2025 Volume 66 Issue 2 Pages 28-56
本稿は,中華人民共和国で制定された初めての憲法である1954年憲法の制定過程の分析を通じて,中国共産党の政治体制構想を考察した。54年憲法制定過程の代表的研究である[韓 2014]は,同憲法制定会議参加者の政治体制に関する議論が如何にその後の政治過程に影響を及ぼしたのかが不明瞭であった。そこで本稿では,同研究を引用しつつ,54年憲法に関する新資料などを利用して同憲法の制定過程を分析した。その結果, 54年憲法制定過程での政治体制構想をめぐる中共指導部,ソ共指導部,民主党派の角逐は,相互不信感を増幅させただけでなく,根本的に思考が相容れないという現実を再認識させた点で象徴的な出来事となったであろうことがわかった。さらに指摘するならば,このような相互不信感は,中共指導部が民主党派に反右派闘争を,またソ共指導部とその後の対立を引き起こす遠因になったとも理解できるだろう。
This paper examines the political regime as conceived by the Chinese Communist Party (CCP) through an analysis of the 1954 Constitution-making process. Han Dayuan’s The Constitution-Making Process of the 1954 Constitution (Beijing: Law Press, 2014) is unclear about how discussions on the political regime during the Constitution-making conference affected Chinese politics in the 1950s. Therefore, this paper analyzes the 1954 Constitution-making process by using archival documents related to the 1954 Constitution. As a result, this paper reveals that the confrontation between the CCP leadership, the Soviet leadership, and democratic parties over the political regime during the 1954 Constitution-making process was a symbolic event. It not only amplified mutual distrust but also made clear that their thinking was fundamentally incompatible. Furthermore, this mutual distrust can be understood as a remote cause of the CCP leadership’s anti-rightist campaign against democratic parties and its subsequent confrontation with the Soviet leadership.
はじめに
Ⅰ 革命の性質と政党
Ⅱ 国家主席制
Ⅲ 単一制と連邦制,中央集権と地方分権
おわりに
本稿は,中華人民共和国で制定された初めての憲法である1954年憲法(以下,54年憲法)の制定過程の分析を通じて,中国共産党の政治体制構想を考察するものである(注1)。本稿では,まず54年憲法の制定過程における代表的な研究を紹介し,その問題点を指摘する。54年憲法の制定過程の解明を試みた代表的研究としては,中国人民大学法学院長の韓大元が2014年に出版した『1954年憲法制定過程』がある[韓 2014]。これは,档案資料を利用して54年憲法の制定過程を詳細に整理,記述した研究書である。だが同書は, 54年憲法の制定会議における各アクターの言説に対する分析が希薄で,事実関係の羅列が紙面の大部分を占めた。これは韓大元が54年憲法の政治体制に関する言説を分析することで,中共による統治の正統性を損ねることを回避したためだと思われる。
中国研究者は如何に54年憲法を議論してきたのであろうか。同時代の日本人研究者は,54年憲法の条文解釈を通じて政治体制の現状分析を試みた[石川 1959](注2)。だが同時代の研究は,資料上の制約上,中共主導の政治体制が形成された背後に如何なる議論があったのかを解明できなかった。改革開放以降の日本人研究者は,政治指導者の文選,伝記,年譜,回顧録を利用し,54年憲法改正以降の経緯をふまえることで,同時代における研究を継承および発展させてきたが[毛里 2012, 22-27](注3),上記の問題点を十分に解明できなかった。近年,米国人研究者が地方レベルの档案資料を利用し,54年憲法制定過程に関する研究を行った[Diamant 2021]。彼の研究は一般大衆の54年憲法に対する理解の限界を明らかにしたが,本稿とは問題関心がやや異なる。中ソ関係史研究者は,ソ共指導部が54年憲法制定過程に如何なる影響を与えたのかを議論した[Li 2001]。だが同研究は,中ソ両党の関係におもな焦点を当てるため,政治体制構想の分析が相対的に薄弱であった。このように,54年憲法制定過程における政治体制構想は十分に議論されず,また同過程が以降の中国政治に如何なる影響を与えたのかが不明であった。
そこで本稿では,中国における政治体制構想を,ソ連における憲法制定過程に表れた次の3つの論争点と比較しながら検討する。
(1)革命の性質
ソ共史研究者であるE. H.カー(Edward Hallett Carr)によると,レーニン憲法の制定当時,憲法起草委員会内でロシア革命の性質をめぐり権力闘争が起きていたという[カー 1967](注4)。その結果,レーニンがロシア革命における社会主義の性質を強調するために,宣言をソ連憲法の冒頭に挿入したとされる[マルクス・レーニン主義研究所・レーニン全集刊行委員会 1958, 433-435(レーニン「勤労被搾取人民の権利の宣言」1918年1月17日)]。これまで中国憲法研究者は,54年憲法がスターリン憲法から強い影響を受けたと議論してきた[鈴木 2020, 343]。確かに54年憲法の条文を解釈すればこのような理解に至るであろうし,スターリン憲法から強い影響を受けたことは否定できない。だが本稿で議論するように,毛沢東はレーニンに倣い,中国が社会主義への過渡期にあることを強調するために序文を,その将来的な構想を示すために総綱を54年憲法においた。これは序文と総綱をおかず社会主義がすでに実現されたことを強調するスターリン憲法とは位置づけを異にするものであった。しかし,このような54年憲法の構成,また次節以降で分析する条文の内容は,ソ共指導部による「民主的」な憲法の制定を通じて国際社会に社会主義体制の優位性を強調する方針にしばしば合致しなかった(注5)。かくなる方針は,中共指導部にはソ共指導部が必ずしも中国の国情を考慮していないように感じられたであろう。結果として,54年憲法制定過程は中ソ両指導部内の相互不信感を増幅させたと考えられる(注6)。
(2)党と国家の関係(注7)
ソ共史研究者は,ソ連において如何に党と国家が一体化する,すなわち党国体制が形成されたのかを議論した[渓内・荒田 1984]。中国政治研究者は,54年憲法の制定を中国成立以降に党と国家の関係が緊密化して党国体制が形成される過程の一環として見做し,同憲法の理念と現実のギャップが後に反右派闘争につながったことを指摘した[西村・国分 2009, 120-121]。だが彼らは資料の制約上,54年憲法の制定過程で民主党派による党と国家の関係についての議論を明らかにし,またこれがどのように反右派闘争につながったのかを考察できなかった。中国憲政史研究者は,中国成立以降,民主党派の指導者が中共の言説を借りつつ,自身の信念に基づき政治体制構想に関する議論を展開したことを明らかにした[中村 2018, 80-84](注8)。また政協の研究者は,共同綱領の起草当初に民主党派が中共主導の政治体制構想とは異なる提案を試みたことを明らかにし,さらに政協開催の期日が迫るにつれてかくなる提案が許可されなくなったと議論した[杜崎 2015, 257-261]。本稿では以上の議論をふまえ,民主党派の指導者が54年憲法制定過程を通じて,独自の政治的信念に基づいた中共主導ではない政治体制構想を提案し,これを中共指導部が棄却したことを明らかにする。
