2012 年 2012 巻 p. 263-292
2011年7月3日に下院議員総選挙(定数500議席)が行われ,2006年クーデタで追放されたタクシン元首相を支持する野党「タイ貢献党」が265議席を得て圧勝した。その結果,タクシン元首相の妹であり,同党の事実上の首相候補となったインラック・チンナワットが,初の女性首相に就任した。インラック政権は,最低賃金引き上げ,法人税減税,籾質入れ制度などの公約の実現に着手した。また,政治面では国民和解を掲げ,軍や諸勢力との協調的な関係を模索し,反タクシン派が反発するタクシン元首相の恩赦や不敬罪改正に慎重な姿勢をとった。
順調な滑り出しをみせたインラック政権は,発足2カ月にして大洪水という難題に直面した。洪水被害は10月にはバンコク周辺に及び,近郊の7つの工業団地が次々に水没したほか,被災しなかった多くの工場も物流の寸断によって操業停止を余儀なくされ,その影響は日本をはじめとして世界各国に波及した。洪水による死者は800人余りに上り,住宅の浸水で数万人が長期の避難生活を強いられた。経済は第3四半期までは堅調に推移してきたが,洪水被害の影響で第4四半期はマイナス成長に落ち込んだ。洪水の終息で12月には経済指標の改善がみられたものの,本格的な回復は2012年に持ち越された。企業・投資家の信頼を回復すべく洪水対策・水資源管理の確立が喫緊の課題となっている。
対カンボジア関係では,2010年末に国境地帯視察中の民主党議員と反タクシン運動を主導してきた民主主義人民連合(People's Alliance for Democracy:PAD)の活動家がカンボジア軍によって逮捕・拘束される事件が発生し,関係悪化から一時両軍が国境地帯で交戦した。5月にはカンボジアの提訴に基づき国際司法裁判所(ICJ)が両軍の紛争地域からの撤退を命じる仮保全措置を出したほか,ASEAN外相会議では議長国インドネシアが仲介に動いた。8月にカンボジアとの関係の深いタクシン派が政権についたことで関係改善の兆しがみられた。
2010年5月に商業地域の占拠を続けたタクシン支持派の反独裁民主主義統一戦線(National United Front of Democracy Against Dictatorship:UDD)との交渉のなかで,アピシット・ウェーチャーチーワ首相(民主党)が早期に解散・総選挙を実施することを表明したため,2011年に入ると12月の下院議員の任期満了を控えて下院解散・総選挙は秒読みの段階にあった。アピシット首相は同じく2010年5月に提唱した「国民和解のためのロードマップ」(王室擁護,メディア改革,デモ参加者死亡の真相究明,経済的不平等是正,憲法改正の5項目)の実現が総選挙の条件であるとしたが,唯一目に見える成果が出たのは,2010年末からあわただしく進められた選挙制度に関する憲法改正だけであった。
憲法改正が選挙直前に行われたのは,2006年クーデタ後に制定された2007年憲法が公選議員の活動を規制していることに,与野党議員が強い不満を感じていたからであった。2009年には国会の「政治改革・憲法改正検討国民和解委員会」が6項目の憲法改正提案を行った。アピシット首相が2010年に設置した「憲法改正方針審議委員会」(委員長ソムバット・タムロンタンヤウォン国立開発行政大学院教授)はこの6項目提案を優先課題として審議し,改正案にまとめた。今改正は,そのうち条約締結手続き(第190条)と下院議員選挙制度の2項目の改正を先行して行うものであった。タイ貢献党は憲法改正に反対の立場をとり審議に参加しなかった。憲法改正における争点は1選挙区から1候補を選ぶ小選挙区制の復活であった。下院議員選挙は比例代表方式と選挙区方式との並列制をとるが,2007年憲法は選挙区方式については1選挙区から複数の候補を選ぶいわゆる中選挙区制を採用していた。議員のなかには1997年憲法が採用した小選挙区制の復活を求める意見が強かった。民主党内に慎重論があったが,比例区定数の見直しを同時に行う改正案がまとめられた。改正案は比例区定数を80から125に増やす一方,小選挙区定数を375(25減)とし,下院議員総数を500(20増)とした。また,比例制について全国8つの選挙区に分けていたが,改正案はこれを1997年憲法と同じくひとつの全国区とする方式に戻した。これらの改革は現職首相を擁する民主党に有利と考えられた。選挙制度を変更する憲法改正案は2月11日に国会両院合同会で可決された(賛成347,反対37,棄権42)。国会承認が必要とされる条約の範囲を明確にするもうひとつの憲法改正案は,同日に可決された(賛成397,反対19,棄権10)。2つの憲法改正は国王の裁可を経て3月4日に公布された。この憲法改正を受けて,選挙実施に必要な「下院議員選挙・上院議員選出法」,「選挙委員会法」,「政党法」の3つの憲法付随法改正案が国会で可決され(4月25日),さらに憲法で義務づけられる憲法裁判所の審査に付された。5月9日に憲法裁判所が合憲の判断を出すのを待って,アピシット首相は同日に下院を解散し,2カ月の選挙戦が始まった
事実上の首相選を制したインラック政権タイ貢献党は,5月16日にタクシン元首相の妹であるインラック・チンナワットを同党の比例代表名簿の第1順位とすることを正式に決定した。選挙戦は,現職の民主党アピシット首相と,インラック候補のどちらを首相に選ぶかという事実上の首相選となった。タイ貢献党の公約や首相候補の選定に海外で逃亡生活を続けるタクシン元首相が中心的な役割を果たした。
インラックは,1967年生まれの44歳(選挙当時)。タクシン元首相の18歳離れた妹である。タイ北部のチェンマイ大学を卒業後,アメリカで経営学修士を取得し,タクシン一族が保有したシン・コーポレーション・グループに入り,携帯電話事業のAIS社のCEOを務めたほか,タクシン一族がシン社株式を売却した後は一族の資産開発会社であるSCアセット社の代表取締役を務めていた。このように,インラックはビジネスでは手腕を発揮したが,政治経験はなかった。
インラック候補が「ノミニー」(傀儡)にすぎないのではないか,という記者の質問に対して,タクシン元首相は「クローン」(複製)だと切り返した。タクシン元首相は,年の離れた妹であるインラック候補が自分の一番年上の娘のようであり,アメリカ留学時代やタイに戻ってから企業経営において経験を積む間も常にタクシン元首相と一緒に歩んできたことを強調した(Matichon,2011年5月20日)。報復のためではなく問題解決のためにインラックが選ばれたこと,そして,女性の方が多様な意見に耳を傾けることができ,和解を達成できるとした。
選挙戦の序盤には民主党とタイ貢献党は互角とみる者もあったが,いくつかの世論調査においてタイ貢献党が終始優勢を示した。選挙戦後半になると民主党はネガティブ戦略に重点を移し,2010年5月のタクシン派の暴動の責任を問う姿勢を鮮明にした。UDD・タイ貢献党側は,強制排除による死傷者についてアピシット政権に責任があるとの従来の主張を繰り返した。インラック陣営はこうした議論には関与せず,国民和解の実現を強調する姿勢をとった。
総選挙前にはUDDの集会等における王室への言及を不敬罪で取り締まろうとする動きが強まったが,諸政党は王室を政治利用しないことで合意し,5月4日に公布された選挙委員会規則では選挙運動に王室を利用することが禁止された。
