アジア動向年報
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各国・地域の動向
2012年のネパール 憲法制定議会の解散で遠のく新憲法
水野 正己
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2013 年 2013 巻 p. 497-522

詳細

2012年のネパール 憲法制定議会の解散で遠のく新憲法

概況

2008年4月10日の選挙によって発足した憲法制定議会(憲制議)は,当初の設置期間2年と合計4回24カ月に及ぶ延長期間を加えた4年の設置期間が2012年5月27日に終了し,翌28日からは期限内に制定される新憲法に基づく立法府に権限を引き継ぐものとされていた。そこで,主な与野党が2011年11月1日に署名した「7項目合意」を基本に最後の交渉が積み重ねられてきた。その結果,新憲法制定の前提である和平工程は進展し,統一ネパール共産党毛沢東主義派(UCPN-M)の人民解放軍(PLA)とネパール国軍の統合手続きが開始された。しかし,連邦制度については与野党の対立が最後まで解消されず,新憲法の制定に至らなかったため,2012年5月27日の深夜に憲制議の期限切れ解散という想定外の事態に陥った。その後,政党勢力の分裂と再編を経て,新規の憲制議選挙か,解散した憲制議の復活か,国家非常事態の下での大統領による首班指名かを巡る与野党の攻防が続いた。このため,当初目論まれていた11月22日の選挙は2013年4~5月まで延期された。その後も選挙実施のための挙国一致内閣の主導権争いが続き,選挙の実施それ自体が確定しないまま年が暮れた。

2011/12年度の国内総生産は,農業部門が4.9%の成長を記録し,全体では4.6%のプラス成長となった。「2012~2013ネパール投資年」と「2012ルンビニ訪問年」の取り組みは政情不安による負の影響を余儀なくされた。海外出稼ぎが増加し,経済社会にもたらすさまざまな影響が指摘されるようになった。

対外関係では,バッタライ政権がインドと中国の2大国間の交流の架け橋としてネパールを積極的に位置づける立場を明確に打ち出した。UCPN-Mが強く要求してきたアメリカによるUCPN-Mのテロリスト指定解除が9年の歳月を経て実現した。また,ネパールで歴代最大規模の水力発電プロジェクトを含め,海外援助による大型インフラ建設事業の推進が目を引いた。

国内政治

和平工程の進捗状況

和平工程の中心課題であるPLAと国軍の統合問題は,「軍統合特別委員会」(AISC,委員長はバッタライ首相)が実施責任を負っていた。しかし,統合に関する重要事項はすべてUCPN-Mとネパール国民会議派(NC),ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(CPN-UML),統一民主マデシ戦線(UDMF)の主要4党の最高首脳による交渉に基づいて決定されるため,その進捗は遅々としていた。

2011年11月の希望調査の結果に基づいて,2月3日から退職希望者をPLAの兵站基地から退去(その後は帰郷)させる作業が開始された。退職者に支払われる一時金は1人当たり50~80万ルピー(2回分割払い)で,1回目の小切手による支払い作業は2月11日までに完了した。AISCは2月29日にPLAの13兵站基地の撤収を決定した。3月12日までに撤収作業は完了し,13兵站基地から退去したPLA兵は他の15兵站基地に移動した。

この時点のPLA兵の合計は9711人で,そのうち9705人が国軍統合希望であり,UCPN-Mは6500人の枠に対して9705人全員の統合を要求していた。統合については,人数,手続き,国軍における格付け(UCPN-Mは少将までを要求し,野党は少佐以下を提示)と,階級ごとのポストの数,統合の形式(集団一括か,個人別か)など,多くの事項を詰める必要があった。

2月12日にグルン参謀長がバッタライ首相に対して行った統合に関する国軍提案の内容は,次のとおりである。統合兵の訓練期間は通常採用期間9~20カ月を5~7カ月に短縮し,かつPLA兵には准将の階級まで認めるものであった。しかし,後者について野党は譲歩しすぎであると反発を強めた。

1~2月にかけて,和平工程の進捗に水を差す議論が生じた。UCPN-Mが人民戦争期(1996~2006年)に「人民政府」の名において土地やその他の財産を接収した行為を合法化するための立法措置を,バッタライ首相が1月12日に閣議決定したためである。野党のNCとCPN-UMLは,暫定憲法および包括的和平協定(2006年)に反するものとして,この閣議決定の撤回を要求し,憲制議の審議をボイコットし続けた。事態は膠着状態のまま2月に入り,主要3党(UCPN-M,NC,CPN-UML)の党首会談の結果,バッタライ首相が閣議決定を撤回し,土地などの接収行為の合法化法は履行しないことで決着した。

