アジア動向年報
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2012年のバングラデシュ 対決か妥協か,不透明な次期総選挙への展望
佐藤 宏
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2013 年 2013 巻 p. 439-464

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2012年のバングラデシュ 対決か妥協か,不透明な次期総選挙への展望

概況

アワミ連盟連合政権は,2011年に第15次憲法改正によって非政党選挙管理内閣制度を廃止した。選挙実施時の内閣のありかたをめぐる与野党の対立はこれを契機に激化し,野党は相次ぐデモ,ゼネストに訴えた。バングラデシュ政治は再び「対決型」,「動員型」政治の様相を顕著にしている。選挙委員会の委員は任命されたが,2012年中は,この問題では一歩も前進しなかった。そして1971年独立戦争時の戦争犯罪人に対する裁判が本格化するなか,イスラーム政党,とくにジャマアテ・イスラーミー(イスラーム党)による破壊活動も激しさを増してきた。

2012年はまた,バングラデシュのアジアにおける位置づけに内外からの関心が集中した年でもあった。それを象徴する出来事が,米国務長官の9年ぶりの来訪であった。アメリカは,成長する中・印・ASEAN経済の交差点という新たな位置づけをバングラデシュに与えた。このようなバングラデシュの新たな位置づけから生まれる経済的機会を現実化できるか否かは,内政の安定とともに,インドとミャンマーという隣接国,そして中国という準隣接国との今後の関係いかんにかかっている。

国内政治

アワミ連盟連合政権への厳しい評価

アワミ連盟(Awami League,以下AL)中心の14党連合(「大連合」)政権は任期の4年目を終わり,予定される国民議会(以下,国会とする)選挙まで1年余りを残すのみとなった。最初に,恒例になったThe Daily Star紙による定期的な世論調査結果(2013年1月4日付)をかりて,過去4年間の現政権に対する評価の推移を概観してみよう。

調査時点での政党の選好を示す表1では,AL支持率に変化はほとんどみられない。だが「無回答」であった有権者が,2012年1月にはALへの批判をあらわにしてバングラデシュ民族主義党(BNP)支持に傾いた。それと並行して,ハシナ首相の統治実績を評価する回答者の比率は,政権発足直後の80%から2012年1月の40%へと直線的に下降した(別の調査項目による観察)。表1にみるように2013年1月にはALに対する評価はやや上向いたが,支持率の差が広がったわけではない。エルシャド総裁の率いる人民党(JP)や,ジャマアテ・イスラーミー(イスラーム党,JI)など,第3党以下の動きしだいでは,順位すら入れ替わる可能性もある。

表1  AL連合政権4年間の政党支持率の変化(%)

(出所) The Daily Star,2013年1月4日付。

この間のALら与党側の動きにもふれておこう。次期国会選挙を見通すうえで,ハシナ首相らAL指導部が危惧しているのは内部対立である。2008年12月の国会選挙に至る過程で,党内にはハシナ総裁の排除を狙う,長老指導者を中心としたいわゆる「改革派」が生まれ,ハシナ首相は,2009年1月の政権発足にあたり,こうした指導者を政府からも党の中枢組織からも締め出した経緯があるからである。2012年6月の時点では,このままでは候補者の乱立で50~60議席を失いかねないとAL指導部は読んでいた。実際,2012年中に行われたクミッラ市長選,タンガイル第3区の国会補欠選では,ALの非公認候補が公認候補を破っている。こうしたことから,ハシナ首相は,9月の内閣改造で,長老の一人であるトファエル・アフマドと連合政党の労働者党議長のR. K. メノンの入閣を要請したが,ともに拒否された。選挙を1年後に控えたこの時期に,政権の負のイメージを背負い込むリスクを彼らは避けたのである。とくにアフマドの入閣拒否は,党内亀裂の表面化として,ALにとっての大きなマイナスであった。

またALにとっては,次期国会選挙での14党連合からの離脱をしきりにほのめかしているJPのエルシャド総裁の動きも不確定要因のひとつである。

与野党対決の焦点――非政党選挙管理内閣問題――

次期国会選挙まで1年余りとなった2012年も,選挙実施時の政府の形態をめぐって前年から激化した与野党の確執には,解決はおろか妥協の兆しもみられなかった。BNPら野党18党連合(2012年4月,4党連合を拡充して結成)は,現政権が2011年6月の第15次憲法改正で廃止した「非政党選挙管理内閣制度」(Non-Party Caretaker Government,以下CTG)の復活を求めたが,与党AL連合は,「独立・中立の」選挙委員会(Election Commission)による管理のもと,現政権下での選挙実施に固執した。第15次改正はまた,任期満了日に先行する90日間,もしくは国会の解散後90日間を選挙実施期間と定めている。現政権が任期満了前に自発的に解散に踏み切らない限り,次期選挙は与党が政権についた状態で実施されることになる。公正な選挙実施を求める野党としては,これは受け入れがたい。もともとCTG制度自体,1996年に当時のBNP政権のもとでの選挙実施に反対したALらの野党が,激しい抵抗の後に憲法に盛りこませた制度であった。ところが2009年1月に発足したAL連合政権は,最高裁が2011年5月に,国民の信託を受けていない元最高裁長官をはじめとする非政党人に国政を委ねるCTG制度を違憲とする判決を下したことに乗じて,この制度を廃止した(詳細は『アジア動向年報 2012』442~446ページ参照)。2012年が「対決型政治」への決定的な回帰となった最大の原因が,この第15次憲法改正にあった。

与野党の対決を背景に,Z.ラフマン大統領が,2011年12月22日から諸政党との協議を開始して事態の打開をはかった。しかし,大統領が提案したのは選挙委員会の公正な人選をはかるための「人選委員会」(Search Committee)設置にとどまり,野党との溝はいっこうに埋まらなかった。BNPはあくまでCTGの復活を要求した。こうしたなかで,1月22日,政府は選挙委員を推薦する人選委員会委員を任命した(最高裁上訴部判事,高裁判事各1人―以上は最高裁長官の指名,会計検査長官,公務委員会総裁の合計4人)。人選委員会は,各政党にも5人の候補を出すように求めたが,応じたのはALのほか2党にとどまった。2月9日ラフマン大統領は,人選委員会が提示した2人の委員長候補と8人の委員候補の名簿をもとに,官僚出身のK. ロキブッディーン・アフマド委員長ほか4人をもって選挙委員会を構成すると発表した。BNPの非協力によって,政権が標榜する選挙委員会の独立性,中立性は,その発足の時点から疑問視された。

