2012 年 2012 巻 p. 497-522
2011年は暫定政権(2010年6月首相辞任)のまま年が明けた。1月の第17回目の首相選挙は立候補取り下げで中止となった。首相選挙規定が改訂された後,2月3日に出直し選挙が実施された。統一ネパール共産党毛沢東主義派(UCPN-M)のダハール議長とネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(CPN-UML)で左派のジャラ・ナタ・カナル委員長との間で密約が交わされ,カナル連立政権が誕生した。しかし,政権発足当初から,CPN-UML右派からの密約批判,UCPN-Mからの重要閣僚ポスト要求,そして野党ネパール国民会議派(NC)からの挙国一致政府の樹立と引き換えの首相辞任要求にさらされ,UCPN-Mの人民解放軍(PLA)と国軍の統合問題や新憲法の策定に目立った進展はなかった。1年延長されていた憲法制定議会の存続期限切れの5月末,NCが3カ月間の再延長と引き換えに首相の辞任を強く主張したため,再延長期間終了前にカナル首相は正式に辞任した。その後の首相選挙で,UCPN-Mはバブラム・バッタライ副議長を擁立し,マデシ諸政党と協定を結んで政権を奪回した。憲法制定議会はさらに3カ月間延長された。UCPN-M主導の連立政権の下で,11月1日にUCPN-M,NC,CPN-UML,統一マデシ民主戦線(UMDF)の4党は歴史的な7項目合意に署名した。11月29日に憲法制定議会の存続期限の最後の6カ月間の延長が議決され,2012年5月28日を期限とする新憲法の制定に向けた政治的駆け引きの幕開けとなった。
2010/11年度のGDP成長率は製造業の不振により前年度を0.5ポイント下回る3.5%であった。最大の外貨獲得源である海外出稼ぎは拡大の一途をたどった。100万人来訪を見込んだネパール観光年2011の諸行事が内外で取り組まれた。
対外関係では,UCPN-M主導の連立政権下でインドとの関係改善が進み,二国間投資保護協定が結ばれた。中国からは人民解放軍総参謀長や2012年にずれ込んだが温家宝首相が来訪し,また貿易・投資拡大を通じた関係強化が図られた。
連続16回行われたが首相選挙で3分の2以上の多数を制する立候補者がなかったため,年が明けた2011年1月12日に第17回目の首相選挙投票日を迎えた。一旦はNCのポーデル副委員長が立候補したが,当選に必要な票の獲得見込みがなく,他党からの要請もあり,NC中央執行委員会は立候補の取り下げを決定した。その結果,首相選挙は終了し出直しとなった。
ネムワン憲法制定議会議長は,首相選挙規定の改訂方針を固め,1月25日に新選挙規定が誕生した。それによると,(1)立候補者が単独の場合,議員定数(601人)の過半数の301票以上を獲得した者を当選とする。(2)立候補者が複数の場合,第1回投票で過半数を獲得した者がいなければ,第2回目の投票を行う(この場合,議員は立候補者のいずれかに投じる義務が課せられる)。さらに過半数を獲得する者がいない場合は,上位2者で第3回目の投票を行う。それで決まらなければ,選挙は終了し最初から同様の手順で選挙をやり直すというものである。
カナル政権の誕生新首相選挙規定に基づく首相選挙が1月27日に公示され,UCPN-Mのダハール議長,NCのポーデル副委員長,CPN-UMLのカナル委員長,マデシ人権フォーラム(民主)のガッチャダール委員長の4人が立候補を届け出た。マデシ諸政党(インド国境沿いの亜熱帯低平地に居住するインド系の民族グループで組織)から首相選挙に立候補者が出たのはこれが初めてだった。投票直前にダハール議長が立候補を取り下げ,カナル委員長の支持に回った。投票の結果,368票を獲得したカナル候補(1950年生まれ)が首相に当選した。ポーデル,ガッチャダール両候補の得票数はそれぞれ122票,67票であった。
2月6日の宣誓式を経てカナル委員長が首相に就任し,CPN-UML左派とUCPN-Mによる連立政権が誕生した。しかし,首相選の直前にダハール議長とカナル委員長との間で「7項目密約」が交わされていたことが明らかになった。密約の概要は,次のとおりである。(1)すべての人々を包み込む民主主義および社会主義に向けた社会政治システムの確立,(2)新憲法策定による連邦共和制の制度化,(3)和平工程の論理的帰結(PLAと国軍の統合は,新組織とするか,または既存の治安組織と合体するかのいずれかとする),(4)挙国一致政府とその支援のための高級レベル政治メカニズムの設置,(5)新政権の最小共通政策の策定,(6)相互理解と協力に基づく首相輪番制の政権の樹立,(7)CPN-UMLの首相候補者への投票,である。
カナル首相は就任直後に自派から3閣僚を任命し内閣を発足させたが,その後は,密約に対する自党の対立派閥から激しい批判を受け,さらにUCPN-Mが重要閣僚ポストを強く要求したため,閣僚の任命は遅々として進まなかった。首相は内相ポストをUCPN-Mに割り当てる方針だったが,CPN-UMLの右派はこれに強く反対し,ネパール前首相が提案した中間路線(当面は内務相を首相が兼務し,その後UCPN-Mに譲る)に落ち着いた。カナル首相は5月初旬に閣僚を増員し,内相にUCPN-M議員を任命した。このため,党内右派のオリ派から,首相はCPN-UML委員長でありながら,「半ばUCPN-M,心はUCPN-M」と厳しい批判を受けた。
NCのコイララ総裁は連立政権参加に断固反対の立場をとり,野党の立場を貫いた。そして,和平と憲法制定の促進キャンペーンを全国主要都市で展開した。
憲法制定議会の再延長憲法制定議会は2010年にその存続期限が1年延長され,5月28日が新たな期限となっていた。その期限の再延長問題について具体的な動きが表面化したのは,5月初旬であった。首相のトルコ外遊中に,与党で反カナル派のネパール前首相,オリ議員,UCPN-Mのダハール議長とバッタライ副議長は秘密会談を開き,カナル政権に替わる政権構想について協議した結果,政権交代が不可欠という認識で一致した。首相は急遽日程を繰り上げて帰国し,5月12日の閣議で憲法制定議会の存続期限を1年延長する方針を決定した。UCPN-Mのダハール議長が延長方針案は事前協議なしの一方的決定と批判すると,首相は延長決定の支持をNCに求めた。これに対して7項目密約の廃棄が前提と主張し,NCは要請を拒否した。ネパール前首相は1年延長の前提条件としてカナル首相の無条件辞任をあげた。小規模政党は,大政党だけで決定した1年延長案に反対を表明した。
