アジア動向年報
Online ISSN : 2434-0847
Print ISSN : 0915-1109
各国・地域の動向
2010年のミャンマー 20年ぶりの総選挙,7年半ぶりのスーチー解放
工藤 年博
著者情報
解説誌・一般情報誌 フリー HTML

2011 年 2011 巻 p. 397-420

詳細

2010年のミャンマー 20年ぶりの総選挙,7年半ぶりのスーチー解放

概況

2010年11月7日,軍事政権は1990年以来20年ぶりとなる総選挙を実施した。この総選挙は2008年に制定された憲法にもとづくものであった。有権者は二院制の連邦議会(人民代表院と民族代表院),および14の地域・州議会の議員を選んだ。投票率は約77%であった。アウンサン・スーチー氏(以下,スーチー氏)が率いる最大野党の国民民主連盟(NLD)は,2008年憲法や選挙関連法が非民主的であることを理由に総選挙をボイコットした。

選挙結果は,国軍が全面的にバックアップする連邦団結発展党(USDP)が,全議席の約8割を獲得する勝利を収めた。NLDから分派して総選挙に参加した,国民民主勢力(NDF)は敗北した。ビルマ社会主義計画党(BSPP)の後継政党である,国民統一党(NUP)も大敗を喫した。しかし,少数民族政党はそれぞれの地元の州の選挙区において健闘した。

総選挙の6日後の11月13日には,7年半ぶりにスーチー氏が自宅軟禁から解放された。当日はスーチー氏を歓迎しようと何千人もの市民が自宅周辺に押しかけ,彼女が自宅の門の上から顔を見せると大きな歓声が上がった。スーチー氏の国民的人気が衰えていないことを,内外に示す出来事であった。

経済は堅調に推移した。これは農業生産および農作物価格が良好に推移したこと,天然ガスをはじめとする輸出が好調であったこと,公務員給与の増額や積極的なインフラ整備にともない,政府支出が大幅に増加したことなどが要因である。しかし,年後半にかけてインフレ圧力が強まった。

外交においては,タンシュエ国家平和発展評議会(SPDC)議長がインド,中国,ラオスを相次いで訪問するなど,積極的な首脳外交を展開した。また,ベトナムのズン首相,中国の温家宝首相,ラオスのブアソーン首相,タイのアピシット首相が来訪した。総選挙を前にミャンマーは近隣諸国との関係強化に努めた。

国内政治

総選挙実施

ミャンマー軍事政権は11月7日に,1990年以来20年ぶりに総選挙を実施した。2010年総選挙は,2008年に国民投票で制定された新憲法にもとづくものであった。2008年憲法では,立法府として人民代表院および民族代表院の二院から構成される連邦議会,および14の地域・州議会が設置された。各議会の議員を選ぶために,有権者は原則として3票を投じた。ただし,地域・州議会においては当該地域の人口の0.1%以上の人数を持つ少数民族の代表も選ぶため,その少数民族に属する有権者の場合は4票を投じた。1990年総選挙の時は,一院制の人民議会の議員の選出のみであり,地方議会も設置されていなかった。今回の総選挙の有権者数は約2900万人,投票率は人民代表院,民族代表院,および地域・州議会ともに約77%であった。表1に2010年総選挙の概要を,1990年総選挙のそれと比較して示す。

2010年総選挙には,37の政党から2987人,無所属で82人の,合計3069人の候補者が出馬した。37政党のうち,33政党は新たに設立された政党で,既存政党は4政党のみであった。1990年総選挙に参加した93政党の多くは,その後軍事政権により解党させられており,今回の政党登録時の存続政党は10政党にすぎなかった。これら10政党のうちNLDを含む5政党は,2010年総選挙に参加するために必要な政党登録を行わなかったため,3月8日に公布された新たな政党登録法の規定により5月6日付で解党処分となった。

NLDは2008年憲法が非民主的であること,政党登録法の規定により「受刑」中の同党書記長のスーチー氏をNLDから除籍しなければならないことなどを不服として,3月29日に開催した中央執行委員会において2010年総選挙のボイコットを決定した。これに先立つ同月23日,スーチー氏は自由でも公正でもない選挙にNLDが参加することは受け入れられないと発言していた。NLDの決定がこうしたスーチー氏の意向を反映したものであることは間違いなかった。しかし,総選挙ボイコットに批判的なタンニェイン氏をはじめとする同党の旧中央執行委員会の何人かは,NLDが解党処分となるのを待って,NDFという新党を結成した。

結局,存続政党5つを含む47の組織が選挙管理委員会(UEC)に政党設立および登録(存続政党の場合は登録のみ)を申請し,42政党がこれを認められた。政党設立を許可されなかった組織には,カチン州進歩党(KSPP),北シャン州進歩党,連合民主党(カチン州)などの少数民族政党が含まれていた。これは軍事政権が,国境警備隊への編入を拒む少数民族武装勢力に対して,政治的圧力をかけることを狙った措置であった。たとえば,KSPPの党首のトゥ・ジャ氏は,カチン独立機構(KIO)の副議長を務めたことがある人物であった。国軍は2009年4月以降,停戦合意を結んでいる少数民族武装勢力に対して,国軍が指揮権を持つ国境警備隊に編入するよう求めていたが,多くの少数民族武装勢力がこれを拒否していた。そうしたなかでもKIOはその筆頭株であった。政党設立を拒否された少数民族リーダーは無所属での立候補を試みたが,選挙管理委員会はこれも拒絶した。

