Ajia Keizai
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
Articles
Origins and Formation of the Land Acquisition System in British India
Hajime Sato
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2024 Volume 65 Issue 3 Pages 2-36

Details
《要 約》

インドでは2000年代に会社のための土地収用が深刻な社会問題を引き起こし,1894年制定の土地収用法が2013年制定の法に代置された。ただし,新法もまた多くの規定を旧法から引き継いでいる。そこで,本稿はインドにおける土地収用制度の導入過程を検討し,その起源が東インド会社統治時代の19世紀前半にあり,直接統治が始まった19世紀半ば頃までにはその骨格が形成されていたことを示す。また,そのおもな特徴として,第一に,現地社会の土地に関する複雑な権利関係を認める一方で,土地に関するイギリス側の主権が曖昧であるという法的な枠組みが出発点となっており,それゆえ,対象となる土地に関する既存の権利関係をいわば清算して政庁側が当該土地に関する瑕疵なき権利を入手する仕組みが必要となったと考えられることを論じる。第二に,私企業による鉄道建設を含むとされた公共目的のための条項と,それとは別と位置づけられた会社のための土地収用の条項が,それぞれ1850年代,60年代に独自の規定形態をとって一般規定として盛り込まれたことのうちに,本国とも他の植民地とも異なる英領インドの土地収用制度の特徴が存在すると考えられることを議論する。

Abstract

Land acquisition issues have become an important issue in India in the 21st century, given that its main purpose has shifted, at least in relative terms, from using land for public works such as dams to acquiring land for companies since the economic liberalization of 1991. Against this background, this article explores the formation of the land acquisition system in British India, focusing on the Land Acquisition Act of 1894 and its relation to the Land Acquisition Act of 2013. After confirming that the origins of the land acquisition system can be found in the early 19th century and its basic structure had been formulated by the 1850s, this article attempts to identify and delineate the unique features of the system. First, the government of the East India Company (and later the Government of India) in British India needed such a system in order to acquire absolute right over a piece of land because it had basically guaranteed traditional multilayered proprietary relations over land in Indian society by the end of the 18th century and British sovereignty over the land was legally vague even in the early 19th century. Second, the procedures for acquiring land for railways that were incorporated into the system in the 1850s and those for companies that were introduced in the 1860s were codified as a general clause, which added some peculiarities to the system.

 はじめに

Ⅰ 先行研究と本稿の課題

Ⅱ 英領インドにおける統治機構と土地に対する主権

Ⅲ 土地収用にかかわる法令の展開

Ⅳ 土地収用制度における英領インド特有の特徴

 おわりに

はじめに

インドにおいて2000年代以降,激しく議論されてきた問題のひとつに土地収用がある。独立後に採用された公的部門主導の開発戦略を1991年に民間部門主導に転換して以降,ダム建設などの公共目的よりも,一般の会社に土地を利用させるための収用が前景化したからである。たとえば,タタ・スチール社(オディシャ州カリンガナガール)やサリム・グループ(西ベンガル州ナンディグラム)のために州政府が行った土地収用において,それぞれ2006年,2007年に死傷者も生じるほどの社会的摩擦が起きた(注1)

これらの土地収用は,英領時代制定の1894年土地収用法(Land Acquisition Act, 1894(Act I of 1894),以下1894年法)に基づいて実施されていたため,その問題点が活発に議論された(注2)。その結果,同法を代置する2013年土地収用,生活再建および再定住における公正な補償と透明性に関する権利法(Right to Fair Compensation and Transparency in Land Acquisition, Rehabilitation and Resettlement Act, 2013(Act No. 30 of 2013),以下2013年法)が制定され,2014年1月に施行された。2013年法は,土地収用につき,補償額を引き上げ,収用手続に社会影響評価を組み込み,いくつかの類型については関係住民の一定比率の同意を要件とするなど,1894年法よりも概して住民側に手厚い措置を定めた。しかし,2014年に登場したモディ政権は,国防や工業回廊プロジェクトなど一定の目的の場合には,関係住民の同意や社会影響評価実施を不要とする緩和措置を同年12月に大統領令により実施した。これらの要件ゆえに,経済活動に必要な土地収用に時間がかかりすぎるのではないかといったビジネス側の不満を受けてのことである。しかし,この大統領令は異例の二度の有効期間の延長にもかかわらず議会の承認を得られず2015年8月に失効し(注3),モディ政権は州による土地収用法の修正を促す方針に転換して現在に至っている(注4)。つまり,経済社会の発展段階に適した土地収用に関する適切な仕組みの模索が今も続いている。

そもそも私有財産不可侵の原則を基礎とする市場経済社会では,公共目的であっても所有者の任意の承諾を得て契約により対象を得ることが原則である[美濃部 1936, 3-7]。ただし,土地という不動産については代替性といった観点から動産とは異なる性質があるため,土地に対する私的財産権をその権利者の合意なくして強制的に移転させる仕組みを設けることがいずれの国においても認められている。もちろん,例外であるがゆえに,収用の主体や目的は政府等による公共目的に限定され,また,収用の手続についても公権力の行使に厳重な縛りをかけることが一般的である(注5)。ところが,2013年までおよそ120年間にわたり施行されていたインドの1894年法には,公共目的の手続とは別に,会社のための土地収用手続が存在しており,現行法である2013年法にも受け継がれている(2条2項)。つまり,上述したように,私企業のために政府が土地収用を進めたことにより2000年代に厳しい社会対立を招いたが,そのような仕組み自体は19世紀末から法律上は存在していたものである。

19世紀のイギリス本国では,基本的に,土地収用の必要性やその権限の付与は対象の土地を指定した上で事案ごとに立法府で議論されるべき問題であり,また異議のある権利関係者は収用自体を司法でも争うことができた。この「議会による収用」という考え方は,中世のイギリスにおいて,国王による財産収奪に対して,課税権の制限と並行して議会側が勝ち取った制度であり,この制度は建国当初のアメリカにおいても確立された[中村 2009, 7-18]。他方で,英領インドでは,公共目的と会社のためのいずれの場合でも,土地収用権限をあらかじめその土地の存する地方政庁(注6)に授権しており,また政庁による決定については補償額を除けば事後に司法において争うことができない仕組みを定めていた。そこで本稿では,本国とは異なる土地収用の仕組みがどのように1894年法として規定されるに至ったのかという問いを導きの糸としつつ,19世紀英領インドにおける土地収用制度の導入と展開を掘り起こし,その特徴を考察する。次節でまず,英領インドの土地収用に関する先行研究を整理した上で,本稿の課題をより具体的に設定し,本稿の議論と構成を示す。

Ⅰ 先行研究と本稿の課題

英領インドにおける土地収用の先行研究は,土地所有権や地税の展開に関する研究と比較すると格段に少ないものの,2010年代から微増しているように観察される。英領時代の土地収用制度を対象として扱う研究は,おもに二つのアプローチに分けることができる。

第一は,Law Commission of India[1958]Sinha[2021]など,法学分野からのアプローチで,現在の土地収用法の解説を主眼としつつ,土地収用に関連する法令の歴史的変遷も整理して示し,独立前からの継続性を指摘するものである。これらの研究が依拠する資料は基本的には土地収用に関する法令そのものである。また,イギリス資本に対抗するために1894年土地収用法を改正しようとしたN・C・ケルカル(注7)提案の1928年土地収用法案を取り上げたKrishnan[2014]は,イギリス側との関係を大枠としながらも,おもに英領インド現地の諸勢力間の利害対立により同法案が廃案となったことを論証しているが,その前提として19世紀における土地収用制度の展開を検討している。これらの法解釈論や法制史的な視角による法学的なアプローチは,歴史俯瞰的な観点から土地収用制度の変遷を明らかにし,それらがいかに植民地的な性格を残したまま現在に至り,独立後に政府により強権的に用いられやすい傾向を孕んでいたかを指摘するという問題意識を有している。

第二は,19世紀におけるイギリス資本の英領インドでの展開を考察する一環として,とくに鉄道建設のための土地の入手が現実にどのように行われたかという関心から土地収用制度に触れる,いわば歴史学的なアプローチである。1845~55年のボンベイを対象としたRodrigues[2010],ベンガルについて1850~62年を対象としたSarkar [2010]と1824~57年を対象としたSamuels[2013],1860~1930年のデリーを対象としたShankar[2018]などがある。これらの研究は,各政庁の公共事業局(Public Works Department)など土地収用に関与した部局の行政資料におもに依拠し,対象の地域や年代を区切って研究を行っている。Samuels[2013]は土地収用手続への関心から1857年までのベンガルにかかわる法令に目を配っているものの,これらの歴史学的な研究は法令やその条文については基本的には検討対象とはしておらず,イギリス資本側の利害がどのように展開したか,個々の地域・時代において現実にどのように土地収用が行われ,住民側がどのように対応したかの実態を,資料上可能な範囲で検討している。

法学的なアプローチにおいては,一方で,土地収用制度の展開がどのような歴史的な背景をもつかという点の分析は,基本的にイギリス側の利害を反映して展開したとする歴史学的アプローチの通説的な見解に依拠しており,また現行法の解釈に力点があるため,すでに廃止されている先行した法令類の条文の調査は十分には行われていないように看取される。他方で,歴史学的な研究は,これらの収用を可能ならしめた法制度そのものについては十分に検討を加えないままに,社会や経済の変動を捉えようとしている。つまり,二つのアプローチは互いに互いの研究分野を所与としつつ,土地収用制度はイギリス側の利害に仕えるものとして展開したものであり,そのような仕組みが独立後も残って政府により使用されたとする理解,現代の土地収用問題の淵源の一部を植民地期に導入された制度に求める,土地収用分野における植民地遺制説とでも呼ぶべき理解を,相補的に基礎づけているように思われる。

本稿は,このような研究状況について,少なくとも二つの側面において補完的な検討が必要ではないかという問題意識に基づく。第一に,そもそも英領インドでは土地収用制度を導入する必要がなぜ法的にあったのか,第二に,土地収用制度の具体的な制度設計として,私企業による鉄道建設を公共の目的とし,それとは別に会社のための土地収用制度をも一般法のなかに組み込むなどの仕組みがどのような経緯で形成されていったのかを,より明確にしておく必要があるのではないか,という問題意識である。というのは,法学的なアプローチと歴史学的なアプローチのいずれにおいても,英領インドにおける土地収用制度の導入と展開を植民地支配の深化に伴ういわば派生的・副次的な必然的現象として捉えて,これらの論点については今のところ十分にはまだ検討がなされていないように見受けられるからである。これらの点を明らかにすることができるならば,法学的アプローチに対しては,土地収用制度のどの側面が英領インドに特有のものなのか,植民地期からの継続性が本当に重要なのか等の問題を,より明確に条文に即して検討する基礎的な考察を提供することができ,また,歴史学的アプローチに対しては,イギリス資本や現地住民など利害関係者の対応が土地収用制度にどう反映され,それがまた後の展開にどう影響を与えたのか,植民地支配の現実と制度変容の螺旋的な展開関係を,より丁寧に議論するための基礎的な考察を提供できるのではないかと考える。

いいかえると,先行した法令をより詳細に確認し,そのなかに体化されている個別具体の特徴とその背後にある利害関係をより明確に浮き彫りにすることに本稿の問題意識がある。それゆえ,本稿では,先行研究と土地収用関連法令の原文に加えて,いわゆる特許状法の関連条項,さらに法令の制定と改廃の議論が記載されている政庁の立法プロセスの資料(注8)をおもな資料として用いる。そのような検討を詳しく実施するには独立前から現在に至るまでの法令の変遷と実際の運用をいくつかの時代に分けて辿らなければならないが,本稿では,1894年法に至るまでの法令群の制定と改廃を対象とする。2013年まで現行法であった1894年の制定までをインドにおける土地収用の形成期として一つの区切りとし,かつ,さらなる研究の出発点としてまずは鳥瞰しておくことが有益だと考えるからである。