主要3政党(UCPN-M,NC,CPN-UML)は,UMDF(マデシ人権フォーラム(民主)[MJF-D],マデシ人権フォーラム(共和)[MJF-R],タライ・マデシ民主党[TMDP],タライ・マデシ民主党(ネパール) [TMDP-N],友愛党[SP]の5党で構成)を巻き込み,会期最終日の深夜に憲法制定議会の3カ月延長案を可決した。この採決に先立ち,主要3政党およびUMDFの間で5項目合意,すなわち(1)3カ月以内に和平工程の基礎を完了させること,(2)3カ月以内に新憲法の第1次草案を策定すること,(3)マデシ諸政党との過去の合意事項の履行,(4)憲法制定議会の存続期間の3カ月延長,(5)カナル首相の辞任による挙国一致政府の樹立,が取り交わされた。憲法制定議会は5項目合意の効果的履行を監視する委員会を設置した。
バッタライ政権の誕生と憲法制定議会の再々延長カナル首相は5項目合意の履行に意欲を示したが,政局は首相辞任を前提にした展開となった。UCPN-Mでは,次期政権担当者としてバッタライ副議長の名前があがり,ダハール議長は閣外から政権を支援する方針が浮上した。UCPN-M は7月の中央委員会で党選出閣僚の交代を決定し,カナル首相に内閣改造を働きかけた。しかしながら,首相は難色を示し,またCPN-UMLとNCはUCPN-Mの閣僚交代案に断固反対した。UCPN-Mは同派の全閣僚の引き揚げで対抗した。首相の指導力は低下の一途をたどり,8月14日に辞任を表明した。
8月28日に首相選挙が行われることになり,UCPN-Mのバブラム・バッタライ候補(1954年生まれ)がUMDFの支持を得て340票を獲得し当選した。NCのポーデル候補は235票にとどまった。UCPN-MとUMDFの首相選挙協力は投票直前の4項目合意に基づいていた。その要点は,(1)PLAの統合にかかわるUCPN-M提案の支持,(2)政治闘争の犠牲者に対する救済措置,(3)政治闘争にかかわる刑事責任の免責,(4)暫定憲法に規定された国家再建委員会(SRC)の廃止である。
新首相選出後,8月28日から29日未明に及んだ憲法制定議会は,存続期間をさらに3カ月間延長する暫定憲法改正案を賛成537票,反対4票で可決した。
11月1日「7項目合意」バッタライ首相は,和平と憲法制定に向けた最後の機会の到来を強調し,政府の重点施策は和平工程を完了させることであるとした。9月1日,その手始めとしてPLAの基地(全国7カ所,付属基地21カ所)の武器庫の鍵を軍統合特別委員会(AISC,委員長は首相)に引き渡した。また,UCPN-Mが武装闘争期に接収した土地や財産を元の所有者に返還するよう党支部に指示した。こうした首相のリーダーシップは,実際の履行の程度は別にして,対立する政党勢力との信頼関係の醸成に貢献した。そのため,10月にはUCPN-MとNCはPLAの国軍への統合方式と社会復帰希望者対策に関する協議を重ね,合意案策定のためのタスクフォースの設置に至った。10月31日に最後の調整を経て,翌11月1日に和平工程に突破口を開く歴史的な7項目合意にUCPN-M,NC,CPN-UML,UMDFの4党が署名した。
この11月の「7項目合意」の概要は表1のとおりである。もっとも注目されるのは,軍の統合方式で合意に達したことである。PLA出身兵は最大6500人が国軍に採用されることになった。採用基準は国軍規定(年齢,学歴は調整される)による。採用決定者の格付けは採用する組織の基準による。新司令部を設け,PLA兵はそのうちの35%以内,残る65%は国軍からの配置替えとする。開発関連事業,森林保護活動,産業施設警備,危機管理を任務とし,国軍武装部隊の一部とはしない。
その他のPLA兵は社会復帰し一般生活に戻る。自主退職するか,または社会復帰訓練(再教育,研修,職業訓練)を受ける。社会復帰に要する一時金として1人当たり50万~80万ルピー(UCPN-MのPLA在籍期間による)が支給される。統合事業の開始とともに,PLAの武器は政府の管理下に置かれる。PLA兵の意向調査によるグループ分けの期限を2011年11月23日とする。青年共産主義者同盟(YCL,UCPN-Mの青年組織)の準軍事的組織体制は廃止する。YCLが接収した公有および私有財産は2011年11月23日までに正当な権利者に返還する。また,UCPN-Mは,武装闘争期の公有および私有財産を元の所有者に同期日までに返還する。接収に伴う財産の損失は補償される。農民の土地権は2006年包括的和平協定,2007年暫定憲法,科学的土地改革の精神に則り保護される。さらに,1カ月以内に,真実究明・調停委員会および非自発的行方不明者調査委員会を設置する。そして,犠牲者救済策に取り組むとしている。
和平工程を論理的帰結に導き,憲法草案作成を完成させるため政党間の協議を推進する目的で,高級レベル政治協議会を設けることも合意された。憲法制定議会の合意に基づいて直ちに専門家チームを設置し,国家再建に対する勧告を行う。そして,1カ月以内に憲法草案策定の作業に着手することを明記している。
11月の「7項目合意」は,内容に目新しさはないが,主要3政党が2008年5月の憲法制定議会の設置以来かたくなに妥協を拒んできた主要政党が初めて合意に達したものであり,国民が長く待ち望んでいたものにほかならない。確かにUCPN-M内には,バイディア副議長が率いる強硬派を中心に,この合意が党の方針はもとより,国民と国家に反するものと批判する勢力が存在している。しかし,同党が政権奪回後にこうした妥協に及んだ背景として,従来PLAに依存してきた権力基盤の重心が選挙で選ばれた議員と議会,労働組合,青年組織へ移ったことや,2006年の包括的和平協定の締結からすでに5年以上の年月が経過し,PLA兵の間に将来不安が広がり早期解決を求める声を無視できなくなっていたことが,挙げられる。
