アジア動向年報
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各国・地域の動向
2010年のパキスタン 憲法改正の実現と行き詰まる政治経済
中西 嘉宏
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2011 年 2011 巻 p. 525-552

詳細

2010年のパキスタン 憲法改正の実現と行き詰まる政治経済

概況

2010年の政治では,2008年からの懸案であった第18次憲法改正が4月に実現した。大統領権限が縮小され,首相と議会の権限が拡大された。その一方で与党の政権運営は時とともに行き詰まりを見せた。国際通貨基金(IMF)の融資に必要な一般売上税(GST,いわゆる消費税)改正法案が11月に議会に提出されたが,年内に成立を見ることはなかった。与党内でも反対論が根強く,法案成立の目処は立っていない。国内の治安状況は依然として不安定である。3月に始まった国軍と辺境警備隊による連邦直轄部族地域(FATA)での武装勢力掃討作戦は6月に勝利宣言がなされたものの,各地の市場や学校などで民間人を狙ったテロが相次いだ。バローチスタン州で北大西洋条約機構(NATO)軍用の補給物資を運ぶ車列が攻撃を受けたり,カラチで政治家の暗殺事件が連続して起きるなど,政治的暴力の範囲は拡大しているようにも見える。

経済は前半の復調と後半の低調が対照的な1年となった。2009/10年度後半については政府目標を上回る成長を見せた。農業部門は不調であったものの,鉱工業部門,なかでも大規模製造業が復調を果たして経済成長を牽引した。ところが,2010/11年度前半は被災者約2000万人という未曾有の洪水被害の影響もあって低調に終わった。前年度にいったん収束したインフレが再び進んだため,構造改革に着手できず,政府は融資期間の延長をIMFに申し出た。

対外関係では中国への接近がより一層顕著となった。7月にはザルダーリー大統領が中国を訪問し,12月には温家宝・中国首相がパキスタンを訪問した。両訪問期間中に経済協力等の多くの協定が締結された。対米関係については,アメリカ中央情報局(CIA)による越境爆撃が増加して国民の反発を呼んだ。対アフガニスタン関係ではアフガニスタン,パキスタン,インドの間の陸路での貿易を可能とする新パキスタン・アフガニスタン・トランジット貿易協定が締結された。

国内政治

第18次憲法改正と第19次憲法改正

2004年1月にパルヴェーズ・ムシャッラフ大統領(当時)は第17次憲法改正によって大統領権限を強化した。その後,2008年2月の総選挙で下院での与野党逆転が生じ,同年9月にムシャッラフが大統領を辞職すると,ムシャッラフ体制は独裁政治であったとして,憲法改正により以前の民主的な憲法を取り戻すべきだという意見が議会の大勢を占めるようになった。下院第1党となったパキスタン人民党(PPP)と,第2党であるパキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N)は選挙に先立つ2006年5月にも民主主義再興のために憲法改正を目指す旨を記した合意文書(民主主義憲章)を取り交わしている。

ところが,アースィフ・アリー・ザルダーリーPPP共同議長が大統領に就任すると,PPPの姿勢は途端に消極的なものへと変わる。そのため2009年前半まで憲法改正について目立った動きはなかったが,ザルダーリー大統領に対する国民の支持が低下して議会運営にも困難が生じると,大統領も憲法改正の声に抗しきれなくなり,2009年6月22日には議会内に特別委員会(委員長はミヤーン・ラザー・ラッバーニ上院議員)を設置した。これ以降,憲法改正論議が本格化する。

特別委員会での検討は約9カ月間続いた。もっとも重要な論点は,大統領による下院の単独解散権(第58条2項B),国軍最高幹部の任命権,首相の3選禁止であった。これらについては早期に与野党間で合意がなされたものの,北西辺境州(NWFP)の州名変更や,高等裁判所(最高裁,高裁,連邦シャリーア法廷)判事の任命手続き,州政府への権限委譲等については,政党間での調整が続いた。2010年3月23日にようやく法案が完成し,その後,北西辺境州の改名問題に関するPML-Nと大衆民族党(ANP)との合意を経て,4月2日に法案が下院に提出された。改正は102もの条項におよぶものであったが,特別委員会での法案検討時にすでに多くの点で諸政党間での調整がなされていたため,議会では与野党の枠を超えて多数の議員が賛成票を投じ,審議はスムーズに進んだ。法案は4月8日に下院を通過(342議員中292議員が賛成),4月15日には上院を通過して(100議席中90議席が賛成),4月19日に大統領が署名した。

第18次憲法改正の主目的は大統領権限の縮小である。大統領権限のうち最大の問題とされていた大統領単独による下院の解散権を認める条項は撤廃され,下院の解散には首相による助言が義務づけられた(第58条1項)。また,州知事の大統領による任命にも首相の助言が義務づけられ(第33条),選挙委員会委員長についても,首相と野党との協議が必要になった(第218条)。さらに,統合参謀本部議長,陸軍参謀長,海軍参謀長,空軍参謀長の大統領による任命にも,首相の助言が義務づけられた(第243条)。こうして,これまで大統領が単独で行使できた権限に首相の助言を義務づけることで,実質的な決定権を首相が握ることになった。間接的には議会によるチェック機能が働くことにもなっている。

ほかにも,大統領が非常事態宣言を発令するには上下両院による承認が必要となった(第232条)。高等裁判所の判事の任命にも,司法委員会による高等裁判所判事の推薦に加えて,8人の国会議員(上院4人,下院4人)からなる議会委員会による承認が必要になる(第175条)など,議会の権限強化がはかられた。

司法府がこれまで国軍によるクーデターを「必要性の法理」(Doctrine of Necessity)によって事後的に正当化してきたことを受けて,本改正では,憲法を一時的に停止するなどの反逆罪にあたる行為を,いかなる裁判所も法的に有効なものとできない旨が規定されている(第6条2項A)。また,地方政府の自律性を高めるために州の立法権リストを見直し,2011年6月30日までに憲法改正執行委員会による権限委譲内容が確定するという条項が盛り込まれた(第277条AA)。同条改正にともなって,12月1日には連邦政府は5つの省(ザカート・ウシュル省,社会福祉・特殊教育省,青少年問題省,地方自治体・農村開発省,特殊イニシアティブ省)の権限を地方政府に委譲した。

同じく,憲法改正により,NWFPの名称がハイバル・パシュトゥーンフア州(KP州)に変更された。これは,パシュトゥーン人を支持基盤とするNWFP州議会の与党ANPが「パシュトゥーンフア」(「パシュトゥーン人の土地」の意)への州名変更を要求したことに端を発し,それに対して同州東部の旧ハザラ地区に支持基盤を持つ野党PML-Nとパキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アザム派(PML-Q)が多数派の民族名だけを州名に含めることに反対していた。最終的には同州のアフガニスタン国境にある地名を加えて「ハイバル・パシュトゥーンフア」でANPとPML-Nが合意し,州名の変更が実現した。