(3)単一制と連邦制,中央集権と地方分権
E. H.カーは,ロシア革命を通じて,ソ共指導者が党内論争を経ながら如何に連邦制から単一制,地方分権から中央集権へと考え方を転換させていったのかを明らかにした[カー 1967, 116-120]。カーは,レーニン,スターリンがともに,連邦制を地方分権と等閑視していたが,それでも連邦制を強調せざるを得なかったのはロシア帝国の過去の諸民族を満足させ,同時に彼らをソ連の体制内にとどめておくための唯一の手段だったからであるとした。中国政治研究者も,共同綱領の制定過程において中共指導部が連邦制採用の可能性を諸民族に提示および検討しながらも,これを最終的には退けたことを明らかにした[毛里 1998, 42-46]。だが54年憲法制定過程では,中共指導部はその当初から民主党派の指導者およびソ共指導部による連邦制に係る議論を退け,これをあくまでも地方分権の枠組みで議論しつつ,中央集権化を推進した。その際,国家主席制を中央集権の頂点として位置づけることについて,これが中国独自の曖昧な制度であったため賛否両論が起きた。結果的に,毛沢東自身のイニシアチブもさることながら,列強諸国からの侵略と国共内戦,朝鮮戦争をはじめアジアの冷戦という国際環境におかれた中国では,緊急時に総力戦体制をとるためにも[奥村 2020, 19-23](注9),中央集権的な政治体制に加えて強力な国家指導者が必要とされたのであった。
本稿は,次のような構成および論証手順をとる。第Ⅰ節では,まず中国における革命の性質を各アクターが如何に認識したのかを分析し,さらに党と国家の関係をどのように54年憲法に書き入れようとしたのかを議論する。第Ⅱ節では,54年憲法制定過程で各アクターがどのように国家主席制を,また第Ⅲ節では単一制と連邦制,中央集権と地方分権を議論していたのかを分析する。最後に,54年憲法制定過程における政治体制構想,あるいは国家像をめぐる中共指導部,ソ共指導部,民主党派の角逐が,如何にその後の政治過程に影響を及ぼしたのかを考察して本稿を締める。
本稿で使用する資料は次のとおりである。本稿では,1954年3月23日に中国共産党委員会が憲起委に提出した『中華人民共和国憲法草案(初稿)』,同年9月20日に全人代で採択された『中華人民共和国憲法』,3月中旬から6月下旬に憲起委内の意見を整理した『憲法草案初稿討論意見彙輯』,6月中旬から9月初旬に中国各地での意見を整理した『全国人民討論憲草意見彙編』に収録されている意見を,中共指導部,ソ共指導部,民主党派の3つのアクターに緩やかに分類し,考察する(注10)。中露両言語の憲法用語の訳出は,日本語の翻訳資料を基礎にして,中国語の含意を最大限に反映させた。
1949年以降,国共内戦における中共の勝利は明らかになりつつあった。同年7月,中共指導部は人民共和国の成立を直前に控え,その政治体制構想についてスターリンに指示を仰ぐべく,劉少奇をソ連に派遣した[中共中央文献研究室 1996, 217]。政協開催時点において,中国は依然として国共内戦の状況下におかれていた。そのため,全国において普通選挙を実施し,同過程で選出された代表を通じて憲法を制定することは困難であった。したがって,中共指導部は共同綱領を臨時的憲法として位置づけ,将来的に中国が社会主義を実現した後に正式な憲法を制定しようと考えていた(注11)。ところが,スターリンは劉少奇との会談で,現時点では共同綱領を使用できるが,将来的には憲法を制定すべきであると主張したという[師・李 2015, 296]。スターリンの憲法制定に関する発言に対して,劉少奇が同憲法は社会主義の憲法を指すのかと質問したところ,スターリンは劉少奇の認識を否定し,現時点での憲法であると返答したとされる。だが1950年10月に中国が朝鮮戦争に参戦したことは,中共指導部が憲法制定に取り組むことを,その意志の有無にかかわらず困難にさせたようである(注12)。当時中共指導部が憲法制定に着手した事実を裏づける資料は,現時点でみつかっていない。
1952年10月,劉少奇がソ連に赴き,今度は中国における社会主義への過渡期の政策と方針ついてスターリンに説明すると,スターリンは1954年内に全国規模で選挙を実施し,憲法を制定するように指示したという[中共中央文献研究室・中央档案館 2005, 536-537](注13)。スターリンの返答に対して劉少奇は,共同綱領の制定時に中共は共同綱領を本当に実施するのか疑われていたが,現在では一般大衆および民主党派内での威信が高いと述べた。続けて彼は,もし2年から3年以内に憲法を制定すれば多くの内容が共同綱領と重複するため,7年から8年後に社会主義の憲法を制定すべきではないかと提案した。そうしたところスターリンは,政協が全国規模の選挙で選出された代表を通じて開催されていないため,敵対勢力は中共が武力で地位を固めたというだろうと指摘した。さらに彼は,同綱領は選挙で選出された代表を通じて採択されておらず,これが中共が提起し,他政党が同意したものにすぎないため,中共が敵の手中からこの武器を奪い取るべきだと主張した。そのためにも彼は,資本家と富農を含めて普通選挙を実施し,中共が権力を掌握すべきだと主張した。さらにスターリンは,もう1つの問題として,現在中国は連合政府であるため,政府の活動を他政党に説明する責任があり,国家機密の保持が難しく,敵対勢力に計画が知られて不利であると述べた。彼はこの度の劉少奇の訪ソのような重要機密が外国政府に漏洩していることを指摘し,それは民主党派が英米と繋がっているためだと批判した。その上でスターリンは,普通選挙の結果として中共が政府の多数派を占めれば,単独で政府を組織でき,その際に落選した民主党派を任用すれば,彼らに恩を売れると主張した。この主張に対して,劉少奇が民主党派は選挙で落選することを恐れていると返答したところ,スターリンはそれを好都合だと述べた。さらにスターリンは,このように選挙を実施し,憲法を制定することに不都合でもあるのかと劉少奇に訊き返したところ,劉少奇は特にないと返答したという。最後にスターリンは,インドには憲法があり選挙を実施しているため民主的だが,中国はそうであるとはいえないとした。続けて彼は,アルバニアは後進的だが現在では選挙を実施し,憲法を制定したことを例に挙げ,中国が同国より後進的であるべきではないと主張したとされる。
以上のような,劉少奇とスターリンの憲法制定に関するやり取りからは,次のことがいえる。劉少奇は,将来的に中国が社会主義を実現した後で,憲法制定をすればよいと考えていた。なぜならば,1951年2月の政治局拡大会議以降,中国が社会主義を実現するのは少なくとも10年以上は先の出来事であると,中共指導部内においてある程度に共通認識となっていたためである[中共中央文献研究室 1996, 277]。しかし,スターリンとしては,中共指導部の社会主義認識に疑問を感じざるを得なかった。その理由は次の2点である。(1)スターリンはソ連の経験をかんがみて,普通選挙を実施し,憲法を制定する過程で,ボリシェビキたる共産党が権力を掌握し,人民民主独裁を実現すべきだと認識していたためである。にもかかわらず,中共指導部は同過程を無視し,すでに将来的な中国の社会主義への過渡期の方針と政治体制構想にまで手を伸ばそうとしていた。(2)ソ共指導部は「民主的」な54年憲法の制定を通じて国際社会に社会主義体制の優位性を強調したかったためである(注14)。それは,彼が中国はインドより民主的でなく,またアルバニアより後進的であると指摘していることからも推論できる。このように,スターリンは中共指導部の社会主義認識を容認できなかったのであろう。
2.中共における憲法の位置づけ劉少奇がソ連から中国に戻ると,中共指導部は憲法制定に向け始動した[逢・金・中共中央文献研究室 2003, 308]。1953年1月12日,周恩来が政協座談会を開催し,民主党派と無党派の人物に憲法制定の主旨を説明した[中共中央文献研究室・中央档案館 2018, 26(「関於政協常委拡大大会提出的両個問題給毛沢東等信」1953年1月12日)]。政協座談会後,周恩来は,毛沢東と劉少奇らに宛て,次のようにその状況を報告した。周恩来の報告によると,民主党派の人物らがまだ憲法制定の機が熟していない,あるいは憲法制定に時間を多く確保すべきだと主張したという。また周恩来は,民主党派のある指導者を憲起委に追加するよう進言があったものの,自身と李維漢は,同委員会内における政党間の均衡が悪くなるため,その指導者を加えるべきではないと述べたという(注15)。
