Ajia Keizai
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Print ISSN : 0002-2942
Book Reviews
Book Review: John F. McCarthy, Andrew McWilliam and Gerben Nooteboom eds., The Paradox of Agrarian Change: Food Security and the Politics of Social Protection in Indonesia.
Shinya Ikeda
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2025 Volume 66 Issue 2 Pages 113-116

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はじめに

社会経済が豊かになる過程において人々が健康的な生活を過ごせることの価値は非常に高い。そのためには栄養価の高い食料の摂取が必要であるが,そのような食料品は比較的高価であり,一定以上の経済水準に達することが必要条件である。インドネシア統計局[BPS-Statistics Indonesia 2024]によれば,インドネシアの貧困率は2018年に10パーセントを下回り9.41パーセントであった。そしてコロナ禍で一時数値が悪化したものの,2024年には9.03パーセントと低水準・低下傾向にある。すなわち,健康に向けた必要条件が満たされているといえる。しかし,インドネシア保健省[Kemenkes-BKPK 2023]によれば2018年の子どもの発育阻害率(stunting rate)は30.8パーセントであり,非常に高い水準であった。この貧困者の減少と高い発育阻害率というパラドックスの解明に取り組んでいるのが本書である。

本書はインドネシア・オーストラリア・オランダの研究者計20名により執筆されている編著書であり,コロナ禍前に実施された大規模な国際共同研究プロジェクトの成果集となっている。具体的には,オーストラリア研究評議会の助成金「インドネシアにおける家計脆弱性・食料安全保障・社会保護のポリティクス」による研究プロジェクトの成果であり,研究代表者は本書の筆頭編者であるオーストラリア国立大学のマッカーシー教授(John F. McCarthy)である。オーストラリアから3大学,インドネシアからはガジャマダ大学など6大学,オランダからはライデン大学とアムステルダム大学の2大学が参加している。

上記の研究プロジェクトの終了後ではあるが,インドネシア政府による発育阻害対策の加速化(2021年大統領令72号)により,発育阻害率は2023年には21.5パーセントにまで大きく減少している。しかし,2022年から2023年にかけては0.1ポイントしか発育阻害率が改善されていない点や,2024年までに発育阻害率を14パーセントにしようとした政府目標の達成が難しい点を考えれば,本書の意義は失われていない点ははじめに強調しておきたい。

Ⅰ 本書の内容

本書は4部17章から構成されている。第1部「農業変化と社会的保護」は1章から3章までの計3章で構成されており,編者3名をおもな執筆者として本書の導入が行われている。第2部「地方貧困の構造と分析」が本書の中核部分であり,4章から10章までの計7章で,インドネシア各地の事例研究結果が報告されている。第3部「社会的保護」は11章から14章までの計4章で構成されており,おもに条件付現金給付(conditional cash transfer)による貧困削減アプローチの実態を定性的に明らかにしている。第4部「結論」で本書は締められているが,15章から17章までの計3章で構成されている。15章では第2部の事例を比較検討することで総合的な考察を行い,続く16章が編者3名による事実上の結論の章となっている。最後の17章は,本書の現地調査後に発生したCOVID-19による影響を補足的に考察したものである。

以下では簡潔に内容を紹介したい。

本書は2つの目的に向けて執筆されている。すでに述べたように統計指標として貧困率が大きく低下しているにもかかわらず,なぜ栄養不安(nutritional insecurity)は高い水準のままなのかというパラドックス(p.6)を議論の出発点としている。とくに農村部で観察されるこのパラドックスを繙くために農業に着目しており,インドネシア各地の農業生産システムと地域的文脈の視点から,農村住人の脆弱性と栄養不安をもたらす要因を明らかにすることを1つ目の目的としている(第2部に対応)。2つ目の目的は,脆弱性や栄養不安を解決するための社会的援助ないし貧困削減政策の実像を明らかにすることとしている。すなわち定量的な経済学的評価(文中ではeconometric evaluationとして何度も言及される)では看過されがちな政府による社会的援助の実施過程を明らかにすることを目的としているのである(第3部に対応)。

本書の分析視角として注目すべきが貧困の概念的整理である。まず,家計消費額や所得などの統計的・定量的データにより貧困状態を定義する客観主義者(objectivist)的なアプローチが説明されるが,地域コミュニティの生計状況を十分には把握できないと批判する(p.15)。その上で,地域コミュニティでの生活水準に関する認識をもとにした文脈的・社会的な概念としての貧困概念を本書全体で取り入れている。具体的には,Krishna[2006]で示された「発展段階の手法(Stages of Progress (SoP) methodology)」により調査村内の貧困家計を識別しており,同手法が第2部のすべての事例研究で採用されている。また,栄養不安に陥っている家計を識別するために,家計レベルでの栄養不安に陥った経験とその頻度をもとにした指標であるHFIAS(Household Food Insecurity Access Scale)が用いられている。ただ,6章と9章では計測されていない。

