アジア動向年報
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2011年のミャンマー テインセイン新政権の船出,改革路線への転換
工藤 年博
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2012 年 2012 巻 p. 415-438

詳細

2011年のミャンマー テインセイン新政権の船出,改革路線への転換

概況

2011年3月30日,国家平和発展評議会(SPDC)は2010年11月7日の総選挙に基づき設立された政権に権力を移譲した。ここに民政移管が実現し,23年間に及んだ軍事政権は終わった。当初,テインセイン大統領率いる新政権は実質的に軍事政権の延長であり,民主化や政治改革は期待できないとみられていた。ところが,新政権は7月頃からアウンサン・スーチー氏(以下,スーチー氏)との対話,メディア規制の緩和,一部の政治犯の釈放,国民が反対していた中国企業による大型ダム建設の凍結,アメリカとの関係改善など,一連の改革に乗り出した。

新政権は軍政下で長い間棚上げされてきた経済改革の諸課題に取り組んだ。まず,チャット高に苦しむ民間企業や農民を助けるため,輸出税を軽減した。輸出税の軽減はかねてから実業界が要望していたが,軍政下では実現しなかったものである。新政権は外国投資法の改正や為替レートの一本化にも取り組んだ。いずれの案件も2011年内には抜本的な解決をみなかったが,部分的な対策は講じられた。

新政権は対外関係においても大きな成果を上げた。11月の東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議では,ミャンマーが2014年にASEAN議長国に就任することが決定された。さらに,11月30日から12月2日にかけてアメリカのクリントン国務長官がミャンマーを訪問した。この2つの出来事は,ミャンマーが国際社会に復帰する第一歩となった。

国内政治

新政権の発足

2011年3月30日,軍事政権は2010年総選挙に基づいて設立された新政権に権力を移譲した。1月31日に招集された国会の第1回会期の最終日となったこの日,キンアウンミン連邦議会議長は,SPDCが立法,行政,司法の三権を連邦議会が選出・承認した人物に移管し,評議会を解散すると記されたSPDC布告5号を読み上げた。ここに1988年9月18日にクーデターによって登場した軍事政権は終わった。足かけ23年に及ぶ長期政権であった。

新政権では,軍政時代に首相職にあったテインセイン氏が大統領に,SPDC第1書記であったティンアウンミンウー,および少数民族シャンのサイマウカンの両氏が副大統領に,それぞれ就任した。3人は連邦議会において,すでに2月4日に大統領,副大統領に指名されていた。大統領および2人の副大統領は就任式において,キンアウンミン連邦議会議長の前でミャンマー連邦共和国憲法第65条に規定された,国に忠誠を尽くし,国民のために働くとの宣誓を行った。

テインセイン大統領は1945年生まれで,1967年に国軍幹部養成のための士官学校(DSA)を第9期生として卒業したエリート将校であった。2007年5月に当時のソーウィン首相がシンガポールの病院に入院した時に首相代行となり,同年10月12日にソーウィン首相の死去にともない,同月24日に首相に就任し,今回大統領に就任するまで首相を務めた。2010年総選挙で圧勝した連邦団結発展党(USDP)の党首でもある。人民代表院から大統領候補として出馬し,連邦議会において多数決で大統領に選出された。

ティンアウンミンウー副大統領は1950年生まれで,DSAの第12期生である。2007年にテインセイン大将(当時)の後任としてSPDC第1書記に就任して以来,この職にあった。両院の国軍議員によって選出された副大統領である。もう1人のサイマウカン副大統領は1950年生まれで,マンダレー医科大学を卒業した医師である。ミャンマーでビルマ族に次ぐ人口規模をもつシャン族で,シャン文学・文化協会の会長でもあった。シャン州におけるUSDPの有力政治家で,民族代表院から選出された副大統領である。

テインセイン大統領は就任後すぐに,すでに連邦議会に提出し承認を受けていた30人の閣僚を,各ポストに任命した([参考資料]を参照)。新内閣は大統領と2人の副大統領を含めて,33人から構成される。全員が男性で,平均年齢は60歳,国軍や政府機関で経験を積んだベテランが多い。新政権が軍政からの継続性を重視したことがわかる。

このような人事により,閣僚の多くを退役軍人が占めた。現役の軍人は憲法において国軍司令官が指名すると規定されている国防相,内務相,国境相の3人のみである。退役軍人は25人で,全員が少なくとも大佐以上の階級で退役している。軍籍を持たない閣僚は,サイマウカン副大統領,ウィンミン商業相(前ミャンマー連邦商工会議所連盟会頭),ティンサン・ホテル観光相兼スポーツ相(元建設会社社長),ミャエイ教育相(前マンダレー大学長),ペーテッキン保健相(前マンダレー医科大学長)の5人である。それでも,SPDC解散直前の内閣では,31人の閣僚のうち純粋な文民は教育相と保健相の2人のみであったので,文民大臣の人数は増えたことになる。

また,33人の閣僚のうち,人民代表院の議員は24人,民族代表院の議員は2人,国軍司令官に指名された軍人(国軍議員ではない)が3人,(議員でない)民間人が4人であった。議会の4分の1を占める国軍議員からの入閣はなかった。大統領,副大統領,閣僚は,就任と同時に議員および公務員を辞任しなければならず,政党メンバーであった場合も任期中は政党活動をしてはならない決まりとなっている(憲法第63条,64条,232条)。

同日,テインセイン大統領は大統領令第9号により14の地域・州知事を指名した([参考資料]を参照)。2010年総選挙ではいくつかの州で,単一の少数民族政党,あるいはいくつかの少数民族政党が連立すると,USDPの獲得議席数を超えたことから,少数民族政党から州知事が選出される可能性が指摘されていた。しかし,大統領が任命した地域・州の知事は,カレン州を除き全員がUSDP所属議員であった。カレン州については,国軍議員が州知事に就任した。これは同州において,国軍とカレン民族同盟(KNU)との戦闘が続いていたためである。このように,現役か退役かの違いはあれ,新政権においても国軍の旧幹部が政治を担うことに変わりはなかった。