前述したように,スターリンは1954年内の憲法制定を指示していた。この指示からすると,民主党派の意見は,中共指導部の憲法制定に不都合であった。また周恩来の報告書の背景には,新たに民主党派の指導者を憲起委に加えれば政党間の均衡が取れなくなり,憲法制定が遅延する懸念も含まれていたであろう(注16)。翌13日,中共指導部は毛沢東を主席とする憲起委を組織させ,初稿小組を立ち上げた[中共中央文献研究室 2003, 9]。だが憲起委は共産党員が全体の6割を占めただけでなく(注17),1年以上活動がなかった[韓 2014, 82]。実際には,憲法初稿の実質的な起草作業は,毛沢東の秘書である初稿小組の胡喬木,田家英,そのなかでもとくに陳伯達を中心に進んだ[韓 2014, 82-83](注18)。この点で,毛沢東の意向が初稿草案に強く反映させられることは避けられなかった。かくして初稿小組は,1953年5月3日に「憲法草案初稿(「第一部分」)」を作成し終えたという[韓 2014, 85-86](注19)。
以下では,韓大元の研究に依拠しながら,「第一部分」の分析を進める。彼によると「第一部分」は,序文,第1編「中華人民共和国」,第2編「経済制度」,第3編「公民の基本的権利と義務」の構成であったという[韓 2014, 86-88](注20)。さらに,「第一部分」とソ連の憲法と構成を比較する。レーニン憲法は,第1編「勤労し搾取されている人民の権利の宣言」,第2編「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国憲法総綱」,第3編「ソビエト権力の構造」という構成であった[中央人民政府委員会辨公廰 1953, 第1巻]。レーニン憲法に対して,スターリン憲法の構成は,宣言と総綱が存在せず,第1章「社会機構」,第2章「国家機構」,第3章「ソ連邦国家権力の最高機関」という構成であった[斯大林 1954]。レーニン憲法とスターリン憲法の構成上の大まかな相違点は,宣言と総綱の有無,また編と章にあるといえる。初稿小組が起草した憲法は,その構成をみるかぎりスターリン憲法に近かったといえるであろう。
つぎに,「第一部分」と人民民主国家の憲法を比較する。「第一部分」の作成と同時期に,中央人民政府法制委員会編訳室がまとめた『人民民主国家憲法彙編』には,人民民主国家の憲法が収録されている[中央人民政府法制委員会翻訳室 1953]。筆者がこれにソ連と中国の憲法を追記・整理したのが表1である。
(出所)[韓 2014, 86-88; 斯大林 1954; 中国共産党中央委員会 1954; 中央人民政府法制委員会編訳室 1953; 中央人民政府委員会辨公廰 1953], 『人民日報』1949年9月30日, 『人民日報』1954年9月21日を参考に筆者作成。かっこの付いた序文は,記載はないものの,内容的に序文であると筆者が判断した場合に適宜補った。
表1をみると,同資料集に収録がある国のうち,そのほとんどが憲法に総綱を設けなかったことがわかる。同時代に社会主義の実現をめざした国々では,スターリン憲法に倣った構成を採用する場合が多かった。しかし,陳伯達が作成した「第一部分」は,憲法草案の雛型として採用されなかったという。
それでは,なぜ54年憲法には,序文と総綱のある構成が採用されたのだろうか。『毛沢東伝』によると,毛沢東が54年憲法の構想を練るためにレーニン憲法を分析した際,同憲法の総綱の前に序文が設けられていることに啓発を受け,54年憲法も同様の構成を採用することに決めたという[中共中央文献研究室 2011, 1281]。だが同著には,毛沢東が如何に啓発を受けたのかについて説明がない。その理由は,筆者が以下に議論するようであったと推測できる。毛沢東が啓発を受けた序文とは,かつてレーニンが1918年1月17日に『プラウダ』に掲載した「勤労し搾取されている人民の権利宣言」である[マルクス・レーニン主義研究所・レーニン全集刊行委員会 1958, 433-435]。同宣言において,レーニンは,現在ソ連の人民が搾取者であるブルジョアジーに対する最後の闘いを挑んでいることを強調している。54年憲法制定の前後において,毛沢東は中国における社会主義の実現に前のめりであったとされる(注21)。おそらく毛沢東はソ連と中国の状況を重ね合わせ,宣言に換えて序文を憲法におくことで,中国が社会主義への過渡期にあり,ブルジョアジーあるいは中共指導部内における社会主義の早期実現に消極的な人物に対する闘争を挑んでいることを強調できると考えたのであろう。
さらに毛沢東は,憲法の総綱において中国の将来的な姿を具体的に表現しようとした。毛沢東は54年憲法を制定するにあたり,中国の憲法が綱領性を有する必要があると主張したという[中共中央文献研究室 2011, 1284](注22)。当時中国において綱領という単語は,政党,大衆団体または国家が,自らの基本的な状況や活動の一般的な指針を簡潔に記した規定であると理解されていた[陳 1953, 475]。そのため,毛沢東はスターリンが憲法の制定時に,憲法はすでに実現された事実しか表せず,将来的な姿を表すことを目的として総綱をおけないと述べたことを引き合いに出しながら,やはり将来的な姿を表せると反駁したとされる[中共中央文献研究室 2011, 1284; 斯大林 1954, 13(斯大林「関於蘇聯憲法草案的報告」1936年11月25日)]。さらに毛沢東は,54年憲法草案の制定時に胡喬木がスターリン憲法を支持したのに対し,自身がレーニン憲法を支持し,中国の憲法が事実性と綱領性をもつべきと主張したとされる[韓 2014, 92-93; 中共中央文献研究室 2011, 322]。
先ほどもみたように,当時人民民主国家の憲法では,序文および総綱をおかないことが一般的であった。陳伯達と胡喬木もこれらの国々に倣おうとしたのだと思われる(注23)。とくに憲法に総綱をおかず,陳伯達が作成した「第一部分」の第1編「中華人民共和国」のように国家の名称をおくことは,中国の憲法がすでに実現された事実を表すことを意味しかねなかった。このような状況下において毛沢東が,人民民主国家によるスターリン憲法追従の潮流に逆らい,序文と総綱を54年憲法におくことが可能になったきっかけは,1953年3月におけるスターリンの死であったろう。毛沢東は,スターリンが54年憲法へ直接的に干渉できなくなった,あるいは精神的な束縛から解放されたことで,同憲法の書き換えを秘書らに指示できたのだと思われる(注24)。
このような毛沢東の54年憲法の構成に対する認識は,中共指導部内に共有された。劉少奇は,1954年9月15日に全人代で憲法草案の説明をした際,一部の人々が序文に中国の革命の歴史を叙述すべきであると提起したことを取り上げた[中共中央文献研究室・中央档案館 2005, 398-399(劉少奇「関於中華人民共和国憲法草案的報告」1954年9月15日)]。これについて劉少奇は,現在中国が過渡期という歴史上の特異な時期に位置するという事実を序文に明記することが重要であると強調した。さらに彼は,憲法に社会主義の実現より先の将来を描かないのは,今中国の生活中に起きている変化および目標を反映させるためであると述べ,それゆえに中国の憲法の一部条文は,綱領性を帯びていると説明したという。このように,中共指導部の社会主義への過渡期の認識が54年憲法には強く反映されているといえる。
しかし,中共指導部内で如何に54年憲法に社会主義認識を反映させるかについて,当初から一致した見解が存在していたと見做すべきではない。それは当時中共指導部内で,中国の社会主義移行の速度をめぐる論争が存在したためである。1952年9月24日,毛沢東は中央書記処会議にて中国が社会主義への過渡期にあると表明して以降[中共中央文献研究室 2003, 603-604],その速度を次第に早めようとした。だが毛沢東の眼には,劉少奇が中国の急速な社会主義移行に慎重な姿勢を取っていると映ったようである。1953年6月15日,毛沢東は,かねてより劉少奇が党幹部を前にして,現在中国で「新民主主義の社会秩序を確立する」必要があると主張してきたことを取り上げ,中国の社会主義への過渡期の情勢は日々変化しているため,「新民主主義の社会秩序」などというものは「確立」できないと批判した[中共中央文献編纂委員会 1977, 81-82(毛沢東「批判離開総路線的右傾視点」1953年6月15日)]。その結果,劉少奇は自己批判をするに至ったという[林 2009, 297-298]。