憲法制定議会の最後の延長11月末の再々延長期限が迫ると,首相はまず少数政党の党首に憲法制定議会の存続期間の延長を働きかけた。次いで主要政党の間で11月30日の期限終了後から6カ月間延長することで合意した。憲法制定議会の存続期間の延長については,暫定憲法の規定の解釈に基づく5月25日の最高裁の裁決により延長期間6カ月以上は不可とされ,また11月25日の最高裁の裁決で延長追加は1回限りでかつ6カ月間以内の枠がはめられていたため,今回の延長は現行の憲法制定議会として認められる最後の延長という特別な意味合いを有していた。そのため,単なる期間延長ではなく,新憲法制定の作業工程を見計らったうえで延長期間を決定する必要性を強調する声もあった。11月29日の憲法制定議会において,賛成505票,反対3票(議員総数596人,投票総数との差は欠席議員数)で最後の6カ月延長が可決され,2012年5月28日が新憲法制定の最終期限となった。
この時にも,UCPN-M,NC,CPN-UML,UMDFは6項目の合意に署名した。その内容は次のとおりである。(1)挙国一致政府の樹立のための協議を開始する,(2)各党の党首クラスの会合を週1回開催する,(3)SRC(11月22日設置)の報告書を2カ月以内に提出する,(4)7項目合意の履行状況を継続的に調査する,(5)憲法委員会は12月6日までに憲法策定の作業日程を作成する,(6)PLA兵のグループ分けを12月4日までに完了すること。また,CPN-UMLは,最後の延長に際して,(1)憲法策定作業の既往の進捗状況報告書の提出,(2)憲法草案の争点解消の方法の提示,(3)新憲法の期限内策定の保証の3条件を与党に訴えた。
和平工程の進捗状況PLAと国軍の監視を行ってきた国連ネパールミッション(UNMIN)が2011年1月15日をもって撤退するため,PLAの監視体制についてUCPN-Mは,PLAを首相が委員長を務めるAISCの管理下に置き,その下で(1)公式管理移管式典の執行,(2)PLA兵のグループ分け(国軍統合希望者と社会復帰希望者),(3)軍統合方式と基準の設定を段階的に実施する方針を打ち出した。1月22日には,PLAのAISCへの完全移管の記念式典がネパール首相の出席も得て,チトワン郡下のPLA基地で挙行された。また,最高裁は監視委員として9人を任命した。
軍の統合方式について,国軍は1月と3月にそれぞれ当時の首相に国軍案を提示した。その骨子は,全治安組織(国軍,武装警察,警察,国家調査局)から配置替えした人員とPLA出身兵で構成する司令部を新設するものである。UCPN-Mが要求していた統合案は,(1)国軍とPLAを統合した新国軍,(2)PLAを再編した新治安組織,(3)PLA出身者50%と全治安組織出身者50%で構成する準軍事組織,(4)PLAを団体として治安組織へ編入,のいずれかであった。UCPN-Mは個人別の編入を拒否し団体編入を強固に主張したが,国軍とほかの政党はPLAの団体編入絶対不可を表明したため,厳しく対立した。PLA提案は,PLA兵のみで構成する治安組織を別途設ける並列型,全治安組織とPLAを出身の別なく統合する混合型,部隊毎に統合する集団型のいずれかであった。5月20日,UCPN-Mの常任委員会は国軍案に賛意を表明した。
社会復帰方式には,再教育・研修・職業訓練と,自主退職の途が設けられた。退職希望者への一時金は,1996年(武装闘争開始年)から2011年までの15年間を国軍継続勤務期間とみなし,国軍の退職金基準に準じて1人当たり50万ルピーとされた。UCPN-Mは50万ルピーの「共和国一時金(ボーナス)」の加算を要求した。
3月下旬,AISCに委員4人の軍統合・社会復帰小委員会が設置され,軍統合・社会復帰方式の検討,要員増強による管理作業体制の整備,軍統合作業計画の策定にあたった。しかし,カナル政権下ではNCが7項目秘密合意の破棄を協議の前提にしたため,軍統合関連の作業は遅々としてはかどらなかった。バッタライ首相の下で,PLA兵の全数調査および統合に関する意向調査が具体的に実施された。そして,11月末の段階で,国軍に設置される非戦闘活動を目的とする新組織への編入希望者が1万5774人(全調査対象PLA兵は1万9503人であるが,調査時点に基地に居住していなかった者が多数存在していた)のうち8738人,退職希望者は7031人,再教育・訓練希望者は5人であることが明らかにされた。編入希望が多いのは,衣食住の確保と年俸2400ドルが保証されるためとされている。
しかし,12月末になると,国軍編入希望者のなかに,自主的退職に変更を希望する者が現れるようになった。最終的に編入過程が完了するまでPLA基地居住が継続すること,国軍採用基準や検査に合格しなければならないこと,編入の訓練を受講しなければならないこと,そして,編入過程の完了時期が不明なことがその主な理由である。こうした不安要因による進路変更希望者は2000人に達した。
以上のように,2011年に和平工程は軍統合様式の決定まで到達したが,その具体化はすべて2012年に持ち越された。
憲法草案策定作業の進捗状況憲法草案の策定は,7つの分野別草案作成委員会の原案については憲法制定議会が承認し,起草作業に取り掛かることになった(1月末時点)。憲法委員会は,政党間で意見の隔たりの大きな問題を解消するため2月25日に小委員会を設置することで合意し,UCPN-Mのダハール議長を委員長に選出した。3月中旬までに83の争点について解決を図ることを目標に合計9回の会合がもたれ,優先度の高い順に精力的に協議が進められた。しかし,意見の隔たりが大きく,小委員会は会期を延長して協議を続けた。その結果,二院制議会,「ネパール憲法」の名称の採用,徴兵制(UCPN-Mが強く主張していた事項)の不採用などで一致をみた点も多かったが,なお意見の対立が続いた。
そこで,6月14日に小委員会はその下に作業部会を設け,重要争点の解消を図ることにした。政治体制について,国民の直接選挙で選ばれる大統領と議会で選ばれる首相とで権限を分割する折衷案が打ち出された。これは,UCPN-Mが主張する直接選挙による大統領制とNCが主張する議院内閣制に象徴大統領を加えた制度との折衷案で,CPN-UMLの主張してきたものである。けれども,国家再建(州の区分け,数,呼称)については,依然,未解決のままとなった。
憲法委員会の下に置かれた分野別草案作成委員会のひとつである分野別国家再建委員会が作成した報告書が,もっとも争点の多いもののひとつであった。連邦の構成単位の州の区分け,呼称,付与される権限等について,NCはSRCを設置して決定する方針を固持した。UCPN-Mとマデシ諸政党はSRCの設置に反対し,小委員会でマデシ諸政党の要求を実現する戦略をとっていた。これまでUCPN-Mは14州案を,NCは経済活動を重視した区割りによる7州案を,それぞれ提示していた。UMDFはマデシ単一自治州を規定しない案への断固反対を表明していた。