改革路線への転換

新政権発足の翌日,テインセイン大統領は施政方針演説を行った。大統領は演説において良い統治,汚職のない政府,説明責任,国民の声,国民参加など,軍政時代には使われなかった言葉を使い,政治・経済改革への意欲を示した。発足当初の新政権の動きは鈍かったものの,いくつかの動きはあった。まず,テインセイン大統領は4月11日に,スーチー氏とも親交のあるミン博士を大統領経済顧問団のリーダーに任命した。次に,5月16日にはすべての受刑者に恩赦を実施した。この恩赦は死刑を終身刑に,その他の受刑者の刑期を1年減刑するという内容で,これにより約1万4600人が釈放された。しかし,釈放された受刑者のうち,2000人ともいわれる政治犯は100人程しか含まれておらず,国民民主連盟(NLD)やスーチー氏はこれを評価しなかった。

他方,6月上旬には中国大唐集団公司とミャンマー政府が共同で建設していたタペイン・ダムをめぐって,カチン独立軍(KIA)と国軍が戦闘を始めた。さらに,同月28日にはスーチー氏と解党処分となったNLDに対して,内務省が政治活動を止めるよう警告する書簡を発出した。この頃までは,テインセイン政権の民主化勢力や少数民族武装勢力に対する姿勢は,軍政時代のそれと大きな相違がなかった。

新政権の改革路線への転換が明確になったのは,7月中旬以降である。まず,スーチー氏が7月19日,政府主催の「殉難者の日」式典に,9年ぶりに参加を許された。この式典は1947年のこの日に暗殺された,スーチー氏の父アウンサン将軍らを悼むものである。スーチー氏は軍政下で長い間自宅軟禁にあり,式典に参加できなかった。同日,インドネシアのバリ島で開かれたASEAN外相会議では,ミャンマーが希望していた2014年のASEAN議長国への就任について,同年11月に開かれるASEAN首脳会議で結論を出すようにとの話し合いがなされていた。ASEAN外相会議が決定を先送りしたことは,テインセイン政権に改革の必要性を改めて認識させた。この後,政治改革が一気に進んでいく。

7月25日にスーチー氏とアウンチー労働相(軍政下ではスーチー氏と政府との連絡担当相であった)が,新政権下で初めて会談した。会談後,両者は共同声明を発表し,記者会見を行い記者の質問にも答えた。これまで両者は軍政時代に9回面談しているものの,共同声明を発し,記者会見を開いたことはなかった。8月12日の再会談では,両者は国の安定と発展のために協力していくこと,対決姿勢をとらないこと,そして話し合いを続けていくことを確認した。同月14日,スーチー氏はヤンゴンから北方に約80キロメートル離れたバゴーに,2010年11月13日に自宅軟禁から解放されて以来,初めての地方遊説に出かけた。バゴーではスーチー氏は演説においても政府批判を慎重に避け,治安当局とのトラブルもなかった。

8月17日,テインセイン大統領はネーピードーの国際会議場に政府関係者,実業家,NGOなどを一堂に集め,新政権発足後の5カ月の実績を説明すると同時に,海外亡命ミャンマー人に対して,重大な刑事犯罪を犯していないのであれば帰国するように呼びかけた。18日には,政府は少数民族武装勢力に対して和平を呼びかける声明を出した。

そして,翌19日には大統領経済顧問のミン博士が主催した「経済発展のための改革に関する国民ワークショップ」に参加するため,初めてネーピードーを訪問したスーチー氏とテインセイン大統領の会談が実現した。会談が行われた部屋には,アウンサン将軍の写真が飾られていた。アウンサン将軍の写真を背景にテインセイン大統領とスーチー氏が並んだ写真が,翌日の国営新聞に掲載された。軍政時代は,独立の父アウンサン将軍の威光を高めることはスーチー氏の人気につながるとの懸念から,政府機関にアウンサン将軍の写真や肖像画が飾られることはほとんどなかった。今回,テインセイン大統領がわざわざアウンサン将軍の写真を飾ったことは,スーチー氏と協力していきたいというメッセージにほかならなかった。この会談の後,スーチー氏は外国メディアに対しても「大統領が進めようとしている改革を後押しすべきだ」という発言を繰り返すようになった。

政府はメディアに対する規制も緩和した。まず,報道検閲登録局は6月に入ってから,政治以外の芸術やスポーツなどの分野の定期刊行物について事前検閲を廃止した。8月16日以降は,それまで国営新聞に必ず掲載されていたイギリス放送協会(BBC)やビルマ民主の声(DVB)などの反政府的な報道スタンスをとる海外メディアを非難する文言や,「国民の4つの希望」と題するスローガンの掲載が停止された。8月下旬には反政府系ウェブサイトへのインターネット接続が可能となり,動画投稿サイトのYouTubeも見られるようになった。

また,8月10日にチョーサン情報相をトップとする報道官・情報チームが設置され,12日には新政権下で最初の記者会見が開かれた。さらには,8月22日から始まった国会の第2回会期の模様は国内外のメディアに公開され,これまでビザが取れずにミャンマーへ入れなかった多くの海外メディアが取材に入ってくるようになった。

10月11日には,テインセイン大統領は6359人の受刑者を対象とする恩赦を実施した。これには政治犯が200人程度含まれていたとされる。民主化勢力は引き続き,政治犯全員の解放を要求しているが,今回の恩赦が前進であったことは間違いない。さらには,ミャンマー国家人権委員会の設置(9月5日),労働組合法(10月11日)や平和的集会および行進に関する法(12月2日)の制定など,市民や労働者の権利と自由を守るための法制度整備も進められた。