さらに,2010年総選挙に参加するためには,少なくとも3つの選挙区に候補者を擁立することが求められた。最終的に設立・登録を認められた42政党のうち37政党(うち存続政党は4つ)がこの要件を満たし,総選挙に参加した。

表1  2010年と1990年の総選挙の概要

(注) 1)1990年総選挙は一院制の人民議会選挙のみ。

(出所) 選挙管理委員会布告No.143(2010年12月7日),および伊野憲治「1990年ミャンマー総選挙の結果」(『通信』75号,1992年,東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所,14~41ページ)。

USDPの大勝

今回の選挙戦は,国軍が全面的にバックアップするUSDPという体制政党,これに挑むNDFをはじめとする民主主義政党および少数民族政党,そして第三極の形成を目指すNUPという,三つどもえの構図となった。NLDが総選挙をボイコットしたため,民主主義勢力はいずれも組織力,知名度を持たない小政党ばかりとなった。USDPが全国に1000人以上,NUPも1000人近くの候補者を擁立したのに対し,NDFは約160人,ウ・ヌ前首相の娘などいわゆる「3人のプリンセス」を擁する民主党(ミャンマー)は50人未満の候補者を立てるにとどまった。少数民族政党では,シャン民族民主党(SNDP)が150人以上の候補者を立てた。党首のサイアイパオ氏は1990年総選挙でNLDに次ぐ第2党となったシャン民族民主連盟(SNLD)の書記長を務めた人物で,政党のロゴからホワイト・タイガーと呼ばれ,地元のシャン州では人気があった。

こうした選挙戦の構図は,USDPに有利に働いた。USDPは連邦団結発展協会(USDA)という全国に1万5000の事務所を持ち,全人口の4割に相当する2400万人の会員を有する大衆組織を母体としていた。党首はテインセイン首相,事務局長はテーウー農業灌漑相で,総選挙前に退役した軍事政権の幹部が立候補者に名を連ねた。USDPは資金力と組織力を総動員し,選挙戦を戦った。

選挙管理委員会は11月8日,および11日から18日にかけて,選挙区ごとの当選者を発表した(表2)。連邦議会に16政党から491人,無所属で2人,14の地域・州議会に22政党から657人,無所属で4人の,合計1154人が当選した。USDPは連邦議会において388議席(全議席の78.7%),地域・州議会において495議席(同74.9%)の議席を獲得した。USDPの当選率は,連邦議会,地域・州議会のいずれにおいても約8割という大勝であった。

連邦議会は人民代表院と民族代表院の二院制であるが,両院は2008年憲法上,同等の権限を与えられており,どちらかの院の優位は規定されていない。両院の間で意見の相違が生じた場合や,大統領の選出などの重要案件は,両院合同で開催される連邦議会によって決議される。そのため,連邦議会における議席数が,国政においてもっとも重要となる。

連邦議会において,第1党のUSDPに次いで,第2党および第4党となったのは,それぞれ21議席(全議席の4.3%)を獲得したSNDP,16議席(同3.2%)を得たラカイン民族発展党(RNDP)の少数民族政党であった。NUPは17議席(同3.4%)を獲得し,かろうじて第3党となったものの,その当選率は4%未満という惨敗であった。NUPは軍事政権と一定の距離を保ち,また農地の私有化を認める新しい農業政策を発表するなどして,農民を含む有権者に支持を訴えた。しかし,国民からみればNUPはUSDPと同様,軍事政権寄りの政党と映った。また,BSPP時代の社会主義政策の失敗に対する真摯な反省や謝罪もなく,結局は有権者の支持を得られなかった。

今回の総選挙において民主主義政党の代表格となったNDFは,12議席(全議席の2.4%)にとどまった。民主党(ミャンマー)は連邦議会に議席を獲得することができなかった。こうした民主主義政党の敗北は,資金・組織力・知名度の不足に加えて,NLDとスーチー氏が「有権者は投票する権利も,投票しない権利もある」として,事実上国民に総選挙のボイコットを呼びかけたことも一因であった。こうした呼びかけは,民主主義政党へ投票しようと考えていた有権者の棄権を招いたのである。

表2  政党別議席数

(出所) New Light of Myanmar,2010年11月8日,11~18日。

少数民族政党の健闘

NUPおよび民主主義政党の惨敗に比して,少数民族政党は健闘した。少数民族政党をひとつのグループとして見てみると,連邦議会,地域・州議会のいずれにおいても40%程度の当選率を記録した。これは少数民族政党がそれぞれの地元に集中的に候補者を立て,選挙戦を戦った成果であった。

表3はビルマ族が多く居住する7つの地域(regions)と,少数民族が多く居住する7つの州(states)とに分けて,主要政党と少数民族政党の獲得議席を示したものである。少数民族政党が地元の州において健闘している姿がわかる。第1に,人民代表院においては,少数民族政党は7つの地域においては1議席も獲得していない。これに対して,7つの州においては4割近くの議席を獲得した。第2に,民族代表院においても,少数民族政党は7つの地域においては1議席も獲得していないが,7つの州においては34.5%の議席を獲得した。第3に,地域・州議会においては,7つの地域においても5議席を獲得し,7つの州においては4割を超える議席を獲得した。7つの州議会においてもUSDPの議席が5割を超えているものの,少数民族政党も意味のある勢力を形成することとなった。

