Ajia Keizai
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Print ISSN : 0002-2942
Book Reviews
Book Review: Minoru Sawai, History of Railroads in the Japanese Imperial Sphere: Examining Technology Introduction and Expansion into East Asia (in Japanese)
Naofumi Nakamura
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2025 Volume 66 Issue 1 Pages 69-72

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本書は,日本経済史・経営史の分野で数多くの研究書を発表してきた著者による鉄道史関連の2冊目の単著である。著者の最初の単著は日本の鉄道車輛工業の発展過程を包括的に描いた『日本鉄道車輛工業史』[沢井 1998]である。この本は,公刊後四半世紀を経た現在でも鉄道史,機械工業史の分野で必ず参照される名著である。以後,著者は機械工業史,技術史,産業政策史,産業集積論,技能形成論,技術者論といった多様な分野で,いずれも重厚な実証研究の成果を発表してきた。こうした幅広い研究活動の蓄積をふまえ,本書は検討の対象地域を日本のみならず,その植民地・勢力圏へと拡張し,日本帝国圏全体における鉄道関連技術の導入・定着・伝播の過程を,技術者や経営者,職員,労働者といった関係者の具体的な動向に注目しながら描いている。以下,その内容を簡単なコメントを交えながら紹介していきたい。

Ⅰ 本書の紹介

「序章 帝国日本における鉄道技術の展開」は,まず日本帝国圏における鉄道技術の展開過程に,欧米先進国からの導入・定着の側面と,定着した技術を東アジアの帝国的経済圏に向けて伝播していく側面という二面性があったことを指摘する。このうち前者の局面で日本は「勤勉で優秀な学習者」として行動し,後者の局面では鉄道技術のメンターとしての役割を担った。そしてこの両者が折り重なりながら展開した点に,日本帝国圏における技術形成の特徴があったと論じた。国民国家形成と帝国建設が同時並行で進む点は,日本近代史の特徴として従来から指摘されてきた。本書はこの点を,日本帝国圏における鉄道技術形成史の研究に明示的に取り込み,その具体的な展開過程を担い手に注目しながら明らかにしようとする。この論点は,日本帝国圏の経済史を他の帝国圏と比較する場合にも,重要な視点になると思われる。

「第Ⅰ部 鉄道技術の導入と定着」は,おもに鉄道技術の学習局面に関するトピックから構成されている。「第1章 鉄道技術者の海外留学」では,土木,機械,電気といった鉄道の個別技術ごとに,国鉄の技術者たちが海外留学をとおして,欧米先進国からどのようにして鉄道技術を学んだのかが検討される。具体的には蒸気機関車の朝倉希一,電気技術の井上昱太郎,橋梁技術の田中豊,トンネルの池原英治,高架鉄道の中山忠三郎,客貨車の小坂狷二といった多様な事例を紹介している。そしてこれらの事例を分類・整理して,彼らの海外留学の目的を,①個別的技術課題を解決するために先進技術を学ぶ,②先進国における一般的現況を調査し,技術展開の世界的潮流を理解するという2つに分類した。そして最後に,技術者たちの海外留学を円滑化した条件として,鉄道院―鉄道省の購買者としての存在感と,国際鉄道会議への積極的な関与が挙げられている。

第1章が技術系職員の海外留学を検討したのに対して,「第2章 鉄道運輸専門家の誕生」は,経営系職員の事例を考察している。具体的には,鉄道院―鉄道省から海外に派遣された在外研究員の海外での学習内容と帰国後の活動について,のちに鉄道運輸管理の専門家になる岸本熊太郎の事例を用いて明らかにしている。

「第3章 電気機関車の国産化過程」と「第4章 ディーゼル機関車の国産化」は,戦間期以降に海外から導入された新技術の学習と定着の過程を,その担い手である技術者たちの動向に注目しながら明らかにしている。電気機関車が,共同設計方式による国産機関車開発によって,鉄道省の強いリーダーシップのもとで順調に進展したのに対して,ディーゼル機関車は,開発の着手が遅れたこともあり,国産化が戦後に持ち越された。ディーゼル機関車開発の苦難の道のりは,共同設計方式に代表される国鉄を中心とした技術開発の問題点をも照射している。