NLDの政党再登録

11月に入ると,テインセイン大統領の改革の成果が出はじめた。特筆すべきは,スーチー氏とNLDが2008年憲法に基づく現在の政治体制への参加を決めたことである。これは,11月4日の政党登録法の改正によって実現した。

政党登録法は2010年3月に発布されたが,受刑者を党員としてはならないというNLDに不利な規定が盛り込まれていた。当時,スーチー氏は国家防御法違反により有罪判決を受け受刑中であり,NLDが政党として存続するためにはスーチー氏を党から除籍しなければならなかった。国軍の国政関与を許す条項が盛り込まれていた2008年憲法と併せ,この政党登録法を不服としてNLDは2010年総選挙をボイコットしていた。そのため,NLDが再び政党登録を行い,2012年4月1日に予定される補欠選挙に参加するためには,政党登録法の改正が不可欠であった。今回の改正法では,(1)2008年憲法を「護持・遵守する」という文言が,「尊重する」という表現に変更(第6条c項),(2)受刑者は政党の党員になれないという規程を削除(第10条e項),(3)総選挙に3人以上の候補者を立てることが政党登録要件となっていたが,これを補欠選挙でもよいことに変更(12条a項)の3点の修正がなされた。

NLDは11月18日に中央委員会を開き,政党として再登録し,補欠選挙に参加することを決定した。その後,スーチー氏も立候補を表明した。これに先立ち,キンアウンミン連邦議会議長が雑誌のインタビューに答えて,1990年総選挙でNLDが勝利したことを認め,スーチー氏も記者会見において1990年総選挙の結果は官報に記載されており,公式なものであると発言した。これで1990年総選挙を政府が認めたという形式が整い,NLDは面目を保つことになった。NLDの政党再登録とスーチー氏の補欠選挙への出馬により,軍政が1990年総選挙を反故にし,権力に居座ったという問題には,一応の終止符が打たれた。NLDは11月25日に連邦選挙管理員会に政党設立・登録の申請を行い,12月12日には政党設立が許可された。

少数民族との和平交渉

ミャンマー新政権が発足した時,国軍と少数民族武装勢力との関係はすでに悪化していた。KNU,シャン州軍(南部),カレンニー民族進歩党等との長い戦いに加えて,1990年代に停戦合意を締結したいくつかの少数民族武装勢力とも次々と戦闘に入った。民主カレン仏教徒軍(DKBA)の第5旅団とは2010年11月の総選挙の日に,シャン州軍(北部)とは2011年3月に,KIAとは2011年6月に戦闘を開始した。この背景には,軍事政権が2009年4月以降,停戦合意を締結していた少数民族武装勢力に対して,民政移管の前に国軍が指揮権をもつ国境警備隊への編入を求めていたことがあった。

しかし,ミャンマー新政権は8月以降,和平へ向けた新たな動きをみせた。7月28日,スーチー氏はテインセイン大統領と少数民族武装勢力の双方に対し,和平を求める公開書簡を出した。これを受けてテインセイン大統領は8月18日に,少数民族武装勢力に和平を呼びかける政府声明を発出した。この声明に基づき,前第1工業相のアウンタウン議員をリーダー,前通信・郵便・電信相のテインゾー議員を副リーダーとし,オウンミン協同組合相兼畜水産相,ウィントゥン環境保全・林業相らをメンバーとする連邦政府和平交渉団が結成された。

国営紙で確認できるだけでも,連邦政府和平交渉団は10月3日にラシオにて第2特区のワ州連合軍と,10月10日にチャイントンにて第4特区の東シャン州軍と,11月29日に中国雲南省の瑞麗にてKIAの政治組織であるカチン独立機構(KIO)と,12月12日にパアンにてDKBA第5旅団と相次いで交渉に入った。また,シャン州政府は12月2日に,シャン州軍(南部)と停戦合意に至った。さらに,テインセイン大統領は12月10日に,国軍に対してKIAへの攻撃中止を命令した。ミャンマー新政権の和平への努力は,徐々に実りつつある。

経済

チャット高と輸出税の軽減

2007年9月以降のチャット高は2011年も続いた。チャットの市場為替レートは2010年8月時点で1ドル=約1000チャットであったが,2011年8月には一時700チャットを切る水準にまで増価した。その後,ややチャット安へ揺り戻し,12月時点では約800チャットで推移した。大統領経済顧問のミン博士はチャット高の要因として,天然ガスや宝石類の輸出による外貨収入,中国やタイなど近隣諸国からのエネルギー分野と経済特区プロジェクトへの大規模投資,および民間の投機的資金の土地などの資産部門への流入の3点を指摘している。また,直近のチャット高により農作物や(労働集約的な)工業品の輸出が減少し,工場閉鎖や失業が増加していると警鐘を鳴らした(12月14日のアジア開発銀行における講演)。

実際には,チャット高は輸出にどのような影響を及ぼしているのだろうか。表1は主要品目別に輸出額の伸び率をみたものである。輸出総額は2008年度(4~3月)以降,持続的に増加している。ただし,2011年1~9月期は2009年度,2010年度の2桁の高い伸び率から6%へと低下した。また,輸出総額の4割近くを占める天然ガスは,長期契約に基づきパイプラインでタイへ輸出されているため為替レートの影響を受けにくい。そこで,天然ガスを除いてみると,2011年1~9月期の輸出額は前年同期比4.3%の減少となる。これは主に水産物と「その他」の品目が減少したためである。「その他」には表1に示した以外の農産品,卑金属などが含まれるが,品目の詳細は示されていない。一方,労働者のドル建て賃金の上昇を通じて,チャット高の影響を受ける労働集約財である衣料品の輸出は,2010年度,2011年1~9月期ともに大幅な増加を記録した。これは日本向け輸出が伸びたためである。いずれにしても,輸出品目によって動きが異なり,チャット高が輸出に与えた影響を一様には読み取ることはできない。

表1  品目別の輸出額の伸び率(%)

(注) 2008年度,2009年度,2010年度は前年度比。2011年1~9月は前年同期比。

(出所) Central Statistical Organization, Selected Monthly Economic Indicators, September 2011.

