Ajia Keizai
Online ISSN : 2434-0537
Print ISSN : 0002-2942
Article
Re-“enacting” the Constitutional Revolution: First Amendment to the Iranian Constitution (1925) and Establishment of the Pahlavi Dynasty
Yoshiaki Tokunaga
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2025 Volume 66 Issue 1 Pages 2-28

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《要 約》

本稿は,パフラヴィー朝成立に伴う第1次憲法改正について,国民議会および第1次憲法会議における法的な議論,ならびにその政治的背景に着目しつつ分析する。この憲法改正は,単にイラン史上初であっただけではなく,イラン国憲法典に規定がなかった憲法改正にかかる慣行を打ち立てた点でも重要であった。上記の分析を通じて本稿では,レザー・ハーンおよび側近らが新王朝を建設するにあたり,少なくとも形の上ではイラン国憲法典を尊重する姿勢を示し,立憲革命の先例をふまえて憲法改正を行ったことを示す。この戦略のもとレザー・ハーンらは,憲法典の護持を旗印に結束するモダッレスら反対派の論拠を弱め,彼らの抵抗を抑えて新王朝を建設することに成功した。しかしながら,その過程で形作られた煩雑な改正手続は,後の憲法改正を抑制する方向に作用し,憲法典が規定する国王権限と実際にレザー・ハーンが有する権力との間に深刻な不一致を生じさせる一因となった。

Abstract

This study analyzes the first amendment to the Iranian Constitution (1925) and the establishment of the Pahlavi Dynasty (1925–1979), focusing on the legal arguments and their political background. This not only was the first amendment in the constitutional history of Iran but also established conventions regarding the amendment procedures for the Constitution of 1906-07, which had no such provisions at the time of its establishment. An analysis of parliamentary and other contemporary sources reveals that Reza Khan and his aides, including Ali Davar, followed precedents set during the Constitutional Revolution when they undertook the first constitutional amendment to enthrone Reza Khan as the first Shah of the Pahlavi Dynasty. Based on this strategy, they succeeded in weakening the legitimacy of their opponents, who had gathered together under the slogan of protecting the Constitution, thereby facilitating the suppression of opposition against Reza Khan. However, the complicated procedures developed through the first constitutional amendment process made it more difficult to further amend the Constitution. This contributed to the creation of a huge discrepancy between the royal authorities ordained by the Constitution and the actual political power of the Shah.

はじめに

Ⅰ 憲法改正に関する先例の発見

Ⅱ レザー・ハーンの憲法改正運動

おわりに

はじめに

西アジアの憲政史において,イランは,その長い歴史に比して憲法典の改廃が少ない国として知られている。なかでも,同国初の近代憲法典であったイラン国憲法典(注1)は,立憲革命期からレザー・シャー(Rezā Pahlavī, 首相在職1923~25年;国王在位1925~41年)(注2)支配期,その退位後のデモクラシー期および石油国有化運動期,1953年クーデタ後のモハンマドレザー・シャー支配期に至るまで,その施行期間において政治体制が頻繁に転換したにもかかわらず,4度の軽微な改正が行われたのみであった。結果として同憲法典は,政治的な実態との乖離が明白であったにもかかわらず改正されないまま残された,空文化した条項を少なからず含むことになったのである。

以上の状況をふまえ,アズィーミーらこれまでの研究は,イラン国憲法典が国王ら権力者によって恣意的に解釈されてきたことを強調し,同国の立憲制が表層的なものであったと論じてきた[Azimi 2008, 5-6, 293-296; Arjomand 1992, 54-59, 80]。しかしながら,この指摘は,政治体制の変化にあわせて抜本的な憲法改正が図られなかった理由を十分説明しているわけではない。たとえば本稿で論じるように,モジュタヘド(高位のイスラーム法学者)による立法審査を定めた基本法補則第2条(1907年)は,その施行期間において規定内容が一度も実現しなかったにもかかわらず条文が維持され,イスラーム法学者らウラマーの政府に対する抗議運動に,正当性を与え続けたのである。なぜ,これらの条項は,その時々の政治体制に不利な規定を含むにもかかわらず,改廃されることがなかったのか。以上の疑問に答えるためには,その出発点として,憲法改正の法的手続,およびそれをめぐる政治状況を分析することが有効である。とくに,はじめてイラン国憲法典の条文を書き換え,憲法改正にかかる慣行を打ち立てた1925年の改正,ならびにその改正へと至った一連の政治過程(本稿ではそれら全体を「第1次憲法改正」と記す)に着目することが欠かせない。

第1次憲法改正は,ガージャール朝の廃絶およびそれに代わるパフラヴィー朝の成立を導いた点で,イラン近代政治史上の画期としても知られている。そのため,この改正に至る政治的経緯については,比較的豊富な同時代史料に依拠しつつ,詳細な研究が行われてきた。その代表例として,ガニーは,第1次憲法改正へと至る経緯について,軍および警察の実力を背景にそれを強行するレザー・ハーンおよびその支持者と,弁論によってそれに抵抗するモダッレス議員ら反レザー派国民議会議員との政治的な駆け引きを中心に分析した。とくに,ガージャール朝廃絶に際して,これらの議員が憲法典を拠り所にいかにそれに反対したかについて,各議員の発言を詳細に紹介しつつ論じている[Ghani 1998, 351-375(注3)

上記のガニーの著作をはじめ,イラン国内外の政治史研究は,第1次憲法改正へと至る経緯について,レザー・ハーンらの警察,軍その他の実力を用いた脅迫と,それに抵抗する反レザー派国民議会議員の弁論および彼らの支持者による街頭運動との対抗のなかで論じてきた。この文脈において,レザー・ハーンおよび彼の支持派による実力を用いた言論の封殺が強調される一方,彼らが上記の憲法改正をいかに正当化したかについては十分論じられてこなかった。すなわち,従来の研究は,上記の憲法改正を違憲だとする反レザー派の批判に言及する一方で,それらにレザー・ハーンらがいかに反論したかについて,その法的,政治的背景をふまえつつ分析してこなかったのである。本稿で論じるように,この反論は,憲法改正を法的に正当化する学問上の議論にとどまらず,憲法典の護持を旗印とする反レザー派の結束を弱め,レザー・ハーンの即位を円滑に進める政治工作の一環として大きな役割を果たしていた。

以上のレザー支持派による憲法改正論を分析するにあたっては,まず憲法を含む法解釈権を有しており,憲法改正の可否について議論される唯一の公式の場でもあった国民議会の審議に着目する必要がある。そのために本稿では,『国民議会本会議録(Mozākerāt-e Majles-e Shūrā-ye Mellī)』といった国民議会の刊行物,および同議会に宛てた請願などの議会文書を参照する。加えて,憲法改正を最終決定し,その改正条文をとりきめた第1次憲法会議の審議も分析が欠かせない。この議事録については,当該会議の翌年に出版された『レザー・シャー・パフラヴィー皇帝陛下史(Tārīkh-e Shāhānshāhī-ye A‘lāhazrat Rezā Shāh Pahlavī, 以下『皇帝陛下史』と略記)』に全文が収録されている。

『皇帝陛下史』は,パフラヴィー朝の初代戦争相アブドッラー・アミール・タフマーセビー(‘Abd Allāh Amīr Tahmāsebī, 在職1925~26年)が議会出版局から出版した,王朝の正史に準じる歴史書である(注4)。それゆえに同書の記述は,史実の記録というよりはレザー・ハーンの即位を賛美する政治的なプロパガンダとしての性格が強く,上で紹介した先行研究において詳しい分析が避けられる傾向にあった。しかしながら,これらの分析は,パフラヴィー朝成立に至る過程を正当化する,レザー・ハーンおよび彼の支持者の論理を解明するにあたっては有益である。この点をふまえて本稿では,第1次憲法会議の議事録に言及した史料集としてだけではなく,同会議へと至るレザー・ハーンらの憲法改正論を著した同時代の記録として『皇帝陛下史』を活用する。同時に,同書には記されない実際の政治状況を確認するため,イギリス,米国の外交文書,逐次刊行物および有力政治家の回想録をあわせて参照した。

これらの史料を分析するにあたって,その準備作業として第Ⅰ節では,レザー・ハーン内閣成立までの憲法改正論を概観する。とくに,憲法典に規定がないながらも実質的な憲法改正を試みた事例として,立憲革命期の小専制期におけるモハンマドアリー・シャーの廃位および二段階選挙規則(1909年)制定をとりあげる。以上の議論をふまえて第Ⅱ節では,第1次憲法改正をとりあげる。とくに,レザー・ハーンおよび彼の支持派がいかにガージャール朝廃絶を正当化したかについて,共和制運動(1924年)から新王朝建設(1925年)へと至る憲法改正運動の展開に着目しつつ示す。さらに,第1次憲法会議およびその後における政治,法学上の議論をとりあげ,同憲法改正が残した問題を指摘する。以上の分析を通じて,本稿では,レザー支持派が立憲革命の先例にならい,その再現を図ることによって,本来憲法典には規定がない憲法改正を実現させていった過程を明らかにする。その反面,上記のような立憲革命の先例への依拠は,後の憲法改正の可能性を狭め,それを抑制する一因となったことが示されるであろう。

Ⅰ 憲法改正に関する先例の発見

1.イラン国憲法典における憲法改正規定の欠缺

本論への導入として,イラン国憲法典における憲法改正にかかる規定およびその変遷を確認しよう。まず制定当初において,これらの規定は,上記の憲法典を構成する基本法(1906年)および基本法補則(1907年)に一切盛り込まれなかった。すなわち条文上,イラン国憲法典は,憲法改正をもともと想定していなかったのである。この憲法改正およびその改正手続について,それらを規定したはじめての条文は,第2次憲法改正において追加された基本法補則附則(1949年)であった。この条文は,1979年のイスラーム革命によってイラン国憲法典が停止されるまで改正されず,以後の憲法改正において参照され続けた。