少数民族政党の強い州において,USDPを含むビルマ族政党が支持を拡大できなかったのは,NLDが全国では約8割の議席を獲得して圧勝した1990年総選挙の時と同様である。この結果は,ミャンマー政治において「軍事政権対民主主義勢力」という対立軸に加えて,「ビルマ族対少数民族」という対立軸が依然として存在していることを示している。

表3  地域・州別議席数

(注) 1)少数民族政党はシャン民族民主党など17政党。

2)無所属議員を含む。

(出所) New Light of Myanmar,2010年11月8日,11~18日。

スーチー氏の解放

総選挙から6日後の11月13日夕方,国家防御法違反による1年半の刑期を終えたスーチー氏が,自宅軟禁から解放された。スーチー氏の解放は,2003年5月30日以来の国家防御法による6年半の拘束期間を含めて,じつに7年半ぶりであった。当日はスーチー氏解放の噂を聞きつけた何千人もの市民が,自宅周辺に押しかけた。スーチー氏が午後5時半頃に自宅の門の上から顔を見せると,市民の間から大きな歓声が上がった。スーチー氏の国民的人気が衰えていないことを内外に示した瞬間であった。スーチー氏は支持者に手を振り,「皆さんに会えてうれしい」と語り,「翌日NLD党本部で話をするので,そこで会いましょう」と呼びかけた。

一夜明けた14日,スーチー氏はヤンゴンのNLD本部で,すべての民主主義勢力とともに活動していくと国民に訴えた。また,タンシュエ議長との面談を求めるなど,軍事政権と対話路線をとる姿勢を明確にした。さらには,かつては支持していた欧米諸国の制裁措置についても,人々が望むのであれば解除へ向けて協力する用意があると述べた。スーチー氏がこのような柔軟路線を示したのは,NLDがすでに解党処分を受けた状況下で,軍事政権と対決路線をとれば再び拘束されかねないという事情があった。すでに65歳となったスーチー氏が再び長期の自宅軟禁に置かれた場合,ミャンマーの民主化運動は大きな打撃を受けると考えられたのである。

一方,総選挙でUSDPを圧勝させた軍事政権にとって,スーチー氏と政治対話を進める必要はもはやなかった。軍事政権はスーチー氏の対話呼びかけに,まったく反応を示さなかった。こうしたなか,NLDは2011年2月8日に「ビルマに対する制裁――NLDによるレビュー――」と題する文章を発表し,欧米諸国の制裁はミャンマー経済に深刻な影響を与えておらず,むしろ経済権益を独占する軍事政権に近い政商や汚職の存在こそが健全な経済成長を阻む障害であると批判した。これに対して,軍事政権の立場を代弁することの多い英語国営紙『ニューライトオブミャンマー』は,2月13日の論説記事において,スーチー氏やNLDが制裁について誤った認識を持ち続けるのであれば,悲劇的な結末を迎えるだろうと警告した。今度はこの記事に対して,2月16日にアメリカ国務省のクローリー報道官がスーチー氏を脅迫しているとして非難した。軍事政権とNLDおよびスーチー氏の間では,国際社会を巻き込みながら,再び非難合戦が始まりつつある。

DKBA離脱グループによる襲撃

総選挙の翌日,少数民族武装勢力のひとつである,民主カレン仏教徒軍(DKBA)の分派部隊が,タイとの国境のミャワディとスリーパゴダパスの2つの町を攻撃した。奇襲作戦により,警察署をはじめとする大半の政府施設はDKBA側に占拠された。しかし,国軍は直ちに反撃し,数日内に町の支配を回復した。両者の交戦にともない,ミャワディからは約2万人の住民がタイ側の国境の町メーソットに,スリーパゴダパスからも数千人の住民がタイ西部のカーンチャナブリーに避難した。

2つの町を攻撃したのはソーラープウェ(通称ナカンフムエー)大佐が率いるDKBA第5旅団であった。第5旅団の推定兵力は約1000人である。DKBAは1990年代半ばに国軍と停戦合意を結び,タイとの国境貿易を実質的に支配するなど,独自の経済権益と自治権を享受してきた。しかし,総選挙を目前として,国軍はDKBAに対して自らが指揮権を持つ国境警備隊への編入を求め,8月にはDKBAの主要な部隊を編入する式典が開催されていた。しかし,DKBAの第5旅団はこの決定を不服とし,国境警備隊への編入を拒んでいた。これに対して,軍事政権は7月以降,タイとの最大の国境貿易拠点であるミャワディの国境ゲートを閉鎖するなどして,DKBA内の不満分子への圧力を強めていた。今回の第5旅団の攻撃には,こうした背景があった。攻撃から数日後には,国軍がミャワディの町の支配を回復したが,国境ゲートの閉鎖はその後も続いた。