それでも,輸出の促進を目指す新政権は,輸出税の軽減に踏み切った。政府は7月1日に,いわゆる輸出税を10%から7%に引き下げた。多くの品目に課されていた輸出税は,8%の商業税と2%の所得税から構成されていたが,今回は商業税の部分が5%へと低減された。ただし,委託加工で生産されている衣料品や靴などにかけられていた輸出税は,10%の所得税のみで構成されていたため,引き下げの対象とならなかった。政府は続けて,8月15日から6カ月間の暫定措置として,コメ,豆類,トウモロコシ,ゴマ,ゴム製品,水産品,動物加工品の7品目の輸出について商業税を免除した。また,8月19日から6カ月間の暫定措置として,委託加工品の輸出および外貨で賃金を得ている国内外のミャンマー国民に課されている所得税を,10%から2%に低減した。これにより,いわゆる輸出税は7品目および委託加工品について,いずれも所得税2%のみに低減された。さらに,9月1日からは木材加工品(木材は含まない)も輸出にかかる商業税の免税対象品目に追加された。

これらの品目が,2011年1~9月期の輸出総額に占める割合は約4分の1である。しかし,国有企業が輸出を独占する天然ガスを除いた場合,これらの品目のシェアは約4割を占めており,輸出税の低減は民間の輸出業者,製造業者,農民にとって朗報であった。輸出税の低減・撤廃はかねてから実業界が要望していたものの,軍政下では実現されることはなかった。今回,これが実現した要因のひとつとして,新政権の商業大臣にミャンマー商工会議所連盟の会頭であったウィンミン氏が就任したことが指摘されている。また,経済開発を目指す新政権が,実業界の声に耳を貸すように態度を変えている点も重要である。

外国投資の促進

新政権は外国投資の促進にも取り組み始めた。すでに軍政下の1月27日に「ミャンマー経済特区法」および「ダウェイ経済特区法」が公布され,ダウェイについてはミャンマー政府とタイの大手建設会社のイタリアン・タイ・デベロップメントとの間で,深海港を含む開発計画が合意されていた。新政権はダウェイに加えて,ヤンゴン市内からヤンゴン川の下流約25キロメートルに位置するティラワ,およびラカイン州ラムリー島の北部に位置するチャウピューについても,特区指定をするべく準備を進めている。

新政権は外国投資法の改正にも取り組んだ。現在の外国投資法は軍政誕生直後の1988年11月に制定されて以降,23年間一度も改正されなかった。そのため,外国投資家から使い勝手の悪い点が指摘されていた。そこで,本法を所管する国家計画経済開発省は,法律の専門家,各省庁の関係者,議員を含めたワークショップを開催し,見直しを進めてきた。すでに法律の改正案は出来上がっている模様であるが,結局,8月22日から11月25日にかけて開催された国会(第2回会期)には提出されなかった。

しかし,緊急に改正を要する2つの点については,国会での審議を待たずに,9月30日付の2つの大統領令によって是正が図られた。第1に,これまで外国企業はミャンマー政府所有の土地しか借りることができなかったが,1987年の不動産取引規制法を改正することで,民間が所有する土地も借りることができるようにした(大統領令39/2011)。第2に,外国企業が持ち込んだ外貨を輸出で稼得した外貨(Export Earnings)と同様な扱いとし,また送金規制を緩和することで,実質的に外貨の使い勝手を良くした(大統領令40/2011)。

為替レート一本化へ向けた動き

新政権は多重為替レートの解消へ向けても動き出した。チャットの公定為替レートはIMF特別引出権(SDR)に固定されており,1ドル=5~6チャットで推移している。このため,近年チャット高が進んだとはいえ,公定為替レートと市場為替レートとの間には依然として130倍を超える差があった。公定為替レートの形骸化は著しく,政府・国有企業の取引においてさえ,ほとんど価格として調整機能を果たさなくなっていた。

中央銀行は10月1日より順次,民間銀行に市場為替レートでの両替業務を許可し,11月上旬までに民間銀行19行中17行に許可が出された。10月1日には,初めに許可を得た民間銀行6行が,ヤンゴン市内に政府公認の「テインビュー両替センター」を開設した。ここでは市場為替レートでドル,FEC(ドルの外貨兌換券),ユーロ,シンガポール・ドルの4種類の外貨とチャットを交換することができるようになった。その後,空港を初め市中の各所に外貨両替所が設置された。

続いて中央銀行は,11月25日に民間11行に対して外国為替業務の許可を出した。しかし,現状で出来るのは国内の外貨送金業務のみで,しかも一部の大手民間銀行の本店のみの取扱いである。民間銀行による外為業務については,許可を受けた銀行内で準備が始まったという段階である。政府は民間銀行に外為業務を許可することで,国内の外貨のヤミ市場およびホンディと呼ばれる非正規の海外からの送金システムをなくし,地下に潜っている外貨を正規の金融セクターに流すことを狙っている。

さらに,中央銀行は10月19日から11月1日まで,経常取引の支払いに制限を設けないIMF協定8条国への移行に関する年次協議で来訪したIMFミッションと,為替制度改革について話し合った。IMFミッションは為替レートの一本化へ向けて技術的アドバイスをすることで合意し,2012年2月にも再度の訪問が予定されている。