11月1日の7項目合意に基づいて,主要3党は,タスクフォースおよび専門部会を設置することで合意し,再び重要争点の解消を図ることになった。そして,国家再建方式およびSRCの取り扱いは専門部会で協議することになった。こうして一旦はSRCに替えて小委員会で協議することになったが,主要政党の合意に基づき政府は11月22日にSRC(委員9人,委員長は持ち回り)を設置した。そして,2カ月以内に国家再編方式について結論を出すことになった。SRCは,全会一致を原則とし,既往の検討結果を踏まえた結論を得ることと当初から議論に枠がはめられていた。また,委員自ら検討過程について箝口令を敷くなど,通常と異なる運営方法が採られた。
憲法委員会は憲法制定議会の最終延長後の作業計画として,2011年12月30日までに争点の解消を図り,2012年2月13~17日に第1草案を公表し,5月21~27日に最終案の完成を見込んだ。UCPN-Mのダハール議長は,SRCにかかわる分野を除いて憲法草案策定上の争点は解消されたとした。けれども,憲法委員会のアチャルヤ委員長は挙国一致政府の樹立なくして新憲法制定は不可能としており,草案策定後の憲法制定議会のみならず国民の間の承認を得る過程においても相当な紆余曲折が予想される。
2010/11年度の経済成長率は3.5%と推定され,前年度を0.5ポイント下回った。農業部門は4.1%,製造業は1.4%,サービス部門は3.6%の成長率を記録した。1人当たり国内総生産は642ドル(前年度は558ドル)であった。
農業部門の増産は,地域により変動がみられるが,雨季の降雨に恵まれたため,主要作物のすべてにおいて作付面積と収量が増加した結果である。コメは,作付面積が149万6000ヘクタールで1%増,収量は1ヘクタール当たり2.98トンで9.6%増,生産量は446万トンで10.8%増であった。トウモロコシは,作付面積が90万6000ヘクタールで3.5%増,収量は1ヘクタール当たり2.28トンで7.5%増,生産量は206万7000トンで11.4%増となった。小麦は,作付面積が73万6000ヘクタールで0.7%増,収量は1ヘクタール当たり2.31トンで8.5%増,生産量169万8000トンで9.3%増であった。これらに大麦,雑穀,ソバ(2010/11年度から追加された)を加えた主食作物の総作付面積は344万7000ヘクタール,総生産量は856万6000トンであった。
製造業の不振は,政治情勢の不安定性,電力不足(周年的に1日の停電時間が14~16時間),石油製品の供給不安定性,労働争議の頻発,若年労働力の海外出稼ぎによる一部地域での労働力不足など,多くの要因が関係している。
海外出稼ぎの状況2010/11年度の新規の海外出稼ぎ者は21万663人(年度当初8カ月間)で,出稼ぎ先国別の累計ではマレーシアが65万740人でトップの座を占め,ついで,カタール(54万916人),サウジアラビア(40万562人),アラブ首長国連邦(24万1975人)と続いた。韓国は1万3214人に増加した。日本については,2009/10年度から日本国際研修機構による研修員受け入れが開始された。海外出稼ぎ者の男女別割合では,2010年には女性が68.2%に達した。海外からの送金額は,2010年の合計で35億1300万ドルに達した。
中東地域へのネパール人出稼ぎ者数は100万人を超えているが,かねてより彼らに対する危機管理体制の整備の遅れが指摘されてきた。2011年は民主化運動「アラブの春」の影響によりそれが露呈し,3月1日,ネパール政府はリビアで就労中に政変に遭遇し立ち往生している1961人全員の引き揚げを決定した。
社会経済調査結果の概要2011年は重要な社会経済調査の結果が公表された。第1に,人口センサスの暫定結果によれば,2011年の総人口は2662万人809人(男子1292万7431人,女子1369万3378人),2001年からの人口増加率は1.4%,タライ,ヒル,山岳地(それぞれ標高300メートル以下の平地,3000メートルまでの丘陵地,それ以上の高地)の人口比は50.15:43.10:6.75であった。総世帯数は564万9984,平均世帯人口は4.70人(2001年は5.44人)であった。ネパールの人口については,過去の人口調査結果に人口増加率を掛け合わせて得られる数値を中央統計局が推計人口として毎年公表しているため,人口センサスの最終結果が公表されるまでは推計人口値が公式の人口値とされる。
第2に,2011年人口・保健調査によれば,2008~2011年の合計特殊出生率は2.6に,2006~2010年の乳幼児死亡率は46パーミルに,それぞれ低下した。
第3に,第3回生活水準調査の結果,1日当たり2200カロリーの食料および必需品購入に要する年最低所得金額は1人当たり1万4430ルピーとなり,この所得水準以下の貧困人口割合は25.16%に低下した。海外から送金を受けている世帯は55.8%,年平均送金受け取り額は8万436ルピー,そのうち消費生活支出割合は79%であった。
経済開発政策の動向ネパール観光年(Nepal Tourist Year 2011)が実施され,前年61万人であった海外からの観光客を100万人まで増加させる目標が掲げられた。これに関連して,第2国際空港の建設計画(第1期工事完成は2015年を予定)およびゴータマ・ブッダ空港の拡張計画の推進,農村観光推進のためのホームステイ計画,公務員によるサガルマタ(エベレスト山)登頂計画などが実施された。
政府は5月18日にネパール最大級のタマコシ河上流発電事業(456MW)の工事に着工した。これにより,電気料金の引き上げなしに数年後には停電のない状態にする計画を公表した。
政府は,3月,高級レベル科学的土地改革委員会の報告と勧告に従い,土地なし農民および労働者で不法占拠者に対する土地配分政策の実施を表明した。また,女性名義の土地所有権証書の発給,居住および生計が目的の土地占拠者の排除禁止,土地改革・管理省内に土地なし農民問題の対策を検討する委員会の設置が,それぞれ決定した。