かくして劉少奇は,1954年9月15日に全人代で憲法草案の報告をした際,毛沢東の社会主義認識をこれに反映させた[中共中央文献研究室・中央档案館 2005, 366(「関于中華人民共和国憲法草案的報告」1954年9月15日)]。劉少奇は同報告で,この数年間「新民主主義の社会秩序を強固にする」という言葉をよく耳にしたと指摘した。続けて,彼はこの表現が「現状維持の思想を反映している」と述べ,中国の新民主主義から社会主義への変化を停止させることは「絶対に不可能である」と強く批判した。このように,中共指導部内で社会主義認識が次第に共有され,54年憲法に反映されていった。
3.中ソ両党指導部の社会主義認識をめぐる摩擦1954年3月19日,駐中国大使のユージン(П.Ф. Юдин)は,ソ共指導部に宛てて,劉少奇がソ共指導部による憲法草案への全面的な意見を求めているとして(注25),初稿草案を送付した[沈 2014, 29(「尤金致馬林科夫等函:中共要求帮助修改憲法草案」1954年3月19日)]。3月20日,ソ連駐中国政府法律委員会の主席顧問であるルニェフ(A. E. Лунев)は,初稿草案に対する意見を,政務院政治法律委員会副主任の彭真に送った(注26)。ルニェフは,まず初稿草案における中国の社会主義段階に関する表現に意見を寄せた。彼は,初稿草案の序文にある「この憲法は人民革命の成果を体現している」という語句の後に「また人民革命の成果を強固にさせる」という語句を追記するよう提案し,それに重点をおいた意見を述べた[沈 2014, 31(「魯涅夫致彭真函:蘇聯対中国憲法草案的修改意見」1954年3月20日)]。ルニェフによる意見は,筆者が前節で論じたように,かつてソ連では憲法制定過程を通じて,ボリシェビキである共産党が政権を奪取および確立した歴史を踏襲したのであろう。しかし,中共指導部としては現在中国が社会主義への過渡期にあることを強調し,これが停滞しているような印象を抱かせるような表現を憲法に使うことを避けたかったのだと思われる。だが最終的に完成された54年憲法をみると,中共指導部は,序文に「人民革命の成果を強固にさせる」という語句を追加したことがわかる。つまり,中共指導部は自身の社会主義認識を54年憲法に反映させる点において,ソ共指導部に一定の譲歩をしたといえる。
1954年4月14日には,ソ連外交部が初稿草案に意見を寄せた[沈 2014, 57-62(「庫慈涅佐夫致蘇斯洛夫函:外交部関於中国憲法草案的結論」1954年4月14日)](注27)。ソ連外交部の意見書は,「評価」,「結論と提案」の2部構成であった。ソ連外交部は「評価」において,初稿草案の政治体制構想に対して,次のとおりに指摘した。彼らは,共同綱領では中国における人民民主独裁は,労働者階級,農民階級,小資産階級,民族資産階級およびその他の愛国民主分子の人民民主統一戦線の政権であり,労農同盟を基礎に労働者階級が指導すると書かれているが,初稿草案では小資産階級と民族資産階級への言及がないとした。続けて彼らは,初稿草案に中国は労働者階級が指導し,労農同盟を基礎とする人民民主国家であること,また人民民主統一戦線を保留することで,過渡期の主要な任務を完成させるとあることを確認し,中国における政権の階級構成に対する「評価」をまとめた。このように,ソ連外交部は「評価」において,初稿草案の政権の階級構成に対して直接的な意見を述べていない。したがって「評価」をみるかぎり,彼らは初稿草案を追認したように思える。
しかし,「結論と提案」をみると,ソ連外交部が初稿草案における階級構成の表現に問題があると認識していることがわかる。それは,初稿草案で普通選挙の原則が宣言されたが,選挙権の一時的な制限が強調されているため,中国が北朝鮮やモンゴルと同程度に後進的な内容になっているという批判に表れている[沈 2014, 61(「庫慈涅佐夫致蘇斯洛夫函:外交部関於中国憲法草案的結論」1954年4月14日)](注28)。ソ連外交部が批判している初稿草案の箇所は,おそらく第19条2行目の「法律に依拠して,地主と官僚資本家の政治的権利を一定期間剥奪」(下線部筆者)するという条文であろう[中国共産党中央委員会 1954, 5, 17]。おそらくソ連外交部は,本節の第1項で論じたようなスターリンの見解を引き継いでいる。彼らは選挙権を制限し,ボリシェビキである中共が普通選挙を通じて権力を掌握しないことは不適切だと考え,それが社会主義陣営の一体感と優越性を損なうため,中国の憲法草案は後進的だと見做したのだろう。
毛沢東は選挙権について,1953年3月23日の憲起委第1回会議で次のとおりに説明している[中共中央文献研究室 2003, 228]。同会議で彼は,中国の社会主義への過渡期に憲法が制定されるため,同様に中国の選挙制度も過渡期の性質をもつと前置きした。そして彼は中国では普通選挙を実施しているが地主には選挙権がないため,完全な普通選挙ではないと述べたという。中共指導部は,土地改革をはじめとする階級闘争を通じて一般大衆の支持を獲得した(注29)。それだけに,彼らは同条文から封建的地主と官僚資本家という語句を削除できなかったのであろう。その結果,54年憲法では第19条2行目が「法律に依拠して,封建的な地主と官僚資本家の政治的権利を一定期間剥奪」(下線部筆者)すると修正された。修正後の語句をみると,「地主」が「封建的な地主」に修正されている。つまり,地主のなかでも封建的な者のみに限定した排除がなされ,封建的ではない地主には選挙権が与えられたのである。このように,中共指導部はソ共指導部に一定程度の譲歩を迫られた。ここに,中国の社会主義への過渡期,政権の階級構成に対する中ソ両党指導部の認識の相違が表れたといえる。
4.民主党派による中共の指導強化への懸念と対抗案民主党派は政権の階級構成に如何なる意見を提起していたのだろうか。従来,共同綱領の総綱第1条では政権構成は「中華人民共和国は,新民主主義すなわち人民民主国家であり,労働者階級が指導する,労農同盟を基礎とした,各民主階級と国内の各民族による人民民主独裁を実行する」と位置づけられてきた(『人民日報』「中国人民政治協商会議共同綱領」1949年9月30日)。これに対して, 54年憲法の序文には政権の階級構成の規定があるものの,総綱第1条では「中華人民共和国は労働者階級が指導する,労農同盟を基礎とする人民民主国家である」(『人民日報』「中華人民共和国憲法」1954年9月21日)と中国の民主的諸階級が政権構成に含まれなくなった。このような変更に対して民主党派は,「なぜ序文では民主的諸階級と民主党派について言及するのに,憲法草案の本文ではそうしないのか」という疑問を抱いた[『討論彙編』第10輯, 34]。さらにその先に,彼らから「全人代の開催以降も政協は存在するのか」という質問が投げかけられた[『全国彙編』第1輯, 4]。民主党派の政権の階級構成への関心は,全人代にも及んだ。彼らは初稿草案第23条の「全国人民代表大会は省,自治区,直轄市,軍隊と華僑の代表により構成される」という条文に「民主党派,人民団体を追記する」[『全国彙編』第6輯, 44]ことで,統一戦線の表現に近い形式に変更することを提案した。これをより発展させた「全人代に常設機構を『主席団』とし,そのなかの主席1人,残りの副主席を各党派代表,少数民族代表に担わせる[『全国彙編』第10輯, 63]という意見があった。また全人代の構造自体についても,「党派,社会団体,各業界……の代表で構成する参議院,……人民院に分け,全人代主席を共同で選出する」という具体的な意見までもが提起された[『全国彙編』第14輯, 116]。
民主党派にとって,中共の指導が何処まで及ぶのか,その対象および範囲が54年憲法の懸念事項のひとつであった。共同綱領の序文では民主党派は,「中国共産党,民主的諸階級,各人民団体……により構成される中国人民政治協商会議は,人民民主による統一戦線の組織的形式である」と位置づけられてきた(『人民日報』「中国人民政治協商会議共同綱領」1949年9月30日)。だが54年憲法の序文では,民主党派は「中国共産党を指導者とする民主的諸階級,民主党派,人民団体の広範な人民民主統一戦線を形成した」というように,協力から指導の関係へと位置づけが変更された(『人民日報』「中華人民共和国憲法」1954年9月21日)。かくなる位置づけの変更は,民主党派の懸念を高めたであろう。たとえば,「中共の作用及び各民主党派の地位を明確にする」[『全国彙編』第1輯, 4],という意見は,民主党派の懸念の裏づけであると思われる。
民主党派と中共の政治的指導をめぐる認識の違いが最も顕著に表れたのは,初稿草案第80条の「自由権」,とくに「結社の自由」に関する規定であった。民主党派の人物からと思われる意見には,「結社の自由を単独の条文とし,中華人民共和国の公民は,共産党,共産党青年団,労働組合,婦女連合会等の人民団体を組織し,これに参加する権利を有する。これらの権利は,法律により保護されるべきである」[『全国彙編』第10輯, 122]。また政党成立を意味する自覚があったかは不明なものの,「無党派は如何に代表を選出すればよいのか……多数の無党派が団結を強固にし,社会主義を擁護するために,無党派の権益を憲法に追加できないか」[『討論彙編』第1輯, 23]というように,共産党による一元的な統治への対抗を試みる案もあった。