また,2010年11月上旬,KIO,新モン州党,シャン州軍(北部)の3つの停戦合意グループと,カレン民族同盟(KNU),カレンニー民族進歩党,チン民族戦線の3つの非停戦グループの少数民族武装勢力が軍事同盟を結成したと報じられた。これまで停戦合意グループは軍事政権に気を遣い,非停戦合意グループとの接触を避けてきた。にもかかわらず,総選挙を目前として,これらのグループが一気に軍事同盟にまで踏み出したのは,総選挙後に国軍の攻撃がありうると考えているからにほかならない。ただし,これらの少数民族武装勢力の支配地域はお互いに離れており,軍事同盟が軍事的にどの程度の実効性をもつのかは不明である。

2011年1月31日の連邦議会の招集をもって発効した2008年憲法は,国軍のみが武力を保有できる組織であると明記している。2009年4月以降,国軍が停戦合意を締結している少数民族武装勢力に何度も期限を延長しつつも,国境警備隊への編入を強く求めてきた背景には,この憲法の条項が存在する。今後,国軍は少数民族武装勢力に政治的,軍事的な圧力をいっそう強めていくだろう。しかし,少数民族武装勢力も奇襲攻撃をかけたり,お互いに軍事同盟を結んだり,簡単に国軍の要求に従う様子をみせていない。1989年以来,国軍が主要な少数民族武装勢力と締結してきた停戦合意は,すでに実質的に破棄されたと判断される。

経済

高い経済成長率,インフレ圧力の高まり

国際通貨基金(IMF)によれば,2010/11年度(4~3月)のミャンマーの実質GDP成長率は7.9%になると予測されている。このような高い経済成長は,農業生産および農作物価格が堅調に推移したこと,天然ガスをはじめとする輸出が好調であったこと,公務員給与の増額や積極的なインフラ整備にともない政府支出が増加したこと,などが要因である。とくに,2010/11年度の政府予算は2009/10年度に比べて,総額(経常支出および資本支出)で3割以上の増加,経常支出のみでは4割以上の伸びを示した。これは20年ぶりの総選挙を控え,景気刺激のために,1月に4年ぶりに公務員,国営企業職員,および大佐以下の軍人の給与の一律2万チャット引き上げや,大規模な公共事業を実施したためである。

しかし,財政赤字を抱える政府がこうした大規模な財政支出を国債に加えて通貨チャットの増発によってまかなったこと,および政府部門の賃金引き上げにともない民間部門でも賃金が上昇したことなどから,2010年に入ってインフレ圧力が強まった(図1)。ミャンマーでは年間10%程度の消費者物価上昇率は必ずしも高い水準ではないが,2011年に入ってエネルギー価格や食料価格が上昇しており,今後いっそうのインフレ高進が懸念されている。

図1  消費者物価指数上昇率(前年同月比)

(出所) Central Statistical Organization, Selected Monthly Economic Indicators, various issues。

資源開発への外資流入

2010/11年度に入って,天然資源開発への外国直接投資が急増した(表4)。2010年の4月から7月の4カ月間に,約158億ドルの外国投資がミャンマー投資委員会(MIC)によって認可された。同国が過去20年間に受け入れた外国投資の認可累計額は約319億ドルであるので,これはその半分に相当する金額であった。投資分野は,石油・ガス,電力,鉱業の3分野で,投資国は中国,香港,タイ,韓国の4カ国・地域であった。ただし,香港の分は中国からの迂回投資である。

主要な投資案件は,中国が水力発電など3件,香港が中国雲南省向け石油・ガスのパイプライン建設や銅鉱山の開発など3件,タイがモッタマ湾M9鉱区の天然ガス開発の1件,韓国が天然ガス開発など2件である。今後も近隣諸国の企業を中心に,大規模な資源開発投資が続くと見られている。

表4  最近の外国直接投資

(出所) Central Statistical Organization, Selected Monthly Economic Indicators, various issues。

ダウェイ深海港開発

タイの大手建設会社であるイタリアンタイ・デベロップメントは11月,タニンターリー管区ダウェイでの深海港開発についてミャンマー港湾当局と契約を締結した。これは10月にアピシット・タイ首相が来訪した際に,ミャンマー政府首脳との間で合意された案件であった。開発計画には大型タンカーが接岸できる水深15メートルの深海港の建設に加えて,工業団地,発電所,石油精製所,道路,鉄道,石油・ガスパイプラインの敷設などが含まれる。ダウェイとタイのカーンチャナブリー県が幹線道路で連結されることで,ベトナムのホーチミン,カンボジアのプノンペン,タイのバンコクを結ぶ大メコン経済圏(GMS)経済協力の旗艦プロジェクトのひとつである南部経済回廊が,ミャンマーを通ってダウェイ港経由インド洋へと連結されることになる。この新たな南部経済回廊はタイのバンコク周辺に集積する企業や工場に対して,従来のマレー半島を南下しマラッカ海峡を通過する海路でのインド洋へのアクセスに加えて,陸路ルートでのオプションを提供することになる。

また,2011年1月27日には経済特区法(SEZ法)が公布された。ダウェイ港の後背地の工業団地は,本法によりミャンマー最初の経済特区に指定される予定である。経済特区は輸出加工区と貿易サブ地区で構成され,インフラ開発を行うデベロッパーおよび事業を行う投資家の双方に,国内,外国企業を問わず優遇措置が供与される。SEZ法は2006年に第1次案が検討されてから,一部の国内企業の反対などもあり制定まで時間がかかっていたが,国会の初招集を目前に駆け込みで決定,公布された。