また,2009年のダハール政権期に設置された土地改革委員会と2010年にネパール政権下で設置された高級レベル科学的土地改革委員会が,9月26日,それぞれの土地改革案の検討結果に関する報告書をバッタライ首相に提出した。前者は,土地区分の見直しと所有農地の上限設定および超過分の接収を規定し,後者は,公有地や河川敷および上限超過農地の買収による再配分地の確保(42万1770ヘクタール,有償総額325億ルピー)とその141万農家世帯への再配分を規定している。バッタライ首相は,2つの報告書の勧告を踏まえて土地政策とその立法化を進める方針を明らかにした。
UNMINは,2006年の包括的和平協定を受けてネパール政府の要請により国連安全保障理事会の決議により派遣が決定され,2007年1月23日からネパールに駐在してきた。この間,駐在期間がいく度も延長されたが,2011年1月15日をもって4年間に及ぶネパール駐在に終止符が打たれた。撤退後,UNMINが使用してきたPLA基地の監視用機材や車両はネパール政府の要請に応えて寄贈された。
2011年1月5日の国連安保理では,UNMIN撤退案が特段の反対意見もなく承認された。ネパール政府は2010年に駐在延長の要請をしない決定を下していたが,UCPN-Mだけは独自に駐在延長要請を国連安保理に働きかけていた。これは,UNMINがPLAと国軍を対等に取り扱い,国軍もその監視の対象になっていることに対して,ネパール首相(当時)と与党勢力および国軍の反発が強く働いた結果であった。もともと,UNMINの派遣に対して安保理常任理事国のロシアと中国は反対の立場に立っていた。インドは当初からUNMINの存在を快く受け止めていなかった。そこへ2011~2012年に国連安保理の非常任理事国に選出されたことから,インドはネパールの和平問題に対して国連の場を通じて影響力を行使することが可能とみて,UNMIN駐在延長に理由なしとの立場を取った。かくして,国連安保理の理事国はUCPN-Mの要請だけでは延長論を主張するに足らないとの判断を下した。
国連人権高等弁務官ネパール駐在事務所の派遣期間の問題については,アメリカが国務省のロバート・ブレイク南・中央アジア問題担当次官補を通じてシャルマ・ネパール国連大使に対して延長を働きかけた。2年間延長の方向で協議したが,最終的に6カ月延長で決着をみた。
対インド関係インドは,1月の首相選挙に合わせてラオ・インド外務次官のネパール訪問を配置し,ネパール政治に対するこれまでと同様の強い関心を表し影響力を行使した。また,UNMINの撤退を待ち構えていたかのように,UNMINの監視活動開始以降休止していた武器輸出を再開した。これは,ネパール政府からインド政府に対して行われた要請に基づくものとされた。UCPN-Mは武器輸入再開に対して政府に強く抗議したが,ネパール首相(当時)は国軍の訓練目的のものとして理解を求めた。
1月27日からヤダヴ大統領がインドを非公式訪問し,この期間中に,カナル政権が誕生した。インド政府は,UCPN-Mに支えられた新政権によって,ネパール前政権時代よりも対インド関係が後退しかねないため,新首相が和平工程および対インド政策でどのような対応をみせるか慎重に見極める姿勢をとった。
3月10日,シン・インド首相は,ニューデリーを訪れたNCのタパ元首相と会談し,PLAと国軍の統合は本来6カ月で完了すると見込まれていたところ,4年を経ていまだ重大な進展のないことに懸念を表明し,さらにネパールの政治的不安定はインドにも影響を与えるものとして,ネパールの各政党が協力して和平工程の推進に当たるよう訴えた。3月20日,インドのスード駐ネパール大使は離任直前を理由にカナル首相を突然訪問し,政権誕生の背景である7項目密約,和平工程の推進状況,3月23日の中国代表団の訪問目的について情報収集を行った。
3月に,ガッチャダールMJF-D委員長,マハト友愛党委員長,タクールTMDP委員長がインド政府の招待により公式訪問し,クリシュナ・インド外相らと会談した。4月下旬にネパールを訪れた同外相は,シン首相の親書を手渡した。そして,6月にムカルジー・インド財務相がネパールを訪れ,首相の相互訪問および貿易関係の強化に道を開くことになっていたが,インド国内事情により急遽中止された。
以上のように,カナル連立内閣期は,外相任命の遅れもあり,インドとの直接的かつ緊密な連絡関係に欠ける状況が続いた。しかし,8月の新政権発足後,事態は改善され,9月25日に国連総会の場でバッタライ首相とシン首相との会見が行われ,バッタライ首相はインド訪問の招待を受けた。10月20日,バッタライ首相はインドを公式訪問して,シン首相と会談し,低利借款(2億5000万ドル)の供与を引き出すとともに,「投資促進および保護に関する相互協定」(BIPPA)に調印した。ネパールはすでに6カ国と同様の協定を結んでおり,インドは70カ国と締結しているもので,今回ネパールはインドからの投資呼び込みを狙いとして決断した。この後,両国間の二重課税回避協定も締結された。
対中国関係中国は,3月23日,陳炳徳中国人民解放軍総参謀長をネパールに送り込み,14億2000万ルピーの国軍に対する援助を供与した。これを受けて,援助の詳細を協議するため10月末にグルン国軍参謀長が中国を訪問した。
4月,カナル連立内閣のラマ国務大臣(財務省)が,ネパールおよび中国(チベット自治区)の二重国籍取得と二重旅券所持の嫌疑で辞職に追い込まれた。このとき中国側は「ひとつの中国政策」に反するものとして神経をとがらせたが,後にこの嫌疑は事実無根であることが判明した。
6月,中国の支援を受けたアジア太平洋交流協力財団(中国系)が30億ドルの基金を募集し,ルンビニ県下の釈迦生誕地を国際ブッダセンターにする総合開発計画の構想を発表した。同財団の副委員長にはUCPN-Mのダハール議長が就任しており,ネパール政府も同財団と覚書を交わしている。
11月5日,劉淇中国共産党中央政治局委員が訪問し,ネパール政府の「ひとつの中国政策」を確認し,両国間の関係のさらなる発展を強調し,ネパール開発への協力を約束した。また,北京市とカトマンドゥ市との協力関係の発展についても意見が交わされた。