軍によるクーデタの噂が繰り返し流れたが,4月には国軍幹部が揃ってクーデタの噂を否定し,軍が総選挙に中立の立場をとることを表明した。6月14日には,プラユット・チャンオーチャー陸軍司令官がテレビ出演し,これまでと同じ選挙では変化は生まれないとし,良き人,礼儀正しき人,そして国のために働く決意のある人を選ぼうと呼びかけた。この発言はタイ貢献党への批判と受け取られた。しかしながら,インラック陣営は和解を強調する立場を堅持し,軍に対しては報復人事を行わないことを表明し,協調を模索した。
7月3日の投票の結果,タイ貢献党が予想を上回る265議席を獲得し,民主党は159議席にとどまった(表1)。投票率は選挙区・比例区ともに75.03%であった。
(注) 英文名称は選挙委員会登録のものを用いた。
(出所) 選挙委員会資料をもとに筆者作成。
比例区の得票率をみると,前回2007年12月23日の総選挙では民主党が33議席(得票率40.4%),タクシン派の「人民の力党」が34議席(同41.1%)とほぼ互角であったのに対して,今回の選挙では民主党が44議席(得票率35.1%),タイ貢献党は61議席(同45.4%)となり,タイ貢献党が民主党を大きく引き離した。憲法改正による比例区定数の増加は民主党ではなく,タイ貢献党に有利に働いた。
次に選挙区方式をみると,中選挙区であった2007年は民主党の得票率が30.21%(議席比率32.8%)であり,人民の力党は36.83%(同49.8%)であった。小選挙区制を採用した今回の選挙では民主党が31.9%(同30.7%),タイ貢献党が44.9%(同54.4%)であった。選挙制度の変更はあったが,タイ貢献党への支持が増えたことが明らかである。また,今回の選挙で死票の割合は民主党が41%,タイ貢献党27%となっており,小選挙区制の効果がタイ貢献党の議席を伸ばした。
2大政党,つまり民主党またはタイ貢献党(旧人民の力党)のいずれかに投票した人の割合は,2007年に比例区81.5%,選挙区67.0%であったのに対して,2011年はそれぞれ83.6%,76.9%へと増加した。2007年には選挙区において中小政党の候補に投票するが,比例区で2大政党のいずれかに投票するという行動をとる人が多くいたことが分かる。これに対して今回の選挙においては選挙区・比例区いずれにおいても2大政党の一方を選択したことが顕著である。今回の選挙で中小政党は議席を減らしており,その多くはタイ貢献党に回ったと考えられる。
タイ貢献党は支持基盤である北部・東北部を中心に広い地域で議席を増やしたが,民主党は伝統的な票田であるバンコクおよび南部で依然として強さをみせた。とくに南部では次点以下の候補と大差をつけて当選した議員が多い。バンコクでは民主党が優勢であるが接戦が多かった。中小政党はその本拠地である県において議席を失う事例もあり,苦戦を強いられたといえよう。
タイ貢献党の勝因は何であろうか。そもそも前回の2007年総選挙を含めて2001年以降の3回の総選挙に勝ったのは常にタクシン派であり,もともと民主党の支持基盤は弱かった。選挙で負けた民主党が政権を得たのは,2008年12月の憲法裁判所判決によってタクシン派の人民の力党ほか与党2党が解散を命じられたこと,そしてタクシン派の一部(現在のタイ矜持党)が民主党側に寝返ったからであった。タクシン支持派が新たに結成したタイ貢献党は,選挙になれば自分たちが必ず勝つと自信を持っていた。
民主党は政権にある間に支持基盤の拡大を狙ったが成功しなかった。かつてタクシン政権の政策は「大衆迎合的」であると強く批判されたが,アピシット政権はタクシン派に対抗するように,分配を重視した政策に傾斜していった。選挙戦においてもタイ貢献党と大衆迎合的な公約を競ったが,民主党は国民の支持を引き出すことができなかった。また,金融危機による世界経済の減速に見舞われるなど外的環境にも恵まれず,アピシットが政権についた2009年はタイもマイナス成長となった。国内政治では,アピシット政権はUDDによる抗議行動に悩まされ続けたほか,対カンボジア政策で強硬な対応を求めるPADに突き上げられ,ICJや世界遺産委員会など国際機関の場でも守勢に立たされた。また,民主党は2010年5月の抗議行動で多くの犠牲者が出たことから,タクシン派が支持を失うと期待したが,叩かれたタクシン派は結束を固め,アピシット政権ではもはや問題を解決できない,との見方の方がむしろ強まったといえよう。これはまさにタクシン派の狙い通りの展開であった。
タイ貢献党の勝利を確実なものとしたのが,インラックという強力な候補の投入であったことは疑いがない。タクシン元首相への信奉はなお根強く,その妹という首相候補の存在は大きかった。また,ジェンダーが選挙戦のなかで中心的な争点となったとはいえないが,女性であることが国民和解の推進に有利であるというメッセージは選挙戦のなかでたびたび強調された。
民主党支持が強かった都市部では,ほかの政治勢力に流れた票も少なくなかった。たとえば,風俗業経営で財をなし,その後警察汚職の批判など歯に衣着せぬ発言で人気のあるチューウィット・カモンウィシットが立ち上げた新党「タイ国を愛する党」は,比例区で4議席を獲得する大躍進となった。同党はバンコクにおいて比例区で7%の支持を集めた(民主党45%,タイ貢献党42%)。
また,PADが「獣を国会に送るな」というスローガンのもとに展開した選挙ボイコット運動が民主党に不利に働いた可能性も高い。タイでは,投票用紙に「投票する意思がない」という項目を選べるようになっており,PADは有権者にそれを選択するように求めた。全国で「投票する意思がない」が比例区2.72%,選挙区4.03%(2007年2.85%,4.58%)であったが,バンコクではそれぞれ6.42%,6.09%(2007年選挙ではバンコクを含む第6選挙区は3.24%,4.22%)と高い。他方,既存政党に不満だが,PAD支持とみられたくない無党派層が無効票を投じた面もあるといわれるが,無効票は全国では比例区4.90%,選挙区5.79%(2007年5.56%,2.56%),バンコクでは比例区1.39%,選挙区5.34%となった。
インラック連立政権の成立選挙後,直ちに連立協議が開始され,タイ国家開発党,国家貢献開発国民党,民衆力党,新民主主義党,大衆党の6党が連立で合意し,下院で300議席の安定多数を確保した。選挙委員会は当選認定に慎重な姿勢をとり,総選挙後の通常国会開会の遅れが危ぶまれたが,通常国会が招集された8月1日までに議員全員の当選確定が行われた。なお,不正の疑いから7月31日に2選挙区で再選挙,1選挙区で票の再集計が行われたが,当選者に変更はなかった。
確定作業が遅れた原因は,刑事訴追されているUDD幹部がタイ貢献党の比例名簿に含まれていたからである。UDDはこれまでタイ貢献党とは独立して運動を進めてきたが,タイ貢献党は今回の選挙では論功行賞としてUDD幹部を比例名簿に加え,その結果10人が当選した。なお,このうちチャトゥポーン・プロムパン議員については,11月になって選挙委員会は選挙時に逮捕拘留されていたことを理由に議員資格がないと認定し,最終的な判断は憲法裁判所に委ねられた。
8月5日に下院はインラックを首相候補に指名し,8月8日に国王によって首相に任命された。9日の組閣では副首相を5人に増員し,経験ある政治家や外部有識者を起用することで政治経験のないインラック首相の脇を固めた。折しも7月27日に逝去したペチャラット王女(第6世王の娘,享年85歳)の服喪期間と重なったため,閣僚全員が喪章をつけての宣誓式となった。組閣においてUDD幹部の閣僚入りは見送られたが,大臣顧問等の形で政府に参加した(後に2012年1月の内閣改造でUDD幹部が閣僚に加わった)。