本稿の掲げた英領インドにおいて土地収用制度がなぜ法的に必要とされたのか,当該制度に英領インド独自の特徴がどのような経緯と仕組みで刻まれたのかに関する先行研究の見解と本稿の発見ないし主張は,4点に整理することができる。第一は,そもそも英領インドで土地収用制度が法的に必要とされたこと自体なぜなのかという問題に関する。この論点を議論した先行研究は筆者がみた限りはみあたらないが,たとえばオーストラリアと比較すると明らかなように,このこと自体に英領インドの特徴が存在していると考えられる。すなわち,一方で,政庁側は現地住民の土地に関する重層的な権利関係を認めつつ,同時に当初は本国イギリス人の土地所有を厳しく制限しており,他方で,イギリス国王の英領インドの土地に対する主権が曖昧な状況があった。それゆえに,植民地であるにもかかわらず土地収用制度が必要とされ,同時に,その内容は,植民地であるがゆえに,議会による収用という本国で確立していた考え方は採用されずに,本国とは異なる制度が展開したと考えられる。そして,このような前提があるゆえにこそ,Krishnan[2014]が指摘しているように,英領インドの土地収用制度は,必要な土地を物理的に入手する仕組みであるとともに,対象の土地に関するさまざまな権利関係を清算して収用主体が法的に瑕疵のない土地を入手する機能を果たしたという側面があると捉えられる。また,本稿は,土地にかかる瑕疵なき所有権を政庁側が取得することを保障する具体的な規定の仕方につき,それがどう変化して一定の形式に整理・集約されていったかを明らかにしつつ,その機能の重要性を再確認する。

第二は,土地収用制度の内容的な変遷における鉄道事業の影響にかかわる。法学的アプローチの先行研究では,鉄道建設が重要であったことには触れられているものの,収用決定前の説明手続の規定がないこと,事後に補償額を争う以外の方法がないことなどの特徴が植民地遺制としての独立後の土地収用法の特徴であると一般的に議論されており,鉄道建設がどう規定の仕方に影響したかについてはあまり分析されていない。また,鉄道建設から土地収用に触れる歴史学的アプローチにおいては,鉄道建設のための便宜がどう土地収用制度の規定として体化されたのかという点は十分には検討されていない。唯一その点に触れているSamuels[2013]は,鉄道建設のために収用手続が変更されたことを1850年代のベンガルを事例に示している。本稿では,さらに,私設鉄道のための土地収用が公共目的とされたこと,しかも,英領インドにおける鉄道建設に特有の必要性に基づく仕組み,たとえば事前の立ち入りのための諸規定が土地収用一般の制度設計として組み込まれ,後の立法に引き継がれていったという点に英領インド固有の歴史的経緯と特徴が内包されていると考えられることを議論する。

第三は,公共目的の土地収用とは別に,なぜ会社のための土地収用が一般法に組み込まれたのかという論点に関連する。歴史学的アプローチの先行研究においては,おもに公共目的である鉄道を対象としており,法学的アプローチの研究では,会社のための土地収用という規定の起源についてはイギリス側の利害であるという以上には基本的には分析していない。たとえば,この規定の導入経緯に触れているKrishnan[2014]は,イギリス本国資本を英領インドに惹きつけることが課題になっていたという1860年初頭の背景に触れて,土地の供与をインセンティブのひとつとして採用した可能性を示唆している。本稿は,この考えを確認しつつ,さらになぜこのような仕組みが一般法として組み込まれたのか,そしてその意味や影響はどう捉えられるかを検討し,この観点からは,条文の上では,公共の目的のための土地収用と会社のための土地収用の適用対象の境界は不明確で,結局のところ,後者はより簡易な手続である前者の対象を広げる媒介として機能した側面がある可能性を議論する。

第四は,現地住民側の土地収用への反応とその制度への反映である。この側面は,土地収用法令の19世紀における改廃・改正を辿ると,土地を収用される側の利害は,収用後には土地に関する権利を主張できないという仕組みが定まっていくなかで,おもに補償額をめぐる紛争解決制度の試行錯誤に映し出されていると考えられる。この点は紙幅の関係もあり十分には検討できていないものの,1894年法において裁判所への付託が限定されており行政の権限が強いことをもって植民地的な遺産であるという解釈がSinha[2021]などの先行研究で示されているが,仲裁人の汚職問題の頻発や鉄道建設においては利害関係人が多数とならざるを得ないといった,よりプラクティカルな対応の妥協点という面を検討する必要があることを指摘する。

このように,本国イギリス資本の保護と誘致という目的が土地収用制度の発展において重要であったという先行研究の示す要因を含む19世紀英領インドに固有の諸要因が,法令にも特有の形を取りつつ,いくつかの段階や節目を経て組み込まれていると考えられる。以下,第Ⅱ節では,英領インドにおける土地所有に関する制度や規制を瞥見する。第Ⅲ節で,土地収用を定める法令の内容と変遷を時系列に整理しつつ,それらの特徴を抽出する。第Ⅳ節にて,土地収用制度の変遷をもたらした背景のうち鉄道の建設と会社のための収用につき,補足的に考察する。

Ⅱ 英領インドにおける統治機構と土地に対する主権

英領インドにおける土地収用制度の展開を検討するには,収用の前提となる土地に対する主権と権原の在り方を確認しておく必要がある(注9)。また,密接に関連するため英領時代の統治制度の発展にも触れざるを得ない(注10)。これら自体を論じることは筆者の能力を超え,本稿の範囲外であるが,本節では,とくにイギリス東インド会社(以下,東インド会社)やイギリス本国人による個別具体の土地の取得についての政策の変遷という観点から,必要な範囲で検討を加える。というのは,私有財産不可侵原則の上に土地収用制度があるという現代の市場経済社会を基本とする枠組みを,英領インドにおいて前提にできるかを確認しておく必要があるからである。たとえば,オーストラリアの場合,イギリス人の入植時には無主地であって先占による領土主権がイギリス国王には存すると法的には構成され,もともとの現地住民の土地権原を認めず,したがって,現地住民に対しては土地収用制度導入の必要性そのものが生じなかった(注11)。征服や割譲の場合には,もともとの現地住民の権利は現地の従来の法を通じて尊重されるという理論もあったが,英領インドにおいて,実際にイギリス側の土地への権利がどのように構成されていったのかを確認する必要がある(注12)

インドにおける土地収用制度の起源は,ベンガル法典1824年規則1号(Regulation I of 1824 (Bengal Code),以下1824年規則)にある[Law Commission of India 1958, 1]。その1条は,現地の人々の土地に対する権利は,既存の法令そして裁判所により保障されているものの,共同体の一般的な便宜のために土地を収用する必要が生じる場合があると述べている。つまり,英領インドにおいて現地住民の土地への権利は保障されており,イギリス本国人も東インド会社の各政庁も,個別具体の土地については現地の権利関係の存在を認め,そのことを前提に土地を利用する何らかの権利を得る必要があることを前提にしている。どのような経緯を辿って,そのような法的構成となったのかを本節ではまず確認していく。厳密には,ディーワーニー(徴税権や民事・財政の裁判権等を含む権限)を得て支配地を広げたカルカッタ(注13)を中心とするベンガル管区と,征服地や割譲地として支配地を広げた他の地域では異なるが,現地の土地に対する権利関係を前提にして土地収用制度が展開することは共通しており,植民地化のなかで決定的に重要であり,かつ法の整備としても先行したベンガル管区を前提に整理する。

1.東インド会社の統治制度と土地権原の再編

東インド会社は,ボンベイの管区都市の土地はポルトガルからイギリス国王へ移譲された土地を入手していたのに対し,マドラスの管区都市を建設するための土地は借入,カルカッタの管区都市のための土地についてはザミーンダーリーと呼ばれる徴税請負の権利を購入することを通じて土地を利用していた[Sinha 2021, 152(注14)。東インド会社は18世紀後半よりそうした管区都市の外にも広大な支配対象地を獲得した。ブクサールの戦いの勝利により,ベンガルとビハール,オリッサの3州のディーワーニーを免租の上でムガル帝国から1865年に入手し(注15),東インド会社の支配対象が突如として面として広がったことが重要な転換点である。ディーワーニーを得た州につき,東インド会社による直接統治が1772年に始まると,地税徴収制度と司法制度の確立が課題となった。

第一に,3州については,州の下位に県を設置して,各県に収税官と地方裁判所をおき,上級審としてカルカッタに首位民事裁判所を設置するなど,徴税のための行政組織と会社裁判所の体系を整えた。ただし,これらの組織を担う者は東インド会社職員であり,各県の民事裁判所裁判官は収税官が,また首位民事裁判所裁判官は知事と知事参事会の参事が兼任するなど,行政と司法が会社組織として分離しているわけではなかった。次第に広がった管区都市以外の地方(moffussil)については,こうした統治形態が展開された。

第二に,各管区都市については,勅任の裁判官から構成される国王裁判所がおかれた。とくに,1773年に施行されたノースの規制法と呼ばれる1772年東インド会社法(East India Company Act 1772(13 Geo. 3 c. 63))が重要である。国王裁判所としては市長裁判所がすでに3管区には存在していたが,それを置き換える形で,同法により最高法院がまずカルカッタに設置された[Singh 1987, 38-49(注16)。また,同法は,ベンガル管区の知事と知事参事会を,それぞれ総督と総督参事会とし,ディーワーニー州の民政と軍事を担当させるとともに,マドラス・ボンベイ両管区の軍事と外交に対する監督権を与えた。ただし,最高法院の管轄権が十分に明確ではなかったために総督と衝突し,1781年東インド会社法(East India Company Act 1781(21 Geo 3 c. 70))により,最高法院の管轄権は総督と総督参事会の行為や租税に関する事項には及ばないこととされるなど縮小された(注17)

獲得された広大な土地に対する地税徴収については,よく知られているように,ザミーンダーリー制やライーヤトワーリー制等の導入が行われた。これらにより従来からの現地における土地に対する権利関係の在り方に変化が生じた。もともとザミーンダーリーは,あくまでも徴税を請け負う世襲的な権利であり,土地の領有権を意味するものではなかった[小谷 2007, 271]。しかし,東インド会社政庁が,ザミーンダール等の納税義務者に対象の土地に関する従来の慣行とは異なる権利を認めていったため,土地への重層的・複合的権利関係とそれと密接に結びついた従来の社会階層関係が変容し始めた。つまり,動産等の他の商品と同様に,一筆の土地に対して排他的な使用・収益・処分の権利を一個人に帰属させる近代的土地所有権が徐々に出現し,その他の者がもっていた伝統的な土地への権利が排除ないし弱められる方向での変化が生じた。このプロセスで,もともとは共同体内でそれぞれに解決されていた土地等をめぐる紛争に,政庁(会社裁判所)と国王裁判所も関与していくことになった(注18)。土地収用制度はこのような土地に対する権利体系の再編を前提としつつ機能することになるが,本稿の観点からは次の三点が重要であると考えられる。

第一に,東インド会社がディーワーニーを得た土地についてイギリス国王がどのような権利をもつかについて議論があった[高畠 1971, 139-142]。そもそも,東インド会社のベンガル3州の支配は領土の割譲に基づくものではなく,中里[2009, 296]が指摘しているように「純然たる形式論のうえでは,イギリスのインド支配権利は万全の法的根拠を持っていたとはいえない」という問題があった。東インド会社はディーワーニーを得たのであって,ムガル帝国の主権はイギリスが直接に支配に乗り出す1858年まで存続していたとも解されるからである。ノースの規制法はこの問題には決着をつけず,その後も論争は続き,1773年に初代総督となったW・ヘースティングスは,ムガル帝国には帝国の土地に対する絶対的な財産権のようなものは存在したと考えられ,その後継者である東インド会社に土地所有権が与えられたと考えるべきであり[Sinha 2021, 152],イギリス国王を東インド会社の統治する地域における主権者とすべきと主張していた[Sen 1997, 68-70; 刈谷 2008, 38]。他方で,総督参事会参事のP・フランシスは,欧州人が英領インドで土地の権利を得ることに疑問を呈し,欧州人は天候や土地に適した耕作の方法もわからず,現地での欧州人人口も極端に少なく,現地人の土地を奪うことは危険であり,不当でもあると主張していた(注19)。1784年の時点でも,当時の首相ピットは東インド会社の支配する土地に関する主権の問題を未解決のままにすることにした[Smith 1958, 522]。つまり,18世紀後半の時点では課税や裁判などの統治権限はあっても,イギリス国王や東インド会社の事実上の支配地に対する領有権ないし所有権の性格は明確ではなかったと考えられる。

