アジア動向年報
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各国・地域の動向
2011年のアフガニスタン 米軍撤退始まるもアフガン国民の前途は多難
鈴木 均
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2012 年 2012 巻 p. 573-598

詳細

2011年のアフガニスタン 米軍撤退始まるもアフガン国民の前途は多難

概況

アフガニスタンにとって2011年は,オバマ米大統領が外交政策として掲げている2014年のアフガニスタンからの米軍撤退完了に向けて,本格的なスタートを切った年として記憶されることになるだろう。現在アフガニスタンに13万人規模で駐留する米軍およびNATO軍の撤退がどのようなプロセスで進むかは,アフガニスタンの国家と国民にとって今後数十年間の命運を決定する極めて重大な意味をもっている。

この撤退プロセスの開始にあたり,非常に重要な転機になったのが5月1日深夜(2日未明)にパキスタン国内で決行されたウサーマ・ビン・ラーディンの殺害である。この作戦はビン・ラーディンの所在等の情報が確定的でないなかで大統領自らの決定によって行われたとされるが,作戦は結果的に成功し,これがアメリカ国民に対してもアフガニスタンからの撤退を正当づける根拠となった。

しかし同時にビン・ラーディンの殺害作戦に際して,その成功のためには不可欠であったとはいえ,アメリカはパキスタン政府に対して事前の通告すらまったく行わず,これがアフガニスタン情勢の安定にとって重要なアメリカとパキスタンの関係を決定的に悪化させたことも事実である。

ともあれアメリカ政府は7月以降駐留軍の撤退を開始したが,アフガニスタン国内ではターリバーン勢力による自爆テロや路上爆弾などのテロ攻撃が全国的に続発し,国内の治安回復までにはまだまだ道のりが遠いことを改めて印象づけた。7月にはカンダハール州評議会議長のアフマド・ワリー・カルザイ(大統領の実弟)が,9月には元大統領のラッバーニー和平評議会議長が暗殺されるなど,カルザイ大統領の腹心からも多数犠牲者を出している。

とくに夏以降,NATO軍を中心とする国際治安支援部隊(ISAF)はアフガニスタン国軍と連携して,南部のパキスタン国境から流入して自爆テロなどを主導してきたハッカーニー・ネットワークに対する攻撃を強化し,一定の戦果をあげてきた。他方,ターリバーン勢力の影響力伸長に対しては,アフガニスタン国民のなかでも警戒する動きがある。米軍やNATO軍などの外国軍の長引く駐留に起因するアフガニスタン国民の反欧米感情が,そのままターリバーン支持に結びついているわけでもないことは事実である。

問題はこうした動きをいかに国内の治安の回復や行政システムの整備,安定的な経済発展に効果的に結び付けていくかであり,アフガニスタンの復興支援に対する日本を含めた国際的な関心の持続が改めて問われている。

国内政治

駐留米軍が撤退を開始

アフガニスタンの国内政治は現在のところ,同国における「テロとの戦い」を継続しているアメリカの駐留軍および米軍・NATO軍を中核としたISAFの軍事作戦と切り離して論じることはできない。2004年にターリバーン敗走後初の選挙で当選し,2009年11月に再選したハーミド・カルザイ大統領自身が元々アメリカ政府の強い意向を受けて暫定行政機構の議長として乗り込んだ人物であり,実質的にはアメリカ政府の後見がなければ政権の維持すら不可能な情勢が現在まで続いているからである。

2011年1月25日の一般教書演説のなかで,オバマ米大統領は以下のように述べて,2014年までに米軍の撤退を完了する方針を確認した。「アメリカはアフガニスタンでターリバーンの復活を阻止しアル・カーイダを根絶することを目的として,ターリバーンの拠点を攻撃し,また同国の治安部隊を訓練してきた。厳しい戦いは続くが,アフガニスタン国民主導の体制への移行をめざし,世界各国と協力して今年7月には駐留米軍の撤退を開始する」。

この米軍の撤退計画は具体的には,まず2011年中に米軍1万人を撤退し,2012年7月までに3万3000人の撤退を完了,2014年には必要な部隊を残してアフガニスタンの国軍・警察への治安権限の移譲を完了させるというものである。だが撤退の詳細な内容については未確定な部分も多く,またターリバーンら武装勢力との戦闘を継続しながらの「撤退」という作戦の性格上,具体的な撤退は今後の状況を判断しながらのプロセスになることは当然である。

2001年10月からアフガニスタンに駐留した米軍の規模は2005年以後停滞期に入り,民主党のオバマ大統領がアメリカ大統領に就任した2009年以降において再び急増している(図1)。オバマ大統領が2011年の7月に米軍撤退を開始するといっても,その含意は2012年夏の段階で2009年のレベルに戻すということであり,ブッシュ大統領の頃の2004年から2007年のように単なる現状維持のための駐留ではなく,緩急をつけた兵員数の管理を行おうとしているのである。

そして7月の撤退開始の直前の時期に極秘のうちに準備されていたのが,5月1日深夜(2日未明)に決行されたウサーマ・ビン・ラーディンの殺害作戦であった。

図1  外国駐留軍の兵員数の推移

(出所) Brookings Institution, “Afghanistan Index” (http://www.brookings.edu/foreign-policy/afghanistan-index.aspx,2012年2月24日アクセス)所載データより筆者作成。

ビン・ラーディン殺害作戦とパキスタンとの関係悪化

作戦の経緯をイギリスBBCが関係者に取材して制作したドキュメンタリー番組等によって簡単にたどると,オバマ大統領が奇襲攻撃を最終決断したのは4月29日であった。指揮責任者にはマクレーガン海軍中将があたり,「シールズ・チーム6」と呼ばれる海軍特殊部隊が5月1日深夜(新月の夜)に作戦を決行した。当初は4月30日に実行の予定であったがパキスタン領内の悪天候により1日順延されたという。

だが2日の午前零時に作戦を開始し,パキスタン領内を超低空で飛行しアボッタバードの現地に到着した2機のヘリのうちの1機がホバリング中の操縦ミスにより敷地内に不時着したが,幸い隊員に犠牲者はなく作戦が継続され,入り口のバリケードを爆破して邸宅に突入したものの,それまでワシントンDCと結んでいた中継映像は途絶えて音声のみになったという。

午前零時50分に「ジェロニモ(ビン・ラーディンの暗号名)を殺害」の報告があり,以後は実行部隊のパキスタン領内からの脱出作戦が焦点になった。米軍の機密情報の漏えいを防ぐため不時着機を午前1時8分に爆破,隊員全員はパキスタン領内に待機していたチヌーク機に搭乗し,午前3時前アフガニスタンのジャラーラーバード基地に無事到着した。

