アジア動向年報
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2010年のアフガニスタン 米軍大増派も情勢転換に至らず
鈴木 均
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2011 年 2011 巻 p. 553-578

詳細

2010年のアフガニスタン 米軍大増派も情勢転換に至らず

概況

2010年のアフガニスタンは,前年のアメリカのオバマ政権発足以来のアフガニスタンを最重視した対テロ戦争の嵐に翻弄され続けた。オバマ政権はブッシュ前政権から引き継いだ中東政策の軌道修正を2010年になって本格化させ,イラクにおける米軍兵力の削減とアフガニスタンへの米軍増派を同時並行的に進めた。

この結果,駐留米軍は2010年末までに9万5000人規模に達し,ほかの国際治安支援部隊(ISAF)参加軍約3万6000人と合わせて,13万人規模の外国軍が現在アフガニスタンに駐留していることになる。これは2001年の米・英軍による最初のアフガニスタン空爆以来最大規模の駐留外国軍である。

同時に,米軍およびNATO軍の指導・訓練のもと現在アフガニスタンの国軍および警察が急ピッチで増強されており,もしこれが軌道に乗れば,カルザイ大統領が求めている政府への治安権限移譲は2011年以降スムーズに進むことになる。

オバマ政権の戦略によれば,2011年7月には米軍は撤退を開始し,2014年末までに撤退を完了するとしている。だが最初の撤退規模がどの程度になるか,また2014年末までの撤退が実際に可能であるかどうかは,2010年末の段階において全く不透明であると言わなければならない。

オバマ政権のアフガニスタン戦略における最大の問題は,南部の戦場における軍事作戦よりもむしろ将来的な受け皿となるべきカルザイ政権の脆弱性にある。現状においてアフガニスタンの国土のほとんどの地域は,パキスタン国境地帯を拠点とするターリバーンおよびそれと連携する旧軍閥諸勢力が実質的に統治しており,しかも2010年の後半にはそれが北部地域にも拡大しているといわれる。

このようななかで,国際社会からの承認を得たカルザイ政権が今後どの程度の統治能力を回復できるのか,2010年末段階においていまだその展望は見えていない。

国内政治

アメリカ・オバマ政権のアフガニスタン戦略

ブッシュ前政権の「テロとの戦い」を継承しつつ,対テロ戦争の前線をイラクからアフガニスタンへ移動させようとするオバマ大統領は,2月1日に政権初となる「4年ごとの国防計画見直し」(QDR)を公表,アフガニスタンおよびイラクでの戦争の勝利重視を表明した。9月1日には,オバマ大統領が2003年3月以来のイラク戦争の戦闘終結を宣言したが,その際にも同大統領はアフガニスタンでのテロとの戦いの継続を強調している。

オバマ大統領による対テロ戦争重視の発言を受け,連合軍による軍事作戦は2010年を通じ強化された。2月13日,ターリバーンの根拠地のひとつで,ケシ栽培の一大産地であるヘルマンド州マルジャに,米軍中心の1万5000人を投入した軍事作戦が開始され,これ以降,オバマ政権によるアフガニスタン戦略の大規模作戦となる「モシュタラク」が展開された。これに続き,9月にはターリバーンの一大拠点であるカンダハール周辺における軍事作戦も開始された(後述)。

しかし他方で,テロとの戦いを進めるアメリカ国内におけるアフガニスタン戦略への理解や支持が十分ではないことも露呈された。

7月1日,アメリカ下院はアフガニスタン戦費を含む補正予算案を可決した。しかし,票決は僅差であり,オバマ政権のアフガニスタン戦略がアメリカ民主党内で必ずしも歓迎されていない現実を示した。

アフガニスタンでの戦争遂行が長期化するにつれ,アメリカ社会が背負う負担も重くなっている。5月24日,アメリカ国防総省はアフガニスタン駐留米軍の規模(9万4000人)が初めてイラク駐留軍を上回ったと発表した。米軍は2011年7月に撤退開始を予定しているが,この撤退計画をスムーズに遂行するためにも悪化している戦況を大幅に改善させることを目指しており,2010年中に駐留米軍をイラクからアフガニスタンに振り向ける形で,最大規模の10万人程度まで増派する方針を実行に移した。だがこうした兵員の増強は,必然的にアメリカ兵の人的損害をも増大させる結果になっている。2月に発表されたアメリカ国防総省の新たな調査では,イラクおよびアフガニスタンの戦闘で外傷性脳損傷(TBI)を負ったアメリカ兵が,2001年以降で14万人にのぼっていることが明らかにされた(『毎日新聞』2月3日付)。これらを含む負傷兵士の処遇改善に見込まれた支出は20億ドル以上である(同紙2月2日付)。

こうした事態を受けて,アメリカ政府部内だけでなく米軍の中枢においてもアフガニスタン戦略に対する異見が生じている。2月以来のヘルマンド州のマルジャ周辺に対する大規模攻勢が進行中であった6月に,全軍を統括するマクリスタル司令官がアメリカ『ローリングストーン』誌のインタビュー記事で,アフガニスタン戦略に関連してバイデン副大統領を「こき下ろして」いることが明らかになった。同月23日,オバマ大統領はマクリスタル司令官を召還し,取材の経緯と内容について事情聴取のうえ,同日中に解任している。

11月2日に投票が行われたアメリカ中間選挙結果もアフガニスタン戦略に対しては将来的に否定的に作用する可能性がある。アフガニスタン戦略は,経済政策に対する選挙民の強い不満の陰に隠れてしまい,大きな議論にならなかったものの,この選挙で露呈されたオバマ政権の求心力の低下はアフガニスタン問題の今後の展開に暗雲を投げかけることになろう。

2001年以来の対テロ戦争の長期化によるアメリカ国民の厭戦気分は覆いようもなく,オバマ政権がアフガニスタンにおける当初の戦略目標を達成できるかどうかの最大の懸念要因のひとつになっている。

ターリバーンの影響力排除と権限委譲の難航

2010年はアフガニスタン前線を重視するオバマ米大統領の戦略が具体的な軍事作戦として展開された最初の年になった。米軍はNATO軍などと連携しつつ,まず2月からヘルマンド州のマルジャ周辺で大規模な「モシュタラク」作戦を展開し,同地域におけるターリバーンの影響力の排除を目指した。さらに9月以降米軍はカンダハール周辺のターリバーンの最大拠点にも大攻勢をかけ,南部地域におけるターリバーンの影響力をさらに排除することを目指した。

2月13日に連合軍による最初の大規模作戦となる「モシュタラク」がマルジャにおいて開始され,24日には米軍が対パキスタン国境のハッカーニー・ネットワークを無人機で攻撃,兵士6人を殺害している。ハッカーニー・ネットワークはターリバーンを構成する諸勢力のなかでも強硬派であり,さらにテロ組織のアル・カーイダとも密接な関係があるとされているグループである。2月25日,米軍はマルジャでアフガニスタガン国旗を掲揚し,同市のターリバーンからの奪還を宣言した。だが,連合軍がマルジャを奪還したといっても住民へのターリバーンの影響の根絶にはほど遠い状態であり,軍事的な作戦のみによる国内情勢の好転には限界があることが明らかであった。