ダウェイ港開発およびSEZ法の公布により,タイ企業を中心に対ミャンマー投資の意欲が高まっている。ただし,ダウェイ港および関連プロジェクトに必要な資金は,当初計画分のみで86億ドル(約7050億円)と報じられており,今後この巨額の資金をいかに調達するかがプロジェクトの成否を握る。

対外関係

タンシュエ議長の積極外交

2010年総選挙の実施,および2011年に予定される民政移管を目前として,タンシュエ議長は積極的に首脳外交を展開し,とくに近隣諸国との関係強化を進めた。まず,タンシュエ議長は7月25日から29日にかけてインドを公式訪問した。釈尊が悟りを開いたブッダガヤと最初に法を説いたサルナートを訪問し,その後ニューデリーに入り,27日にマンモハン・シン首相と会談した。シン首相は,鉄道,道路,水路,発電,通信,工業研修センターなどの建設において,ミャンマーを支援する意向を表明した。また,タンシュエ議長は両国の国境地域で活動する,反インド政府の武装勢力に対する掃討作戦に引き続き協力していくとした。

次に,タンシュエ議長は9月7日から11日にかけて中国を訪問した。タンシュエ議長の訪中は2003年1月以来であった。この訪問では,胡錦濤国家主席,温家宝首相ら中国首脳と会談したほか,開催中の上海万博や経済特区として発展を遂げる深圳なども視察した。中国は2009年12月の習近平国家副主席のミャンマー訪問の際に16におよぶ経済技術協力を約束していたが,今回のタンシュエ議長訪中にあたり,さらに42億ドルの優遇借款を供与すると表明した。2009年末からはすでに,ヤカイン州のチャウピュー経由で中国雲南省に石油・天然ガスを輸送するための深海港およびパイプラインの建設が始まっており,両国の経済関係はいっそう強化された。

続いて,タンシュエ議長は2010年10月1日から3日にかけて,ラオスを訪問した。首都ビエンチャン到着後すぐにチュームマリー・ラオス大統領と首脳会談を行い,両首脳は経済や安全保障の分野で,お互いに協力することで合意した。

近隣諸国からの首脳来訪

近隣諸国の首脳の来訪も相次いだ。4月にはベトナムのズン首相が200人の経済ミッションを引き連れて来訪した。両国は経済関係を強化していくことで合意した。6月には中国の温首相,およびラオスのブアソーン首相が来訪した。タンシュエ議長の9月の中国訪問および10月のラオス訪問は,この時の両首相の招きに応じたものであった。さらに,10月にはタイのアピシット首相が来訪した。この訪問を契機として,先に述べたタイ企業によるダウェイ開発が動き出すこととなった。

ASEANの関与

東南アジア諸国連合(ASEAN)も2010年総選挙とそれにもとづく議会の開催,および民政移管を評価し,新政権への関与を強める姿勢を明確にした。総選挙前の7月20日,ベトナムのハノイで開催したASEAN外相会議では軍事政権に対する批判を慎重に避けた。この時期,すでにNLDは総選挙ボイコットを決定しており,欧米諸国を中心に国際社会からは総選挙のあり方に対する批判が高まっていた。しかし,外相会議が発表した声明は,ミャンマーの総選挙が自由で公平,包括的に行われることを求めたものの,草案段階では盛り込まれていた「全党参加」という文言が削除されるなど,軍事政権への配慮がにじむものとなった。

また,総選挙実施後の2011年1月16日と17日に,インドネシアのロンボク島で開催された非公式外相会議では,総選挙の実施を評価し,ミャンマーへの新たなアプローチが必要だとして,欧米諸国に対して同国に科している制裁を早期に解除・緩和することを求めた。また,ミャンマーの2014年のASEAN議長国就任へむけて環境を整えていくことでも合意した。今後,ASEAN,中国,インドなどの近隣諸国と欧米諸国との間で,制裁の解除・緩和に関する議論が活発になっていくと見られる。

2011年の課題

2011年1月31日には,総選挙後初めての連邦議会および地域・州議会が招集された。連邦議会ではテインセイン首相が大統領に,ティンアウンミンウーSPDC第1書記,および少数民族であるシャン族出身のサイマウカン氏の2人が副大統領に選出された。また,30人の閣僚名簿が提出され,新大統領のもとでの組閣の準備も整った。新政権は3月末にも発足し,軍事政権は民政移管を完了することになる。この新政権を国軍の傀儡政権と呼ぶ人は多い。しかし,ミャンマーに新たな政治体制と新たな政治プレーヤーが登場することは間違いない。

軍事政権の時代を通じて,ミャンマーには制度的な「政治」は存在しなかった。国軍が全権を握るなかで,国軍内での競争と協力,時には派閥間の亀裂など,軍内での駆け引きがあるだけであった。そこでは,国民や国際社会が関与することも影響力を及ぼすこともできなかった。しかし,今回の総選挙を経て,連邦議会,地域・州議会が設立され,そこには限定的ではあるが,民主主義政党や少数民族政党の代表が参加することになった。国軍の力を背景とするUSDPおよび軍人議員が大勢を占める議会の開催は,形式的なものにすぎないという批判もあるが,議会というフォーマルな政治制度が再開されたことは,今回の総選挙の第1の意義である。