一方ビン・ラーディンの遺体についてはDNA鑑定(あらかじめ採取していた親族のDNAと照合)して本人と確認する必要があったが,作戦に気づいてからのパキスタン政府の動きを勘案し,米東部時間の午後8時35分にオバマ大統領が国民演説の準備を命令。その後DNA鑑定結果も合致し,イスラーム法に則って24時間以内に遺体を処理,米東部時間の深夜2時に水葬を行っている。

この作戦の成功はアメリカ国内で熱狂的な歓迎をもって受け止められ,その後の米軍のアフガニスタンからの撤退作戦が戦況を打開できない故の「敗北的な撤退」ではなく,あくまでも「対テロ戦争」を優勢に戦ってきたなかでの「戦略的な撤退」であるとアメリカ国民を説得するための有力な根拠となっている。

またテロ組織アル・カーイダの象徴的な人物であったビン・ラーディンを,アメリカ政府の情報網と軍事テクノロジーを駆使して殺害することに成功したという印象は,アフガニスタン国内における戦局を有利に進める下地を準備することになり,結果的に7月以降の米軍撤退開始にとっても望ましい方向に局面を転換するという効果があったといえよう。

だが同時に,この作戦がほかならぬパキスタン領内で極秘裏に実行されたということは,①パキスタン政府・軍当局が何らかの形でビン・ラーディンの身柄を保護することに積極的に関わっていたという可能性,②アメリカが作戦の遂行にあたって明確にパキスタンの主権を侵犯したという事実を物語っている。パキスタン政府はこれ以降基本的に対米姿勢を硬化させ,アメリカ側もアフガニスタン国内におけるテロ活動へのパキスタン政府当局の積極的な関与を疑って,両国間の関係は2011年を通じて大きくこじれ続けることになる。

その不幸な結果として発生した事件のひとつが,11月26日のパキスタン国境付近におけるNATO・アフガン国軍とパキスタン軍の衝突であった。パキスタン側の証言によると,この日パキスタン領内側に2.5キロメートルほど入ったモフマンド部族地域内のパキスタン軍駐屯地をNATO・アフガン国軍側がヘリとジェット機で攻撃,空爆でパキスタン兵士24人が死亡したという。他方アメリカ側の証言では,NATO・アフガン国軍の夜間作戦中パキスタン側が最初に発砲したものである。

この事件の結果,パキスタンは12月5日から開催されたアフガン復興に関するボン会議(10年ぶり2回目,100カ国近くが参加)を欠席した。他方オバマ米大統領はこの前後にザルダーリー・パキスタン大統領と電話会談を行ったものの,この事件への謝罪はせずに終わった。こうしたアメリカとパキスタンの関係悪化は,いうまでもなくアフガニスタンにおける政府とターリバーン勢力の和平交渉にも複雑な影を落とさないではおかない。

ターリバーンの市民へのテロ攻撃

アフガニスタンにおけるターリバーンの攻撃は2011年も続いたが,最近の特徴としてアフガニスタン人自身をターゲットにすることで,国内の政情不安化を狙った事件が従来よりも多発している。自爆テロなどで目的とする要人を確実に殺傷するなど手口が陰湿化するとともに,これに対するアフガニスタン市民からの反発の声もこれまでになく大きくなっている。

国連の集計によると,2011年のアフガニスタン市民の戦争による死者数は3021人を数え,前年より8%増加して過去最高となった。そのうちの4分の3がターリバーン側の路上爆弾ないし自爆テロによる被害であり,とりわけ自爆テロによる死亡は450人と前年比で80%も増加している。単独の事件として最悪の被害になったのは,12月6日のカーブルのモスク前でシーア派のアーシューラー行事を狙った自爆テロ事件で,一度に56人が死亡している。

また死亡者数としてもっとも多かったのは2011年も相変わらず路上爆弾による被害であり,967人と全体の3分の1近くを占めた。アフガニスタン南部のヘルマンド州やカンダハール州ではNATO軍の駐留によって市民の被害が抑制された面がある一方,武装勢力側はこれらの地域に代わってパキスタンとの国境地帯に攻撃の重点を移しているともいえる。

平均すると1日当たり23件の路上爆弾が爆発,または発見されており,これは2010年の2倍のペースであった。また実際に爆発した路上爆弾の件数は前年比6%の増加であった。国連によれば市民の犠牲の77%は武装勢力による被害であり,14%がISAFないしアフガン国軍による被害であった。

その一方でターリバーンによる学校施設の攻撃数はこのところ激減している。教育省の集計によると2011年春の時点では月に8件程度の発生であり,最近2年間の平均発生件数の半分以下である。この問題に関する国連対策本部はこの事実を統計的に確認できていないが,現地のユニセフ職員はこの事実を間違いないと証言している。これがターリバーン側との和平交渉の開始にともなう動きであるならば歓迎すべき兆候であると現地の支援団体等は受け止めている。

他方で身の回りの材料から誰でも簡単に作成できる即席爆発装置(Improvised Explosive Devices:IED)の使用が急増していることは,ターリバーン・武装勢力側に強い統率力が現在欠如していることを示唆している。2011年において爆発または撤去されたIEDの数は1万6554個と前年度から9%増加しており,またアフガン人市民の死傷者数は4000人と前年度比で10%増加している。これらのほとんどが武装勢力側の仕業であることを考えると,アフガニスタン市民のあいだで彼らへの支持が近年冷え込んでいる理由も容易に想像できる。

具体的な要人テロとしては,まず7月12日にカンダハール州評議会議長で大統領の実弟のアフマド・ワリー・カルザイが側近のサルダール・モハンマドに射殺された。ただしこの事件に関してはサルダール・モハンマドはカルザイ家と家族ぐるみのごく親しい関係であり,周囲の証言によればターリバーンが事件に介在していたとは到底考えられない。

その後カルザイ大統領はやはり実弟でアフマド・ワリーの弟のシャー・ワリーを即座に後任として指名している。いずれにしてもカンダハールを中心とするアフガニスタン南部で多大な政治的影響力をもっていた実弟を喪ったことは,内外で困難に直面するカルザイ大統領にとって計り知れない打撃となった。

続く7月17日には元ウルズガーン州知事でカルザイ大統領の側近であったジャーン・モハンマド・ハーンが射殺され,ターリバーンが犯行声明を出した。さらに9月20日にはターリバーンの自爆テロ犯が元大統領のブルハーヌッディン・ラッバーニー和平評議会議長をカーブルの自宅で殺害している。これはカルザイ政権のターリバーン側との和平交渉にとって極めて大きな痛手であった。