CTG制度復活を求めるBNPは,2011年10月から開始された地方都市における一連のデモ行進(「ロードマーチ」)の一環として,2012年1月8日にチタゴン,同30日にはダカで大規模なデモ行進を組織した。さらに3月12日には,ダカの党本部前で全国動員による大集会を開催した。AL連合政権はこれに対して,BNPの活動家に対する大規模な逮捕作戦に出たほか,前日の11日には与党連合が,戦犯裁判(後述)の迅速化を求めてダカ市内で「人間の鎖」行動を展開し,BNPらの反政府活動の「真の狙い」が,戦犯裁判の妨害にあると訴えた。政府の露骨な介入のもとに開かれた集会で,ジア総裁は90日の間にCTG制度の復活を行うよう,政権側に最後通牒を突きつけた。BNPはこの間,2月12日には,米英仏らの大使を懇談に招いてCTG制度復活を強く主張し,理解を求めている。3月18日には,野党は2011年3月24日以来,83開会日ぶりに国会の本会議に出席したが,これは90開会日の継続欠席で議員資格喪失を招かぬためであり,野党はふたたび3月21日から国会ボイコット戦術に入った。

見いだせるか妥協の糸口

4月に入ると,与野党の対立に新たな争点が浮上した。4月17日にBNPの組織担当書記である,M. イリヤス・アリが政府治安機関によって拉致された疑いが発生したのである。事件の究明を求めて18党連合は22日から24日の3日間,さらには同29,30日と連続して12時間ハルタル(ゼネスト)を実行した。政府も強硬な対応に出て,BNP幹部11人ほか多数を逮捕し,F. M. I. アラムギール書記長代行ら33人を放火,爆発物法違反などの容疑で起訴した。これ以降18党連合は,CTG制度復活の要求と並んで,イリヤス・アリ失踪事件の究明,BNP幹部の釈放を掲げ,全国規模でハンスト,デモを繰り返し,3月12日の最後通牒の期限切れとなった6月11日には,再びダカで大規模な集会を組織した。

雨期とラマダーン(断食月)明けをまって9月以降,18党連合の反政府抗議活動が活発化した。抗議活動の先鋭化を引き起こしたのは,18党連合内のイスラーム政党,とくにJIによる戦犯裁判被告人の釈放を求める実力街頭行動であった(後述参照)。彼らは警察を挑発する目的で,意図的に警官を暴行の標的とした。これに危機感を抱いたALら与党勢力は,学生組織を中心に街頭で野党側と直接に対決する姿勢を強めた。

12月9日に行われたBNPら18党連合による全国的な道路封鎖行動(事実上のハルタル)では,ALら与党連合の支持者が道路封鎖の解除に出動した。混乱のなかで,BNP支持者と誤認された一青年がAL学生組織活動家によりオールド・ダカの街頭で惨殺されるという事件も起きた。18党連合は与党側の弾圧に抗議して,12月11日に全日ハルタル,13日には8時間ハルタルを実施した。こうしてCTG復活をめぐる与野党の対立は,野党政治家の釈放や,JIらによる戦犯裁判被告人の釈放要求ともつれ合いながら,妥協の糸口が失われようとしている。

この間に,わずかに政府側の妥協とみられる動きがあったとすれば,それは7月の訪英中に首相が示唆した小規模暫定政府提案であった。7月25日にロンドン・オリンピックに合わせて訪英したハシナ首相は,BBCとの会見で,小規模の「暫定政府」(Interim Government)にBNPの参加を求める案に言及したのである。イギリスという場所,そして暫定政府という表現から,多くの人が想起したのは,1994年のBNP政権期に,当時のコモンウェルス事務局長サー・N・スティーブンがBNPとALに提示した妥協案である。つまり与野党5人ずつと首相からなる11人の内閣を組織し,これが選挙委員会を支えて公正な選挙を実施するという案である。時のジア首相はこれを受け入れたが,野にあったハシナ総裁は拒否した。ALはそれ以降実力行動を激化させてCTG制度を導入させた。こうした経緯からすれば,たとえハシナ首相が同じ「暫定政府」案を提示しても,今度はBNPが拒否する「順番」である。事実8月2日には,BNPはハシナ首相の「暫定政府」案を拒否し,CTG要求を堅持した。ただし注目に値するのは,この際BNP内部では,BNPとALが暫定政府に5人ずつの非政党人を推薦する案や,10人全員を最高裁判事経験者とする案などが検討されたと報道されていることである。前者の案は,最高裁による2011年5月の判決が,議員でない者が内閣を構成することへの根本的な疑義を提示しているため,与野党(議員)による推薦という形をとることによって,この疑義を回避しようとする試みであろう。

独立戦争時の戦争犯罪裁判の進行

1971年のバングラデシュ独立戦争時に,ラザーカール(義勇隊),アル・バダル(満月隊),アル・シャムス(太陽隊)などと名乗るパキスタン軍の補助部隊を組織して,AL活動家らの独立派やヒンドゥー教徒などのマイノリティを大量に殺害した「戦争犯罪人」の裁判が,2012年に入りようやく本格化してきた。これらの補助部隊の幹部の多くが,当時のJIもしくはその学生組織の指導者たちであった。

1973年の「国際犯罪(法廷)法」(International Crimes[Tribunals]Act,以下ICT法)の制定以来,戦犯裁判はALの基本政策であった。また数多くの市民組織,とりわけ「1971年の殺人者・通敵者の根絶(ニルムール)委員会」が,長期にわたって裁判の実施を求めてきた。ALは2009年1月に政権に復帰したのち,ようやく2010年3月25日にICT法に基づく法廷を設置した。同年6月29日には,D. H. サイーディー,M. R. ニザーミー,A. A. M. ムジャヒードらJI幹部のほか,多数のJI関係者が逮捕された。しかし国際犯罪法廷が正式起訴(indictment)を決定したのは,最初のサイーディーのケースですら,逮捕から1年以上経過した2011年10月3日であった。ほかの指導者についても,2012年5~6月に至ってようやく正式起訴が決定され,本格的な裁判に移行した。2012年にはまた,独立戦争時のJI最高指導者グラム・アザムに対する正式起訴の決定が5月13日に下された。この間3月22日には,第2の国際犯罪法廷が設置され公判の迅速化が目指された。2012年末に2つの法廷で裁かれている被告人は,表2の9人である。このうちで,審理が年内に終了したのは,サイーディーと「欠席裁判」となったアーザードのみであり,2013年早々には2人に対する死刑判決が下されると予想される(ただし,不服な場合,最高裁への上訴が可能である)。

表2  戦争犯罪裁判の被告人と主な罪状

(注) JI=東パキスタン(バングラデシュ)ジャマアテ・イスラーミー,ML=ムスリム連盟

(出所) The Daily Star紙の記事から筆者作成。

だが,2012年後半に戦犯裁判が軌道に乗るなかで,JIなどのイスラーム政党の抵抗も激化した。9月24日には,イスラーム政党12党による12時間ハルタルが実施された。11月に入ると,JIとその学生組織であるイスラーミー学生戦線が,被告人全員の釈放を求めるデモを行い,各地で警官とたびたび衝突した。12月4日にJIらが行った12時間ハルタルには,この問題でJIとある程度の距離を保ってきたとみられるBNPも,「道義的支持」を与えると表明した。JIの狙いは,BNPをこの問題に巻き込んで,CTG問題での与党との妥協や,インドとの接近(「対外関係」の項参照)へと踏み込まないように,BNPを牽制するところにあるとみられる。一方,ALも学生組織の動員で路上での対決姿勢を強め,与党14党連合は,12月22日に,首都ほか各地で,戦犯裁判の早期完結をかかげるデモを行った。次期国会選挙が間近に迫った状況で,戦犯裁判の完遂を選挙の最大のイシューに据えようとするALの思惑も明らかになってきた。