ただし,憲法典の条文のみにこだわらず憲法体制全体をみわたせば,憲法改正にかかる法規則は,上記の附則制定以前にも確認できる。なかでも,ヘジュラ太陽暦1304年アーバーン月9日(1925年10月31日)に制定された「ガージャール朝王権廃絶の宣言およびレザー・ハーン・パフラヴィー氏の一身への臨時統治権委譲に関する法律(Qānūn-e E‘lām-e Enqerāz-e Saltanat-e Qājārīye va Tafvīz-e Hokūmat-e Movaqqatī be Shakhs-e Āqā-ye Rezā Khān Pahlavī, 以下「ガージャール朝廃絶法」と略記)は,同国の憲政史上はじめて憲法条文の書き換えに言及した法律であった。さらに,同法が規定した憲法改正手続の骨子は,第2次憲法改正,およびそこで制定された上記の基本法補則附則にも踏襲された[‘Amīd Zanjānī 2006/7, 133-136; Akhgar 1950(注5)。その意味で,ガージャール朝廃絶法の制定は,憲法改正およびその手続にかかる慣行を打ち立てた,イラン憲政史上の画期であったといえる。その規定内容について,同法は,次の1条を定める。

第1条 国民議会は,国民の福祉の名のもとにガージャール朝廃絶を宣言して,憲法および国家[機関]にかかる諸法律の範囲において臨時の統治権をレザー・ハーン・パフラヴィー氏の一身に委譲する。上記の最終的な統治権の所在に関する決定は,基本法補則第36,37,38および40条改正のため組織される憲法会議(Majles-e Mo’assesān)の判断による[Qavānīn 5, 281]。

上記の規定に関して,とくに憲法改正手続に着目すると,次の2点が指摘できる。第1に,憲法改正の最終決定およびそれら条文の作成は,国民議会と別個に組織される憲法会議が担当する。後述するとおり,実際の同会議の開催にあたっては,当時の国民議会定数136人の2倍を超える288人の議員が選挙を通じて選出された。第2に,この憲法会議は,専らガージャール朝廃絶法で規定された4条項のみ審議を行う。これら4条項は,ガージャール王家の世襲(第36条),皇太子の選出(第37条)および皇太子が幼少のときにおかれる摂政(第38,40条)について規定したものであった。実際に,同会議においては,それ以外の事項が議題として扱われず,これら条項に関する憲法改正を過半数で議決した後に直ちに解散された。いいかえれば,憲法会議に付与された憲法改正権限は,無制限に行使できたわけではなく,あくまで国民議会が憲法改正の発議にあたって事前に議決した範囲に限定されていた。

以上のガージャール朝廃絶法第1条,およびそれに基づいて実現された第1次憲法改正の手続は,その発議および議決において特別多数を要件としていない。その意味で,イラン国憲法典制定にあたって参照されたフランス,ベルギーその他のヨーロッパ諸国,ならびにオスマン帝国,日本といったアジアで先行して立憲制を導入した諸国と比べても比較的緩い条件で憲法改正が可能となっている。他方で,両院の合同会議で憲法改正を議決した当時のフランスなどと比べ,常設議会と別個の憲法会議を新たに選挙によって組織することが求められ,比較的多くの時間および労力を要した。さらに,この憲法会議の権限が国民議会によって事前に制限されていた点は,当時の主要国において類例がない,強い制約であった[Mirkine-Guetzévitch 1928(注6)

要するに,第1次憲法改正の手続は,当時の諸外国と比較して厳しい要件を求めているとはいえないものの,煩雑かつ自由度が低いものであった。このように制限の多い憲法改正手続は,いかなる経緯から誕生するに至ったのか。この問いに回答するにあたり,まずはイラン国憲法典が誕生した立憲革命期における憲法改正論を分析しよう。

2.小専制の事後処理

前項で述べたように,イラン国憲法体制において憲法改正にかかる慣行は,ガージャール朝廃絶法を含む第1次憲法改正を契機として形成された。裏を返せば,イラン国憲法典が制定された1906年から20年近くの期間,イラン国憲法体制においては,憲法改正にかかる共通了解が何ら形成されていなかったのである。しかしながら,この事実は,憲法改正に関する議論が一切存在しなかったことを意味するわけではない。むしろイラン国憲法典が制定された当初,すなわち立憲革命期(1905~11年)から,その時々の政治情勢にあわせてさまざまな憲法改正論が展開されてきたのである。

その代表例として,同革命のさなか出版された最初期のイラン国憲法典に関する解説書『憲法―立憲制の原則―(Hoqūq-e Asāsī yā Osūl-e Mashrūtīyat)』が挙げられる。同書を執筆したアドル(Mīrzā Mostafā Khān ‘Adl Mansūr al-Saltane, 1882/83~1950年)は,通常の立法権,その他2権と分けられた憲法制定権力(qovve-ye mo’assese)という概念を用い,国民議会と異なる機関が憲法改正に携わる手続が好ましいと論じた。さらに,彼は,それを迅速に行う具体的な方策として,当時のフランスにおける両院合同会議を介した手続を紹介している[‘Adl 1909/10, 357-361(注7)。同書に先立ち両院合同会議による憲法改正に言及したフォルーギーMohammad‘alī Forūghī Zokā al-Molk, 1875~1942年)を含め,当時の政治家および学者の多くは,当初から憲法改正の必要性を認識していたのである[Forūghī 1907/8, 16-17(注8)

このような認識は,イラン国憲法典制定時の想定をはるかに超えて変転する,立憲革命の政治的展開をある程度反映したものであった。なかでも,当時の政治家および学者に大きな衝撃を与えた事件は,後に小専制と呼ばれる国王の反立憲制クーデタであった。1908年6月,当時の国王モハンマドアリー・シャー(Mohammad‘alī Shāh Qājār, 在位1907~09年)は,突如軍隊を動員して国民議会を閉鎖,革命勢力の有力者を逮捕,処刑し,立憲制の停止を宣言した。このような国王主導のクーデタに対して,革命勢力は,抵抗を試みた。その運動の主要な拠点のひとつが,同国北西部のアゼルバイジャン州であった。同州の都タブリーズにおける,サッタール・ハーン(Sattār Khān Qarāchedāghī, 1868~1914年)ら都市住民を中心とした蜂起の成功は,国王率いるテヘランの政権に大きな打撃を与えた。その後,再建されたアゼルバイジャン州議会では,都市部の知識人,なかでも後にデモクラート派として活躍する,西欧にならった政治,社会改革をめざす知識人が主導権を握った。同州議会は,専制政治の打倒を掲げ,バフティヤーリー部族ら各地の革命勢力と連携しつつ国王軍との戦闘を開始したのである。このような革命勢力の共闘により,1909年の上半期にエスファハーン,ラシュトおよびガズヴィーンが次々と解放され,7月のテヘラン占領によって戦闘が終結した[八尾師 1998, 229-251; Ettehādīye 1982, 179-197]。

国王に対して勝利を収めた革命勢力は,閉鎖された第1期国民議会に代わる暫定的な立法機関として高等会議(Majles-e ‘Ālī)を組織し,早期の立憲制再開に向けて動き出す。上記議会の元議員をはじめ,革命勢力の諸代表ら500人余りが参加するなか同会議が下した最初の決定は,小専制の首謀者である国王モハンマドアリー・シャーの廃位であった。具体的に高等会議は,身の安全を確保するためロシア公使館に避難した同国王を退位したとみなし,次のように宣告した。

元老院および国民議会の閉会中において臨時[に設置された]高等会議は,緊急の必要性に従い(bar hasb-e zarūrat-e fowrī),1327年ジョマーダー第2月27日金曜日[1909年7月16日]テヘランのバハーレスターン宮殿にて組織された。そして,アフマド・ミールザー皇太子殿下を[アフマド・シャー(Ahmad Shāh Qājār, 在位1909~25年)として]イラン国王位に据え,摂政については暫定的にアゾドルモルク閣下[(‘Alīrezā Khān Azod al-Molk, 在職1909~10年)]を任命した。基本法第38条に基づき摂政位については,[常設の国民]議会が組織された後,時代の要請に従って最終決定を行うものとする[Kermānī 1978/79, 495]。

以上を分析するにあたって,この高等会議による決定がイラン国憲法典の規定に即した判断とは必ずしもいえない点には注意が必要である。というのも,上記の決定で引用された基本法補則第38条は,新国王および摂政の選出に関してのみ規定しており,前国王がいかなる条件で廃位されるかについて定めていない。同憲法典は,基本法補則第41条に規定された崩御を除き,国王交代の事態を想定していないのである。このことは,上記の高等会議による決定が,その文中では憲法典の規定に言及しつつも,実質的には条文自体から読みとれる含意を超えて国王交代に関する新たな解釈を打ち立てたことを意味している。すなわち,国民議会,または高等会議といったその代理となる合議機関は,「緊急の必要性」がある場合,現国王を退位させて新たな国王を選出する権限を有すると理解されるのである。この解釈は,後述するように第1次憲法改正において,レザー・ハーンらがガージャール朝の廃絶を正当化する先例として言及されることになる。