米軍およびNATO軍の戦果と戦争被害

米軍およびNATO軍を中核とするISAFは,ヘルマンド州マルジャ周辺で米軍を中心に「モシュタラク」作戦のような大規模な軍事作戦を実施した2010年とは打って変わって,2011年においては目立った軍事作戦は実施しなかった。大規模な軍事作戦に代わったのが米英軍の特殊部隊による夜襲作戦であり,またパキスタンとの国境地帯におけるアフガン国軍と連携してのハッカーニー・ネットワーク掃討作戦である。だが夜襲作戦は一般市民を巻き添えにする危険が大きく,カルザイ大統領も市民の殺傷について繰り返し警告を行った。こうした長期間にわたる市民の被害の蓄積はアフガニスタン国民のあいだにすでに根強い反米意識を植え付けており,ターリバーンのつけ入る隙を与えている。その結果として暴発したのが4月1日にマザーリシャリーフで始まり翌日に南部カンダハール州と北部タハール州に拡大した大規模な反米抗議運動であった。

ここでISAFの「戦果」の一端を列挙しておくと,7月21日の深夜から翌朝にかけてNATO・アフガン国軍が東部パクティカー州でハッカーニー・ネットワークの武装集団と戦闘,50人余を殺害した。また9月27日にはアフガン国軍が,パクティアー州ジャニヘル地区でハッカーニー・ネットワーク高官のハージー・マリー・ハーンを拘束している。さらに10月24日にはNATO・国軍がハッカーニー・ネットワークに対する2つの作戦で武装勢力200人を殺害ないし拘禁,うち20人は同ネットワークの関係者と発表した。

米軍は数年前からMQ-1プレデターなどの無人航空機によるパキスタン領内の爆撃を行ってきたが,遠く離れたアメリカ国防総省(ペンタゴン)からの遠隔操縦であるために,当初は一般市民の死傷者が続出して厳しい非難を受けた。このため無人航空機の使用に際しては攻撃目標の精度の向上が大きな課題となっている。

アフガニスタン国内におけるアメリカの軍事作戦のひとつの目標は,いかに外地の戦場で米軍側の人的被害を極小に抑えるかにあると言うことができる。その意味で派兵から10年目を迎えた2011年において,米軍側兵士の累計死者数が1753人(AP調べ)にとどまっていることはある意味で驚異的であるとともに,この戦争がもっている著しく非対称的な性格を如実に物語っている。ちなみに旧ソ連邦の1979年12月のアフガニスタン侵攻以降,1988年5月の撤退開始時までのソ連側の戦死者は1万3310人に上った。

他方で2011年はアフガン駐留米軍が大きな人的被害を被った年でもある。その最大のものとして,8月6日未明に米軍輸送ヘリ(CH-47チヌーク)がワルダク州タンギ谷でターリバーンの対戦車ロケット弾(RPG-7)によって撃墜され,シールズ・チーム6の隊員を含む特殊部隊隊員ら38人(うちアメリカ兵30人,アフガン兵8人)が死亡するという事件があった。これは米軍として最大の被害であり,オバマ大統領が直ちに弔意を表した。米軍は10日には輸送ヘリを撃墜したターリバーン部隊を空爆でせん滅したと発表している。

また9月13日にはターリバーン勢力がカーブルのアメリカ大使館や国際機関の施設を一斉にロケット砲で攻撃,治安部隊が翌日までに犯人7人を射殺,4人は自爆している。この間警察官5人と市民11人が犠牲になった。この事件に関して米軍関係者はハッカーニー・ネットワークおよびパキスタン三軍統合情報局(ISI)が関与していた公算が大きいとみている。

国会召集も選挙不正問題が尾引く

アフガニスタンの内政では,2010年の9月に選挙が実施された下院議会をめぐっての混乱が2011年も続いた。まず1月19日にカルザイ大統領は,24日に予定されていた新国会の開会を2月まで延期し,裁判所による選挙不正の調査の時間を確保しようとした。

2010年9月の選挙結果については国連およびアメリカなど連合国が合法と認めているのに対して,カルザイ大統領側はこの時点で承認していない。カルザイ大統領側の言い分は,国民のマジョリティーを占めるパシュトゥーン民族の出身者に十分な議席が与えられていないというものである。だが不正選挙により落選したと主張する元候補は実際にはカルザイ大統領の支持者が多数を占めており,大統領側が選挙の不正追及を通じて自らの立場を強めようという意図もまた明白である。

カルザイ大統領は独自に特別法廷を設置して(議長はセディーグッラー・ハキーク)選挙結果の見直しを進めようとしたが,独立選挙委員会(IEC)および国連の選挙調停委員会はこの特別法廷を憲法違反としている。

その後カルザイ大統領側が歩み寄り,大統領は予定していたロシア訪問の日程を短縮して1月22日に,下院議会を同月26日に召集することを決定した。自ら議会の開会を宣言したカルザイ大統領は,「アフガニスタン国民は選挙と民主主義に対する外国の干渉を排除しなければならない」と挨拶した。2010年9月の下院選挙以来,カルザイ政府と西側諸国の信頼関係は最低レベルまで冷え込んでおり,この国会招集によって両者の関係改善も進むことが期待された。

大統領が設置した特別法廷の選挙結果に対する調査活動はその後も継続して行われ,6月23日に同法廷は選挙結果の25%(当選議員249人中62人)の当選が無効との判断を示した。8月になって9人の議員の資格取り消しが実現している。

その後もカルザイ大統領と国会との反目は続き,9月には70人の国会議員からなる「法律支援連合」が下院議会の法案通過を妨害する活動を行っている。そもそもアフガニスタン国会の重要な使命は15億ドルに上る開発予算の使途を公正に振り分けることであり,道路建設や学校建設などアフガニスタン国民のもっとも必要としているインフラの整備を円滑に進めてターリバーン統治時代との違いを国民に納得させることである。

ところが資格を取り消された9人の元議員の処遇をめぐってカルザイ大統領と国会議員の間の対立が再燃し国会の機能停止が続いたために,3月21日から始まる会計年度の半分を経過した9月半ば過ぎになっても,当初予算の半分しか消化されないという事態に至ったのである。

この国会問題にとどまらず,2011年の夏の段階でカルザイ大統領は内外のさまざまな問題に直面することになった。ひとつは前述の実弟アフマド・ワリー・カルザイの殺害であり,これによるカルザイ家のアフガニスタン南部における影響力の低下が顕著である。また後述するカーブル銀行の不正融資と金融システムの崩壊の危機が2010年8月以来くすぶっている。さらにターリバーン側との和平交渉は一向に進展せず,逆にそれに水を差すかのようにパキスタン側から国境地帯への爆撃が続いている。