しかし,中共党員と思われる人物からは,民主党派に反対の意見が提起された。たとえば,「中国共産党をすべての社会団体の指導的核心とし,中国共産党の周囲に団結させるべきである」[『討論彙編』第14輯, 12],さらには「中国共産党を社会団体,国家機関の指導的核心とする」[『全国彙編』第1輯, 4; 第7輯, 92; 第11輯, 45]というように,中共による指導の対象および範囲を,民主党派を含む社会団体のみならず,国家機関にまで拡張させる意見までもが多数提起された。また,「結社の自由」を認める意見であっても,「中華人民共和国の公民は国家の政策に違反せず(あるいは「国家政権に危害を与えない」,「国家の法令に違反しない」)人民に利益がある範囲で……」[『討論彙編』第24輯, 4]というように,これら諸権利に条件を付ける意識が強かった。
それでは,毛沢東は如何に政党制を考えていたのであろうか。中国現代史研究者の銭理群によると,毛沢東は西欧のような複数政党,たとえば中共内に2つの派を形成することも考えたという[銭 2012, 117]。彼によると,毛沢東の英語の秘書である林克の1956年10月30日付けの日記では,毛沢東が「プロレタリアートの民主を保証するために,2つの党(共産党)をつくることができるであろうか? これはやはり難しい問題である」と述べたとされる。このような毛沢東の発言からは,当時彼が中共による統治の改善を目的に民主党派の地位を引き上げることは考えていなかったが,その代わりに党内派閥ではない何か別の仕組みを模索していた様子が窺い知れる。無論,1954年の憲法制定期と1956年の百花斉放・百家争鳴期における毛沢東の政党制に関する認識の比較は慎重であることを要する。だが1954年時点でも,おそらく毛沢東は民主党派の地位の引き上げを考えていなかったであろう。
54年憲法の「結社の自由」に関する条文に,中共による民主党派への指導が規定されることはなかった。だが同憲法の序文では,中共と民主党派の関係が協力から指導に変化したことが示された。また,中共による民主党派を含む社会団体への指導の強化に関する意見が多数出たことは,同意見に人々が賛同する状況をある程度に反映したといえる。かくして民主党派の政治体制構想は棄却され,中共による民主党派への指導が強化されることになった。54年憲法制定過程を通じて,民主党派は中共への不満を募らせた。これらが後に百家争鳴・百花斉放運動,そして反右派闘争につながっていったのであろう。
54年憲法では,共同綱領に存在しない国家主席の章が新設された。1954年3月23日,憲起委第1回会議において,毛沢東は憲法草案における国家主席制の採用の経緯を次のように説明したとされる[毛 1954]。毛沢東によると,国家主席は全国人民の一致団結の象徴で,資本主義国と過去の中国における大統領制,立法・行政上の首脳とも異なり,個人の特殊な権力ではないという。彼はその上で,中国は大国であるため,全人代議長,国務院総理,国家主席を重層的に配置することで,同時に3人に問題が起きないかぎり安全を確保できるとした。さらに彼は,国家主席が,自身の地位と権威に依拠し,全人代,常務委と国務院に意見を提起,あるいは最高国務会議を招集でき,国務院と常務委の間の緩衝作用を果たすであろうと述べた。
また後日,田家英が別の会議で語ったところでは,国家主席は最高権力機関,あるいは最高管理機関の主席ではなく,国家元首であるとされた[韓 2014, 101]。さらに彼は,国家元首にはソ連と人民民主国家で2通りあると主張したという。それは,1つには,国家最高権力機関の主席団あるいは常務委が執行する,スターリンが集団総統制と呼んだものであるとした。彼はもう1つを,集団元首制であるが単一元首制の形式を採用し,個人での決定はできず常務委が決定するチェコスロバキアと東ドイツと同様の制度であるとした。彼は毛沢東がこのような状況をふまえ,中国が採用するのは単一元首制であり,これは人民共和国の成立以来の伝統を考慮したものだと主張したとされる。このように毛沢東が主張した国家主席制は,自身の大衆への権威の肯定的な評価に根差したソ連の憲法にはない変則的な制度であったといえる。ソ共指導部は,1953年のスターリン死去後,個人独裁体制の反省から集団指導体制を敷いていた(注30)。そのため,毛沢東は国家主席制を54年憲法に採用するに際し,ソ連の集団指導制に言及し,その整合性を主張せざるを得なかったのであろう。
国家主席の地位については,1954年6月8日の憲起委第6回全体会議における中共指導部と民主党派の指導者間でも議論の形跡を確認できる[韓 2014, 295](注31)。国家主席の地位に関する議論は,初稿草案の修正稿の第40条に,「中華人民共和国主席は国家元首である」と規定が追記されたことが発端となった(注32)。まず李維漢は,国家元首についての同条文が元の初稿草案になかったと説明した。さらに彼は,国家主席の定義が必要なため,憲起委が一度は同条を制定したものの,中共指導部がこれを削除したのだと述べた。その理由として,彼はまず国家主席は全人代および常務委の決定により部分的にその職権を行使するため,これを国家元首とはいえないと否定した。さらに彼は,同条を制定せずとも国家主席の地位には影響がなく,むしろこれを制定すれば,却ってその解釈が難しくなると説明した。李維漢の説明に対して,中国民主同盟の指導者で政協副主席であった黄炎培は,同条がなければ,国家主席の地位について質問が出るだろうと発言した。彼の発言に対して李維漢は,中国の最高権力機関は全人代であるため,国家主席を国家元首と書けば,憲法に欠陥が生じると懸念を示した。そこで中国国民党革命委員会の指導者で中央人民政府副主席である李済深は,「国家主席は,国家における最高位の代表」という表現に改めてはどうかと提案した。これに対して劉少奇は,全人代の代表が国家の最高位の代表であると返答した。続けて彼は,国家主席を国家における最高の代表とすれば,全人代の規定と対立すると述べた。西北軍政常務委員会副委員長の張治中は,国家主席の地位を憲法に表記しなければ,全国の人々の心情と願望に応えられないと述べた。そこで彼は,国家元首という表現が不適切ならば,「国家の領袖」「人民の領袖」「国家の最高指導者」はどうかと提案した。これらの意見に対し,劉少奇は中共指導部で各種の意見を検討した結果,同条を削除すべきだと考えていると答えたとされる。このように,彼らは国家主席を定義する必要性を認識しながらも,その作業は行き詰ってしまった。結果として,国家主席は実質上,国家元首に相当するという解釈が生まれたものの,制度上は曖昧な存在となったのである。
2.ソ共指導部の国家主席制への懸念ソ連外交部は中国の初稿草案における国家主席制に対して,次のように意見を寄せている[沈 2014, 59-60(「庫慈涅佐夫致蘇斯洛夫函:外交部関於中国憲法草案的結論」1954年4月14日)]。彼らは,共同綱領と初稿草案における国家機構の重大な変更点として,国家主席の権限の強大化を挙げた。まず彼らは,初稿草案の国家主席の権限が大統領制に相当すると指摘した。その上で,彼らはチェコスロバキアを除く人民民主国家が大統領制を採用せず,ポーランドにおいてもこれを集団指導制である国家評議会に代替したと述べた。またソ共外交部の指摘は,初稿草案における国家主席の権限が常務委,全人代,地方人代と重複していることにも及んだ。
ソ連外交部の初稿草案の国家主席制への指摘からは,中共指導部が同制度を採用し,毛沢東に強い権限を付与することへの懸念を読み取ることができる。ソ共指導部は1953年のスターリン死後,長期間にわたり個人独裁制が敷かれた反省をふまえて,集団指導制を採用していた。そのため,彼らは中共指導部にも同様の誤りを犯すことを望まなかった。さらにいうならば,国家主席の権限が強化されることで,毛沢東がユーゴスラビアのチトーのように振る舞い,社会主義陣営の利益を損なう可能性を懸念していたのである(注33)。そこで,ソ共指導部は大統領制を採用しているチェコスロバキアを婉曲的に批判し,大統領制から集団指導制に転換したポーランドを評価したのであろう。前述したように,中共指導部は国家主席を国家元首ではないと否定し,同時に中国が個人独裁制でありながらも集団指導制であると強調した。かくなる彼らの言動は,ソ連の不信感を払しょくするための,いわば弁明であったと理解できる。