さて,小専制の事後処理においては,以上の高等会議による国王廃位に加え,第1次憲法改正に影響を与えた重要な決定がもうひとつ行われた。それは,あくまで暫定的な立法機関であった高等会議に代わる常設議会,すなわち国民議会開催のための二段階選挙規則(1909年)制定である。同選挙規則については,革命勢力のテヘラン占領に先立ち国民議会再開に向けた準備を進めていたアゼルバイジャン州議会との協議のもと,中央に設けられた臨時の委員会(以下,「選挙規則制定委員会」と呼称)において起草された[Ettehādīye 1996/97, 118-120; Afary 1996, 261-264]。この作業は,タギーザーデ(Seyyed Hasan Taqīzāde, 1878~1970年)ら都市部の知識人が中心となって進められたが,そこで憲法改正が意外な論点として浮上することになる。というのも,基本法第4条から第6条および第49条は,前法である選挙規則(1906年)第6条,第8条,第19条および第21条に従って,国民議会の定数,任期などを定めていたからである[Qavānīn 1-2, 3-14, 33-37]。すなわち,上記の規定に代えて新たな選挙規則を制定することは,上で記した憲法典の条項を停止することとほぼ同義であった。この措置の正当性について,選挙規則制定委員会は,二段階選挙規則前文にて以下のように言明する。

基本法において4条項が選挙に関して規定しており,これら条項の見直しは,[憲法典たる]基本法の原則に反する。このことを理由として,当該委員会は,この問題を解決する目的で,イラン主要地域の識者による表決に基づいて起草した規則[案]の重要条項を照会した(arze dāsht)。国家の主要な中央[全国各地の州議会]は,この案件について,アゼルバイジャン中央[同州議会]に自らの意見を表明する権利を移譲した。当該中央の有識者[同州議会議員]は,4条項にかかる修正の骨子(‘omde-ye taghyīr-e mavād-e arba‘e)を承認し,他の重要条項にかかる自らの所見を上程した。これをふまえて,この規則[二段階選挙規則]は,アゼルバイジャン中央の見解を考慮して起草され,制定された[Rahmānī 2010, 62-74]。

上記の手続は,アゼルバイジャン州議会が大きな発言権を有した起草作業を正当化する法的な擬制としての側面もあり,複雑である。この手続自体を検討することはさておき,本稿の主題である第1次憲法改正との関連を考えると,以下の2点が指摘できるであろう。第1に,この二段階選挙規則の制定手続における憲法判断は,中央の選挙規則制定委員会にアゼルバイジャン州議会を加えた2つの合議機関が分担して行っている。具体的には,前者が憲法典に抵触する4条項にかかる重要事項について照会し,後者がその可否について判断する。これらを行う正当性を担保するため,とくに後者には当該案件に関して意見表明の権利が移譲された全国各地の代表としての位置づけが与えられた。第2に,上記規則の制定手続は,憲法典に抵触する同規則条文案の可否を判断したものの,その判断に基づく基本法第4条から第6条および第49条の改正については一切言及していない。いいかえれば,この手続は,同規則に抵触する憲法典4条項の効力を停止したのみであり,これらの書き換えには踏み込んでいない点で憲法改正手続としては不完全である(注9)

しかしながら,このような二段階選挙規則の不完全さは,同規則が以後の憲法改正論に与えた影響の大きさを損なうわけではない。とくに,二段階選挙規則が第1条にて国民議会の定数を120人と定めることで,それを162人と定める基本法第4条を停止したことは,憲法典の規定をはじめて明示的に変更した事例として,第1次憲法改正を正当化する重要な論拠となった。次節では,この議論の展開について,レザー・ハーンの台頭という当時の政治的な状況に留意しつつ分析しよう。

Ⅱ レザー・ハーンの憲法改正運動

1.新王朝建設に向けた政治工作――第1次憲法改正――

1920年代は,レザー・ハーンが軍および警察を権力基盤として,独裁的な支配体制を築いた時代として知られる。もともとガッザーク部隊の一将校にすぎなかったレザー・ハーンは,1299年クーデタ(1921年)をとおして軍を掌握すると,それを後ろ盾として急速に政治的な影響力を強めた。1925年の第1次憲法改正,およびそれに伴う国王への即位には,自らの支配体制を盤石にする意味合いがあったのである[Ghani 1998, 161-394; Cronin 1997, 182-205]。ただし,レザー・ハーンにとって憲法改正の試みは,このときがはじめてではなかった。彼が首相に就任した直後の1924年にも,王制を廃して共和制を樹立し,自らがその首班となることをめざして憲法改正を企てたのである。共和制運動と呼ばれるこの試みにおいては,君主制から共和制への転換を実現するため,大規模な憲法改正が予定された。具体的に,3月21日に第5期国民議会本会議に提出された動議(以下,「共和制動議」と呼称)は,以下の3条項について国民投票(ārā’-ye ‘āmme)に付すことを提案する。

第1条 立憲君主制から共和制への移行。

第2条 第5期[国民議会]議員に国家および体制の公益に則して憲法条文を見直す権限を付与。

第3条 体制転換は,国民投票の結果が判明した後,国民議会を介して宣言される[Mozākerāt 5(7), 22]。

上記のように,レザー・ハーンおよび彼を支持する議員は,第1次世界大戦後に普及しつつあった国民投票の手続を用いて第5期国民議会に憲法改正権限を付与し,国王にかかる規定をはじめ「国家および体制の公益に則し」た憲法典の刷新をめざしたのである。

しかしながら,共和制運動は,テヘランを中心とする広範な反対運動に直面して失敗に終わり,上記の動議も表決に至らず廃案となった[Ghani 1998, 307-315; Pahlavān 2015/16, 495-500]。この運動を組織化した人物が当時の議会において最も影響力がある右派議員の1人であり,イスラーム法学者でもあったモダッレス議員であった。彼は,レザー・ハーンの勢力拡大を懸念するとともに,共和制樹立を名目として隣国トルコにならった世俗化政策が推進され,自らを含むウラマーの政治的発言権が否定されることを強く警戒したのである(注10)。これを防ぐため,同議員が掲げた旗印がイラン国憲法典の護持であった。というのも,同憲法典には,ベルギー1831年憲法などを参考にした西欧由来の近代立憲主義と同時に,立憲革命における革命勢力の一翼を担ったウラマーの要望をふまえ,イスラームに基づく統治理念が盛り込まれていたからである。具体的に,同憲法典は,モジュタヘドによる立法審査を定めた基本法補則第2条をはじめ,立法,司法および教育の各分野でウラマーの政治的発言権を保障していた。

この点をふまえてモダッレス議員は,共和制に反対する声明を発して「自らのイスラーム,立憲制およびムスリム君主,すなわちアフマド・シャーを見捨てることはないであろう(dast az eslām va mashrūtīyat va pādshāh-e mosalmān-e khod ke Soltān Ahmad Shāh ast nakhāhīm keshīd)」[Mo’assese-ye Pazhūhesh va Motāle‘āt-e Farhangī 1994, 96-103]と述べ,憲法典の護持をめざす姿勢を鮮明とした。この姿勢は,同議員への支持を拡大する上でも有利に働いた。すなわち,イスラームに基づく統治理念に共感するウラマー,および彼らと経済,社会的な結びつきが強いバーザール商人だけではなく,レザー・ハーンの強引な政治手法に反発を強めていた少数の知識人との連携が可能となったのである。そのなかには,詩人で文筆家のバハール議員(Mohammadtaqī Bahār Malek al-Sho‘arā, 1886~1951年),フランスおよびスイスで学んだ法学博士のモサッデグ議員(Mohammad Mosaddeq, 1882~1967年)といった政治家だけではなく,従来はモダッレス議員に批判的であったエシュギー(Mīrzāde ‘Eshqī, Seyyed Mohammadrezā Kordestānī, 1894~1924年)らジャーナリストも含まれた。彼ら知識人の政治,社会思想と,ウラマーおよびバーザール商人のそれは,必ずしも一致していたわけではない。むしろ,彼らの内部でも,近代化の推進,イスラームと政治との関係といった問題に関しては,当時多様な意見が存在した。これらの意見対立を一旦棚に上げ,レザー・ハーンが主導する共和制運動に立ち向かうためには,上記の3者が共闘した立憲革命の記憶,およびその具体的な成果であるイラン国憲法典を結集軸にする必要があったのである。

結局,彼ら議会内外の反対勢力が憲法典の護持を掲げて結束したことで,レザー・ハーンは,共和制運動を停止せざるを得ない状況に追い込まれていった。 1303年ハマル月2日(1924年3月22日)に発生した大規模な流血事件(注11)の後,彼は,シーア派イスラーム法学の中心地ゴムを訪問し,当時の最高権威ナーイーニー師(Mīrzā Mohammadhoseyn Nā’īnī, 1860~1936年)らに面会した。そして,自らが敬虔なムスリムであり,イスラームに基づく統治の理念に共感していることを表明した上で,彼ら高位のイスラーム法学者の判断に従う形式で,共和制運動の停止を宣言したのである[Habl al-Matīn 1924; Mostowfī 1947/48, 597-603; Sālūr 2000/1, 6855, 6869-6870]。

以上のような共和制運動の失敗は,レザー・ハーンおよび彼の支持派にとって大きな挫折であった。彼は,自らを支持する軍の圧力によって辛うじて首相職に復帰することができたものの,自らの支配体制が依然として不安定であることを改めて認識させられたのである。この状況を打破するため,共和制運動に反対した各社会層,とくにそこで中心的な役割を果たしたウラマーとの関係を改善することは,レザー・ハーンらにとって喫緊の課題となった。上で述べたゴムへの訪問も,ウラマーへの配慮の一環として理解できる。首相職に復帰した後も,レザー・ハーンは,彼らに対して融和的な姿勢をとり続けた。さらに,レザー・ハーンは,モダッレスら自らに批判的な議員と会談し,今後の政策に関して意見を交換した[Bahār 1944/45, 200-206; Dowlatābādī 1949/50, 363–366; Seyf Pūrfātemī, 1989/90, 387-390]。