復興資金の面でもカルザイ大統領は問題を抱えている。カーブル銀行の問題で国際通貨基金(IMF)がアフガニスタンへの融資を停止しているために,世界銀行が管理するアフガニスタン復興信託基金の資金7000万ドルが使用できず損失となったのである。

ロヤ・ジルガでアメリカとの関係継続を確認

内外の閉塞状況を打開するために,カルザイ大統領は11月16日から4日間カーブルのポリテクニーク大学で2030人ほどの代表を招いてロヤ・ジルガ(国民大会議)を開催した。このロヤ・ジルガ開催に対しては周辺国からの批判があり,ターリバーン勢力はボイコットを訴えたが,大統領は「伝統ロヤ・ジルガ」として厳戒体制のなか開催にこぎ着けた。

このロヤ・ジルガに関しては必ずしも開催の目的がはっきりしていないが,大統領としては2014年の米軍等外国軍の撤退完了以降もアメリカ政府が軍隊および訓練関係者をアフガニスタンに一定数置き続けることを切望しており,そのための「国民的な合意」の存在を国際的にもアピールしたかったという意図があると思われる。

11月16日の開会の挨拶でカルザイ大統領はアメリカとの将来的な関係についての長期的展望を初めて公にし,アフガニスタンを「老いた獅子」に例えて外国勢力の身勝手な振る舞いに対する国内の結束を訴えた。このロヤ・ジルガの開催に対しては当初内外からの批判も少なくなかったが,主要な対抗勢力のうちバルフ州知事のアタ・モハンマド・ヌールや国会議員のアブドゥル・ラウーフ・エブラーヒーミーらの旧北部同盟メンバーは結局出席した。

ロヤ・ジルガの法的な位置づけについてはアフガニスタン憲法の第6章において規定されており,第111条第1項によれば「独立,国家主権,領土の保全,そして国の至高の利益に関する問題について採決を行う」ために招集することができる。だが今回のロヤ・ジルガは国会議員249人のうち171人が出席登録をしているとはいえ議決権をもたず「強制力のない」ロヤ・ジルガである。

そもそもロヤ・ジルガはアフガニスタンにおいては憲法体制のはるか以前から存在する諸部族間の伝統的な合議システムであり,ある意味で近代的な憲法体制を凌駕する存在である。だがこうした特別な存在であるロヤ・ジルガを,過去においても為政者はしばしば「国民的な合意」を演出するための道具として恣意的に用いてきた。今回のロヤ・ジルガは2001年のターリバーン敗走以後5回目の開催になるものだが,これまでの「緊急ロヤ・ジルガ」や「憲法ロヤ・ジルガ」と異なって「伝統ロヤ・ジルガ」と名を冠されたこと自体,ロヤ・ジルガとしての性格の曖昧さを示すものと言わなければならない。

今回のロヤ・ジルガ開催においてカルザイ大統領が「国民的な合意」を求めた点は,第1にアフガニスタンとアメリカの間での2014年以降をも見据えた長期的な協力関係の構築についてであり,第2にはターリバーン武装勢力側との和平交渉の開始についてである。アフガニスタン側にとってみればアメリカとの関係では,2014年の米軍撤退後もアフガニスタンの治安維持および経済開発のための資金的な援助が保証されるかどうかが肝要な点であり,他方で外国駐留軍による市民の拘束や特殊部隊の夜襲作戦をめぐる問題についても緊急を要する。

だがアメリカ側としてはアフガニスタン国内に恒常的に米軍を配備することは周辺国(パキスタン,イランおよびロシア)との関係からも慎重にならざるをえず,国内世論の60%がアフガニスタンからの早期撤退を望んでいるという現状からしても,今後アメリカが継続的にアフガニスタンに大規模な軍隊を駐留させ,また同国の復興にリーダーシップを発揮し続けることは難しいだろう。

経済

カーブル銀行の不正融資問題

アフガニスタン最大の民間銀行であるカーブル銀行の不正融資問題は2010年の9月初めに表面化した。この問題では2011年に入って最大9億ドル(当初見積りの約3倍)の損失が見込まれることが明らかになっており,内外の金融関係者によると同銀行が経営破綻してアフガニスタンの金融界全体がパニックに陥る可能性も否定できないという。この事態を受けてIMFはすでにアフガニスタンへの資金供与を停止している。

過去の融資内容の調査によると,同銀行はこれまで政府高官等に対して充分な調査をすることなく多額の資金供与を秘密裏に行ってきており,それら高官のなかにはこれまで欧米各国の政府が,汚職の蔓延するカルザイ政権の内部において改革を実行しうる人材として期待を寄せていたような人物も含まれている。同銀行はアフガニスタン政府の預金口座のほとんどを扱ってきており,アフガニスタン国内の兵士や警察,教師などへの給与の支払いなどを含め,年間約15億ドルを取引している銀行である。

アフガニスタンの金融関係者やビジネスマンがもっとも恐れているのは,同銀行の問題がやがてほかの銀行の経営にも悪影響を及ぼし,アフガニスタンの元々脆弱な金融システムが崩壊すること,またその結果,現在でも援助資金注入の実効性に疑問を抱いている西側の復興支援国からの資金の流入が途絶えるということである。これを回避して同銀行の経営を続けさせるためには,アフガニスタン政府はすでに逼迫している財政状況のなかで多額の資金を注入する必要がある。

このような深刻な状況を受けて,6月27日にはアフガニスタン中銀総裁のアブドゥル・ガディール・フィトラトがカーブル銀行への不正融資の責任をとり辞任を表明した。同氏はすでに辞任の10日前にアメリカに出国していた。アフガニスタン国内では逮捕令状が出ており生命の危険もあるため当分帰国する意思はないという。同月29日にはアフガニスタン政府当局はカーブル銀行のシャルハーン・ファルヌード前会長とハリールッラー・フローズィー前CEOの2人を逮捕した。これは同銀行の不正疑惑では最初の逮捕者となる。さらに8月1日にはアフガニスタンの司法長官がカーブル銀行不正融資事件の容疑者リストを作成,この件について裁判を準備しているが,これがアフガニスタンの金融システムに対する国際的な信用の回復につながるかどうかはなお不明である。