この後,マクリスタル司令官の更迭を受けて,7月2日にペトレアス新司令官がカーブルで着任し,新たにアフガニスタン駐留米軍およびISAF軍の計13万人を指揮することになった。ペトレアス司令官は4日,「アフガニスタンの戦況は重要な局面を迎えている」と発言しており,今年の軍事作戦において戦況をどこまで好転させられるかが,その後のアメリカのアフガニスタン戦略にとって極めて重大な意味を持っているとの認識を示した。事実,7月の米軍死者数は63人に達しており,月間死者数として最悪の数字になっている。これはこの時期のアフガニスタン各地における米軍の軍事作戦の頻度と戦闘の激しさをよく物語っていると言えるだろう。

9月16日には米軍はカンダハールの西方パンジュワーイー地区のターリバーン拠点に大攻勢をかけた。10月に入ると1万2000人規模の米軍およびNATO軍が,カンダハール州のターリバーン拠点において軍事作戦を開始した。これは2月以来のマルジャ周辺における大規模作戦に続く米軍のアフガニスタン戦略の一環として極めて重要な意味をもつものである。

他方でオバマ大統領はアフガニスタン戦略において,アフガニスタン問題をパキスタン問題と不可分のものとして同時的に取り組む姿勢を示し,またアフガニスタンにおける軍事作戦は民生支援と連携してこそ実効性があると強調している。さらに,アフガニスタンに駐留するISAFの主力である米軍とNATO軍は,アフガニスタン国内のターリバーンおよび武装勢力との戦闘のみでなく,アフガニスタンの国軍および警察の訓練・育成をも重大な任務としている。

だが2010年段階におけるアフガニスタンの国内情勢は,あくまでもこうしたアメリカによる戦略の初期段階にある。連合軍による相次ぐ誤射や誤爆により国民の間の同軍への反感が高まっており,アメリカは軍事的な優位を背景としてターリバーン側との和平交渉を模索しつつも実質的には民生支援との連携や国軍・警察の育成よりも軍事行動の方が前面に出ていたことは否定できない。

「モシュタラク」作戦が開始された翌日の2月14日には,同作戦を遂行中の連合軍がロケット砲誤射で市民12人を死亡させるという失態が生じており,マクリスタル米軍司令官が直接カルザイ大統領に謝罪した。この時期,連合軍はマルジャ作戦以外にも軍事作戦を展開しているが,2月21日にはNATO軍がウズルガーン州とダーイクンディ州の州境で誤爆,市民23人が死亡した。これを受けて5月末に米軍側は関係者6人を処分している。また,4月12日には,米軍がカンダハールで民間バスを銃撃,市民5人が死亡するという事件も発生している。これに対してはカンダハール市民が抗議デモを繰り広げており,戦闘の激化に伴ってアフガニスタン国内の反米感情が高まっていることを如実に物語った。9月30日には,NATO軍ヘリ2機がパキスタン側に越境,誤爆でパキスタン軍兵士3人が死亡した。これに対しパキスタン側は,NATO軍のアフガニスタン向け物資輸送路を遮断して抗議した。10月6日には駐パキスタン米大使がNATO軍の越境・誤爆を謝罪している。

このような誤爆や市民の殺傷は戦争の前線ではある程度避けがたいとしても,こうした事例が度重なることにより,アフガニスタンおよびパキスタンの連合軍に対する国民感情が急速に悪化していることは報道の推移からもうかがえるところである。

他方,4月以降は国軍と米軍およびNATO軍の連携にしばしば齟齬が生じており,このことはアフガニスタン戦略全体の帰趨を予見するうえで注目に値する。4月12日には北部に駐留するドイツ軍がターリバーンとの激しい戦闘で3人死亡,その際誤射によって国軍兵士6人が死亡した。これに対し,ドイツ政府は自国軍に対する装備の強化の検討を始めた。ペトレアス司令官の着任直後の7月7日には,NATO軍が空爆で国軍兵士5人を誤って死亡させている。また同月13日にはヘルマンド州で国軍兵士がNATO軍部隊と銃撃戦を展開,兵士3人が死亡という事態に至っている。本来,米軍とNATO軍が訓練・育成し,十分な信頼関係のもとに連携して次第に治安権限を移譲されるべきアフガニスタン国軍が,NATO軍部隊と銃撃戦を展開したことの意味は深刻であると言わなければならない。

これ以後も国軍をめぐる事件は報道されており,8月4日には国軍部隊がラグマン州で単独で戦闘を開始した。この時はターリバーン側が国軍兵士10人を殺害し21人を拘束,政府に捕虜の交換を要求している。また8月25日にはバードギース州で訓練中の国軍兵がNATO軍に発砲,スペイン兵2人が死亡している。

ターリバーンと武装勢力の反撃

兵員を増強してアフガニスタン南部に軍事的な大攻勢をかけた米軍およびNATO軍のアフガニスタン戦略に対し,ターリバーン側は2010年を通じて頑強な抵抗を見せ続けた。だがその一方で,武装勢力や穏健派の一部はカルザイ政権との和平交渉に応じる動きも見せており,アフガニスタンの政治体制が最終的にどのような性格のものに落ち着いていくのかは2011年も引き続き予断を許さないものと予想される。

1月15日,2009年中の市民死者数が最悪の2412人にのぼったと国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)が発表したが,これらの多くはターリバーン側の爆破テロ等によるものであり,ターリバーンは殺傷による市民の恐怖心の醸成をも戦術に組み込んでいるものと考えられる。事実,8月10日の国連報告によると2010年前半のアフガニスタン市民の犠牲は前年の21%増であるが,それらはターリバーンによる爆弾テロの激化などが主な要因とされている。

1月18日にはカーブル中心街で武装勢力が大規模攻撃,死者12人を出し,カーブルは厳戒態勢に入った。カーブルでは以後2月26日にターリバーンの自爆と車爆弾によって18人が死亡した。これにはインド人6人が含まれており,インドは一時医療支援を中断するという事態にまでいたった。さらに5月18日には市内で自爆テロがあり,アメリカ人5人を含む10人が死亡している。翌19日の早朝にはカーブルから北東60キロメートルのバグラム米軍基地をターリバーン兵が襲撃,5人のアメリカ兵が負傷し,ターリバーン側は7人死亡している。

アフガニスタン南部のカンダハールでもテロによる被害は続出し,3月13日には自爆テロが4件連続して発生,市民37人が死亡した。4月19日の夜には,カンダハール副市長のA・ヤルマル氏がモスクでの礼拝中にターリバーンによって射殺された。ヤルマル氏は反ターリバーン側の人物としてカーブル市民の人望が厚かっただけに,市民の動揺は大きかった。さらに6月9日カンダハール北方の村でターリバーンが自爆テロを実行,結婚式に出席中の39人が死亡している。