対外関係

軍事政権の23年間を通じて,ミャンマーは国際社会において不名誉な地位に甘んじてきた。国連総会では毎年人権状況に関する非難決議が出され,国連安全保障理事会においても決議が出されそうになったが,中国とロシアの拒否権発動でようやく回避されたこともあった。欧米諸国からは制裁を科され,日本や国際開発金融機関からは本格的な援助を停止されてきた。こうしたなか,ミャンマーは中国への依存を高めていた。新政権はこのような状況を脱し,国際社会への復帰を目指した。そのための重要なステップが,ASEAN議長国への就任の決定,中国への過度の依存の解消,そしてアメリカとの関係改善であった。

ASEAN議長国への就任の決定

新政権は発足後すぐに,ASEAN議長国就任への意欲を明らかにした。4月11日にバンコクで開催されたASEAN特別非公式外相会議に出席したウンナマウンルウィン外相は,その場でミャンマーが2014年にASEAN議長国を務めたいと申し出た。原則,持ち回りで担当されるASEAN議長国の順番は,2006年に一度ミャンマーに回ってきたことがあった。しかし,その時は民主化の遅れや人権状況を欧米諸国に批判され,断念せざるをえなかった。その際,ミャンマー国内の準備が整い次第,議長国への就任を求めることができるとの合意があった。新政権はこの権利を行使した。テインセイン大統領をはじめ軍政の旧幹部が主導する新政権にとって,2014年のASEAN議長国就任は2006年の屈辱を晴らす機会でもあった。

ミャンマーはインドネシアのバリ島で7月19日に開かれたASEAN外相会議での決定を期待したが,この場では結論が出ず,11月のASEAN首脳会議に議論が委ねられた。また,ASEAN議長国のインドネシアの外相を派遣し,ミャンマーの国内状況を確認することになった。こうした決定の先送りはミャンマー新政権に危機感を抱かせ,すでに述べたとおり,この頃から改革への動きが加速した。

マルティ・インドネシア外相はすでに改革が大きく進んでいた10月28日から30日にかけてミャンマーを訪問し,テインセイン大統領およびスーチー氏と会談した。スーチー氏はミャンマーのASEAN議長国就任に反対しなかった。そして,11月17日のASEAN首脳会議において,ミャンマーの2014年ASEAN議長国就任が正式に決定された。

対中国関係の調整

新政権は対中関係の調整にも乗り出した。その象徴的な出来事が,中国電力投資集団公司が36億ドルを投じて建設していたミッソン・ダムの建設凍結である。9月30日,テインセイン大統領は上下両院にメッセージを送り,「われわれは国民に選ばれた政府であり,国民の意思を尊重するのは当然である。われわれは国民の懸念・心配に対して,真剣に措置をする責任を有している。それゆえ,ミッソン・ダムの建設は,われわれが政権にいる間は,これを凍結する」と述べた。

ミッソンの地はカチン州にあるエーヤーワディー川の源流であり,ミャンマー国民にとっては歴史的・文化的に重要な土地であった。また,エーヤーワディー川の上流にダムを建設することの環境への悪影響も懸念された。発電された電力の大部分が中国雲南省へ送られてしまうことも,地元住民の反感を買った。近年活発化していた中国企業によるミャンマーでの資源開発は,多くのミャンマー国民には資源収奪と映っており,反中感情も高まっていたといわれる。そこに,スーチー氏も建設に反対の姿勢を示したため,ミッソン・ダム反対は国民運動化した。今回の反対運動の盛り上がりには,規制緩和を受けて報道を拡充させた『ウィークリー・イレブン』のような週刊誌も重要な役割を果たした。さらには,国軍と戦闘が続くKIAとこれ以上関係を悪化させたくない,という意向も働いた。いずれにしても,国民の意思を尊重することを第1の理由として,事実上の中国の経済協力案件を凍結したことは,ミャンマー国民および西側諸国に対しても,新政権と軍政の違いを印象づけることとなった。ただし,テインセイン大統領はその後,ウンナマウンルウィン外相,ティンアウミンウー副大統領を中国に派遣し,良好な関係の維持にも努めている。

新政権はまた,全方位外交を展開することで,中国への過度の依存の軽減を図った。テインセイン大統領は5月の訪中に次ぐ二国間ベースの訪問先としてインドを選び,10月12日に訪問した。インドのシン首相はミャンマーに対して,5億ドルの信用枠を供与すると発表した。また,ミンアウンフライン国軍司令官は,11月27日から12月2日にかけ中国を訪問した。習近平国家副主席,および陳炳徳中国人民解放軍総参謀長と会談し,軍事協力に関する覚書を締結した。ミャンマー国軍が引き続き中国との関係を重視していることには違いないが,じつはこの訪中に先駆けて11月にベトナムを訪問していた。国軍司令官に就任後,初めての外国訪問先としてベトナムを選んだことは,全方位外交により中国とのバランスを取ろうとする動きの一環であった。さらに,シュエマン人民代表院議長も6月にロシア,12月にインドを訪問した。

クリントン米国務長官の来訪

テインセイン大統領は国際社会へ復帰するためには,アメリカとの関係改善が決定的に重要であることを認識していた。折しも,アメリカのオバマ大統領は外交の主軸を,テロとの戦いからアジア太平洋地域の重視へと転換しつつあった。こうした転換の背景には,この地域で台頭する中国を牽制する意図があった。ここに,これまでアメリカにとって外交戦略上大きな意味を持たなかったミャンマーが,重要なプレーヤーとしてその視野に入ってきた。そして,中国への過度の依存を軽減したいミャンマー新政権の思惑と,アメリカの外交目標が利害の一致をみたのである。