また戦犯裁判問題では,政府は国際的な反響に対して非常に過敏になっている。この裁判は極刑を前提としているので,死刑を廃止しているEUなどには不評であり,それ以上に政府が神経をとがらせているのは,裁判に関するアル・ジャジーラによる報道(2月),グラム・アザムの死刑判決を控えるよう要請したトルコ大統領書簡(12月)などにみる中東諸国での反応である。JIの創始者マウドゥーディーは中東諸国においてもイスラーム思想家としてよく知られている。中東諸国の眼を引き付けることもJIの極めて挑発的な行動の重要な狙いなのである。

陸軍内のクーデタ計画摘発

2012年新年早々に,陸軍当局は,軍内部でのクーデタ計画が摘発されたと発表した。1月19日,陸軍人事局長M. M. ラザク准将は陸軍将校クラブで記者会見を行い,2011年10月来,2人の退役将校(少佐と中佐)と1人の現役少佐を中心に練られたクーデタ計画を未然に摘発し,現在なお調査は継続中であると発表した。香港在住の在外バングラデシュ企業家1人も,これに関与しており,首謀者のひとりである現役少佐S. M. ジアウル・ハックは行方不明であることも明らかにされた。ラザク准将は発表のなかで,この計画に非合法組織「自由の党」(Hizb ut-Tahrir,以下HuT)が関与していることも示唆した。

この事件は,軍関係者の間ではすでに2011年末から知られていたようである。BNPのジア総裁は1月9日のチタゴンでの集会で,軍内部に行方不明の将校がいると演説のなかでふれた。不正確な情報がひとり歩きする前に陸軍が直接に事態の説明に乗り出したとみられる。しかし計画自体は少佐,中佐級を中心とし,人数的にも小規模な動きであった。

むしろ,ラザク准将がふれたHuTの将校層への浸透に,事件後の論評は集中している。HuTは,1953年にエルサレムで結成されたイスラーム国家樹立を目指す政党だが,バングラデシュとパキスタンでは2000年から組織化された新しい勢力である。しかし,南アジアの治安専門家の間では,過激なイスラーム主義団体のなかでは,現時点ではバングラデシュでもっとも影響力の強い組織であるとされている。HuTは2010年10月22日の非合法化以降,500人の逮捕者を出しているが,その多くは保釈中である。バングラデシュ(およびパキスタン)でのHuTの最大の特徴は,従来のイスラーム主義団体が,マドラサ(イスラーム神学校)学生を中心に活動家をリクルートしてきたのに対して,医師,軍将校,専門技術者など高学歴の青年層を取り込んでいるところにある。

AL寄りの退役軍人の間では,このクーデタ計画は戦犯裁判の阻止が狙いであるとする見方が一般的であるが,ハシナ政権がバングラデシュを「アメリカ十字軍」と「多神教徒インド」に売り渡していると,かねてからその打倒を呼びかけていたHuTの基本的な主張に沿った動きでもあるだろう。

経済

ハシナ政権の政策課題――物価抑制と汚職防止――

バングラデシュ銀行は,2012年1月26日,2011/12年度下半期の金融政策の課題として,インフレ(物価)抑制,対外均衡の改善,および6.5~7%の経済成長率達成をあげた。先に引用したThe Daily Star紙の世論調査でも,現政権に求められる課題としては,汚職防止とならんで物価の抑制が突出している。

まず2011/12年度の経済成長率だが,最終的には前年度の6.7%を下回る6.3%にとどまった。とはいえ2009年1月に発足した現政権下で,この4年間の経済成長率は5.7%,6.1%,6.7%,6.3%と推移してきたので,バングラデシュ経済の長期的な趨勢からみれば,数値的には良好な実績であった。

部門別に前年度との比較でみると,顕著なのはGDPの約20%を占める農業の成長率が1.72%にとどまったことである(2010/11年度は5.09%)。前年度はコメ生産が作付面積では低下したにもかかわらず,生産量は3354万トンと,対前年比で4.9%増であり,ジュートの作付面積も倍増に近い80万ヘクタールに達した(生産量152万トン)。2011/12年度は,コメ生産量が3391万トン,ジュートの生産量が144万トンと,前年度の水準を確保することができた。他の部門で前年度より良好な実績を示したのは,電力・ガスなど(2011/12年度14.11%,前年度6.64%),建設業(同8.52%と6.51%)の2部門程度であり,製造業(同9.76%と9.45%)をはじめとするほとんどの部門では概して前年度並みであった。なお2012/13年度の経済成長率については,世銀が6.4%(6月12日発表),IMFは5.8%(10月1日発表)と予測している。

物価の抑制は前年度に引き続き最重要の課題だが,物価上昇の要因に変化がみられた。2011年中には食糧価格が物価上昇の主役であったが,2011年12月を境に,非食糧物価,とくに家賃・光熱費がこれにとって代わった。図1にみるように,非食糧物価指数と家賃・光熱費指数の動きは明らかに一致している。この背景には,AL連合政権が当座しのぎに導入したレンタル発電制度のもとでの,ディーゼルないし重油による高い発電コストが,電気料金の相次ぐ引き上げにより,物価に反映されるようになってきたという事情がある。現政権下で,発電における石油燃料の比率は10%から28%へと急速に上昇した。2009年には1kWh当たり 平均2.5タカであった電力料金は,2012年には6.1タカにまで上がっている。光熱費と家賃の上昇は,物価を押し上げ,都市部の賃金・給与所得者の家計を圧迫すると同時に,工業,運輸・交通部門のコストを押し上げている。労使ともにこの影響を受けて苦しんでいるのが主軸産業の縫製産業である(後述参照)。

図1  消費者物価指数の変化率(2011~2012年,前年同月比)

(注) 指数は1995/96=100

(出所) Statistics Department,Bangladesh Bank,Monthly Economic Trends,2012年1月および2013年1月より筆者作成。*は家庭用(小売)電力料金引き上げの月。wは物価指数に占めるウェイト。

対外経済関係――縫製品輸出と海外労働者送金――

対外経済関係をみると,2011/12年度の輸出総額は239億9000万ドルで,前年比6.2%増であった。輸入総額は319億9000万ドル,前年比5.4%増にとどまった。2010/11年度輸出は世界経済の回復基調を受けて41.5%の増加をみた。政府は2011/12年度の増加率を14.5%と期待していたが,この数値は2002~2008年の年間輸出伸び率のうちもっとも低い水準に近いものにもかかわらず,その半分にも達しなかった。輸出の回復基調にはまだ遠い。

