アジア動向年報
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各国・地域の動向
2010年のスリランカ マヒンダ・ラージャパクセ大統領2期目始動
荒井 悦代
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2011 年 2011 巻 p. 501-524

詳細

2010年のスリランカ マヒンダ・ラージャパクセ大統領2期目始動

概況

スリランカでは2009年5月に25年以上におよぶ内戦が終了し,分断された社会の復興や経済の発展に向けて国力が集中できると期待が高まっていた。しかし,その期待も空しく,現大統領と内戦の終結に多大な貢献をした陸軍司令官の対立という,国内の政治的混乱が発生した。マヒンダ・ラージャパクセ大統領は任期満了を前に大統領選挙を実施し(1月),サラット・フォンセーカ元陸軍司令官に勝利し2期目の任期が始まった。任期満了で実施された国会議員選挙(4月)でも与党統一人民自由連合(UPFA)が圧勝した。さらに,野党議員の党籍替えがあり,与党側は憲法改正に必要な国会議員の3分の2を確保した。それにより第18次憲法改正が行われ,大統領の3選禁止が廃止された(9月)。

戦後の復興に関しては,コロンボ市内では検問所が撤廃され,道路の閉鎖も解除されつつある。国内避難民(IDP)の帰還はスリランカ政府が当初予定していたスケジュールよりも遅れたものの,12月にはほとんどのキャンプが閉鎖された。北部における住宅建設や道路建設も進行している。

経済面では,懸案であった一般特恵関税優遇制度(GSPプラス)の適用は廃止された。しかし,2010年の時点では衣類輸出が大きく落ち込むことはなく,依然輸出を牽引している。輸出は衣類・農作物を中心に対前年比15.4%増を記録している。一方,輸入も増加傾向にあり貿易赤字は大きい。しかし,海外送金が安定的であるため,経常収支に貢献している。インフレ率は後半やや加速傾向にあったものの1桁台を維持している。GDPは8.0%程度の成長が期待できる。

外交面では内戦末期の人権問題を重要視する欧米諸国との対立が継続する一方,インフラ・プロジェクトに関わる中国の存在感が高まった。中国を意識しているのか,インドもスリランカへの関与を深めるようになった。非欧米寄り外交を強調するように,大統領の欧米諸国以外への外遊も目立った。

国内政治

大統領選挙

大統領選挙は,任期を2年あまり残して大統領選に打って出た現職のマヒンダ・ラージャパクセと元陸軍司令官サラット・フォンセーカの一騎打ちとなった。統一国民党(UNP)と民族解放戦線(JVP)がフォンセーカを支持し,野党の共同候補者として出馬することになった。

2009年12月17日には候補者登録が済み,2010年1月26日の投票に向けて翌日から本格的な選挙活動が始まった。実際はその前から町中にポスターや看板が目立ちはじめ,大きな交差点は青や緑のテープで飾り立てられていた(青はUPFA,緑はUNPのシンボルカラー)。フォンセーカは,大統領選挙立候補者としての記者会見で,強大な権力を有する現行の執行大統領制の廃止,第13次憲法改正(地方への権限委譲を規定)の実施,第17次憲法改正(政治的透明性・独立性の実現を規定)の実施,汚職の撤廃を訴えた。1月7日に正式に発表された10項目のマニフェスト「信用できる変化」には民主主義の再構築と平和の獲得,汚職根絶といったすでに明らかにされた内容のほか,経済の安定,物価の安定,国民融和,社会福祉,女性のエンパワーメント,青年層への職の確保などがうたわれた。この他,多すぎる内閣ポストの削減,報道規制法の廃止,全政党会議の招集,暫定内閣の設立後の国会解散,非常事態宣言の見直し,報道規制法の廃止など,現政権の抑圧的な政治体制からの解放を訴えた。経済面では公務員の給与月当たり1万ルピーの引き上げを打ち出した。野党連合が新党を結成するかと期待されたが,それはなく,政党のシンボルが「白鳥」と発表されたにとどまった。

現職のラージャパクセは選挙戦も残すところ2週間余りとなった1月11日にようやく選挙公約を発表した。2005年選挙の公約である「マヒンダ・チンタナ」(マヒンダのビジョン)の続編ともいえる,「より明るい未来」である。内容ではスリランカをアジア地域と世界における交通・商業・知識のハブにすると主張し,フォンセーカの公約にはない世界への目や外交上の配慮を示した。また,紛争後のスリランカにおける民族問題の解決にも焦点が当てられた。1期目の任期中に達成した紛争の終結やインフラ整備を前面に出した。経済的にはサムルディ計画(貧困層救援策)補助金の最低額を1000ルピーへ引き上げ,低所得者の電気代の月額30%削減,電化していない家庭への灯油月当たり5リットル支給,障害を持つ兵士らへの終身給与支払い,65歳以上に対する年金支給,など社会的弱者への福祉的な性格が強い。フォンセーカ公約の発表を待っただけあって,フォンセーカ公約で触れられなかった部分や現職の強みを活かした具体的な内容になっている。

選挙に対して影響が大きいとみられたのがタミル人の動向であった。2005年の大統領選ではタミル人票はラージャパクセの対抗馬であったUNPのラニル・ウィクレマシンハに投じられるとみられていた。しかし,タミル・イーラム解放の虎(LTTE)が北部のタミル人らに投票を差し控えるように圧力をかけたとされ,UNP側に大きな打撃となった。結果として,ラニル(470万6366票)と当選したラージャパクセ(488万7152票)との差は18万票あまりにすぎなかった。得票率もラージャパクセがようやく規定の50%以上である50.29%を獲得したにすぎない(ラニルは48.43%獲得)。今回の選挙でもシンハラ人票が拮抗し,タミル人票が選挙の勝敗を分けると予想された。したがって双方の陣営はタミル人票の取り込みに躍起になっていた。最大のタミル人政党であるタミル国民連盟(TNA)は1月上旬,ラージャパクセの2期目を受け入れがたいとの理由からフォンセーカ支持を打ち出した。大統領側からの猛烈なアプローチにもかかわらずセイロン労働者会議(CWC)などのプランテーション系のタミル人もフォンセーカ支持を決めた。