その後,3月30日,UCPN-MとNCとの協議に基づき,AISCはPLA兵站基地を国軍の管理下におくことと,PLA兵の再意向調査を行うことを決定した。4月5日,AISCが準備した行動計画が閣議承認され,PLA兵,武器,15兵站基地(指揮命令系統も含め)を国軍(一部の兵站基地は武装警察)管理下におく手続きが進められ,4月11日までに完了した。9705人の国軍統合希望者に対する再意向調査は4月8~19日に実施された。その結果,UCPN-Mが退職を勧めたこともあり,退職希望者は6576人となり,統合希望者は3129人まで減少した。

4月27日,UCPN-Mは退職した元PLA兵を糾合して「ネパール退役PLA兵協会」を設立した。PLA兵で党の指示により党青年組織の青年共産主義者連盟(YCL)に移籍した者が3500人以上に達しており,そうした移籍者の士気高揚のほか,党大会の準備,次期選挙対策などが狙いといわれている。

和平工程の進捗とともに,PLA無資格者問題が浮上した。国連ネパールミッション(UNMIN)が2010年1月に行った資格検査で年齢基準を満たしていないため兵站基地から退去させられたPLA兵が,和平工程の恩恵から取り残されている窮状を訴え,自主退職兵に準じた処遇を政府に要求して3月4日に全国各地でストライキを行った。4月19日には,元無資格PLA兵がUCPN-Mの本部に押しかけ,自主退職兵と同等の処遇(一時金支払)を求めた。その後,政府はこの要求に対して1人当たり20万ルピーを支払うことにしたが,CPN-UMLはこの決定に対してUCPN-Mによる国庫の私物化として非難,政府の決定は違法かつ暫定憲法に違反するとして提訴し,最高裁判所は11月4日に政府に対してこの支払いを差し止める仮決定を下した。

憲法草案の策定状況

憲法草案の策定は,憲制議やその下に設置された多くの委員会の任務であるはずだが,憲法委員会が設置した下部組織で重要争点の解消を目的とした作業部会は2月20日,争点解消の責任を政党首脳に一任する決定をした。この結果,憲法論議は最終段階になって主要政党の首脳同士の交渉に委ねられることになった。

憲法草案で政党間の隔たりが大きい問題(連邦制度,統治制度,選挙制度,裁判制度など)はなお多かった。そのなかで,もっとも解決が困難な問題は連邦制度に関するもので,具体的には州の編成,名称,境界設定,州政府の権限などであった。とくに,居住民族グループを基礎に州を編成する民族主義連邦制と,居住民族のほかに(もしくは,居住民族以外の)地理的,経済的条件を基礎に編成する複数アイデンティティ連邦制との間で,民族グループ,カースト集団,地域集団,政党がそれぞれの要求を強硬に主張し続けた。

1月31日,国家再編コミッション(SRコミッション,憲制議内に設置された分野別委員会のひとつの国家再編委員会[SRコミッティ]とは別組織)は,首相に報告書を提出した。これは,SRコミッション(委員9人)の多数意見(UCPN-MとUDMFの6委員)を反映した11州案の第1報告と,6州案の少数意見(NCとCPN-UMLの3委員)を盛り込んだ第2報告からなるもので,UCPN-Mは2月4日この11州案に賛意を表明した。

しかし,2011年にSRコミッティが提示した14州案では独立した州の扱いをされていたにもかかわらず,今回の11州案では独立した州の区割りから外れた東部地方のシェルパの人々は,報告書の提出阻止行動に打って出た。また,東部出身の憲制議議員はSRコミッション報告の東部4州分割案に反対して,東部開発地区を単一の東部州として編成するよう要求した。

3月25日,憲制議はSRコミッション報告書の審議に入った。憲制議での総括討論を経て,4月7日からは憲法委員会における審議が開始された。議論は各党派の意見の隔たりが大きく,平行線のまま歩み寄りはみられなかった。