8月16日にはターリバーンがカンダハール州で警察官6人を毒殺した。18日にもターリバーンの自爆テロにより警察官4人が死亡した。カンダハール州でのターリバーン攻撃はその後も続き,12月11日にはカンダハール警察署の爆弾テロで警官6人が負傷。翌12日には同市の西方で自動車爆弾が仕掛けられ,アメリカ兵6人と国軍兵2人が死亡した。さらに12月28日にもカンダハールのカーブル銀行で自爆テロがあり,市民3人が死亡している。

南部のターリバーンの根拠地のひとつであるヘルマンド州でも,2010年を通じてターリバーンの活動は活発であった。「モシュタラク」作戦を進めていた米軍およびNATO軍は,2月18日にマルジャ市内の戸別捜索を終了したが,ターリバーン側はその後も市民を盾にした反撃を継続した。これ以降,決定的に装備に劣るターリバーン側は徹底して正面からの交戦を避け,奇襲作戦やゲリラ戦,爆弾テロなどの戦術を採用して外国駐留軍の疲弊を待つという方法に転換し,外国駐留軍を苦しめ続けた。2月23日にはヘルマンド州とナンガルハール州で爆弾攻撃があり,市民9人が死亡した。また8月20日には,ターリバーンがアフガニスタン人民間警備会社員25人を殺害している。さらに12月10日には路上爆弾テロが発生して市民14人が死亡した。

さらにターリバーンの攻撃は南部地域に限らずアフガニスタン全土に拡がっており,米軍およびNATO軍が南部において軍事作戦を展開した2010年の後半以降,ターリバーン勢力はとくにこれまで影響の及んでいなかった北部地域での浸透・拡大の様相を見せている。

まず2月8日,北西部バードギース州においてアミーヌッラー地方行政官がターリバーンとの内通の嫌疑により逮捕された。また3月6日にはパシュトーン民族の有力な旧軍閥であるヘクマティヤール派(ヘズベ・イスラーミー)とターリバーンが北部バグラン州で衝突した。7月20日にはバグラン州の町でターリバーンが学校・病院・市庁舎を攻撃し,6人の警察官を処刑した。

その後もターリバーンは,7月23日にはローガル州でアメリカ海兵隊員2人を誘拐して1人を殺害,米軍側と取り引きを求めたが,数日後もう1人を殺害した。8月5日にはクンドゥズ州で自爆テロを実行,警官ら7人が死亡している。さらに8月15日には,クンドゥズ州の村でターリバーンが石打の刑を執行。これは2001年の敗走以来初めてとされる。クンドゥズ州のような北部地域においてこのような事態が発生していることは,ターリバーンの影響のアフガニスタン全土への拡大・拡散がいかに深刻であるかを如実に物語っている。さらにターリバーンは8月26日にもクンドゥズ州の州都で警察を襲撃,警官8人を殺害している。

この関連で,4月2日に日本人ジャーナリスト(40歳)が行方不明と日本政府が発表した。その後6月17日にターリバーン報道官がジャーナリスト常岡浩介氏の拉致・監禁を認めている。9月6日になって武装勢力はクンドゥズ州で常岡氏を解放,日本大使館が保護するに至った。

この事件について注目すべきことは,解放後に常岡氏が「犯人グループはターリバーンではなく,現地の腐敗した軍閥集団」であったと証言している点である。報道によれば常岡氏は拉致される直前にヘクマティヤールの率いるヘズベ・イスラーミーに取材を行っている。犯人グループが彼らのこととすれば,確かにターリバーンではないが,ターリバーンと連携してきたことも事実であろう。アフガニスタンにおける「ターリバーン」の実態の一端を窺わせる事例である。

また10月23日には,武装勢力がヘラートの国連施設を爆弾攻撃した。幸い負傷者はなかったが,この事例はターリバーンの攻撃が従来比較的平穏だったヘラートにまで及んできていることを物語っている。

カルザイ政権をめぐる政治状況

カルザイ大統領はもともと,2001年の9.11アメリカ同時多発テロ事件後,ボン合意(12月5日)によって発足した暫定政権の首班として任命され,2004年1月の新憲法発足後,10月の大統領選挙で当選した。その後2009年の大統領選挙では対立候補アブドッラー・アブドッラー氏と激しく争ったが,カルザイ氏側による選挙時の不正が取り沙汰されるなど後味の悪い結果となった。

しかし2010年以降,本格的にアフガニスタン戦略を進めようとするオバマ米大統領にとって,アフガニスタン側のパートナーとしてカルザイ大統領は決して軽視できない存在であり,カルザイ氏の周囲がいかに腐敗にまみれているとしても,これに厳正に対処しようとすることはアメリカのアフガニスタンにおける足場を根底から失うことにもなりかねない。ここに,カルザイ大統領の処遇をめぐってアメリカが現在抱えている悩みの本質的な要因がある。

もともと国内的な基盤が弱く,旧軍閥勢力のうちターリバーンと最後まで敵対していた旧北部同盟を母体とするカルザイ大統領の政権にとって,政府の永続的な存続のためにはターリバーン側との和平交渉が不可欠の条件である。だが,カルザイ大統領がターリバーン側と多少とも対等に交渉のテーブルに着けるのは,言うまでもなくアメリカとNATOを中心にした国際的な支持が背景にあるからにほかならない。カルザイの側からすれば,このような条件を如何にすればプラスに転じうるかが政権の命運を将来的に決定する最大のポイントである。

カルザイ政権にとって当面最大の交渉相手のひとつがヘズベ・イスラーミーである。ヘズベ・イスラーミーは上述のように,旧軍閥のゴルブッディーン・ヘクマティヤールが率いる,ターリバーンとは全く異質の武装集団であるが,一定の距離をとりつつもターリバーン側に立ち,パシュトゥーン人居住地域において政治的な影響力を次第に拡大,現在ではアフガニスタン国内で第2の政治勢力にまで成長してきた。そのヘズベ・イスラーミー(ヘクマティヤール派)が3月22日に和平交渉のため交渉団をカーブルに派遣し,カルザイ大統領と会談して外国軍の撤退を要求している。

さらに5月21日ごろにはモルディブ共和国の島で非公式にカルザイ政権とヘクマティヤール派との間の和平交渉が開催された模様であるが,その直後の5月22日,2009年8月の選挙でカルザイ大統領の対立候補となったアブドッラー・アブドッラー氏が訪米している。同氏は2001年に暗殺されたアフマド・シャー・マスード将軍の腹心の1人であり,反ターリバーンの立場からカルザイ政権のもとで2001年から2005年まで外相を務めた人物である。彼はカルザイ政権との関係を当面重視するアメリカ政府にとってはむしろ当面厄介な存在であり,それゆえ結局アメリカ側要人との会見も叶わなかった。だが同氏のバックにはラッバーニーをはじめ旧北部同盟系の人脈があり,他方でヘクマティヤール派の台頭によって,かつての内戦時代(1990年代)の対立構造が再現しつつあると見ることも可能である。