議会内では広範な支持を受けた第18次憲法改正であったが,一部の反対派は21にのぼる違憲立法審査の申し立てを最高裁に対して行った。そのうちもっとも重要な争点は,高等裁判所判事の任命に関する第175条Aについてである。第18次憲法改正では,最高裁長官を委員長とする司法委員会(議長を含めて7人で構成。議員は法務大臣のみ)による指名に対して,議会委員会が承認するという手続きが定められている。さらに議会委員会委員の3分の2の賛成で司法委員会委員の指名を拒否できることになっていた。この憲法条項について,最高裁は10月21日に一時的裁判所命令を出して,最高裁長官の主導性や,議会委員会による承認拒否に理由の開示を義務づけることなどを求めた。それを受けて議会では第19次憲法改正のための特別委員会が設置され,同委員会は12月に改正法案を議会に提出した。上院ではほぼ全員が賛成し,下院では3分の2の賛成で可決され,2011年1月1日に大統領が署名した。第19次憲法改正によって,高等裁判所判事任命時の最高裁長官の主導性が明記されるとともに,司法委員会の定員が増員され,議会委員会による指名判事拒否時の理由開示も義務づけられることになった。

国民和解令をめぐる司法政治

2009年末に最高裁によって無効判決を受けた国民和解令(NRO)は,ザルダーリー大統領の殺人容疑やスイスでのマネーロンダリング容疑を含む3478件の捜査を停止する法令であった。2009年3月,野党や法曹関係者たちを中心とした大規模なデモで復職を果たしていたイフティハール・チョードリー最高裁長官は,これまでの長官とは違って汚職問題に積極的に切り込む姿勢を見せていたため,NROの無効判決によって政治家の訴追も時間の問題と見られていた。ところが,2010年に入っても捜査当局の動きが鈍く,そこで最高裁は自らの職権(suo moto)で訴訟を提起し,汚職問題の捜査を担当する国家汚職廃絶局(NAB)にNROに関連する汚職事件の捜査を再開するよう働きかけた。

最大の焦点はザルダーリー大統領のマネーロンダリング疑惑である。この疑惑は,1994年から1997年の間にドバイの銀行口座からスイスの銀行口座に振り込まれた約1000万ドルに関するものである。口座はともに実業家アブドゥル・ラッザーフ・ヤークーブが所有する貿易会社名義で,ドバイからスイスの口座に振込が行われたのち,ザルダーリーが管理する口座に移されたとされている。ヤークーブは1994年12月にパキスタンへの排他的金輸入ライセンスを取得していた。その見返りがこの1000万ドルではないかというのである。憲法により,現職大統領は起訴が免除されるため,ザルダーリーが起訴されることはないものの,捜査が進展すると大統領の地位が政治的に不安定になることは必至であり,また,遡及的に大統領資格の欠格の判断が下る可能性もあって,NROにもとづく捜査再開はザルダーリーとしてはなんとしても避けたいところであった。

10月にはNABの新長官に元判事であるディーダール・フサイン・シャーが就任し,NRO事件の捜査状況(150件の捜査再開)に関するレポートを最高裁に提出したが,結局,2010年にNRO事件の捜査は本格化しなかった。

NRO事件以外の汚職問題については,たとえば,メッカ巡礼者に対して,実際より高い値段で宿泊施設を提供して利益を得ていたとして,宗教問題省の局長が11月に逮捕された。それを受けてチョードリー最高裁長官は職権にもとづいて同事件への政治家の関与疑惑の捜査を進めた。関与が疑われるハミード・サイード・カーズミー宗教問題大臣(PPP)と,同相の辞任を求めたアーザム・ハーン・スワーティー科学技術大臣(イスラーム聖職者党ファズルル・ラフマーン派[JUI-F])がともに12月14日に辞職している。

綱渡りの政権運営

2008年2月の総選挙で勝利したPPPは組閣に際して,PML-Nとその他少数政党と連立政権を組んだが,両者はムシャッラフ時代に解任された判事たちの再任問題と憲法改正問題をめぐって対立し,わずか3カ月でPML-Nが連立を離脱していた。ところが,2009年3月にはチョードリー最高裁長官の復職が実現し,前述のように2010年4月には憲法改正によって大統領権限が縮小した。これは,ザルダーリーとPPPが野党に対して妥協を強いられてきたことを意味する。

さらに政権運営を難しくさせる法案が11月12日に上院に提出された。一般売上税改正法案である。この法案は後述するIMFのコンディショナリティ(融資制約条件)のなかでも政府歳入の改善に関連し,財政赤字削減のために不可欠な制度改革であるとされた。旧一般売上税法については免除対象者が多いことや税率の複雑さなどの欠陥が指摘されてきた。そこで,改正法案では,基本的な食料品や慈善活動,教育,科学研究などを除いて課税対象を拡大し,その代わりに,17%から25%まで品目によってばらつきのあった税率を15%に一元化した。これに対して最大野党PML-Nの指導者であるナワーズ・シャリーフは,インフレが進むなかでの増税が国民生活をますます脅かすものとして当初から反対する姿勢を示していた。法案は辛うじて上院を通過したものの,連立与党を組む統一民族運動(MQM)やJUI-Fさえ,上院の採決時に反対票を投じていた。

JUI-Fは前記のメッカ巡礼汚職疑惑で12月に同党に所属する大臣が解任されたのを受けて,連立からの離脱を決定した。表1にあるように,この時点で与野党攻防のキャスティング・ボートを握ったのはMQMである。同党が連立を離脱すると,下院で与党議席が過半数を割り込んでしまう。だが,財政赤字を解消してIMFからの融資を受けるためには,MQMが反対する一般売上税改正法案を通さなければならず,与党は厳しい状況に追い込まれた。MQMはインフレ下で一般売上税法の改正を行うより,GDPの21%を占めながら歳入のわずか1%しか占めていない農業セクターへの課税を強化すべきだと主張しているが,大土地所有者が多くを占める議員たちから支持を集めることは難しい。そうしたなか,政権幹部は同法案の重要性を強調して野党に対しても賛成を求めているが,成果は上がっていない。そればかりか,2011年初頭にはMQMが連立与党からの離脱をいったん宣言し,対してPPPがシンド州議会での地方自治制度改革に関する議論でMQMに同調しない姿勢を示したため,党首会談により再びMQMが連立に復帰するなど,そもそも財政問題であったものが政治化しつつある。一般売上税改正法案の下院通過は絶望的と見られている。

表1  下院における与野党構成(2010年12月31日)

(注) PPP:パキスタン人民党,MQM:統一民族運動,ANP:大衆民族党,PML-F:パキスタン・ムスリム連盟機能派,BNP:バローチスタン民族党,NP:国民党,PML-N:パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派,PML-Q:パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派,JUI-F:イスラーム聖職者党ファズルル・ラフマーン派,PPP-S:パキスタン人民党シェールパーオ派