しかしながら,4月11日までにPLA兵と兵站基地と武器の国軍管理移管が完了したことを背景に,憲法草案の重要論点に関する政党間の協議が本格化し,4月20日以降は,連日のごとく主要政党の間で政治交渉が行われた。NCは憲法制定時にはNCが率いる挙国一致政権を樹立すべきと主張したが,UCPN-MとUDMFは連立与党体制の堅持を確認してこれに対抗した。交渉の結果,選挙制度や統治制度では合意に到達したものの,連邦制度についてはなお溝が埋まらず,ここでも各党は最高首脳に一任して最後の交渉に当たることになった。UCPN-Mは最大限譲歩しても10州案までと主張し,NCは7州案でこれに応酬した。

こうした政党間の交渉に対して,民族自治州の設置を要求するシェルパ族をはじめとする人々は,州の数が少なくなることを不利益とみて街頭座り込み運動を始めた。また,極西部の単一州化を要求する人々は長期の交通ゼネストを断行し,これに対して主要3党は住民投票を約束して事態の収拾にあたった。

憲法制定議会の解散

5月3日,主要4党は27日の期限を前にして,以下の5項目の合意に到達した。(1)2日以内にバッタライ首相の下で挙国一致内閣発足とバッタライ連立内閣の全閣僚の辞表提出,(2)新憲法の期限内制定,(3)NC主導の挙国一致内閣の下での新憲法制定,(4)新政権の下での1年以内の総選挙,(5)3日以内に合意による憲法争点解消不能の場合は憲制議での投票により決定する,という内容である。さらに,主要4党は和平工程の遂行と憲法草案完成に向けた会合の定期開催および協議促進を約束した。

5月9日,主要政党は憲法草案のうち,まだ合意に達していなかった条項について憲制議の評決によって決定することにした。しかしながら,憲法委員会およびその下に設置された作業部会は117項目に及ぶ対立事項を評決にかける議案の作成に手間取り,結局,憲法委員会の開催は無期限延期となった。

5月15日になって主要3党とUDMFは,11州案を基本とする次の合意にたどり着いた。すなわち,(1)連邦は11州制で複数アイデンティティによるものとし,州の名称は後日決定する。(2)直接選挙で選ばれる大統領と議会が選出する首相の混合制とし,首相が閣議を主宰する。(3)代議制議会(下院)は小選挙区議席171と比例代表区議席140の合計311議席とし,国民総会(上院)は11州から5議席ずつの推薦議席と内閣推薦により大統領が指名する10議席の合計65議席とする。地方政府の法制化を図る。(4)最高裁判所長官の下に司法協議会を設置するとともに憲法裁判所を置く。(5)極西部の州編成は,世論調査結果および必要に応じて住民投票により決定する。

与党のUDMF(ただし11州案には反対),広マデシ(インド国境の亜熱帯低平地に居住するインド系ネパール人)戦線(BMF),ネパール先住民連合(NEFIN),および統一ネワ国民解放戦線はいずれも11州案を拒否し,主要3党合意に反対を表明した。5月20~22日,NEFINを含む先住民共闘委員会は主要3党合意に反対して交通ゼネストを行い,22日に政府と民族主義連邦制を含む9項目合意書に署名し,抗議運動を中止した。

5月26日は終日,UCPN-M,NC,UDMFの3者協議(CPN-UMLは出席を見送った)が行われたが,みるべき結論に達しなかった。CPN-UMLは,5月27日中に争点(州の数と名称と境界線)を棚上げした仮憲法を制定し,そのうえで憲制議から立法府に変わった転換議会で棚上げした争点の解消を図る案を主張した。しかし,CPN-UMLのこの案は,憲制議で多数の賛成を得ることができずに終わった。

5月27日午前9時40分に首相府で協議が開始され,NCはこの場で新しく複数アイデンティティ制による13州案を持ち出して譲歩をみせ,UCPN-M側を仰天させた。UCPN-MとCPN-UMLは賛意をもって受け止めたが,UDMFはこのNC新提案を拒否した。4党は10~11州案を軸に協議を継続したが,UDMFはマデシ地域を3つ以上に分割する案に強硬に反対した。午後には,民族主義連邦制を主張してきた先住民系有力議員たちが,複数アイデンティティ制について合意したため(州の数と境界線を除く),事態は大きく前進するかにみえた。しかしながら,マデシ系議員およびウペンドラ・ヤダヴBMF代表は,憲法制定において重要争点の棚上げは許されず,またマデシ地域を多数に分割する案にも反対の立場を貫いた。かくして,主要政党は連邦制度について最終的に合意に達することができなかった。