まず,アメリカのマケイン上院議員が6月にミャンマーを訪問した。これに先立ち,オバマ米大統領は4月14日に,デレク・ミッチェル国防筆頭副次官補をミャンマー担当特別代表・政策調整官(大使級)に指名していた。8月の米議会での承認を待って,ミッチェル特別代表は9月上旬に初めてミャンマーを訪問した。これを皮切りに,10月下旬に2回目,11月初めに3回目のミャンマー訪問を繰り返し,両国関係の地ならしを行った。

オバマ米大統領は11月17日にオーストラリア連邦議会において,アメリカ海兵隊のダーウィン駐留の意義を訴えるとともに,アメリカは太平洋国家であり,この地域にとどまると宣言した。翌18日, ASEAN首脳会議や東アジア首脳会議に参加のため訪問したインドネシアのバリ島において,ミャンマーに関する声明を発表した。ミャンマーには閉鎖的な政治システム,少数民族問題,政治犯の存在,北朝鮮との関係など懸念は残っているものの,改革の兆しがみえるとして,クリントン国務長官をミャンマーへ派遣することを決めたと発表した。

クリントン国務長官は11月30日から12月2日にかけて,ミャンマーを訪問した。アメリカの国務長官がミャンマーを訪問するのは,1955年のダレス国務長官以来56年ぶりであった。クリントン国務長官はテインセイン大統領,スーチー氏と会談し,今後とも改革推進へ向けて協力していくと約束した。アメリカは現在,代理大使に留まっている外交関係を格上げし,大使を派遣することを検討するとした。しかし,当面,制裁措置は解除しないことも表明した。それでもアメリカの国務長官を首都ネーピードーに連れてきたことは, ASEAN議長国への就任の決定とともに,テインセイン政権にとって国際社会への復帰へ向けた大きな成果となったのである。この後,各国の政府高官のミャンマー訪問が相次いだ。

2012年の課題

ミャンマー新政権は改革路線へと大きく舵を切った。しかし,今回の改革を,テインセイン大統領が軍政のこれまでの統治のあり方を否定し,タンシュエ前議長の意に反して,そして守旧派と闘いながら,進めているとみるべきではない。むしろ,テインセイン大統領は軍政統治の成果に基づきつつも,しかしその強権的統治の副作用として発生した諸問題――権力の正統性の欠如,国際社会における不名誉な地位への転落,深刻な人権問題,近隣諸国に後れた経済発展など――の解決に取り組むために,改革を進めているとみるべきであろう。ただし,ここまで大胆かつ迅速な改革が可能となった背景には,スーチー氏の協調姿勢への転換とアメリカの対ミャンマー政策の変更があった点も忘れてはならない。

とはいえ,改革は始まったばかりであり,課題は山積している。第1に,政府の能力不足がある。軍政時代を通じて,役所への軍人の天下りと上意下達の意思決定のあり方により,官僚制は機能不全に置かれてきた。公務員には事なかれ主義や怠業が蔓延し,大統領・大臣が新たな方針を掲げて号令をかけても,役所や役人は動かない。このため,国民や企業は現場において,新政権の改革による変化を感じられないでいる。

第2に,軍政下では政治的な意見対立は,国家分裂の種とみなされてきた。ようやく国会での議論が始まり,メディア規制の緩和を受け週刊誌などが政治問題を取り上げることも多くなった。ミッソン・ダム反対運動のように,国民が政治を動かす事例も起きた。しかし,それは同時に多様な政治的利害が表出されやすくなったことを意味する。誰がどのようにこれを調整していくのか。地方議会を含む政治制度や司法制度の整備と能力構築が課題である。

第3に,経済の構造改革が重要である。経済は国軍,政商,その他の既得権益によりがんじがらめになっている。これを自由化し,公正な市場経済へと移行することは容易なことではない。軍政時代に広がった格差に対する国民の不満も強い。既得権益と直接の衝突を避けつつ,いかに国民に広く裨益する経済成長を実現するのか。新政権は難しい舵取りを求められている。

(ERIA支援室)