(出所) 報道資料等にもとづき筆者作成。

テロとの戦いと治安問題

テロをはじめとした治安悪化に悩まされる状況は2010年も続いた。アメリカのシンクタンクである国家テロ対策センター(NCTC)の統計によると,テロの件数自体は2009年の1916件から2010年は1032件と半数近くに減少し,死者数も2671人から1680人に減っている。パキスタン平和学研究所(PIPS)の統計でも,2009年に過去最高を記録したテロによる死者数3021人から,2010年は2913人とわずかながら減少している。それでも,アフガニスタン,イラクに続いて世界で3番目にテロ件数,テロによる死者数ともに多い。

内務省の情報をもとにした報道によると,テロ攻撃も自爆テロも数としては減少したが,自爆テロによる死者数は1224人で,2009年を7人上回った。これはひとつに2009年から顕著になったテロ対象の拡大が原因である。たとえば,2010年1月1日にNWFPバンヌーのバレーボール大会会場で起きた車両による自爆テロは,100人を超える人々が犠牲になる大惨事となった。ほかにも,7月9日にFATAのモーマンドの市場で自爆テロが起き,買い物客など104人が死亡した。11月5日にはKP州の部族地域であるダッラ・アーダム・ヘールでモスクの金曜礼拝中に自爆テロが起き,72人が犠牲になった。

2009年から本格化した国軍によるKP州とFATAでの武装勢力掃討作戦は2010年も継続した。国軍は,FATAのオラクザイで3月23日から武装勢力掃討作戦「教訓を与えてやろう」を開始した。目的は2009年に同地に移ったとされるパキスタン・ターリバーン運動(TTP)の掃討である。物量で圧倒する国軍は,序盤から作戦を優勢に進め,5月の初旬にはオラクザイ南部の制圧に成功し,6月1日にキヤニ陸軍参謀長が現地を訪問して2日に同作戦の勝利宣言を行った。しかし,6月以降も断続的に国軍と武装勢力との戦闘が続いており,北部とオラクザイの西にあるクッラムにはまだTTPをはじめとした武装勢力が残存しているといわれる。

掃討作戦の成果もあり,KP州でのテロはやや減少したが,対照的にバローチスタン州でのテロが増加した。現在バローチスタン州がある地域には,19世紀までいくつかの藩王国が存在していたこともあり,分離独立運動がずっと存在してきた。加えて2006年からは分離運動のみならず,宗教紛争やイスラーム原理主義によるテロ,犯罪組織の活動などで治安が悪化している。2010年,状況はさらに悪くなった。たとえば,政府関連施設や学校などでのテロ,NATO軍用補給物資を運搬する車列への攻撃,政府要人に対する暗殺未遂,民族間紛争などである。アフガニスタンのNATO軍への物資供給の40%がパキスタンを経由しており,その最短ルートがバローチスタン州を通るルートである。同ルート上でガソリンなどの補給物資を積んだ車列が繰り返し攻撃された。犯人については,TTPなどのテロ組織による犯行という説から,犯罪組織が輸送物資の横流しを隠すために自作自演で車列に火を放ったとする説など諸説ある。政府要人に対するテロについては,3月6日にバローチスタン州のPML-N指導者が暗殺された。11月30日には州知事の車列を狙った爆弾テロが,12月7日には州首相を狙った自爆テロが発生している。ともに標的となった要人は無事だったものの,随行者に犠牲者が出た。また,バローチ人武装勢力が他地域からの移住者を殺害する事件も頻発しており,1月から7月末までだけで252人のパンジャーブ人が武装勢力に殺害された。

シンド州にある最大都市カラチでもMQMやANPの政党要人を狙った殺人事件が連続して発生している。たとえば,8月2日にはMQM所属のラザー・ハイダル州議会議員がモスクで射殺され,この事件をきっかけに翌日にかけて暴動が発生して35人が死亡した。事態を重く見た政府は10日に首相の仲介でPPP,MQM,ANPとの間で10箇条の行動規範に合意させたが,そのわずか2週間後の23日にANPの幹部であるアースィフ・ジャーンがカラチ市庁舎近くで射殺されている。9月にはイギリス滞在中のMQM幹部イムラーン・ファールークがロンドンで殺害され,再びカラチで暴動が起きた。各地で政治的暴力の連鎖が止まらない状態にある。

経済

2009/10年度の経済

2009/10年度(2009年7月~2010年6月)のパキスタン経済は2009年後半から順調に推移して,実質GDP成長率は目標値であった3.3%を0.8ポイント上回る4.1%の成長を記録した。1人当たりの国民所得も1095ドルと前年度より39ドル増となった。2008年から2009年前半までの停滞から回復基調を見せた1年だったといってよい。成長を支えたのは大規模製造業とサービス業だった(それぞれGDPの成長に対して23%と59%の貢献)。その一方で,前年度に4.0%増と伸びを見せた農業部門が2.0%増と低調に終わった。

農業部門の低調には,小麦,コメ,綿花,サトウキビといった主要作物の生産が全体で0.2%減を記録したことが影響している。具体的には,綿花の生産量については前年度から7.4%増と堅調に伸びたのに対して,サトウキビは1.3%減と,前年度の21.7%減に比べ下げ止まったものの,回復とは到底いえない。これには主にパンジャーブ州農村でのサトウキビからコメへの転作が影響しているといわれるが,そのコメも前年度の生産量695万トンからは688万トンと前年度比1.0%減となっている。農業部門の付加価値のうち14.4%を占める小麦は,2009/10年度の生産量が前年度比0.7%減と伸び悩んだ。農業部門の低調の原因としては雨の少なさと,それを補う灌漑の未整備が挙げられる。人口増加に比して灌漑の整備が遅滞しており,農民1人当たりの水へのアクセスは年々悪くなる一方である。

鉱工業部門の成長率は前年度の3.7%減から5.2%増へと回復して暗いパキスタン経済に光明をもたらした。2009年8月からの好転を支えたのは大規模製造業の伸びであった。とくに二輪を含む自動車の製造台数が31.6%増と大きく伸びた。内訳は二輪車が58.2%増,乗用車が37%増,トラクターが27%増,バス・トラックが16.2%増となっている。自動車の生産増に牽引されるかたちでタイヤ・チューブを中心とするゴム製品が29.5%増と高い伸びを示している。また,電気製品の生産も快調だった。エアコン(59%増),冷凍庫(36%増),冷蔵庫(17%増)を中心に生産を拡大した結果,パキスタン製鉄所の経営危機や,電力会社の債務問題による輸入原油の減少で低迷した鉄鋼製品(26.9%減)や石油製品(5.9%減)の不振にもかかわらず,全体としては23%の成長を達成した。