UPCN-Mのダハール議長は,最善を尽くしたが憲制議の解散を回避できなかったと述べた。バッタライ首相は深夜の閣議の結果を大統領に報告し,午後11時45分に国民に向けた演説で憲制議の解散と11月22日の憲制議再選挙を伝えた。CPN-UML閣僚はこの閣議を退席し閣僚を辞任した。NCと国民民主党の閣僚も閣議決定に反対して退席し,後に辞任した。

政党の分裂と再編

憲制議解散の以前から主要政党では有力派閥間でさまざまな抗争が繰り広げられてきた。このうち,UCPN-Mは,強硬派のバイディア派が6月18日に分離独立し,ネパール共産党毛沢東主義派(CPN-M)を立ち上げた。そして,8月10日に小規模6党とともに連合連邦戦線(FRF)を結成し,自らを第三極としてUCPN-M,NC,CPN-UMLのどの勢力とも対抗する姿勢を鮮明にした。一方,UCPN-Mの主流派は,8月15日に21党で構成する連邦民主共和同盟(FDRA)を結成した。この代表にはダハールUCPN-M議長が就任し,選挙を基本にしつつ,憲制議の短期間復活(その間に憲法制定)にも対応していくと表明した。

NCとCPN-UMLはともに,少数民族系党員を抱えており,彼らと執行部との対立が表面化していた。NCでは10月3日,先住民系党員36人が離党した。NCが連邦制を真摯に取り上げていないことがその理由であった。CPN-UMLは6月3日,高級レベル委員会を設置し,先住民系およびマデシ系党員の不満分子への対応を検討することになった。しかし,先住民系党員のリーダーは,党執行部に要望書を提出し,憲法草案の争点を解消して憲制議を短期間復活させ,憲法を制定することを訴えた。7月19日,CPN-UMLの常任委員会は,先住民族系党員を党議違反として党副議長を含む役職を見せしめのため罷免した。8月29日,CPN-UML執行部は先住民系党員と,党に残るか離党するかの最後の協議を行うことになった。この後,10月4日に先住民系およびマデシ系党員550人が集団で離党し,進歩的政治理念に基づく政治勢力の結成を目指すとした。離党者の代表は,党員のアイデンティティや帰属コミュニティを顧みない党に未練はないと断言した。

マデシ勢力の分裂と再編も相次いだ。6月10日,ガッチャダール副首相が率いるマデシ人権フォーラム(民主)(MJF-D)は,党運営に不満の元憲制議議員10人が離党し,分裂の危機を迎えた。7月6日,タライマデシ民主党は,UDMFの会合においてマデシの人々を代表する単一政党の設立を提案すると発表した。8月9日になると,先住民活動家が国際先住民デーにちなんで社会民主複数国民党を結成した。10月1日,マデシ系と先住民系の7政党が連邦民主戦線(ネパール)(FDF-N)を結成した。BMFは,次期選挙でマデシ勢力の一致団結を訴える一方,反マデシ的行動をとったヤダヴBMF代表兼マデシ人権フォーラム(ネパール)(MJF-N)委員長およびシンMJF-D指導者に対する懲罰動議を発した。

先住民系の政党は,先住民共闘委員会に結集する指導者が協議し,先住民,マデシ,ムスリム,その他の少数民族グループの人々を対象にした広範な連合体を組織し,選挙体制を組むとした。11月22日,先住民系の元CPN-UML党員らが連邦社会主義者党を結成し,さらに12月30日,先住民系の元NC党員は,少数民族グループやCPN-UML離党者との連携強化のため社会民主党(委員長はライ元CPN-UML副委員長)を結成した。

憲制議解散後の政治論争

第1は,選挙を巡ってである。5月28日,ヤダヴ大統領は,バッタライ首相が公表した11月22日選挙について,政党間で選挙を巡る意見の対立があり,また法的正当性や根拠も不確かなため,態度を保留した。UCPN-Mは,憲制議の解散と選挙はやむをえない唯一の選択とし,次回の選挙で3分の2以上の議席を獲得するべく,選挙体制への取り組みを強化した。7月25日,連立与党は選挙の投票日を11月22日と正式に決定し,選挙管理委員会(選管)は選挙実施に向けた事務作業を開始した。7月27日,政府は選挙法改正行政令を閣議決定し,大統領府に承認のため送付した。しかし,選挙実施に関連した暫定憲法の規定および選挙法改正の遅れと,野党勢力の選挙ボイコットなど政党の合意が得られていないことから,7月30日に選管は11月22日の投票は制度的に困難であると表明した。大統領は実施不可能な選挙のための関連法規の改正は根拠がないとし,8月17日に関連行政令の承認を拒否した。延期が不可避的となった11月22日の選挙に代わる新たな日程として,10月初旬に与党閣僚から2013年4~5月との見通しが非公式に公表された。