ケシの生産量が再び増加

アフガニスタンにおけるケシの生産量は2010年においては激減したが,2011年は再び増加に転じている。国連薬物犯罪事務所(UNODC,本部ウィーン)が10月11日に発表した報告書によると,2010年は推定3600トンだったケシ生産量が今年は推定5800トンに増加した。国民の約5%に当たる19万世帯がケシ栽培に従事している現状で,出荷価格の総額は約14億ドル(1070億円)で国内総生産(GDP)の9%を占めるという。

このようにアフガニスタン経済のなかでケシ生産が占める位置づけの大きさはなかなか変化しないが,その弊害は政治的な不安定や経済的発展の阻害,治安の悪化,法の支配の不徹底といった問題にとどまらない。UNODCによれば,現在アフガニスタン国内ではケシを原料とするヘロインなどの価格の安さを背景に麻薬常習者は90万人に及んでおり,これは成人人口1400万人の約7%を占め,前年よりも増加傾向にある。

麻薬常習者のうち15万人ほどはヘロインを常時注射するが,これがHIVの感染拡大にもつながっており,事態は深刻である。アフガニスタンの保健省がアメリカのジョンズ・ホプキンス大学との協力で行った調査によれば,麻薬使用者の約7%はHIVに感染しており,これは3年前よりも増加傾向にあるという。アフガニスタンにおいてはHIVの主な感染経路はヘロインの注射針の共用である。

国際的な供給ルートの問題

四方を陸地に囲まれた地理的条件にあるアフガニスタンでは,外国からの物資の流入はもっぱら陸路国境を越えてくるが,これが周辺国との関係悪化によってしばしば滞るという問題がある。

2010年12月にイランからの燃料輸送車がイラン側国境で足止めされた問題は,その後2011年1月に入ってアフガニスタン国内各地で石油価格の50~70%もの高騰を招き,それが食糧や燃料などほかの生活物資の価格上昇にも波及して一時は深刻な事態になった。アフガニスタンで消費される燃料の約40%はイラン国境を通過する(ただし,すべてイランで生産されているわけではない)だけに,イランとの関係維持はアフガニスタン経済にとっての死活問題である。

同様のことは対パキスタン国境においても当てはまる。11月26日にパキスタン国境付近でNATO・国軍が夜間作戦中パキスタン軍駐屯地を攻撃,空爆でパキスタン兵士24人が死亡するという事件があったが,その直後からパキスタン側がハイバル峠を通るNATO軍の物資供給ライン(NATO軍全体の物資の40%を占める)を無期限で閉鎖するという挙に出たのである。

これらの事例からも分かるように,アフガニスタンの経済的な復興のためには同国の置かれている地理的な条件からして周辺国との安定的な関係の構築が不可欠である。また同時にアフガニスタンが地域的な流通のハブとして機能していくことは将来的に周辺国を含めた地域全体の発展にも直結するのである。

対外関係

対周辺国関係など

対周辺国関係としてもっとも重要なのは対パキスタン関係であるが,2011年においてはパキスタン国内の情勢の不安定化と軍部の台頭,ビン・ラーディン殺害後のアメリカとの関係冷却化,アフガニスタン国内の主要な凶悪テロ事件を背後で指令しているとされるハッカーニー・グループと三軍統合情報局(ISI)の密接な関係など,アフガニスタンにとって明るい材料はほとんど見出せなかった。

他方西側のイランおよびその先の中東アラブ地域においては,2010年の年末から「アラブの春」と呼ばれる政治的な変革の嵐が吹き荒れ,北アフリカのチュニジア,エジプトおよびリビアでは政権の転覆が実現し,シリアおよびイエメンでは民主化運動の弾圧と政治的な危機が継続している。

2011年11月にはイランの核開発問題に関する国際原子力機関(IAEA)の新たな報告書に端を発してイランとイスラエル・欧米諸国の緊張がにわかに高まっており,これを背景に2011年の年末にかけてイランはターリバーン勢力との戦略的な接近を図るとともに,2014年以降の米軍のアフガニスタン駐留に対して警戒の姿勢を強めている。他方でイランは12月にアフガニスタンとの相互防衛条約に調印し,また12月4日には対アフガニスタン国境から侵入したアメリカの無人偵察機RQ-170を捕獲してロシアの詳細な調査に供している。イランとアメリカの緊張関係は,今後のアフガニスタン駐留米軍の撤退計画にも微妙な影を落とす可能性を否定できない。

アフガニスタンにとってもうひとつの重要な関係国であるロシアは,カルザイ大統領がモスクワを訪問した2011年1月に,旧ソ連時代に建設したインフラの再建で合意している。具体的にはヒンズークシ山脈のサラング・トンネル,カーブル州内の水力発電所などで,ほかに麻薬対策でも両国が協力していくという。ソ連軍の撤退完了から20年以上を経て,ロシアでも2010年頃からようやくアフガニスタンの復興に積極的に関わっていく機運が出てきたと言えよう。

最後にEUとの関係であるが,2014年を当面の着地点とするオバマ大統領の米軍撤退計画に対し,国際治安支援部隊(ISAF)の中核としてアフガニスタンの戦線を支えてきたNATO軍に派兵しているEU各国もまたアメリカの撤退計画に同調して,2014年頃までに各国の軍隊を引き揚げるものと考えられる。NATOのなかで最大規模の軍隊を派遣しているイギリスは6月中旬の段階ですでに約200人の兵員を引き揚げており,2012年2月までには426人の撤退を実現する予定である。アフガニスタンの出口戦略は,2012年5月に開催予定のNATO首脳会議でも主要な議題のひとつになるであろう。

ボン会議の開催

12月5日にアフガン復興に関するボン会議(10年ぶり2回目)が開催され,日本を含む100の国・機関が参加したが,11月26日のパキスタン国境付近におけるNATO・アフガン国軍とパキスタン軍の衝突でパキスタン兵24人が殺害されたことを理由にパキスタンは欠席し,アフガニスタンの復興に向けての国際環境の厳しさを浮き彫りにした。

ボン会議においては米軍およびISAF軍が撤退する2014年以降においても,国際社会が新たな環境の下で引き続きアフガニスタンの平和と復興に積極的に関与し続けることを目標に,①アフガニスタン国軍への治安権限の移譲にともなう非軍事的な側面について,②2014年の外国軍撤退以降の長期的な復興支援体制について,③アフガニスタン国内の和解プロセスへの国際的支援体制について,の3つの議題について討議がなされた。

暴力の否定,国際テロとの決別,アフガニスタン憲法と基本的人権の尊重はこれらの議論の基底を流れる根本的なテーマであり,これらの前提がなければどのような和平プロセスも無意味であることが確認された。10年前の2001年12月に開催された最初のボン会議以降,アフガニスタンと国際社会はともに多くの犠牲を払ってきたが,その結果としてアフガニスタンの国民は従来ありえなかったような教育,保健医療やその他基本的な社会インフラの恩恵を享受できるようになったことも事実である。