パキスタンは世界で4番目に大きな綿の生産地であり,同時に世界で3番目の綿の消費国である。すでに記したように綿花の生産は2008/09年度,2009/10年度と続けて堅調な成長を見せた。その一方で中国での綿不足による綿花・綿糸の国際価格の上昇により,パキスタンで生産された綿糸が国際市場に流れて国内繊維産業が原料不足に陥るという事態がここ数年続いている。2009/10年度前半には綿糸の輸出が前年度から比べ約50%増となったため,国内繊維産業を保護すべく,政府は2010年1月から1カ月当たり5万トンの輸出割り当てを設定した。規制開始の月に実際には5万7000トンが輸出されたため,政府は3月1日から6月30日まではさらに低い1カ月当たり3万5000トンに割り当てを引き下げた。こうして国内繊維産業の綿糸不足は多少改善されたものの,2009/10年度の原綿輸出は141.9%増,綿糸輸出は28.96%増となり,より価格の高い国際市場へと原綿と綿糸が流れていく傾向は今後も続くだろう。それに政府の輸出規制で対応するだけでは限界がある。パキスタンの繊維産業は転換点を迎えている。

2008/09年度,過去11年で最低の成長(1.6%)を記録したサービス部門は,前年度比4.6%増へと持ち直した。卸売業,小売業の伸びが前年度比5.1%増とマイナス成長からプラス成長に転換し,情報通信技術(ICT)をはじめとする運輸・通信部門も政府の携帯電話輸入関税引き下げもあって4.5%増であった。さらに,政府・国防部門はテロ対策支出が引き続き伸びて,前年度比7.5%増とサービス部門内でもっとも高い成長を見せた。

輸出は247億8000万ドルで,前年度の232億2700万ドルに比べ6.7%増と,2007/ 08年度の水準を回復した。成長を支えたのはコメ(非バスマティ米),綿糸,綿花,果物,野菜といった農業生産物である。とくに,綿糸の中国向け輸出の需要が伸び,年間14億1720万ドルと2009年から前年度比27.1%増という高い成長率を記録した。加えて興味深いのはコメである。非バスマティ米の輸出は2009/10年度に13億1790万ドルと前年度比44.4%増で,その額は綿糸に匹敵する。主な輸出先はインド,フィリピン,ケニアであり,ほかにもソマリア,ニジェール,ナイジェリア,カメルーン,ウガンダへの輸出が増え,今後のアフリカ市場への期待が広がっている。繊維製品輸出も金融危機からの需要回復を示すアメリカ,イギリス向けの輸出が持ち直し,さらに中国での綿不足,国内の綿花生産の増大および,パキスタン・ルピーの対ドルレートの低位安定といった要因で伸びた。

輸入は前年度を3.5%下回って378億8000万ドルとなった。輸入が急増した品目としては石油製品がある。輸入額は69億1650万ドル,前年比25.4%増であった。国内の石油製品業者が資金繰りの問題によって精製工場の稼働を一部停止しており,それが石油製品の輸入増につながったものと見られる。事実,ディーゼル油,燃料油,ガソリンといった石油製品の国内生産量は軒並み落ち込んでいる。ほかに輸入が増えた品目としては,船舶解体業の需要増加の恩恵を受けた航空機,船舶,小型船(33.8%増),組み立て部品(CKDおよびSKD)を中心とする自動車(30.9%増),農業部門の成長に引っ張られるかたちで大幅に伸びた肥料(65.3%増)などがある。一方で,2007/08年度,2008/09年度に高い水準を示した食料品の輸入については,国内の小麦生産が好調だったこともあり,輸入額が10億7860万ドルから4億800万ドルへと半分以下に低下した。

この結果,2009/10年度の貿易収支は131億ドルの赤字になった。貿易収支赤字は,2007/08年度の214億2700万ドル,2008/09年度の160億800万ドルからさらに減ったが,水準としては2006/07年度に戻った程度である。依然として貿易赤字がパキスタン経済の主要な問題のひとつであることに変わりはない。

海外労働者からの送金は5年連続で成長を記録し,総額89億ドルで前年度比14.0%増と伸びた。前年度もっとも多かったアメリカからの送金は17億7130万ドルと2009年とほぼ同水準であったのに対して,アラブ首長国連邦からの送金額が20億3890万ドルと前年度比20.7%増,サウジアラビアからの送金が19億1790万ドルと23.0%増の高い伸びを示し,それぞれシェアの1位と2位になった。イギリスからの送金も8億7600万ドルで前年度比44.7%増である。この結果,貿易収支,所得収支,移転収支を合わせた経常収支は,34億9500万ドルの赤字となった。これは,2007/08年度の138億7400万ドルのピークに比べると約100億ドルの改善であり,前年と比べても37.7%減少している。

消費者物価指数(CPI)の上昇率で見た2009/10年度の物価上昇は11.7%で,高いインフレに悩まされた前年度(20.3%)に比べると安定した水準であった。理由としては,継続的な金融引き締め政策,緊縮財政,国際的商品価格の低下,国内食料生産の持ち直しなどが挙げられる。下半期には燃料関連の補助金削減によってインフレ期待が高まったため,中央銀行は2010年8月に0.5ポイントの政策金利(3日物レポ・レート)の利上げを実施し,公定歩合は13.0%に上昇した。

2010/11年度上半期の経済――インフレ再び

2010/11年度上半期(2010年7~12月)はパンジャーブ州,KP州を中心に起きた未曾有の大洪水という幸先の悪い幕開けとなった(洪水については後述)。洪水によって約1700万エーカーの耕地が失われ,家畜の犠牲は数十億頭とされる。その影響は農業生産と物価にあらわれた。カリーフ期(雨期)の主要作物である綿花とコメの生産量は,政府の目標値のそれぞれ17.5%,42.0%と大きく下回った。

大洪水による穀物生産の低下と,食料品の国際価格の上昇,政府財政赤字の中央銀行借入などのためインフレが進んだ。消費者物価上昇率は2010/11年度上半期で14.6%と,前年度同期の10.3%から4.3ポイント加速した。53の日用品からなる生活必需品物価指数(SPI)は,19.3%上昇と高い値を示し,これは前年度同期比8.3ポイントの加速である。CPIでも食料品とエネルギー関連製品を除いた上昇率は10%を切っており,現在のインフレが市民生活に負のインパクトを与えていることがわかる。インフレを受けて政府は9月30日に政策金利を13%から13.5%へ0.5ポイント引き上げ,11月30日にはさらに0.5ポイントの追加利上げを実施した。

前年度の成長を支えた大規模製造業は,2010/11年度第1四半期には1.5%減とマイナス成長になった。部門別では,繊維産業が6.7%減,石油製品が17.0%減と低迷した。好調を維持したのは自動車部門で,18.3%増と高い成長を記録した。

経常収支は2010/11年度上半期は2600万ドルの黒字となった。これは前年度同期に記録した25億7000万ドルの赤字から見れば大幅な改善である。貿易収支は依然として赤字だが,輸出が111億2500万ドルで前年度比19.4%増と伸びを示している。輸出を牽引したのはコメで,バスマティ米,非バスマティ米それぞれ前年度同期比9.8%増,28.1%増となった。綿製衣料品,ニット衣料品,寝具用リネンなどの繊維製品も好調で,前年度同期比17.8%増と成長した。サービス収支も改善した結果,サービス収支を含む貿易赤字は60億8050万ドルと前年度から21.5%減少した。