8月23~25日に国会において所信表明演説と質疑が行われた。タイ貢献党の公約はインラック政権の「政策表明」にまとめられた。政権最初の年に実施する優先政策(16項目)としては,まず相互理解の促進による民族和解の確立と民主主義の再生が掲げられた。1997年憲法体制後半以降の意見の対立と暴力によって影響を受けた諸方面の人々を継続的に支援するほか,アピシット政権で設置された「真相究明・国民和解委員会」(委員長カニット・ナナコーン元検事総長)による真相究明を支援するとした。このほかに,麻薬,南タイ問題,水資源管理,憲法改正に取り組むことが表明された。他方,経済面の優先政策としては,インフレーション・原油高の影響の緩和,購買力増強による国民生活の質の向上,法人税減税,農産物価格引き上げ,低所得者層・農民の資金アクセスの向上,観光促進,学校へのタブレットPC配布等が掲げられた。また,鉄道の複線化,バンコク=チェンマイ間などの高速鉄道,バンコク都内の10路線の開業と運賃の一律化(20バーツ),アンダマン海とタイ湾を結ぶランドブリッジ構想などのメガプロジェクト構想も掲げられた。総じていえば,農村・低所得者層などへの分配による内需拡大と競争力強化を組み合わせたタクシン政権期で追求された経済政策(「タクシノミクス」と呼ばれた)を復活させるものであった。
下院で単独過半数を制したタイ貢献党が中小政党と連立を組んだ背景には,専横との批判を回避したいほか,公約とする憲法改正に向けた布石でもあった。憲法改正は国会両院合同会(定数650)で行われ,過半数の承認が必要だからである。上院は1997年憲法によって初めて公選とされたが,議員の政党への所属が禁止されている。また,2007年憲法では定数150うち公選議員は約半数の77(1県1選挙区。2011年3月に県がひとつ増えた)に限定し,残りの議員は憲法で定める手続きに従って,「学術」,「政府」,「民間」,「専門職」,「その他」の5つのセクターから「選出」する。3月には,アピシット政権下で非公選議員の入れ替えが行われた。憲法施行後に最初に選出された非公選議員の任期を3年とする経過規定297条によるものである(通常は任期6年)。上院議員は原則1期のみで再任が認められないが,経過措置として再任が認められたため,選出された73人のうち29人が再任であった。
憲法改正について連立与党は,12月21日に改正手続きに関する第291条を改正することで合意した。国民投票の位置づけなど改正の進め方についてはタクシン派内にも異論があり,2011年中に明確な方針は示されなかった。
また,インラック首相は選挙中から軍の人事に介入しないことを表明しており,10月1日付の人事は軍側の案にほぼ従った形で行われ,UDDが目の敵とするプラユット陸軍司令官は留任となった。軍に対するタイ貢献党の対応は先送りされた。他方,警察長官にはタクシン元首相の義兄のピヤオパン・ダーマーポン警察大将が昇進した。前任のウィチアン・ポットポーシー警察大将は当初更迭に抵抗する姿勢を示したが,国家安全保障委員会事務総裁職に転出した。
司法や憲法上の独立機関である選挙委員会等における手続きを利用し,敵対する勢力を追い落とそうとする動きは選挙戦を通じて顕著であった。たとえば,民主党とタイ貢献党は相互に相手側の選挙違反を選挙委員会に申し立てた。民主党は,タイ貢献党がその候補者のメディアにおける露出を増やすために,メディアに資金提供したと主張した。また,タイ貢献党は商務省による消費者向け低価格販売(空色の旗事業)が有権者への資金提供にあたると主張した。いずれの申立ても認められなかった。また,PADは,選挙無効を求めて最高裁判所に訴えたが,訴えの利益がないとして却下された。インラック政権は下院で安定多数を確保しているため,今後も民主党やPADがこうした院外での手続き申立てなどを通じて政権に揺さぶりを仕掛けることが予想される。2008年12月に人民の力党の解散を命じた憲法裁判所の判決の根拠となった憲法規定はなお残っており,予期せぬ時期に選挙違反の申し立てが認められて解党命令が出される可能性が残る。
大洪水への対応と復興に向けた取り組み順調に船出したインラック政権は,発足後2カ月にして大洪水という難題に直面した。平たんな地形の多いタイでは雨季が終わる10月から11月にかけて上流で降った雨が下流域に集中し,毎年のように洪水が起きる。しかし,2011年の洪水被害は1942年以来という稀にみるものであった。すでに9月頃には北部上流域で洪水被害が顕著となっており,南部の水害(3月)と同じく被災家族への5000バーツの見舞金支給が閣議決定されていた。その後,洪水の影響は次第に下流域へと広がった。政府は,閣僚が陣頭指揮に立って,軍を動員し堤防の強化など対策に努めたが,10月にはバンコク近郊のアユタヤー県,パトゥムターニー県において工業団地7カ所が次々と水没し,主要道路が寸断された。アユタヤーの遺跡も水没した。被災した工場のみならず,洪水対策や物流の寸断による部品不足のために多くの工場が操業の停止を余儀なくされた。操業停止の影響は,タイ国内だけでなく,日本や世界各国に波及し,グローバルなサプライチェーンのなかでタイがいかに重要な位置にあるかを知らしめることとなった。バンコクにおいても浸水被害が広がり,政府は,工業団地の洪水被害が拡大した10月8日に「水害・地滑り・干ばつ問題解決委員会」を設置する一方,元警察長官のプラチャー司法相を長とする「水害被災者支援センター」をドンムアン空港内に設置し,被災者の支援にあたらせた。10月11日の閣議で,インフラストラクチャー,経済,社会の3分野の「水害被災者支援復興軽減委員会」を設置し,復興計画の策定にあたらせた。また,10月25日の閣議では復興支援のため政府系金融機関を通じた信用供与策をまとめた。
しかし,その後も被害地域は拡大し,避難所にも指定されていたドンムアン空港も浸水し,政府は支援センターの移動を余儀なくされた。バンコク中心部や東部の工業団地への浸水が懸念されたが,政府はバンコク中心部を死守すべく,「ビッグバッグ」と呼ばれた巨大な土嚢で防衛線とした幹線道路に堤防を築いたほか,ポンプによる排水を強化することで,海面が上昇する11月の大潮を乗り切った。12月になって洪水被害はようやく収束した。被災地域の多くでは11月半ばから排水・清掃作業が開始された。
洪水の直接の原因は降雨量の著しい増加であったが,ダム放水の遅れが被害の拡大を招いた。近年,洪水と同様に乾季の干ばつ被害が続いており,干ばつへの備えに気を奪われた結果,ダムが満水になって初めて大量の放水を開始し,その水が下流域を直撃することとなった。浸水は65県に及び,浸水面積は4万5023平方キロメートル(11月末,科学技術省)であった。死者は812人に及び,例年と異なり水の勢いが強いために水死した者のほか,感電による死者も多かった(家庭用電圧は220ボルト)。長期の浸水によるカビの発生,腐敗の進行,感染症などの健康被害への懸念も強まった。
洪水対策を進めるなかで地域間の対立が顕在化した。バンコクを守るために水門を閉めたことや,堤を築いたことで周辺地域に浸水被害が拡大した。実力で水門を開放しようとする地元住民と政府の間で小競り合いも起きた。また,与党タイ貢献党とスクムパン・ボーリパット・バンコク都知事(民主党)との政治対立も状況を悪くした。バンコク防衛のための措置は周辺の被災地域の排水の遅れをもたらし,12月になっても水が引かず長期の避難生活を強いられる住民も多かった。