選挙違反・暴力と選挙管理委員会の苦悩

今回の大統領選挙では,夜間に暴徒がやってきて選挙事務所を荒らす,看板を壊すなどのいやがらせが報告されていたが,2005年の大統領選挙より選挙違反・暴力の発生件数は少なく,深刻な事態には至っていなかった。しかし1月に入ってから被害者が多数生じる事件が起きはじめ,1月3日にはコロンボ郊外のキリバットゴダで双方の支持者らが衝突し,警察が出動し鎮圧のために催涙ガスが用いられた。4日にはナーワラピティヤでも衝突があり,19人が負傷した。そして1月12日,ハンバントタ県でフォンセーカ支持者らを乗せたバスにバイクから発砲があり,女性支持者が1人死亡し,数人が負傷した。これが今回の大統領選挙中初めての死者となった。死亡したのは,村に住む一般の女性だったため暴挙への非難が高まり,暴力はエスカレートしていった。その後も北西部州で死傷者が発生する事件が起こった。最終的に選挙違反・暴力は900件に達した。

選挙管理委員会は第17次憲法改正の規定によって設立された独立機関である。しかし,これまで規定されているような公正な選挙に導くことはできなかった。今回の大統領選挙でもそれが顕著であった。選挙管理委員会は規定を遵守させようと努力しているが,警察や各種機関が要請に従わないようである。たとえば,国営の報道機関は現職のラージャパクセ寄りの報道に偏っており,委員会がルーパバヒニ(国営テレビ)およびスリランカ放送局(ラジオ)に対して,フォンセーカ側に時間を与えるように指示したが効果はなかった。また最高裁も国営報道機関に対して警告を発したが,要請は無視された。

選挙管理委員会は警察にも選挙法遵守のための協力を訴え続けたものの,それが得られなかった。業を煮やした委員長はこれ以上警察に要請しないと語った。それだけでなく,各政党にこれ以上苦情を持ち込まないよう要請し,看板やポスターを規制する大統領選挙法74条を廃止することを勧告した。大統領選挙法では,国家の資産を選挙活動に用いないことも規定されている。しかし,委員会の度重なる指摘にもかかわらず,使用が止むことはなかった。

選挙結果

選挙当日,ジャフナとヴァヴニヤで爆発事件が発生し,投票率は芳しくなかった。内戦終結後初の選挙にもかかわらず,北部における国内避難民(IDP)らの関心は低く,選挙人登録および投票は低調だった。全体の投票率は74.5%とスリランカの選挙としては低い水準であった。

投票日には各地に警察や選挙監視団が派遣された。民間の選挙監視NGOなどによれば,当初,投票は平穏な状況で開始されたが,投票当日になってフォンセーカの名前が有権者リストになく投票できないと判明した。国営メディアは,フォンセーカ候補者について国を任せられるのかと批判した。選挙管理委員長は投票時間の締めきり間際に急遽会見を開き,有権者リストに名前があるか否かは立候補者としての正当性を阻害するものではないと発表した。

1月27日午後5時,終戦の時と同じように爆竹が鳴り響いた。結果は,ラージャパクセ601万5934票(57.88%),フォンセーカ417万3185票(40.15%)で,ラージャパクセの勝利であった。全22県のうちフォンセーカが半分以上の投票を得られたのはヌワラエリアのほか,ジャフナ,ヴァヴニヤ,トリンコマリー,バティカロア,ディガマドゥッラの北・東部州などタミル人口の多い6県にとどまり,残りの16県ではラージャパクセの勝利だった(表1参照)。

2005年の大統領選挙ではラニルとラージャパクセはほぼ互角だった。今回はUNPとJVPがフォンセーカを支持し,TNAもそれに加わった。さらにフォンセーカは都市部の住民やインテリ層の支持を取り付けていた。そのため,事前の予想では接戦が予想されていた。しかし,結果的にフォンセーカはコロンボ中心部やキャンディ市など都市部で過半数を獲得できたものの,農村部での支持は低く,自身の出身地アンバランゴダでも過半数を得ることができなかった。

フォンセーカの敗因,あるいはラージャパクセの勝因は何だったのか。第1に有利になると見込まれたTNAとの協力関係はシンハラ人にとって「TNAとの間に権限委譲に関する合意があるのではないか」という疑念を抱かせたようだ。この問題を問い詰める高僧に対して,フォンセーカは「TNAとは,いかなる合意も締結していない」と主張した。サンバンダンTNA議長らもあらゆる機会に合意の締結を否定したが,北・東部への過度な権限委譲を連想させるような動きは,フォンセーカに不利に働いた模様である。

第2は,野党連合の性格の違いにある。UNPはどちらかというと北・東部タミル人への権限委譲を主張する。一方で,JVPは権限委譲について否定的でシンハラ至上主義的である。経済政策においても,UNPの市場主義的な経済理念とJVPの内向きな経済政策は方向性が異なる。両党は強い権限を持った執行大統領制度を廃止し,議会制民主主義への復活を目指すという点と汚職追放に関して一致していただけである。伝統的なUNP支持者やJVP支持者にとって,かつて激しい対立関係にあった政党と組むことに抵抗があったかもしれない。また,フォンセーカを支持する人々は,LTTEを壊滅に導いた彼のカリスマ的な指導力にこの国の政治の変革を期待したに違いない。フォンセーカには清廉なイメージもあった。しかし懸念はやはり,UNPとJVPという相反する政党に担ぎ出されているという点にあった。さらにフォンセーカ自身,政治経験がなかった。軍隊ならば司令官であるフォンセーカの発言・命令は絶対であっただろうが,政党運営と軍隊指揮・作戦は勝手が違う。とくに今回のLTTE殲滅に関しては大統領や国防次官など事務方などからも絶大な支持があった。しかし,政治の世界では調整が必要となる。たとえフォンセーカがラージャパクセを破ったとしても,その後どのような政権運営が可能なのか,全く先がみえない状況にあった。