このような柔軟な政治姿勢をみせる一方,レザー・ハーンは,自らに公然と敵対する人物に対する脅迫も忘れなかった。その代表例は,前述したエシュギーの暗殺である。この事件を含めて当時,真相不明の有力者暗殺が頻発したが,それらの多くには,レザー・ハーン,およびその意向を受けた軍および警察が関与していたとされる。加えて,米国副領事インブリー(Robert Imbrie, 1883~1924年)の殺害事件を契機として,1924年7月19日にはテヘランに戒厳令が施行された。同令は,ガージャール朝廃絶法制定まで解除されず,レザー・ハーンに批判的な出版物および人物の取り締まりに活用されていくことになる[Bahār 1944/45, 104-111, 115-130(注12)

このような硬軟織り交ぜた対応により,レザー・ハーンおよびその支持派は,共和制運動の失敗を取り返し,政治の主導権を完全に掌握することに成功した。このような政治状況の好転に伴い,彼らは,支配体制を盤石にするための憲法改正を再び企図する。この実現にあたっては,共和制運動が失敗した原因である,議会内外での反対勢力の結束を防ぐ必要があった。そのため,レザー・ハーンおよびその支持派は,上で述べた反対勢力との個別の政治的な折衝と並行して,彼らが旗印とした憲法典の護持に対抗する新たな理論づけを模索する。結果として彼らは,憲法典の大幅な改正が必要でその分反発を招きやすい共和制の樹立を諦め,軽微な改正によって実現可能な新王朝の建設をめざすことになった(注13)

その実現に向けた第一歩として,1925年10月初旬頃から「国民運動合同委員会(Komīsyon-e Mokhtalet-e Nehzat-e Mellī)」(注14)の名を冠する団体が全国各地で組織され,ガージャール朝廃絶を求めて繰り返し声明を出し,国民議会に請願を送るようになる。レザー・ハーンの指示のもと,これら耳目を集める活動を展開した「国民運動合同委員会」において,その筆頭とされた団体が「アゼルバイジャン国民運動合同委員会(Komīsyon-e Mokhtalet-e Nehzat-e Mellī-ye Āzarbāyjān)」であった[Mostowfī 1947/48, 661-663; Dowlatābādī 1949/50, 377; BDFA 1925b; 1925c]。同委員会について,軍司令官兼知事として同州での勤務経験をもつタフマーセビーは,自らが執筆した『皇帝陛下史』のなかで,ガージャール朝廃絶および新王朝建設において主導的な役割を担ったと記述している。

まず上記の年代記によると,アゼルバイジャン州の住民は,同州が歴代皇太子の赴任地であったため,常にガージャール王家の圧政に苦しんでいたとされる。そのために,同州の住民は,いち早く同朝の圧政に反旗を翻し,同朝の廃絶を求める運動をはじめたのであった。その運動の中核となった組織が「アゼルバイジャン国民運動合同委員会」とされるのである[Tahmāsebī 1926, 32-44, 55-59, 78-80(注15)。さらに『皇帝陛下史』の記述に従うと,「アゼルバイジャン国民運動合同委員会」は,全国各地における「国民運動」の組織およびそれによるガージャール朝廃絶運動の高揚をふまえ,10月28日に「革命(enqelāb)」を宣言したとされる。そして,同委員会は,政府各省庁に自らの指揮下に入るよう勧告するとともに,武装してテヘランに向かうことを決定し,声明文を発表した。

この声明文において,アゼルバイジャン国民運動合同委員会は,国民議会がガージャール朝廃絶の訴えを無視すること,全国各地から自らの運動への支持があることを上記決定の根拠として指摘する。加えて同声明文は,アゼルバイジャン州の住民について,「過去の歴史,および立憲革命のはじまりから今日に至る近年の革命において(tārīkh-e gozashte va enqelābāt-e akhīr az badv-e mashrūtīyat tā emrūz)」イラン人を先導してきたと言及した。なかでも強調された点は,小専制を打倒した際に,彼らが主導して当時の君主モハンマドアリー・シャーを廃位させたことであった。

イランのすべての州県は,アゼルバイジャンの同志(barādarān)を自らの代理とし,彼[モハンマドアリー・シャー]の廃位に関する全権を付与した。アゼルバイジャンの住民は,自らの立場,および他の同志の代理としての立場から,差し当たっては,モハンマドアリー・ミールザー[シャー]を廃位し,適性がない子息[アフマド・シャー]を国王に選出して敬意を表し,アゾドルモルクを摂政に据えたのである。したがって[その先例に鑑みて],今日,国民が自ら統治を行うはじめての日である1304年アーバーン月6日水曜日[1925年10月28日]において,アゼルバイジャン国民運動合同委員会は,行動を開始する。同委員会は,[その結成から]27日間,一般の住民からこの神聖な運動を統括する使命を託され,また[ガージャール朝廃絶という]国民的事業を実行に移すにあたってその便宜を図り,それに必要な手続を準備することについて,唯一その責務を自覚した組織なのである[Tahmāsebī 1926, 157-161]。

以上の声明文は,主権者たる国民(注16)の意思に基づき,ガージャール朝が廃絶されることを強調する。さらに,その廃位が正当である論拠として,立憲革命期のタブリーズ蜂起および同地のアンジョマン(州議会に相当)を核とした革命勢力による小専制打倒が言及された。これらをふまえれば,ガージャール朝廃絶における主導的な役割が「アゼルバイジャン国民運動合同委員会」に割り当てられた理由は,明らかであろう。すなわち,『皇帝陛下史』の著者タフマーセビーをはじめレザー支持派は,ガージャール朝廃絶および新王朝建設をめざす運動を小専制打倒になぞらえた。そして,それをいわば「再演」することで,自らの運動が立憲革命を尊重し,その先例にならって展開されているように印象づけようとしたのである。

このように「アゼルバイジャン国民運動合同委員会」の声明を通じて国家が革命状態にあることを演出する一方で,ダーヴァル議員(‘Alīakbar Dāvar, 1885/86~1937年)ら首都のレザー支持派は,同地の実業家を主体に「商業者統括委員会(hey’at-e modīre-ye tojjār)」を組織した。この組織は,上記声明の翌々日,すなわち10月30日の会合にて,ガージャール朝廃絶について「イランの全州およびテヘランの社会層すべてからの[廃絶の]訴えを勘案するに,もはや国民投票に付す問題ではない(nazar be pīshnehād-e kollīye-ye velāyāt-e Īrān va ‘omūm-e tabaqāt-e Tehrān qazīye-ye morāje‘e be ārā’-ye ‘omūmī dīgar mowred nadāshte)」[Tahmāsebī 1926, 140]と判断する。その代わりとして,同委員会は,憲法改正を目的とした憲法会議(majles-e mo’assesān)の開催を提言した[Tahmāsebī 1926, 140-145]。

「商業者統括委員会」が当時の実業家らテヘラン住民の意向を実際にどの程度ふまえていたかはともかく,この提言は,第1次憲法改正における手続の大枠を定めた点で大きな意味があった。この内容を含めた「アゼルバイジャン国民運動合同委員会」,その他全国各地から寄せられた請願は,国民議会の請願委員会における審査,および同委員会報告の本会議での審議といった手続を経て,10月31日にガージャール朝廃絶法(1925年)法案の発議へと至ったのである[Mozākerāt 5(210), 1476-1482; 5(211), 1484(注17)。同法案は,即日審議にかけられ,修正を経ずにレザー支持派議員の賛成多数で可決された。この法律に基づき,皇太子,皇太后らガージャール朝王族の国外退去が即刻実行に移され,同朝は,名実ともに滅亡したのである[Sālūr 2000/1, 7376-7390; BDFA 1925d]。

上記法案を発議した趣旨として,ダーヴァルらレザー支持派の議員は,国家が緊急事態にあり,国民議会が国益を保護する決断を下す必要性があることを強調する。

ガージャール王家に対する不満,当該王家への不平が国家を危機に陥らせる段階にまで至っていること,また,国益を保護することが国民議会の最も重要な目的かつ最優先の責務であり,一刻も早く現状の危機を終息させなければならないこと[Mozākerāt 5(211), 1484]。

このように,発議にあたって緊急事態が強調された理由を明らかにするためには,ガージャール朝廃絶法の規定内容に着目する必要がある。本稿第Ⅰ節で紹介したように,同法第1条は,法律の成立に伴い直ちにガージャール朝が廃絶されることを定めていた。このことは,憲法典の規定,具体的にはガージャール家の国王世襲を規定する基本法補則第36条が一般の法律により停止されたことを意味しており,下位法による上位法の否定にほかならない。

ただし,国王廃位に関しては,通常の法秩序の範疇を超えた,抜け穴となる事例が存在していた。すなわち,前節で述べたように,立憲革命期の小専制において高等会議は,「緊急の必要性に従い」,国民議会の代理として当時の国王モハンマドアリー・シャーの廃位を議決していたのである。これを先例とするとき,緊急事態の場合,国民議会が国民代表としての自らの権威に基づいて,国王を改廃可能であるとする解釈が導かれる。