11月になると政府は,中長期的な洪水対策および水資源管理体制の確立へと軸足を移した。11月10日,政府は「復興と国の未来建設のための戦略委員会」(委員長ウィーラポン・ラーマーンクーン元財務相)と「水資源管理体制戦略委員会」(委員長キティラット副首相兼商業相)を設置した(いずれも国家経済社会開発庁[NESDB]内に事務局)。11月15日の第1回会合では,ウィーラポン委員会の下部機関として,戦略・外交顧問団と,①民間協力調整・信頼形成,②恒久的組織設置・行政運営指針,③金融・資本市場,④保険の4つの小委員会が設けられた。被災企業の多くは保険金が支払われたが,とくに被災した工業団地では保険料の高騰などの問題が生じた。具体的な復興プランや水資源管理計画の内容は2012年に持ち越された。
民主党は政府の洪水対策の失敗を追及する姿勢を示し,支援物資の配布が滞ったことの責任を求めて支援センターを担当したプラチャー法相に対する不信任動議を提出した(11月28日採決,信任)。また,マープタープット訴訟を提起した環境NGO(地球温暖化防止協会)が,洪水対策失敗について政府の責任を問う訴訟を中央行政裁判所に12月に提起した。
対立回避を優先するインラック政権――恩赦・不敬罪タクシン派は,司法手続きにおいて保釈や刑事訴追など多くの面でタクシン派が不利に扱われているという「ダブルスタンダード」批判を展開してきたが,インラック政権は司法のあり方の見直しを進める姿勢を打ち出した。10月にウクリット・モンコンナーウィン元上院議長を委員長とする「国家法治主義独立委員会」が設置され,「法治主義を支え,法律の適用が公平,平等,かつ人の権利・自由を保護して行われるようにし,ならびに平穏な社会を導くため,国家の法適用に対する信頼を確立すること」が目的に掲げられた。
インラック政権は,復興や公約の実現を優先し,軍やほかの勢力との政治対立を回避する姿勢を示した。有罪判決を受けて海外逃亡中のタクシン元首相の恩赦を行おうとすれば,反タクシン派が結集する口実となることは明らかであり,インラック政権やタクシン元首相本人も早期の恩赦には消極的である。しかしながら,早期の恩赦を求める声はUDD,タイ貢献党のなかに根強い。また,2009年8月に恩赦を請願するためUDDが集めた350万人の署名について,司法省が9月になってその有効性を確認したが,国王にはまだ提出されていない。また,海外逃亡中のまま一度も服役せずに恩赦を受けることができるかという法的問題が残る。他方,2010年5月の抗議行動で多数の死傷者を出したUDD内に,政府側の責任追及を求める意見も強く,政府関係者も恩赦の対象となることで責任追及ができなくなることを警戒する。チャルーム副首相がタクシン元首相の恩赦を推進する動きを示したが,12月に例年通り行われた国王誕生日の恩赦対象(2万6000人)にはタクシン元首相は含まれなかった。
不敬罪(刑法112条)の問題が新たな争点として浮上した。これまでタクシン派がその抗議集会のなかで行った王室への言及を不敬罪で取り締まる動きが続いた。不敬罪で重い刑が科される事例が続いたことで,国際的にも批判を受けるようになった。11月には王室に批判的な内容の携帯メールを発信したとして,61歳のタイ人男性が懲役20年を宣告された。アメリカ市民権を持つタイ人男性が,発禁処分となっている国王の伝記を翻訳したことやインターネット上の書き込みなどで逮捕された事件では,アメリカ領事名で憂慮が表明された(12月8日に有罪判決)。12月15日には女性活動家が集会での不敬発言を理由に懲役15年を宣告された。一連の判決については国際人権NGOからの批判が相次いだほか,国連人権高等弁務官事務所が罰則改正を求める提案も表明している。タイの知識人のなかにも不敬罪の改正を提言する者が出ている。若手法学者を中心とする「人民法学」(ニティラート)は不敬罪の改正を提言するほか,2006年クーデタ以降の法改正をいったん元に戻すことを提言して,反タクシン勢力の反感を買った。他方,内外からの批判に対しては軍や王党派の反発が強く,たとえば,プラユット陸軍司令官は不敬罪改正を認めない発言を繰り返し表明した。UDD内には不敬罪改正を求める意見もあるが,軍や他勢力との新たな対立点となる不敬罪改正問題にインラック政権がすぐに乗り出す可能性は低い。8月にはチャルーム副首相が不敬な内容を取り締まるためネット監視を強化する方針を表明するなど,閣僚内でも不敬罪への取り組みには温度差がみられる。
2011年は,災害が経済に深い影響を残した年であった。3月末には南部を襲った暴風雨による洪水や地滑りが発生し,天然ゴム,パーム油等の生産・供給に影響を与えた。また,3月11日の東日本大震災による部品・原材料の供給の混乱のため,タイにおいても日系企業などに一時的な操業停止や減産が広がった。大震災の影響から生産が回復した頃に発生したのが9~11月の大洪水であった。
洪水被害のため,第4四半期はすべての経済指標で急激な落ち込みが生じた。タイ経済は世界金融危機の影響から2009年はマイナス2.3%成長となったが,2010年は急速に回復し7.8%の高成長となり,2011年前半はバーツ高による景気減速がみられたものの,第3四半期までの四半期別成長率は3.0%,2.8%,3.5%と堅調に推移していた。洪水被害の結果,第4四半期の成長率はマイナス9.1%を記録,通年では0.1%となった。
インフレ懸念から2010年半ばに政策金利の引き上げを始めた中央銀行(タイ銀行)は,2011年に入ってからも0.25%ずつ6回にわたって利上げを行い,政策金利は年初の2.00%から3.50%(8月24日)まで上昇した。しかし,甚大な洪水被害の発生や欧州経済危機による景気悪化への懸念が強まったことから,中央銀行は利下げに方向を転じ,11月30日には政策金利を0.25%引き下げて3.25%とした(2012年1月25日には3.50%に引き上げた)。
洪水被害による工業生産の落ち込みは深刻であった。直接の被害を受けた企業だけでなく,洪水に備えるため,あるいは部品等の供給の目処が立たないといった理由で操業を停止する企業が広がった。その影響は輸出を牽引してきた自動車,ハードディスクなどの電機・電子をはじめとして広い範囲の産業に及んだ。たとえば,自動車生産(乗用車・トラック)についてみると,2010年には内外の需要拡大で過去最高の160万台の生産を達成したが,2011年は震災・洪水による減産・操業停止の影響で生産台数は大きく減少した(図1)。日系企業では生産を日本や第三国に移す動きがみられ,タイ人労働者の日本への一時的な受け入れを円滑化するための措置もとられた。
(注) 乗用車・トラックの国内向・輸出向生産をすべて含む。
(出所) タイ工業連盟自動車部会資料より筆者作成。
輸出は第4四半期にマイナス4.8%と急減したが,通年では11.7%増となった。欧州経済危機の影響は,対欧輸出のシェアが小さいこともあり,あまり顕著ではない。輸出先は,ASEAN諸国が23.7%でもっとも多く,中国(12.0%),日本(10.5%),アメリカ(9.6%),EU15カ国(9.4%),香港(7.2%)と続く。輸入は通年で19.1%増であり,輸入先は日本(18.5%)がもっとも多く,ASEAN(16.2%),中国(13.4%),中東(13.3%)と続く。原油高に伴い中東からの輸入は前年比36.8%増となった。