カルザイ大統領は5月23日,国民和平大会議(ピース・ジルガ)の開催日を29日から6月2日に延期と発表した。そして6月2日から3日間,カーブルで国民和平大会議が開催された。だがカルザイ大統領はアメリカに配慮して,この会議にはターリバーン側の参加を要請していない。他方カルザイ大統領の懐柔的な政治姿勢に批判的な旧北部同盟系のアブドッラー・アブドッラー氏は出席を拒否している。

その後6月6日になって,カルザイ大統領は拘禁中のターリバーン釈放の可能性を探る特別委員会の設置を最高裁に命じ,ターリバーン側との交渉を求める姿勢を鮮明にしている。

他方アメリカ側は夏以降,カルザイ大統領の周辺人脈の腐敗の調査に着手し,8月4日にはカルザイ大統領自らアメリカ機関の汚職調査に介入,アメリカとの緊張が高まった。

カルザイ大統領はこれに対抗して8月17日,外国民間警備会社の活動を禁止する措置を発表,年内に活動停止を求めるとの方針を明らかにした。だが10月27日のカーブル会合開催に際し,大統領は外国民間警備会社の活動停止期限を少なくとも2カ月間延長を表明,当面この問題による混乱の懸念は遠のいた。

その一方で,アメリカ・ニューヨーク連邦地検がカルザイ大統領の兄マフムード・カルザイ氏の脱税や恐喝容疑での捜査を9月27日までに開始,国際的な援助資金の不透明な流れにメスを入れようとの動きが本格化している。翻って考えれば,2003年のイラク戦争開戦以来,パキスタンに温存されたターリバーン残存勢力の影響力拡大を放置し,現在の状態に至らしめたのはもっぱらアメリカのブッシュ政権の責任であろう。治安の悪化にもかかわらず流入し続けてきた国際的な復興支援金の使途をめぐって現政権の汚職構造を摘発することにどれだけの積極的な意味があるのかという疑問は否めないであろう。

9月の議会下院選挙

9月18日に投票が行われた下院議会選挙は,本来ならば2010年におけるアフガニスタンの民主化の進展を内外に示す最大の政治的イベントとなるはずであった。だが,選挙の結果は2010年末までには発表されず,アフガニスタンにおける民主的な政治制度の定着に大きな疑問を残す結果となった。

まず1月24日にカルザイ大統領は,5月に行われる予定だった下院議会選挙を9月に延期する旨を発表した。

その後2月13日になって,政府は選挙法改正案を提出し,9月の下院議会選挙に向けて選挙監視団から外国人を排除することを求めた。だが下院議会は3月30日,カルザイ大統領の選挙法改正案を圧倒的多数で否決している。結局,カルザイ大統領は5月15日に国連側の推薦を受け入れて新選挙管理団を任命,9月の議会選挙実施に向けて大きな前進となった。

その後9月18日を投票日として,249の議席をめぐる下院議会選挙が全国で実施された。しかしターリバーンが一部で実力行使による選挙妨害を行い,また他方で選挙の直後から不正横行の批判が各方面で沸き起こっている。とくに選挙期間中の暗躍が囁かれたのは,カルザイ政権と親イラン勢力であったとされる。

10月20日には独立選管が集計の途中経過を発表しているが,この時点では560万票のうちの4分の1近い130万票が無効とされ,選挙結果の有効性が危ぶまれた。その後11月26日には,下院議会選挙での不正で9人を逮捕,さらに12月5日には2009年の大統領選挙に関連して選挙委員会委員5人を逮捕している。

いずれにしても2010年末の時点で9月の下院議会選挙の結果は公表されておらず,選挙自体の有効性が問われる事態となった。こうした事態に至った要因として,上述のように投票時におけるカルザイ大統領およびイラン政府の暗躍もアフガニスタン市民の間では囁かれている。現状において真に自由な選挙が仮に実施された場合,アフガニスタン国民によるカルザイ政権への支持がどれ程期待できるかは疑問である。現在アフガニスタン政府に求められているのは,民主的な制度それ自体の最低限の維持存続であろう。

経済

ケシの生産量が激減

アフガニスタンの経済は,現状において十分な工業化段階に到達しておらず,1980年代初頭からの長期的な戦争・内戦状態のなかで世界的な都市化過程からも大きく取り残されてきた。こうした状況下で,アフガニスタンにおける経済活動は基本的に農村部のコミュニティを基盤とした農業生産と陸封国としての利点を生かした国際的な流通経済に依存している。

現在のアフガニスタン農村において,もっとも生産性の高い商品作物としての地位を得ているのがケシ栽培である。事実,ケシ栽培とそこからのヘロイン精製工場は現在アフガニスタン国内に集中しており,2009年には世界のヘロイン使用量の90%を占めるまでになっている。

麻薬の密輸ビジネスは中央アジア諸国(とりわけタジキスタン),パキスタン,イランなどアフガニスタン周辺諸国にはびこるシンジケートによって担われており,もはやアフガニスタン一国の問題ではない。「テロとの戦い」の一環としてアフガニスタン戦略を推進するアメリカのオバマ政権にとって看過できないのは,アフガニスタンでもケシ栽培の中心となっている地域がヘルマンド州やカンダハール州などターリバーンの影響力の強い地域に集中しており,このため麻薬の密輸収入がターリバーンの活動を支えるもっとも重要な資金源となってきたという点である。

だがこうした状況に,2010年は変化の兆しが見えてきた。ひとつは駐留米軍とNATO軍,およびアフガニスタン国軍が2月以来ヘルマンド州のマルジャ周辺で大規模な軍事作戦「モシュタラク」を展開し,さらに10月からはカンダハール州の州都カンダハールでも軍事作戦を遂行した。これによって少なくとも当面は,ターリバーン側が昨年までのように南部地域でのケシ栽培からの現金収入を資金源とすることは困難が増しているであろう。

もうひとつは,アフガニスタンにおけるケシの生産量が「謎の病気」(胴枯れ病)により3分の2にまで減少したということである。事実,ヘルマンド州,カンダハール州およびウルズガーン州のケシ生産量は2500トンもの落ち込みをみせ,これに対し農民側は米軍およびNATO軍が何らかの関与をしたとして糾弾した。だがこれによってヘロインの価格が60%も上昇したため,結果的にターリバーン側にとって決定的なダメージとはなっていない。

こうした状況が今後も続くかどうかは不明であるが,もしこれがひとつの契機となって,2011年以降アフガニスタン南部地域におけるほかの換金作物への代替が進めば,麻薬の密輸に依存したアフガニスタン経済の宿痾が今後改善していくことも期待される。なお,この麻薬密輸問題の解決に向けてはロシアもNATOとの協力の姿勢を示している。

混迷する国内経済

現状において,アフガニスタン経済はけっして楽観を許すような状態ではない。それを象徴したのが,9月初めに表面化したアフガニスタンの最大手カーブル銀行の経営危機である。ことの発端は,8月30日にカーブル銀行の経営者2人が更迭され,これがきっかけになって週末にかけて取りつけ騒ぎに発展,中央銀行が資金援助に入った。カーブル銀行の経営にはカルザイ大統領の実兄らが深く関与しており,同銀行の問題については以前からアメリカが中央銀行に繰り返し警告してきたが,何の積極的対応もなされてこなかったという。