その上で,第二に,現地の土地に関する争いは,現地の法や慣習により裁定されることとされた。会社裁判所では1780年代までには,現地の慣習に詳しくないイギリス人の裁判官が,ヒンドゥーやムスリムの法曹関係者の補助を受けながら判断した裁判例が新たな規範となっていくという慣行が始まっていた[Singh 1987, 50-53]。国王裁判所についても,1781年東インド会社法は,最高法院の管轄範囲で現地の人に関する訴訟を扱う場合には,「土地,地代および財に関する相続と継承,ならびに当事者間の契約や取引にかかわるすべて」はイスラーム教徒はイスラーム教,ヒンドゥー教徒はヒンドゥー教の法や慣習によって裁定するよう定めた(17条)。つまり,会社裁判所だけでなく,最高法院においても訴訟当事者自身の宗教等の慣行を規範として現地の土地に関する争いを判断することが確認された[De 2016, 22; Sinha 2021, 152]。これらのことは,変容はしつつも,地域や宗教等の人や集団ごとに異なる現地伝統の土地に対する権利関係が地税収入に支障のない限りは尊重されることを意味し,こうした東インド会社の統治下で新たに展開した司法制度を通じて,宗教等に基づく伝統的なルールが改めて規範として再編されていったと考えられる[Roy and Swamy 2016, 10-26, 81-84; 水島 2007, 306-313]。

第三に,東インド会社職員を含む欧州人による英領インドにおける土地の取得は原則として禁止された。Arnold[1983, 135]は,「1766年に,イギリスによるベンガル支配の道を開いたプラッシーの戦いから9年後であるが,ロンドンの会社取締役会はイギリス生まれの臣民によるインドにおける土地の所有を禁じることによって入植への反対を示した」と述べている。ベンガル法典1793年規則38号(Regulation XXXVIII of 1793(Bengal Code))もまた,どの国の欧州人も「総督参事会の許可なしに,カルカッタ市の外で,いかなる土地も,直接的にまたは間接的に,購入し,賃借しまたは占有してはならない」(3条)と定めていた。もちろんこうした規制を迂回する方法や例外は存在したものの,原則としては東インド会社政庁による欧州人の土地保有の抑制は1824年まで続いた(注20)。その理由としては,第一に,会社職員の私的な経済活動を規制するなどして会社の税収や貿易の独占を安定的に維持すること,第二に,欧州人の入植は英領インド現地の治安や秩序を脅かす可能性があること,また,北アメリカのような自治ひいては独立の動きが入植欧州人により展開される可能性も視野にあったこと,が指摘されている[Arnold 1983, 136-137]。

2.イギリス本国人による土地所有禁止の解除

英領インドにおいて,東インド会社で働いている者以外の欧州人は,19世紀に入っても1500人ほどと少なく,また東インド会社はインドへの渡航申請を厳しく運用していた(注21)。ただし,東インド会社に対する風当たりはすでに18世紀末から厳しさを増していた。

ピットのインド法と呼ばれる1784年東インド会社法(East India Company Act 1784(24 Geo. 3 Sess. 2 c. 25))は,東インド会社取締役会と東インド会社政庁を監督する監督局(Board of Control)をイギリス本国に設置した。この時点では,東インド会社の商業部門は独占権を享受し続けたものの,そのインド統治や外交,軍事は監督局を通じて本国政府の統制に服することとなった。19世紀に入ると,マイソール戦争などの成果として,マドラス管区とボンベイ管区でも管轄する領土が著しく拡大していくが,本国政府そして政府への影響力を強めていた新興の産業資本の利害が英領インドの政策にも次第に反映されていく。1813年特許状法として知られる1813年東インド会社法(East India Company Act 1813(53 Geo 3 c 155))は,綿業などの産業資本家による市場拡大の圧力と会社の財政的破綻を背景に,東インド会社による貿易独占を,茶と中国貿易を除いてついに廃止した。英領インドが,イギリス製品の消費地かつ工業原料の供給地に変貌しつつあったことがその背景にある(注22)

また,割譲地あるいは征服地であるその他の地域同様に,1803年にムガル皇帝を服属させてからは,東インド会社政庁やイギリス本国政府はディーワーニー地域にも領有権を主張するようになる。1813年特許状法1条では,東インド会社政庁の「領域的取得地(Territorial Acquisitions)は,その地に対する大英連邦国王の疑いなき主権……を害しない範囲で,……当該会社政庁の保持のままとする」と定めており,東インド会社の支配している領域はすべてイギリス国王の主権の及ぶ地であることを前提とするに至っている[高畠 1971, 160; 山崎 2000, 414]。ただし,Bhattacharyya[2015, 50-52]は,河川の流れの変化により生じた新しい土地の帰属は基本的には現地の慣行に従うこととし,例外的にのみ政庁の所有とすると定めたベンガル法典1825年規則11号(Regulation XI of 1825(Bengal Code))に明らかなように,1820年中頃までは政庁の土地の接収に対する考え方は慎重だったことを指摘している(注23)

さらに,1813年特許状法では,欧州人の渡航や居住,土地の所有については取締役会の許可が必要だとする規制は基本的に維持されたものの,申請を拒否する場合には監督局の承認を求めることが義務づけられた(33~41条)。このように,東インド会社領でのイギリス本国人による土地の利用や所有の原則禁止に対する修正が始まった。

第一に,コーヒー・プランテーションについて欧州人による土地の賃借を1824年5月7日付けの総督の決議(Resolution)で認め,さらに1828年2月17日にインディゴその他の農産物のプランテーションにもこの規制緩和が適用された(注24)。欧州人のプランターが土地を入手してのインディゴなどの生産を強く望んでおり,また東インド会社がインド綿以外の輸出品目を欲していたことなどもその背景にある[多田 1971, 177-181]。ただし,東インド会社取締役会は,こうした自由化は会社の独占的な地位をさらに弱めると考えて反対姿勢であり,運用は厳しくするように求めていた。たとえば,この規制緩和に対する取締役会の反対は激しく,総督(W・C・ベンティンク)は解雇されそうになったほどであったと報告されている[Arnold 1983, 135]。

第二に,一般のイギリス本国人が東インド会社領内に土地を所有すること,旅行や居住することの自由が,ついに1833年特許状法として知られる1833年インド統治法(Government of India Act 1833(3 & 4 Will 4 c 85))において認められた。同法は,前文にて「国王陛下のインド領土(his Majesty’s Indian Territories)のより良い統治のため」の法であると明記して東インド会社の支配地はイギリス国王の主権の及ぶ地であり,その1条で東インド会社は国王の信託によりインドを統治すると規定した。さらに同法は,総督の名称をインド総督とし,総督の任命権限は会社取締役会が保持するもののその任命には監督局を通じた国王の承認を必要とするなどの統制強化のほか,茶や中国貿易の東インド会社による独占を廃止し,会社は基本的に商業組織ではなくインド統治のみの機能に収斂させられた。同法86条は,英領インドに居住することを認められたイギリス臣民が,「土地,または土地より生じる権利,利子もしくは利益を,獲得および所有」することは適法であると規定し,同時に,居住の許可を受けていない者にも総督参事会がこの権利を適用することを認めている。この法を受けて政庁は1837年法律4号(Act No. IV of 1837)を制定し,同年よりイギリス臣民は英領インド内において,期間の長短を問わず土地を取得し所有することが認められた(1条)。

また1833年特許状法は,イギリス本国の議会制定法や裁判例,英領インドの各政庁の法令や裁判例,現地のヒンドゥー法やイスラーム法などの慣習法などが乱立し,裁判規範が混乱している状況にも対処しようとした。具体的には,同法は,インド支配の中央集権化と法令の整理も行っており,マドラスとボンベイの各管区の立法権を剥奪し,英領インドの政庁の立法権を総督参事会に集約した(注25)。また,同法は,総督参事会につき,立法参事会の仕組みを導入した。4名の参事のうち3名はすべての事項の審議に参加するが,第四の参事は立法に関する審議についてのみ出席し投票することになり,執行参事会と立法参事会の区別が導入された。さらに,総督参事会の立法はインド政庁法(Acts of the Government of India)であり,イギリス本国の議会法(Acts of Parliament)と同じ効力をもち,英領インドの裁判所すべてを拘束することとされた。これらの変更を反映して,総督参事会により制定された法はそれまでのRegulationではなくActと称されることになった。なお,東インド会社取締役会は総督参事会の法案に対する拒否権を保持した。さらに,1833年特許状法にはイギリスのコモン・ローや現地の慣習などを法典化してインド統治に役立てる目的をもった法律委員会の設置も盛り込まれた(注26)

東インド会社による支配を通じて近代的な土地所有権が出現しつつあるなかで,土地に関する登記制度の改革も徐々に展開していた。たとえば,マドラス法典1802年規則26号(Madras Regulation XXVI of 1802)は,収税官の登記所に登記されていない土地の移転は,裁判で効力はもたず,もともと登記されていた者の納税義務は免除されない,と規定している(3条)。ただし,この規定からも明らかなとおり,登記は所有権の保障ではなく,地税の確保が目的である。後に,土地登記に関する初めての一般法である1864年法律16号(Act No. XVI of 1864)(注27),財産移転に関して現行法でもある1882年財産移転法(Act IV of 1882, Transfer of Property Act, 1882)がインド政庁により制定され,土地売買契約など一定の文書には登記義務が課された。ただし,登記義務の対象とされていない相続などによる権利変動も存在する。実際,1872年インド証拠法(ActⅠof 1872, Indian Evidence Act)では,土地取引に関連する登記された書類についても,地税関係の書類についても,それらは土地所有に関する確定的な証拠としての法的効果は与えられず,裁判にて他の証拠を提出して反証することが可能であった(注28)

以上,東インド会社の支配対象地はイギリス国王の主権の及ぶ土地であると1813年には法文上で構成されている。しかし,それに先行して,現地住民の土地への権利は制度的に認められていた。しかも,現地住民のそれぞれの属する社会集団の法や慣習が適用されるとされたこと,また,土地に関連する登記は所有権の所在の確定的な証拠とならないということは,土地の買主や借主は後から相続等による権利関係者であると名乗り出た者から訴訟を提起される可能性があり,十分な注意と調査をしてもなおそのような不確実性に晒される仕組みであった[Roy and Swamy 2016, 80-103]。このことは,任意の契約で土地を得る限り,1820年代より規制を緩和されて英領インドにおける土地の所有権の取得を認められるようになったイギリス本国人やイギリス系資本はもちろん,基本的には英領インドの各政庁も同様であった。このような仕組みにこそ,英領インドにおける土地収用制度の展開の重要な前提がある。つまり,土地についても,政庁をも当事者として会社裁判所および国王裁判所で現地の住民が争えるとした仕組みの存在がまず重要な前提として存在していたのである(注29)

Ⅲ 土地収用にかかわる法令の展開

前節では,英領インドでは,オーストラリアなどと異なり,土地が無主物であることを前提としてイギリス国王から所有権等を得るという法的構成で政庁やイギリス本国人が土地を入手することはできず,現地の土地に関する権利関係を前提に土地を利用しあるいは取得する必要があったことを確認した。本節では,19世紀における土地収用法令の展開を検討する。3管区にそれぞれ異なる法令が導入された後,1857年に初めて土地収用に関する一般法令が政庁により制定され,イギリスによる直接統治の時代に入って1894年法に収斂していくまでの軌跡を,独立後に土地収用制度の問題点を調査したLaw Commission of India[1958, 1-4],廃案となった1894年法改正法案(1927年)を考察したKrishnan[2014, 58-108],2013年法の特徴を歴史的にも遡って検討したSinha[2021, 151-163]の整理を手掛かりとして,おもに原文の法令と立法に関する政庁の資料を確認しつつ辿る。