バッタライ首相は8月28日,国民に対して就任1周年のテレビ演説を行い,主要成果として,PLAと国軍の統合問題,政党間の合意を前提にした政権交代,国際収支の黒字を強調した。また,憲制議解散は連邦制に関する意見の対立が原因と釈明した。

選挙に対する野党側の対応として,NCは選挙体制の強化のため運動員を農村に向かわせ選挙体制の確立に努力するよう下部組織に指示を出した。CPN-UMLは,首相の辞任と挙国一致内閣の樹立を強調したが,後に常任委員会決定として正式に選挙を受け入れた。8月29日,主要3党は3日間の集中協議を行い,選挙か憲制議復活かを決定することになった。9月4日にFDRAが呼びかけた全党交流会に,NCとCPN-UML,CPN-Mは欠席した。しかし,9月19日に主要4党は憲制議選挙に合意した。そして,9月24日,NC,CPN-UML,CPN-M,MJF-Nを含む野党16党がバッタライ暫定政権を打倒し,挙国一致内閣樹立を求めて抗議行動を開始した。10月2日,解散した憲制議の全政党による会合が解散後初めて開催され,32政党から代表が参加した。挙国一致政府の樹立による選挙の実施が多数意見を占めたが,具体的な結論には達しなかった。

強行路線を継続して別行動をとっていたCPN-Mは,9月に入って政権打倒行動を活発化させ,9月10日には政府に70項目要求書を提出した。26日からは,インド登録車両のネパール国内通行止め(インド帰国車は除外),低俗インド映画の上映禁止を訴えて街頭行動を展開した。

第2は,2012/13年度予算案を巡ってである。政府は暫定憲法の規定に基づいて行政命令によって予算案を公布することにした。野党は,暫定内閣に予算提案権はないと主張して,ヤダヴ大統領に対して予算案の承認拒否を要求した。政府は当初,11月12日に予算行政令として予算案を大統領府に送付したが,大統領は承認の前提として政党間の合意の取り付けを求めた。そこで,政府は野党に働きかけたが徒労に帰した。政府与党側には選挙前に大衆受けする政策を実施しておきたい思惑があり,野党側には予算案の不承認による経済混乱によって政権を窮地に追い込む狙いがあったため,大統領は与野党いずれにも与しない立場から承認手続きを棚上げしていた。しかし,法律顧問と慎重に協議した結果,予算案は別扱いとの立場に転換し,11月20日に大統領は憲制議選挙規定改正令と共に予算行政令に承認を与えた。

第3に,政治的膠着状態の打開方策についてである。10月8日,政治的膠着状態を打開するため,先に選挙の方針で合意していたにもかかわらず,UCPN-MはNCに対して憲制議の復活もオプションのひとつとして協議を持ち掛けた。NCは憲制議解散直前の5項目合意が前提であるとし,合意による政権交代を要求した。10月26日の段階では,NCは選挙,CPN-UMLは憲制議の復活を支持していた。しかし,NC中央執行委員会は選挙体制の準備を進めているが,選挙そのものの正式承認はみていなかった。党内には,ポーデル副委員長やデウバ議員のごとく憲制議復活が最良の道との立場をとる有力者がおり,党内派閥は厳しく対立していたからである。10月31日,NCが多数決により正式に選挙受け入れを決定すると,これに対して78人の元憲制議議員が選挙受け入れ方針に反対し,憲制議の一時的復活論を強調した。

政党間の合意形成が不可能と見抜いたヤダヴ大統領は10月19日,全党会議を開催し,憲制議の復活はありえず,やり直し選挙しか残された道がないこと,そしてUCPN-M連立政権の下では政局の混迷を打開することは不可能と強調した。そのうえで,政党は早急に合意して選挙実施のための挙国一致内閣を樹立することが必要との見解を表明した。