「第Ⅱ部 鉄道技術の伝播と経営展開」は,日本に定着した鉄道技術が東アジアの各地域に伝播・普及する過程を検討している。「第5章 吉敦鉄道の建設過程」は,満鉄借款鉄道のひとつである吉敦鉄道を事例に,外延部から日本帝国圏鉄道の特徴を探っている。中国における借款鉄道は,建設・運営や資材供給を借款の出し手が担うことが多い。1926年に着工し,28年に竣工した吉敦鉄道の場合,満鉄が建設工事を請け負い,橋桁などの建設資材,機関車を含む鉄道車輛は日本と関東州(大連)の日系メーカーが供給した。しかし,レールはアメリカ製が用いられた。吉敦鉄道が建設工事のヒト,モノ,カネのすべてを満鉄に依存しつつも,一部の鉄道資材をアメリカから輸入せざるを得なかった点は,日本帝国圏鉄道の特徴をあらわしており,興味深い。

「第6章 大連機械製作所の技術と経営」は,1918年に満鉄の下請け工場として創業した大連機械製作所を事例に,日本帝国圏における鉄道技術の現地化の過程を検討している。大連機械は,1920年代前半の困難な状況を乗り越え,満州事変以降,満鉄の急拡大とともに飛躍的な発展を遂げた。日本国内における指定工場制度をそのまま移植した満鉄は,大連に所在した有力鉄道車輛メーカーである大連機械を保護・育成した。大連機械は旅順工科学堂・大学をはじめとする現地高等教育機関から技術者を調達し,中国人労働者を雇用しつつ,満鉄からの技術指導と安定的な需要を得て経営を拡大した。ただし,満洲には満鉄以外に主要な顧客が存在しなかったため,大連機械が満鉄から自立した独自の技術を形成することはできなかった。人的資源の面で強い在地性をもちながらも,技術面での独自性を獲得できない点は,需要先が限られた植民地市場に根差した大連機械の特徴といえるだろう。

「第7章 龍山工作の技術と経営」は,1920年代末以降の植民地・朝鮮における民間鉄道車輛メーカーの動向を,龍山工作の事例で検討している。龍山工作は,1927年以降,朝鮮総督府鉄道局からの貨車や橋桁の持続的な発注によって昭和恐慌を乗り切り,満州事変以降,朝鮮域内のみならず,満洲からも大量需要を受けて急速に成長した。龍山工作の特徴は,工作部が工場を統括する一方,企業部が株式投資を行って投資収益を得るだけでなく,取引先の鉄道会社の株式を取得して役員を送り込み,朝鮮の私鉄各社と緊密な関係を構築した点にある。ただし,機関車の生産は,主要部品を日本国内からの移入に頼らざるを得なかったため,順調には進展しなかった。

「第8章 帝国圏鉄道における日本人技術者の配置と技能者養成」は,日本帝国圏内における人的資源の配置と技能教育について,朝鮮総督府鉄道局を事例として考察している。具体的にはまず,日本人の鉄道技術者の帝国圏内での配置状況と,朝鮮人,台湾人,中国人技術者の帝国圏鉄道での分布状況を概観した上で,朝鮮鉄道の機械技術者・幹部職員の履歴と業務内容を検討し,さらに機関区長,保線区長,鉄道工場の判任官待遇の鉄道手といった技能者クラスの履歴を分析している。後半では,京城鉄道学校=鉄道従事員養成所を事例に植民地における技能者教育の内容や教員,卒業生の特徴について論じている。その結果,①幹部技術者は東京帝国大学工学部出身者で占められている,②欧米留学経験者の多くも東京帝大出身者である,③機関区長,保線区長の多くは叩き上げの技術者だが一部に若い帝大出身者も含まれる,④例外的に鉄道手に昇進した朝鮮人労働者は給与面では日本人との格差はないものの,日本人のみに支払われる在勤手当(加俸)によって給与格差が生じていた,⑤工場の朝鮮人労働者(傭人)の給与は日本人の5~7割の水準だったといった点が明らかになった。また1919年に設立された京城鉄道学校(1925年以降,鉄道従事員養成所)は,日本人のみならず,朝鮮人にも人気があったが,入学者枠に日朝間で大きな格差が存在した。また養成所で一般科目を教えたのは,日本内地の師範学校を出た教員であり,好待遇で迎えられた。植民地・勢力圏における鉄道技術者の全体的な賦存状況と人的資源の運用・養成の内実を明らかにした本章は,日本帝国圏鉄道の全体像を把握する上で,極めて有益である。その意味で,本章が第Ⅱ部の冒頭に配置されてもよかったのではないかと思われる。