こうした総輸出額の状況は,2011/12年度にその78.6%を占める縫製品(布帛縫製品39.5%,ニット製品39.1%)の市況を反映したものである。2012年の年頭,バングラデシュ縫製産業では,前年度の輸出の回復(対2009/10年度比43.35%増)に加え,労働集約的産業からの中国の後退ないし撤退や,労賃の低さのために中国からバングラデシュへ注文を切り替えるバイヤーの動きがみられ,中国に代わる世界トップの輸出国の座に今にも手が届きそうな楽観的な空気が生まれていた。たしかに2012年2月頃までは縫製品の輸出は順調に伸びていた。しかし2011/12年度の第4四半期(2012年4~6月)に入ると,欧米向けのニット製品を中心に,前年同期比13.43%減と大きく落ち込んだ。最終的には,縫製品輸出は総額190億9000万ドルで,対前年度比6.56%(布帛縫製品13.89%に対してニット製品では0.05%)の伸びにとどまった。好材料はトルコ,日本,オーストラリアなど,ヨーロッパ(2011/12年度縫製品輸出の62.8%),アメリカ(同23.7%)以外の新規市場での伸びが著しいことである。また2012年を通じて労使の対立が激化し,11月にはダカ近郊の工場火災で112人が死亡したことから,あらためて賃金引き上げや安全対策強化を求める声が内外で高まっている(後述参照)。

縫製品に次いで大きな外貨獲得源である海外労働者送金は,額として順調ではあるが,制度的には多くの問題を抱えている。2011/12年度の送金は128億4300万ドルで,前年度比10.26%増であった(タカ減価のため現地通貨表示では22.38%増)。中東地域の政治変動の影響を受けた2010/11年度が前年度比わずか6%の伸びと,2000/01年度以来最低の水準であったのに比較すれば回復といえるが,毎年20%以上の水準で増加してきた送金は頭打ちの傾向にある。とくに送金額の65%を占める湾岸諸国で,バングラデシュ労働者の新規受け入れを停止ないし規制する動きがあることは無視できない。受け入れ枠を2009年から大幅に狭めたサウジアラビアとの間で,2012年2月には在外居住者福利厚生相K. M. ホセインが受け入れ条件緩和交渉を行っている。また,10月には,アラブ首長国連邦がバングラデシュからの労働者入国許可の発行を停止した。民間仲介業者による中間搾取,多額の準備費用を回収するための不法滞在,犯罪事件の多発などが原因である。新聞報道によれば,中東,東南アジアへの出稼ぎ労働者21人が殺人罪で死刑宣告を受け,31人が公判中であるといわれる(The Daily Star,2012年2月17日付)。こうしたなかで送金額の約9%を占めるアジア地域のうち最大の受け入れ国マレーシアとの間で,2009年から「非公式に」停止されていた労働者の受け入れが,11月に交わされた政府間覚書によって再開されることになった。この覚書によって,民間業者の介在なしに,バングラデシュ政府のマンパワー雇用訓練局(BMET)にオンラインで登録した希望者を,半年5万人の枠内で送りこむことができる。また個人による費用負担が4万タカに抑えられることも利点として強調されている。2013年1月には新制度のもとでの第1陣が送られる予定である。

世銀によるポッダ橋建設融資に暗雲

汚職・腐敗,経済犯罪の多発はバングラデシュ政治の根深い構造的な病弊である。2011年4月に世銀との間で融資契約が調印されたポッダ(ガンジス)川に架ける全長6.15キロメートルの多目的橋をめぐる不正疑惑は,現政権下最大の疑獄事件である(詳細は『アジア動向年報 2012』450~452ページ参照)。それ以外にも2012年には,S. セングプタ鉄道相による国有鉄道の新規採用者からの収賄疑惑や,まったく実績のない一民間企業への,国営ショナリ銀行の一支店による360億タカの不正融資が発覚した。

世銀によるポッダ橋建設融資問題は,2012年に入り,文字通り二転三転した。疑惑の中心には契約調印当時,担当の運輸相であったS. A. ホセインがいる。ホセインは,プロジェクトの監督コンサルタント選定にあたって,カナダの多国籍エンジニアリング・建設会社SNC-Lavalin(の子会社)から賄賂を取り,メインブリッジ建設の参加企業選定過程では親族企業を代理人に指名させるなどの介入を行ったことを世銀は確認している。

しかし,2012年2月,汚職事件の捜査と訴追の権限をもつ政府機関である反汚職委員会(Anti-Corruption Commission:ACC)は,ポッダ橋建設の参加企業選定に関わる入札でのホセインとその親族企業の関与を否定した。政権内部では,ハシナ首相をはじめとして,世銀の「圧力」に屈して政権の恥部をさらすよりも,代替的な融資先を探して計画の実現を目指そうとする強硬派が多数を占めた。世銀との交渉によって解決を図ろうとしたムヒト蔵相らは少数派であった。実際,4月に入ると,ホセインの後任のO.カデル運輸相は,マレーシア事業体との間でBOOT方式によるポッダ橋建設交渉を進展させた。

延長された契約有効期限が迫るなか,6月5日,世銀は副総裁名でバングラデシュ政府に書簡を送り,関係人物の事業からの排除,ACCの機能強化など5条件を提示して対応を迫った。交渉は期限内にまとまらず,29日に世銀は融資契約をいったん取り消した。

7月4日,ハシナ首相は国民議会で世銀の決定を非難し,政府資金や国民の寄付で建設費をまかなうなどと感情的に反発した。閣議も同9日には,当面,世銀に決定の再考を促さないとした。しかし交渉は継続中との立場をとるムヒト蔵相は,いわば水面下で世銀ほか,米,英,印,日の政府関係者に接触し仲介を要請した。これを受けて4億ドルの協調融資を約束している日本のJICAも仲介役として動いた。7月から9月にかけてのこうした裏面での調整を経て,7月23日にホセイン情報・通信技術相が辞任し,ついで9月19日には首相経済顧問M.ラフマンが職務停止処分を受けたことで,9月20日に世銀が融資再開を発表するに至った。これは主としてムヒト蔵相と首相の国際問題顧問G.リズヴィによる努力の成果であったといわれる。だが問題にこれで終止符が打たれたのではなかった。

直後ムヒト蔵相は,ポッダ橋建設の着工を2013年4,5月頃に期待していると述べたが,事態はそれほど順調に進まなかった。世銀からの資料提供を受けながらも,ACCが依然として関係者の排除に消極的な姿勢を示し続けたからである。10月以降,世銀は3人の専門委員チームを派遣してACCによる捜査の進捗に期待した。こうした世銀の働きかけにもかかわらず,ACCは12月9日に提出された最終報告に基づき,ホセイン元運輸相ら3人をのぞく,運輸省の元次官ら7人のみを告発した。こうしたバングラデシュ政府側の動きに世銀は再び態度を硬化させ,契約実施に向けての作業は2012年中停止したままである。着工は当初の予定から2年以上も遅れ,経費は膨らんでいる。政権はむしろ自浄能力の欠如を国際社会にさらした形になった。