1.東インド会社支配時代の土地収用法令制度の展開

上述したように,インドにおける土地収用制度の起源は1824年規則にあり(注30),1824年は英領インドにおける欧州人によるプランテーションのための土地取得に対する規制緩和が始まった年でもある。また,頻繁に流れを変える河川の護岸工事と活発化していた経済活動のためにカルカッタ周辺の運河を整備する計画が進められており,東インド会社政庁は周辺の土地を得て,あるいは自らがザミーンダールとして賃貸に出していた土地の賃貸借契約を前倒して終了する必要に迫られていた[Samuels 2013, 52-53]。そもそも,イギリス本国で産業資本が台頭して英領インドもその製品市場かつ原料の供給基地として再編されつつあり,そのための交通網の整備が課題となりつつあった。さらに,東インド会社が1780年以来独占権をもっていた塩の製造に必要とされる土地についてザミーンダールとの争いがあり,東インド会社側の土地所有権を確認する必要も生じていた(注31)。つまり,東インド会社の政策は,商人資本的な性格に加え,産業資本的な相貌を見せ始めていた。

このような背景のなかで英領インド初めての土地収用法令として東インド会社政庁により制定された1824年規則1条は,ベンガル管区に属する全地域において,「公益事業(public utility)のための作業や計画(works and arrangements)が不当に妨げられないよう,また,収用される財産に利害をもつ者すべてが適正かつ完全な補償を提供されるよう」定めると規定する。続いて2条は,「公共の道路,建物,運河,下水,監獄の建設のために,またはその他の公共目的(public purpose)のために」必要とされる土地等につき,「私的な交渉による当該土地の購入について妨げが存在する場合には」,そのような「公共事業(public work)」の実施を授権された職員等に,必要な土地を確定する権限を与えている。さらに,対象となる土地に旗を立てた上で太鼓をたたくなどの手段を用いて公示し,そのような公示を始めた日から15日以上の期間を設けた日時場所にて利害関係人に申し出るよう定めている(2条)。合意がなされたか,異議が提出されたかなどすべての情報を政庁に提出するよう担当職員に義務づけ(2条),権利関係者の異議がある場合でも,総督参事会は補償額を裁定する仲裁人を任命して収用を進めることができると規定している(3条)。補償が支払われた後に引渡しを拒む者がある場合には,担当職員は治安判事に執行を訴えるべきとの規定があり(7条4項),土地の引き渡しは,補償が支払われた後であることが前提とされている。とくに重要なことは,この規則に定められた手続により東インド会社政庁に収用された土地については,収用にかかわった職員の汚職などを理由とする場合を除き(7条3項),いかなる訴訟も「政庁の土地権原を否定しまたは妨害することは認められない」と規定していることである(6条5項,7条3項)。つまり,ひとたび収用されると,その土地に関する権利関係は事実上清算されて,いわば完全な所有権を政庁が入手する仕組みを定めている。土地収用である以上,地権者から強制的に所有権等を収用権者に移し物理的に土地を入手する仕組みを定めることは当然である。ただし,議会による収用を原則とする本国イギリスでは,収用を個別のケースにつき議会で議論し,個別法律で収用権限を事業提案者に付与し,また,収用自体も地権者に司法の場で争うことを認めていた点で,この1824年規則の仕組みは著しく異なっている[Goswami 2004, 52; Shankar 2018, 492]。

その後,1824年規則がさほど使われた形跡はないが,1840年代から鉄道の建設が課題となると本規則が注目された[Samuels 2013, 72]。鉄道建設のための土地収用は,とくにその規模や関係する権利者の数などにおいてそれ以前の土地収用とは決定的に異なっていたからである。まず,1850年法律1号(Act I of 1850)は,1824年規則の1条から7条は「総督により公共目的のために必要であると宣言されたカルカッタ市内にあるすべての土地に適用され,また,そのような宣言はその土地が必要とされる目的が公共目的であるということの確定的な証拠である」(1条)と規定した。つまり,1824年規則では収用された後に政府の土地権原は裁判にて争えないとしていたが,公共目的に関する裁判的統制の排除については明確ではなく,この規定は,公共目的であるか否かという問題については総督の宣言が法的に最終的であり,裁判では争えないことを明確にしている。

次に,1850年法律42号(Act XLII of 1850)は,ベンガル管区に属する地域において,政庁の認可に基づき建設される鉄道はすべて,1824年規則の規定する「公共事業」に該当するとして(1条),私企業による鉄道建設のために同規則を用いることを可能とした。さらに,同法は,補償をした後に土地を入手するという1824年規則の基本的な前提に変更を加え,鉄道建設等の調査や線を引くための立ち入りや木の伐採を担当職員に認め(2条),そのための補償は事後に定めるとし(3条),これを妨害する場合の罰則も設けた(4条)。さらに,同法は,即時の保有(immediate possession)を行う権限も担当職員に与え,その場合の補償も事後でもよいとした(5条)(注32)。そのほか,工事などのために道路等の中央線から100ヤードを超えない範囲で臨時の占有(temporary occupation)を行う政庁側の権限を定め(7条),1824年規則と異なり,担当の職員は政庁に報告する必要がなく(8条),1824年規則の定める手続に反して土地が収用されたとしても,本法の施行前であれば本法の施行の時から5年,本法の施行後であれば,その収用の時から5年経過すれば裁判では争えず,また5年以内に争って勝訴したとしても土地の返却ではなく,金銭賠償のみを認めるという規定も盛り込まれた(9~11条)。

このように,鉄道建設のための土地収用を対象とするに至って,土地収用のその強権的な性格が強められたことが条文上も観察される。たとえば,即時の保有の規定を用いれば,事実上,補償が支払われた後で土地を取得するという手続を迂回して,土地を入手した後で補償を支払うことができる仕組みとなった[Samuels 2013, 108]。

ボンベイ管区では,1839年法律28号(Act XXVIII of 1839)が,「ボンベイとコラバの島々における,既存の公共の道,通り,もしくはその他の往来または下水」(15条)を拡張しまたは建設するために土地収用を定めた。この規定により収用された土地については,関係人はすべての権利や権原,利益を失うと明記されている(16条)。その後,1850年法律17号(Act XVII of 1850)が,1839年法律28号の15条から21条を鉄道のための土地収用にも適用できることとした。

マドラス管区については,1852年法律20号(Act XX of 1852)が公共目的の土地収用に関する規定を導入した。同法も,ある土地が公共目的のために必要であるとするマドラス知事参事会による宣言は,その収用が公共目的であるという確定的な証拠となるとする(1条)。この点は,1850年法律1号と同じであるが,1850年法律1号(1824年規則を適用)や1839年法律28号と異なり,道路や下水などの具体例は列挙しておらず,さらに,この1852年法律20号は,収用後の土地は,すべての権利関係から自由となって「政庁に完全に付与され(be vested absolutely)」,また「政庁によって収用された土地を回復するために開始された訴訟は,どの裁判所において提起されたものであれ,費用を課されかつ却下される」(3条)という規定を盛り込んでいる。後述するように,公共目的の収用の具体例は明示せず,この収用前のすべての権利関係を消去して収用後は政庁の完全な土地所有権の対象となるという定め方が後の法令に若干の文言の変化を伴いつつ受け継がれていくという意味で英領インド特有の規定の仕方となる。また,同法により,ベンガル管区につき鉄道を公共事業に含めた1850年法律42号は,マドラス管区にも適用されるとされ(20条),次いで,1854年法律1号(Act I of 1854)は,1952年法律20号はマドラス最高法院の管轄する地域にも適用されるとした。

さらに,1850年代には,個別ケースであるが,鉄道以外の民間投資に対しても土地収用制度を適用する1856年法律22号(Act XXII of 1856)が制定された。ベンガルにあるKurratiya河の航行が一年を通じて可能になるようにしたいと現地のザミーンダールであるP・K・タゴールが提案していたが,その際,土地収用にかかる費用は彼が政庁に補償するので,土地の入手について1824年規則の適用を求めたことが背景にある[Krishnan 2014, 75-76]。政庁は同法を制定し,政庁が指示する民間人に,同河川を航行するすべての船舶類から料金を徴収することを認め,航行を可能とする目的で,公共目的のためとして,その支出が政庁の支払いによるか私人によるかにかかわらず,1824年規則の規定に従って土地を収用することができると定めた(5条)。

1850年代には,東インド会社領がさらに広がるなかで,特許状の改訂を20年ごとではなくいつでもできると改正した1853年特許状法として知られる1853年インド統治法(Government of India Act, 1853(16 & 17 Vict. c. 95))が制定されるなど,本国の東インド会社に対する統制は強まっていた。次節で論じるように,とくに広域の鉄道の敷設が経済や治安の観点から望まれる状況にあった。このような展開を経て,1857年に東インド会社領インドすべての公共目的の土地収用に関する一般法である1857年法律6号(Act VI of 1857,以下1857年法)が制定された。ボンベイ管区については,ボンベイとコラバ諸島の外における土地収用の根拠法がなかったため,マドラス管区に適用されている1852年法律20号に基づく新たな法案が検討されていた。しかし,他の管区との整合性や収用法令の適用がない地域の存在などの観点から,政庁は東インド会社領インド全土に適用すべき法律を策定する方針に転換し,1857年法の成立に帰結した(注33)

1857年法は,1824年規則と1839年法律28号の土地収用関連規定,1850年法律1号,法律17号,法律42号,1852年法律20号,1854年法律1号を破棄し,それらに代置するものである(1条)。前文で,「東インド会社政庁が保持している地域内における公共の目的に必要な土地の収用についてのより良い規定,また,そのための補償額の決定に関するより良い規定を策定する」と述べている。同法は先行する土地収用に関する法令の集大成でもあり,それらに現れていた英領インド特有の土地収用規定の仕方を取り込んでいる。たとえば,対象は「公共目的のために公共の支出で地方政庁により収用することが必要なすべての土地」であり,そのような宣言がある特定の土地についてなされた場合,その宣言は土地収用の目的が公共目的である確定的な証拠となる(2条)と定めて,対象となる具体例は基本的には明示しない定め方を採用している。なお,公共の目的に鉄道の建設が含まれるのかは明記されていないものの,いくつかの条文(33条など)には道路と運河とならび鉄道が言及されており,公共目的に鉄道建設が含まれることはすでに自明視されていたと考えられる。

また,1857年法は管区間で違いがあった手続を整理した。具体的には,収用の実務は県の収税官または授権された職員が実行し(3条),権利関係者は告知から15日以上を空けて指定される日時に指定の場所に名乗り出る必要がある(4条)。指定された日に収税官は即座に補償額を決定し,この額に権利関係者が同意すれば,その裁定は土地の価値と補償額について最終かつ確定となる(5条)。補償額について同意ができない場合には仲裁人が選定される(6条)。収税官による裁定がなされ,または仲裁人に委ねられた場合には,収税官は即座に当該土地を保有でき,その土地はそれ以降,「その他すべての受益権(estates),権利,権原,および利子から自由」となり,政庁に完全に付与される(8条)。また,仲裁人による補償額の裁定も腐敗の理由を除けば裁判で覆されないと規定された(31条)。さらに,道路,運河,鉄道については,臨時の占有についても定めた(37条)(注34)。このように,土地収用の手続一般の仕組みとして,補償額が同意されるか,同意されなくても仲裁人に付託されれば,いずれのケースでも補償が支払われない段階で,政庁側はすぐに土地を取得できる仕組みに整理された。

収用によって収用前の土地に関する権利関係が除去されるとする1857年法8条の重要性の証左となる判決が1865年に下されている。1852年法律20号には収用後に土地に関する権利を主張する者の訴えは費用を課され却下されると明記されているが,1857年法にはそのような文言は存在していない。この点,同法によって鉄道建設のために農地の一部を収用された地主が,彼の土地で働く農民が居住地から耕作地にアクセスできなくなったため,彼と彼の農民に対して鉄道を横切る道に対する権利を認めるよう訴えを起こした(注35)。県裁判所などの下級審は原告の訴えを認めたが,カルカッタ高等裁判所は,そのような通行権を含めて以前に存在していた権利はすべて土地収用とともに消滅していると判示した(注36)。つまり,収用によって当該土地がさまざまな権利から自由となり,政庁に「完全に付与される」ということの意味が,ここで確認されている。このように,この文言が収用後の訴えを遮断する規定として機能したと考えられる。