戦時下のアフガニスタンでは,従来から汚職が蔓延している。『ウォールストリートジャーナル』(2010年6月28日付)によると,2010年2月までの3年間に31億8000万ドルの現金が国外に持ち出されており,復興支援事業や治安維持関連の資金がカルザイ大統領周辺の人物によって横領された可能性も取り沙汰された。

カルザイ家の腐敗をめぐっては,9月27日までにアメリカ国籍を持つ実兄のマフムード・カルザイ氏の脱税や恐喝容疑に対する捜査をニューヨーク連邦地検が開始したが,これはアメリカ政府とカルザイ大統領との関係悪化の危険を常にはらんでいる。実兄に対する嫌疑はアメリカを中心とする国際的なアフガニスタン復興支援事業の公正性に関係するだけに,問題は深刻である。

地下鉱物資源の探査結果公表

アフガニスタン経済の将来的な可能性を示唆するひとつのニュースは,『ニューヨークタイムズ』が6月13日にアメリカ国防総省の情報として報道した,アフガニスタンの地下鉱物資源の探査結果である。

記事によると,旧ソ連の侵攻時以来の地下資源調査を受け継ぎ,地質学者も動員して三次元調査を含め広範な調査を実施した結果,アフガニスタンにある地下資源の総額は1兆ドルに近いという。アメリカ政府の多少のプロパガンダ的な要素も考慮する必要があるとはいえ,アフガニスタンの将来的な経済復興のひとつの方向を示しているものと考えることができるだろう。

図1  アフガニスタンの鉱物資源

(出所) Wikipedia, “Afghan topo en.jpg”(2011年2月28日アクセス)。アメリカ国防総省,“Afghan Economic Sovereignty : Establishing a Viable Nation,” 2010年6月をもとに筆者作成。

国際社会からの支援状況

アフガニスタン復興支援のための会議としては,1月28日にロンドンで支援国会議が開催された。だが会期は1日のみで,内容も新味に欠けるとされた。他方,韓国は7月2日から軍民共同の地方復興チーム(PRT)による活動をパルワン州において開始している。また7月20日には,カーブルでアフガニスタン復興に関する閣僚級国際会議が開催され,70を超える国や機関が参加した。日本からは岡田外相が出席して年内に約11億ドルの支援の実施を表明した。このほか,カルザイ大統領が6月17日に4度目の訪日をした際,日本側は最大50億ドルの民生支援の継続実施を表明している。

だが4月11日にカンダハール州でアフガニスタン人の地雷除去作業員5人が時限爆弾により死亡した。8月には武装集団がバダフシャーン州でNGO「インターナショナル・アシスタンス・ミッション」(IAM)の診療チーム10人を射殺,6日になって警察が遺体を発見しており,援助関係者に衝撃を与えた。アフガニスタン国内で実際に援助に携わる外国人の身体的安全の確保は,今後ますます難しさを増してくることも懸念されている。

対外関係

対欧米関係

アフガニスタンのカルザイ政権は,2001年の9.11アメリカ同時多発テロ事件後に設置された暫定行政機構に始まるその経緯からして,欧米の軍事的なプレゼンスを前提とした統治機構の維持整備という歴史的な役割を担うべき存在である。だがその後のアメリカの対イラク戦争を含む経緯のなかで,米軍およびNATO軍の駐留が無為に長期化して現在に至ったという側面も否めない。またこの間に,パキスタン北西部との国境地域を拠点としてターリバーンがアフガニスタン全土で影響力を回復してきたという現実に直面している。このためカルザイ政権の選択肢としては,欧米に対して駐留軍の早期撤退を求めつつターリバーン側との和平交渉を軌道に乗せる以外にはないものと考えられる。

このような事情を背景に,アフガニスタンではアメリカのオバマ大統領の新たなアフガニスタン戦略にもとづく米軍およびNATO軍主体の軍事作戦に先立って,3月には欧米首脳の電撃訪問が相次いだ。3月6日には,イギリスのブラウン首相がヘルマンド州を電撃訪問,3月8日にはアメリカのゲーツ国防長官がヘルマンド州マルジャを電撃訪問している。そして3月28日には,オバマ大統領が初めてカーブルを電撃訪問し,両国の軍事協力を評価するとともにカルザイ政府の統治能力の向上を要請した。

他方5月10日にはカルザイ大統領が訪米し,クリントン国務長官,バイデン副大統領らと会談している。12日にはホワイトハウスでオバマ大統領と会談し,オバマ大統領は長期的協力関係の構築を表明した。このようにアメリカ側の唯一の選択可能なパートナーとして,カルザイ大統領は最大限の厚遇を受けている。

だが欧米軍の駐留の長期化に加えて,前述のように,度重なるアフガニスタン民間人への欧米軍による不注意な誤爆や傷害事件は,市民の間での反欧米感情を否定しようもない程に増幅させる結果となっている。9月15日にはカーブルで大規模な反米デモが暴動に発展し,5人の参加者が警察の発砲により死亡した。この反米デモでは,宗教指導者が早朝カーブルの郊外で民衆を集め,アメリカ国内でコーランが焼かれたとしてデモを先導した。その後,群衆はカーブル市の中心部に向けて行進,最終的に8000人にまで膨れ上がったという。

アフガニスタン情勢は1年を通じて世界各国のメディアでも大きく取り上げられた。とくに代表のジュリアン・アサンジ氏を中心に機密情報の公開を社会運動として進める「ウィキリークス」が過去6年間のアメリカのアフガニスタン戦争関係の秘密文書9万件以上を公開し,各紙が7月27日に一斉に報道した。

他方でNATOのアフガニスタン駐留軍で中心的な役割を果たすイギリスのキャメロン首相は10月19日,1998年以来の戦略防衛見直しで防衛予算の8%削減を発表したが,アフガニスタン戦争の出費370億ポンド(年間)は「聖域」扱いとなった。イギリスは,そのもっとも重要な外交的パートナーであるアメリカのオバマ政権がアフガニスタン戦略を最重視していることに配慮し,アフガニスタン戦費を予算削減の例外としたものと見られる。

その後,12月6日にキャメロン首相はヘルマンド州の基地を電撃訪問してカルザイ大統領と会見,2011年のイギリス軍駐留部隊の撤退開始を示唆した。これに先立つ12月3日,オバマ大統領はカーブル近郊のバグラム米軍基地を電撃訪問しているが,関係の冷却しているカルザイ大統領とは電話協議のみに終った。

アフガニスタンの不安定な治安状況では,主要国の首脳は身辺警護上の理由から「電撃訪問」する以外に選択肢がないという事情があるとはいえ,国内での軍事作戦が実質的に困難となる冬季の始まりの時期に米英の首班が相次いでアフガニスタンを訪れたという事実は,とりわけオバマ大統領にとってアフガニスタン戦略の遂行が占めている位置の重要性が2011年においてもいささかも変わらないことを物語っている。