加えて『皇帝陛下史』には,モハンマドアリー・シャーがロシア公使館に逃れた時点で,基本法補則第36条の効力が停止されたとする解釈が紹介されている。この解釈によると,彼の後を継いだ国王アフマド・シャーは,上記の憲法典の条項ではなく,あくまで高等会議の議決に基づき即位したのである[Tahmāsebī 1926, 143]。したがって,同国王を廃位する決定は,もはや憲法典の規定には拘束されず,専ら国民ないしその代表による議決に委ねられることになる。この解釈からも,立憲革命における小専制打倒を先例とし,その記憶に重ね合わせることで「アゼルバイジャン国民運動合同委員会」による「革命」を正当化しようとした,レザー支持派の意図が窺える。

また別の論点として,ガージャール朝廃絶法第1条においては,憲法改正を行うための憲法会議の開催が規定された。この手続は,国民投票の授権を経て国民議会が憲法改正を行うと規定した共和制動議と大きく相違していた。むしろ,上記の憲法会議は,国民議会が指定した条文について別の合議機関が最終的な憲法判断を行う点で,立憲革命期における二段階選挙規則前文,およびそこでのアゼルバイジャン州議会の役割に類似しているのである。もちろん,国民投票の要素がガージャール朝廃絶法において完全に消滅したわけではない。まず前述の『皇帝陛下史』の記述にあるように,そもそも国民投票が不要とされた理由は,すでに国民の意思が国民議会への請願を通じて示されているからであった。請願委員会および本会議における審議は,国民議会を通じた正当な立法手続を踏むことで,これらの請願を追認して正当性を強化する意味を有していた。

こうして導入された憲法会議には,第1次憲法改正にかかる法的議論を主導したダーヴァル議員,後述するヤーサーイー議員(Mīrzā ‘Abd Allāh Yāsā’ī, 1885/86~1945/46年)など,当時の国民議会の定数136人の2倍を超える288人の議員が選出された。これらの議員に関して,彼らを選出した選挙区の内訳をみると,テヘラン選挙区,タブリーズ選挙区といった単に定数が増えた一般選挙区だけではなく,宗教マイノリティ選挙区が増枠され細分化されると同時に,バルーチ部族,アラブ系のバニー・トロフ部といった国民議会に議席が割り振られていなかった遊牧民への部族選挙区の新設も確認できる[Tahmāsebī 1926, 439-448]。これら288議席の選挙においては,レザー・ハーンおよびその支持派による徹底的な選挙統制が行われ,モダッレス議員ら反レザー派の政治家が完全に排除された[Delfānī 2000; 2000/1; Abrahamian 1982, 135]。しかしながら同時に,あくまで見かけの上では,二段階選挙規則制定時のアゼルバイジャン州議会はもちろん,当時開催されていた第5期国民議会と比較しても,より広範な国民の意思を反映しているようにもみなせる形態となっていた。その意味で,憲法会議は,レザー・ハーンらが国民投票の代替手段として,新王朝建設への国民の支持を国内外に宣伝する目的で開催された,大規模な演出であったといえるであろう。

以上をまとめると, ガージャール朝廃絶法の規定は,緊急事態を根拠とした王権の即時停止,および憲法改正を最終決定する憲法会議の開催という2点において,直近の共和制動議とは異なる特徴を有している。むしろ,これら2点は,モハンマドアリー・シャー廃位および二段階選挙規則制定といった,立憲革命期における小専制の戦後処理により類似しているのである。このような憲法制定手続の類似性は,レザー・ハーンおよび彼の支持派が小専制打倒になぞらえて新王朝を建設しようとした政治工作の結果でもあった。

上記のように,ガージャール朝廃絶法案が国民議会に発議されるにあたり,モダッレス議員,バハール議員ら共和制に反対の立場をとった議員は,再び抵抗を試みた。彼らは,即位に伴い,レザー・ハーンが独裁的な権力を手にすることを懸念した[Bahār 1944/45, 280-284; Farrokh 1969/70, 199-207]。前述のとおり,この当時レザー・ハーンは,軍および警察の実力を背景として,すべての国家権力を掌握しつつあった。この状況下での即位は,世襲的な地位により自らの権力を恒久化させるだけではなく,首相として負っている国民議会への責任から彼を解放し,その統制手段が完全に失われることを意味したのである。

しかしながら,上記の議員らは,共和制への反対運動のときと異なり,議会外で大規模な反対運動を組織することができなかった。当時のイギリス特命全権公使ロレインらは,ガージャール朝廃絶法案の可決に関して人々が総じて無関心であり,目立った街頭運動も起きなかったことを報告している[BDFA 1925a; 1925d(注18)。バーザール商人らテヘランの住民は,レザー・ハーンらが主導する「国民運動合同委員会」に積極的に協力しなかったと同時に,それに反対するモダッレス議員らの呼びかけにも応えなかったのである。

もちろん,彼らがこのように消極的な反応を示した背景には,戒厳令を用いつつ,場合によっては暗殺をも厭わない軍および警察の徹底的な取り締まりがあった(注19)。ただし,共和制運動の際には軍および警察が制止できないほど大規模な街頭運動が組織されていたことを考慮すると,上で記した取り締まりの効果を過大評価することはできない。むしろ,同法案への反対運動の組織化が失敗したより根源的な原因は,憲法典の護持といった,ウラマー,バーザール商人,知識人ら各社会層の立場ないし意見を超えて受け入れられ,彼らが共闘する上で結集軸となり得る旗印が存在しないことにあった。上記のとおり,レザー・ハーンおよび彼の支持派は,共和制運動の失敗後,ウラマーへの細心の配慮を欠かさなかっただけではなく,少なくとも形の上では憲法典を尊重する姿勢を示し,それを生み出した立憲革命を先例としつつ新王朝建設に向けた運動を進めていた。実際に次節で述べるとおり,この運動に伴う憲法改正は,王朝交代にかかる必要最小限度の書き換えにとどめられたのである。

議会外における反対運動の組織化に失敗した反レザー派の議員は,最後の抵抗を試みるため,国民議会の審議に臨んだ。彼らは,ガージャール朝廃絶法案が緊急事態を理由として十分に審議されないまま議決されることを強く批判する。具体的にまず,バハール議員は,前述の請願委員会報告の審議において,緊急事態であればこそ憲法典を守るべきと発言する。その上で,もし改正するならば,全国各地から代表者を招致して議論を重ねた上で,国民投票(referāndom)が必要であると述べた[Mozākerāt 5(210), 1478-1479]。さらに,ガージャール朝廃絶法案の審議において,モダッレス議員が議長の不在を理由として議事進行の停止を求めたとともに,タギーザーデ議員は,同法案が重要案件であり慎重な議論が必要であるとして,それを審査する委員会の設置を求めた[Mozākerāt 5(211), 1482-1485; Taqīzāde 1989, 199-205(注20)

これらの議員に加え,モサッデグ議員は,すべての法律および詔勅の執行において国務大臣の副署を要件とした基本法補則第45条に言及し,レザー・ハーンが即位した場合,立憲制のもとで自ら政務に携わることはできなくなると釘を刺した。その上で,彼は,基本法第24条から第26条(注21)までの条文を引き合いに出し,イラン国憲法典には国民議会の議決に基づき重要な政治決定を行うとする原則があると論じた。この議論を土台に,同議員は,憲法典を根本から揺るがす先例になるとして,ガージャール朝廃絶法案による憲法改正手続を批判する。彼によれば,憲法改正は,「それにかかるあらゆる問題ないし弊害を考慮し,拙速に事を運ばず,国を想う識者に諮問する(tamām-e ma‘āyeb va momāne‘ash sanjīde shavad va ajale dar kār nabāshad va ashkhāsī ke kheyrkhāh-e mamlakat hastand mashvarat shavad)」[Mozākerāt 5(211), 1486-1487]ときに限って行うべきなのである。

これらの批判に対して,スイスで法学を学び,レザー・ハーンの側近としてガージャール朝廃絶法案および憲法改正案の起草を主導したダーヴァル議員は,すかさず反論した。まず同議員は,上記の法案があくまで憲法会議の設置を目的としたものであり,具体的な憲法改正の是非およびその内容に関しては,同会議で提案すべきであると主張する。さらに,国民議会での慎重な審議を求める意見に対しては,次のように述べた。

[テヘラン市内のシャー庭園で開かれた]会議において識者らは,必要な措置の一部として選挙法[すなわち,二段階選挙規則]が改正されなければならないことを明文化した。この改正は,憲法典の4条項[基本法第4条から第6条および第49条]に反していたため,我々[選挙規則制定委員会]が参集し,アゼルバイジャン州議会に[この案件を]付託した。当該案件がかの[立憲革命の]時期に実行されることで,意義深い憲法改正がなされたのである。[中略][ガージャール朝廃絶法案は,悪い]先例になり得るといわれる。すなわち,[憲法典に]手を加えれば,いわば国家の拠り所をも毀損しかねない[というのである]。小生が申し上げるに,かの[立憲革命の]時期にも憲法に手を加えていた。誰が手を加えたのか? 国民の代表となる人物によって。どこで手を加えたのか? シャー庭園で。いつ? 国民議会が武力で封鎖された後に[Mozākerāt 5(211), 1487-1488(注22)

このようにダーヴァル議員は,緊急事態における憲法改正の先例として二段階選挙規則を引き合いに出す。それによって,ガージャール朝廃絶法案が立憲革命期の先例に則った正当な措置であり,モサッデグ議員が主張するような,憲法典を根本から揺るがす立法ではないと反駁したのである。