以上,東インド会社時代,とくに1850年代に土地収用制度の骨格が出来上がったことが理解できる。第一に,1824年に初めて公共目的のために制定された土地収用制度が,1850年代には私企業による鉄道建設も公共目的として含むとされた後,英領インド全域に適用される1857年法へと展開している。第二に,どの土地収用の法令も,所有者や占有者を物理的に排除して対象の土地を使用することのほか,収用によってそれ以降の土地への権利の主張をすべて遮断する効果を含んでいることが確認できる。そのような効果を確保するための規定の仕方としては,①土地収用が公共目的のために必要であることについては政庁に最終的な判断権があり,その裁判的統制を排除するという規定と,②収用された後は従前の権利関係から自由となり完全に政庁に付与されるという規定に整理されたことが明らかとなった。第三に,公共目的の土地収用手続一般の規定として定められるに至った仕組みのうちには,当初は鉄道の建設のために盛り込まれた規定が含まれており,そのことがいわば覆い隠されて条文化されていることが確認できる。

2.イギリス直接統治時代の土地収用制度の展開

1857年の大反乱の後に,イギリス本国議会により1858年インド統治法(Government of India Act, 1858(21 & 22 Vict. c. 106))が制定された。インドにおける統治権限や財産を東インド会社からイギリス国王に移し,本国においては,それまでの監督局と東インド会社取締役会による統治から,新たに設置された15人から構成されるインド評議会(Council of India)の補佐を受けたインド担当相(Secretary of State for India)による統治に変更された。現地については,インド総督は国王に任命されることとなり,副王(honorific of Viceroy)かつ総督とされた。さらに,1861年インド参事会法(Indian Councils Act, 1861 (24 & 25 Vict. c. 67))は,参事会のうち5名の参事は国王ないしインド担当相による任命として行政を担い,総督が任命する6~12名の参事が立法を担当することとした。

直接統治開始からほどなく,新たな展開のあった重要な土地収用制度の変更は私人のための土地収用である。1857年法は,次節で論じるように,私人の事業のための土地収用については議論の後に盛り込まないこととなり,そのための規定を含んでいなかった。したがって,Kurratiya河事業について土地収用を認めた1856年法律22号のように,私人の事業のための土地収用は個別の法律で認められる場合にのみ可能であるという前提になっていた。この状況において,私人のための土地収用を一般的に政庁に授権する1863年法律22号(Act XXII of 1863,以下1863年法)が制定された。

具体的には,1863年法は政庁に,「私人または会社(private persons or Companies)による公益事業の施設建設(the construction of works of public utility)」(前文)のために土地を収用することを可能にした(注37)。公益事業の施設とは,「橋,道,鉄道,路面鉄道,灌漑もしくは航行のための運河,河川もしくは港湾改善のための施設,ドック,埠頭,突堤,下水施設,または電信」を意味し,さらに,総督参事会は,列挙されたもの以外の,ある範疇の施設または特定の施設を公益事業の施設であると宣言することができる(2条)。そうした公益事業の施設を提案する私人または会社は地方政庁に予備申請を行い(4条),政庁が提案の公示や提案に対する異議の検討を経て当該事業を暫定的に登録すると決めた場合には,提案者はデポジットを行った上でインド担当相と合意を結び,政庁はこの合意を官報に公示し,当該事業が公共事業(public work)として最終的に登録されたことを宣言する(6~18条)。必要とされる土地が確定されると,地方政庁は1857年法の手続に従い土地を収用でき(26~29条),収用された土地は政庁に完全に付与され,政庁が権利関係者への補償義務を負い,提案者は政庁に対して収用費用を支払う義務を負う(30条)。すべての条件が満たされたならば,地方政庁は提案者に土地の保有を移すことができ,以降,政庁または提案者の土地に関する権原を他者は争えない(31条)。施設は政庁が課した条件に従って公衆が利用可能でなければならず,こうした条件を遵守しないがゆえに生じた損害を施設の所有者を相手として何人も訴えることができ(34条),他方,施設の所有者は使用料金を徴収することができる(35条)。このように,私人または会社のための土地収用の手続は,対象が例示列挙されている点も含めて,一般の公共目的の土地収用を定める1857年法よりも厳格なものとなっていた。

このような内容をもつ私人と会社のための土地収用の一般法である1863年法は公共目的の土地収用の一般法である1857年法とともに1870年に破棄され,両者を統合した1870年法律10号(Act X of 1870,以下1870年法)が制定された。同法は,対象となる土地は「英領インドすべて(the whole of British India)」である(1条)と定め,章(Part)を設けている。第一章(1~3条)は通則,第二章(収用)はさらに5つの節に分けられており,4~5条は事前調査,6~10条は収用の宣言,11~13条は価値と請求の調査,14~15条は収税官による裁定,16~17条は土地の取得である。第3章は裁判所への付託とその手続(18~36条),第4章は補償の配分(37~39条),第5章は支払い(40~42条),第6章は土地の臨時占有(43~45条),第7章は会社のための土地収用(46~50条),第8章が雑則(51~59条)を定める。つまり,一般の公共目的の土地収用の手続を基本とし,会社のための収用の手続が別に定められている。本稿の観点から重要な本法の特徴は三点挙げられる。

第一に,収用された土地について,収用後には収用の公共目的あるいは会社のための必要性についても,何らかの権原に基づく土地の回復についても,裁判では争うことはできないという規定の仕組み,さらに補償の支払い前でも政庁側が土地を取得できるという仕組みが改めて維持された。まず,1870年法6条は,「ある特定の土地が公共の目的のため,または会社のために必要とされると地方政庁が思料する場合」,そのような宣言がなされ,その宣言は,「公共の目的のためまたは会社のために当該土地が必要である」ということの確定的な証拠となると規定する。また,16条は収税官が裁定を行ったとき,または裁判所に補償額の争いについて付託したとき,収税官は土地を取得することができ,それ以降その土地は「土地に対するすべての負担(encumbrances)から自由となり」,完全に政庁に付与されると規定する。そのほか,裁定がなされておらず裁判所に付託されていない場合であっても,地方政庁が緊急であると命じるときにはいつでも,一定期間が過ぎたあとに収税官はいかなる土地も取得でき,それ以降は政庁に当該土地は完全に付与されると規定された(17条)。

第二に,1857年法では補償額について収税官が同意により解決できない場合,仲裁人に決定を委ねる方式を採用していたが,この役割を1870年法は民事裁判所とした(15条)。1857年法では,仲裁人の任命などについて詳しい規定があるが,補償額等の理由を示すよう仲裁人は義務づけられておらず,その額の決定の指針もなく,仲裁人は料金等を課すこともできた。この仲裁人による補償の仕組みが汚職等で機能しなかったため,1870年法は裁判所による解決方法を導入した。ただし,司法の関与は基本的に補償額だけであり(21条),上述したように,収用自体について争う道は認められていないという点は維持された。

第三に,1863年法は私人と会社による公益事業のための土地収用を定めていたが,1870年法は会社のための土地収用のみを定めた。また1863年法には「会社」の定義は定められていなかったが,1870年法では,会社とは,1866年インド会社法(Indian Companies’ Act, 1866(Act X of 1866))のもとで登録された会社,または本国議会の制定法もしくは勅許状により設立された会社を指すと明記された(3条)。また,1863年法は53条から構成されていたが,1870年法では会社に関する規定は46~50条の5カ条のみである。事前の同意を要求しさらに合意を結ぶといった手続の後に収用が可能となるという点は1863年法を基本的に踏襲しているが,一定の場合に施設の所有者を相手として何人も損害を訴えることができるという規定が削除されている。さらに,1863年法は,私人または会社のための収用条件として,公益事業の施設に該当するか否かについては,橋や道路などを列挙しつつ政庁に一定の裁量を与える形の定めを採用していた。これに対して,1870年法は,48条において「土地収用が何らかの施設の建設に必要であること」,かつ,「その施設が公衆に有益であると証明される可能性が高いこと」とのみ定めている。つまり,1870年法では,1863年法で用いられていた公益事業の施設ないし公共事業という文言は避けられて,単に施設(works)とのみ使われ,また施設の例示リストも削除されており,会社のための土地収用の適用対象を狭めるにしても広めるにしても,政庁による裁量の余地が広くなったと考えられる。

この1870年法は,さらに,2013年まで120年間用いられることになる1894年法に代置された。そのおもな理由は,1870年法により導入された裁判所への付託の仕組みが問題を引き起こしていたことにある。権利関係者が出席しないケースや補償額に不満である者が一人でもいると,収税官は裁判所に付託せねばならないため困難が生じていることが指摘されている(注38)。とくに鉄道のための収用の際には多数の関係者が集まらねばならないが,収用対象の土地が小さい所有者が出席しないために,補償額に満足している地主が何度も手続に参加しなければならないといった問題が頻発していた(注39)。そこで,収税官の裁定を原則的には最終として,裁判所への付託を限定するための変更が1894年法で行われた。

その他の規定ついては,1894年法は章構成も1870年法と同一であり,たとえば,政庁の土地収用の必要性に関する宣言がその確定的証拠となると定める6条や権利関係を清算した土地が政庁の所有に帰すと定める16条など,ほぼそのまま踏襲している。会社に関する土地収用条項の章もほぼそのまま1870年法から引き継がれたが,43条が加えられた。同条は,鉄道あるいはその他の会社のための土地収用について,収用後に土地を当該会社に提供することが合意により政庁に義務づけられている収用については,会社のための収用の章は適用されないと規定している。つまりこうしたケースは,一般の公共目的の手続でよいという規定である。また,同条は,鉄道会社のための土地収用について,会社のための土地収用に関する1870年法の規定は適用されたことはないとみなすとも明記している。つまり,1870年法の制定の結果,会社による鉄道建設が公共目的の土地収用手続を使うのか,会社のための土地収用手続に従うのかという問題が生じていたことを解消し,鉄道建設は前者であることを1894年法は明確化している。

以上,1858年にイギリス本国政府による直接統治となってからは,1894年までに次のことが展開していたことがわかる。第一に,1857年法の時点では個別の法律の制定によると考えられていた私人と会社のための土地収用について,1863年法が一般法として制定された。第二に,1857年法と1863年法は,1870年法に一つにまとめられ,その際に,私人と会社のための土地収用については,私人は除去され会社のための土地収用のみとなった。第三に,1870年法を1894年法に置き換えた際に,会社のための土地収用でも,政庁が当該土地を会社に提供することを事前に合意している場合には一般の公共目的の土地収用手続でよいとされた。第四に,1857年法が,1870年法,1894年法と代置されていったおもな理由は,補償額をめぐる争いの解決方法にあった。第五に,収用の必要性に関する政庁の判断は裁判的統制に服さず,また収用した土地についてはそれまでの権利関係が消去されて政庁に完全に与えられ,補償額を除けば争えないという1857年法で整理され確立された仕組みは一貫して引き継がれた。

Ⅳ 土地収用制度における英領インド特有の特徴

前節でみた1894年法の制定に至るまでの関連法令の展開の整理を前提とすると,実に多くの検討すべき論点があることがわかる。本節では,紙幅の関係もあり,英領インドの土地収用制度の仕組みや規定の在り方に重要な影響を与えたと考えられる以下の二つの相互に関連する問題について補足的に検討する。第一の論点は,私企業による鉄道建設のための土地収用が公共目的とされた経緯と公共目的の意味である。第二は,このような公共目的の一般法とは別に私人または会社のための土地収用の一般法が1863年に制定され,1870年法で私人が除去されつつ公共目的と会社のための土地収用が併存する一つの法に統合され,さらに1894年法で会社のためであっても土地を提供することが事前に合意されている場合には公共目的の手続でよいとされるまでの変遷をどう理解するかである。

1.鉄道の建設と公共の目的

美濃部[1936, 5]は土地収用制度について,「殊に鉄道の発達は此の制度を世界に普及せしめた重要な要因」と指摘しており,前節で確認したとおり,インドにおいても鉄道と土地収用の関係は重要である。よく知られているように,英領インドでは,元本とともに利子を株主に政庁が保証した民間会社により鉄道の建設と運営が行われた(注40)。しかも,19世紀末までにはイギリス本国を総距離数で大きくしのぐ鉄道網をもつに至っており,松井[1969, 182]は,インドにおける鉄道建設が「異常な速度をもって推進された」と評している。ここでは,この鉄道建設の問題を土地収用制度との関係に絞って検討を加えたい。