しかし,議会の開催と形式的な民政移管が,自動的に国の平和と国民生活の向上に結びつくわけではない。総選挙をボイコットしたNLDおよびスーチー氏と新政権は,相変わらず議会の外で対立を続けるだろう。国軍と少数民族武装勢力との武力衝突の可能性もある。そもそも,新たに政権を担当するUSDPの統治能力も未知数である。2011年に政治状況が流動化する要因が,少なくないことも事実である。

今回の総選挙が持つ第2の意義は,国軍幹部の世代交代をもたらしたことである。2010年の総選挙を前に,軍政序列3位のシュエマン三軍統合参謀長,4位のテインセイン首相,5位のティンアウンミンウー国防省兵站局長,6位のティンエイ国防省国防産業局長をはじめとする,主要な国軍幹部が退役した。退役した旧国軍幹部はUSDPから総選挙へ出馬し,全員が当選した。彼らは新政権において,大統領,副大統領,大臣,知事などの要職に就任する予定である。その意味で,新たに誕生する新政権が,軍人が軍服を脱いだだけの形式的なものであるとの批判は当たっている。

しかし同時に,多くの幹部将校の退役により,国軍幹部に世代交代が起こることは重要である。今回,退役した旧幹部は年齢的には60代に至っていたが,新たに幹部に就任する将校は大方が50代半ば以下といわれている。大幅に若返った新たな国軍のリーダーたちが,民政移管後の国家体制において国軍の役割をどのように位置づけるのかは,今後の同国の政治のあり方を左右する重要な要因となるだろう。

また,こうした世代交代のなかでもっとも注目されるのは,1992年以来権力を掌握してきた国軍司令官のタンシュエSPDC議長,および1993年以来ナンバー2であった国軍副司令官のマウンエイ副議長の去就である。軍政の最高意思決定機関であるSPDCのメンバーのなかで,退役していないのはこのトップ2人のみとなった。ポスト軍事政権がポスト・タンシュエ(およびマウンエイ)の時代となるのか,あるいはタンシュエ議長およびマウンエイ副議長が引き続き,実質的な権力を持ち続けるのか,その行方が注目される。

(地域研究センター研究グループ長)