以上のダーヴァル議員の議論は,モサッデグら反レザー派議員にとって説得的であったかはともかく,ガージャール朝廃絶法案の審議を長引かせることで廃案をねらう,彼らの戦略を封じるには充分であった。反レザー派議員が上記の発言を残して退席した後,同法案は,前述のとおり10月31日のうちに表決にかけられ,即日成立した。同法の成立後,速やかに第1次憲法会議に向けた選挙が全国で開始され,前述した議員らが選出された。12月6日には同会議が開会して計5回本会議を開き,12日には修正の必要がないと判断された基本法補則第40条を除く,同法典第 36,37,38条の修正案を議決する。この議決を受け,レザー・ハーンは,同月15日に国民議会で宣誓を行い,正式にパフラヴィー朝初代国王として即位した[Tahmāsebī 1926, 465-623]。「アゼルバイジャン国民運動合同委員会」にはじまる第1次憲法改正は,こうして実現に至った。レザー・ハーンおよび彼の支持派は,国民議会の信任に拠って立つ不安定な首相職に代わり,国王という原則終身の地位を手に入れ,自らの支配体制を盤石にしたのである。

2.「緊急事態」における憲法改正の限界――憲法改正権限の限定およびその問題点――

前項で論じたように,レザー・ハーンおよび彼の支持派は,共和制運動の失敗をふまえ,新王朝建設に万全を期して臨んだ。まず,硬軟織り交ぜた対応により,ウラマーを懐柔する。その上で,その建設に不可欠な憲法改正についても,あくまで立憲革命を先例としつつ,必要最小限の軽微な変更にとどめた。これらの対策を通じて,共和制運動においてみられたような,憲法典の護持を旗印とした反対運動が再び盛り上がることを徹底的に封じたのである。

このようなレザー・ハーンおよび彼の支持派による政治工作は,確かに憲法改正の確実な実現を期すにあたっては,効果的であった。憲法改正は,ガージャール朝廃絶法の成立後に第1次憲法会議を経て,特段の混乱なく当初の予定どおりに実現したのである。ただし,上記の入念な政治工作は,憲法改正に手続上の大きな制約を課すことにもなった。というのも,必要最小限な改正をめざしたことは,憲法改正にかかる他の論点を排除することにつながったからである。とくにその影響を被った論点こそが,もともと憲法改正論において主要な論点として扱われていた選挙にかかる規定であった。

第1次憲法改正において,上記の問題を繰り返しとりあげた議員は,実業家出身のジャーナリストであったヤーサーイーであった。彼は,レザー・ハーンによる新王朝建設の熱烈な支持者として,国民議会においてモダッレス,バハールら反レザー派議員と論戦を繰り広げたことで知られる[‘Āqelī 2001, 3: 1806-1807]。その意味で,ヤーサーイー議員は,レザー支持派議員の1人であったが,同法改正を主導したダーヴァル議員ら主流派とは,憲法改正の手続および範囲に関して微妙に立場を異にしていた。そのことは,ガージャール朝廃絶法案審議に先立つ請願委員会報告の審議において,彼が発言した内容からも読みとれる。

小生は,[1304年選挙法改正の制定へと至る]1303年フート月の選挙法に関する審議において,追加条項を提案した。その条項とは,第6期議員がそれに関して必要な憲法典の条項を見直すために,第6期[国民議会]選挙において国民に授権できるようにするものである。しかしながら,現在の状況を鑑みて私は,この考えを改めた。[すなわち,緊急の必要性に鑑みて,現議会である第5期国民議会が憲法改正を行うべきである][中略]もし国民も望み,我々[第5期国民議会議員]に授権するならば,我々も[基本法補則(1907年)]第35, 36, 37条,王権にかかるその他の条項,および[修正を]実行すべき事柄にかかるその他の条項について見直しを行う[Mozākerāt 5(210), 1477]。

このように,ヤーサーイー議員は,国民議会選挙その他の投票において憲法改正について問い,その結果に従い同議会が憲法改正を行うことを提唱した。同議員が国民投票(referāndom)と言及したこの手続は,憲法制定権限を投票によって国民議会に授権する点で,共和制動議第2条とほぼ同様のものである。さらに,同議員は,あえて選挙法改正に言及することで,憲法改正の範囲が基本法補則の王権にかかる条項に限定されないことを示唆する。実際にこの後,同議員は,ガージャール朝廃絶法案および第1次憲法会議において,上記の3条項だけではなく,議会会期の延長をはじめ王朝交代に関連がない条項についても,同時に憲法改正を行うことを繰り返し主張した[Mozākerāt 5(211), 1485; Tahmāsebī 1926, 587–589]。要するに,ヤーサーイー議員にとって第1次憲法改正は,単にレザー・ハーンの即位を実現するだけではなく,現状にそぐわない憲法典の条項を一新するための,絶好の機会であったのである。

しかしながら,上記のヤーサーイー議員の主張は,レザー・ハーンを支持する議員の主流派には聞き入れられなかった。その代表としてダーヴァル議員は,同議員への反論として,同様の改正手続を盛り込んだ共和制動議が多くの賛同を得られながらも挫折したと述べる。その上で,彼は,通常の法的手続に囚われるべきではないことを力説した。

[国民議会議員]諸君に申し上げたいことは,法律が平時のものであるということである。そのときには,生真面目に問題を追及し,通常の立法手続に則り解決すればよいのであろう。しかしながら,平時でないとしたら,非常手続を進める局面へと至り,超法規的な手続(yek tarīq-e gheyr-e qānūnī)をもって断行しなければならないときがあり得るのである[Mozākerāt 5 (210), 1477-1478]。

すなわち,ダーヴァル議員にとってガージャール朝廃絶法は,緊急事態における超法規的な手続に基づく非常措置であった。もちろん,この「超法規的」という文言は,前項で紹介した同議員とモサッデグ議員らとの議論をふまえると,法的な正当性およびこれまでの憲法改正論の蓄積を無視するという含意ではない。むしろ,上記の発言を通じて同議員は,立憲革命期の先例に則り,国民議会での慎重な審議を省いてでも,直ちに重要な政治決定を下すべきだと主張したのである。この観点に立てば,ヤーサーイー議員の主張する憲法制定権限の国民議会への授権は,レザー・ハーン即位への反対意見と同様,国民議会での慎重な審議を前提とする点で受け入れられないことになる。また,同議員が同時に修正を求めた王朝交代に関連がない憲法典の条項も,重要な政治決定を即断するにあたっては,その判断を遅らせる余計な論点でしかなかった。

実際に,ダーヴァル議員らレザー・ハーン支持の主流派は,第1次憲法会議において,王朝交代に関連しない条項に議論が及ぶことで審議が紛糾することがないよう,入念に対策を施している。まず前項で述べたように,ガージャール朝廃絶法第1条は,憲法会議がとりあつかう議題として,王家について規定した基本法補則第36,37,38および40条に限定した。このような改正予定条項の明記は,共和制動議ではなく,むしろ二段階選挙規則前文にみられる特徴であった。

上記のように,憲法典の改正範囲を4条項に絞る方針は,その後開催された第1次憲法会議においても貫徹される。たとえば,同会議に先立って制定された憲法会議内規(1925年)第13条は,同会議が「国家の最終的な統治権の決定のみを任務とする(faqat vazīfedār-e ta‘yīn-e hokūmat-e qat‘ī-ye mamlakat mī bāshad)」[Ārshīv-e Mellī 96/998/1708]ことを規定した。実際に,第1次憲法会議において,前述のヤーサーイー議員が王朝交代に関連しない条項の修正を求める動議を行ったものの,この動議は,審議すらされずに議長によって却下されたのである[Tahmāsebī 1926, 587-589]。

このように,ダーヴァル議員らレザー・ハーン支持議員の主流派が憲法改正範囲の拡大を繰り返し否定した背景には,前述した反対派議員による時間稼ぎへの対処に加え,彼ら主流派が大幅な憲法改正を望んでいないことを示す意図があったと考えられる。このような立場の表明は,イラン国憲法典を尊重する姿勢を印象づけ,共和制動議の際にみられた憲法典の護持を旗印とする議会内外の広範な反対運動を防ぐために必要であった。

結果として,第1次憲法会議の議決した改正3条項は,ガージャール王家からレザー・ハーンおよびその直系家系へと王位およびその継承資格者に関して変更した点を除き,規定内容が改正前からほとんど変更されなかった。基本法補則第2条などのイスラームに基づく条項,国民議会,政府といった統治機構にかかる条項のみならず,前述した第45条を含む同法典第35条から第57条までを中心に規定された国王の権限についても,一切拡大されなかったのである。このことは,その終身の地位と引き換えに国王の直接的な政治への関与を厳しく制限したイラン国憲法典の規定に大きな変更がないことを意味した。むしろ,同憲法会議の審議を経て,国王に子息がいない場合の皇太子の選定に国民議会の承認が要件として追加され,わずかながら国民議会による王家への統制が強化されたのである[Tahmāsebī 1926, 531-565(注23)

以上の事実は,同改正が「アゼルバイジャン国民運動合同委員会」にはじまり,第1次憲法会議に至るまで,レザー・ハーンおよび彼の支持派による入念な政治工作を経てようやく実現に至ったことを勘案すると,幾分拍子抜けする結果でもあった。同憲法改正が憲法典の規定そのものに与えた影響は,極めて限定的であったのである。この結果は,緊急事態における非常措置の名のもと,王朝交代以外の論点を排除した改正手続に導かれたものでもあった。この改正を主導したダーヴァル議員らレザー・ハーン支持議員の主流派は,あくまでレザー・ハーンの即位を迅速かつ確実に実現することに主眼をおいており,平時の憲法改正手続を確立することには関心が薄かったといえる。