イギリス本国では,すでに述べたように議会による収用が原則であり,鉄道についても土地収用条項を含む鉄道法(Railways Acts)が個別法律(注41)として1841~42年にいくつか制定されている[山本 1954, 7-29(注42)。それらの内容としては,会社設立の許可やその有限責任を定めるほか,対象となる土地を特定した上で当該会社に土地を収用する権限を授与していた。一般法律として制定された1845年土地条項統合法(Land Clauses Consolidation Act, 1845(8 & 9 Vict. c. 18))がこれら鉄道法の収用条項を整理して提示し,その後の個別法律は同法の条項を引用する形となる。ただし,同法は土地収用権限を政府や会社に付与するものではなく,各会社が土地収用権限を得るにはあくまでも各個別法律の制定が必要であった。

これに対して,英領インドでは,公共目的の土地収用については各政庁が対象の土地や必要性についての決定権を一般的に授権されており,また,私企業による鉄道建設のための土地収用もこの公共目的に1850年代からは含められた。この仕組みでは基本的に政庁が必要であると認めれば土地収用は実施され,これを争う方法も補償額を除けば法的にはないため,政庁が大きな裁量を有していた。しかも,英領インドでは,立法と行政の区別が1850年代から導入され始め,立法参事会への現地の人間の任用も1861年インド参事会法による改革後には始まったものの,少なくとも現地の利害を代表するような議会が存在するわけではなかった。

ただし,1853年特許状法は政庁の立法にイギリスの立法手続に類似した手続を要求するようになっており,英領インドで初めての土地収用の一般法である1857年法の草案に対して,現地のザミーンダール等の有力者から構成される英領インド人協会(British Indian Association)が,土地収用権限を個別法律で授権するイギリスの仕組みを英領インドでも適用すべきだと総督参事会に請願した記録が残されている(注43)。立法参事会はこれを退け(注44),英領インドでは本国とは異なる土地収用の仕組みにより,公共目的の土地収用が一般法として制定され適用されることとなった。しかも,上述したとおり,1857年法では先行した法令と異なり道路等の対象となる例示リストも基本的には示されておらず,公共目的の決定は政庁の裁量に委ねられ,その決定が最終となる定め方に整理されていた。そこで,政庁の公共目的の考え方が重要となる。

英領インドにおける鉄道事業の開始は,1834年に蒸気機関による鉄道建設の提案がなされたことに遡る。鉄道への注目は,第一に軍事的あるいは政治的な必要性である。治安維持やロシアの南下圧力に対処するために軍隊の効率的な移動を確保する必要性があるという観点から鉄道の建設が訴えられた。第二に商業目的である。勃興しつつあった綿業関連などの産業資本家やプランターが原料の輸入と内陸部の市場を目指したこと,また,鉄道・鉄鋼自体の輸出も重要であった。第三に投資目的である。本国の投資家も安定的な収益の見込める投資先として英領インドにおける鉄道建設に期待をかけていた。ただし,鉄道の建設はイギリス本国と同様,英領インドでも民間部門による建設が前提であり,1844年にR・M・スティーヴンソンなどの鉄道建設のプロモーターが政庁の支持を取り付けていた。つまり,これらの諸要因が事実上,土地収用の根拠たる公共目的の中身を構成することになる。角山[1973, 488-489]は,「インド経済には本来鉄道を要求する国内的自主的要因はな」く,「支配者としてのイギリス・ブルジョワジーの強い要望だけがインドに鉄道を強制した」と述べているが,収用法令上の公共目的の意味もそのような性質を帯びたものであると考えられる。

また,英領インドにおける鉄道建設のための土地収用については,本国と同様に土地収用権限を鉄道会社に授権する案もあったが,イギリス資本を誘致するためには土地の提供だけでなく利子保証もする必要があるという意見や,軍事目的からも政庁が土地を収用して所有し,鉄道会社に賃貸すべきという意見もあった[Thorner 1977, 44-68, 151-152; Settar 1999, 22-29]。最終的には,政庁が土地収用を行い,鉄道会社には土地を無償の長期リースの形で提供することに1846年までには決定した。この仕組みは,当初は費用を鉄道会社が支払う形で土地収用をするよう政府に提案し,後にイギリス方式を導入して土地収用権限を鉄道会社の設立のための個別法律に含めるよう要請していた鉄道会社にとって望外の福音であったであろうと指摘されている[Krishnan 2014, 60-66]。

かくして,前節でみたように,1850~52年の間に鉄道事業のための土地入手を公共目的の事業とする法改正が行われた。利子保証についての議論も決着し,1853年にボンベイとターナー間に初の鉄道が開設され,1869年末までに6000キロメートル以上もの鉄道が敷設された。1869年から鉄道建設は政庁が実施することになったが,1880年以降は再び民間会社による鉄道建設を容認し,政庁と民間双方での建設が進められ,1905年までに4万5000キロメートル近くの鉄道が敷設された。1869年までの鉄道建設の原資はほぼイギリスから投資され,その5分の2はイギリスでの物資調達に使用された。さらにジュート産業,茶プランテーション,海運業,銀行業などにも本国からの投資が活発化し,1861年にはアメリカ南北戦争を契機に英領インドに綿花ブームも起こり,1865年にはカルカッタ・ロンドン間に電信が開通するなど,イギリス資本が浸透していった(注45)。こうしたイギリス資本を政治経済的な脅威から守るために,インド支配の一層の引き締めが求められることとなり,鉄道建設はその一環としても進められたと考えられる。

このように土地収用法の展開が,鉄道建設を中心とするイギリス本国側の利害を強く反映していたと考えられ,公共目的の意味もそのような観点から捉えられるが,現地住民側の利害は公共目的という概念の解釈や,条文の仕組みには反映されなかったのであろうか。この点,鉄道のための土地収用が実際にどのように進んだのかについての研究が興味深い事実を指摘している。ボンベイにおける鉄道建設のための土地収用について,ボンベイ政庁が相対的に迅速に収用を進めることができた理由は,補償額の提供や地税の減額,駅の設置要望への対応など柔軟な交渉を行ったゆえである可能性を示す研究がある[Rodrigues 2010]。また,ベンガルの鉄道建設のための土地収用では,補償額が一律で低いために争いが頻発していたが,1857年の大反乱の後,政庁側がより良い条件を出すようになったために紛争が減少したと報告する研究がある[Sarkar 2010]。これに対してデリーにおける鉄道建設については,大反乱後にむしろ軍による強制的な移住などの威嚇的な行為を背景に土地収用が容易になっていたことを指摘する研究がある[Shankar 2018]。

つまり,これらの研究は,条文のレベルではなく,その適用ないし運用のレベルでの現地住民の利害への対応を示唆している。こうした実際の鉄道のための土地収用の進行,とくに現地住民側への影響やその主体的対応はまた別途研究する必要があるが,少なくとも,民間会社による鉄道建設を公共目的に含め,政庁が土地を収用して鉄道会社に提供するという仕組み,しかも収用の決定自体は争えないという仕組みが,鉄道の急速な建設を支え,そのことによってより広くイギリス資本の便宜に資していたと考えられる。もちろん,そのことと鉄道会社の経営問題は別であり,料金体系などにおいて鉄道会社はさまざまな制約を受け,また利子保証制度が健全な経営を妨げ,しかもその利子保証の原資は政庁の財政,つまり現地での収税であったために,ガバナンスが働かないという問題が次第に露呈していた。松井[1969, 190]は「鉄道は主としてイギリス側の必要により,イギリス人の利益に即して,おそらくはインド経済の水準に不相応な速さで,多くの浪費を伴いつつ,建設された」と述べているが,このような建設を可能にした要因のひとつが,民間会社による鉄道事業を公共目的に含めた土地収用制度の形成と展開であったと考えられる(注46)

2.会社のための土地収用

資料を確認してみると,英領インド全土に適用された初めての土地収用法である1857年法の当初の草案では,私人が補償する形で政庁が私人のために土地を収用する条項が入っていた。しかし,私人の支出によりその私益のために実施される事業のための土地収用については,「政庁の執行権限ではなく,その立法権限」,つまり立法参事会の判断に委ねるべきとの議論がなされ,私人のための土地収用条項は削除されたと立法参事会の議事録にある(注47)。かくして,1857年法による土地収用の対象は,公共目的のために公的な支出によって政庁が行う場合に限定された。民間事業である鉄道が公共目的とされて一般的に政庁に収用権限を与えていたという本国とは異なる規定の仕方と,上述した公共目的の意味内容のいわば本国バイアスをもってしても,鉄道以外の民間事業のために一般的な土地収用制度を定めることはこの時点では政庁も考えていなかったと把握できる。

しかし,私人のための土地収用については立法参事会で個別に判断するという考え方は,1863年法の制定により覆され,鉄道以外の民間事業のために一般法として政庁に土地収用権限を授権する仕組みが導入された。その背景としては,第一に,1861年インド参事会法により立法権限がボンベイやマドラスにも復活したため,それらの政庁が別々に個別の事案につき私人のための土地収用を認めるよりも,一般法として定めることが便宜であるというコンセンサスがあったと立法過程の参事会の議論にある(注48)

また,第二に,Krishnan[2014, 78-81]は,政庁の財政的な逼迫もあり,イギリス資本の誘致という課題が当時は強かったという要因を指摘している。1863年法は,イギリス資本所有の炭鉱会社が鉄道支線を建設し本線とつなぐために政庁が土地を収用してはどうかという別の法案に発端があった(注49)。政庁はそのような支線は公共目的ではなく,1857年法はその土地収用を認めていないと考えたのに対して,私益のために土地を収用できないことが原則だとしても,炭鉱は別であり,間接的に公共の利益があるという主張がなされた(注50)。また,当時,鉄道会社の利子保証の補填が政庁の財政負担になっていた。そこで,1862年に保証のない形での鉄道への民間資本誘致が行われるなど,鉄道ひいては炭鉱など広い意味での公共性をもち得る事業へイギリスからの投資を惹きつける仕組みの必要性が議論されていた。さらにこの1863年法と同日に成立した1863年荒蕪地請求法(Waste Lands Claims Act, 1863(Act XXIII of 1863))は,荒蕪地と政庁がみなす土地を私人や会社等に売却し,その土地に対する権原は売却の後は争えないとするものである。参事会の議論では,1830年代から始められていた紅茶プランテーション等のさらなる開発のために,本国資本を惹きつけるための立法であることが読み取れる(注51)。このように1860年代は,イギリス資本の誘致という課題があり,そのことが,炭鉱会社の鉄道支線建設のための土地収用という当初の案が拡張されて,私人または会社のための事業に土地収用制度を適用するという仕組みを一般法として定めることに帰結した一因であると考えられる(注52)

ただし,続く1870年法では私人が対象から除去され,会社のための土地収用だけとなっている。当時は,元利保証鉄道会社の放漫財政問題など会社の経営問題が噴出しており,むしろ会社に絞ることに合理性があったのかという疑問があり,この点,1866年会社法の制定が影響し,公的なものへの関わりとして,私人やパートナーシップなどよりも会社のほうがよいという判断ではないかとする説もあるが[Krishnan 2014, 111-121],参事会の議事録からはその理由は明確ではない(注53)。さらに重要なことは,私人ないし会社のための土地収用において1863年法で明文として存在していた公益事業の施設・公共事業という文言とその具体例の列挙が削除され,単に施設が「公衆に有益であると証明される可能性が高いこと」とされたことである。つまり,主体については私人を排して会社に限定しつつ,目的対象は公衆にとって有益かという要件のみで判断できるよう柔軟化しているように読める。その結果,この1870年法は,1863年法と比較して私人や会社のための土地収用を限定する方向を目指したのか広げようとしたのか,条文上は不明瞭で両義的になっている。