対ロシア関係

2010年のアフガニスタンの対外関係において,対ロシア関係の変化は特筆すべきものといえる。1989年2月の旧ソ連軍による撤退完了以来,ロシアは9.11アメリカ同時多発テロ事件以後も一貫してアフガニスタンに対する積極的な関与を行わないできた。だが2010年はロシア政府がこうした頑なとも言えるアフガニスタン問題への不干渉政策を捨てて,潜在的にもっとも影響力を与え得る主要国の一角として積極的な外交政策を採り始める節目の年となった。

まずその最初の動きとして,3月12日にロシアのプーチン首相がインドのニューデリーでシン首相と会談し,ターリバーンなど過激主義の台頭への対処において協力することで合意した。パキスタンは当然ながらこれに対し敏感に反応し,同国海軍は同日,アラビア海で対艦ミサイル等の発射実験を行っている。これはパキスタンによる印ロ接近へのけん制と見られる。

ロシアは続いて6月9日,モスクワでアフガニスタンの麻薬問題に関する閣僚級国際会議を開催。この会議には50カ国以上が参加している。この席でメドベージェフ・ロシア大統領は欧米の対応を消極的であると批判した。さらにメドベージェフ大統領は8月18日にカルザイ大統領をパキスタンのザルダーリー大統領とともにロシア南部の保養地ソチに招き,3者で会談している。この時ロシアの外相は,アフガニスタン側にとって反発の強いロシア軍の派遣については否定する一方で,アフガニスタン内務省に武器・弾薬を無償提供すると表明した。

その後ロシア政府はアフガニスタン問題に関してNATOとの協力関係の構築をも積極的に推進しており,10月29日にはNATO軍とロシアの麻薬取り締まり部隊がナンガルハール州アチン郊外で薬物工場4カ所を破壊した。カルザイ大統領はこれに対し,かつてアフガニスタンに侵攻して国際的な非難を浴びたロシア部隊の参加に不快感を表明している。

さらに11月3日には,ラスムセンNATO事務総長がモスクワに招かれてメドベージェフ大統領らと会談,アフガニスタンでの協力拡大を確認した。これを受けて11月19日からリスボンで開催されたNATO首脳会議開催では,アフガニスタン安定化とロシアとの協力拡大が主要議題として取り上げられている。

以上のように,アフガニスタンへの積極的な関与を始めているロシアの動向は,アメリカのアフガニスタン戦略が軌道に乗っていると言い難い現状において,重要なファクターのひとつとして注視していく必要があるだろう。

対周辺国関係

アフガニスタンの周辺国としては,直接国境を接する国だけでも現在6カ国があるが,2010年の対周辺国関係における重要な隣国としてアフガニスタン情勢に決定的な影響力を持っているのは言うまでもなくパキスタンとイランである。

まずアメリカの「テロとの戦い」においてアフガニスタンとともに最前線と位置づけられているパキスタンでは,パキスタン軍統合情報局(ISI)とCIAの合同作戦で,3月15日にターリバーン幹部のアブドルガニー・バラーダルらをカラチで拘束することに成功した。2月25日にパキスタン政府はアフガニスタン側にバラーダルの引き渡しを打診している。ただしパキスタン司法当局は3月1日,政府によるバラーダルの対アフガニスタン引き渡しを却下した。

また2月22日にはパキスタン軍が空爆を実施,対アフガニスタン国境地域で武装勢力30人を殺害するなど,パキスタン政府はこれまで以上に国内のターリバーン勢力一掃のための積極的かつ実質的な軍事作戦を遂行した。だが5月25日には北部ヌーリスターン州にパキスタン側の武装勢力が越境攻撃するなど,パキスタン・ターリバーンがアフガニスタンの最大の脅威になっている現状は大きく変わっていない。

こうしたなか,アフガニスタン政府は7月18日にイスラマバードでパキスタン側との通過貿易協定に調印,これにより両国輸出品の相互非課税が原則となった(インド向けを除く)。これは,アフガニスタンとパキスタン両国の経済関係を梃子とした安全保障の構築の試みである。

他方,イランおよびパキスタンとの外交関係にも大きな進展があった。まず3月10日に,イランのアフマディネジャード大統領はカーブルを訪問してカルザイ大統領と会談した。同日,カルザイ大統領はパキスタンのイスラマバードを訪問している。これを受けて3月16日に,イランとパキスタンは天然ガスパイプラインの敷設で基本合意に達し,6月8日には最終合意を取り交わした。

この構想はもともとイラン=パキスタン=インド(IPI)ガスパイプライン計画として,1990年にイランがインド・パキスタン両国に提案したものであるが,アメリカの意向に配慮するインドを後回しにする形になった。

こうしてイランは核開発問題などをめぐって欧米と対立しつつ,アフガニスタンや周辺国との外交関係の構築を着々と進めてきた感があるが,カルザイ大統領は10月25日になって,イラン側から長年現金を受領してきたと公表した。カルザイとしてはイランのアフガニスタンに対する影響力増大に一矢報いた形である。

また12月22日には,イランからの燃料輸送車が国境で当局により2週間以上足止めになった。イラン側は燃料が連合軍側に使用されるためと説明しているが,いずれにしても米軍およびNATO軍の円滑な活動のためには隣国であるイラン側の協力が不可欠であることを印象づけた。

2011年の課題

2010年12月16日に,アメリカのオバマ大統領はアフガニスタン戦略の検証結果を公表している。そこでは2010年中の軍事作戦の進展は強調されているものの,いまだ具体的な出口戦略は示されていない。2011年7月に設定されている米軍の撤退がどの程度の規模になるのか,そして2014年を区切りとする駐留米軍の撤収までにアフガニスタンでの軍事作戦と国軍・警察の強化,そして治安権限の移譲がどの程度の実効を挙げるのか,2010年末の時点では見通しを得ることすら難しいということである。

このような現状でアメリカのアフガニスタン戦略に何が求められるのか。『ウォールストリートジャーナル』(2010年7月5日付)に掲載されたアン・マーロウの意見記事は3つのポイントを提示している。第1はアフガニスタンの政治的な中立性を担保するということ,第2はアフガニスタン国家が十分な統治能力を回復した段階で米軍および外国軍が去るということ,第3はアフガニスタンの国民に民主主義的な統治原則がターリバーンの支配よりも勝っていることを示すということ,である。

アフガニスタンでは2004年1月4日に新憲法がロヤ・ジルガ(国民大会議)によって承認・採択され,現在のカルザイ政権の正統性はもっぱらこの憲法によって保証されている。だが2011年以降同政権とターリバーン側との交渉が本格化し,アフガニスタンの政権中枢にターリバーンが参加するという段階に至った場合には,いずれ近い将来に現行の憲法が大幅な改定を被る可能性も十分ありうるであろう。このようなアフガニスタン国家の根本的な部分における変質を,今後国際社会がどの程度まで許容しうるのかは,国際的な復興支援の継続をめぐる議論ともかかわって依然予断を許さないものがあると言わなければならない。