貿易赤字を相殺したのが海外送金である。2010/11年度上半期に52億9100万ドルを記録し,前年度同期の45億3000万ドルに比べ16.8%増えた。海外労働者の増加が続いたのに加えて,2009年10月から中央銀行,財務省,在外パキスタン人省が立ち上げた「パキスタン送金イニシアティブ」により,公的な送金網が整備されたことも影響していると見られる。

パキスタン・ルピーは2010年1月2日付の1ドル=84.4ルピーに対し,同年12月31日時点で1ドル=85.6ルピーと年間を通じて安定していた。

2010/11年度政府予算が6月に成立した。総額は2兆7644億ルピー(経常支出2兆7640億ルピー,開発支出7870億ルピー)である。これは前年度の予算額を約3000億ルピー上回る。予算演説では,本予算の目的として7点が挙げられた。(1)経済状況の回復,(2)インフレの抑制,(3)自律性の達成,(4)社会保護の強化,(5)公的セクターの削減,(6)失業対策,(7)投資環境の整備,である。

歳入面では,税収の対GDP比を現行の9.5%から10%を超える水準にすることを目指し,財政再建のための税制改革案が盛り込まれた。柱は一般売上税の改正で,税率や免除の点で不平等な課税となってきた従来の制度を,貧困層向けの保健,教育,食料等をのぞくすべての商品・サービスに対して一元的に15%の課税を行うものに2010年10月1日までに変更することが提案された(「国内政治」で既述)。ほかにもタバコに対する課税の強化や天然ガスやエアコン・冷凍庫への課税,特定の目的・利益のために結成される団体に対する税率引き上げ,輸入業者への源泉税率引き上げ(4%から5%)などがある。さらに,政府はこれまで直接税の対象となっていなかったサービス業へも課税対象を広げる姿勢を見せた。政府の税収目標は約1兆7787億ルピーで,この数字は前年度の目標より21%高い野心的なものである。

歳出面では,IMFの融資条件を満たすために電気料金の見直しや,肥料への政府補助金の削減が盛り込まれた。IMFの融資条件である財政赤字の対GDP比率4%という目標をどのように達成するかが課題であった。しかし,北西部で続く武装勢力の掃討作戦が国防費の増大を招き,また,連邦政府職員に対して,基本給の50%にあたる額を毎月の給与に加算することや,医療費補助,年金の増額などが盛り込まれたため,歳出総額は前年度の3781億ルピーから16.9%増の4422億ルピーとなった。

大洪水

2010年7月からの未曾有の降雨による洪水がインダス川流域,地域としては,KP州,シンド州,パンジャーブ州,バローチスタン州で発生した。7月の月間降雨量は,たとえばイスラマバードで383ミリ(通常平均305.3ミリ),パンジャーブ州のファイサラバードで244ミリ(通常平均117ミリ),ラホールで308ミリ(通常平均308ミリ),マリーで579ミリ(通常平均364.1ミリ)など6つの地域で月間降雨量の最高を記録した。KP州でも10地域で月間最高降雨量を記録し,ペシャーワルでは402ミリと,通常の月間降雨量46.1ミリを大きく上回った。全国土の約15%にあたる13万2000平方キロメートルが洪水によって何らかの被害を受けた。

パキスタン政府によると,洪水による死者は1767人(死者数がもっとも多いのはKP州で1156人),負傷者は2994人,洪水で流されるなど被害を受けた家屋は191万棟におよんだ。被災者数は全人口の約10分の1にあたる約2000万人とされる。経済的な影響も大きく,世界銀行の推計では1700万エーカー(6万9000平方キロメートル)の農地が浸水し,国際労働機関(ILO)によると,530万人以上の人々が洪水で職を失った。最終的な被害総額は,世界銀行とアジア開発銀行の推計によれば約97億ドルにのぼる。2004年に南アジア,東南アジアを襲ったインド洋津波や2009年のハイチでの地震と比べて死者数は少ないものの,その長期的な被害の甚大さから,潘基文国連事務総長は今回の洪水を「スローモーションの津波」と表した。洪水被害に対する支援のために,国連は中央緊急対応基金から1000万ドルの拠出を決定し,8月に国連総会特別会合を開催して4億5900万ドルの支援を各国に要請した。さらに9月17日には約15億9400万ドルの追加支援を要請している。支援要請額としては国連史上最高額となった。国際社会の反応は早く,アメリカは1億5000万ドル,EUは1億8000万ドル,イギリスは1億ドルの支援を表明した。被災後2カ月でもっとも多い支援額を約束したのはサウジアラビアで,その額は約2億4000万ドルにのぼった。日本も1440万ドルの支援を表明するとともに,パキスタン政府の要請にもとづいて,国際緊急援助隊派遣法により自衛隊のヘリコプター部隊(約460人)や国際緊急援助隊・医療チームを派遣した。被災から約半年たった2011年2月2日時点で総額22億5316万ドルの支援が各国,国際機関,NGOなどから国連に拠出された。

IMF融資

2008年11月にIMFはパキスタンに対して総額76億ドルのスタンドバイ融資の実施を決定した。2009年8月には追加融資と期間延長が決まり,合計113億ドルの融資が2010年12月30日までに実施される予定であった。

2010年5月にIMFによる第4回レビューが行われた。レビューでは,政治および安全保障面でのリスクが依然として高いものの,2009/10年度のGDP成長率が政府目標を上回る見込みで,一般的な経済状況は改善していると評価された。構造改革については,全体的な遅れを指摘しつつも,一般売上税改正法案の国会上程など改革の進展を認めた。結局,パキスタン政府は中央銀行国内総資産や政府の中央銀行借入れなどで量的パフォーマンス基準を達成できなかったものの,そうした未達成が一時的なものであり,今後改善策が講じられる見込みが高いとして,第5トランシェにあたる7億6670万SDR(約12億ドル)の融資が認められた。

その後,洪水による被害やインフレの進行などで経済状況は目に見えて悪化しており,加えて,一般売上税法改正や電力セクター改革が遅々として進まないために財政赤字削減幅が基準値である対GDP比4.7%に届かないことはほぼ確実となった。そこでパキスタン政府は2010年9月に予定されていた第5回レビューを回避して融資期間の9カ月延長を求め,12月にIMFに承認された。これにより,融資期間の終了日が2010年12月31日から2011年9月30日に変更になった。しかしながら,財政改革が進む目処はたっておらず,このままでは残っている第6,第7トランシェ(それぞれ約11億5000SDR[約18億ドル])の融資が履行されない可能性が高い。

対外関係

対米関係

2008年から本格化したCIA等によるFATAを中心とした無人偵察機の越境爆撃は,パキスタン国民の根強い反発にもかかわらず,2010年にはさらに増加した。アメリカのシンクタンクである新アメリカ財団(NAF)によると,爆撃の回数が2009年は53回,2010年は118回と2倍以上に増えている。犠牲者数も推計の平均で546人から794人に増え,そのうち,90%以上が民間人であるという報道もある。