足並みがそろわない野党連合や支持者の戸惑いを尻目にラージャパクセ側は,紛争の終結という大きな成果とこれまでの任期中に整備した道路,建設中の港湾施設や発電施設など具体的に目に見えるものを持ち合わせていた。とくに道路は2004年12月のインド洋津波後の南部,解放後の東部における開発がめざましい。

大敗について野党側は,選挙管理委員長が投票終了直後から実質的に軟禁状態にあったことなどを理由に,集計作業に問題があったと最高裁に提訴している。

表1  2010年1月大統領選挙,4月総選挙県別結果

(注) 大統領選でフォンセーカが多数を占めた県を網掛けした。UPFA=United Peoples' Freedom Alliance,UNP=United National Party,DNA=Democratic National Alliance,ITAK=Ilankai Tamil Arasu Kadchi。全国議席数のカッコ内はそれぞれ選挙区と比例区当選議員数。

(出所) http://www.slelections.gov.lk/。

国会総選挙

大統領選挙でみられた野党の共闘は総選挙ではあっけなく瓦解した。UNPは大統領選挙で従来のシンボルを変えたことへの反省から,2月の国会解散前に早々にシンボルを「象」に戻すと発表した。JVP側は総選挙でもUNPとの共闘にこだわったが,結局別行動を取ることになった。後述するように,フォンセーカは国会解散前に逮捕されていたが,JVPはフォンセーカをリーダーとして民主国民連盟(DNA)なる政党を設立しシンボルは「トロフィー」に定めた。

1月の大統領選が意外な大差で終結したため,4月の総選挙でも与党が有利と見込まれた。そのため,UNPの士気は下がり気味な一方で,UPFA内部では選好票(Preferential Vote:PV)をめぐる対立が深刻化していた。スリランカの国会議員選挙では有権者はまず政党を選択し,その選挙区内の立候補者に3位まで選好順位を付ける。このPV投票を求めての党内での争いがあまりに激しく暴力沙汰も発生したので,大統領はPV得票数によって大臣ポストを割り振るわけではないと宣言しなければならなかった。

投票は4月8日に行われたが,投票日にはナーワラピティヤ選挙区とトリンコマリー選挙区で衝突および投票用紙の盗難があり,投票が無効にされた。全体の投票率は61.3%とスリランカにしては低かった。4月20日にこれら2選挙区で再投票が行われた後の最終結果はUPFAの大勝に終わった。UPFAは前回議席数を39増やし,225議席中144議席を獲得した。UNPは22議席減らし60議席,TNAは22議席から14議席になった。なおDNAは7議席にとどまった。

野党勢力が議席数を減らした理由のひとつには,大統領選挙でのUPFAの大勝があったが,そのほかに要因を探るとすれば,以下の点があげられる。UNPは幹部層と中堅層の間での調整に失敗した。DNAの母体であるJVPは2004年の総選挙での39議席から7議席に減らしている。支持基盤とされていた南部のハンバントタ,マータラでもアヌラーダプラ,ポロンナルワなどの農村部でも票を伸ばせなかった。その一方で議席を獲得できたのはコロンボ,ガンパハ,カルタラ,ゴールなど,中間層の住む都市部であった。これはJVPが支持されたのではなく,フォンセーカが支持されたとみなすべきだろう。タミル人政党は,政府寄りと政府から距離を置く政党間の協力関係が築けず,獲得議席数を減らしてしまった。

野党勢力が大幅に票を減らした一方で,大勝したUPFA内でも浮き沈みがみられた。今回の選挙では現役のボーゴラガマ外務大臣やミリンダ・モラゴダ法務・土地改革大臣などの主要閣僚やベテラン議員が落選した。それに対して,ラージャパクセ一族の台頭は著しかった。兄チャマルは国会議長に就任し,弟バジルは経済開発大臣の要職にあり,息子ナマルが新人として最年少で初当選した。大統領のもう1人の弟のゴーターベは国会議員ではないが,国防事務次官の重要ポストに就いている。

総選挙後,UNPではラニル・ウィクレマシンハ総裁の指導体制に関する議論が巻き起こった。また古参の幹部らに対して若手で故ラナシンハ・プレマダーサ大統領の息子のサジット・プレマダーサらが幹部選出方法をめぐり対立した。

フォンセーカ逮捕と軍事裁判,収監

フォンセーカは,1月の大統領選挙中から自身の身の安全について危惧を表明していた。政府によるフォンセーカ排除の動きは選挙直後から始まった。投票終了後,フォンセーカとその側近および警護員はコロンボ中心部のシナモン・レイクホテルにチェックインした。その理由は,選挙で彼が勝利した場合,自身が軍から命を狙われるため,安全のためにホテルにチェックインしたというものである。しかし,その数時間後には政府軍がホテル周辺の道路を閉鎖し,物々しい雰囲気に包まれた。フォンセーカとともにいた多数の退役兵や脱走兵が1カ所に終結したため警戒している,と政府は説明した。結局,警護の数人が脱走兵として逮捕されたものの,フォンセーカ自身は1月27日夜帰宅した。28日,国家安全保障センターはフォンセーカらが大統領とその家族の暗殺計画を実施するためにホテルに集結していたとの見解を明らかにした。そして,29日には犯罪捜査局(CDI)と特別タスクフォース(STF)150人がフォンセーカの事務所を5時間にわたり捜索した。この捜査の結果,大統領とその親族の暗殺計画および政府転覆計画の証拠が発見された,という。出入国管理局にはフォンセーカとフォンセーカの義理の息子および側近の退役軍人らの出国を許可しないよう軍から要請され,国際空港における空軍の警備も強化された。

