Ajia Keizai
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
Book Reviews
Book Review: Yujin Kim, Popular Music and Politics in Indonesia: the Paradox of Independent Cultural Practices (in Japanese)
Yuka Kayane
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2024 Volume 65 Issue 1 Pages 74-76

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評者のようにインドネシアの音楽に疎いものでも,この国の政治を研究していると,政治と音楽の近さを実感することがしばしばある。地方の選挙キャンペーンにはダンドゥット(インドネシアの大衆音楽)歌手が不可欠であるし,少し前であれば大物政治家が自作の歌をCDにして発売することも珍しくなかった。何より,現在のジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領はメタルロックの大ファンとして知られている。2014年の大統領選挙では,欧米の著名ミュージシャンの支持まで動員して対立候補のプラボウォ・スビアントとの接戦を制した。

本書は,インドネシアの音楽産業に従事するアーティストたちと政治権力の関係性に焦点をおき,彼らの文化実践から民主主義政治の実態を解き明かしている。インドネシアにおける音楽シーンそのものの構造と政治権力との関係を大局から分析する,野心的な試みである。まずは本書の内容から見ていきたい。構成は以下のとおりである。

序章「音楽と政治の密接な関係」では,まずインドネシア政治研究の有力な理論的枠組みである寡頭制支配論(オリガーキー論)を中心に検討した上で,本書の位置づけを示している。オリガーキー論とは,旧スハルト政権時代に培養された政財界のエリートたちによる支配構造が民主化後の今日においても維持されていることを強調する議論である。これに対して著者は,同論が主眼をおいてきた政財界のエリートではなく,市民社会のアクターに注目し,彼らが今日の民主主義政治にいかなる影響を与えているのかを検討すると述べる(9ページ)。さらに次節では,多岐にわたるポピュラー音楽研究をレビューし,本書の独自性として,同国の「民主主義の定着や質の向上」における音楽実践者たちの役割に注目すると論じている(28~29ページ)。このような位置づけをふまえ,民主化に伴って権力主体からの自立を志向した音楽実践者たちが,皮肉にも権力に「依存」する結末を生んでしまったのはなぜか,そのメカニズムを解明することを本書の目的と据えている(11ページ)。

続く,第1章「インドネシア・ポピュラー音楽史――外来文化の受容とその影響(一九五〇年代~七〇年代)――」および第2章「三大ジャンルの産業化・大衆化と分断構造(一九七〇年代~八〇年代)」では,スカルノ政権期からスハルト政権期に至る音楽シーンの歴史的形成過程に注目しながら,音楽実践者たちの時の政治権力との関係性の変遷を考察している。具体的には,冷戦構造を背景にして西洋音楽の規制を強化した容共派のスカルノ政権が崩壊し,反共のスタンスのもとに前政権下の規制を緩和したスハルト政権期において音楽産業の発展が促されることとなった。とくにスハルト政権下では,ロックとポップ,ダンドゥットという3つの主要ジャンルが確立した。そして,それぞれの音楽シーンの発展過程においては,実質的な与党となったゴルカルや政府と近い華人ビジネスといった政治経済権力と音楽実践者たちとの結びつきが強められることとなる。

第3章「自主独立の理念と実践,そして創造性の政治(一九九〇年代~二〇〇〇年代)」では,インディーズシーンの中心地である西ジャワ州の州都バンドンに焦点を当てながら,1998年に始まる民主化期以降の音楽実践者たちと政治エリートとの関係構築の過程について論じている。「自主独立的」な文化実践を志向してきたインディーズの音楽実践者たちもまた,バンドン市長リドワン・カミルとの協力関係を築き上げる過程で,政治エリートとの相互依存関係のなかに絡め取られていったことが示される。

第4章「越境と相互依存の政治」では,バンドンの事例で示されたような音楽実践者と政治エリートの相互依存関係が,ジョコウィ政権下で国政のレベルでも発展するようになったと論じる。すなわち,同政権下で設置された創造経済庁の支援を通じて,中央政府の支援を受けた国家プロジェクトとして,音楽実践者たちと政治エリートのパートナーシップが深化していくこととなった。

第5章「非民主的法案の創造」では,音楽実践家たちの「表現の自由」を規制する内容を含む法案が2019年に提出されることとなった背景を読み解いている。具体的には,音楽実践者と政治家たちの間で著作権保護などに関する制度構築とともに,排他的なインドネシア・ナショナリズムへの合意にもとづく音楽実践法案が策定された。そこでは,音楽実践家たちと政府関係者との連帯の意識こそが,自由な音楽活動を規制する内容を含む「非民主的」な法案策定の土台を作っていくことになったと論じられている。以上の分析をふまえて,終章の「自立と依存の未来」では,結果的に政治権力に依存するようになった音楽実践者たちの行動により,同国における民主化が阻害されることとなった,と締めくくっている。

まずは本書の貢献について述べておきたい。第1に,本書はポピュラーカルチャー研究の視点からインドネシア政治の動態に切り込んだ点で,両者を架橋する先駆的な試みであることは間違いない。とくに,これまでの主要研究が金権政治やパトロネージ,暴力の行使などの側面を重視してきたのに対し,本書は音楽産業の活用による人々の動員といったソフトな側面から,今日のインドネシア政治を分析した点で独創性が光る。たとえば,第3章のバンドンにおけるリドワン・カミルとインディーズの音楽実践者たちの関係はまさに,金や暴力の支配に還元されない同国の現代政治の重要な特徴を捉えた好例であろう。