以上のような基本的なトーンで10年ぶりに国際社会がアフガニスタンの復興継続のために改めて知恵を絞ったボン会議は,2012年7月に東京において開催される「アフガニスタンの持続可能な成長・開発戦略と当面の民生支援の調整および地域経済協力を主要テーマとした閣僚級会合」(ボン会議での中野譲外務大臣政務官発言)に引き継がれることになる。

国際社会がアフガニスタンの復興支援に今後とも長期間にわたって継続的に関わっていくべきことは当然であるが,問題はそのための国際的なインセンティブの醸成である。とりわけアメリカおよびEU主要国に加えてアフガニスタンと歴史的に深い利害関係をもつパキスタン,イラン,ロシア,中央アジア5カ国,インド,中国などの「周辺国」が地域的な安定と発展のためにアフガニスタン国家の復興・発展に等しく参画していくための環境づくりをすることが,まずは求められているのではないだろうか。

2012年の課題

オバマ大統領政権下のアメリカは2011年5月1日(アメリカ現地時間)にビン・ラーディンの殺害に成功し,これによってアメリカ国民の支持のもと7月以降アフガニスタン駐留米軍の撤退開始を軌道に乗せた。アフガニスタンに駐留する米軍およびNATO軍は今後試行錯誤を経ながらも2014年の撤退完了に向けてアフガニスタン国軍・警察の訓練・育成と同国政府への治安権限の移譲を進めていくであろう。

図2  アフガン国軍の兵員数

(出所) ウィキペディア(http://en.wikipedia.org/wiki/Afghan_National_Army#cite_ note-Pellerindate-38,2012年2月24日アクセス)所載データより筆者作成。

図3  アフガン国軍の兵員の能力

(出所) Brookings Institutions, “Afghan Index”, 2011年12月31日所載のデータより筆者作成。

一方アフガニスタン政府およびアメリカ・パキスタンとターリバーン武装勢力との和平交渉についてはいまだ軌道に乗っているとはいえない。2011年末の段階では公式の交渉は行われておらず,アメリカとパキスタンの関係悪化が交渉の進展にとって大きな阻害要因となっている。

こうしたなかでアフガニスタンの復興に日本は今後どのように関わっていくべきだろうか。まず日本政府としては基本的にアフガニスタンの政治状況が大きく変動しない限り,今後とも長期的に復興支援を継続していくべきである。

とくに治安関係の支援については今後とも資金面を中心に支援を継続するべきであるが,アフガニスタン国内の戦況がとくに好転しているわけではない現状で,人的な面の支援として可能なのは日本への留学生受け入れなどの継続・拡大であろう。その際にとくに留意するべきなのはアフガニスタン社会に潜在している女性の能力の積極的な掘り起こしと活用である。

いずれにしても日本を含む西側援助国にとって基本的に重要なのは,復興支援の継続によりアフガニスタン人の心を繋ぎ止めることであり,安定した国家システムの下での経済発展と社会・政治の民主化がアフガニスタン市民の幸福の実現にとっていかに不可欠であるかを具体的に実感してもらうことである。

(地域研究センター主任調査研究員)