越境爆撃による2010年の成果としては,1月にパキスタン・ターリバーン運動(TTP)の指導者であるハキームッラー・メスードが負傷した。2月には外国籍のアル・カーイダ指導者であるシェイフ・マンスールが死亡,また,2006年の在カラチ・アメリカ総領事館爆破事件の首謀者であるターリバーン司令官モハンマド・カーリー・ザファルも死亡した。9月にはアル・カーイダの司令官シェイク・ファテー・アル・ミスリー殺害にも成功した。

パキスタン政府は,当初から越境爆撃が主権の侵害にあたり,また国民の反米感情を刺激するものとして不快感を示してきた。国際法的にもアメリカの戦略を問題視する声があがり,5月に国連人権委員会に提出されたレポートには,「アメリカが(爆撃によるテロリストへの攻撃も含む)標的殺人の正当性を担保すると考える国際法上のルールを公にすべき」(カッコ内筆者)との提言がある。爆撃被害者による国際刑事裁判所などへの告訴も取りざたされており,12月にはCIAのイスラマバード支局長が,爆撃被害者による国内訴訟の被告となったために,パキスタンから退去するという事件が起きた。

パキスタンの主権を無視しているととられかねないアメリカ政府の姿勢の背景には,パキスタン政府が「テロとの戦い」を十分に実施していないという不満があるのだろう。バラク・オバマ米大統領は,2010年10月のインド訪問時に,「イスラーム過激派の根絶のために,我々はパキスタン政府とともに行動しなければならない」としながらも,パキスタン政府による「テロとの戦い」の「進展が思ったほど早くない」と不満を表明した。パキスタンにおける「テロとの戦い」を強化すべく,アメリカ政府は10月22日に5年間で20億ドルの軍事援助の実施を発表した。直後の電話会談でオバマ大統領とザルダーリー大統領は両国がより強固,戦略的かつ協力的な関係を築くことで合意したとされる。2009年のケリー・ルーガー法(パキスタンとのパートナシップ強化に関する法律2009)以来,民生部門での援助にもアメリカ政府は力を入れており,7月19日にイスラマバードで開催された第2回パ・米戦略対話で5億ドルの民生支援を表明した。

対中関係

2010年はパキスタン・中国関係が一層の深化を見せた年である。海外からの投資が伸び悩むなかで中国から援助と投資を呼び込みたいパキスタンと,パキスタン領土を通ってアラビア海に直接抜けるルートを確保することでインドリスクを軽減したい中国との利害が一致していることがその背景にある。

7月6日から11日までザルダーリー大統領が北京を訪問した。7日に大統領は胡錦濤国家主席と会談を行い,テロ対策や貿易と経済協力の拡大について議論し,農業,保健,司法,メディア,技術に関する6つの合意文書に署名した。テロ対策について,胡国家主席は「両国はともにテロの被害者である」とし,実施中の対テロ共同軍事演習「フレンドシップ2010」以降も協力を継続することを約束した。9日には総額約700万ドルにのぼる4つの覚書が結ばれ,そのうちの2つはギルギット=バルチスタンにあるスカルドゥとジャグロートをつなぐ165キロメートルの高速道路建設と,同じくギルギット=バルチスタンのサーズィンとKP州のターコートとをつなぐ135キロメートルの高速道路建設プロジェクトに関するものであった。大統領は実業界の要人とも交流し,彼らに対して深刻な電力不足にあるパキスタンの現状を伝えるとともに,原子力発電も含めた電力部門への投資を求めた。

12月17日から19日まで温家宝首相がパキスタンを訪問した。イスラマバードの市街幹線路に温首相の写真が飾られるなど,終始歓迎ムードのなかでの訪問となった。総工費50億ルピー,建設期間5年をかけて完成したパキスタン・中国フレンドシップセンターの除幕式がとり行われ,その後,ギーラーニー首相と温首相の首脳会談が行われた。エネルギー,鉄道輸送,建設,農業,文化などの分野で総額200億ドルにのぼる13の合意文書に署名した。今後5年間で36のプロジェクトを中国が支援することが表明された。さらに,洪水被害からの復興のために約2億2900万ドルの無償資金協力と,4億ドルの借款も合意文書に盛り込まれている。会談では,1GW級の原子力発電所建設についても話し合われたといわれる。

対アフガニスタン関係

「テロとの戦い」に関する話題が多いパキスタンとアフガニスタンであるが,2010年は経済面で大きな出来事があった。7月18日にイスラマバードでアメリカのヒラリー・クリントン国務長官同席のもと,新パキスタン・アフガニスタン・トランジット貿易協定(APTTA)に両国が合意したのである(その後,10月28日に正式調印)。2011年2月に予定されている同協定の発効により,アフガニスタンからパキスタンのカラチ港,グワーダル港への物資輸送,およびラホール近郊のワーガー国境を通って陸路でインドに物資輸送を行うことが可能になる。この協定については二国間で2009年12月末までに署名することで一度合意されていたが,インドとの陸路貿易に対してパキスタン国内に反対論があり,期限が延期されていた。本協定によりパキスタン,アフガニスタン,インド3カ国間での貿易の拡大が見込まれている。

対インド関係

2000年代に入って次第に友好的になっていったパキスタン・インド関係は,2008年11月に166人の犠牲者を出したムンバイ・テロ事件によって急速に悪化した。2004年以来,5度行われていた信頼醸成措置による包括的対話もそれ以来は開催されていない。2010年も両国間関係に大きな変化は起きなかった。しかし,雪解けムードはあり,4月29日にギーラーニー首相とマンモハン・シン印首相はブータンでの首脳会談で,ムンバイ・テロ以来延期されてきた複合的対話再開で合意した。2011年に入って2月22日に,7月からインドで複合的対話を再開することが両国間で合意された。背景には両国の緊張緩和を求めるアメリカ政府の圧力があったと見られている。

2011年の課題

2011年はザルダーリー政権の命運がかかった年になるだろう。議会では一般売上税改正法案,議会外では司法府主導による汚職捜査など,政権を揺さぶる火種は多い。政権運営をあやまれば連立与党の過半数割れの可能性もあり,大統領と首相のリーダーシップが問われる。テロをはじめとした治安問題は泥沼の様相を呈しており,少しでもテロの件数と死者数を減らすことが望まれる。それなくして経済社会の安定はありえない。

経済面ではインフレが最大の懸念材料である。IMFの構造調整による補助金削減や公共料金の値上げなどがインフレを加速させており,その結果,融資条件をクリアするための税制改革等についての政治的合意が形成できない。インフレ抑制のために中央銀行が高金利を維持し,それが経済成長の頼みの綱である大規模製造業の成長を阻害すれば,ますます経済状況は悪化してしまう。2011年のパキスタン経済を楽観視することは難しい。