重要日誌 ミャンマー 2011年
  1月
1日 内国歳入局,源泉課税を実施。
20日 連邦選挙管理委員会(UEC),国軍司令官に任命された国軍議員を発表。
23日 タペイン川第1水力発電所の開所式,開催。
27日 「ミャンマー経済特区法」および「ダウェイ経済特区法」,公布。
28日 最高裁,国民民主連盟(NLD)の解党処分は不当とする訴えを棄却。
31日 2010年総選挙に基づく初めての国会が招集。
  2月
4日 国会,テインセイン氏を大統領,ティンアウンミンウー,サイマウカン両氏を副大統領に選出。
8日 NLD,「ビルマに対する制裁:NLDによるレビュー」を発表。
13日 国営英字紙,NLDとスーチー氏を非難し,警告を発する論説を掲載。
  3月
17日 政府,東日本大震災に対する人道支援10万ドルを日本政府に供与。
24日 ミャンマー東部でマグニチュード6.8の地震が発生。
30日 国家平和発展評議会(SPDC),解散。
30日 テインセイン大統領率いる新政権,発足。
30日 国会,第1回会期を終了。
31日 テインセイン大統領,施政方針演説。
  4月
2日 中国の賈慶林全国政治協商会議主席,来訪(~5日)。
11日 ウンナマウンルウィン外相, 東南アジア諸国連合(ASEAN)特別非公式外相会議に出席。
11日 政府,経済・政治・法律の3分野に3人ずつの大統領顧問を任命。
12日 欧州連合(EU)外相理事会,対ミャンマー制裁の1年延長を決定。
14日 オバマ米大統領,デレク・ミッチェル国防筆頭副次官補をミャンマー担当特別代表・政策調整官(大使級)に指名。
27日 ミャンマー鉄道公社,中国鉄道エンジニアリングとムセ=チャウピュー間の鉄道敷設で合意。
  5月
5日 テインセイン大統領,インドネシア訪問。ASEAN首脳会議に出席(7~8日)。
11日 ナンビア国連事務総長特別顧問,来訪(~13日)。
12日 徐才厚中国共産党中央軍事委員会副主席,来訪(~15日)。
16日 テインセイン大統領,すべての受刑者に恩赦。
18日 ユン米国務副次官補(東アジア・太平洋担当),来訪(~21日)。
20日 農村開発と貧困削減に関する国家ワークショップが開催(~22日)。
23日 ムベーン・バングラデシュ陸軍司令官,来訪。
26日 テインセイン大統領,訪中(~28日)。27日に胡錦濤国家主席と会談。
  6月
1日 マケイン米上院議員,来訪(~3日)。
1日 李源潮中国共産党中央政治局委員,来訪。
6日 ウンナマウンルウィン外相,アジア欧州会合第10回外相会合に参加。
9日 カチン独立軍(KIA),国軍と武力衝突。
9日 ベトナムのホアン・チュン・ハイ副首相,来訪(~12日)。
10日 報道検閲登録局,芸術やスポーツ等の定期刊行物について事前検閲を廃止。
20日 クーパーEU理事会対外関係担当事務局長率いるEU代表団,来訪(~23日)。
22日 スーチー氏,米下院外交委アジア太平洋小委員会でビデオメッセージによる証言。
24日 マンダレー,ネーピードー,ピンウールウィンでほぼ同時に爆弾が爆発。
25日 シュエマン人民代表院議長,ロシア訪問。
27日 菊田外務政務官,来訪(~29日)。
28日 内務省,スーチー氏へ政治活動を中止するよう求める書簡を発出。
30日 ラッド豪外相,来訪(~7月2日)。
30日 財政歳入省,公務員年金を増額。
  7月
1日 政府,輸出にかかる商業税を8%から5%へ引き下げ。
4日 スーチー氏,パガン訪問。
8日 エネルギー省,陸上18鉱床を入札。
11日 トンシン・ラオス首相,来訪(~13日)。
18日 商業省,タイからの輸入を禁止していた15品目の禁輸を解除(報道日)。
19日 スーチー氏,殉難者の日の式典に出席。9年ぶり。
19日 外相,インドネシア・バリ島で開催されたASEAN外相会議に出席。外相会議の共同声明は,2014年のミャンマー議長国についてはASEAN首脳会議で決定するよう要請。
25日 スーチー氏,アウンチー労相と会談。
26日 鉄道運輸省,ヤンゴン環状鉄道の運営を民営化するための説明会を開催。
28日 スーチー氏,政府と少数民族武装勢力に対し,和平を求める公開書簡を発出。
  8月
10日 政府,情報相をリーダーとする報道官・情報チームを設置。
10日 ソーテイン第2工業相,第1工業相を兼務。チョースワーカイン第1工業相は大統領府大臣に異動。
12日 スーチー氏,アウンチー労相と2回目の会談。共同声明を発出。
12日 チョーサン情報相,新政権下で最初の記者会見を開催。NLDに政党登録を求める。
14日 スーチー氏,バゴー訪問。
15日 政府,コメ,豆類など7品目の輸出にかかる商業税を免除。6カ月間の時限措置。
16日 国営新聞,外国メディアを批判するスローガンや「人民の希望」などのプロパガンダ掲載を停止。
17日 テインセイン大統領,外国に住む国民に帰国を呼びかけ。
18日 政府,少数民族武装勢力に和平を呼びかける声明を発出。
19日 スーチー氏,ネーピードーで開催された「経済発展のための改革に関する国民ワークショップ」(19~21日)に参加。
19日 テインセイン大統領,スーチー氏と会談。
19日 財政歳入省,委託加工貿易(CMP)による輸出に対する税金,および国内・国外で外貨で賃金を得ている国民の所得税を10%から2%へ低減。6カ月間の時限措置。
21日 キンタナ国連人権理事会特別報告者,来訪(~25日)。
22日 国会第2回会期,招集される(~11月25日)。
26日 テインセイン大統領,ベルマ・インド海軍司令官と会談。
31日 外国テレビ局,国会を取材。中国の中央電子台(CCTV)および日本のフジテレビ。
  9月
1日 政府,木材加工品の輸出にかかる商業税を免除(2012年2月14日まで)。
5日 ミャンマー国家人権委員会,設置。
8日 週刊誌『ピープルズ・エイジ』,スーチー氏の手記を掲載。
9日 アメリカのミッチェル特別代表・政策調整官,来訪(~14日)。
11日 鉄道運輸相,車齢40年を超えた車の買い替えプログラムを発表。
15日 当局,イギリス放送協会(BBC),ビルマ民主の声(DVB)などのウェブサイトへの接続解禁。
16日 ヤンゴン航空,運航再開。
18日 キンアウンミン連邦議会議長,カンボジア訪問(~24日)。20日にASEAN議員会議(AIPA)に参加。ミャンマーがAIPAに加盟。21日にはフンセン・カンボジア首相と会談。
23日 UEC,人民民主党を政党登録。