さらに,軍の人事配置替えが行われ,フォンセーカに近い人々が異動させられ,また3人の陸軍少将は強制的に退役させられた。フォンセーカ事務所捜索後,軍関係者23人が逮捕された。このような軍人に対する処分は,1962年にシリマボ・バンダラナイケ首相を失墜させようと将校らが画策したとされる事件の際に行われて以来だった。しかし,当時は入念な調査や十分な申立て期間が与えられていた。今回はそれもなく,一方的な処分となった。

そして事務所の捜査後の2月8日,フォンセーカ自身も事務所で打ち合わせ中に逮捕され,2つの軍事裁判にかけられることになった。ひとつは,軍在籍中に政治活動を行ったというもの,もうひとつは軍の物資調達に親族が経営する会社を介入させ不当な利益を得たというものである。

軍事裁判の結果,フォンセーカには有罪判決が下され,9月にはヴェリカンダ刑務所に収監された。刑期は2年半(30カ月)である。

このほか,いわゆる白旗裁判も継続中である。この裁判とは,2009年12月13日の英字日曜紙『サンデー・リーダー』のインタビュー記事で,内戦の最終段階で国防次官で大統領の実弟のゴーターベ・ラージャパクセから,投降してきたLTTE幹部とその家族を殺害するよう命じられた,とフォンセーカが爆弾発言をしたものである。これをめぐっても審理が継続している。

内戦終結の立役者としてのフォンセーカがこのように扱われることに対し,野党を中心に各地でデモや抗議行動が多発した。大統領選出馬や政策に疑念を抱いていた僧侶らも,このような扱いに対しては抗議の意志を隠さなかった。しかし,抗議活動はUNPとJVPに分離してしまい,効果は限定的であった。

改憲,大統領2期目就任と内閣改造――権限の強化を着々と進める

スリランカの大統領の任期は6年である。しかし,4年を過ぎれば再選挙ができる。ラージャパクセはこれを援用して2年前倒しで大統領選挙を実施した。2期目の任期は通常ならば選挙後,しかるべき時期に2期目の宣言をしてから6年である。そしてしかるべき時期とは,投票から数日から長くても数カ月以内が妥当である。しかし,ラージャパクセは最高裁判所に2期目の任期の開始を選挙から10カ月以上経過した2010年11月ではないか,との意見を求めた。憲法には1期目の任期満了以前に選挙を行った場合,選挙の年あるいはその次の年に就任の宣言をするとある。チャンドリカ・バンダラナイケ・クマラトゥンガ前大統領も同様の申立てを最高裁に行ったが,認められなかった。ところが今回,2期目の開始は2010年11月19日であると最高裁は判断を下した。

また,大統領の権限強化を目的とした第18次憲法改正も行われた。憲法改正については,上院の開設などが検討されていると報道されていた。ところが実際に行われたのは,大統領の3選禁止の撤廃と第17次憲法改正内容の変更だった。その理由は3選禁止があると長期的な視点に立った開発計画ができないというものであった。第17次憲法改正には各種の専門委員会に機能を委譲し,政治的な介入をなくそうという意図があった。それが今回の改憲では,大統領が任命する評議委員会に取って代わられる。第17次憲法改正によって選挙管理委員会や警察委員会が設立されていた。これまで期待ほどの機能を果たしてきたとは言い難いが,少なくとも名目上は政治的干渉からは離れた存在とされていた。また第18次憲法改正のプロセスも問題視されている。この改正案は緊急法案として提出され,閣議での議論や最高裁での審議および国会での議論は最低限の日数しかとらなかった。

大統領の2期目の就任宣言後,内閣改造が行われた。4月の総選挙後に改造したばかりであったので,主要な閣僚の変化はなかった。変化した点は大臣数の増加と上級大臣の創設であった。上級大臣の機能は各省の調整とされるが,オフィスや待遇が格段に通常の大臣より劣る。上級大臣に任命された大臣らは体のいい引退勧告であると不満を述べた。4月の総選挙ではボーゴラガマ外務大臣やミリンダ・モラゴダ法務・土地改革大臣ら有力閣僚が落選しており,党内で若手が育たない限り権力が大統領および大統領一族に集中する懸念がある。

「過去の教訓・和解委員会」と人権をめぐる対立

2010年1月7日,国連は2009年8月にイギリスのチャンネル4で放送された,スリランカ軍兵士がLTTE捕虜らを殺害する様子を写したビデオは,合成などによるものでないと判断して,さらなる調査が必要であると宣言した。

そして3月に潘基文国連事務総長がラージャパクセ大統領との電話会談で,内戦の最終段階における人権侵害に関する調査パネルを設置したいと伝えてきた。この提案に対し,非同盟諸国事務局やロシアなどは反対を表明した。スリランカでも当然これに反発し,新たに「過去の教訓・和解委員会」(LLRC)を設立すると発表し,国内に調査委員会があることを理由に国連の動きを牽制した。国内では7月にウイマル・ウィーラワンサ大臣主導のデモ隊がコロンボ中心部にある国連施設が入居している建物周辺を包囲した。このデモにより国連職員らが一時軟禁状態に置かれた。ウィーラワンサ大臣は翌日からハンストを開始した。この際,政府はデモ隊を積極的に排除することはなく,大統領はハンスト中のウィーラワンサ大臣を見舞いに訪れており,暗に国連への抗議の姿勢をみせていた。そのため潘基文国連事務総長は,国連大使らを召還して意見を聞かざるをえなかった。しかしスリランカ側の反対にもかかわらず,国連では9月には調査委員会を正式に発足させた。これに対してスリランカ政府は激しく反発し,委員らに対してビザの発行を行わないと宣言した。