対外関係ではアメリカによる越境爆撃への対処が政権には求められる。アメリカがいかに支援を拡大しても,国内の反米感情が高まってはその意義は減じてしまうだろう。すでに2011年に入って米外交官拘束事件が起き,両国関係は軋んでいる。また,2011年7月に米軍のアフガニスタンからの撤退が始まる。それがパキスタンの治安にどういう影響を及ぼすのか注目される。経済的には,ますます中国への依存が高まるものと見られ,電力部門などインフラ面での中国による支援を有効に活用して国内の経済状況改善をめざしたいところである。対インド関係では約3年ぶりに包括的対話が再開される予定である。ムンバイ・テロ事件以降冷え込んだ両国関係の改善を期待したい。

(地域研究センター)

重要日誌 パキスタン 2010年
  1月
1日 北西辺境州(NWFP)のバンヌのバレーボール大会会場で自爆テロ。105人死亡。
1日 綿糸輸出に1カ月当たり5万トンの割り当て。
3日 NWFPのハングで元州政府大臣が爆弾による襲撃で死亡。
4日 北方地域フンザで大規模な地すべり。13人死亡。
6日 北ワジーリスタンでアメリカ中央情報局(CIA)による越境爆撃。35人死亡。
13日 北ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。15人死亡。パキスタン・ターリバーン運動(TTP)指導者H・メスードが負傷。
15日 政府,最高裁に国民和解令(NRO)違憲判決の見直しを求める訴状を提出。
15日 北ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。15人死亡。
16日 アフガニスタン・イラン・パキスタン3カ国外相会談。共同声明に署名。
17日 南ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。ターリバーン指導者シェイフ・マンスールを含む20人が死亡。
25日 ザルダーリー大統領,イスタンブールでの第4回トルコ・パキスタン・アフガニスタン3カ国首脳会議に出席(~26日)。
29日 北ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。15人死亡。
30日 NWFPのハーで自爆テロ。16人死亡。
  2月
1日 カラチで民族間衝突。26人死亡。
5日 カラチで小型バスを爆破するテロ。13人死亡。
9日 ラーワルピンディで元下院議員が襲撃を受ける。3人の護衛が死亡。本人は無事。
10日 連邦直轄部族地域(FATA)のハイバルで治安関係者に対する襲撃と自爆テロ。15人死亡。
11日 NWFPのバンヌで自爆テロ。12人死亡。
13日 最高裁長官,大統領によるラホール高裁判事人事案を長官との協議不足で拒否。
17日 NWFPのコヒスタンで雪崩。100人以上死亡。
17日 大統領,判事の新人事に署名(最高裁判事3人,ラホール高裁判事補22人,シンド州高裁判事補9人)。
18日 FATAのハイバルの市場で爆弾テロ。30人死亡。
20日 NWFP政府,同州内の地方政府の解体と地方政府選挙の実施を決定。
24日 下院補欠選挙(第55選挙区:ラーワルピンディ)でパキスタン・ムスリム連盟ナワーズ派(PML-N)候補者が勝利。
28日 S・F・A・タリーン財務大臣が辞任。
  3月
1日 イスラマバードで第2回パキスタン・アフガニスタン政治対話。
1日 4カ月ぶりにパキスタン・イラン国境が開通。
1日 綿糸輸出の割り当てが5万トンから3万5000トンに引き下げ。
5日 NWFPのハングで爆弾テロ。12人死亡。
6日 バローチスタン州で同州PML-N指導者が暗殺。
8日 ラホールで自爆テロ。13人死亡。
10日 カルザイ・アフガニスタン大統領が来訪(~11日)。首脳会談。
10日 下院補欠選挙(第123選挙区:ラホール)でPML-N候補者が勝利。
10日 ラホールで自爆テロ。45人死亡。
17日 全国的な電力不足で10時間から20時間の停電。
18日 A・H・シャイーク元民営化投資大臣が財務担当首相顧問と財務大臣に就任。
19日 イスラマバードで公共交通機関の値上げに反対するデモが発生。
23日 国軍,FATAのオラクザイで軍事作戦「教訓を与えてやろう」を開始。
24日 ワシントンDCでパ・米戦略対話実施。外相,陸軍参謀長出席。
29日 ラホール高裁,A・Qカーン博士に条件付きで移動の自由を認める。
30日 最高裁,国家汚職廃絶局(NAB)に24時間以内にNROにより停止していた事件の捜査再開を命令。
30日 トルコのギュル大統領,来訪(~4月2日)。
  4月
2日 第18次憲法改正法案が下院に上程。
5日 NWFPの下ディールの政治集会で自爆テロ。43人死亡。
8日 下院,第18次憲法改正案を可決。
12日 首相,ワシントンでの核安全保障サミットに出席(~13日)。
15日 上院,第18次憲法改正案を可決。
16日 バローチスタン州クエッタの病院で自爆テロ。10人死亡。
17日 NWFPのコハートで3件の自爆テロ(~18日)。58人死亡。
19日 ペシャーワルで2件の自爆テロ。23人死亡。
19日 大統領,第18次憲法改正案に署名。
19日 首相,フランスを訪問(~20日)。サルコジ大統領と会談。
22日 ハイバル・パシュトゥーンフア州(KP)のチャルサッダで元議員が射殺。
28日 首相,ブータンを訪問(~29日)。第16回南アジア地域協力連合(SAARC)首脳会議に出席。29日にはシン印首相と会談。
  5月
11日 北ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。24人死亡。
15日 ハイバル区域でCIAによる越境爆撃。15人死亡。
18日 デラ・イスマイ・カーンの警察署近くで爆弾が爆発。12人が死亡。
20日 カラチで民族間の衝突。23人死亡。
28日 ラホールでアフマディ派の2つのモスクに襲撃と自爆テロ。合わせて95人死亡。
  6月
1日 首相,ベルギーを訪問(~5日)。4日に第2回パキスタン・EU首脳会議に出席。
2日 国軍,オラクザイでの軍事作戦の勝利を宣言。
7日 外相,イスタンブールでのトルコ・パキスタン・アフガニスタン外相会議に出席。
9日 張徳江中国副総理,来訪(~10日)。大統領,首相らと会談。
10日 大統領,ウズベキスタン訪問(~11日)。第10回上海協力機構(SCO)会合に出席。
11日 アフガニスタン国境でCIAによる越境爆撃。15人死亡。
12日 N・アーサンNAB長官が辞職。
13日 政府,イランとのガスパイプライン供給取り決めに合意。
15日 選挙管理委員長,地方選挙の2010年内実施延期を発表。
19日 ホルブルック米アフガニスタン・パキスタン特別代表が来訪(~20日)。
24日 イスラマバードでパキスタン・インド外務次官級協議。
24日 最高裁,選挙管理委員会に議員の学歴詐称に関する調査を指示。
25日 2010/11年度連邦政府予算が成立。
26日 イスラマバードでSAARC内務大臣会合が開催。
26日 アメリカからパキスタンにF16戦闘機3機引渡し。
28日 ハイダラバードで爆弾テロ。18人死亡。
  7月
1日 ラホールの神秘主義イスラーム寺院で自爆テロ。42人死亡。
6日 大統領,中国を訪問(~11日)。経済,資源開発,テロ対策で関係強化。