株価指数(SET指数)は2010年末の1032.76から1144.14(8月1日)まで上昇したが,洪水被害の影響が顕在化すると855.45(10月4日)まで急落し,その後回復して1025.32(12月30日)まで戻した。
観光は,洪水を理由とする渡航自粛勧告が行われたこともあり,第4四半期には観光客が減少したが,通年でみると観光客数(空路で観光ビザで入国した人)は2010年の325万人から2011年の404万人へと増加した(入国管理局統計)。被災者のホテル住まいが増え,ホテルの稼働率は上昇した。
洪水被害に遭った企業のなかには事業継続を断念するところもみられたが,多くは操業を再開する方向である。労働者のレイオフも懸念されたが,政府は企業が雇用を継続することを条件に労働者1人当たり2000バーツを支給する措置をとり,雇用維持に寄与した。
洪水被害にもかかわらず,労働力不足が続く状況に大きな変化はなかった。失業率は2010年の1.0%から0.7%へと低下した。労働力として外国人労働者の受け入れは不可避であり,不法滞在外国人労働者を正規化するため,登録受け付けが再度行われた(6月15日)。他方,洪水被害が発生した際には外国人労働者が十分に保護されない問題が発生しており,今後の待遇改善に課題を残した。
タイ人労働者の技能向上のため「職能別」の最低賃金制度が7月28日から自動車塗装工,自動車板金工,タイ料理調理師など11職種について実施された(後にさらに11職種が追加)。職能水準に応じてそれぞれ2または3等級に分けて一般の最低賃金より高い最低賃金が定められた。たとえば,自動車塗装工は1級(日額330バーツ),2級(430バーツ),3級(505バーツ)に分けられる。
内需拡大策を進めるインラック政権インラック政権は8月に発足した後,優先課題として掲げる政策の実施に直ちに着手した。インラック政権が「購買力増強」策の中核として位置づけるのが,最低賃金の引き上げであった。民主党も最低賃金の引き上げを公約に掲げたが,タイ貢献党の公約は全国一律に日額300バーツにする,という大胆なもので,これと抱き合わせで実施される法人税率の引き下げで企業のコスト増は吸収されると主張した。経済界からは強い反発が起きる一方,労働団体は公約通りの実施を求めた。最低賃金は労使代表と政府代表で構成する賃金委員会で協議され,10月17日に政府が示した案で合意に至った(11月2日付賃金委員会布告により実施)。合意案ではバンコクとその周辺県,およびプーケット県について300バーツとし,その他の地域についてはバンコクの引き上げ率と同じ39.5%増とした。最低賃金は県ごとに細かく定められており,最低額がパヤオ県の222バーツである。また,2014年と2015年に見直すことを条件に2013年から全国一律300バーツとすることも決められた。洪水被害の発生から,新たな最低賃金の適用は2012年1月1日から同年4月1日に延期された。なお,国有企業は日給ベースの被用者1人につき最低賃金300バーツを10月1日から適用したほか,大手企業のなかにも前倒しで最低賃金300バーツに従うことを表明するものがあった。
新たに適用される最低賃金においても全国77県のうち65県の最低賃金がまだ270バーツ未満であり,230バーツ台が27県で一番多くなっている。一律300バーツを実現するためには多くの県で大幅な引き上げがさらに必要であり,急激なコスト増を懸念する企業の反発がなお続くとみられる。
他方,法人税の引き下げについては10月11日の閣議で決定され,12月21日に必要な勅令が公布された。法人税は2012年1月1日以降に始まる会計期間につき,法人税を30%から23%に引き下げたほか,2013年1月1日以降の会計期間につきさらに20%に引き下げられた。法人税引き下げは,最低賃金引き上げによるコスト増を吸収するほか,ASEAN経済共同体の発足に向け,外国投資の誘致やタイ企業の国際競争力を高める狙いがある。
さらに,インラック政権は購買力増強を目指して大卒初任給の1万5000バーツへの引き上げを進める。最低賃金のような政府が民間企業に強制する手段を欠くため,まず公務員について法改正の必要のない手当ての引き上げで先行的に実施することとなった。公務員給与の引き上げは民主党がすでに実施しており,インラック政権の施策はそれに上積みするものとなった。アピシット政権は1カ月の報酬(本俸と手当て)が1万2225バーツに満たない公務員に一律1500バーツ支給し,そのうえで8610バーツに満たない者にその額に達するようにさらに手当てを支払うというものであった(適用期間は2011年4月1日~12月末)。一方,インラック政権は,大卒公務員につき1カ月の報酬が1万5000バーツになるように手当てを増額した。大卒以下の公務員についてはアピシット政権と同じく1万2280バーツに満たない者に一律1500バーツ支給する一方,さらに手当てが支払われるべき大卒以下の公務員または一時職員の最低報酬額は9000バーツに引き上げられた(2012年1月13日付財務省規則)。
また,購買力増強策として,初めて買う車や持ち家の奨励措置が実施された。初めて自動車を購入する者について,価格が100万バーツ未満(乗用車は1500cc以下)である場合,物品税を最大10万バーツ還付する制度が9月から開始された(2012年末まで)。国内生産車のみを対象とし,3年間の分割払いと5年間の自動車保有が条件とされた。他方,初めて住宅を購入する者に対する優遇措置が500万バーツ以下の住宅を対象に開始された。当初,所得控除とされていたが,のちに税額控除に変更された。洪水被害により自動車・住宅販売は伸び悩み,税還付制度の利用は進まなかった。12月に政府は被災した車の買い換えにも適用を拡大する方針を示した。
農業政策――籾質入れ制度の復活インラック政権の農業政策としては,50万バーツ以下の農民の債務の猶予措置や村落基金の拡充などが行われたほか,農産物価格水準の上昇のため,籾質入れ制度が再開された。これは籾米を担保に農家に貸し付けを行うものであり,市場価格が基準価格よりも高い場合,農民は籾米を請け出して市場で販売することができる。逆に市場価格よりも基準価格を高く設定すると,実質的に政府による買い取り制度として機能し,市場価格を高めに誘導し,農民所得の向上が期待される。10月7日に開始された貸付制度では,基準価格がタイ貢献党の公約通りに普通米で1トン当たり1万5000バーツ,香り米で同2万バーツと市場価格よりも高く設定された(9月9日国家米穀政策委員会決定,13日閣議決定)。その結果,籾米の市場価格上昇が起き,タイ米の国際競争力が低下し,輸出業者はコメ輸出減を懸念したが,トータルで見ると輸出量は2010年の890万トンから2011年の1070万トンへと増加した。また,高値の買い取りが行われるため,カンボジアからコメが違法に輸入された例もあった。しかし,大洪水の結果,預けられた籾米量は予定を大きく下回った。
この質入れ制度は政府が大量の在庫を抱えたり,汚職問題が発生したり弊害が多いことを理由に,アピシット政権下の2009年から所得保証制度に切り替えられていた。この制度は政府系の農業・農業協同組合銀行(BAAC)を通じて行われている。また,政府は公約としていた「農民クレジットカード」(農民が生産要素を購入する際に使用可)の交付準備を進めている。