そして,島嶼国であるインドネシアの地域的文脈を考慮してさまざまな地域のエスノグラフィーにより上記の課題に接近している。具体的には,インドネシアの地域経済の基幹産業である農業における産業化,脱農業,多様化,労働移動などの変容を捉える手段として,農業変化シナリオ(agrarian change scenarios)によるヒューリスティックな手法を用いている。

調査地域ごとに見出された農業変化シナリオは大きく4つあり,ここで簡単に紹介したい。1つ目は北スマトラのパーム油生産地域を対象としたプランテーションシナリオである。調査対象地であるアサハン県とランカット県はその実相が大きく異なり,プランテーション経営による土地支配から逃れて自律的な土地管理を行う前者の県を小規模農家発展シナリオ,逆に土地管理への実行力を失った後者の県を飛び地プランテーションシナリオと対照的に分類し,詳細を7章で検討している。2つ目がジョグジャカルタ特別州(4章)とアチェ州(5章)の米生産を取り上げる灌漑米生産シナリオである。さらに労働市場にみられる構造メカニズムの違いから,労働機会は豊富であるが低賃金労働の需要が大きな前者の州の事例を不安定発展シナリオ,逆に労働機会が限られている後者の州の事例を横ばいシナリオとして分けている。3つ目は,バリ州(9章)と東南スラウェシ州(10章)の漁業を対象とした共同体漁業シナリオである。両地域は漁業資源状況に違いがあり,乱獲により漁業資源が枯渇しているバリ州については資源劣化シナリオ,まだ活発に漁業が行われる東南スラウェシ州を漁業ブームシナリオとして分類している。最後の4つ目は東ヌサトゥンガラ州(6章)と中ジャワ州(8章)の園芸作物栽培に関する高地乾燥栽培シナリオである。構造的な資源制約に直面する東ヌサトゥンガラ州においては自給志向シナリオ,逆に商業化が著しい中ジャワ州については流行となった作物を農業多様化シナリオとして分類している。

2つ目の目的に関連する諸研究は3章で導入されており,食料現物援助と条件付現金給付によるアプローチに着目し,各援助プログラムの導入に至るまでの歴史的背景,プログラム実施に影響を与える地域行政や住民の社会関係,そして農業変化シナリオへの干渉の様相などを包括的に議論している。個別具体的な検討は第3部で行われており,11章では5章で取り上げられたアチェ州の事例をもとに,援助受益者の選択が地域住民の不安や嫉妬を招くといった問題について深堀りしている。12章では条件付現金給付プログラム導入における政治的経路について,8章と同じ中ジャワ州バントゥル県イモギリ郡ではあるが異なる村であるスリハルジョ村を事例に地域レベルの視点から検討している。世界的に広がる貧困撲滅のためのアイデアや技術,とくにプロキシ・ミーンズ・テスト(proxy means tests)による貧困者の特定が相当大きな誤差を生じさせている点などを議論している。13章では援助対象者の選定で生じている大きな誤差の問題を取り上げ,村落協議(musyawarah desa)を受益者選定過程に取り入れることがこの問題の解決につながるかを明らかにしている。なお,それまでの章では取り上げられていない中ジャワ州クブメン県の3村の事例から議論している。14章は社会経済開発に向けたグローバルなアイデアがいかにして現在のインドネシアにおける社会保護政策を形成するに至ったかを条件付現金給付プログラムをケースとして議論している。2015~2018年にジャカルタで実施された政府高官,政治家,国際開発機関,NGOへの綿密なインタビューを一次資料としている点で,他の章とはアプローチ方法が異なる。

15章では本書の事例研究を横断的に比較考察しており,その上で16章で述べられた結論はつぎのとおりである。極端な貧困が解消されるなかで栄養不安が高い水準にとどまるというパラドックスについて,これまでの開発経済学による知見を振り返りつつもそれとは対照的に,統計的一般化が難しい因果メカニズムに根ざした農業変化のプロセスこそが原因としている(p.410-411)。そして,このパラドックスはさまざまな形をとるゆえに万能な対処法は存在せず,個別対応の必要性を指摘している。そして,貧困削減に向けたより公平かつ効果的な方法はいまだ明らかではないとしつつも,これからの政策立案においては計量経済学的分析にみられるような高度なデータ分析だけでなく,地域の脆弱な人々と彼ら彼女らへの政策的対応を形成する政治経済的な文脈の深い理解が必要だとしている(p.419)。

Ⅱ 本書の貢献と課題

貧困から脱却しつつある一方で栄養摂取状況が不十分というパラドックスを説明するために,個別の地域研究の寄せ集めではなく,システマチックな研究枠組みのもとに各事例を適切に配備した点が特徴的であり,インドネシア農業の多様性を包括的に見通すことのできる良書といえる。評者はジャワ島の野菜流通に関する調査研究の経験しかなく,また本書が否定的な計量経済学的アプローチを採用しているため,論評の視点もおのずと偏ったものとなってしまう点はご容赦いただきたい。その上で,本書の課題として指摘したい点は下記の4点である。