「第9章 ソ連鉄道工場への鉄道省技術者派遣」は,日本からソ連への車両修繕技術の移転という,知られざる歴史に光を当てた興味深い章である。1930年から31年にかけて,鉄道省の鉄道車両技術者たちがソ連のモスクワ・カザン鉄道から招聘をうけて,機関車・客貨車修繕の短縮化,運転と機関車保守修繕の指導を行い,大きな成果を挙げた。彼らの指導はソ連側からも高い評価を受けて,再度の派遣を求められたが,満州事変の勃発もあり,実現することはなかった。この事例は,1930年前後の日本の鉄道車両技術がいかに高かったかを示す好事例である。さらに国鉄技術者団の団長であった加藤仲二が1935年に満鉄の哈爾濱工廠長を委嘱され,翌36年には大連工場長に,1940年には華北交通工作局長に相次いで就任していることから,ソ連が注目した高い鉄道車両技術が日本帝国圏に持ち込まれ,その拡張とともに外延部へと広がっていくことがわかる。

「第10章 満鉄鉄道技術研究所の組織と活動」は,日本帝国圏内における技術開発の内実を検討している。1922年に満鉄沙河口工場の隣に設立された鉄道技術研究所は,その後の組織変遷をへて1939年に鉄道技術研究所になる。満鉄の鉄道技術研究所の特徴は,その実践的性格にあったが,それは①研究所と工場の密接な交流,②研究所幹部が大卒後,現業部門で経験を積んでいる,③試験研究の多くが現業部門との協力のもとで遂行された,④満鉄中央研究所が先行していたため,鉄道技術関連の試験研究機関は常に存在意義を問われていた,といった点に起因していた。ただし,新しい技術への対応は鈍く,戦間期の欧米で進んだ電気機関車やディーゼル機関車の技術は大きく立ち遅れることになった。

「第11章 戦時下における華北車輛の経営実態」は,日中戦争下で日本の占領地域に設立された華北車輛の経営を検討している。華北車輛は,華北における鉄道車両供給の担い手として1940年に設立された。しかし,設備機械や生産資材,労働者や技術者といった経営資源の不足に悩まされ,下請け工場との関係にも困難を抱えていた。主力工場である青島工場では,累積する困難にもかかわらず,生産管理を改善するさまざまな試みが行われたが,結局,厳しい経営状況を強いられることになった。本章は,戦時下の日本帝国圏の外延部で何が起きていたのかを鮮明に描いている。

最後に「終章 帝国日本と鉄道技術」では,本書の内容を確認した上で,帝国運営の大きな特徴のひとつである宗主国と植民地との間での経済的機会分布の大きな落差について,朝鮮総督府鉄道局や大連機械製作所などの事例を用いて説明している。その結果,幹部職員に占める現地人比率の低さ,日本人と現地人との給与格差,技能者養成機関などでの修学機会の格差があらためて明らかになった。

Ⅱ 本書の意義と課題

以上,本書の内容を若干のコメントを交えながら紹介してきた。その上で,鉄道史研究の立場からあらためて本書の意義を論じると,以下のようになる。まず本書が「日本帝国圏鉄道」という概念を提起し,第8章にみられるように帝国日本の鉄道技術形成の全体像を捉えようとした点が重要である。これは従来の研究が,日本国内と植民地・勢力圏でそれぞれ別々に進められてきた点を考えると画期的なことである。今後は,本書が提起した研究視角を継承し,その内容を豊富化するとともに国際比較を試みることで,帝国日本の鉄道発展の特徴が明らかになると思われる。

つぎに日本帝国圏鉄道の技術形成に関する分析枠組みとして,日本国内への技術の導入・定着というプロセスと,日本から植民地・勢力圏への技術伝播というプロセスが,段階的にではなく,同時並行的に進んだという指摘が重要である。鉄道技術の総合性を反映して,技術導入・定着・伝播のスピードはそれぞれの分野ごとに多様である。しかし,各分野とも,鉄道技術の導入がいったん,完了したのちも,日本の鉄道関係者たちは,欧米の技術革新に対して常にアンテナを張り,新しい技術を追い求めた。そのため,本書が第Ⅰ部で明らかにしたように,国鉄は常に海外留学生を送り続けたのである。