3.中央集権強化のための国家主席制それでは民主党派は,国家主席制を如何に認識していたのであろうか。彼らの認識が見て取れるのは,1954年6月11日の憲起委第7回全体会議における,中央人民政府の改称に関する議論である[韓 2014, 307](注34)。中央人民政府華僑事務委員會主任の何香凝は,中央権力の強化のために「中央人民政府」の名称を残す必要があるとし,それでこそ迅速に「国家の重大事」を処理できるのだと意見した(注35)。毛沢東は,何香凝のいう「国家の重大事」という語句が,何を意味しているのか判断がつかなかったのであろう。毛沢東は何香凝の意見を称賛すると,「中央政府の権力は,憲法で十分に規定できている」とし,初稿草案の国家の権力機関に関する規定を説明した(注36)。毛沢東の説明をまとめると,全人代,常務委,国務院,最高人民法院,最高人民検察署はいずれも国家の権力機関であり,主要な権力機関の指導者が常務委に配置され,中央政府がその執行機関であるということであった。さらに彼は,中央政府が法律の制定権を唯一有し,地方政府の決定を変更できるのだと述べ,後者は前者に従属すると説明した上で,権力機関が中央集権的であり,地方分権的ではないと強調したとされる。このように毛沢東は,初稿草案における国家の権力機関が中央集権的であることを繰り返し主張した。
何香凝が発言のなかで意図した「国家の重大事」は,毛沢東の説明とは異なった。彼女が想定したのは次に示すように,中国が他国との戦争状態に陥った場合であった。上記毛沢東の説明を聞いて,何香凝は中央政府の権力について自身の主張を述べた。彼女は,帝国主義国家が中国を侵略するなど緊急の瀬戸際に遭遇した場合,中央政府は直ちに措置をとるべきであると主張した。毛沢東は,何香凝の意見に賛成であるとして,権力は集中させることで積極的に行使できるのだとし,敵が攻撃を仕掛けてくれば,全人代の判断を待つことなく,国家主席の権限で軍隊に反撃命令を出すと述べた。その一方で,毛沢東は,常務委も即刻会議を開催でき,国務院総理も即刻行動に移れるが,事前に全人代で承認を得なくてもよいと述べた。毛沢東と何香凝の対話をみると,彼らの論点が嚙み合っていないことがわかる。「国家の重大事」に対応するに際し,何香凝は中央政府の権限を強調したのに対して,毛沢東はこれを通さずとも,国家主席の権限を行使できると主張したのである。
何香凝は毛沢東の返事を聞いて,「中央人民政府」の名称がやはり必要であると述べた。毛沢東は,「中央人民政府」の名前は長いため改称の必要があると述べ,さらに返答を続けた。彼は,外国の習慣では,国家には1つの政府しかないのに対して,現在の中国には,省,県,郷すべてに政府と名の付く権力機構があるため,現在の初稿草案では,地方政府をすべて「人民委員会」と呼ぶようにしたと述べた。毛沢東の返事に対して,何香凝は,中国には,省長,県長,郷長と「長」の文字も多いとして,自分の意見を取り下げるとした。だが毛沢東は,改称についての説明をさらに続けた。彼は,古代中国にも地方政府はなく布政使司と名称が使われ,地方が政府を称するのは最近のことで,中国には不思議なことに政府が多いのであると説明した(注37)。最後に,何香凝は,毛沢東に中央人民政府の国務院への改称について同意するかと問われ,「わかりました,わかりました」と毛沢東の説明に若干辟易した様子の返答をすることで一連の対話を終えた。ここでも毛沢東は,中国の政治構造が中央集権的でないため,現状改善の必要性があると認識していたことがわかる。
1954年6月14日,何香凝は全人代での憲法草案の採択を決める審議で,次のように発言した(『人民日報』「擁護中華人民共和国憲法草案」 1954年6月15日)。彼女は,現在複雑な国際情勢下にアメリカが陰謀を企図しており,中国国内の平和を構築し,極東と世界の平和を維持するためには,中央政府の強力な指導力が必要だと述べた。そのため,彼女は毛沢東が自ら最高国務会議と国防委員会を指導し,国事を迅速かつ適宜に処理することが非常に必要だと述べて発言を締めくくったという。つまり,毛沢東は中国の社会主義移行を早期に実現する手段として,権力機関の中央集権化の必要性を認識していたのに対して,何香凝は緊急事態においては毛沢東の指導力が必要であることを認めつつも,国家主席の個人的権限よりは,組織的権限の行使を望んでいたのである。だがいずれにせよ,何香凝は直接的には名称を出していないが,1953年7月に停戦したばかりの朝鮮戦争を意識した上で,54年憲法の制定を通じて権力機関のさらなる中央集権化を図るべきだと考えたのであろう。
1954年9月15日,劉少奇は全人代での憲法草案の報告で,国家の重大事項の決定について次のように述べた[中共中央文献研究室・中央档案館 2005, 380(劉少奇「関于中華人民共和国憲法草案的報告」1954年9月15日)]。彼は中国では,国家の重大事項は1人あるいは何人かで決定せず,国家の根幹的な制度である全人代での討論,また閉会中は常務会の討論を経て決定するとした。つまり党指導部は,毛沢東の何香凝への説明とは異なり,国家の重大事項は国家主席が1人で,あるいは集団指導制の名のもとに秘密裏に少数人で決められないと毛沢東らの発言を否定したのである。このような劉少奇の報告は,中共指導部の意向を反映しているだろう。だが同時に,必ずしも中共指導部内で54年憲法での国家主席の位置づけが明確でなかったことを示唆している。
4.国家主席の統制国家主席制に関する民主党派の意見は,賛否両論に分かれた。これに肯定的な意見では,国家主席を国家元首とするかが論点となった。ある意見は,国家主席を国家元首兼議長とすることで,民主集中制の原則に符合,その崇高な職務の権限を強化,中国の歴史と人々の願望に応えさせ,また国家主席が全人代と国務院の上位に位置するような印象を避けられるとした[『討論彙編』第6輯, 1]。またある意見は,「国家元首が全人代と国務院の間において権力を掌握することは,中国の実際の状況に即した方法である」とした[『討論彙編』第6輯, 2]。国家主席を国家元首としない意見では,「中国もソ連に倣って常務委に主席団を設置し,その主席に常務会と国防委員会の主席を兼職させ,最高国務会議を設置しないことで……立法権と行政権の合一を強調できる」とした[『討論彙編』第6輯, 1]。また別の意見は,「国家主席を設けず,全人代に主席団を設け,同主席を国家主席とする」というものであった[『討論彙編』第6輯, 1]。これらの国家主席制に肯定的な意見からは,民主党派が国家主席を国家元首とするかにかかわらず,彼に強大な権限をもたせる必要があると認識していたことがわかる。
つぎに,国家主席制に否定的な意見を分析する。同意見は,2つに大別できる。(1)そもそも54年憲法に「なぜ国家主席を設ける必要があるのか」という,質問の体裁をとった意見である[『討論彙編』第1輯, 33]。この質問に対する回答は,国家主席制に肯定的な意見を引用するならば,それが中国の伝統であり,現状に最も見合っているためとなるであろう。(2)国家主席,全人代常務委,国務院総理の職権が重複するという実際の運用面からの意見である。とくに,「国家主席と常務委の職権が重複するが,両者の意見が一致しない時は,如何に解決を図るのか」という質問が象徴的である[『討論彙編』第7輯, 38]。同意見に対する回答は,国家主席は実質上の国家元首であるために,全人代常務委,国務院総理の職権と矛盾しないとなる。だが国家元首に関する規定はそもそもないため,この論理を以って国家主席の職権の不明瞭さを克服することは困難であろう。総じてこれらの意見は,初稿草案における国家主席の職権の強大さと不明確さから生じたといえる。
ただし,毛沢東は国家主席の職権の強大さに無自覚であったわけではない。『建国以来毛沢東文稿』には,正確な日付は不明だが,1954年1月から2月時点における毛沢東の初稿草案に対する修正意見が収録されている[中共中央文献研究室 1990, 454(毛沢東「対中華人民共和国憲法草案的批語」1954年)]。これをみると,毛沢東が国家主席の罷免権を初稿草案に書き入れるよう意見していたとされる。また李維漢の回想録でも54年憲法制定当時に,国家主席の職権が強大過ぎ,実質的に共産党による一党独裁体制であると批判的な意見があったとされている[李 1986, 792-797]。前述したように,54年憲法制定を主導したのは毛沢東であった。そのため,彼が積極的に自身の職位である国家主席の罷免権を提案しないかぎり,初稿草案の起草者である陳伯達およびその他の中共指導者,あるいは民主党派が同権利を提案するのは困難であったろう。