前述したLLRCは5月15日正式に発足した。同委員会は元検事総長を委員長として2002年2月21日から2009年5月19日までの期間中に起きたことに関して調査を行い,大統領に結果を報告することとされている。2002年2月はスリランカ政府とLTTEが停戦協定を結んだ時期であり,停戦協定がなぜ崩壊したかを探るためである。また2009年は大統領が内戦の終結を宣言した時期である。LLRCはコロンボでヒアリングなどを行っていたが,ヴァヴニヤやトリンコマリーなど北部にも赴き,一般のタミル人などからも聴取を行っている。LLRC委員の本来の任期は11月までだったが,多くの関係者からヒアリングを行いたいとして半年間の延長が認められた。内戦に関わったさまざまな人々が証言しており興味深いが,報告書がどのように活かされるのか,期間中になされた不正行為などに何らかの処置がなされるのかは今のところ不明である。

経済

GDP成長率は,2009年が3.5%であったのに対して2010年は8.0%程度を見込めそうである。貢献度のもっとも高いサービス業,とくに観光や輸出・運輸および金融分野で高い成長率を実現したためである。工業分野では製造業,電気・ガス,建設分野での成長が著しい。国内民間部門への信用供与も増大し,経済活動に拍車がかかった。海外直接投資は前半は振るわなかったものの,政府主導の大規模公共工事が投資を牽引しそうである。2009年末が5.8%であった失業率は2010年には4.9%へと改善傾向にあり,内戦後のスリランカの経済は遅ればせながら順調な回復をみせている。

農産物生産は,天候に恵まれたこと,復興しつつある北・東部において耕地が拡大していることにより,好調であった。コメはマハ期(10~1月)が238万トンで前年比10.3%増で,前年に引き続き好調であった。ヤラ期(5~8月)は前年度並みの127万トンであった。前年に引き続き物価上昇率も1桁を維持している。これを受けて,中央銀行は7月と8月に金融緩和措置を講じた。そのため民間へ資金が幾分流入したがまだ十分ではないようで,株式市場を求めて新規上場が目立った。時価総額も倍増するなど株式市場も活況を呈した。

外部の格付け機関(S&P,フィッチ)による格付けも引き上げられた。そのため,スリランカ国債にも注目が集まり,10億ドルを集めた。2009年7月に締結されたIMFのスタンドバイ・クレジットも条件を満たしていることが認められ,継続的に供与されていることも外部の信用を高めている。

海外からの送金も好調である。中東のほかイタリアや韓国などで働く人々からの送金だけでなく,海外居住のタミル人からの送金も一部をなしている。後者の資金は,コロンボの不動産市場を活発にさせている。

観光客数は順調に伸びている。内戦終結の影響がようやく現れはじめ,観光客数は前年比46.1%増で65万人を超えた。観光収入も64.8%増えている。このうち,最多だったのはインドからの旅行者で12万6000人であった。1983年以来中断していたコロンボやマナーからインド南部へのフェリーの運航が2011年3月を目処に再開されることになっており,観光客のさらなる増加と両国の交流が見込まれる。しかし,観光客数の順調な増加に水を差しそうなのが,スリランカ来訪者へのビザ取得が義務づけられそうなことである。スリランカ人の事前のビザ取得が免除されているモルディブとシンガポール以外の国からの来訪者は事前にビザを取得しなければならない。そのため観光業界は反発している。

懸案となっていた一般特恵関税の優遇制度(GSPプラス)については,2月に6カ月後の停止が通知された。それでもEUとスリランカ側は話し合いを続け,スリランカ側は非常事態宣言の内容の一部緩和やテロリズム防止法の変更など歩み寄る姿勢をみせた。しかし,EUは6月にさらに条件を提示し,それらに対する十分な回答が7月1日までにあれば延長もありうるとした。その条件とは第17次憲法改正の実施、非常事態宣言で逮捕された人々の釈放、テロ防止法の廃止などの政治の透明性や人権に関する15項目であった。さらなる具体的な要求を突きつけられたスリランカ側は内政干渉であると突っぱねた。その結果,7月5日にEUは,8月15日から正式にGSPプラス供与を停止すると発表した。

繊維輸出業界(JAAF)の分析では,衣類輸出の半分はEU向けで,そのうち3分の2がGSPプラスを利用していたことから影響を受けざるをえないが壊滅的ではないとのことである。すでに業界ではGSPプラスがなくなることを見越して取引が行われていた模様である。2010年の衣類輸出については,対前年比7.0%増であった。

しかし,陶器などのヨーロッパへの輸出は困難になりつつある。加えて陶器の原材料であるカオリンの輸出元であるインドが輸出に規制をかけはじめている。電気料金も上昇傾向にあることから,GSPプラスの撤廃によってスリランカの陶器産業は打撃を受けている。

対外関係

競合する中国とインド

7月末,コロンボで開催された国際会議でアムヌガマ財政・計画副大臣(当時)は,「もはや西欧や国際機関からの微々たる援助に頼る必要はない」と発言した。大臣の発言を促した背景には,南部における中国のインフラ建設,北部におけるインドの復興支援とインフラ建設支援があった。

南部では,中国の建設によるハンバントタ港が11月18日に開港した。ハンバントタはスリランカ南端に位置し,コロンボから遠いこともあり開発が遅れていた。過去にコロンボ港の混雑緩和や地方振興のためにもハンバントタ港の必要性が主張されることはあったものの,実現していなかった。それが現実となったのは,南アジアおよびアフリカへの進出をもくろむ中国にとってハンバントタがインド洋上の交通の要所となりうること,かつ大統領の地元であり,開発のインセンティブが高まったことなど,両者の利害が一致したためとみられる。