縫製工場の火災事故と労働不安

1月24日夕方6時50分,ダカ輸出加工区(アシュリア)に隣接するニシュチントプルで操業するタズリーン・ファッションズ縫製工場の1階倉庫から出火,上層階に広がった火災は労働者112人の命を奪い,100人以上の負傷者を出す大惨事となった。死者は200人以上との説もある。行方不明者も59人いる。全国の縫製工場労働者に与えた衝撃は大きかった。各地の縫製工場でその後,わずかな異常で労働者がパニックを起こす事件が続発した。バングラデシュ縫製品製造輸出業協会(BGMEA)によると,1990年以降,25工場で214件の火災が発生し,388人が犠牲になっている(500人以上とする主張もある)。1回の犠牲者数では最多の惨事が発生したのである。

事件後BGMEAや内務省調査班は,出火は何者かによる「サボタージュ」が原因だとして,工場経営者の責任を不問に付すかの態度に終始した。ハシナ首相の発言も,放火を扇動者の存在と結びつけている。事故後には,全国の縫製工場の防火対策の一斉チェックが業界や消防によって行われているが,これが操業停止勧告のような厳しい措置につながるとする見方は少ない。2001年に高裁が政府に求めた安全確保のための委員会の設置はいまだに実行されておらず,政府の責任も問われている。

縫製品バイヤーや世界的なブランド・メーカーの反応も注目された。タズリーン・ファッションズは香港のバイヤー,Li & Fung社を通じてウォルマート(Walmart Stores Inc)に製品を納入していたが,事故直後,同社はタズリーン・ファッションズとの取引を停止した。バングラデシュから年に10億ドルの縫製品を買い上げているといわれるウォルマート社の倫理基準担当副会長は,事件の4日後に,関係団体に対策案を回付した。しかし注文先に価格を切り詰めさせる一方で,先進国世論を意識した倫理基準をかざすという二重基準を批判する声も労働団体や社会運動団体からはあがっている。火災事故後の関係者の反応からは,責任転嫁の姿勢ばかりが浮かび上がっている。

11月の火災前から,アシュリアを中心とする縫製工場地帯では労働不安が広がっていた。4月初めには,縫製労働者組合の活動家アミヌル・イスラームが拉致後に惨殺死体となって発見された。6月に入ると,アシュリアの縫製工場地帯で賃金引き上げを要求する労働者の示威行動が激化し,警官隊と繰り返し衝突した。経営側も労働不安から6月中旬に5日間の工場閉鎖に訴えた。

賃金要求をはじめとする労働者の不満が高まる背景には,2010年11月に政府の介入によって3年間と定められた最低賃金制度の改定期限が迫ってきたことがあげられている。7月26日に縫製労働者団体の連合は,2010年に定められた最低賃金である3000タカを7000タカに引き上げることを要求した。実際,図1で見たように,2011年末からのたび重なる電力料金引き上げによる物価上昇,あるいは家賃負担の上昇などは,明らかに労働者家計を圧迫している。7月18日には,ウォルマート,GAPなど縫製品買付19社の代表が,初めて労働情勢についてダカで会合をもち,2年ごとの賃金改定の制度化を提案した。同月27日には,D. W. モレナ米大使が,中国からバングラデシュへの発注転換にふれながら,生まれつつある機会を生かすには,アメリカ国内でも批判の強い,組合指導者殺害をはじめとする縫製産業労働者の無権利状態の改善が必要だと述べた(「対外関係」も参照)。そうした矢先の11月の大惨事は,あらためてバングラデシュ政府と縫製産業界に対して,賃金の引き上げ,安全確保に関する真剣な対応を迫っている。

対外関係

バングラデシュへ,アメリカ外交の高まる関心

対米関係の深化は2012年のバングラデシュ外交の最大の特徴であった。アメリカのクリントン国務長官が,5月5,6日の2日間,バングラデシュを訪問した。ブッシュ(息子)政権下2003年6月19日のパウエル国務長官以来9年ぶりの米国務長官の訪問である。北京での第4回「戦略的・経済的対話」出席後にバングラデシュを訪問した長官は,5月6日,コルカタを経てデリーに向かった。国務長官による訪問の意図は,前回同様,その前後にどの国を訪問したかを見ることで明らかになる。単独に訪問が企画されるほど,米外交におけるバングラデシュの優先度は,残念ながら高くないからである。パウエル長官の場合は,カンボジアでのASEAN地域フォーラム(ARF)などに出席した後に訪問し,その後中東ヨルダンに向かっている。当時の「ネオコン」のいう「不安定の弧」を東から西へと渡ったのである。この時のバングラデシュ訪問のテーマは,いうまでもなく9.11,「テロリズム」,そして対イラク攻撃である。長官はバングラデシュを「ムスリム世界における節度ある声」(voice of moderation),「テロリズムとの戦争における確固たるパートナー」と評価した。イラクへの派兵も要請したが,バングラデシュ政府は国連のもとでの派兵という原則に立って,これに応じなかった。

今回のクリントン長官の訪問では,「十字路」(a crossroads)がキーワードであろう。5月6日に行われたテレビ会見で長官は,バングラデシュは「東西アジアの狭間という戦略的位置にあり」,グランド・トランク・ロードやさらに古いシルク・ロードが常にバングラデシュに通じていたことが示すように,歴史上の「十字路」であったと語った。バングラデシュを東アジアとインド以西に広がる地域の接点として位置づけたのである。中国からインドへの途上にダカに寄る事情は,ひとつにはこのように説明された。またダカのアメリカ大使館が発したあるプレスノートは,バングラデシュを「南アジアと東アジアのグローバルなパワーハウスの十字路」と表現した。ここではインドと中国の経済力が交差する地点としてバングラデシュが描かれる。従来からの「節度ある」(穏健な)ムスリム国家,反テロリズムの一貫した同盟者という位置づけに加えて(あるいは,それら以上に),成長する中・印・ASEAN経済の交差点という新たな位置づけが強調されたのである。その意味で,今回の来訪は,アメリカによるアジア経済への関心という,より大きな構図の一部である。5日には,共通の開発目標のうえに,安全保障,国連平和維持,民間交流,貿易関係の拡大などを,いっそう多面的に展開する外務次官級の戦略的対話,すなわち「バングラデシュUSパートナーシップ対話」の開始が宣言された。これに基づき,9月19日と20日の両日,ワシントンで第1回パートナーシップ対話がもたれた。アメリカ側は,安全保障,テロリズム,アミヌル・イスラーム殺害事件(「経済」の項参照)の解明などに関心を示したほか,グラミン銀行への政府介入に対する懸念を表明した(同行への政府による介入については『アジア動向年報 2012』447~449ページ参照)。バングラデシュ側の最大の関心は縫製品輸入の関税撤廃であるが,労働問題も含めた包括的な貿易ルール(貿易投資協力枠組協定:TICFA)の締結をその前提とするアメリカとの溝は埋まらなかった。