温家宝首相の年内訪問が予定され準備が整えられていたが,12月13日に急きょ延期となった。延期の理由は公表されていない。後に,2012年1月14日にカタール訪問の途中でカトマンドゥに短時間立ち寄り,7億5000万ドルの援助供与を約束した。
その他の諸国との関係イギリスは,3月にダンカン国際開発相をネパールに派遣し,イギリスにとってネパールは歴史的に重要国であるばかりでなく,世界第15位の最貧国であることからも協力の用意があるとし,対ネパール4カ年援助実施計画を公表した。それによると,2011~2015年間に3億3100万ポンド(初年度6000万ポンド)の規模で,富の創出,統治および治安の向上,300万人の貧困層を対象にした気候変動に対する脆弱性への対策,災害対応,人間開発(23万人の雇用機会創出)などに重点を置いて支援する計画である。貧困と脆弱性の削減にとって政治的安定が重要であることもあわせて強調した。このため,森林事業を通じた57万人の貧困からの脱却,10万8200人を対象にした望まざる妊娠回避策,11万人を対象にした安全な便所の設置などが援助計画に盛り込まれている。
アメリカは,2月,ネパールに対する200万ドルの軍事援助を約束した。これは,国軍が新設予定している司令部の設置の支援が目的で,平和工程の促進を狙いとしたものである。また,6月5日,K・クレメンツ国務次官補(人口・難民・移民問題担当)がブータン訪問の後ネパールを訪れた。その際,長年におよぶブータン難民問題の目にみえる解決を必要とするとともに,ネパール国内の人権保護,援助などについて協議した。このブータン難民問題については,4月にティンレイ・ブータン首相とカナル首相が会談し,ブータン難民の本国帰還に関する協議の再開が合意された。これに関連して,ブータン人権問題の指導者のリジャル氏は,難民問題の協議の場にインドの参加が決定的に重要であると訴えた。国連人権高等弁務官事務所によれば,ブータン難民は6万4311人で,第三国定住者は2011年7月15日現在で4万8763人に上っている。
日本の東日本大震災の発生直後,政府は,15人(国軍10人,警察3人,武装警察2人)からなる緊急救援隊を日本に派遣するとともに,支援物資として毛布5000枚を送り届けることとし,3月15日にカトマンドゥを発った。在東京ネパール大使館の報告によれば,この大震災によるネパール人死傷者はなかった。
2012年5月28日で憲法制定議会は満4年を迎えるが,この日が同議会の存続期限の最終日でもある。だが,過去4年間の政党の行動様式を見る限り,この期限内に憲法草案が準備され,国民の間に周知され,新憲法制定の手続きが完了する見込みは乏しい。憲法草案の準備作業のうち,連邦を構成する州の区分と自治の内容について,SRCから検討結果が2月初旬に報告されたが,多数意見の「11州案」と少数意見の「6州案」の2案併記となっており,一本化した最終案はまだ提示されていない。情報・通信相でMJF-Rのグプタ委員長は,SRC報告はマデシの精神と問題提起に答えていないとし,拒否を表明している。また,中央政府と州と末端の自治体の3者間の権限の分掌についてもまだ十分煮詰められた案は準備されていない。
和平工程については,PLA兵の希望調査が終わり,自主退職者に対する退職一時金の支給が2012年2月から開始された。UCPN-Mは2月11日に退職者送別の公式行事を実施した。しかし,国軍への編入希望者は2011年11月の7項目合意に盛り込まれた枠を超えており,また編入兵に配分される職位と格付けを含む実際の新司令部への編入過程は,主要政党と国軍を巻き込んだ政治的駆け引きの場となることは火をみるよりも明らかな情勢にある。
憲法制定議会の存続に関する最高裁の裁決は,政治問題であるべき議会の延長問題に踏み込んだものとして,政党勢力が巻き返しを図る余地もある。新憲法を待ち望む国民の声の反映が不可欠であるとすれば,総選挙や国民投票も視野にいれた対応が検討されることになる。いずれにせよ,バッタライ首相のリーダーシップが問われることになる。
混迷の政治状況とは逆に,国民経済は徐々にではあるが確実に変化してきており,2012~2013年はネパール投資年と定められ,また2012年はルンビニ訪問年も企画されている。後者については,アメリカ政府の協力要請のため2011年11月にダハールUCPN-M議長が派遣されたばかりである。さらに,韓国系自動車メーカーから2012年6月に低価格小型車(3種類)が発売される予定となっており,大衆消費時代の本格的な幕開けが訪れようとしている。
(日本大学教授)
1月 | |
3日 | 統一ネパール共産党毛沢東主義派(UCPN-M),党中央委員会開催(~5日)。 |
5日 | ランドグレン国連ネパールミッション(UNMIN)代表,UNMIN駐在最終報告公表。 |
8日 | ヤダヴ大統領,UNMIN報告に不満表明。 |
9日 | 憲法制定議会(憲制議),第17回目の首相選挙投票を12日まで延期。 |
12日 | 憲制議,立候補者辞退で首相選挙中止。 |
14日 | ネパール観光年(NTY-2011)開始。 |
14日 | 政府とUCPN-M,UNMIN撤退後のUCPN-M人民解放軍(PLA)の武器管理につき合意。 |
15日 | UNMIN,4年間に及ぶ駐在終了し撤退。 |
15日 | ヤダヴ大統領,政党合意による首相選出期限を1月21日までと公表。 |
17日 | 政府,インドからの武器輸入再開。 |
18日 | ラオ・インド外務次官,来訪(〜20日)。 |
21日 | ヤダヴ大統領, 政党合意による首相選出期限5日間延長。 |
22日 | ネパール首相とダハールUCPN-M議長, PLAの軍統合特別委員会(AISC)への管理完全移管完了宣言。 |
25日 | 憲制議,首相選挙規定改正。 |
27日 | ヤダヴ大統領,インド訪問(〜2月5日)。 |
30日 | 国軍,グルン参謀長がネパール首相にPLA統合問題の基本的考え方説明。 |
2月 | |
3日 | 憲制議,カナル・ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(CPN-UML)委員長首相当選。 |
6日 | カナルCPN-UML委員長,首相就任。 |
10日 | カナル首相,閣僚3人で内閣発足。 |
12日 | 憲制議,遅れていた予算関連4法案可決。 |
12日 | オテロ・アメリカ国務省民主主義・グローバル問題担当次官補,来訪(~14日)。 |