9日 FATAのモーマンドで自爆テロ。104人が死亡。
14日 クエッタでH・S・バローチ元上院議員が射殺。
15日 インドのクリシュナ外相,来訪(~16日)。外相会談。
17日 FATAのクッラムで乗用車が武装した人々に襲われる。16人死亡。
18日 新パキスタン・アフガニスタン・トランジット貿易協定(APTTA)に両国が合意。
19日 イスラマバードで第2回パ・米戦略対話。アメリカは5億ドルの民生支援を表明。
22日 政府,キヤニ陸軍参謀長の3年間の任期延長を発表。
24日 ペシャーワルで州大臣の息子が射殺。
24日 南ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。16人死亡。
28日 エアブルー社旅客機がマルガラ丘陵で墜落事故。乗客乗員152人全員が死亡。
29日~日 インダス川流域を中心に大洪水発生。死者約1800人,被災者約2000万人。
  8月
2日 統一民族運動(MQM)所属のラザ・ハイダール州議会議員がカラチのモスクで射殺。翌日にかけてカラチで暴動発生。35人死亡。
3日 大統領,フランスを訪問(~5日)。サルコジ大統領と会談。
6日 大統領,イギリスを訪問(~8日)。キャメロン首相と会談。
10日 首相の仲介で,パキスタン人民党(PPP),MQM,アワミ国民党(ANP)間で治安回復に向けた10箇条の行動規範に合意。
14日 バローチスタン州で武装勢力による攻撃。16人死亡。
15日 潘基文国連事務総長,来訪(~16日)。シンド州の洪水被災地を視察。
17日 大統領,ロシア訪問(~18日)。ソチでのロシア・アフガニスタン・タジキスタン・パキスタン首脳会議に出席。
23日 シンド州政府,洪水被災を理由に次期地方政府選挙を無期限延期。
23日 ANP幹部A・ジャンがカラチで射殺。
23日 FATAのワナのモスクで自爆テロ。24人死亡。
  9月
1日 ラホールのシーア派行事中に爆弾テロ。30人死亡。
3日 クエッタのシーア派行事で自爆テロ。73人死亡。
3日 北ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。15人死亡。
6日 KP州のラッキ・マルワットで自爆テロ。19人死亡。
7日 ハリウッド女優アンジェリーナ・ジョリーが洪水被災地を訪問。
7日 KP州のコハートで自爆テロ。21人死亡。
15日 カルザイ・アフガニスタン大統領,パキスタンを訪問(~16日)。大統領,首相,陸軍参謀長などと会談。
16日 MQM幹部I・ファルークがロンドンで殺害。カラチで暴動。
18日 パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)とパキスタン・ムスリム連盟機能派(PML-F)が統合を発表。
21日 南ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。16人死亡。
25日 A・Q・K・ジャトイ軍需産業大臣が辞任。
25日 北ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。アル・カーイダ司令官S・ファテー・アル・ミスリーが死亡。
25日 2008年のデンマーク大使館爆破事件の容疑者3人が証拠不十分で無罪判決。
30日 中央銀行(SBP),政策金利を13%から13.5%に引き上げ。
  10月
1日 ムシャッラフ前大統領,全パキスタン・ムスリム連盟(APML)の設立を発表。
2日 北ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。17人死亡。
8日 カリド・シャミーン・ワイン陸軍大将,統合参謀本部議長に就任。
8日 D・シャー元判事がNAB長官に就任。
8日 トルカム国境ルートを11日ぶりに再開。
12日 トルコのエルドアン首相,来訪(~13日)。大統領,首相と会談。洪水被災地を訪問。
17日 シンド州議会補欠選挙でMQM候補者が当選。前後にカラチで暴動。22人死亡。
17日 シンド州知事,カラチでの補欠選挙時の治安悪化などの責任をとって辞任。
20日 ワシントンでパ・米戦略対話(~22日)。
20日 カラチで民族間の衝突。16人死亡。
22日 アメリカのクリントン国務長官,20億ドルの軍事支援を発表。
29日 PML系4党派(PML-F,PML-Q有志,PML-Z,PML-A)の指導者が統一ムスリム連盟(MML)結成を発表。
  11月
5日 KP州のダッラ・アーダム・ヘールで自爆テロ。72人死亡。
11日 大統領,中国広州を訪問(~13日)。
11日 カラチの犯罪捜査局で自爆テロ。20人死亡。
12日 政府,一般売上税(GST)改正法案と洪水法案を議会に提出。
16日 北ワジーリスタンでCIAによる越境爆撃。20人死亡。
19日 ペシャーワルでNATO軍用補給車両10台が攻撃を受ける。
19日 パキスタン女子クリケットチーム,広州アジア競技大会で優勝。
25日 首相,タジキスタン訪問(~26日)。ドゥシャンベでのSCOに出席。
27日 大統領,スリランカを訪問(~30日)。農業,関税支援,査証免除,文化など4つの合意文書に署名。
27日 GST改正法案,上院を通過。
30日 SBP,政策金利を13.5%から14%に利上げ。
30日 バローチスタン州で州知事の車列を狙った爆弾テロ。知事は無事。
  12月
1日 政府,地方分権の第1段階として連邦5省の権限を州政府に委譲。
2日 大統領,クリントン国務長官と電話会談。ウィキリークスが両国に悪影響をもたらすものではないことを確認。
4日 首相,アフガニスタンを訪問(~5日)。
6日 首相,トルコを訪問(~8日)。7日にエルドアン首相と首脳会談。
6日 モーマンドで2件の自爆テロ。50人死亡。
7日 クエッタでバローチスタン州首相を狙った自爆テロ。州首相は無事。
8日 コハートで自爆テロ。19人死亡。
10日 KP州のハングにあるシーア派経営病院で自爆テロ。16人死亡。
13日 ホルブルック・米アフガニスタン・パキスタン特別代表が死去。
14日 メッカ巡礼汚職問題で宗教問題大臣と科学技術大臣辞職。
14日 イスラーム聖職者党ファズルル・ラフマーン派(JUI-F),宗教問題大臣の辞職を受けて連立政権からの離脱を決定。
17日 温家宝中国首相,来訪(~19日)。大統領らと会談。
17日 FATAのハイバルでCIAによる越境爆撃。60人死亡。
21日 第19次憲法改正案,下院を通過。
27日 首相,オマーンを訪問(~28日)。
30日 第19次憲法改正案,上院を通過。

参考資料 パキスタン 2010年
①  国家機構図(2010年12月末現在)
②  政府等主要人物(2010年12月末現在)
②  政府等主要人物(2010年12月末現在)(続き)

主要統計 パキスタン 2010年
1  基礎統計1)
2  支出別国民総生産(名目価格)
3  産業別国内総生産(要素費用表示 1999/2000年度価格)
4  国・地域別貿易
5  国際収支
6  国家財政
 
© 2011 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
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