重要日誌 アフガニスタン 2011年
  1月
1日 パキスタン側国境地域で米軍無人機攻撃により武装勢力11人が死亡。
7日 オランダ政府,アフガン警察の訓練要員ら545人を3年間派遣する閣議決定。
7日 アメリカ,1月中旬からカンダハール周辺に米海軍1400人の増派を決定。
10日 バイデン米副大統領がカーブルを電撃訪問,翌日カルザイ大統領との共同会見で2014年以降の米軍駐留を示唆。12日パキスタンに向かう。
12日 カーブルの自爆テロで2人死亡。首都では昨年夏以来の惨事。
15日 ハイバル峠のパキスタン側でターリバーンとみられる8人組がアフガン駐留欧米軍の給油タンクローリーを急襲,14台が炎上。ハイバル峠一時閉鎖。
18日 アフガン国軍と警察の要員を2012年10月までに42%増強するとの計画を発表。
18日 アフガンの商工会議所がイランとの商取引の全面停止を発表。2010年12月のイラン側の燃料輸出停止への対抗措置。
21日 カルザイ大統領がモスクワでメドベージェフ・ロシア大統領と会談,アフガン国内のインフラ再建で合意。
22日 カルザイ大統領,2010年9月の選挙後結果発表をめぐり混迷が続いていた下院の26日召集を決定。
27日 オバマ米大統領,一般教書演説で対テロ戦争の継続と7月以降のアフガニスタンからの米軍撤退を明言。
28日 カーブルのスーパーマーケットで自爆テロ,外国人含む8人が死亡。
28日 日本政府,自衛隊医官ら10人のカーブル派遣を夏以降に延期へ。
  2月
14日 カーブル中心部のショッピングモール入り口で自爆テロ犯の入場を阻止,ガードマン2人が死亡。
18日 東部ホーストで自動車爆弾,8人が死亡。
18日 NATO・国軍が深夜から翌朝にかけて東部クナール州ガーズィーアーバードで空爆作戦,市民64人が死亡。
19日 東部ジャラーラーバードでハッカーニー・ネットワーク関係者が銀行襲撃,40人以上が死亡。
21日 北部アリッサで自爆テロ,20人以上が死亡。
27日 アフガン国会,ウズベク人アブドウル・ラウーフ・エブラヒミを国会議長に選出。
  3月
1日 東部クナール州で国際治安支援部隊(ISAF)が誤爆,市民9人が死亡。
2日 カルザイ大統領,オバマ米大統領とのビデオ会談で市民殺傷に警告。
7日 ロバート・ゲーツ米国防長官がカーブルを電撃訪問(13回目),カルザイ大統領らと7月の米軍撤退開始について協議。
8日 ペトレイアスISAF総司令官,インタビューで対ターリバーン作戦の戦果の概要を説明。
9日 国連がアフガン市民の犠牲者増加について報告。
22日 カルザイ大統領,2州4都市の7月以降のNATO軍からの統治権移管を発表。
26日 パキスタン,アフガン問題に関する3カ国政府間会議を欠席。
26日 NATO軍が南部ヘルマンド州の空爆で市民7人を誤射。
27日 ターリバーン,前日に東部クナール州でヌーリスターン州からの警官50人を誘拐したと発表。
29日 ターリバーン,東部ヌーリスターン州を制圧と発表。
  4月
1日 北部マザーリシャリーフでアメリカ人牧師のコーラン焼却に抗議するデモ隊が国連事務所を襲撃し,外国人スタッフ7人を殺害。翌日には南部カンダハール州,北部タハール州に暴動が拡大。
6日 政府高官,カルザイ政府とターリバーンの交渉が進んでいると明言。
14日 東部パクティアー州で自爆テロ犯4人が地区警察の訓練所を攻撃,3人を殺害。
15日 南部カンダハール州の警察本部で警官姿の男が自爆テロ,警察長官らが死亡。
16日 パキスタンのギーラーニー首相がカーブルでカルザイ大統領と会談,ターリバーン勢力との和解をめざす合同委員会の設置で合意。
16日 軍服姿の自爆テロ犯がNATO軍兵士5人を殺害。
18日 アメリカ国防総省,2010年の罷免に関してマクリスタル前司令官が軍規に反した証拠はないとの報告を発表。
18日 自爆テロ犯が国防省内で発砲,国軍兵士2人が死亡。
19日 アイケンベリー・アメリカ駐アフガニスタン大使,ロイター通信との会見でアフガン国内の治安状況に懸念を表明。
20日 マレン米統合参謀本部議長,パキスタン三軍統合情報局(ISI)のターリバーン勢力との関係維持を批判。
21日 東部ナンガルハール州で移送バスが爆破,警察官3人が死亡。
23日 アフガン東部でNATO軍ヘリが墜落,ターリバーンはロケット砲での撃墜と主張。
24日 南部カンダハール州で収監中のターリバーン兵士476人が秘密の地下トンネルから一斉に脱走。
27日 アフガン空軍制服の男がカーブル空港で発砲,NATO軍関係者ら9人を殺害。
28日 オバマ米大統領,アフガン戦略関係の新高官人事4人を発表。
29日 アメリカ国防総省,半年ごとのアフガン情勢報告書で戦況の好転を強調。
  5月
1日 深夜,米軍特殊部隊がパキスタンのアボッターバードを急襲,ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害に成功。
7日 南部カンダハールで武装勢力が州知事公邸などを攻撃,翌日にかけて3人が死亡。
12日 インドのシン首相がカーブルを訪問,カルザイ政権のターリバーンとの和解を支持すると表明。翌日アフガン国会で演説。
13日 東部ナンガルハール州でISAF軍が民間人の少年を誤射,翌日住民の抗議デモに警察が発砲して1人死亡。
18日 北部ターロカーンで反米デモ隊が治安部隊と衝突,ドイツ軍の発砲で参加者12人が死亡。デモは米軍主導の作戦で前日深夜に市民4人が死亡したことへの抗議だった。
18日 東部パクティアー州で武装勢力約70人が道路建設現場を深夜攻撃,作業員や警備員35人が死亡。
21日 カーブル中心部の国軍病院で自爆テロ,病院関係者6人が死亡。
22日 東部ホースト州で警官姿の武装犯が政府建物を襲撃,6人が死亡。
25日 東部ヌーリスターン州でNATO・国軍がターリバーン兵を州中心部から駆逐。
28日 タハール州ターロカーンでNATO軍関係者らの会合に警察官姿の自爆テロ犯が潜入,ダーウード警察長官ら多数を殺害。
28日 南部ヘルマンド州でNATO軍が空爆,市民9人(アフガン側の発表では14人)を殺害。
30日 西部ヘラートでターリバーンが攻勢,アフガン市民4人が死亡。
31日 カルザイ大統領,今後はNATO軍の民家への空爆を認めないと強く警告。
  6月
7日 アメリカ政府内でアフガン撤退の速度について議論が活発化と報道。軍は急激な撤退を望まず。
22日 オバマ米大統領,アフガンからの米軍撤退計画を表明。年末までに1万人を撤退,来年9月までにさらに2.3万人を撤退させ,2014年までに撤退を完了する。
22日 イギリス国会でウイリアム・ハーグ外務長官が駐留英軍のうち約200人が既に撤退と言明。2012年2月までに426人が撤退の予定。
23日 アフガン特別法廷,2010年9月の国会選挙結果の25%(62人)の当選を無効と判断。
26日 中部ウルズガーン州で8歳の少女がターリバーンに爆弾を持たされ死亡。
27日 アフガン中銀総裁アブドゥル・ガディール・フィトラトがカーブル銀行への不正融資の責任をとり辞任を表明,アメリカに出国。
27日 パキスタン,過去3週間にわたるアフガン領内のクナール州およびナンガルハール州に向けたロケット砲の発射で36人を殺害とのアフガン側の糾弾を否定。
28日 自爆テロ犯9人がカーブルのインターコンチネンタル・ホテルを襲撃してアフガン人客ら12人を殺害,犯人は全員死亡。翌日NATO軍がパクティアー州ガルデーズ地区を空爆,同事件に関係したハッカーニー・ネットワークのイスマーイール・ジャーンほかを殺害。