第2に,スハルト政権期の三大ジャンルの発展とその相互関係の歴史的な描写は,個別のアーティストの動向に関する(少々マニアックな)考察にとどまらない,インドネシアの現代社会史を描く手堅い分析となっている。すなわち,特定の個人やグループ,ジャンルのみに焦点をおくのではなく,俯瞰的に音楽産業の発展を捉え直す独自の分析手法が申し分なく発揮されている。また,バンドンという一地方の事例と,国政レベルの音楽と政治の関係に関する考察では,慎重に過度な一般化を避けながらも,2つの例において重なり合う政治エリートとの協働をうまく捉えている。地方と中央の政治の関係性や,それぞれの政治過程の分析をする上でも参考になるところが多い。

つぎに,本書の核となる主張に関連して,2つほど批判的論点を示しておきたい。

1つ目に,先行研究の理解と本書の位置づけに関する問題である。前述のとおり,本書では主要な先行研究であるオリガーキー論との差別化を意図して,政財界のエリートではなく,社会アクターに注目している。しかしながら,そもそもオリガーキー論は,旧体制下で培養された政財界のエリートたちのみならず,市民社会のアクターがいかにして政治的に無力化され,またその権力構造のなかに組み込まれてきたのか,という問題にも注目してきた(たとえばオリガーキー論の代表作である[Robison and Hadiz 2004, Ch.2; Hadiz and Robison 2013]を参照)。この議論の要諦は,欧米諸国で「民主化の担い手」と想定されてきた市民社会のアクターも,インドネシアにおいては汚職や金権政治がはびこる略奪的な政治経済構造のなかに呑み込まれてきたため,民主化改革が貫徹しないという,同国の皮肉な現実を構造的に説明した点にある。そして,オリガーキー論の継承者たちは今日に至るまで,インドネシアの民主主義に対する人々の落胆を背景にしながら,数ある事例研究によってこの議論の正当性を裏打ちしてきた。こうした研究の延長線上に位置づける限りにおいて,「自立」を謳うはずの音楽実践者たちが権力者との「相互依存関係」を深めることで「非民主的」な帰結を生んだという議論には既視感があることは否めない。言い換えれば本書の主旨自体は,オリガーキー論によってすでに提示された枠組みで十分説明可能であり,著者があえて音楽産業という特殊な材料を使うことの意義が見えにくくなっているように思われる。

2つ目に,本書の副題にも冠せられている(権力からの)「自立」と「依存」,そしてしばしばそれらに対応して用いられている「民主的」ないし「非民主的」といった概念の論理的関係性についての問題である。本書では,音楽実践家たちが権力主体からの「自立」を謳っているにもかかわらず,「非民主的帰結」に加担するというメカニズムを解明することを命題に掲げた上で,音楽実践者たちの政治権力への「依存」こそがその主たる要因であると指摘している(9, 11ページ)。しかしながら,政治権力への「依存」が「非民主的帰結」を生むという著者の主張はいささか論理を単純化しすぎてはいないだろうか。またその逆に,政治権力から「自立」していれば,必ずしも音楽実践者の思想や規範意識が「民主的」になるとも限らない。

たとえば,インドネシアには政治権力とは距離をおいて政権批判を行いながら,人民主権や議会政治,公選制を否定する「非民主的」なイデオロギーをもつ社会アクターも存在する。逆に,政権に「依存」して政財界の権力になびきながらも,その庇護下で宗教的・社会的少数派や女性の人権保護をめざすNGOも多数ある。すなわち,何をもって「民主的」や「非民主的」と規定するのかという問題に加え,はたしてこれらを「自立」か「依存」かという政治権力との関係性に結びつけることが論理的に妥当なのか,疑問が残る。言い換えれば,著者の議論は「非民主的帰結」の要因を音楽実践者の権力への「依存」に求めているがゆえに,その裏返しとして「自立=民主的」をよしとする安易な規範論に陥ってしまっているように見える。

発想を転換してみれば,異なる画が見えるはずである。たとえば,民主化以前でも,音楽実践者たちのように「自主自立的な活動が困難であり,政治的圧力に屈する受動的な立場」(109ページ)におかれてきたとしても,草の根からの変化の兆しを見出すことは十分に可能であるように思う。前述のように,実際にスハルトの権威主義体制時代を生き抜いた社会勢力や知識人たちの多くは,政府に忠誠を誓い,野党側の政治活動に与しない限りにおいて,活動の自由を享受してきた。その結果,多くの学生運動や社会組織(たとえばナフダトゥル・ウラマーやムハマディヤのようなイスラーム組織のほか,法律扶助団体など)から,女性の権利向上や宗教的少数派との共存に向けた活動に従事する知識人や活動家が誕生していった。こうした勢力のなかから台頭した人々の多くは,権力を濫用する腐敗したスハルトの政権に批判的ではなかったし,今日のジョコウィ政権に対してもまた然りである。しかしながら彼らの活動は,漸進的とはいえ,人々の人権に関する意識を変化させてきただけではなく,時にその支持を必要とする政治エリートをも動かしてきた。つまり,社会アクターたちは必ずしも政治権力からの「自立」によって変化を実現してきたわけではない。

まずは,先のような二項対立的枠組みから脱却し,本書ですでに示されている音楽実践家たちの独立期以降の歴史的営為について今一度,再評価してみてはどうだろうか。政治権力との複雑な関係性を大局から捉えながらも,主要研究とは一線を画す独創的な視点を提示する発想力を,著者は兼ね備えているように思われるからだ。

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