20日 | 少数民族団体,民族包摂を謳った「2067連邦民主ネパール共和国憲法案」公表。 |
22日 | CPN-UML,中央委員会でカナル委員長の7項目密約を改訂して了承。 |
24日 | 最高裁,2010年5月の憲制議延長に違憲性ないと延長無効請求却下。 |
25日 | 憲法委,憲法草案の争点解消のため憲法委小委員会設置で合意。 |
26日 | 内戦下のリビア出稼ぎ者第1陣帰国。 |
28日 | 憲法委小委員会,委員長にダハールUCPN-M議長を選出。 |
3月 | |
1日 | 政府,リビア出稼ぎネパール人全員の早期救出・帰国を決定。 |
7日 | ダンカン・イギリス国際開発相,訪問(〜10日)。 |
9日 | カナル首相,閣僚配置換え。 |
10日 | カーター元米大統領,カナル首相と電話会談。就任祝福と和平促進を要請。 |
10日 | シン・インド首相,インド訪問中のタパ元ネパール首相に和平工程遅延の懸念を表明。 |
12日 | カナル首相,閣僚の兼務任命。 |
14日 | ネパール中央銀行,旧王の絵柄の紙幣無効・回収。交換を求めて銀行に長蛇の列。 |
15日 | 政府,東日本大震災救援隊派遣。 |
15日 | UCPN-M,党内にボランティア局設置。 |
16日 | ダハールUCPN-M議長,シンガポール訪問(〜18日)。 |
16日 | マデシ諸政党,インド訪問(~20日)。 |
17日 | カナル首相,閣僚の兼務任命。 |
23日 | AISC,軍統合社会復帰小委員会設置。 |
23日 | 陳炳徳中国人民解放軍総参謀長,来訪(〜25日)。 |
26日 | グルン国軍参謀長,アメリカ訪問(〜4月9日)。 |
28日 | タムラット国連政治局アジア太平洋部長,カナル首相と会談。 |
29日 | 国軍,カナル首相にPLA統合案提出。 |
4月 | |
3日 | UCPN-M,国軍提案の軍統合方式評価。 |
3日 | UCPN-M,人民ボランティア活動開始。 |
10日 | CPN-UMLとUCPN-M,最小共通政策策定のため8人委員会設置。 |
14日 | ティンレイ・ブータン首相,来訪(~16日)。 |
15日 | NC,平和と憲法制定のための全国情宣キャンペーンを決定し,24日から開始。 |
18日 | カン国連人権高等弁務官(OHCHR)補佐官,来訪(〜21日)。 |
20日 | クリシュナ・インド外相,来訪(〜22日)。インド首相親書をカナル首相に手渡す。 |
21日 | ラマ財務国務大臣,二重国籍と二重旅券取得嫌疑で辞任。 |
25日 | 政府,首相訪問調整のためM・K・バッタライ外務次官をインドに派遣。 |
26日 | ネパール商工会議所と中国国際貿易促進委員会厦門市分会,貿易関係覚書調印。 |
29日 | UCPN-M, 中央委員会でダハール議長提出の政治文書承認。 |
29日 | 潘基文国連事務総長,全政党に5月28日までの新憲法制定完了を呼び掛け。 |
5月 | |
2日 | UCPN-MとCPN-UML,憲制議延長で合意。 |
4日 | カナル首相,閣僚増員。 |
5日 | ヤダヴ大統領,新最高裁長官にK・レグミ氏任命。 |
5日 | OHCHR,2005年発生の殺人事件容疑のサプコタUCPN-M議員の閣僚任命を非難。 |
6日 | カナル首相,第4回最低開発国会議出席のためトルコ訪問(〜12日急遽帰国)。 |
8日 | 憲制議女性議員,33%女性参加達成を要求して憲制議審議妨害。 |
9日 | CPN-UMLとUCPN-M,党首クラス秘密会談でカナル政権に代わる政権構想協議。 |
9日 | ネパール・チベット貿易促進委員会,関税ゼロ等貿易促進策協議。10日に覚書調印。 |
12日 | カナル首相,政権継続に意欲示し,憲制議延長手続開始。NCは延長3条件提示。 |
17日 | 政府,現長崎市長と前広島市長にゴータマブッダ世界平和賞授与。 |
19日 | NC,憲制議延長条件として10項目提案。 |
20日 | UCPN-M,国軍のPLA統合案に賛意。 |
21日 | CPN-UML,UCPN-M,マデシ人権フォーラム(MJF),和平工程3党共通提案策定で合意。 |
25日 | 最高裁,憲制議の6カ月以上延長不可の裁決。 |
28日 | 憲制議,主要政党間5項目合意に基づき存続期限3カ月延長の暫定憲法改正案可決。 |
6月 | |
1日 | UCPN-M,PLAによる党幹部警備体制廃止。 |
2日 | 政府,OHCHRネパール事務所の駐在期間6カ月延長決定。 |
4日 | UCPN-M,党幹部警備用武器回収開始。 |
5日 | クレメンツ・アメリカ国務省人口・難民・移民問題担当次官補,来訪(~6日)。 |
6日 | AISC,軍統合作業計画公表。 |
11日 | ネパール・ジャーナリスト連合,ジャーナリストのダカル氏襲撃事件抗議行動。 |
12日 | ファーザストン・イギリス平等問題担当内相,来訪(~14日)。 |
14日 | 国連,「ネパールの地雷埋設のない国」宣言。 |
14日 | 憲法委小委員会,重要争点解消のため作業部会設置。 |
18日 | ムカルジー・インド財務相,来訪延期。 |
20日 | 憲法委小委員会作業部会,大統領と首相の間で権限分割した折衷案を提示。 |
27日 | 憲制議,5項目合意監視委員会設置。 |
30日 | 政府,憲制議選挙得票数を反映した地方行政管理制度導入を公表。 |
7月 | |
3日 | ヤダヴ大統領,国政演説。 |
4日 | 17少数政党,地方行政管理メカニズムの一方的導入に反対表明。 |
6日 | 政府,ラマ前国務相(財務省)辞任嫌疑に根拠ないことを確認。 |
7日 | カナル首相,国政演説から「人民戦争」の用語の削除要請を退ける。 |
11日 | UCPN-M,民主化闘争犠牲者の遺族に救済金100万ルピーの支払いを政府に要求。 |
12日 | コイララNC総裁,インド訪問(〜15日)。 |
20日 | 政府,武装闘争期の殺人容疑で終身刑判決のドゥンゲルUCPN-M議員の免責決定。 |
24日 | UCPN-M,中央委員会で閣僚入れ替え決定。翌25日にダハール議長政治文書承認。 |
27日 | グルン国軍参謀長, シンガポール訪問(〜8月3日)。 |
27日 | チダンバラン・インド内相,ネパールの政情不安がインドの安全保障に影響増大と発言。 |