29日 カーブル銀行の前CEOら逮捕,同行の不正疑惑で最初の逮捕者。
  7月
1日 南部カンダハール州でロバが爆弾を踏み,民間人2人が死亡。
2日 南部ザーブル州で路上爆弾テロ,バンに乗車していた家族13人が全員死亡。
5日 アフガン国会議員,カルザイ大統領の弾劾を求めて結集。
6日 ターリバーンがヌーリスターン州の国境警察を次々と襲い,警官23人を殺害。
6日 東部ホースト州でNATO軍が空爆により女性8人と子供2人を殺害。
12日 カンダハール州評議会議長で大統領の実弟のアフマド・ワリー・カルザイ,側近のサルダール・モハンマドに射殺される。
17日 元ウルズガーン州知事でカルザイ大統領側近のジャーン・モハンマド・ハーンが射殺される。
17日 深夜にナンガルハール州クズ・クナール地区でNATO・国軍が戦闘,ターリバーン13人を殺害。
19日 ペトレイアス,ISAF・米軍総司令官職をジョン・アレンに引き継ぐ。
21日 深夜から翌朝にかけてNATO・国軍が東南部パクティカー州でハッカーニー・ネットワークの武装集団と戦闘,50人余を殺害。
25日 ライアン・クロッカー・アメリカ駐アフガン新大使,新任挨拶で米軍撤退の意図をアフガン側に釈明。
27日 カンダハール市長のゴラーム・ハイダル・ハミーディー氏,自爆テロ犯により死亡。氏は12日に殺害された故カルザイ氏の後継と目されていた。
28日 南部ウルズガーン州で武装勢力が政府諸施設を攻撃,21人が死亡。
29日 南部ヘルマンド州でミニバスが路上爆弾を踏み乗客市民18人が死亡。
  8月
1日 司法長官,カーブル銀行不正融資事件の容疑者リストを作成,裁判を準備。
2日 早朝,クンドゥズ市のホテルで自爆テロ,護衛4人が死亡。
3日 クンドゥズ州で政府が群小の武装勢力に20日以内の武装解除を要求。
6日 ターリバーンの攻撃により米軍輸送ヘリ(CH-47チヌーク)がワルダク州タンギ谷で墜落,特殊部隊隊員ら38人(うち30人が米兵)が死亡。米軍として最大の被害。
10日 米軍,輸送ヘリを撃墜したターリバーン部隊を空爆でせん滅と発表。
18日 西部ヘラートで地雷の爆発によりミニバスの乗客ら23人が死亡。
18日 東部パクティアー州のガルデーズ前線基地に自爆テロ犯の車が突入,アフガン人の護衛2人が死亡。
21日 南部ヘルマンド州でバイクに乗った銃撃犯が政府の地元検察官を殺害。
21日 ヘルマンド州ナワ地区で村民がターリバーン司令官らを石打ちの刑で殺害。
  9月
3日 2007年にグアンタナモ収容所を出たサバル・ラル・メルマがアフガン東部でISAF・国軍の攻撃により死亡か。
8日 NATO軍,アフガン人BBCジャーナリストのアフメド・オメド・クプルワク氏を誤認して射殺したと謝罪。
11日 9.11同時テロから10周年,カーブル近郊の基地近くでターリバーンがトラック爆弾,市民5人が死亡。
12日 人権保護団体の報告書がISAF・アフガン政府の支持する軍閥による市民の人権蹂躙を告発。
13日 ターリバーンがカーブルのアメリカ大使館や国際施設をロケット砲で攻撃,治安部隊が翌日までに犯人7人を射殺,4人は自爆。この間警察官5人と市民11人が犠牲に。ハッカーニー・ネットワークが関与か。
20日 ブルハーヌッディン・ラッバーニー和平評議会議長(元大統領)をターリバーンの自爆テロ犯がカーブルの自宅で殺害,ターリバーン側との和平交渉に痛手。
23日 米軍関係者,カーブルのアメリカ大使館攻撃にパキスタンISIが関与と糾弾。
25日 カーブルのアメリカ大使館内でアフガン人インフォーマントがアメリカ人を射殺。
27日 アフガン国軍,パクティアー州ジャニヘル地区でハッカーニー・ネットワーク高官のハージー・マリー・ハーンを拘束。
29日 アフガン当局,対ターリバーン和平交渉に向けたアメリカ・パキスタンとの高官会議を中止と発表。
  10月
5日 カルザイ大統領,訪問中のニューデリーでターリバーン側との交渉の中断を明言。
5日 治安当局がカルザイ大統領の暗殺計画に関わったとして6人を逮捕。
10日 国連の報告書がアフガン国内の拘留所内における人権無視の実態を報告。
14日 アレン総司令官,米軍のカーブル周辺に重点配置を検討と報道で発言。
24日 NATO・国軍がハッカーニー・ネットワークに対する2つの作戦で武装勢力200人を殺害ないし拘禁,うち20人は同ネットワークの関係者と発表。
29日 カーブルで軍用バスに自爆テロ犯の車が激突。17人が死亡,うち12人はアメリカ人で4人は軍関係者。この種の事件ではアメリカ人に最大の被害。
31日 カンダハールの国連事務所周辺で早朝に自爆テロ犯の車が爆発,市民4人が死亡。その後周囲の建物に立て籠もった犯人とNATO・国軍が銃撃戦。
  11月
5日 ピーター・フラー米軍少将,カルザイ大統領を公開の席で誹謗したかどで罷免。
6日 早朝,バグラン州のモスクでイードの礼拝後にテロ犯が自爆,市民6人が死亡。
6日 夜,南部ヘルマンド州の路上爆弾でモハンマド・ハキーム・アンガル警察長官と護衛2人が死亡。
8日 ウルズガーン州でオーストラリア軍によるアフガン国軍の訓練中,1人の兵士が激しく反抗,死者等はなし。
10日 米兵カルヴァン・ギブスがアフガン市民3人を故意に殺害したかどで有罪判決。
14日 南東部パクティカー州でISAF・国軍がターリバーン広報担当のザビーウッラー・ムジャーヒドを拘束と発表,だが本人がこれを否定。
16日 カルザイ大統領の招集で19日までロヤ・ジルガ開催,アメリカとの緊密な協力関係の構築に国民の支持を求める。
23日 キルギスのオツゥンバエヴァ大統領が引退を前に,欧米軍撤退後のアフガン国内の混乱に懸念を表明。
26日 パキスタン国境付近でNATO・国軍が夜間作戦中パキスタン軍駐屯地を攻撃,空爆でパキスタン兵士24人が死亡。パキスタン側が最初に発砲か。
29日 パキスタン,国境付近の空爆に抗議してボン会議への不参加を決定。
  12月
5日 アフガン復興に関するボン会議(10年ぶり2回目)が開催,100カ国近くが参加もパキスタンとターリバーンは欠席。オバマ米大統領はザルダーリー・パキスタン大統領と電話会談も空爆の謝罪はせず。
6日 シーア派のアーシューラーの祭日にカーブル,マザーリシャリーフ,カンダハールの3都市で爆弾テロ。カーブルで56人,マザールで4人の市民が死亡。その後パキスタンのラシュカレ・ジャングヴィーが犯行声明。
8日 カンダハールでハミード将軍の椅子で仕掛け爆弾が爆発,将軍は難を逃れる。
16日 対ターリバーン和平交渉でのカタールの勇み足に抗議してアフガン政府が駐ドーハ大使を召還。
20日 アメリカCIAは前月のNATO・国軍のパキスタン領空爆後,同国内へのミサイル攻撃を控えているとパキスタン側が発表。
22日 カルザイ大統領,独立人権擁護委員会のアフマド・ナーデル・ナーデリー委員長を罷免。欧米から非難。
25日 タハール州ターロカーンの結婚式で自爆テロ,国会議員を含む10人が死亡。
27日 カルザイ大統領,自らの権限の及ばないアメリカ系の警備会社(CIP)を北部4州から撤収させる方針を固める。

参考資料 アフガニスタン 2011年
①  国家機構図(2011年12月末現在)
②  閣僚名簿(2011年2月末現在)
③  州知事

主要統計 アフガニスタン 2011年
1  基礎統計
2  産業別国内総生産(名目価格)
3  国家財政
 
© 2012 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
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