このような1860年代以降における会社のための土地収用に関する条文の一般規定化とその定め方の変化の背景には,英領インドの社会経済が世界市場により深く組み込まれ,民間の商業活動や産業もさらに再編され始めていたことがあると考えられる(注54)。ただし,その特徴は地域ごとに大きく異なっていた。たとえば,カルカッタを中心とする地域ではジュートや紅茶などの世界市場と結びつく形での欧州資本の展開が顕著であり,ボンベイを中心とする西部では綿製品などにおいて現地の資本家が活発に活動していた。鉄道の敷設距離数も急速に伸び,蒸気船による航路網の発達もあり,さらに両者が接続され,そのことが輸送費と輸送時間を節約して,英領インドにおけるイギリス製品の市場を広げ,また英領インドからの食糧や工業用原料の輸出,海外への労働者の移動などを刺激していた。つまり,海外貿易と国内交易が相互作用しつつ増加し,深い社会変化を英領インドにもたらしつつあった。こうした変化のなかで,当然ながら,政庁がどのような役割を果たすべきかについても考え方の対立があった(注55)。レッセフェール的な考え方に立つのであれば,私人間の土地の取り引きは契約に基づき,私人や会社のための土地収用というような制度の必要性は低いという含意となる。これに対して,プランテーションなど大規模な土地を必要とする産業などについて育成政策を展開したいという考え方に立てば,現地の土地権利関係が複雑であるため土地収用を介して土地を供与する必要性が高いことを前提に,私人や会社のための土地収用の必要性を重視する主張が帰結される。1870年法の規定の仕方は,一方で私人は排して会社のみとしたものの,対象については抽象的な内容となったために,政庁側の裁量が広く,いずれの立場にも整合し得る規定となっている。

さらに1894年法では,会社のための土地収用と考えられる場合であっても,鉄道やあらかじめ政庁から会社への土地の提供が決まっている事業については,会社のための土地収用手続規定を用いず,より簡易な公共目的の手続でよいことが明確化された。いいかえると,公共目的の概念が結局のところ広げられたと解せられる(注56)。そうすると,どのような会社がどのようなケースにおいて会社のための土地収用手続を使うのかという問題が残る。この疑問について,法の改正を担当したH・W・ブリスは,対象を明確に定義しきれていない文言となっている可能性を認めつつ,公衆が間接的にしか利益をもたない会社や公衆が直接には利用し得ない施設を運営する会社のために本法を用いることは意図しておらず,ある施設が「公衆のために有益である可能性が高いとしても,本法は,それゆえ,紡績または縫製会社や鉄鋼会社などの会社のためには用いられない」と述べている(注57)。同時に,政庁が石炭などの鉱山の採掘権を与え,ロイヤリティが政庁に支払われている場合には,「そのような会社の事業は公共目的のためと考えられ,その拡張のために本法の規定を適用することは適切であろう」と述べている(注58)。これをもって小規模企業は対象ではなく公共的なインフラストラクチャーを想定していたと解する研究[Roy and Swamy 2021, 75]と,少数ではあるが出現しつつあった現地の地場企業は対象としないという主旨ではないかと解する説がある[Krishnan 2014, 131-139]。二つの説は相互に排他的ではないが,後者の説を敷衍すると,繊維産業や鉄鋼産業などについては本国の資本家が英領インドで現地資本による生産が展開することに懸念をもっていたため地場企業のためには土地収用しないということを述べており,つまり,会社のための土地収用を利用できる主体として想定されているのはイギリス資本の会社ということになる。いずれにしても,ブリスが認めているように会社のための収用手続の対象を明確に定義できず,公共目的による収用手続の対象を広げたように解釈できるという1894年法の問題は独立後にも同法の運用に影響することになる(注59)

おわりに

インドの土地収用制度に関する植民地時代からの継続性に注目し,本稿では1894年法の制定までの歴史を辿った。本稿で確認されあるいは見出された事項は第Ⅰ節で示したように4点に整理できると考えられ,改めて簡潔にまとめたい。

第一に,英領インドでは,土地について現地住民の権利関係が認められており,また,土地の取引後に土地への何らかの権利を主張する第三者が訴えを起こすことを,たとえ政庁が一方の当事者であろうと排除できない制度が形成されていた。それゆえにこそ,土地収用制度が必要とされ,その制度は対象の土地の権利関係をいわば清算して当該土地に対する完全な所有権を政庁側が入手する手段として機能したと考えられる。また,本稿では,このような機能を担保する法令の規定の変遷とその定め方の特徴を明らかにした。

第二に,19世紀半ばに始まった英領インドにおける鉄道建設はイギリス資本の民間会社により実施され,1850年代前半までには土地収用の対象である公共目的に含められた。公共目的については政庁の判断が最終とされたため,土地収用法令上の公共目的とはイギリス資本の保護とその誘致を前提としたものとなり,その他,たとえば調査のための立ち入りや補償支払いの時期に関する当時の英領インド特有の鉄道建設の必要性ゆえに導入された規定が土地収用の一般規定として組み込まれ,以降は前提化して後の法令に引き継がれていったと考えられる。

第三に,私人や会社のための土地収用について,個別の法令で対応するという当初の考え方が覆されて一般法である1863年法が導入されたこと,その背景については,本国からの投資を惹きつけるという時代の要請があったと考えられることを確認した。また,1870年法,1894年法と,この会社のための土地収用手続の対象が不明瞭となっていったことを検討し,会社のための土地収用手続の導入とその規定の変更は,政庁の果たすべき役割の考え方の対立や変遷のなかで,その位置づけを明確にできないままに曖昧化したのではないかと考えられること,また結果的に,会社のためであってもより簡易な公共目的の手続により収用を行うことを容易ならしめる余地を制度に埋め込んだ可能性を指摘した。

第四に,収用される側の現地住民への影響やその利害の制度への反映は,本稿では十分に検討できながったが,収用が実施された後には土地に対する権利の回復を認める訴えは認められないという仕組みを前提として,一つには,条文レベルで補償額をめぐる紛争解決制度の1870年法と1894年法の変更に現れており,もう一つには,運用レベルで補償額等に関する柔軟な対応など,時代,地域によって異なることが示唆されている。

このように19世紀における土地収用制度の展開は,先行研究が指摘してきたように,イギリス資本の利害を色濃く反映しているように観察される。ただし,たとえば土地の権利関係について現地の慣習を適用するなど,英領インドの土地収用制度の展開の基層には,オーストラリアなどと異なり,英領インドではイギリス本国人が圧倒的に少数であったという要因も重要であろうと考えられる。また,密接に関連して,イギリス本国人による英領インドの土地の取得や利用を基本的には禁止する政策を1820年代まで採用していたという経緯もあった。すなわち,水島[2007, 293]が指摘している,「自国よりもはるかに巨大で複雑な歴史的成立ちをもつこの地域を,圧倒的に少ない人数で支配するために,現地社会からの反発をできる限り招かないようにする,そのためには当該社会の制度や慣習には手をつけない,というのが当初の会社の方針であった」ということの影響が,土地収用という分野の展開においても看取できる。このような制約の下,時代とともに変化する状況のなかで土地収用制度も展開し,その時々の要請を個別の条項の中に一般規定として刻み込んできたと考えられる。

1894年法を120年ぶりに代置した2013年法を子細に確認すると,住民側の権利重視の方向へ振り子の針を振ってはいるものの,その多くの規定は植民地期の法令に遡ることができる。本稿では十分に検討できなかった論点や対象とし得なかった論点,たとえば土地収用制度の地域住民側への影響とその対応や,1894年法の制定から独立までの現実の運用などについては,また別の機会を期することにしたい。

[付記]

本研究はJSPS科学研究費「インドの経済発展における土地収用問題についての研究」(19K12539,研究代表者:佐藤創)ならびにJSPS科学研究費「近代中国都市不動産政策の比較制度史的研究」(23H00676,研究代表者:田口宏二朗)の助成を受けたものである。またJSPS科学研究費「中印比較史の創生:データベースに基づく総合的研究」(21H04361,研究代表者:村上衛)の研究会において本研究の草稿を報告する機会をいただいた。上記各事業のメンバーならびに本誌2名の匿名レフェリーから,貴重なコメントを多数いただいた。ここに記して感謝したい。もちろん誤りがあればすべて筆者の責に帰する。

(南山大学総合政策学部教授,2022年12月1日受領,2024年1月12日レフェリーの審査を経て掲載決定)

本文の注
(注1)  2000年代以降のインドにおける土地収用問題については,日本語文献では,佐藤[2012]森[2017]佐藤[2019]を参照。

(注2)  憲法372条により,破棄されない限り英領時代の法令は現在も有効である。

(注3)  大統領令は国会再開後6週間以内に両院の承認を得られない場合には失効する(憲法123条)。

(注4)  土地収用は,中央と州の共通立法管轄事項であり(憲法246条第7附則),州は中央とは要件の異なる法律を制定することができる(憲法254条)。グジャラート州などで一定の場合に2013年法の要件を緩和する州法が施行されている。

(注5)  当然ながら,各国の土地に対する権原の歴史や私的所有権の保障の在り方などに応じて土地収用制度の詳細には違いがある。各国の土地収用制度を比較したものとして,たとえば,韓国,インド,タイ,エクアドルの4カ国を比較したKitay[1985],日本やアメリカ,中国を含めたアジア太平洋諸国7カ国を比較した小高・キャリーズ[2006]を参照。

(注6)  英領時代の統治主体を指すgovernmentには政庁の訳をあてている。筆者が接し得た限りの英領時代の法令においては,東インド会社政庁(Government of the East India Company),インド政庁(Government of India),地方政庁(local Government),政庁(Government)が用いられている。なお,本稿ではとくに区別をする必要がない限りこれらを単に政庁と呼称している。

(注7)  ケルカルはインド独立の初期の運動家B・G・ティラクの側近であった。

(注8)  立法にかかわる資料としては,英領インドの政庁の立法にかかわる議事録(1854年以降)であるIndian Legislative Seriesにとくに依拠している。

(注9)  英領インドにおける地税と土地権原変容の関係についてより詳しくは,日本語文献では,水島[2007]中里[2009]小谷[2012]小川[2019]を参照。また,Chaudhry[2016]は,イギリス側と現地社会の土地に関する権利概念の把握の仕方の違いから生じたさまざまな困難を,法思想史的な視角から再検討している。土地収用を検討する前提として重要な論点であり,本来は,property rightやproprietary rightなどイギリス側が当てはめた概念の妥当性から検討する必要があるが,本稿では留保をおいた上でこれらの用語を所有権と訳している。

(注10)  英領インドにおける統治制度についてより詳しくは,日本語文献では,松井[1970]高畠[1971]山崎[2000]小谷・辛島[2004]水島[2007]中里[2009]を参照。また特許状法など英領インドの統治にかかわる法令類の英語原文の資料集としては,Banerjee[1961],英領インドに適用されていた法令類の種類と立法権限の変遷については,Chalmers[1897]を参照。本節でも別に断りのない限り統治制度の展開についてはこれらの文献に依拠している。

(注11)  オーストラリアなどの無主地とされたイギリス植民地は,本国と同様に国王の領土となり,各個人は国王から土地の権原を得ると擬制された[金城 2005, 1-3]。

(注12)  Blackstone[1765, 93-115]は,無主地や併合地,征服地,割譲地にどうイギリス法が適用されるかを整理しており,イギリスにより征服されあるいはイギリスに割譲された,すでに自らの法を有している国については,イギリス国王がそれらを変更するまでは,「その国の伝統の法が有効である」[Blackstone 1765, 105]と述べている。金城[2005, 3-4]も参照。

(注13)  現在は,ボンベイはムンバイ,マドラスはチェンナイ,カルカッタはコルカタなど,都市や州の表記について変更されているケースがあるが,以下では英領時代については当時の名称のままとしている。

(注14)  対象地の徴税を請け負うザミーンダーリーという権利を購入することにより,ムガル帝国への納税義務を負うとともに,現地の人間の権原のない荒蕪地等を自由に利用できるようになった[小谷 2007, 268-269]。

(注15)  ムガル皇帝に毎年260万ルピーの支払いを行うことが条件であったが,免訴されたということは,実質的に収租権を得たことを意味する[小谷 2007, 272-273]。

(注16)  なお,1801年にはマドラス,1824年にはボンベイにも最高法院が設置された。最高法院以前にも1726年に設置された各管区の市長裁判所,1799年にボンベイに設置された登録官裁判所などがあり,会社裁判所とは異なる勅任の裁判官を配置する裁判所が国王裁判所と総称されている。植民地期の司法制度については,日本語文献では,香川[1980]山崎[2000]を参照。

(注17)  なお,政庁と国王裁判所の対立はベンガル管区だけでなく,他の管区でもしばしば起こるところとなった。より詳しくは,日本語文献では,長尾[2016]稲垣[2020]を参照。

(注18)  統治する側から介入したというだけでなく,現地住民側にも,従来からの村落などの紛争解決制度だけでなく,新たに設立あるいは再編された司法制度を利用しようとする動きがあった[Roy and Swamy 2016, 10-26]。

(注19)  フランシスによる1775年の覚書(Report from the Select Committee on the Affairs of the East India Company, 1830, 259)。

(注20)  Report from the Select Committee on the Affairs of the East India Company, 1830, 345.