北西部沿岸に位置するノロッチョライ火力(石炭)発電所の建設も中国が行っている。この建設によって水力発電に依存していたスリランカの発電は降水量に依存することなく安定的にまかなえるようになると予測されている。中国はハンバントタ港とノロッチョライ火力発電所に2009年にそれぞれ1億5300万ドル,1億2390万ドルを供与している。2010年の対スリランカ援助額は9816万ドルと前年を下回ったが,スリランカにとって日本と同様もっとも大きな援助国となった。また,10月末から11月にかけて大統領と主要閣僚が訪中し,温家宝首相と会談している。これも2011年の予算案作成に向けて中国から援助を引き出すためとみられるなど,中国への依存は高まっている。12月,中国の民主化活動家・劉暁波のノーベル平和賞受賞に際しては,スリランカは式典への出席を見合わせている。

インドはスリランカにおける中国の台頭に警戒を示している。インドにとってスリランカは裏庭の感覚であり,縄張りを荒らされているように感じている。インド海軍幹部はハンバントタ港建設について懸念を表明したが,在スリランカ中国大使館は商業目的であることを強調した。11月,インド外務大臣が来訪し,ジャフナとハンバントタの両インド領事館の開設式に出席した。インド・タミル帰還事務を取り扱うためにキャンディにはすでに領事館は存在したので,これでスリランカには大使館のほかに領事館が3箇所となった。北部でのプロジェクトが多いインドにとってジャフナでの領事館開設は必要性が高い。しかし南部ではインドによるプロジェクトは少なく,在留インド人も少ない。そのためハンバントタにおける領事館開設は中国への対抗以外に説明がつかないといえる。

インドの存在感は北部で大きい。2009年5月の時点で内戦によって生じた国内避難民(IDP)は30万人とされていたが,インドはIDPの帰還に向けて5万戸の住宅建設を約束している。北部の鉄道建設・修復,カンケンサントゥライ(KKS)港およびパライ空港の補修,1990年以来操業を停止していたアッチュヴェリ工業地帯の再興(スリランカ政府との共同事業)などの大規模なものから内戦犠牲者への義足提供,ジャフナの競技場や文化ホールの修復にいたるまで関与を広げている。

欧米諸国や国連から人権をめぐる疑念を提示されているがゆえにそれらと距離を置き,インドや中国など関係を強化しているとみられる。その一方,スリランカは欧米諸国対策としてイギリスの広告会社と契約を結び,イメージアップ戦略も同時に行っている。

2011年の課題

3月に地方選挙が予定されている。UNPは組織の立て直しを図って草の根運動を展開しているが,UPFAも同様に地方での活動を活発化させている。UPFAは国会における議席も安定しており,しばらくはラージャパクセ大統領を中心としたUPFA支配が中央でも地方でも続くであろう。

政府は,北部および南部のインフラ開発を急ピッチで進めている。しかしインフラ開発の経済への効果は即効性のあるものではない。政府は物価上昇や雇用問題などに細心の注意を払っている。

2010年末からスリランカは豪雨に見舞われ,各地で洪水や山崩れが発生している。東部も例外ではなく,内戦終結で活発になった農業が打撃を受け,その結果農作物を中心に物価水準の上昇が懸念されている。さらに洪水により,未処理の地雷が移動したのではないかとの懸念もある。

中国やインドとの関係はさらに強まってゆくだろう。中国は地方のインフラだけではなく,コロンボ中心部の施設建設にも乗り出している。フェリーの就航により,インドとの関係も強化される見込みだ。経済的な関係が注目されるなかで,北部の内戦終結によりインド,スリランカそれぞれの漁民をめぐる問題の報告も目立ちはじめた。スリランカにはこれまでより緻密な外交政策が求められる。

(地域研究センター)