2012年には国務長官以外にも,グローバル女性問題移動大使,民間人の安全・民主主義・人権担当国務次官,政治担当国務次官,南・中央アジア担当国務次官補,政治・軍事問題担当国務次官補,海軍省次官ら多数のアメリカ高官が来訪した。このなかで重要なのは,4月19日の両国間初の安全保障対話にアメリカ側代表として来訪したA.J. シャピロ国務次官補(政治・軍事担当)である。国務長官の訪問に先行して行われたこの対話では,テロ対策,災害対策,海上安全保障,国連平和維持活動の4分野について意見が交わされた。アメリカ側は,バングラデシュをベンガル湾の安全保障の鍵となるプレーヤー,地域のテロリズム対策の積極的なパートナーとして称え,両国間の防衛協力は,南アジアでもっとも頑健な協力関係であると述べた。またバングラデシュの軍事力向上への協力も約束された。この関連で,3月14日に国際海洋法裁判所が下した裁定によってバングラデシュとミャンマーの海上の境界が確定したことも重視される。インドとの境界紛争も2014年にはハーグの常設仲裁裁判所での決着が期待されており,一連の海上境界の確定は,海底資源開発の本格化とともに,必然的にバングラデシュ海軍力の強化を要請するだろう。4月の安全保障対話から浮かび上がるのは,中国の南への出口であるベンガル湾(アンダマン海も含めて)におけるアメリカの確実なパートナーという,バングラデシュに対するもうひとつの,中国を意識した位置づけである。シャピロ国務次官補とクリントン国務長官の来訪がワンセットとなって,2012年のアメリカによる対バングラデシュ外交が展開されたのである。

隣接国,準隣接国との関係

こうしたバングラデシュの新たな地政学的な位置づけのうえに立って,アメリカは9月のパートナーシップ対話でも,バングラデシュによるインド,中国,ミャンマーなど近隣諸国との地域的統合への努力を高く評価した。だが,バングラデシュが「十字路」の利点を現実化できるか否かは,インドとミャンマーという隣接国,そして中国という準隣接国との今後の関係いかんにかかっている。

まず,11月のオバマ大統領の訪問もあって注目される,民主化と経済開放の進む隣国ミャンマーとの関係である。AL連合政権は発足以来ミャンマーとの関係を重視してきた。2011年12月にはハシナ首相自らミャンマーを訪れて関係の強化に乗り出した。2012年2月にはミャンマーとの航空便再開に合意し,7月に予定されていたテインセイン大統領の来訪にあたっては,ASEAN・バングラデシュ関係強化の橋頭堡としての両国関係が強調されるはずであった。しかし5月末から6月初めにかけてラカイン(ヤカイン)州で発生したロヒンギャ・ムスリムに対する仏教徒による襲撃事件が,難民のさらなる受け入れを拒否するバングラデシュ政府と,ロヒンギャの市民権を否定するミャンマー政府との対立をふたたび表面化させた(詳細は「日誌」参照)。テインセイン大統領来訪は中止され,両国関係の進展・強化は足踏みした。ロヒンギャ問題のバングラデシュにとっての重要性は,難民受け入れによる経済的・社会的コストもさりながら,ラカイン州がミャンマーへの,したがってASEAN地域,さらにはその延長上に中国への,バングラデシュにとって事実上唯一の回廊であることからも明らかである。

また,やや長期の観点からみれば,開放の速度しだいでは,ミャンマーはバングラデシュの強力な競争相手になる可能性を秘めている。すでに国際的な縫製品バイヤーはミャンマーを新たな加工基地の候補のひとつに挙げている。インドはトランジット(貨物の国内通過)便宜供与に消極的なバングラデシュを迂回して,ミャンマーのシットウェ(Sittwe)港からカラダン渓谷経由ミゾラムへと,東北インドにアクセスすることもできる。ミャンマーのチャウピュー(Kyaukpyu)に建設中の深水港はコックス・バジャール沖のショナディア島に計画される深水港の手ごわい競争相手である。そして中国は周到にいずれの計画にも深く関与している。

インドとの関係では,2012年は,2010~11年の両国首脳による相互訪問が設定した枠組みに沿って(詳細は『アジア動向年報 2012』452~455ページ),個別の事業が推進された年であった。たとえば,バゲルハット火力発電所へのインドの協力(1月29日合意),鉄道を主とするインフラに対する10億ドル融資計画などである。5月7日には,ニューデリーで2011年9月の「協力枠組協定」に基づく初の合同協議委員会が開催されたが,バングラデシュが期待したティスタ川水利用などについて進展はみられなかった。

こうしたなかで注目されたのは,従来インドには批判的とみられたエルシャドJP総裁とジアBNP総裁による,8月から10月にかけての相次ぐ訪印である。ジア総裁は訪印直前には中国を訪問し,習近平副主席とも会談している。両者とも2011年9月のシン首相来訪時に招待の意が伝えられた。インド側も両国間関係の長期的安定には,両党との関係確立が不可欠と考えたのである。ジア総裁はシン首相との会談では,バングラデシュ国内でのインドに対するテロ活動を許さないと発言した。またS. クルシド外相との会談に際しては,インドへのトランジット供与に前向きであったと伝えられる。だが,BNP内部からはインドへの接近を批判する声もあがった。バングラデシュ駐在経験のあるインドの元外交官らは,言葉よりも行動を注意深く見守る必要があるとしている。対印姿勢の転換にはBNPの「友党」であるJIらイスラーム政党の出方も重要な要因だからである。

2013年の課題

2013年の最大の課題は,2014年初めまでには実施が予定される次期国会選挙に向けた環境づくりである。選挙を管理する内閣の形態をめぐる与野党の対立が早期に決着するとは思われない。そして判決の段階に移りつつある戦犯裁判の被告人釈放を求めるJIの妨害活動はますます先鋭化するだろう。JIがかつてその傘下から多数のテロ活動家を生み出した団体であることは忘れられない。混乱を意図的に引き起こそうとするJIの行動に,BNPはどこまで同調するであろうか。

選挙実施条件をめぐる与野党間の抜き差しならない対立の帰結としては,過去に2つの例がある。ひとつは1996年で,与党BNPが一方的に実施した選挙を実力で無効化したALがCTG制度を勝ち取った。もうひとつの前例は,2006~2008年で,CTGの後ろ盾となった軍が実質的に選挙管理のための秩序維持者の役割を果たした。今回このいずれの前例も踏襲できないとすれば,残るは2大政党間の何らかの妥協以外にない。バングラデシュ世論の多くが,2013年にその展望が開けることを期待していることは間違いない。

(南アジア研究者)