(注21)  Arnold[1983, 136]によると,英領インドに赴きたいという申請のうち,1814年から1831年の間に東インド会社が認めたのは1253人である。そのうち,192人はミッショナリー,106人がインディゴ・プランター,78人が法曹関係者,250人が商人である。

(注22)  英領インドの農民がイギリス製品を買うことができるよう地租の引き下げが本国で主張されるなど,東インド会社政庁は,英領インドからの輸出よりも,イギリス商品の購買者を増やすよう努めるべきという圧力を受けるようになっていた。貿易構造の変化も著しく,英領インドからの輸出はイギリスへ輸入される際に関税を支払う必要があり,英領インドは綿花,生糸,インディゴ,茶,穀物などの一次産品を輸出する構造に変化しつつあった。松井[2021, 430-452]を参照。

(注23)  同規則は,いくつかのケースを想定して基本的には現地の慣行で現地の者の所有に帰するとしており,かつ,同規則の想定しているケースに該当しない変化の場合には,裁判所が,「現地の確立した慣行に従って,もしそのような慣行がない場合には,衡平と正義の一般原則に従って」判断すると定めている(4条5項)。

(注24)  Report from the Select Committee on the Affairs of the East India Company, 1830, 345-347.

(注25)  なお,同法により総督参事会は,インド参事会(Council of India)という名称になったが,後の1858年に本国に設置されるインド評議会と英語名が同じとなったため,後にインド総督参事会(Council of the Governor General of India)に名称を変更された。

(注26)  1834年に設置された第一次法律委員会は刑法典など,1853年に設置された第二次法律委員会は民事訴訟法典など,1861年に設置された第三次法律委員会は契約法,証拠法など,1879年設置の第四次法律委員会は信託法,財産移転法などについて報告書を作成した。H・メインなど立法参事会参事も1860年代から70年代前半にかけて,会社法や土地収用法など多く法律の制定に関与している。英領インドにおける法典化や法律委員会についてより詳しくは,内田[1970; 1974]を参照。

(注27)  1864年以前の登記に関する各種法令は,同法の附則に同法によって破棄される法令一覧として記されており,18世紀後半から各管区でそれぞれ展開していたことが伺える。

(注28)  確定的な証拠とはそれを覆す目的で他の証拠を提出することを裁判所は認めてはならないということであり,それに対して,事実と推定すべき証拠,あるいは事実と推定することができる証拠については,反証が認められる(1872年インド証拠法4条)。

(注29)  1840年代には,政庁が原告ないし被告として争われる裁判が毎年500件あまり提起されており,租税や政庁による土地の使用など,土地にかかわる争いが少なくない[Sykes 1849, 6-10]。

(注30)  ポルトガルからイギリスに割譲され,東インド会社が統治することとなったボンベイについては,1668年に,土地を収用する場合には居住ポルトガル人に補償を支払うなどの取り決めがなされている(Aungier Convention of 1668)。その他については,1824年以前は,強制収用に関する規定はなく,基本的には,交渉による任意売買という形で土地は取得されていたと考えられる。より詳しくは,Krishnan[2014, 238-239]を参照。

(注31)  1824年規則の9条から15条は製塩のための土地の一時的な占有と使用に関する規定である。ベンガルやオリッサで製塩のために使用する土地についての争いが生じており,永代土地査定の前後を問わず,東インド会社が土地を占有して製塩を開始してより何らの請求も受けずに12年が経過している土地は東インド会社政庁の完全な財産とみなされることがこの規則には盛り込まれている(9条12項)。政庁による製塩への介入については神田[2017, 52-57]を参照。

(注32)  イギリス法の用語では,保有(possession)は所有権の移転は伴わないものの責任と利益の移転はある権利の形態であり,占有(occupation)はそのような権利の移転をいずれも伴わない単なる対象の支配形態を指すと一般には整理される。Bryan A. Garner ed. 2014. Black’s Law Dictionary, Tenth Edition, St. Paul MN: Thomson Reuters.

(注33)  Proceedings of the Legislative Council of India, 1856 Vol. II, pp. 534-536.

(注34)  なお,1861年法律2号(Act II of 1861)により,土地の臨時の占有について対象を広げる権限を政庁に与える改正が行われた。

(注35)  Collector of the 24-Pergunnahs v. Nobin Chunder Ghose (1865) 3 The Weekly Reporter 27.Krishnan[2014, 93-94]も参照。

(注36)  なお,1865年の時点では,1861年インド高等裁判所法(Indian High Courts Act 1861 (24 & 25 Vict. c. 104))により,それぞれの管区の首位民事裁判所・首位刑事裁判所と最高法院を廃止し,それらを統合して代置する高等裁判所がそれぞれの管区に設置されて,東インド会社時代の会社裁判所と国王裁判所の並列は解消され,一元化されていた。山崎[2000, 393-400]を参照。

(注37)  同法では,workは施設を指す場合と,そうした施設の建設を行う事業を指す場合とがあるように見受けられるので,適宜訳し分けている。

(注38)  Abstract of the Proceedings of the Council of the Governor-General of India Assembled for the Purpose of Making Laws and Regulations, 1892 Vol. XXXI, 32-44, 1893 Vol. XXXII, 1-3, 1894 Vol. XXXIII 34-64.

(注39)  Abstract of the Proceedings of the Council of the Governor-General of India Assembled for the Purpose of Making Laws and Regulations, 1893 Vol. XXXII, 48-50.

(注40)  英領インドにおける鉄道建設の展開についてより詳しくは,日本語文献では,三輪[1960]松井[1969]牧野[1970]角山[1973]藤田[1974]渡辺[1985; 2000]を参照。本節の英領インドにおける鉄道建設に関する説明も,別に断りのない限りこれらの文献に依拠している。

(注41)  個別法律(private act)とは「特定の地域のみに関する法律(local act)と特定の個人または団体のみに関する法律(personal act)の両方の総称」である(田中英夫編 1991.『英米法辞典』東京大学出版会, p. 664)。

(注42)  1875年公衆衛生法(Public Health Act, (38 & 39 Vict. c. 55))など,ある種の公的事業については,収用対象の土地を指定せずに一定の公的主体に一般法律により土地収用権限が付与される場合もあったが,そうした法律がない場合には個別法律による授権が必要であった[山本 1954, 39-42]。

(注43)  Proceedings of the Legislative Council of India, 1857 Vol. III, 158, 199-200. Samuels [2013, 200-201, 215-231]も参照。

(注44)  さらに,政庁の法案に対する拒否権限をもつ東インド会社取締役会にも請願したが,取締役会もまたイギリス式土地収用の仕組みを英領インドに導入することは,公共事業の建設の遅れをもたらすだけであると拒絶している。Krishnan[2014, 241-243]を参照。

(注45)  東インド会社が解散して直接統治に移行した1858年から,1868年の期間をみると,イギリスの対外投資先として英領インドが最大となり,かつその大半は鉄道への投資であり,そのほか,英領インドへの輸出も急増した時期である[角山 1973, 488]。Stone[1999, 82-87]は1865年から1914年までのイギリスから英領インドへの資本輸出の推移を示しているが,1865年から1871年まで鉄道への投資が突出しており,Stone[1999, 372-381]の示す地域別のイギリス資本輸出の対鉄道投資では,1865年から1870年まで英領インドが最も多く,その後はアメリカの鉄道への投資が最大となっている。

(注46)  鉄道の建設は,枕木の調達のために森林の権利関係にも変化を及ぼしたと考えられる。土地収用制度と,森林の管理と保護について定めた1865年法律7号(Act VII of 1865),1878年インド森林法(Indian Forest Act, 1878(Act VII of 1878))の関係についての検討は,また別の機会を期したい。

(注47)  Proceedings of the Legislative Council of India, 1857 Vol. III, 201.

(注48)  Abstract of the Proceedings of the Council of the Governor-General of India: Assembled for the Purpose of Making Laws and Regulations, 1862 Vol. I, 166-168, 1863 Vol. II, 48-49.

(注49)  Proceedings of the Legislative Council of India, 1861 Vol. VII, 658-662.

(注50)  鉄道支線につき1857年法を適用するための法案を提案しているSeaton-Karrの主張を参照[Proceedings of the Legislative Council of India, 1861 Vol. VII, 660]。また,Krishnan[2014, 78-81]を参照。

(注51)  Abstract of the Proceedings of the Council of the Governor-General of India: Assembled for the purpose of making Laws and Regulations, 1863 Vol. II, 40-41.

(注52)  立法過程の資料をみると,私企業のための鉄道支線用の土地収用に関する法案(Proceedings of the Legislative Council of India, 1861 Vol. VII, 658-662)が,鉄道のほか道路や運河へつなぐ支線用の土地収用を含む案として再提出され(Abstract of the Proceedings of the Council of the Governor-General of India: Assembled for the Purpose of Making Laws and Regulations, 1862 Vol. I, 28-29),さらに支線だけでなく,一般に私企業による公益事業の施設のための土地収用法案へと拡張され[Abstract of the Proceedings of the Council of the Governor-General of India: Assembled for the purpose of making Laws and Regulations, 1862 Vol. I, 166],1863年法として制定されている。

(注53)  会社に限った理由の背景としては,登記手数料などを含む広い意味での税収の問題も目を配る必要があるかもしれない。この点も含めて,制定過程の議論や実際の運用を,また別途検討する必要がある。

(注54)  19世紀後半における英領インドの社会経済変化についてより詳しくは,たとえば,Roy[2012](第6章,第7章),柳澤[2019]を参照。本段落の記述もこれらの文献に依拠している。

(注55)  たとえば,1870年法における会社のための土地収用の定め方の背景につき,Krishnan[2014, 121-124]は,当時の総督である第6代メイヨー伯爵が政庁主導での茶プランテーションなどの産業育成を意図し,1871年には土地収用を管轄する部署と農業,商業を管轄する部署が一つとされるなどの動きがあったことを指摘している。より詳しい検討が必要であるが,当時はレッセフェール的な経済政策の考え方と政庁主導で産業育成政策をすべきとする考え方が対立していたことに注意する必要がある。

(注56)  公共目的の土地収用と会社のための土地収用のいずれの手続を用いるかは独立後も議論となり,わずかでも公的な機関からの支出により土地収用の費用が賄われていれば,公共目的に該当するとの1961年の最高裁判決(Pandit Jhandu Lal v. The State of Punjab, AIR 1961 SC 343)が下されてより,独立後も会社のための土地収用の手続の対象は著しく不明瞭となった[佐藤 2012, 125-6]。

(注57)  Abstract of the Proceedings of the Council of the Governor-General of India Assembled for the Purpose of Making Laws and Regulations, 1892 Vol. XXXI, 36-37.

(注58)  Abstract of the Proceedings of the Council of the Governor General of India Assembled for the Purpose of Making Laws and Regulations, 1892 Vol. XXXI, 37.

(注59)  独立後,会社のためと思われるケースでも,より簡易な公共目的の手続を用いて土地収用が頻繁に行われており,そのことが,とくに1990年代以降の土地をめぐる社会的な摩擦の一因となった[Ray and Patra 2009, 42-43]。1894年から独立までの1894年法の意義については,ニューデリーの都市建設のための土地収用はもちろん,20世紀初頭の現地資本であるタタ製鉄のための土地収用の実施や,土地収用の事前告知への権利関係人の異議申立てを導入した1923年の同法の改正,現地資本側に有利な改正をしようとした1927年のケルカルによる改正法案などの展開を含めて,また別途検討する必要がある。

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