さらに吉敦鉄道や大連機械製造所,龍山工作,華北車輛といった従来,研究が進んでいなかった日本帝国圏の鉄道,鉄道車両製造業に関する実証研究が進んだ点も,見逃せない。これらの研究によって,はじめて日本帝国圏鉄道の内実の解明が進み始めたといえる。またソ連への技術移転や満鉄の技術開発も,知られざる歴史に光を当てた貴重な研究である。

一方,本書で残された課題としては,明治期の日本帝国圏鉄道に関する研究の深化が挙げられる。周知のように日本では,国民経済の形成と帝国建設が同時並行的に進行した。その始点は日清戦争であり,日露戦争がこの動きを一気に加速した。したがって,日本帝国圏鉄道の形成を考察する場合,日本への鉄道技術の導入期である明治前期と,産業革命の進展と並行して帝国建設が始まった日清・日露戦間期の研究が不可欠となる。

さらに欧米から日本への鉄道技術の移転を考える場合,土木技術と機械技術による技術定着=自立の時期の違いにも注目する必要がある。日本の鉄道は1872年,お雇い外国人の手によって開業するが,1880年代初頭には鉄道建設に必要な土木技術を日本人が習得し,早くも自立の段階に至った。その過程で中心的な役割を担ったのが,明治初期に海外留学を経験した初期留学生とお雇い外国人のもとで学んだ技術者たちであった。彼らは日本国内で基礎教育を受けた後,海外の大学に留学し,学生として鉄道工学を学んだ。その意味で,欧米の先進技術を体系的に吸収した世代であった。その後,工部大学校や帝国大学を卒業した技術者たちが,やはり海外の大学に留学し,実地経験を含めた鉄道技術を学んでいる。これに対して機関車製造に代表される機械技術は,日清戦後に至るまでお雇い外国人への依存が続いた。国内高等教育機関を卒業した機械技術者たちは,留学よりむしろお雇い外国人のもとで技術を学び,徐々に機関車製造のノウハウを蓄積していった。つまり,日本が帝国建設を始めた時期に,土木技術はすでに定着が完了し,伝播可能な状態にあったが,機械技術はまだ導入・定着の途上にあった。明治期の日本帝国圏鉄道が,初発の段階で機関車を主として欧米から輸入したのはそのためである。この点は,本書が指摘した日本帝国圏鉄道の特徴である技術導入・定着と伝播の同時並行という特徴を考える上で,重要な論点となる。

さらに,明治期の海外留学が,第一次世界大戦期以降の海外留学とは違った意味をもっていた点にも注目する必要がある。前者が海外に長期間滞在し,鉄道工学を体系的に学んだのに対して,後者は鉄道工学を国内で学び,さらに一定の実地経験を積んだ上で,現状調査や個別課題解決のために短期で海外留学している。第一次世界大戦の直前には,日本の鉄道技術がすべての領域で確立し,鉄道工学を海外で学ぶ必要はなくなっていた。しかし,それ以降も常に欧米の先端技術をどん欲に吸収しようとした点に,本書が指摘した両大戦間期日本の鉄道技術の特徴があったといえる。

これと関連して,明治期に留学した技術者の回顧に語学で苦労したという記述が少ないのに対して,本書第1章などでは語学の壁の問題が多く語られている点も気になった。この問題を考える場合,工部大学校の授業はほぼすべてが英語で行われていたのに対して,帝国大学への移管後,徐々に日本語での授業が増え,ついには日本語のみによる鉄道工学の習得が可能になった点を考慮する必要がある。高等教育の現地語化は,知識習得の速度を引き上げるとともに,普及の範囲を広げ,途上国の技術を高度化する上で重要だったと思われる。しかし,この点が技術発展の実際の歴史過程において,どのような形で観察され,いかなる作用と副作用を引き起こしたのかという問題の検討は,今後の研究課題である。

以上のように,本書には今後の研究のヒントが数多くちりばめられている。是非,一読し,読者それぞれの問題関心に応じた魅力的な研究課題をみつけてほしい。

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