27日 ウンナマウンルウィン外相,第66回国連総会で演説。近い将来の恩赦に言及。
28日 日本女性,パガンで殺害される。
30日 スーチー氏,アウンチー労相と3回目の会談。
30日 大統領,ミッソン・ダム建設の凍結を表明。
  10月
1日 中国外務省の洪磊・副報道局長,ミッソン・ダム建設凍結について,ミャンマー政府が適切な措置を取るように要求。
1日 中央銀行,民間銀行17行に外貨両替業務を許可。
3日 連邦政府和平交渉団,第2特区停戦グループとラシオにて和平交渉。
4日 UEC,新国民民主党を政党登録。
5日 インラック・タイ首相,来訪。
5日 連邦選挙管理委員会改正法,発布。
7日 商業省,ヤンゴンで輸出入ライセンスの発給を開始。
10日 ウンナマウンルウィン外相,中国を訪問。習近平国家副主席と会談。
10日 連邦政府和平交渉団,第4特区停戦グループとチャイントンにて和平交渉。
10日 ミャンマー国家人権委員会,大統領に恩赦を要請する公開書状を発出。
11日 テインセイン大統領,服役中の6359人に恩赦。12日から釈放を開始。
11日 労働組合法,発布。
12日 テインセイン大統領,インドを訪問(~15日)。14日にシン・インド首相と会談。
14日 UEC,民主連携党と統一平和党を政党登録。
19日 IMFミッション,8条国移行のための年次協議で来訪(~11月1日)。
19日 パコックで洪水。21日までに100人以上が死亡・行方不明に。
20日 ウンナマウンルウィン外相,日本を訪問(~22日)。21日に玄葉外務大臣と会談。
20日 ティンアウンミンウー副大統領,中国を訪問(~27日)。胡錦濤国家主席と会談。
24日 アメリカのミッチェル特別代表・政策調整官,2回目の来訪(~25日)。
28日 マルティ・インドネシア外相,来訪(~30日)。
30日 スーチー氏,アウンチー労相と4回目の会談。
31日 ノルウェーのソルハイム環境・国際開発相,来訪(~11月1日)。
31日 ナンビア国連事務総長特別顧問,来訪(~11月4日)。
  11月
1日 ポスナー米国務次官補(民主主義・人権・労働担当),来訪(~12月4日)。
2日 アメリカのミッチェル特別代表・政策調整官, 3回目の来訪(~4日)。
3日 日ASEAN経営者会議(AJBM),ヤンゴンで開催(~4日)。
4日 政党登録法の改正法,発布。
12日 ミャンマー国家人権委員会,大統領に恩赦を要請する公開書状を発出。
14日 ミンアウンフライン国軍司令官,ベトナム訪問(~18日)。
14日 ミッチェル英国際開発相,来訪(~17日)。
17日 ASEAN首脳会議,ミャンマーの2014年議長国への就任を決定。
17日 オバマ米大統領,スーチー氏と電話会談。
18日 NLD,中央委員会を開催。政党として再登録し,補欠選挙への参加を決定。
18日 オバマ米大統領,ミャンマーに関する声明を発表。クリントン国務長官の派遣を表明。
18日 野田首相,テインセイン大統領と会談。
19日 潘国連事務総長,テインセイン大統領と会談。
19日 テインセイン大統領,国内外のメディアと会見。大統領就任後初めて。
21日 ニャンウィンNLD報道官,スーチー氏が補欠選挙に出馬すると発言。
22日 ソーウィン国軍副司令官,バングラデシュを訪問(~26日)。
24日 国営紙,タンシュエ前SPDC議長を「引退した上級大将」と呼称。
25日 NLD,政党設立・登録を申請。
25日 国会,第2回会期を終了。
27日 ミンアウンフライン国軍司令官,中国を訪問(~12月2日)。28日に習近平国家副主席,陳炳徳中国人民解放軍総参謀長と会談。軍事協力に関する覚書を締結。
28日 日本・ミャンマー両政府,ODA政策協議を開催。
29日 連邦政府和平交渉団,カチン独立機構(KIO)議長らと中国雲南省の瑞麗で和平交渉。
30日 クリントン米国務長官,来訪(~12月2日)。
30日 「マイクロファイナンス法」発布。
  12月
1日 ミャスニコヴィチ・ベラルーシ首相,来訪(~3日)。
2日 政府,第1工業省,第2工業省を統合し,工業省を設置。ソーテイン大臣が就任。
2日 「平和的集会および行進に関する法」および「私立学校登録法」,発布。
2日 シャン州政府,シャン州軍(南部)と停戦合意。
5日 政府,2010年7月以来閉鎖していた,ミャワディ国境検問所を再開。
5日 ハシナ・バングラデシュ首相,来訪(~7日)。
7日 アメリカのミッチェル特別代表・政策調整官,韓国,日本,中国を訪問(~13日)。
8日 ASEAN情報通信・IT大臣会合,ネーピードーで開催。
10日 テインセイン大統領,国軍に対してKIAへの攻撃中止を命令。
11日 シュエマン人民代表院議長,インドを訪問(~18日)。
12日 UEC,NLDの政党設立を許可。
12日 連邦政府和平交渉団,DKBA第5旅団と和平交渉。
12日 シャンムガム・シンガポール外相,来訪(~14日)。
14日 クーパーEU理事会対外関係担当事務局長,テインセイン大統領と会談。
15日 中国の李軍華・駐ミャンマー大使,スーチー氏と会談したと報道される。
16日 陸啓洲・中国電力投資集団公司社長,ティンアウンミンウー副大統領と会談。
19日 ネーピードー国際空港,開港。開港式にサイマウカン副大統領,戴秉国中国国務委員が出席。
20日 GMS首脳会議,ネーピードーにて開催。
20日 インラック・タイ首相,スーチー氏と会談。
23日 スーチー氏,キンアウンミン民族代表院議長,シュエマン人民代表院議長と会談。
25日 玄葉外務大臣,来訪(~26日)。
29日 ヤンゴンで爆発。少なくとも20人が死亡し,80人がけが。
29日 UEC,2012年4月1日に48議席について補欠選挙を実施と発表。
30日 ミャンマー国家人権委員会,大統領に恩赦を要請する声明を発出。

参考資料 ミャンマー 2011年
①  国家機構図(2011年3月30日現在)
②  地域・州知事(2011年3月30日現在)
③  連邦政府閣僚(2011年3月30日現在)

主要統計 ミャンマー 2011年
1  基礎統計
2  国家予算
3  産業別国内総生産(実質)
4  国際収支
5  国別貿易
6  品目別貿易
 
© 2012 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
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