しかし,毛沢東は国家主席の権限に制約を課す一方で,その拡大を図った形跡もある。『建国以来毛沢東文稿』からは,毛沢東が最高国務会議における国家主席に,全人代およびその常務委員会へ意見ができる「交議権」という職権を賦与するよう指示していたことが見て取れる[中共中央文献研究室 1990, 454(毛沢東「対中華人民共和国憲法草案的批語」1954年)]。彼がこのような指示を出したのは,憲法初稿草案の第42条における最高国務会議の規定に,国家主席が「必要に応じて国家副主席,国務院総理,その他関係者を最高国務会議に召集する」としか記されておらず,同会議の機能が不明瞭であったためであろう。その結果,完成された54年憲法の第43条には,「必要に応じて……召集する」の後文に,「国家の重要事項に対する最高国務会議の意見は,国家主席によって全人代,全人代常務委,国務院またはその他の関係部門に提出され,討議の上,決定されるものとする」と加筆修正された。このようにして,国家主席が「必要に応じて」召集する最高国務会議での決定に中共指導部の統制が及びつつも,彼の意思が介在可能な余地ができたのである。毛里和子によれば,毛沢東は国家主席時代に15回最高国務会議を開催したという[毛里 2012, 24-25]。このうち,1955年5月には粛反運動の方針を毛沢東が最高国務会議を主宰して採択したという[中共中央文献研究室 2003, 372-373]。このように,国家主席制は曖昧な制度でありながらも,アジアの冷戦下では緊急時に総力戦体制をとるために必要とされたのである。
1954年3月19日に駐中国大使のユージンがソ共指導部に転送した中共指導部の初稿草案がある[沈 2014, 29(「尤金致馬林科夫等函:中共要求帮助修改憲法草案」1954年3月19日)]。ユージンはソ共指導部に同文書を送付する際,修正前後の初稿草案をそれぞれ送付した。これらの正確な送付日は不明であるが,おそらく中共指導部が初稿草案を3月15日に作成した時点でこれをユージンに送付し,同月17日の憲起委第1回会議における議論を反映した後に,あらためて修正版をユージンに送付したのであろう。中共指導部が初稿草案を送り直すまでに,ほとんど間隔が空いていない。にもかかわらず,彼らが修正版の初稿草案の再送付に踏み切ったのは,次にみるような政治体制構想にかかわる重要な単語の修正を含むためであったと思われる。
中共指導部がユージンに送付した初稿草案には,憲法全体の章構成の記載がある[沈 2014, 30-31(「尤金致馬林科夫等函:中共要求帮助修改憲法草案」1954年3月19日)]。初稿草案の第2章の表題をみると,中共指導部が「国家組織と国家機構(国家制度)」を「国家組織と国家機構(国家の組織機構)」に修正していることに気づく。ここで注目すべきなのは,修正前の憲法草案にある「制度」という単語である。改革開放期における同単語の中国語(Zhìdù)の意味は,日本語の「制度」(英語: Institution)よりも広く,むしろ日本語の「体制」(英語: System)に近いという議論がある[国分 1992, 134-137]。また,『人民学習辞典』の「制度」の項目を引くと,「ある歴史的条件のもとで生まれた,社会・政治・法律・経済などにおける一定の組織・秩序を指す」とある[陳 1953, 209]。この引用と議論をふまえると,中共指導部が「制度」という単語の使用をやめたのは,これが「体制」,すなわち単一制と連邦制の意味を含みかねないためだと思われる。そこで中共指導部は,わざわざ「制度」という単語をより穏当な「国家の組織機構」に修正した文書を,ソ共指導部に再送付したのであろう。
また1954年5月19日に開催された憲法起草座談会各小組召集人聯席会議においても,政治体制について議論が展開された[韓 2014, 233]。韓大元の説明によると,同会議が開催される直近に,第2章の表題が「国家組織体系」から「国家機構」に修正されていたという(注38)。この修正に対して,法学者で最高人民法院副院長の張志譲は,第2章の表題をさらに「国家機構」から「国家権力の組織」と変えるべきではないと議論を切り出した。彼はその理由を中国語の国家機構には国家機関と国家構造の2つの意味が含まれているためだと説明した。だが李維漢は,他の会議参加者と張志譲の発言を聞いた上で,ソ連の憲法にある国家構造という単語は,連邦制などの内容を含むと指摘した。その上で彼は,中国ではこの単語を使わないようにしようと注意喚起した。しかし李維漢はこのように発言しつつも,中国の憲法はソ連の国家構造を模していると説明し,中ソ両国とも民族区域自治を実施しているが,ソ連は高度に政治的な連邦制であるのに対し,中国はあくまでも行政管理上の措置だと主張したという(注39)。李維漢は1949年6月の政協準備会に際しても,自身の連邦制についての意見を述べていたとされる[毛里 1998, 42]。毛里和子の研究を引用すると,当時毛沢東から連邦制の導入について意見を問われた李維漢は,次のように回答したという。(1)ソ連では少数民族が総人口の47パーセントだが,中国ではわずか6パーセントで,しかも彼らの多くは漢族と雑居している。(2)ソ連は二月革命,十月革命の時点で諸民族がいくつかの共和国に分かれており,そのためやむを得ず連邦制を採用した,それは将来における統一国家への移行形態だった。マルクスもレーニンもスターリンも,単一制国家のなかでの地方自治・民族区域自治を原則にしていたと回答したという。毛沢東はこれらの李維漢の回答に満足し,さらには中共指導部内で異なる見解は一部にあったものの,おおよそ共有されたとされる。このような李維漢の意見からは,李維漢をはじめ中共指導部がソ連における連邦制の採用が諸民族を自国の領域内に引きとどめておくための建前上の理由であったと認識していたことがわかる。さらにいえば,中共指導部は連邦制を採用しないながらも,これが実質的にはソ連と類似し,あくまでも行政管理上の集権と分権の強弱の調節にとどまり,国家の分離権を構成単位に認めるものではないと認識していたことが読み取れる。
2.ソ連の民族理論からの逸脱,社会主義陣営の非一体感への批判ソ連外交部は,憲法草案における少数民族の自治権に関する規定について,遠回しに不支持の姿勢をみせた。1954年4月14日に彼らが提出した意見書の結論では,初稿草案には民族の自決権に関する規定がないことを指摘した[沈 2014, 58-59(「庫慈涅佐夫致蘇斯洛夫函:外交部関於中国憲法草案的結論」1954年4月14日)](注40)。続けて彼らは,1949年以前には中共指導部は民族の自決権,ひいては国家の分離権に言及していたとし(注41),その根拠として1931年の中華ソビエト共和国憲法を挙げた(注42)。その上で彼らは,同憲法をふまえるならば,初稿草案は民族問題の解決上,共同綱領と比較して新しい内容が何もないと批判した。
ここで,ソ共指導部が民族自治と連邦制の関係を如何に認識していたのかについて確認したい。両者の関係は,レーニン憲法第2条では,「ロシア・ソビエト共和国は,自由な民族の自由な同盟を基礎として,ソビエト民族共和国の連邦として,樹立される」,またスターリン憲法第13条では,「平等の権利をもつソビエト社会主義共和国の自由意思による統合に基づいて設立された連邦国家」,さらに第17条では「連邦構成共和国に対しては,ソ連邦からの自由脱退の権利が留保されている」と規定されている[中央人民政府委員会辨公廰 1953, 1巻; 斯大林 1954]。ただし,ソ連の連邦制については留意が必要である。なぜならばレーニンは,「マルクス主義者は連邦制度及び地方分権を敵としている」,「原則として連邦制度に反対する」,「経済的連結の環を弱めるものであって,単一の国家には不適当な形態である」,またスターリンも「ロシアにおける連邦主義は民族問題を解決ないし,解決し得ない……民族問題を混乱させ複雑にする」と発言していたためである[カー 1967, 117]。
それでは,ソ連における民族自治と連邦制の関係をふまえた上で,ソ連外交部による初稿草案への意見を分析したい。彼らの意見から窺えるのは,第Ⅰ節でも論じたように,如何にして中共指導部に独自制度を修正させ,その他の人民民主国家と内容を揃えさせ,社会主義陣営の一体感と優越性を強調するかであった。したがって,彼らは中共指導部に連邦制を強要するよりも,これを国家の分離権という語句に置き換えることで,幾分か現実的な指導を提案したのであろう。
このように,54年憲法制定過程における政治体制に関するソ共指導部の意見は,必ずしも中国の国情を考慮しておらず,むしろスターリンの社会主義認識をそのまま踏襲した原則的な内容が多かったようである。