重要日誌 バングラデシュ 2012年
  1月
4日 日本・バングラデシュ(以下「バ」)国交樹立40周年記念行事始まる(~3月)。
5日 クミッラ市議会,市長選挙。初めて電子投票機を全面使用。BNP系候補がAL候補を破り市長に当選。
8日 BNP,チタゴンで非政党選挙管理内閣制度(CTG)の復活を求めて「ロードマーチ」。
11日 BNPジア総裁ら,Z.ラフマン大統領にCTGの復活を申し入れ。
11日 ジャマアテ・イスラーミー(JI)前最高指導者(Amir)グラム・アザム,独立時の戦争犯罪でダカ中央刑務所に収監。
11日 ハシナ首相,インド・トリプラ州を訪問(~12日)。
19日 陸軍人事局長M.M.ラザク准将が陸軍将校クラブで記者会見。陸軍内部のクーデタ計画を未然に摘発し,調査を継続中と発表。非合法組織Hizb ut-Tahrirの関与も示唆。
22日 政府は選挙委員を推薦する人選委員会委員を任命。
26日 バングラデシュ銀行,2011/12年度後半(1~6月)の金融政策発表。インフレ抑制,対外バランス回復,6.5~7%成長達成など。
26日 世銀,ポッダ橋計画への融資実行有効期限をさらに6カ月延長。
30日 BNP,ダカでCTG復活を要求する大行進を組織。
  2月
2日 反汚職委員会(ACC),ポッダ橋の建設業者入札でのS.A.ホセイン情報相(当時運輸相)とその親族企業の関与を否定。
7日 グラミンホン,2011年に純利益対前年度比76.38%増と発表。契約者3650万人。市場シェア43%。
9日 ラフマン大統領,選管委員長にK.R.アフマドを任命。他に委員4人も任命。
14日 ロバート・ブレイク米国務次官補(南・中央アジア担当)来訪(~16日)。
16日 アル・ジャジーラTV,グラム・アザムの死刑判決はバングラデシュの政治的不安定につながると報道。
  3月
11日 BNPのダカ行進に備え,全国でBNP活動家の逮捕続く。与党14党連合,戦争犯罪裁判の迅速化を掲げダカで「人間の鎖」。
12日 BNP,ダカ・ノヤパルトンの党本部前で全国動員による大集会を開催。
12日 メグナ川でシャリヤトプル=ダカ便の連絡船転覆。死者147人以上。
14日 与党14党連合,BNPのダカ集会に対抗し,ダカの中央モスク前で集会。ハシナ首相,戦争犯罪裁判の貫徹を強調。
14日 国際海洋法裁判所,ミャンマーとの海上境界についてバの主張を支持する裁定。
18日 BNPら野党,90日開会日の継続欠席で議員資格喪失を招かぬために国民議会に出席。3月21日から再度欠席。
18日 2004年8月21日のAL集会でハシナ党首らの殺害を計画したとして,タリク・ラフマンら30人が新たに起訴される。
20日 ハシナ首相,新任中国大使に「昆明イニシアティブ」推進で協力を訴え。
22日 戦犯裁判第2法廷の設置。
  4月
5日 アシュリアの縫製労働者組合活動家アミヌル・イスラームの虐殺死体発見。
8日 バングラデシュ銀行,民間銀行6行の新設認可。幹部にエルシャドJP総裁,M.K.アラムギールAL国会議員ら与党関係者多数。
9日 鉄道相S.セングプタの秘書が700万タカの現金とともにバ国境警備隊本部に出頭。現金は鉄道省の新規採用者からの賄賂。
9日 バングラデシュ開発研究所(BIDS),2011年センサス結果の精査によりセンサス時の総人口を1億4800万人と修正(統計局の暫定値は1億4230万人)。
10日 O.カデル運輸相,ポッダ橋建設協力にマレーシアと覚書交換。
10日 ユヌス前グラミン銀行専務理事,チタゴンの講演で,バは中印の巨大経済の架け橋であり,その機会を利用すべきと訴え。
11日 ハシナ首相トルコ訪問(~13日)。財界から56名随行。投資保護など7件の協定等を交換。イスタンブールに総領事館開設。
11日 IMF,3年間10億㌦の融資(ECF)を決定。政府は石油,肥料補助金削減などを約束。
16日 セングプタ鉄道相辞任。17日無任所相に任命。
18日 ジアBNP総裁,CTG復活を目標に4党連合を拡大した18党連合結成発表。
19日 バ米安全保障初対話。国防,テロ対策など協議。米代表はA.シャピロ国務次官補。
22日 BNP,17日に組織担当書記M.イリヤス・アリが治安機関によって拉致されたと主張,18党連合は3日連続12時間ハルタル。
23日 ALのソヘル・タージ(タジュッディン・アフマドの子息)国民議会議員を辞職。
29日 BNPら18党連合,2日間連続12時間ハルタル(~30日)。
  5月
3日 岡田克也副総理来訪(~4日)。
5日 クリントン米国務長官来訪(~6日,訪印へ)。外務次官級「パートナーシップ対話」による戦略的協力を宣言。
5日 ムカルジー印蔵相来訪(~6日)。両国関係全般を協議。
7日 第1回バ印合同協議委員会,ニューデリーで開催。ティスタ川水利用などを協議。
13日 戦争犯罪裁判第1法廷でJIの前最高指導者グラム・アザムの正式起訴。
16日 首都治安判事,ハルタル時の放火などへの関与で起訴されたBNP幹部ら33人による保釈請求却下。18党連合,直後からハルタル。17日も12時間ハルタル。
16日 政府,グラミン銀行と関連企業の活動に関する4人からなる調査委員会を組織。
20日 カデル運輸相,世銀の代替資金が得られない場合自力でポッダ橋を建設と発言。
22日 バ統計局,本年度の経済成長率を6.32%と発表(前年度は6.71%)。
28日 戦争犯罪裁判第1および第2法廷で,それぞれM.R.ニザーミー(現JI最高指導者),A.Q.モッラー(現JI書記長補佐)を正式起訴。
  6月
3日 ミャンマーでロヒンギャ(ムスリム)と仏教徒の暴動発生。10日,暴動深刻化により,同国ラカイン州に非常事態。
7日 ムヒト蔵相,2012/13年度予算案を国民議会に提出。28日に可決。
11日 BNPのダカ集会,CTGの復活を求めてラマダーン明けにハルタルを含む実力行動を示唆。
11日 ハシナ首相,AL議員総会で,次回選挙は解散前90日以内に(現政権下で)行われることを強調。
11日 BNPの元議員アブドゥル・アリムに対する戦争犯罪法廷の正式起訴。
11日 ロヒンギャ500人の流入を国境警備隊が阻止。引き続き難民受け入れに厳しい姿勢。
12日 アシュリアの縫製工場地帯で労働者の示威行動激化,警官隊と衝突(~14日)。
16日 アシュリアで再び労働者と警官隊の衝突。経営側も300工場を無期限閉鎖。
16日 ミャンマー政府系紙,ラカイン州暴動で死者50人,負傷者54人と発表。
21日 戦争犯罪第2法廷でA.A.M.ムジャヒードを正式起訴。
21日 アシュリアの縫製工場操業再開。
25日 陸軍参謀総長I.K.ブイヤン就任。
25日 ポッダ橋融資実施条件をめぐる世銀交渉団来訪(~26日)。政府は一部条件を拒否。
28日 マレーシア,BOOT方式による30億㌦のポッダ橋建設計画案を提出。
29日 世銀,ポッダ橋融資案の取り消し。
  7月
1日 ムヒト蔵相,記者会見で,世銀に決定の再考を要請,交渉は継続中と言明。