(地域研究センター主任調査研究員)

重要日誌 アフガニスタン 2010年
  1月
2日 下院,24閣僚の信任投票で17人を不信任。
9日 カルザイ大統領,閣僚新名簿を提出。
10日 イギリスのR・ハマー記者,ヘルマンド州で爆死。
15日 日本の海上自衛隊のインド洋上での給油支援活動が終了。
15日 鳩山首相,ドイツのヴェスターヴェレ外相とアフガン支援での協力を確認。
18日 アメリカ政府,バグラム基地の拘留者645人の名前を公表。
18日 カーブル中心街で武装勢力が大規模攻撃,死者12人。カーブルは厳戒態勢に。
24日 政府,下院議会選挙の日程が5月から9月に延期されたと発表。
26日 K・エイド国連特使,ターリバーン指導者の一部をテロリストから除外した,と政府に通知。
28日 ロンドンでアフガニスタン支援国会議開催。イランは会議を欠席。
29日 未明にカーブルの西でNATO軍が誤爆,国軍兵士4人が死亡。
  2月
1日 オバマ政権,「4年ごとの国防計画見直し」(QDR)でアフガン戦争の勝利重視を表明。
8日 北西部バードギース州のアミーヌッラー地方行政官,ターリバーンと内通の嫌疑により逮捕。
8日 カーブル北部のサラング峠で雪崩,死者150人超。
8日 アメリカ兵がカーブル市内の夜間捜索活動中に女性3人を殺害,4月4日になって司令官が事実を認める。
13日 連合軍,大規模作戦「モシュタラク」開始。ヘルマンド州マルジャに,米軍を中心に1万5000人を投入。
13日 政府,選挙法改定案を発表。9月の選挙に向けて選挙監視団から外国人を排除へ。
14日 連合軍,マルジャでのロケット砲誤射で市民12人が死亡。マクリスタル米軍司令官がカルザイ大統領に謝罪。
15日 パキスタン軍統合情報局(ISI)とCIA,ターリバーン幹部のA・Gh・バラーダルらをカラチで拘束。
18日 連合軍,マルジャ市内の戸別捜索を終了。ターリバーン側は市民を盾に反撃。
21日 NATO軍がウルズガーン州とダーイクンディ州の州境で誤爆,市民23人が死亡。
22日 パキスタン軍が北西部を空爆,パキスタン国境で武装勢力30人を殺害。
23日 反政府勢力,ヘルマンド州とナンガルハール州で爆弾攻撃,市民9人が死亡。
24日 米軍が対パキスタン国境のハッカーニー・ネットワークを無人機で攻撃,兵士6人を殺害。
25日 連合軍がマルジャでアフガニスタン国旗掲揚,ターリバーンからの奪還を宣言。
26日 ターリバーンのカーブル市内での自爆と車爆弾でインド人6人を含む18人が死亡。インドは医療支援中断を検討。
  3月
1日 パキスタン司法当局,政府によるバラーダルの対アフガニスタン引き渡しを却下。
6日 イギリスのブラウン首相,ヘルマンド州を電撃訪問。
6日 旧軍閥のヘクマティヤール派とターリバーンが北部バグラン州で衝突。
8日 アメリカのゲーツ国防長官,ヘルマンド州マルジャを電撃訪問。
8日 米軍の無人機がホースト州でアル・カーイダのH・ヤマニ司令官を殺害。
10日 イランのアフマディネジャード大統領,カーブルを訪問しカルザイ大統領と会談。
10日 カルザイ大統領,パキスタンのイスラマバードを訪問。
13日 カンダハールで自爆テロ4件連続,市民37人が死亡。
22日 ヘズベ・イスラーミー(ヘクマティヤール派)が和平交渉のため交渉団をカーブルに派遣,カルザイ大統領と会談し外国軍の撤退を要求。
28日 アメリカのオバマ大統領,カーブルを初めて電撃訪問。両国の軍事協力を評価し,政府統治能力の向上を要請。
30日 下院議会,圧倒的多数でカルザイ大統領の選挙法改正案を否決。
  4月
2日 日本政府,日本人ジャーナリスト常岡浩介氏(40歳)が行方不明と発表。
11日 カンダハール州でアフガニスタン人の地雷除去作業員5人が時限爆弾により死亡。
12日 米軍がカンダハールで民間バスを銃撃,市民5人が死亡。カンダハール市民が抗議デモ。
12日 北部に駐留するドイツ軍がターリバーンとの戦闘で3人死亡,誤射で国軍6人が死亡。
19日 カンダハール副市長のA・ヤルマル氏,モスクでの礼拝中に射殺される。
19日 米軍がホースト郊外の路上でアフガン市民4人を殺害。ホーストで抗議集会。
26日 イギリス人2人に贈賄の罪で2年間の禁固刑を宣告。外国人に初の有罪判決。
  5月
10日 カルザイ大統領訪米,クリントン国務長官,バイデン副大統領らと会談。
12日 カルザイ大統領,ホワイトハウスでオバマ大統領と会談。
15日 カルザイ大統領,国連側の推薦を受け入れ新選挙管理団を任命。
17日 民間パミール航空の国内線旅客機がサラング峠付近で悪天候のため墜落。乗客・乗員43人は全員絶望的。
18日 カーブル市内で自爆テロ,アメリカ人5人含む10人が死亡。
19日 早朝,ターリバーン兵がバグラムの米軍基地を襲撃。5人のアメリカ兵が負傷,ターリバーン側は7人死亡。
19日 カーブル市内の徴兵センターで自爆テロ,NATO軍兵士含む18人が死亡。アフガニスタン情報局はパキスタン側の関与を糾弾。
22日 カルザイ大統領の政敵A・アブドッラーが訪米。成果なしに終わる。
23日 政府,国民和平大会議(ピース・ジルガ)の開催日を29日から6月2日に延期すると発表。
25日 北部ヌーリスターン州にパキスタン側の武装勢力が越境攻撃。
  6月
1日 カーブル郊外に新設の米軍監獄でアフガニスタン側による初の裁判が開廷。
2日 カーブルで国民和平大会議を3日間開催。アメリカに配慮してターリバーン側の参加は要請せず。
6日 カルザイ大統領,拘禁中のターリバーン構成員釈放の可能性を探る特別委員会の設置を最高裁に命じる。
9日 ロシア,モスクワでアフガニスタンの麻薬問題に関する閣僚級国際会議を開催,50カ国以上が参加。
9日 カンダハール北方の村でターリバーンが自爆テロ,結婚式に出席中の39人が死亡。
17日 ターリバーン報道官,ジャーナリスト常岡浩介氏の拉致・監禁を認める。
17日 カルザイ大統領が4度目の来日,菅首相と会談。
23日 アメリカのオバマ大統領がマクリスタル司令官を召還し,アメリカ『ローリングストーン』誌取材記事について事情聴取のうえ解任。後任はイラクの多国籍軍司令官などを務めたペトレアス司令官。
29日 アメリカ上院軍事委員会がペトレアス新司令官の公聴会を開催。
  7月
1日 アメリカ下院,アフガニスタン戦費を含む補正予算案を僅差で可決。