エネルギー価格体系の見直しエネルギー価格政策はアピシット政権とインラック政権がともに力を入れた分野であり,エネルギー価格の安定化のため燃油販売時に徴収される拠出金による「燃油基金」(Oil Fund)が焦点となった。アピシット政権は,2010年末の原油価格上昇の影響による生活費の膨張を食い止めるため,軽油小売価格を1リットル当たり30バーツ以下に維持し,その原資として燃油基金から補助金を交付することとした。燃油基金からの補助金の上限を当初50億バーツに設定したが,原油価格高騰が長期化するにつれて引き上げられた。さらに,4月になると燃油基金の赤字化を避けるため燃油基金からの補助を削減し,代わりに軽油に課される物品税を時限的に減税することで軽油の価格維持を継続した(2011年9月末までとされたが,インラック政権によって2011年末まで延長)。インラック政権は,優先政策である原油高騰の影響軽減のため,8月末から燃油基金の拠出金徴収を一時的に停止した。燃油価格は一時的に大きく値下がりしたが,燃油基金が赤字化した(後に徴収を再開)。
液化石油ガス(LPG)や圧縮天然ガス(CNG,タイでは自動車用天然ガスNGV)の小売価格が固定されたため,PTT社(旧タイ石油公社)に液化天然ガス(LNG)販売での赤字が蓄積した。LPG,CNGに対しては燃油基金から補助金を出すことで利用者の増加を促す施策がとられてきた。インラック政権は,価格維持政策が高所得者層にも有利になっていると主張し,価格がコストを反映する適正価格になるように自由化をする一方,低所得者層や公共交通機関にはエネルギー・クレジットカードなどの交付による補助に切り替える方針を示した。輸送機器用LPGの価格の自由化を2012年1月から実施する方針を示す一方,影響を受けるバス,タクシーに対しては,12月から1カ月当たり3000バーツを上限とするエネルギー・クレジットカードの交付を開始した。産業用LPG価格についてはアピシット政権時に段階的な自由化が開始されたが,家庭用のLPG価格は2012年末まで維持される。
2010年に策定された「国家発電力開発計画」(PDP2010)において2020年の原子力発電所の稼働が目標とされていたが,日本の福島第一原発の事故や国際原子力機関(IAEA)から国内法整備や国際協定批准の必要性,人材育成の遅れを指摘されたことを受けて,国家エネルギー政策委員会は原発稼働目標をさらに3年先延ばしすることを決定した。
タクシン判決の余波に揺れる通信業界憲法に基づく新たな放送・通信事業の監督機関である「国家放送通信委員会」(National Broadcasting and Telecommunication Committee:NBTC)が10月10日に発足した。NBTCの発足の遅れから第3世代携帯電話事業(3G)のライセンス入札を実施できないなどの支障が生じていた。
他方,タクシン元首相の資産没収を命じた2010年2月の最高裁判所判決に関連したいくつかの法的紛争が顕在化した。最高裁は,携帯電話事業の事業権設定契約の改定などタクシン政権下(2001~2006年)で行われた施策・措置が,タクシン元首相が実質的に所有したシン社に対する便宜供与であり,違法であると認定したことが発端であった。この判決で損害を受けたとされたタイ電話公社(現・TOT)は,携帯電話事業を行うAIS社などに本来得るべき利益の支払いを求め,いくつかの訴えを提起した。5月に出された仲裁判断ではTOT社の主張は認められず,TOT社は行政裁判所において仲裁判断の取り消しを求める訴えを提起した。また,別の事件ではTOT社自ら請求を断念しAIS社への訴えを撤回している。他方,TOT社では責任を問われる懸念から取締役の半数が辞任した。
また,携帯電話のDTAC社に対しては,外国企業が実質的な株主であり通信事業の参入が認められない外国人事業法上の外国人に該当するのではないかとする申立てがTrue社により行われたが,商務省,検察は該当なしとの判断を示した。タクシン政権による2006年の通信事業の外国人出資比率規制緩和がシン社株式をシンガポールのテマセク・グループに売却するためであったと認定されたことを受けて,外資規制が政治問題化したことが背景にある。また,外国人事業法上の名義貸し(ノミニー)の取り扱いが不明確なことも問題を複雑にした。
洪水被害と財源問題洪水被害の復興資金をどう捻出するかが課題となった。12月26日に政府は復興や水資源管理のための財源確保などを目的として,4つの緊急勅令案を閣議決定した(公布は2012年1月26日)。第1は,財務省に借入権限を認めるもので,借入額は復興等に必要な3500億バーツと設定された。第2は,被災者への金融支援を円滑化するもの,第3は洪水後の保険料の高騰に直面する企業などを支援するため「損害保険奨励基金」を設置するものであった。第4は,もっとも議論になったもので,政府の公的債務比率を引き下げるため,1997年のアジア経済危機時に金融機関支援によって生じた1兆1400億バーツの債務を政府から中央銀行が管理する法人である金融機関再建開発基金(FIDF)に付け替えるものであった。この債務返済のため,中央銀行が金融機関にその預金残高に応じて課金すること,中央銀行が管理する外貨準備金の運用益などを返済に充てる方針が示された。
対カンボジア関係はタイの国内政局と連動して関係悪化と改善を繰り返した。タクシン元首相およびその支持者とフンセン首相は良好な関係にあり,2009年に経済顧問にタクシン元首相を迎え,反タクシン派を苛立たせた(2010年辞任)。2010年5月のUDDの抗議行動が制圧された後には,何人かのUDDメンバーがカンボジアに潜伏し,これも両国の関係改善を阻害した。
二国間の最大の争点は,両国の国境地帯にあるプレア・ヴィヒア寺院(タイ名プラウィハーン)周辺地域の帰属問題である。同寺院については1962年の国際司法裁判所判決によってカンボジア帰属が認められたものの,周辺地域の帰属について両国の主張は対立したまま現在に至っている。タクシン元首相はカンボジアとの大陸棚資源の共同開発の方に関心があるとみられ,同寺院周辺の領土問題を先送りする方針をとっていた。2008年にタクシン派のサマック政権はカンボジアによる同寺院の世界遺産登録と周辺開発計画を容認する姿勢を示した。これに対して,民主党,PADは領土問題を争う姿勢を明確にしている。
2010年12月29日にカンボジアとの国境地域を視察中の民主党議員,PAD活動家ら7人がカンボジア軍によって逮捕・拘束される事件が発生し,対カンボジア関係は2011年前半に急激に悪化した。拘束されたのはパニット・ウィキットセート民主党議員,PADに参加する活動家であるウィーラ・ソムクワームキット(タイ愛国者同盟代表)とその秘書などであった。彼らは逮捕された場所がタイ領であると主張したが,タイ外務省・国軍は7人がカンボジア領に立ち入ったことを認めた。7人はプノンペンに移送され,違法入国,軍事地域への侵入の容疑で訴追された。1月21日の判決でパニット議員ほか5人は執行猶予判決を受けて帰国したが,ウィーラとその秘書には2月1日に実刑判決が出され,収監された。
拘束された7人の解放など国境問題でのカンボジアに対する強硬姿勢を政府に対して求めてPADは首相府近くで座り込みを開始した。2月にアピシット政権は国内治安法の発動でPADの活動を規制する姿勢をみせたものの,強制排除には動かなかった。PADは選挙期間中も座り込みを続けた。