1点目は事例研究に共通して採用されている貧困指標についてである。SoP手法による貧困世帯の特定および貧困率の推計に関しては各章で共通した手法がとられており,各事例を比較する上で重要な役割を担っているのは間違いない。しかし,当該データの取得方法と利用方法には課題があるように思われる。本書の16ページによれば,SoP手法により貧困世帯と非貧困世帯に分けて層化抽出法により計40名のサンプルをランダムに選択し,家計生計調査が行われていると記載されている。しかし,実際の現地調査の詳細に関する記述が乏しく,第2部の事例研究の章を見渡しても詳細は記述されていない。たとえば,事例研究で対象としている母集団は各々異なるにもかかわらず,全事例で標本のサンプルサイズを40に設定した根拠は不明である。しかし,そのような議論は本書で行われていない。仮にそのサンプルサイズで十分であれば,貧困率の地域格差を推測統計の観点から分析することや,各事例研究の章においてもより頑強な定量的な貧困率に関するデータ提示が可能だったのではないだろうか。本書が人類学的アプローチを採用しているため統計的分析は馴染まないのかもしれないが,定量的な指標をすべての調査地で導入した点が独創的だったことを考えると,指標の扱いが中途半端になっている点が残念であった。

つぎに,本書において調査対象者の食料貧困に関係する指標は前述の貧困指標と並んで重要であるが,貧困指標とは異なりその位置づけが不明確である。本書が問題視している指標は発育阻害率であり,農業変化シナリオとの関連でいえば,農家が不作に陥ったときに食費を切り詰め,まずはタンパク質の摂取を控え,代わりに安く手に入る炭水化物や加工食品を消費するようになり,結果として栄養不良に陥ることで発育阻害率が増加するという本書の説明には納得感がある。しかし,多くの事例で用いられたHFIASは食料の栄養摂取状況ではなく獲得能力を捉えているため,発育阻害率を説明するには不十分な指標である。むしろ,近年のインドネシアでは発育阻害だけでなく肥満も含めた栄養不良の二重負荷(double burden of malnutrition)が問題である点をふまえれば,栄養摂取バランスを定量的に捉えられる食品摂取多様性得点(dietary diversity score)などの指標を用いるべきであり,併用が必要だったのではないだろうか。栄養摂取と健康に関する問題は地域差が大きいことも伺え,問題設定が難しいが,各事例を通底する指標の利用方法の提示ないし事後的な提案がほしかったところである。

3点目は本書の2つ目の目的へのアプローチ方法についてである。従来から,条件付現金給付を代表とする貧困削減プログラムの対象者のミス・ターゲッティングは大きな問題であった。その点に関連したミス・ターゲッティングの実像を本書が提示している点は評価したい。たとえば,地域社会内のローカルエリートとの関係性により受益者認定に不公平が生じる点や,それを補完するように給付金のインフォーマルな再分配が観察される点などである。しかし,本書の目玉である第2部の事例研究で対象となっている調査地の大部分がこの論点を取り上げた第3部の研究対象とはなっておらず,本書の分析枠組みとしては不十分といわざるを得ない。16章で述べられたように,地域特性に応じた個別対応の重要性はもちろん認めるところであるが,本書のよさを前面に出すのであれば,農業変化シナリオごとにそこから取り残される貧困者へのターゲッティング方法の提示があればよかったのではないだろうか。

4点目は農産物流通のグローバル化,バリューチェーン化においてしばしば観察される一般均衡的効果(general equilibrium effects)に関してである。16章の結論部では地域ごとの異質性を認めつつ,あえて一般化したインプリケーションの導出を試みている。そのなかでも,一部の農家は富を得るものの多くの農家の経済状況は停滞して栄養不安に陥るという,本書の農業変化シナリオアプローチによる指摘がとくに興味深い。たとえば,経営に失敗した農家が,農賃金労働者となったり,農村近辺の農外労働市場に参入することは大いにあり得る。しかし同時に,一部の成功した農家が大規模化した結果,良質な労働者を求めるようになり,そのような労働者へ支払う賃金が増加することもあるだろう。このような波及的な効果,すなわち一般均衡的な効果はいまだ十分に研究されていないのである[Bellemare and Bloem 2018]。そのため,一般均衡的な効果により農村住民全員の福祉が改善されるか検証することは,農村を豊かにする農業発展の方向性を検討する上で重要である。しかし,本書では外部労働市場の実態から農業の構造変化の影響を分析してはいるものの十分とは言い難い。農賃金労働者の賃金率の変化からだけでもいいので,考えられ得る一般均衡的な効果を地域横断的に15章で検討してほしかった。また,世界的市場への統合という点では世界3位の生産高を誇るカカオ豆農家を対象にした事例もあれば尚よかったであろう。Neilson et al. [2020]に詳しいが,近年生産が伸び悩んでいる点ではパーム油とは異なる農業変化が生じているかもしれない。

上記のような課題があるものの,カリマンタンを除いたほぼすべての地域を調査対象地とし,その農業発展に紐づけられた貧困と食料不安が実証的に議論されている点は読者にとっても関心を寄せられる部分だと思われる。また,インドネシア全体を網羅するようにシステマチックな分析手法を取り入れている点でも参考になる点は多く,経済学や政治学など隣接分野の研究者も関心をもつ内容であった。

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