2日 韓国,軍民共同の地方復興チーム(PRT)によるパルワン州での活動開始。
2日 ペトレアス新司令官がカーブルに到着,駐留米軍1万3000人を指揮。
7日 NATO軍,空爆で国軍兵士5人が誤って死亡。
13日 ヘルマンド州で国軍兵士がNATO軍部隊と銃撃戦,兵士3人が死亡。
18日 イスラマバードでパキスタンとの非課税貿易協定に調印。
20日 カーブルでアフガニスタン復興に関する閣僚級国際会議開催,70以上の国や機関が参加。
20日 未明にカーブルで3発のロケット弾が着弾,死傷者はなし。
20日 バグラン州の町でターリバーンが学校,病院,市庁舎を攻撃,6人の警察官を処刑。
23日 ハッカーニー・ネットワークがカーブル会議を標的にしていたとアメリカ側が公表。
23日 ターリバーン,ローガル州でアメリカ海兵隊員2人を誘拐して1人を殺害,米軍側と取り引きを求める。数日後もう1人を殺害。
27日 「ウィキリークス」が過去6年間のアメリカのアフガニスタン戦争関係の機密文書9万件以上を公開,と各紙が一斉に報道。
  8月
2日 アメリカ『タイム』誌がターリバーンによって傷つけられたアフガニスタン人女性を表紙に掲載。
4日 国軍がラグマン州で単独で戦闘。ターリバーン側が国軍兵士10人を殺害し21人を拘束,政府に捕虜の交換を要求。
4日 カルザイ大統領,アメリカ機関の汚職調査に介入,アメリカ側と緊張高まる。
5日 ターリバーンがクンドゥズ州で自爆テロ,警官ら7人が死亡。
6日 ターリバーンを名乗る武装集団がバダフシャーン州でNGO「インターナショナル・アシスタンス・ミッション」(IAM)の診療チーム10人を射殺,警察が遺体を発見。
10日 大雨によりインダス川流域で大洪水。ナンガルハール州で114人が死亡。
12日 ターリバーン,洪水被害による米軍などとの人道休戦の可能性を否定。
15日 ターリバーン,クンドゥズ州の村で2001年の敗走以来初めて石打の刑を執行。
16日 ターリバーン,カンダハール州で警察官6人を毒殺。
17日 カルザイ大統領,外国民間警備会社の活動を禁止。年内に活動停止を求める。
18日 カルザイ大統領,ロシア南部の保養地ソチでメドベージェフ大統領と会談。
18日 カンダハール州でターリバーンの自爆テロにより警察官4人が死亡。
20日 ターリバーン,ヘルマンド州でアフガニスタン人民間警備会社員25人を殺害。
25日 バードギース州で訓練中の国軍兵がNATO軍に発砲,スペイン兵2人が死亡。
26日 クンドゥズ州の州都でターリバーンが警察を襲撃,警官8人を殺害。
30日 最大手カーブル銀行の経営失敗で経営者2人が更迭,取りつけ騒ぎに発展。
  9月
1日 アメリカのオバマ大統領,イラク戦争の戦闘終結宣言,アフガニスタンに兵力傾注。
6日 ターリバーンを名乗る武装勢力がクンドゥズ州でジャーナリスト常岡浩介氏を解放,日本大使館が保護。
14日 西部の爆弾攻撃でNATO軍兵士3人が死亡。
15日 カーブルで大規模な反米デモ,5人の参加者が警察の発砲で死亡。
16日 米軍,カンダハールの西方パンジュワーイー地区のターリバーン拠点に大攻勢。
18日 下院議会選挙実施(249議席)。ターリバーンが一部で選挙妨害。
20日 イギリス軍,ヘルマンド州の激戦地サンギーン地区の任務を米軍と交代。
27日 アメリカ・ニューヨーク連邦地検がカルザイ大統領の兄マフムード・カルザイ氏を脱税や恐喝容疑で捜査開始。
30日 NATO軍ヘリ2機がパキスタン側に越境,誤爆でパキスタン軍兵士3人が死亡。
  10月
6日 駐パキスタン米大使がNATO軍の越境・誤爆を謝罪。
20日 独立選挙管理団が集計の途中経過を発表。560万票のうち130万票が無効とされる。
21日 パキスタン軍統合情報局(ISI),パキスタンを除外した政府とターリバーンの和平交渉は無効と警告。
23日 武装勢力がヘラートの国連施設を爆弾攻撃,負傷者はなし。
25日 カルザイ大統領,イランが長年自らに対して現金を支給してきたと公表。
27日 カーブル会合開催。カルザイ大統領は外国民間警備会社の活動停止期限を少なくとも2カ月間延長。
29日 NATO軍とロシアの麻薬取り締り部隊がナンガルハール州アチン郊外で薬物工場4カ所を破壊。
  11月
2日 アメリカ中間選挙でオバマ民主党が大敗。
3日 ラスムセンNATO事務総長がモスクワでメドベージェフ大統領らと会談,アフガニスタンでの協力拡大を確認。
19日 リスボンでNATO首脳会議開催,アフガニスタン安定化とロシアとの協力拡大が主要議題に。
20日 リスボンのNATO首脳会議でアフガニスタンの治安権限移譲の行程(2011年7月移譲開始,2014年末までに完了)を承認。
26日 9月の下院議会選挙不正で9人を逮捕と当局が発表。
  12月
3日 アメリカのオバマ大統領,バグラム米軍基地を電撃訪問。カルザイ大統領とは電話協議。
5日 2009年の大統領選挙に関連して選挙委員会委員5人を逮捕。
6日 イギリスのキャメロン首相がヘルマンド州の基地を電撃訪問,イギリス軍駐留部隊の2011年撤退開始を示唆。翌日カーブルでカルザイ大統領と会談。
10日 『ウォールストリートジャーナル』,アメリカが国軍への重火器供与を検討と報道。
10日 ヘルマンド州の路上爆弾テロで市民14人が死亡。
11日 カンダハール警察署の爆弾テロで警官6人が負傷。
12日 カンダハールの西方で自動車爆弾,アメリカ兵6人と国軍兵2人が死亡。
16日 アメリカのオバマ大統領,アフガニスタン戦略の検証結果を公表。軍事作戦の進展を強調するも,具体的な出口戦略は示されず。
22日 イランからの燃料輸送車が国境で2週間以上足止めに。イラン側は燃料が連合軍側に使用されるためと説明。
25日 パキスタン北西部バジョール管区の国連施設で自爆テロ,40人死亡。
28日 カンダハールのカーブル銀行で自爆テロ,市民3人が死亡。

参考資料 アフガニスタン 2010年
①  国家機構図(2010年12月末現在)
②  閣僚名簿(2010年2月末現在)
③  州知事

主要統計 アフガニスタン 2010年
1  基礎統計
2  産業別国内総生産(現行価格)
3  国家財政
 
© 2011 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
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