この事件をきっかけに国境のプレア・ヴィヒア寺院周辺で両国が部隊を増強し,緊張が高まった。2月には戦闘が始まり,その後断続的に戦闘が行われ,タイ側住民にも死者が出た。タイ政府はこの問題を二国間で解決しようとする立場をとったが,カンボジア政府は国際社会の関与による解決を目指し,その意図通りの展開となった。国連安全保障理事会においてこの問題は取り上げられ,カンボジア,タイ双方の代表が説明を行った。また,ASEAN外相会議の場でもこの問題は協議され,インドネシア政府が監視団を派遣することが合意された(監視団は2011年中には派遣されなかった)。さらに,4月29日にカンボジア政府は,国際司法裁判所(ICJ)に対して,プレア・ヴィヒア寺院をカンボジア領と認めた1962年の判決の解釈を求めて提訴した。5月31日と6月1日に口頭弁論が行われ,ICJは7月18日付で両軍に紛争地域からの撤退を求める仮保全措置を発した。本事件はなお係属中である。他方,世界遺産委員会の7月の会合にはスウィット環境相が出席したが,主張が認められないとみると同委員会の脱退を表明した。
7月総選挙においてカンボジアとの関係の深いタクシン派が政権に返り咲いた結果,両国の関係は急速に改善した。9月24日にはインラック首相がカンボジアを訪問,フンセン首相と会談し,国境問題などを協議した。インラック首相の訪問直前にはタクシン元首相が訪問し,大陸棚の共同開発などを話し合ったと報道された。また同日,UDD・タイ貢献党がカンボジア政府との親善サッカー試合をプノンペンで開催した。2010年末に拘束された残りの2人は親善試合の際に解放されるという噂があったが実現しなかった。12月21日にプノンペンで開催された二国間の総合国境委員会(GBC)ではICJの仮保全措置に従った両軍の撤退やインドネシア監視団の受け入れなどで合意がなされた。
日本とタイとではその間の災害における支援がやりとりされた。東日本大震災後には,タイにおいても震災復興のため義援金を募る運動が広がりをみせた。タイからは,医療チームの福島県への派遣や,電力不足を補うための発電機の貸与などの支援が行われた。他方,タイで洪水被害が拡大すると,日本側の支援が行われた。11月に日本政府は,国際緊急援助隊専門家チームとポンプ車を派遣したほか,水資源管理体制確立への支援を開始した。
2011年は在外タイ人保護が課題となった年であった。東日本大震災では在留タイ人も被災した。また,2月には「中東の春」とよばれた一連の民主化運動のなかで,リビアに出稼ぎ労働者として在留するタイ人2万3600人の救援が課題となった。政府は客船や旅客機をチャーターするなど海路と空路で出国を支援した。
インラック政権は,軍やほかの勢力との対立を回避し,洪水被害からの復興と公約した諸施策の実施を優先したいが,UDD・タイ貢献党内にはタクシン元首相の恩赦,不敬罪改正などの問題への早急な対応を求める声もある。急進的なUDD幹部の政権参加が進んだことでさらに慎重な舵取りが求められている。さらに,2007年5月30日のタイラックタイ党の解党判決により5年間の選挙権停止に服していた当時の同党幹部が5月末に復権するが,なかにはインラック政権に参加する者も出てくると考えられる。また,インラック政権とカンボジアとの関係は良好ではあるが,ICJ判決,世界遺産委員会の決定の内容によっては国境問題が再燃することもありうる。民主党や反タクシン勢力は,インラック政権が下院で安定多数を押さえているため,司法手続きや憲法上の独立機関を通じた揺さぶりをさらに強めると考えられる。2008年12月にタクシン派の「人民の力党」に解散を命じる根拠となった憲法規定がなお存在しており,予期せぬ時期に解党訴訟が提起される可能性が残る。この規定を含め2007年憲法の見直しが今後の憲法改正論議における争点となる。
経済面での喫緊の課題は,タイが有効な洪水対策と水資源管理を進めることができることを示し,企業・投資家の信頼を回復することである。2012年に水害が再発することを防ぐとともに,中長期的な水資源管理システムの確立が急務となっている。また,復興に取り組みつつも,ほかの構造的問題への対応が求められる。労働力不足はなお続く見込みで,タイは外国人労働者の受け入れの拡大に向かわざるをえない。熟練労働者の不足に対応するため,タイ人労働者のスキル向上も課題となっている。ASEAN経済統合を見据えた域内の生産拠点の再配置の動きはタイ企業にもみられる。労働力不足,最低賃金引き上げによるコスト増のほか,ミャンマーの民主化後の諸プロジェクトの進展でタイ企業のミャンマーへの関心が高まっている。タイ貢献党の政策への経済界の反応は急激なコスト増への警戒感と内需刺激による消費市場拡大への期待が相半ばする。
復興・洪水対策のための財政支出の拡大,新政権による内需拡大策による経済の早期回復が見込まれている。NESDBは,2011年11月に2012年の成長率を4.5~5.5%としたが,後に上方修正した(5.5~6.5%,2012年2月20日)。財政悪化を懸念する声もあり,公的債務の管理が課題となるだろう。
(研究企画部研究企画課長)
1月 | |
4日 | 刑事裁判所,UDD幹部7人の保釈請求を却下。 |
9日 | アピシット首相,福祉政策パッケージ「民進」政策を発表。 |
12日 | 中央銀行,政策金利を2.25%に引き上げ。 |
14日 | アピシット首相,下院補欠選出馬のため辞任していた2閣僚を再任。 |
21日 | カンボジアで拘束中の民主党下院議員など5人に執行猶予付有罪判決(翌日帰国)。 |
24日 | PAD,カンボジアに対する強硬姿勢を求め,首相府近くで座り込みを開始。 |
28日 | アピシット首相,ダボス会議出席のためスイス訪問。 |
2月 | |
1日 | カンボジアで拘束中の活動家ウィーラとその秘書に実刑判決。 |
3日 | カンボジアとの合同国境委員会開催(シェムリアップ)。 |
4日 | カンボジア国境紛争で両国軍が交戦(断続的に7日まで続く)。 |
7日 | 国家改革委員会,5項目提案を公表。 |
8日 | 政府,PADの集会の規制のため,バンコクの一部に治安維持法発動(~5月24日)。 |
11日 | 国会両院合同会,2つの憲法改正案を可決。 |
14日 | 国連安保理でタイ・カンボジア両国代表が国境紛争について説明。 |
18日 | 非公選の上院議員74人任期満了。 |
22日 | ASEAN外相会議(ジャカルタ),タイ・カンボジア間の国境紛争でインドネシアの監視団派遣を決定。 |
22日 | 刑事裁判所,UDD幹部7人の保釈を認める。 |
24日 | アピシット首相,イギリス国籍を保持していることを国会で認める。 |
3月 | |
1日 | 政府,在リビアのタイ人労働者2万3600人の支援策を決定。 |
4日 | 2つの改正憲法公布(翌日施行)。 |
9日 | 中央銀行,政策金利を2.50%に引き上げ。 |
19日 | 下院,首相ほか9閣僚に対する野党提出の不信任動議を採決(全員が信任される)。 |
21日 | タイ貢献党,インラック氏を同党の比例第1順位に決定。 |
23日 | ブンカーン県設置(ノーンカーイ県の東半分。県の総数は77に)。 |
24日 | ミャンマーを震源とする地震でタイ国内に影響。バンコクでも揺れを観測。 |
25日 | タイ湾の天然ガスパイプラインで漏洩事故。 |
4月 | |
1日 | 政府,公務員給与の5%引き上げを実施。 |
