との関係改善を模索しつつも,根本的な部分ではカトリック教会の伝統と「原則」に基づき,「愛国会」が自主的に普遍教会の一員となることを求める姿勢を,堅持し続けた。
以上の点から,ベネディクト16世が教皇庁と「愛国会」の「一致」において重視したのは後者の主体的行動であり,カトリック教会の伝統と「原則」の変更ではなかったことが,明らかになるであろう。さらに,教皇は教皇庁と「愛国会」の関係について,「中国におけるカトリック教会の使命は国家の機構あるいは行政組織を改変することではなく,キリストを宣べ伝えること」であるとの認識を表明している[教宗本篤十六世 2007, 3, 4]。ここからは,教皇庁と「愛国会」の関係をカトリック教会内での宗教的「原則」の範疇に属するものと位置づけることにより,中国の政治体制の是非をめぐる評価から切り離そうと試みる,ベネディクト16世の意図を垣間見ることができるのである。
(2) 教皇フランシスコの対中姿勢と「一致」の変化教皇フランシスコの対中姿勢の特徴としては,ベネディクト16世と比較した場合,「愛国会」に対して寛容な姿勢を示していることが挙げられる。ベネディクト16世による,「愛国会」司教への教会法の規定等の「原則」に基づく破門の措置が,「暫定合意」の成立に伴って教皇フランシスコにより撤回され,それらの「司教」が教皇庁により追認された事実は,その表れといえるであろう(注44)。その背景には,カトリック教会の「原則」の存在を前提としつつも,同時に「愛国会」への柔軟な姿勢を示すことにより,将来における「愛国会」のカトリック教会の位階制へ復帰と同時に,中国との外交関係の樹立を目指す教皇の意図が存在しているといえよう。実際に,2018年9月にバチカンと中国の間で第1回目の「暫定合意」が成立して間もない同年10月には,教皇フランシスコが「世界代表司教会議(シノドス)」第15回通常総会に,ベネディクト16世により破門処分を受けた「愛国会」の郭金才(河北省承徳教区,「愛国会」副主席兼秘書長),楊暁亭(陝西省楡林教区,「愛国会」副主席)両「司教」について,破門処分を解いた上で「教皇による任命者」[カトリック中央協議会 2019, 10]として正式に招請し,両者の参加が実現した。また,同年12月には,「愛国会」と「地下教会」が互いに教区としての正統性を主張し,事実上分裂状態にあった広東省汕頭教区と福建省閩南教区において,教皇庁が前者の優位を認めるかたちでの教区統合がそれぞれ実現した。反面,この動きは「愛国会」への合流を拒み教皇庁との「一致」という「原則」を保ってきた「地下教会」関係者の心情よりも,中国との関係改善を優先させる側面が否めないものであった。そのため,一連の措置は,「地下教会」関係者のあいだに困惑と失望を引き起こした(注45)。このように,教皇フランシスコの対中姿勢は「愛国会」との融和に重きをおくがゆえに,前任者における「原則」重視からの急転換という側面を帯びることとなったといえる。そして,それが教皇の対中姿勢における拙速さという印象を伴うとき,カトリック教会の伝統や「原則」との整合性をめぐり,教会内外から疑義が提起されるのは不可避であった(注46)。
それでは,教皇フランシスコのこのような姿勢は,「一致」という概念にいかなるかたちで反映されたのであろうか。2020年3月,カトリック教会は「3月の教皇の祈りの意向」として,中国のカトリック信徒が「福音にたゆまなく忠実であり,一致を育んでゆく」ことを願う文言を発表した(注47)。この内容を先述のベネディクト16世による祈りの意向と比較した場合,ベネディクト16世の祈りにおいては,中国の教会が「教会のいしずえであるペトロと一致する」こと,換言すれば「愛国会」がカトリック教会の位階制に事実上,無条件に復帰することが呼びかけられているのに対し,教皇フランシスコの祈りにおいては,中国の信徒が「一致を育む」対象が示されていない点に,特徴が存在していると考えられる。端的にいえば,前者においては,中国の信徒が「一致」すべき対象は教皇および普遍教会としてのカトリック教会であることが,教会の「原則」として強調されているのに対し,後者においては「一致」の対象は曖昧なものとなっている。少なくとも,「愛国会」にカトリック教会の位階制への復帰による「一致」を求めたベネディクト16世の方針は,この祈りにおいてはトーンダウンしたといえる。
これらを中国との外交関係の樹立という課題との関連において考えた場合,「愛国会」がカトリック教会の伝統と「原則」に基づき,教皇を頂点とするカトリック教会の位階制との「一致」を主体的に実現することを,譲歩し得ない「原則」と位置づけるベネディクト16世と,「愛国会」に対してカトリック教会の「原則」という枠にとどまらない対応を示すことにより,将来的な外交関係の樹立を目指す教皇フランシスコの姿勢の相違が明らかになるといえよう。そして,後者が「愛国会」と中国への過剰な譲歩との印象すら与える配慮を伴う時,カトリック教会内外から厳しい見方が示されることとなるのである。
バチカン・ローマ教皇庁は中国との外交関係樹立をめぐる動きのなかで,カテキズムに示されたカトリック教会の「原則」と伝統的価値観を軸とし,「愛国会」および中国との関係のあり方を模索してきた。その過程で,バチカン・ローマ教皇庁の対中姿勢は,カトリック教会の「原則」の堅持という絶対的方針に基づく,ある種非妥協的なものから,「原則」の存在を前提としつつも,同時に「一致」への可能性を模索する方向へと転換するかたちで,変化を遂げてきた。カトリック教会の「原則」と伝統的価値観を絶対視し,かつ共産主義に否定的であったピオ12世が「部分教会」としての「愛国会」の資格を完全に否定しただけでなく,将来的な「一致」への可能性をも閉ざしたのに対し,ヨハネ23世以降の教皇が程度の差こそあれ「原則」一辺倒の修正を模索したことは,その表れといえよう。いわば,「原則」一辺倒から,「原則」を前提としつつ同時に「一致」を模索するかたちでの関係構築へのシフトがなされたといえる。一方で,「一致」への志向が「原則」を圧倒するかのごとき状況が出現した場合には,「原則」との関連からの疑義が教会内部から提起されることとなった。「愛国会」そして中国との関係改善に意欲的な教皇フランシスコの姿勢が教会内部でのコンセンサスを得ているとは言い難い状況は,それを端的に示すものといえる。同様に,教皇による中国国内の人権問題や少数民族問題への消極的な姿勢については,「地下教会」や欧米諸国から厳しい視線が向けられた(注48)。
そして,このような曲折を経てもなお,「暫定合意」は正式な合意には至っていない。「暫定合意」の内容が正式に公表されていない現状において,その理由は定かではないが,カトリック教会の「原則」に基づく「一致」を目指すバチカン・教皇庁と,「愛国会」さらには「宗教の中国化」という新たな「原則」を掲げる中国とのあいだで何らかの「一致」がそれぞれ実現することは,容易ではないと推測される。そして,この「原則」がバチカン・ローマ教皇庁にとってカトリック教会の信仰の根幹にかかわる問題である点を鑑みれば,一連の動きは単なる外交上の駆け引きという枠を超えた,カトリックの信仰と価値観の堅持と不可分の関係をなすものとしての性格を帯びることとなるのである。それゆえ,「原則」と「一致」は今後もバチカン・教皇庁と「愛国会」,そして中国との関係をめぐる,最も重要な課題であり続けるであろう。
(日本現代中国学会会員・アジア政経学会会員,2022年8月31日受領,2023年7月14日レフェリーの審査を経て掲載決定)