しかしながら,第1次憲法改正およびその手続は,はじめて憲法典の条文を書き換えた先例として,その後の憲法にかかる法学上の議論に大きな影響を与えていくことになる。その代表例として,1930年代から1940年代にかけてテヘラン大学法学部教授として同国の憲法学を牽引したガーセムザーデ(Qāsem Qāsemzāde, 1888/89~1959年)は,イランにおけるはじめての憲法改正として,ガージャール朝廃絶法,および同法に従って招集された第1次憲法会議を紹介している。その反面,この記述においては,二段階選挙規則,共和制動議などには一切言及がない[Qāsemzāde 2011/12, 491-494]。すなわち,ガーセムザーデは,第1次憲法改正をはじめての憲法改正と位置づけ,それ以前の憲法改正の試みを検討の対象から外したのである。上記のガーセムザーデによる議論は,後の憲法解説書にも受け継がれていく(注24)。こうして,あくまで超法規的な非常措置であった第1次憲法改正の手続は,一般的な憲法慣行として認知されることになった。

このように第1次憲法改正を憲法改正の先例と位置づける学説の成立は,その後の憲法改正に意図しない影響を与えた。というのも,第1次憲法改正の手続は,王朝交代以外の論点を排除する意図で導入された煩雑かつ自由度が低いものであり,後の憲法改正を抑制する方向に作用したからである。前述のヤーサーイー議員がとりあげた選挙にかかる規定は,その典型であった。具体的に,議会会期を2年に限る基本法第5条は,頻繁な選挙による議会審議の中断,立法の停滞を招く,非効率な議会運営の原因として当時バハールら多くの議員が問題視していた[Mozākerāt 4(94), 252-260]。しかしながら,1957年の第3次憲法改正に至るまで同条項が改正されることはなく,国民議会は,2年おきに改選され続けた[Nazarī 2011/12, Yāzdah–Davāzdah]。

同時代の学者および政治家は,基本法第5条以外にも憲法典の規定に当時の政治状況にそぐわず,場合によっては空文化していた箇所があったことを指摘している。たとえば,前述のガーセムザーデは,自らの憲法典の解説書のなかで,今後憲法改正が必要な論点として基本法第5条を含む16点もの憲法典の問題を指摘した。このなかには,モジュタヘドの立法審査を定めた前述の基本法補則第2条も含まれた。同条項についてガーセムザーデは,「国民主権の原則に抵触しないように(bā asl-e hākemīyat-e mellī mobāyenat na dāshte bāshad)」改正が必要だと論じている[Qāsemzāde 2011/12, 501]。上記の解説書においては,この箇所を除き同条項について言及がない。このような条文解釈を放棄しているともとれる対応は,ガーセムザーデ特有のものではなく,当時の公法学者の一般的な態度でもあった(注25)

ただし,上記のような公法学者の態度は,基本法補則第2条が政治の場面において,まったく忘れさられていたことを意味するわけではない。たとえば,第1次憲法改正成立からわずか2年後の1927年,徴兵法(1925年)の本格的な施行に伴い,それに反対するウラマーの抗議運動が発生した。この解決を図るため,レザー・シャーの名代としてゴムに派遣されたテイムールターシュ宮廷大臣(‘Abd al-Hoseyn Teymūrtāsh, 在職1925~32年)らは,彼らの要望に応じて,同法の改正を約束するとともに,上記の基本法補則(1907年)第2条に基づき立法審査に携わる5人のモジュタヘドの選出を表明したのである[Ettelā‘āt 1927; Hedāyat 1951/52, 375-378; BDFA 1927(注26)

テイムールターシュ宮廷大臣らの約束は,その1年後に発生したゴム事件を契機に,レザー・シャーがウラマーの運動を実力で弾圧する方針に転じたことで,結局反故にされた。しかしながら,基本法補則第2条は,この後も修正されずに憲法典に残り,イスラームにかかる条文の憲法改正を禁じた基本法補則附則によって,その存在を再度確認された[Akhgar 1950]。結果として,ウラマーが政府に抗議運動を行うとき,自らの政治的発言権を正当化する格好の材料として,基本法補則(1907年)第2条は,活用され続けたのである(注27)

以上のように,憲法典の規定と当時の政治状況との不一致を解消するにあたり,第1次憲法改正が実現して憲法改正の可能性が開けたことは,問題解決の糸口とはならなかった。むしろ,同改正における煩雑かつ自由度が低い手続は,明らかにそれ以後の憲法改正を抑制する方向に作用した。確かに,支配体制を盤石にしつつあった国王レザー・シャーにとって,追加の憲法改正に必要な条件を整えること自体は,それほど困難ではなかった。しかしながら,改正予定条項を明示した国民議会の発議から憲法会議選挙,ならびにそこでの審議および議決に至るまで,憲法改正に必要な多大な時間および労力を勘案したとき,それにみあうほどに切迫した案件は,当時の政治,社会状況に存在しなかったのである(注28)

おわりに

イラン国憲法典の制定以来,憲法改正およびその改正手続の決定は,扱いの難しい政治問題であり続けた。多くの論者が憲法改正の必要性を認める一方で,実際にそれを実現するにあたっては,同憲法典が打ち立てた立憲制を護持するという観点から,慎重な意見や根強い反対に直面したのである。上記の状況は,軍,警察の実力を背景に権力を掌握しつつあったレザー・ハーンであっても,容易に打破できるものではなかった。彼が憲法典の全面改正をめざした共和制運動において,イスラーム由来の規定を含む憲法典の護持は,イスラーム法学者らウラマーだけではなく,都市部の知識人を含めた幅広い社会層に共感を呼び起こした。上記の各社会層は,憲法典の護持という名のもと,各々の立場,意見を超えて結束し,同運動を失敗へと導いたのである。

この失敗を受け,レザー・ハーンおよび彼の支持派は,共和制樹立から新王朝建設へと目標を変更するとともに,それを正当化するより説得的な憲法改正の理論づけを模索することになる。その過程において,立憲革命期の小専制打倒が再び脚光を浴びるようになった。すなわち,国王モハンマドアリー・シャー廃位,および二段階選挙規則の制定は,王朝交代を可能とする憲法改正の先例として認識されたのである。アゼルバイジャン国民運動合同委員会などによる請願からガージャール朝廃絶法制定,第1次憲法会議の開催へと至る第1次憲法改正においては,上記の先例がたびたび言及され,それらをなぞった手続が採用された。いいかえれば,レザー・ハーンおよび彼の支持派は,少なくとも形の上ではイラン国憲法典を尊重する姿勢を示し,それを生み出した立憲革命の先例に可能な限りならうことで,憲法典の護持を旗印とする反対派の論拠を弱め,彼らの結束力を削ごうとしたのである。

以上の第1次憲法改正の手続について,当時レザー・ハーンおよび彼の支持派は,迅速かつ確実な王朝交代を実現するための非常措置として説明していた。しかしながら,同改正の手続が法学上,一般的な憲法慣行として認知されていくことによって,当初意図しなかった影響を及ぼすことになる。とくに,上記の実現のため王朝交代以外の論点を排除する意図で導入された,煩雑かつ自由度の低い手続は,後の憲法改正を抑制する方向に作用した。実際に,レザー・ハーンの退位を挟んで25年近くにわたり,憲法改正は行われなかった。選挙にかかる基本法第5条,モジュタヘドの立法審査を定めた基本法補則第2条といった,当時の政治状況にそぐわず,場合によっては空文化していた条項も改廃されずに存続したのである。

こうして,実際の政治状況においては彼の支配体制が即位によって大幅に強化されたにもかかわらず,憲法典が想定する統治秩序は,立憲革命期におけるその制定意図に基づき,議会集権の形態を保持し続けることになった。とくに,第1次憲法改正において,国王の権限が一切強化されずに名目的な位置づけにとどまったことは,イラン国憲法典が規定する国王の権限と実際にレザー・シャーが保持する権力との間に深刻な不一致を生み出した。レザー・シャーは,国王への即位によって最高権力者としての地位を固めたにもかかわらず,その権限については首相在職時に比べて逆に大きく制限されることになったのである。そのため,同国王の政策決定は,専ら国民議会の議決ないしその信任のもとにある内閣の決定という形式をとらざるを得なかった。

いずれにせよ,第1次憲法改正の実現は,曲りなりとも国民議会中心に展開していた政治から,国王レザー・シャーを中心とする政治への変化を決定づける出来事であった。この変化のなか,同改正およびそこで導入された煩雑かつ自由度の低い手続は,上で述べた政治状況の変化と憲法典の規定との不一致を解消するどころか,むしろそれを確定させる一因となったのである。当然のことながら,これらの不一致は,時の政治体制にあわせて空文化ないし制定時とは異なる意図で運用される条項を多く生み出し,イラン国憲法典の実効性に大きな疑問を投げかけることになった。

しかしながらそれと同時に,同憲法典が制定時の規定をほぼ維持したままパフラヴィー朝期まで受け継がれたことは,同朝の支配に抵抗する諸勢力に,自らの主張を正当化する格好の材料を与えることにもなった。要するに,イラン国憲法典は,その法的な実効性が犠牲になることと引き換えに,イスラームに基づく統治理念に共感するウラマー,議会を中心とする政治の復活を求める知識人らの反体制運動にも活用される,政治的な遺産となったのである。

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[付記]

本研究は,渥美国際交流財団奨学金(2023年度)および日本学術振興会特別研究員奨励費(課題番号24KJ2034)の助成を受けたものである。

(日本学術振興会特別研究員PD/テキサス大学オースティン校客員研究員,2023年10月6日受領,2024年6月14日レフェリーの審査を経て掲載決定)