5日 | 国軍の各司令官がクーデタの噂を否定。軍は中立を守るとの声明発表。 |
10日 | UDDが民主記念塔周辺等で大規模集会を実施。 |
18日 | タクシン元首相,タイ貢献党幹部に王室への言及をやめるように指示。 |
18日 | 841億バーツの補正予算法公布。 |
19日 | 国会,カンボジアとの外交交渉枠組みを承認。 |
20日 | 政府,軽油の小売価格維持のため,物品税減税を決定(9月末まで)。 |
20日 | 中央銀行,政策金利を2.75%に引き上げ。 |
22日 | タイ国軍,国境紛争でカンボジア軍と再び交戦(28日停戦) |
27日 | 国家エネルギー委員会,原子力発電所建設計画の延期を決定。 |
29日 | カンボジア政府,国境問題を国際司法裁判所に提訴。 |
5月 | |
2日 | 国王がシリラート病院にて手術。 |
4日 | 選挙委員会,選挙運動への王室利用を禁止する規則を公布。 |
6日 | アピシット首相,ASEAN首脳会議出席のため,インドネシア訪問。 |
9日 | 憲法裁判所,選挙関連3法案の合憲性を認定。 |
9日 | アピシット首相,下院を解散。 |
12日 | 刑事裁判所,不敬発言容疑でチャトゥポーン元下院議員の保釈を取り消す。 |
13日 | 選挙関連3法公布(翌日施行)。 |
16日 | タイ貢献党,インラックを第1順位とする比例代表名簿を発表。 |
18日 | 国王,チャリット空軍大将(2006年9月クーデタ時の空軍司令官)を枢密院顧問に任命。 |
19日 | UDD,ラーチャプラソン交差点付近で大規模集会を開催。強制排除から1周年。 |
31日 | カンボジアとの国境紛争で国際司法裁判所における口頭弁論(~6月1日,ハーグ)。 |
6月 | |
1日 | 中央銀行,政策金利を3.00%に引き上げ。 |
2日 | 企業買収への関与の疑いでピチット・スピニット証券取引委員会(SEC)委員長辞任。 |
13日 | アピシット首相,東アジア世界経済フォーラム出席のためインドネシア訪問。 |
13日 | 中央銀行,政策金利を3.25%に引き上げ。 |
14日 | プラユット陸軍司令官,選挙に対する見解をテレビで表明。 |
15日 | 労働省,不法滞在外国人労働者の登録を再開。 |
26日 | スウィット天然資源・環境相,世界遺産委員会(パリ開催)の脱退を表明。 |
7月 | |
1日 | 選挙運動最終日,各党が大規模集会を開催。 |
3日 | 下院総選挙で野党タイ貢献党が過半数の議席を獲得。 |
12日 | ワチラロンコン王子のボーイング737機がミュンヘンで差押えられる。政府と建設会社との民事紛争が理由。 |
18日 | 国際司法裁判所,タイ=カンボジア間の国境紛争で係争地域から両軍の撤退を命じる仮保全措置を決定。 |
27日 | ペチャラット王女逝去(6世王の王女,享年85歳)。 |
28日 | 職能別最低賃金を導入(11職種。後に11職種を追加)。 |
31日 | 2選挙区で再選挙実施。 |
8月 | |
1日 | 総選挙後初の通常国会招集。 |
5日 | 下院,インラックを首相候補に選出。 |
8日 | 国王,インラック首相を認証。首相,組閣を発表。 |
10日 | インラック政権閣僚宣誓式。 |
19日 | アメリカ市民権をもつタイ人の不敬罪訴追にアメリカ大使館が領事名で憂慮を表明。 |
23日 | タクシン元首相訪日。 |
23日 | インラック首相,国会で所信表明演説(~25日)。 |
24日 | 中央銀行,政策金利を3.50%に引き上げ。 |
24日 | 控訴裁判所,脱税で一審有罪のポチャマーン(タクシン元夫人)に無罪判決。 |
31日 | 国家通信委,通信事業の外資支配防止ルール公布。 |
9月 | |
3日 | 法務省,UDDが2009年に提出したタクシン元首相の恩赦を求める署名の審査を終えたことを公表。 |
6日 | 政府,洪水被災者に1世帯あたり5000バーツ支給を決定。 |
10日 | インラック首相,ASEAN歴訪の最初の国としてブルネイ訪問。 |
12日 | インラック首相,インドネシア訪問。 |
15日 | インラック首相,カンボジア訪問。 |
24日 | プノンペンでカンボジア政府とタイ貢献党・UDDとの親善サッカー試合開催。 |
10月 | |
1日 | 第11次経済社会開発計画公布。 |
3日 | インラック首相,ウクリット元上院議長を国家法治主義独立委員会委員長に任命。 |
4日 | バンコク近郊の工業団地の浸水始まる。 |
5日 | インラック首相,ミャンマー訪問。 |
5日 | メコン川で中国船船員13人の他殺体が発見される。 |
8日 | 政府,水害対策のため「水害・地滑り・干ばつ問題解決委員会」設置。 |
10日 | 国家放送通信委員会(NBTC)発足。 |
11日 | 政府,法人税引き下げ(23%)を決定。 |
25日 | ドンムアン空港浸水(政府,28日に被災者支援センターを移転)。 |
26日 | 第11次経済社会開発計画(2012-2016年)公布。 |
31日 | メコン川関係国会議開催(北京)。中国人船員殺害事件を受けて同地域の治安強化で合意。 |
11月 | |
2日 | 賃金委員会,最低賃金を最高日額300バーツに引き上げる布告を公布。 |
10日 | 政府,洪水復興・水資源管理のため2委員会を設置。 |
15日 | 刑事裁判所,UDDの女性活動家に不敬罪で懲役15年の有罪判決。 |
17日 | インラック首相,ASEAN首脳会議出席のため,インドネシア訪問。野田首相と会談(18日)。 |
22日 | 政府,最低賃金引き上げを2012年4月1日に延期。 |
23日 | 刑事裁判所,王室を誹謗する携帯メール送信容疑のタイ人男性に不敬罪で懲役20年の有罪判決。 |
24日 | 暴風雨により南部で被害発生。 |
28日 | 下院,プラチャー法相に対する不信任動議を採決(信任)。 |
29日 | 政府,被災企業による完成車,機械等の輸入関税の免除を決定。 |
29日 | 選挙委員会,チャトゥポーン議員が議員資格を失ったと認定。 |
30日 | 中央銀行,政策金利を3.25%に引き下げ。 |
12月 | |
3日 | 国王誕生日の恩赦を公布。 |
7日 | 逃亡中のUDD幹部のアリスマン・ポンルアンローンが法務省特別捜査局(DSI)に出頭。 |
8日 | 国連人権高等弁務官事務所,不敬罪の罰則緩和を求める声明。 |
8日 | インラック首相,シンガポール訪問。 |
8日 | 真相究明・国民和解委員会,8項目提案を公表。 |
8日 | 刑事裁判所,アメリカ市民権を持つタイ人男性に不敬罪で有罪判決。 |
15日 | 刑事裁判所,女性活動家に不敬罪で懲役15年宣告。 |
15日 | タクシー,バスを補助するエネルギークレジットカード制度始まる。 |
15日 | 政府,タクシン元首相にパスポートを発給したことを認める。 |
19日 | インラック首相,ミャンマー訪問。アウンサン・スーチーとも面談。 |
20日 | プラユット陸軍司令官,不敬罪見直しを容認できないと発言。 |
21日 | 環境NGO,政府の洪水対策失敗を中央行政裁判所に提訴。 |
21日 | 連立与党,憲法改正手続きの改正で合意。 |
21日 | カンボジアとの合同国境委員会(プノンペン),係争地域からの部隊の撤退等を合意。 |
22日 | 中国の習近平副主席,来訪。110億ドルのスワップ協定(3年間),チェンマイ=バンコク間の高速鉄道建設のMOU締結。 |