重要日誌 ミャンマー 2010年
  1月
1日 公務員給与,一律2万チャット引き上げ。
1日 中央銀行,2年国債を発行。
7日 特別法廷,情報を漏洩した元軍将校と外務省職員の2人に死刑判決。
11日 国民民主連盟(NLD),新たに9人の中央執行委員を選出。全員で20人に。
12日 ミャンマー・コメ産業協会,設立。
15日 スーチー氏,アウンチー連絡担当相と面談。
15日 ミャンマー・ベトナム投資セミナー,ネーピードーで開催。
17日 ニャンウィン外相,岡田外相と東京で会談。
18日 スーチー氏の上告審,結審。
  2月
2日 日本の法務省,タイのメラ・キャンプで生活するカレン人難民を日本へ受け入れるための面談を開始。
10日 3者中核グループ(TCG),サイクロン被災地の復興状況に関する第3次報告書を発表。
10日 ティンガンンジュン市場,火災で全焼。
11日 第1電力省,トゥー・グループ,中国華能集団と共同で,ヤンゴンに石炭火力発電所を建設する基本合意を締結。
13日 ティンウーNLD副議長,自宅軟禁から解放。
15日 キンタナ国連人権理事会特別報告官,来訪。スーチー氏と面談できず。
24日 ブイ・ヴァン・ナム・ベトナム公安省副大臣,ティンアウンミンウー国家平和発展評議会(SPDC)第1書記と面談。
26日 最高裁,国家防御法違反の罪に問われたスーチー氏の上告を棄却。
  3月
1日 ニルパマ・ラオ・インド政務次官,ティンアウンミンウーSPDC第1書記と面談。
1日 第1工業省傘下のセメント工場,稼働。
2日 ベトナム航空,ハノイ=ヤンゴン便を就航。
8日 政府,選挙関連5法を公布。
10日 潘国連事務総長,選挙関連法を批判する声明を発表。
10日 ベトナム投資開発銀行,ヤンゴン駐在事務所開設の手続きを開始。
11日 政府,連邦選挙管理委員会(UEC)を組織。
17日 UEC,政党登録法細則を発表。
19日 ヤダナ天然ガス田,約2週間の操業停止。
22日 インドのタタ・モーターズ,第2工業省の自動車・ディーゼル・エンジン公社とトラック工場の建設で合意。
23日 NLD,選挙関連法の無効を最高裁に提訴。最高裁は訴状を受理せず。
26日 国連人権理事会,ミャンマーの人権侵害に関する非難決議を採択。
27日 国軍記念日の式典,開催。
29日 NLD,総選挙不参加を決定。
  4月
1日 ガソリンスタンドが民営化。
1日 国営海運会社ファイブ・スター・ライン,ミャンマー・エコノミック・ホールディングズ(UMEHL)に譲渡。
2日 グエン・タン・ズン・ベトナム首相,来訪(~4日)。
5日 国軍,停戦合意の少数民族武装グループの国境警備隊への編入に関する回答期限を4月下旬に再設定。
6日 NLD,民主化失敗を国民に陳謝。
15日 ヤンゴンの水祭り会場で3回の爆発。8人死亡,170人が負傷。
17日 カチン州のミッソン水力発電所の建設現場で爆発。
26日 EU,外相理事会で対ミャンマー制裁の1年延長で一致。
26日 テインセイン首相を含む主要閣僚,国軍を退役。
29日 連邦団結発展党(USDP),政党設立をUECに申請。
29日 NLD,政党登録法の規定の無効を求めて最高裁に提訴。
29日 NLD,中央執行委員会を開催し,解党後は社会活動を中心にする方針を決定。
  5月
1日 政府,外国人観光客に対する現地取得ビザの発給を開始。
4日 タイ軍,ミャンマー難民受け入れのための保護区域を国境の町メーソットに設置。
6日 NLDの解党処分が決定。
7日 NLD元幹部,国民民主勢力(NDF)の結成を表明。
9日 アメリカのキャンベル国務次官補,来訪。10日にスーチー氏と面談。
11日 全国各地で最高気温の記録を更新。
12日 タイ労働省,93万人以上の外国人登録作業を完了。81万人がミャンマー人。
14日 インド外務省,カラダン川開発事業をエサール・プロジェクツと契約。
24日 ミンガラー市場で火災。
27日 NDF,政党設立を申請。
28日 2013年の東南アジア競技大会,ミャンマーでの開催が決定。
  6月
1日 『ボイス』など2誌が発禁処分。
2日 温家宝中国首相,来訪(~3日)。
3日 ウェッブ米上院議員,来訪を中止。
3日 中国の援助でネーピードーに建設された国際会議場,ミャンマーへ譲渡。
4日 アルジャジーラ,ミャンマー国軍が北朝鮮の協力で核兵器開発を計画と報道。
4日 中国石油天然ガス,ミャンマー・ヤカイン州から中国雲南省までの原油・ガスのパイプライン敷設に着工と発表。
9日 ヤダナ・ガス田とヤンゴンを結ぶパイプライン,稼働開始。
10日 民営化されたガソリンスタンド,営業開始。
11日 外務省,核兵器開発疑惑を否定する声明。
19日 スーチー氏,65歳の誕生日。
21日 ブアソーン・ラオス首相,来訪(~23日)。
  7月
1日 コータウンの暫定旅券発給センター,タイ側のラノーンへ移転。
9日 アピシット・タイ首相,8月初旬の来訪を発表。
12日 政府,ミャワディ=メーソット国境ゲートを閉鎖。
12日 スーパー・セブン・スターズ・モーターズ,自動車組立工場を完成。
13日 ホーチミン市投資貿易促進センター,ミャンマー進出に関するセミナー開催。
15日 スーチー氏の元側近のウィンテイン氏,14年ぶりに釈放。
19日 政府,「殉難者の日」式典開催。故アウンサン将軍の長男夫妻が参列。
20日 アピシット・タイ首相,8月初旬の来訪を延期。
20日 エア・アジア,クアラルンプール=ヤンゴン便を就航。
21日 当局,『ボイス』を2週間の発禁処分(報道日)。
21日 アメリカのクリントン国務長官,北朝鮮とミャンマーの軍事協力に懸念。
25日 タンシュエ議長,インド訪問(~29日)。
27日 アメリカのオバマ大統領,対ミャンマー制裁法を1年延長。
29日 朴義春北朝鮮外相,来訪(~8月1日)。
30日 ミャンマー・ガス石油公社,タイ国営石油エクスプロレーション・アンド・プロダクションとM9鉱区の天然ガス売買契約を締結。生産開始は2013年を予定。
  8月
5日 カレン民族同盟(KNU),イェーミン中将が乗る軍用車列を攻撃。
12日 アジア・グリーン・ディベロップメント銀行,ネーピードー支店を開設。