重要日誌 スリランカ 2010年
  1月
3日 キリバットゴダで大統領選支持者同士が衝突。警察が催涙ガスを使用して鎮圧。
4日 ナーワラピティヤで支持者同士が衝突。19人が負傷。
6日 タミル国民連盟(TNA)のサンバンダン議長,フォンセーカ支持を表明。
7日 フォンセーカ元陸軍司令官,10項目からなる大統領選挙マニフェスト「信用できる変化」を発表。
7日 フィリップ・アルストン国連職員,2009年8月にイギリスのテレビ局が放送した,スリランカ軍によるタミル・イーラム解放の虎(LTTE)兵士処刑の映像は本物であると宣言し,独立調査の必要性を主張。
8日 セラサミー郵政・通信副大臣(当時)らセイロン労働者会議(CWC)議員ら,フォンセーカ支持を表明。
10日 マヒンダ・ラージャパクセ大統領,ジャフナを初訪問。
11日 ラージャパクセ,14項目からなる選挙マニフェスト「より明るい未来」発表。
11日 コロンボ中心部のゴールロードでバスの運行再開。
12日 ハンバントタ県でフォンセーカ支持者らがバスで移動中に撃たれ,1人死亡。
15日 中央銀行,2009年11月に発行された1000ルピーの新札にセキュリティ上の問題はないと発表。
26日 大統領選挙投票日。
27日 コロンボのホテルでフォンセーカ軟禁騒動。
27日 ラージャパクセ勝利確定。
28日 国家安全保障センター,フォンセーカらが大統領暗殺・国家転覆を謀ったと主張。
29日 犯罪捜査局(CID),フォンセーカ事務所を調査。
  2月
2日 最高裁,大統領の2期目は2010年11月19日からと発表。
4日 キャンディで独立記念式典開催。
5日 大統領,ロシア訪問。
8日 フォンセーカ,逮捕される。軍在籍中の行為について軍事法廷で裁かれる予定。
9日 大統領,国会を解散。
10日 最高裁前でフォンセーカ逮捕に抗議する集団が暴徒化。投石騒ぎ。警察は催涙ガスを使用。ゴール,マータラ,アヌラーダプラなどでも集会開催。
10日 潘基文国連事務総長,大統領と電話会談。フォンセーカ逮捕に関して総長が危惧を表明。
12日 コロンボ・フォート地区ワールド・トレード・センター付近の検問所廃止。
15日 EU閣僚理事会,一般特恵関税優遇制度(GSPプラス)の一時停止を正式に決定。6カ月後に発効。スリランカへの通知は16日。
15日 フォンセーカの義理の息子に逮捕令状。
18日 人民解放戦線(JVP),フォンセーカをリーダーとして民主国民連盟(DNA)なる政党で次期国会議員選挙を戦うと発表。シンボルはトロフィー。
24日 ボーゴラガマ外務大臣(当時),ミリバンド・イギリス外務大臣のグローバル・タミル・フォーラム(GTF)への出席表明に抗議。
25日 ミリバンド・イギリス外務大臣,GTFで演説。
  3月
1日 首相,NGO法の改正を Daily Mirror 紙で発言。
4日 ピレイ国連人権高等弁務官(UNHCHR),内戦中に政府およびLTTEが行った重大な違反行為についてスリランカは責任を取るべきと発言。
5日 大統領,潘基文国連事務総長と電話会談。潘総長,戦闘の最終段階における人権侵害について調査パネルを設置する旨を伝達。
6日 インドのニルパマ・ラオ外務次官来訪(~8日)。
7日 フォンセーカ,抗議の断食を開始したとアノマ夫人が発言。
9日 潘国連事務総長,政治的和解・国内避難民(IDP)再定住の進展の欠如に懸念表明。
11日 ヒューマン・ライツ・ウオッチ,アムネスティがスリランカに対し共同声明。メディア抑圧をやめるよう警告。
11日 アメリカ国務省,人権報告書でスリランカを批判。
12日 マヒンダ・サマラシンハ災害管理・人権大臣(当時),大統領が民族紛争の根源についての調査委員会を発足させたと発表。
14日 軍報道官,Daily Mirror 紙にジャフナの道路閉鎖解除と発言。
16日 フォンセーカ軍事裁判(軍在籍中の政治活動について)開始。
  4月
4日 総選挙に関連するはじめての死者がクルネーガラ県で発生。
4日 中央銀行総裁,2010年のGDP成長率を7~8%と予想。
8日 総選挙投票。
8日 選挙管理委員長,ナーワラピティヤ選挙区とトリンコマリー選挙区の投票を無効にすると発表。
19日 フォンセーカ軍事裁判(不正な武器調達に関して。~20日)。
20日 ナーワラピティヤ,トリンコマリーで再投票。
21日 総選挙最終結果発表。与党連合の統一人民自由連合(UPFA)が前回よりも33議席増やし144議席を獲得。D・M・ジャヤラトネ,首相に就任。
26日 大統領,南アジア地域協力連合(SAARC)大会出席のためブータンに出発。
27日 警察,フォート地区の商業施設の一部を不法建築物として撤去。
  5月
5日 インド,ジャフナにビザ取扱いセンター開設。
6日 内戦終結時の問題について7賢人委員会を任命すると大統領補佐官が語る。
14日 インド,LTTEの国内活動禁止を継続。
15日 大統領,イラン訪問。G15首脳会議に出席。
15日 大統領,8人からなる「過去の教訓・和解委員会」(LLRC)を任命。
17日 アメリカ・フィラデルフィアでTGTE(多国籍タミル・イーラム政府)総会開催。
20日 ゴールフェイスでの祝賀パレード,豪雨の影響で延期。
21日 来訪中のIMFチーム,スリランカの経済環境は予想以上に改善しており,2010年の経済成長は堅実だろうとの見解。
26日 アメリカ国務省,スリランカへの旅行制限を撤廃。
28日 ピーリス外務大臣,アメリカのクリントン国務長官と対談。
  6月
1日 政府,自動車および電気製品の輸入関税引き下げを発表。
7日 大統領,TNA議員団らと会談。民族問題およびIDP問題に関する共同メカニズムで合意。
8日 非常事態宣言,集会や出版の自由に関する内容を一部緩和して賛成132,反対14で1カ月間の延長可決。
8日 大統領,インド訪問(4日間)。
10日 張徳江中国副首相,来訪(3日間)。
17日 EU,GSPプラスの延長条件として15項目を提示。
18日 内戦終結1周年記念軍事パレード開催。
22日 国連,3人によるスリランカの内戦終結時の問題に関する調査パネルを任命と発表。
29日 政府,2010年予算案(下半期)を国会提出。
29日 大統領,ウクライナ訪問(~7月1日)。
  7月
5日 EU,スリランカへのGSPプラス供与を8月15日以降停止すると公式発表。