2日 キム世銀新総裁,ポッダ橋融資取り消し決定を擁護。
4日 ハシナ首相,国民議会で世銀の決定を非難,自費で建設を行うと発言。
12日 テインセイン・ミャンマー大統領,国連難民高等弁務官に対してロヒンギャの市民権を否定。
18日 Walmart,GAPなど縫製品買付19社代表,ダカで労働情勢について初会合。
23日 ポッダ橋汚職疑惑の元運輸相,現情報・通信技術相S.A.ホセイン辞職。
25日 ロンドン五輪に際しハシナ首相訪英(~29日)。小規模の暫定内閣案に言及。
25日 政府,世銀に融資再開要請の書簡。
26日 バ国境警備隊,6月11日以降,ロヒンギャ難民1200人の流入を阻止。
28日 国連難民高等弁務官事務所,ラカイン暴動による被災者を8万人と報告。
  8月
2日 BNP,ハシナ首相の暫定内閣案に反対を表明し,CTG復活を要求。
2日 閣議はグラミン銀行専務理事を理事会でなく会長が任命する法令改正を承認(23日に大統領令として官報に告示)。
9日 ロシア,ルーポプル原子力発電所建設費用の85%に対する借款供与に原則合意。
10日 エルシャドJP総裁訪印(~16日)。
12日 ハシナ首相,英国際開発問題相にロヒンギャ問題解決への国際的圧力を要請。
16日 ラフマン大統領,イスラーム諸国会議機構の特別首脳会議に出席し,ロヒンギャ問題でミャンマー説得を要請。
19日 ラマダーン月明けのイード(大祭)。
30日 ハシナ首相,非同盟諸国会議第16回首脳会議(テヘラン)で演説。
30日 エルシャドJP総裁,次期総選挙ではALとの連合を解消すると発言。
  9月
11日 内閣委員会,石油と天然ガスに関する新たな生産分与契約を決定。沖合資源の輸出は禁止。
12日 マレーシア政府と労働者受け入れに関する政府間協定を締結。
13日 M.Kアラムギール,H.ハサヌル・ハック・イヌ(民族社会主義党)ら5人が新たに閣内相に,ほか2人が閣外相に就任。閣内相の打診を受けたALの長老幹部トファエル・アフマドと労働者党議長のR.K.メノンは拒絶。閣僚担当部局の一部変更。
16日 最高裁,CTGを違憲とした2011年5月の判決全文を公表。
19日 ハシナ首相,次回総選挙は国民議会の解散後に実施と,従来の立場を変更。
19日 第1回バ米パートナーシップ対話,ワシントンで開催(~20日)。
19日 ポッダ橋世銀融資への条件を満たすため,政府は首相経済顧問M.ラフマンの職務剥奪。
20日 世銀,ポッダ橋融資の再開を発表。
24日 イスラーム政党12党による12時間ハルタル。全体に平穏に終始。
28日 ハシナ首相,第67回国連総会で国連,世銀,IMFの改革を訴える。
30日 コックス・バジャルのラーム郡で,前日夜から早朝にかけて,50軒の仏教徒住宅,12箇所の寺院が群衆によって襲撃される。ロヒンギャ組織の関与も疑われる。
30日 ガジプル-4国民議会選挙区の補欠選挙で,AL候補当選。投票率43%。
  10月
14日 ジアBNP総裁,訪中(~20日)。
14日 世銀,ACCによるポッダ橋汚職捜査の協力に3人の専門委員派遣 (~16日)。
17日 バングラデシュ出身の留学生Q.M.R.A.ナフィス(21),ニューヨークの連邦準備銀行爆破計画の疑いで逮捕。
18日 ジアBNP総裁,習近平副主席と会談。習副主席,チタゴン昆明鉄道推進を言明。
21日 中国共産党代表団,ALの招待で来訪。経済,電力,金融協力の3文書署名。
24日 ミャンマー・ラカイン州で再び暴動。
28日 ジアBNP総裁訪印(~11月3日)。
28日 国連筋はラカイン州での新たな暴動の被災者を2万6500人と発表。AP通信は6月以降の死者を200人以上と報道。
29日 ジアBNP総裁,シン印首相と会談。バ国内での印へのテロ活動を許さずと発言。
30日 ジアBNP総裁,S.クルシド印外相と会談。トランジット供与に前向きな発言。
  11月
2日 ハシナ首相ベトナム訪問(~4日)。漁業, 畜産, 農業など4文書を交換。
4日 ハシナ首相,ラオス訪問(~7日)。
5日 JIとその学生組織(イスラーミー学生戦線,ICS),戦争犯罪裁判被告全員の釈放を求めるデモで,各地で警官と衝突(~6日)。5日から9日間の示威行動を予定。
5日 バ,ASEMに加盟,ハシナ首相,ビエンチャンで第9回ASEM首脳会合に参加。
7日 ハシナ首相,ラオスとの包括的な協力協定締結。
11日 M.ミャスニコヴィッチ・ベラルーシ首相来訪(~13日)。
11日 香港の縫製品買付業者団体代表団来訪(~14日)。中国の代替供給源としてバに注目。
12日 ハシナ首相,パキスタンでの第8回D-8首脳会議(11月22~23日)に不参加。G.リズヴィ国際問題首相顧問が代理出席。
13日 JIとICS,戦争犯罪裁判被告釈放を要求し,ダカ市内で再び警官を襲撃。
15日 モルディヴ航空,ダカ=チェンナイ=マレ便を開設。
18日 タンガイル-3国民議会選挙区で補欠選挙。ALの公認候補,非公認候補に5万票の大差で敗れる。投票率56.8%。
19日 オバマ米大統領,ミャンマー訪問。ラカイン問題に触れ,国民的和解を呼びかけ。
24日 ニシュチントプルのタズリーン・ファッションズ縫製工場から出火,112人焼死。
26日 スタンダード銀行会長のK.A.アフマド,バ商工会議所連合会長に選任。
28日 野党18党連合,6月11日以来のBNP本部前集会。
  12月
4日 JI,戦争犯罪裁判被告の釈放を求め12時間ハルタル。各地で警官隊と衝突。BNPは「道義的支持」。
9日 BNPら18党連合,ダカなどで道路封鎖。ALら14党連合の支持者と衝突。
9日 ACC,ポッダ橋汚職事件最終報告を提出,ホセイン前運輸相には金銭授受などの確証を得られずと結論。
11日 18党連合による1日ハルタル。M. F. I.アラムギール・BNP書記長代行,9日の道路封鎖での放火,爆発事件に関連して逮捕。
13日 BNPら18党連合,朝6時から8時間ハルタル。
13日 ダカ高裁,ラーム郡仏教徒襲撃事件の司法調査を内務,法務両省に命令。
17日 ACC,元運輸省橋梁局長ら7人を告発。18日,ACCは捜査班を設置。
21日 インラック・シナワトラ・タイ首相来訪(~22日)。
26日 ACC,元運輸省橋梁局長とバ橋梁公団主任技師を逮捕。
29日 ALの第19回全国評議会(前回は09年7月),ハシナとサイイド・アシュラフ・イスラームをそれぞれ総裁と書記長に再選。

参考資料 バングラデシュ 2012年
①  国家機構図(2012年12月末現在)
②  行政単位
③  要人名簿

主要統計 バングラデシュ 2012年
1  基礎統計
2  産業別国内総生産(1995/96年度価格)
3  主要輸出品
4  国際収支
5  政府財政
 
© 2013 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
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