13日 UEC,総選挙を11月7日に実施すると発表。
13日 韓国外換銀行,ミャンマー向けドル送金サービスを停止。
16日 UEC,立候補受付開始。
16日 アメリカ政府,イギリス・バークレイズ銀行のニューヨーク支店に対し制裁法違反で罰金。ミャンマー等との金融取引が違反行為。
18日 民主カレン仏教徒軍(DKBA)の本隊,国境警備隊に編入。
20日 駐ミャンマー日本大使に斉藤隆氏。
24日 スーチー氏,支持政党なければ有権者は棄権すべきと発言。
25日 キンマウンスエーNDF中央執行委員,総選挙への立候補を断念。
27日 シュエマン三軍統合参謀長,ティンアウンミンウー兵站局長ら国軍幹部,退役と報じられる。
29日 中国の駆逐艦2隻,ヤンゴンのティラワ港に寄港。
30日 UEC,立候補受付終了。
  9月
1日 カチン独立機構(KIO),国軍国境警備隊への編入の要請を拒否。
1日 政府,現地取得ビザの発給を停止。
6日 UEC,立候補者に対する資格審査(~10日)。
6日 アウンゾー・イラワジ・パブリッシング編集長,クラウス王子賞(ジャーナリズム部門)を受賞と報じられる。
7日 タンシュエ議長,中国訪問(~11日)。
13日 ミッチーナ=バモー間の鉄道建設,開始。
14日 UEC,NLDを含む5政党の解党を発表。
14日 UEC,37政党が11月7日の総選挙への参加資格を得たと発表。
14日 UEC,政党の政見放送をテレビ・ラジオで15分ずつ認めると発表。
16日 UEC,5州の一部選挙区で選挙を実施しないと発表。
20日 UEC,有権者名簿の発表を開始。
24日 UEC,スーチー氏を有権者名簿に追加。
24日 国営テレビでの政党の政見放送,開始。
27日 UEC,政党登録が認められなかったカチン州進歩党(KSPP)の党員14人の無所属での立候補申請を却下と報じられる。
28日 ニャンウィン外相,国連総会で総選挙は包括的と演説。
28日 タイのミャンマー難民18人,日本に移住するために来日。
  10月
1日 タンシュエ議長,ラオス訪問(~3日)。
11日 アピシット・タイ首相,来訪。
12日 スーチー氏,総選挙で投票しない意向を表明。
13日 タイのミャンマー難民9人,日本に移住するために来日。
15日 国営紙,カチン独立機構の軍事部門であるカチン独立軍(KIA)を,反政府組織と呼称。
18日 UEC,記者会見。国際選挙団,外国人ジャーナリストを受け入れないと表明。
18日 チャウピューと中国雲南省を結ぶ鉄道,着工(報道日)。
19日 タイ政府,メーソットの第2友好橋建設計画を承認。
20日 キンタナ国連特別報告官(ミャンマー担当),国連総会第3委員会(人権)で演説。ミャンマー総選挙に深刻な欠陥と指摘。
21日 国旗法,国章法,国歌法,施行。政府機関で新国旗を掲揚。
22日 サイクロン「ギリ」,ヤカイン州を直撃。少なくとも45人が死亡・行方不明,26万人以上が被災。
24日 パコックで石油パイプラインの爆発事故。少なくとも14人死亡。
26日 NLDの元党員,ヤンゴン市内で選挙ボイコットを呼びかけるビラを配布。
27日 ニャンウィン外相,ASEAN外相非公式夕食会で,スーチー氏の解放は11月のいずれかの時期と発言。
27日 USDP,結党以来初の記者会見。
27日 モン・ピース・グループ,投降。
28日 テインセイン首相,ハノイでASEAN首脳会議に参加。
29日 最高裁,スーチー氏が求めた再審理の法廷を開催。スーチー氏は無罪を主張。
  11月
4日 イタリアンタイ・デベロップメント,ミャンマー政府とダウェイの深海港建設について契約したと発表。
7日 総選挙,実施。
7日 日本の山路APF通信社代表,不法入国で拘束。9日に解放。
8日 DKBAの第5旅団,ミャワディの政府機関を襲撃。約2万人の住民がタイへ避難。
11日 最高裁,スーチー氏の無罪を求める再審請求を棄却。判決が確定。
13日 スーチー氏,7年半ぶりに自宅軟禁から解放。
15日 ベトナム航空,ホーチミン=ヤンゴン便を就航。
17日 スーチー氏,HIV感染者の療養施設を慰問。
17日 テインセイン首相,プノンペンで開催されたイラワジ・チャオプラヤ・メコン経済協力戦略(ACMECS)首脳会議に出席。
18日 UEC,国営紙を通じての総選挙の当選者の発表を終了(8日,11~18日付)。
18日 国連総会第3委員会(人権),対ミャンマー非難決議を採択。
22日 政府,スーチー氏の解放報道をめぐり,9つの週刊誌を発禁処分。
22日 最高裁,NLDが解党無効を求めた訴えを却下。
23日 スーチー氏の息子のキム・エアリス氏,来訪。スーチー氏と10年ぶりに再会。
27日 ナンビア国連事務総長特別顧問,来訪(~28日)。スーチー氏と面談。
  12月
3日 EU議長国ベルギーの駐タイ大使,スーチー氏と会談。
3日 ヤンゴン・エアウェーズ,運航停止。
6日 映画でスーチー氏役を演ずるミッシェル・ヨー氏,スーチー氏と面談。
7日 アメリカのユン国務次官補代理,来訪(~10日)。9日にニャンウィン外相,10日にスーチー氏と会談。
8日 UEC,国営紙に選挙結果の詳細を発表。投票率は約77%。
10日 斉藤隆志日本大使ら,スーチー氏と会談。
15日 イェーユワ水力発電所,4つ目の発電機を稼働。
21日 USDP,全国大会(~23日)。
23日 タンシュエ議長の娘婿,駐中国大使に任命と報じられる。
29日 ネーピードー=マンダレー間高速道路(241キロメートル),開通。
30日 スーチー氏,NDF幹部のキンマウンスエー氏らと面談。

参考資料 ミャンマー 2010年
①  国家機構図(2010年12月末現在)
②  国家平和発展評議会(SPDC:State Peace and Development Council)
③  閣僚名簿

主要統計 ミャンマー 2010年
1  基礎統計
2  産業別国内総生産(実質)
3  国家財政
4  国際収支
5  国別貿易
6  品目別貿易
 
© 2011 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
feedback
Top