8日 ウィーラワンサ大臣ら,国連による人権問題調査パネル任命に抗議してコロンボ市の国連施設を包囲。
8日 国連,UNDP事務所閉鎖とブネ在スリランカ国連大使召還を発表。
9日 予算案可決。総支出は1兆7800億ルピー。
12日 中央銀行,政策金利の0.25%引き下げ決定。
14日 政府,かつてLTTEの本拠地だったキリノッチで閣議を開催。
21日 アメリカのブレイク国務次官補来訪。大統領らと会談。
22日 ルフナ大学の学生死亡。警察官による暴行疑惑。
26日 大統領,ピーリス外務大臣,バジル経済開発大臣訪日(~30日)。
  8月
5日 プラバ・ガネーシャンら与党に党籍替え。
13日 フォンセーカに対する軍事裁判(軍在籍中の政治活動)で有罪判決。
15日 GSPプラス期限切れ。
15日 大統領,ハンバントタ港建設の第1フェーズ終了を宣言。
20日 中央銀行,政策金利の0.5%引き下げを決定。
23日 大統領と統一国民党(UNP)会合,第18次憲法改正案を提示。
23日 バジル経済開発大臣,ゴーターベ国防次官,ウィーラトゥンガ大統領秘書官インド訪問(~26日)。
30日 インドのラオ外務次官来訪。
30日 閣議で第18次憲法改正について全会一致で承認。大統領の3選禁止の撤廃など規定。
31日 インドのラオ外務次官,ヴァヴニヤ,ジャフナ,キリノッチを訪問。
  9月
7日 首相が国会に改憲案を提出。議長,最高裁の審議は合憲であり,国民投票は不要とする旨を伝える。UNP議員は首相の演説後に退出。
8日 国会で改憲についての議論。改憲案は賛成160,反対17で承認。
9日 国防省,沿岸漁業の全面解禁を発表とともに40馬力エンジンの使用解禁。
11日 アメリカ国務省,第18次憲法改正にチェック・バランス機能が崩れると危惧表明。
15日 大統領,国連総会に向けて出発。
16日 ゴーターベ国防次官,中国と軍事協力強化で合意。
16日 潘基文国連事務総長とスリランカ問題調査パネル会合,正式に作業開始。
17日 軍事裁判,武器購入の不正についてフォンセーカに有罪を下す。
17日 バティカロア県の警察敷地内で爆発事故。25人死亡。
23日 大統領,国連総会で演説。
23日 中央銀行,民間銀行に貸出金利の引き下げ要求。
29日 IMF,2億1250万㌦供与。
30日 フォンセーカ,ヴェリカンダ刑務所に収監。刑期30カ月。
  10月
4日 弁護士,政治家らがフォンセーカの釈放を要求して最高裁前でデモ。
7日 フォンセーカ議席喪失。
8日 UNP,UNP関連労組などがフォート駅でフォンセーカ釈放を求めるデモ。
11日 仏歯寺で僧侶ら800人がフォンセーカ釈放を求めて抗議集会。
14日 大統領,デリーで開催のコモンウエルス・スポーツ大会閉会式に出席。
19日 首相,2011年度予算案国会に提出。
20日 ルフヌ大学副学長,学生に襲われて負傷。
21日 政府,地方議会選挙法改正案を国会提出。
26日 大統領,サウジアラビアのファイサル国王に,殺人で死刑判決を受けているスリランカ人メイド,リザナ・ナフィークの刑軽減を訴え。
27日 軍報道官,コロンボ市内の検問所を段階的に廃止すると発表。
27日 ケラニヤ大学付近で住民と学生が衝突。
28日 政府,LLRCの勧告を実施するための機関間諮問委員を発足させると発表。
29日 最高裁判事ら,フォンセーカから出されていた再選挙の訴えを棄却。証拠書類の根拠が正当でないため。
29日 大統領,ピーリス外務大臣とともに訪中。
31日 大統領,温家宝中国首相と会談。
  11月
3日 政府,シェルガス・ランカの株式51%とシェル・ターミナルズの株式100%の購入で合意。
4日 大統領,アッパー・コトゥマレーに完成した水力発電用のトンネルを視察。
4日 LLRC委員長,当初予定していた6カ月を超えてもヒアリングを継続すると発言。
7日 ヴェリカンダ刑務所で囚人らが刑務官らを襲撃。
10日 国会でギャンブル法案(Casino Business[Regulation]Bill)について審議,賛成114,反対33で通過。
11日 コロンボで豪雨。交通機関が麻痺。
12日 インド高等裁判所,LTTEの国内活動禁止措置の継続(5月)を妥当と判断。
13日 イラン代表ら来訪(~15日)。
15日 シャベンドラ・シルバ陸軍少将,降服後に撃たれたLTTEメンバーはいないと白旗裁判で証言。
17日 ノロッチョライ火力発電所試運転開始。
18日 ハンバントタ港開港式典挙行。
19日 大統領,2期目の就任宣言。
25日 クリシュナ・インド外務大臣来訪(~28日),訪問中ジャフナとハンバントタの領事館開設式典に出席。北部の鉄道事業工事開始。
26日 大統領,タミル政党の代表らと会談。
27日 ザルダーリー・パキスタン大統領来訪(~30日)。
29日 大統領,ロンドンに向けて出発。
29日 パキスタンと共同声明発表。
  12月
1日 オックスフォード・ユニオンで予定されていた大統領のスピーチ,タミル人のデモを理由に中止。
1日 タミル・ナードゥ州議会でインド=スリランカ間のフェリー就航に関する法案承認。
3日 中央銀行総裁,2011年に輸出入銀行の設立を発言。
8日 外務省,ノーベル平和賞受賞式典への欠席決定。
10日 国会で予算決議。
12日 UNP総会開催,党の新憲章制定,秘密選挙で党指導者を選出することを決定。
13日 ゴーターベ国防次官,95%のIDPがすでに帰還と発言。
15日 インドメディア,2010年初めにLTTEによるシン・インド首相暗殺計画があったと発表。
16日 政府,価格の安定化のためにココナツ輸入を発表。
26日 インドのプラディープ・クマール国防次官来訪。

参考資料 スリランカ 2010年
①  国家機構図(2010年12月末現在)
②  政府要人名簿(2010年12月末現在)
②  政府要人名簿(2010年12月末現在)(続き)

主要統計 スリランカ 2010年
1  基礎統計
2  支出別国民総生産(名目価格)
3  産業別国内総生産(実質:2002年価格)
4  輸出・輸入分類
5  国際収支
 
© 2011 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
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