3.少数民族の自治権をめぐる解釈と連邦制への警戒感1954年5月29日,憲起委第4回全体会議で,少数民族の自治権に関する議論が起きた[韓 2014, 282-284](注43)。憲法草案の第70条は,「各民族の自治地方の自治機関は,憲法と法律が規定する権限内で自治権を行使する」という条文であったという。第70条に対し,雲南省の少数民族出身で,西南行政委員会副主席の龍雲は,「『法律の規定する権限内で自治権を行使する』ことで,法律に規定がないような自治を不可能にしている」と意見した(注44)。龍雲は,中華民国期に少数民族が多く居住する雲南省を長年統治してきた。それゆえ彼は,少数民族の自治権に関して敏感であったのであろう。また彼は,西南軍政委員会副主席という直接的に少数民族にかかわる役職にあったため,なおさら自治権の問題で失敗できなかったのだと思われる。
このような龍雲の意見に対して,憲起委第4回全体会議の議長を担当していた劉少奇が「自治権の内容を法律で規定する必要があるか」と問題提起をしたのをきっかけに,同委員会内でさらなる議論が起きた。政治法律委員会主任の董必武は,ソ連の自治共和国と中国の民族自治区を比べて,中国の方が自治権の範囲が広いにもかかわらず,何が不満なのだという発言をした。おそらく董必武はソ連憲法の学習を通じて[中央人民政府委員会辨公廰 1953],中国では少数民族に自治権を付与しており,この点においてソ連の連邦制に優越すると考えるに至ったゆえに,龍雲の発言に不満を抱いたのであろう。
龍雲の意見は会議の参加者たちに繰り返し否定されたが,彼はなおも第70条に懸念を表明し続けた。龍雲は,「それでは憲法の規定から漏れた地区は,自治権を行使できなくなってしまう」と問いを投げかけた。龍雲の問いに対して西南行政委員会副主席であった鄧小平は,「憲法は少数民族の権利を十分に保障している……中国から分離し,別の国家に加入する。これはいけない。特殊であろうとすること,独立を要求することも好ましくない」と意見を述べた。鄧小平は,1952年春にチベットで発生した少数民族による中共統治への抵抗運動の処理責任者であった[中共中央文献研究室 2008, 1047-1048]。また中共指導部としても,同年8月に民族区域自治と呼ばれる政策を導入し,新疆ウイグル,チベット,寧夏回族,広西チワン族,内モンゴルの5つの区域に集住する少数民族に言語使用,経済管理等の分野における一定の自治権を認める代わりに分離権と自治権を否定したばかりであった[西村・国分 2009, 117]。このように,鄧小平だけでなく,中共指導部としても自治権と連邦制が結びつき,少数民族の独立運動を誘発しかねない意見には反対だったのであろう。
龍雲は,鄧小平の意見に納得しなかった。そこで龍雲は,「第71条の規定があるから,この問題は解決できる。私は自分の意見を取り下げる」と論点を変え,自説を主張した。第71条の前半部分は,「各上級の国家機関は,各自治区,自治州,自治県の自治機関が自治権を行使することを十分に保障」するというものであった。これに対して,李維漢は,「別の箇所では条例を制定できない。第70条だけである」と否定した。龍雲の主張からは,彼が会議の参加者たちとの対話の継続が,もはや無意味であると判断している様子が窺える。
憲草起草委員会のメンバーは,龍雲の主張を汲み取らず,漢族による少数民族の保護の必要性を繰り返し論じた。それでも龍雲は,「第71条を根拠に自治条例と単行条例を制定できるため,私は自分の意見を取り下げる」と自説に固執した。これに対し鄧小平は,「第71条が説明するのは,憲法,法律が規定する範囲内で自治条例と単行条例を制定できるのであって,憲法,法律が規定していないからといって,何をしてもよいということではない」,さらに李維漢も,「憲法と法律が規定する権限内でと,憲法と法律の規定する権限に基づき,という意味は同じで,書き方の上で比較して統一させるべきだ」と龍雲の主張を否定した。劉少奇は,「そうしよう。第3款も類似しているため,照らし合わせて修正しよう」と議論を一方的に終わらせた。結果,第1款と第3款の「規定する権限内において」を「規定する権限に照らして」に改めたという。54年憲法では第70条は,「自治区,自治州,自治県の自治機関は,憲法と法律の規定に依拠して自治権を行使する」となっている(『人民日報』「中華人民共和国憲法」1954年9月21日)。このように龍雲と参加者たちの少数民族の自治権の議論は噛み合わなかった。中共指導部は少数民族の自治権が拡大解釈され,連邦制の議論を想起させることを避けるために修正を施したのである。
少数民族の自治権については,会議参加者および全国からも多くの意見が寄せられた。彼らは少数民族の自治権に関する規定に賛成していたものの,その強化には反対だったようである。たとえば,初稿草案第65条に対する「自治条例は全国的な問題であるため,全人代常務委の職権内におくほうが慎重でよい」という意見が示唆的である[『討論彙編』第11輯, 16]。また彼らは第3条「『区域自治を実施する』の後に『ただし民族の割譲に断固として反対する』」と条件をつけているように,内心では少数民族の自治権の強化に反対だったのであろう[『全国彙編』第14輯, 61]。しかし,このような少数民族の自治権の制約に異を唱える意見もあった。たとえば,同第3条「各民族の自治地方は中華人民共和国の不可分な部分」に対して,「我が国の各民族が不可分な部分であると規定すべきではない。なぜならば,ソ連憲法は各加盟共和国に脱離権の自由な行使を規定しているためである」という意見が提起されている[『全国彙編』第7輯, 107]。かくなるように,初稿草案とソ連憲法の対比のなかで,連邦制に関する意見が提起された。しかし,このような意見は,54年憲法に対する意見全体のなかでは極めて少数であった。このように,中共指導部にとって少数民族の自治権は連邦制に結び付けるべきではない問題であった。
54年憲法制定過程は,中共指導部,ソ共指導部,民主党派のあいだで理想とする政治体制構想,あるいは国家像の差異を顕在化させた。中共指導部はソ共指導部が中国の国情を必ずしも考慮せず,原則に固執するような指示を中国成立以前より繰り返してきたことに不満を抱いていた。そのため,54年憲法制定過程でもソ共指導部が同様の指示を出してきたことを,快く思っていなかったかもしれない。だがソ共指導部からすれば,中共指導部は誤った社会主義認識に基づき憲法を制定し,指示どおりに社会主義の優越性を憲法で強調することに必ずしも従わない,社会主義陣営の足並みを乱すような存在だったかもしれない。また民主党派についても,中共指導部は共同綱領の制定過程で,中共主導ではない政治体制構想の提案を許可しなかったにもかかわらず,彼らが類似する提案を再度54年憲法制定過程で出してきたことに困惑したであろう。しかし,民主党派にとって54年憲法制定過程は,中ソ憲法比較を通じて中共主導の政治体制構想に異議申し立てができる数少ない機会であった。かくなる54年憲法制定過程での政治体制構想をめぐる中共指導部,ソ共指導部,民主党派の角逐は,相互不信感を増幅させただけでなく,根本的に思考が相容れないという現実を再認識させた点で象徴的な出来事であった。さらに指摘するならば,このような相互不信感は,中共指導部が民主党派に反右派闘争を,またソ共指導部とその後の対立を引き起こす遠因になったとも理解できるだろう。
このような混乱状況については,中共中央党史研究室が2011年に出版した中共の公式な歴史書である『中国共産党歴史(1949-1978)』の叙述上にも影響を及ぼしている[中共中央党史研究室 2011, 671-672]。本書は,1954年9月15日の劉少奇による全人代での憲法草案についての報告を引用している。そこでは,劉少奇が54年憲法の制定を通じて中国の社会主義建設を前進させることが中国人民の「共通の願望」であったと強調する。ところが54年憲法の序文には「共通の願望」という表現があるものの,実際の劉少奇の報告ではこれを「共通の目標」であったと述べるにとどまっている[中共中央文献研究室・中央档案館 2005, 399(劉少奇「関于中華人民共和国憲法草案的報告」1954年9月15日)]。すなわち,当時の中共指導部は,54年憲法を「共通の目標」としか位置づけられないほどに,中国の政治体制構想に関する国内の共通認識を形成できなかった。そのため,中共指導部は54年憲法の位置づけについての歴史叙述の修正を通じて,現在においても自らの統治の正統性を強調しようとしているのである。
(中国東北大学外国語学院外国籍教師,2023年4月3日受領,2024年6月14日レフェリーの審査を経て掲載決定)