31日 | 憲法委小委員会,憲法草案策定のためマデシ諸政党と協議する方針決定。 |
8月 | |
2日 | 5項目合意監視委員会,AISCに1週間以内のPLA兵統合方針策定を指示。 |
5日 | カナル首相兼AISC委員長,主要政党の代表に和平工程推進策と首相輪番制を提示。 |
6日 | 潘基文国連事務総長,和平工程の遅延憂慮しカナル首相に期限内憲法制定を促す。 |
8日 | ギャワリCPN-UML書記長,8月13日までにカナル首相が辞任すると発言。 |
13日 | 主要政党,首相辞任をめぐり協議。 |
14日 | カナル首相,首相辞職。 |
15日 | ヤダヴ大統領,合意に基づく内閣の設立期限を8月21日までと公表。 |
16日 | 周永康・中国共産党中央政治局委員,来訪(〜18日)。 |
20日 | タムラット国連政治局アジア太平洋部長,来訪(〜24日)。 |
21日 | ヤダヴ大統領,合意による首相選出期限3日間延長し8月24日までと公表。 |
22日 | ダハールUCPN-議長,タライ諸政党と政権協議。 |
23日 | CPN-UMLとNC,政権協議。 |
24日 | ヤダヴ大統領,首相選挙の実施公表。 |
26日 | バッタライUPCN-M副議長とポーデルNC副委員長,首相選挙に立候補届け出。 |
28日 | 憲制議,バッタライUCPN-M副議長を首相に選出。憲制議存続期限を3カ月延長する暫定憲法改正案可決。 |
30日 | バッタライUCPN-M副議長,首相就任。 |
31日 | プラサッド・インド大使,憲制議議長およびダハールUCPN-M議長と会談。 |
9月 | |
1日 | UCPN-M,PLA基地の武器庫の鍵をAISCに引き渡し開始。 |
10日 | CPN-UML,UCPN-MとUMDFの4項目合意を批判。 |
13日 | バッタライ首相,UCPN-Mに武装闘争期の接収資産の元所有者への返還を指示。 |
18日 | 憲制議,2011/12年度予算可決成立。 |
18日 | 東部ネパールのタープレジュン郡地方でマグニチュード6.8の地震発生。 |
18日 | バッタライ首相,訪米(~26日)。25日にシン・インド首相と会見。 |
21日 | UCPN-Mの強硬派,秘密会談開催し党主流派への対応策協議。 |
26日 | 土地改革委員会と高級レベル科学的土地改革委員会,それぞれ別個の土地改革計画の報告書を首相に提出。 |
27日 | 中央統計局,2011年人口センサスの暫定集計で総人口2662万809人と公表。 |
27日 | 野党,タライの分離を容認する国防相発言を批判し辞職要求。 |
29日 | 政府, 民主化闘争犠牲者の遺族に救済金30万ルピーの支払い決定。 |
10月 | |
2日 | 政府,PLA兵の手当て引き上げ決定。 |
3日 | ダハールUCPN-M議長とコイララNC総裁,和平協議で近く重大な決断すると表明。 |
3日 | グルン国軍参謀長,訪英(〜13日)。 |
8日 | バッタライ首相,今回が和平と憲法制定の最後の機会と強調。 |
11日 | バッタライ首相,挙国一致政府の樹立に意欲表明。 |
16日 | グルン国軍参謀長,訪米(~27日)。 |
16日 | サア土地改革相,首相に辞表提出。 |
19日 | 主要3党(UCPN-M,NC,CPN-UML),和平協議合意案策定タスクフォース設置。 |
20日 | AISC,全基地対象にPLA兵員数調査。 |
20日 | バッタライ首相,インド訪問(〜23日)。 |
30日 | グルン国軍参謀長,訪中(~11月6日)。 |
31日 | 主要3党,和平協議最終調整会議。 |
11月 | |
1日 | 主要3党と統一マデシ民主戦線,7項目合意文書に署名。 |
4日 | 憲法委小委員会,4争点解消のため検討部会およびタスクフォースの設置を決定。 |
5日 | 劉淇中国共産党中央政治局委員兼北京市政府書記,来訪(~8日)。 |
5日 | 主要3党,7項目履行と高級レベル政治協議会の再設置で合意。 |
5日 | ダハールUCPN-M議長,訪米(~13日)。 |
8日 | バッタライ首相,モルディブ訪問(〜12日)。 |
13日 | バッタライ首相,閣僚任命。閣僚総数49人となりネパール史上最多。 |
14日 | ヤダヴ大統領,ドゥンゲルUCPN-M議員の免責再検討をバッタライ首相に要請。 |
15日 | AISC,11月23日を期限とするPLA兵軍統合・社会復帰行動計画決定。 |
18日 | AISC,PLA兵再編制のための希望聞き取り調査開始。 |
18日 | 主要政党, 国家再建委員会(SRC)設置に関して2項目合意。 |
22日 | 閣議,委員8人(翌日1人増員)の SRC設置。 |
23日 | AISC,PLA兵5217人の希望調査終了。 |
23日 | 最高裁,終身刑のドゥンゲルUPCN-M議員の免責決定中止を仮決定。 |
25日 | 最高裁,憲制議延長は6カ月限りの裁決。 |
28日 | SRC,2カ月間の作業工程表承認。 |
29日 | 憲制議,6カ月延長暫定憲法改正案可決。 |
30日 | 潘基文国連事務総長,全党に和平の前進要請。 |
12月 | |
1日 | バッタライ首相,軍統合PLA兵員枠の増加をNCと協議するも,NCは要求拒否。 |
4日 | 憲法委,6カ月間の憲法草案作成計画承認。 |
9日 | 政府,バッタライ政権100日の和平進展を強調。 |
13日 | 温家宝中国首相,ネパール来訪延期。 |
18日 | UCPN-MとUMDF,マデシ青年3000人の国軍採用で合意。 |
18日 | PLA無資格兵,無資格兵団体(DPLA)結成し,無資格処分取り消し求め全国運動開始。 |
20日 | 政府,マデシ系民族から3000人の採用を国軍に指示。 |
22日 | PLA自主退役者,ダハールUCPN-M議長に要望書渡す。 |
24日 | 国軍,マデシ青年2000人を個別資格審査の上の採用と回答。 |
24日 | PLA,首相に自主退役6項目要望書手渡す。 |
25日 | レグミ最高裁長官,憲制議延長裁決(11月25日)の見直しはないと発言。 |
26日 | 憲制議,最高裁に憲制議延長裁決見直し要求。 |
30日 | ダハール憲法委小委員長,憲法争点はSRC関係を除いて解消と発言。 |