本文の注
(注1)  イラン国憲法典の規定に関して,アーファリー,マーティンらは,国王権の制限および議会権の強化という観点から,ベルギー1831年憲法,制定時のオスマン帝国憲法などと比較しても,より先進的な規定を有していたと評価している。ただし同時に,個々人の人権,とくに女性および宗教的マイノリティのそれに関して同憲法典は,限定的な権利を保障するにとどまっていた[Afary 2005; Martin 2011]。

(注2)  上記の人名について,本稿では即位以前に関してはレザー・ハーン,即位以後においてはレザー・シャーと記す。

(注3)  他の政治史および法制史にかかる先行研究も,第1次憲法改正の法的手続,およびそれに至る当時の憲法改正論の変遷には,十分関心を払っていない[Mollā’ī Tavānī 2002/3, 312-369, 419-547; ‘Amīd Zanjānī 2006/7, 111-115; 吉村 2007, 93-102; Abrahamian 1982, 132-135; Pahlavān 2015/16, 495-500, 517-525]。

(注4)  タフマーセビーの経歴は,モルサルヴァンドの人名録を参照[Morsalvand 1995, 280-283

(注5)  第1次憲法改正の手続と基本法補則附則(1949年)との数少ない相違点として,上下両院での発議および憲法制定議会での決定に3分の2の特別多数での議決を要すること,ならびにこれらの発議および決定において国王の承認を有する点が指摘できる。

(注6)  なお,ベルギー1831年憲法第131条は,議会が改正予定条項を指定して憲法改正を発議した後に解散され,新議会が国王と共同してそれら条項にかかる改正の最終判断を行うことを規定している。第1次憲法改正の手続は,上記の条項を原型としつつも,改正の最終判断を常設議会と別個の憲法会議に委ねている点で特徴がある。

(注7)  アドルは,フランスにて法学士の学位を得た後,外務省および法務省で務めながら,上記の著作を出版した[‘Āqelī 2001, 2: 995-997]。

(注8)  イラン憲法典の起草過程には史料上不明瞭な部分が多く,そもそも憲法改正にかかる条項が同憲法典に盛り込まれなかった理由を明確に示す史料は,管見の限りみあたらない。ただし,立憲革命の展開のなかで短い時間で起草されたこと,さらに上院の権限,前述の基本法補則第2条の問題をはじめさまざまな懸案があったことから[Ādamīyat 1976/77, 383-393, 408-432],当時憲法改正が最優先の論点とみなされていなかったことは確かである。なお,フォルーギーは,当時政治学院の副学長であり,後にパフラヴィー朝の初代首相を務めた[Varedi 1992, 52-56]。

(注9)  実際に,同規則に基づいて開催された第2期国民議会(1909~11年)は,他の重要案件の審議に追われていたこともあり,上記の4条項を書き換えるための具体的な措置を講じることはなかった[Bayat 2020; Ettehādīye 1982, 199-341]。なお,前述のアドルによる憲法改正論においては,二段階選挙規則(1909年)の制定が一切言及されておらず,それが憲法改正とは認識されていないことがわかる[‘Adl 1909/10, 357-361]。

(注10)  同時期のトルコ政治の展開については,新井[2001, 174-204]の著作などを参照。実際に当時共和制を支持したイランの知識人は,トルコにならった政治改革を唱えるとともに,王制と結託したウラマーの腐敗を訴え,彼らへの批判を強めていた。たとえば,『薄明(Shafaq-e Sorkh)』紙を参照[Shafaq-e Sorkh 1924a; 1924b]。マーティンは,ウラマーが社会,経済面で多様であることに言及しつつ,彼らが一致して共和制運動を阻んだとする図式を批判した[Martin 1994]。この指摘は,ウラマーが一枚岩ではないことを示した点で重要であるものの,同運動にあたってイスラームに基づく統治理念が掲げられ,それがウラマーを含めた社会の広範な支持を獲得した事実を否定するものではない。後述のとおり第1次憲法改正では,上記の理念が反対運動を結束させる旗印とならないように,細心の注意が払われた。

(注11)  国民議会周辺で共和制に反対する街頭運動を行っていた伝統的知識人,バーザール商人その他の都市住民に対し,レザー・ハーンの指示を受けた軍および警察が実弾を発射し,多くの死傷者が出た事件。この事件を経てレザー・ハーンらへの批判は,さらに高まった[Bahār 1944/45, 43-54; Hedāyat 1951/52, 367-368]。

(注12)  エシュギー暗殺,インブリー殺害事件に関しては,それぞれ中村,スタインの著作などを参照[中村 2022, 311-386; Stein 2020, 187-212]。

(注13)  君主制への信頼ないし愛着は,レザー・ハーンの支持者および彼の後ろ盾であった軍においても根強く存在したとされる[Esendal 1999, 61-63; Bakhtiyārī 1993/94, 116]。

(注14)  これらの委員会は,各社会層(tabaqāt)に属する住民が合同して結成した組織であることを謳っている[Tahmāsebī 1926, 101-102]。その含意を考慮して,本来の語義では「混成」という意味合いが強いmokhtaletの語句を本稿では「合同」と訳した。

(注15)  タフマーセビーは,同委員会など,新王朝建設を支持する運動全体の組織および運営に深く関与していたとされる[Khāje Nūrī 1978/79, 143-149]。

(注16)  基本法補則(1907年)第26条は,国家権力が国民から発することを規定する。

(注17)  請願委員会は,1327年ゾルハッジェ月26日[1910年1月9日]に制定された「国民議会内規(Nezāmnāme-ye Dākhelī-ye Majles-e Shūrā-ye Mellī)」第17, 66-73条に規定された同議会における常設委員会のひとつであり,一般の国民から同案件を受けつけ,必要に応じて立法措置もしくは国政の調査を行う役割を担った[Qavānīn 1-2, 348-388]。米国代理公使エーモリー(Copley Amory Jr., 在職 1925~26年)によると,レザー・ハーン支持の議会多数派は,上記の全国各地から寄せられる請願に関して,同様の請願を経て二段階選挙規則が制定されたことを引き合いに出していたとされる[NARA 891.01/23]。この報告に基づけば,上記の請願も立憲革命期の先例にならった憲法改正手続の一環であったといえる。

(注18)  同様の記述として,テヘランを中心に当時の都市社会の状況を詳細に記したサールールの回想録を参照[Sālūr 2000/1, 7370-7372]。

(注19)  ガージャール朝廃絶法案の発議直前に発生した,ガズヴィーニー(Mohammadyahyā Keyvān Qazvīnī, 1885/86~1925年)の暗殺は,その代表例である。一説には,バハール議員が本来の暗殺対象であったといわれる。レザー・ハーンに批判的なジャーナリストであった彼の暗殺は,軍および警察によるレザー・ハーンの即位に反対する勢力への警告として当時受け止められた[Bahār 1944/45, 283-284, 303-304; Mostowfī 1947/48, 662-663]。

(注20)  同会議における他の反レザー派議員の発言については,ガニーの著作を参照[Ghani 1998, 368-372]。

(注21)  これらの条項は,それぞれ利権供与,借款,鉄道敷設について扱っており,それらすべてに国民議会の議決が必要であることを規定している[Qavānīn 1-2, 3-14]。

(注22)  同議員の先にレザー支持派の議員として発言を行ったアンヴァール・シーラーズィー議員(Seyyed Ya‘qūb Anvār Shīrāzī, 1876/77~1955/56年)も,二段階選挙規則に言及しつつ憲法改正の正当性を論じている[Mozākerāt 5(211), 1484-1485]。

(注23)  上記の皇太子の選定は,第1次憲法改正において最も活発な議論が交わされた論点であった。とくに,レザー・ハーンを支持する左派の有力政治家であったエスキャンダリー(Soleymān Mohsen Eskandarī, 1875~1944年)は,能力のある人物が王位に就く選挙王制を理想とし,皇太子の選定基準として血縁関係の近さおよび年齢のみを明記することに反対した[Bakhtiyārī 1993/94, 168; Seyf Pūrfātemī 1989/90, 493-494]。

(注24)  例外として,同じくテヘラン大学法学部の草創期に教鞭をとったサーレフ(‘Alī Pāshā Sāleh, 1902~91年)は,憲法改正に関連して二段階選挙規則に言及している。ただし,彼は,その改正手続に関して後の憲法改正との連続性ないし相違点を検討することはなく,単にアゼルバイジャン州議会が憲法会議の役割を果たしたとみなした[Sāleh 1969/70, 251-253]。同様にパリ大学で法学博士号を取得したラヒーミー(Mostafā Rahīmī, 1926/27~2002年)は,憲法会議のみが憲法改正およびその解釈の権限を有すると主張した[Rahīmī 1968/69, 174-175]。

(注25)  たとえば,前述のラヒーミーは,基本法補則(1907年)第2条が死文化しており,加えて民主主義および国民主権の原則にも反していると論じた[Rahīmī 1968/69, 121-122]。

(注26)  徴兵制反対運動およびゴム事件に関しては,以下の研究などを参照[Yousefi 2017; Basīrat Manesh 1997/98, 294-314]。

(注27)  代表例として,ホメイニーは,同条への違反をもってモハンマドレザー・シャーの支配体制を繰り返し批判した[Ram 1993, 203-204; Afary 2005, 358-359]。

(注28)  イラン政治において憲法改正が再び注目を浴びるようになったのは,レザー・シャーが退位し,国民議会を中心とする政治が復活した1941年以後であった[Azimi 1989, 23, 201-217; ‘Amīd Zanjānī 2006/7, 133-136]。

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