この1カ月後の11月19日,ヤダヴ大統領は11月22日を期限として,予算,挙国一致内閣,選挙などすべての重要課題について一括して政党間の合意形成を図るよう要請した。11月23日,大統領は暫定憲法の規定に基づいて政党に7日以内に政党間の合意を得るよう指示した。これに対して,25日,UCPN-M連立政権は閣議で大統領の発した指示が暫定憲法の趣旨(内閣に執行権がある)に反するものとして反論した。これに先立って,FDRAも,大統領に対して暫定憲法の正しい理解を求めると要望していた。大統領は11月29日,政党に対する要請に応じて首相候補が選出されないため,主要政党の首脳と協議のうえ,期限をさらに7日間延長するとした。12月4日,ヤダヴ大統領は,憲制議選挙実施のため主要政党に一括合意に達するよう促した。この「要請―合意失敗―再要請」のやり取りが7回繰り返され,それでも具体的な結論をみないまま2012年が暮れた。

憲制議解散後の和平工程

憲制議解散をはさんで,およそ2カ月間,PLAと国軍の統合作業は休止状態が続いた。6月25日,AISCが設置した国軍統合兵選考委員会で,PLA 兵の年齢および学歴確認については,UNMINの調査記録ではなく,新しく政府が発行した身分証によることをUCPN-Mが要求した。また,PLA兵の統合作業が「名誉ある統合」ではなく国軍の通常採用手続きと同様であったため,統合希望者の反発を買った。

AISCは,国軍統合希望者3123人に対して,9月6日から7日にかけてPLA兵站基地で資格審査を行なった(将校クラスが対象の審査は別途実施)。元PLA兵の年齢確認は政府発行の身分証明書に記載の生年月日に基づくことになった。国軍統合希望者に対する筆記試験(9月17日終了)および健康診断の合格者に対して,国軍は合格者リスト(1388人)と休暇取得者の一覧表(将校級の合格者75名を除く)を公表した。10月末の時点で,国軍統合試験合格者はわずか1460人であった。

自主退職希望者と社会復帰希望者に支給される一時金で分割支払いとなっていた残額の支給は,10月末(退職兵側は9月末を要求)までに支払うことが決定され,元PLA兵士1万3922人に対して合計36億2000万ルピーが支払われた。

経済

国内生産の動向

2011/12年度の経済成長率は4.6%であった。これは農業部門の伸びが4.9%と高かったためで,非農業部門は4.3%増にとどまった。コメの生産量は507万2000トンで,対前年比で13.7%増加した。作付面積は153万1000ヘクタールで,単収(1ヘクタール当たり,以下同じ)は3.31トンであった。トウモロコシの生産量は217万9000トン,作付面積は87万1000ヘクタール,単収は2.5トンであった。小麦は生産量が184万6000トンで,作付面積は76万5000ヘクタール,単収は2.41トンであった。

2012年も家庭用燃料をはじめとして,エネルギー供給事情の劣悪さは日常茶飯事であった。2月2日,バッタライ首相はシン・インド首相に対して石油製品とLPGの円滑供給を要請し,シン首相は出荷量の増加を約束した。4月17日には,政府はLPG購入補助金制度を導入した。石油製品の値上げに対して学生団体から激しい反対運動が起こった。学生ならびに貧困層に対する保護策を求め,特別交通ゼネストを含む値上げ反対運動が頻繁に行われた。電力の供給事情もまったく改善されず,都市住民は連日,長時間に及ぶ停電を余儀なくされた。

経済開発政策の動向

政府は,1月26日に行動計画「良い統治」と「経済繁栄」を公表し,政府部門の効率性の向上と大型プロジェクトにより経済的繁栄の期待に応える意欲を示した。また,「2012~2013ネパール投資年」の取り組みが本格的に開始された。西部セティ川,カルナリ川上流,マルシャンディ川上流,タマコシ川第Ⅲ,アルン川第Ⅲ(以上,水力発電計画),第2国際空港,自動車道の整備(カトマンドゥ=タライ間,首都圏循環道,中央丘陵南北縦貫道など),廃棄物処理施設を含む多くの大規模開発プロジェクトが目論まれている。このうち,750MW級で総額20億ドルに上る西部セティ川水力発電計画は,手続き上の問題で一時差し止められていたが,UCPN-Mの強力なロビー活動の結果,ネパール投資公社と中国長江三峡集団公司の代理店との覚書を修正の上,正式に承認された。

「2011ネパール観光年」に続き,「2012ルンビニ訪問年」が実施された。2011年の観光来訪者数は対前年比で22%増の73万6215人であった。2012年は,50万人を超す外国人観光客がルンビニを訪問することが期待されている。また,「観光ヴィジョン2020」が公表された。2013年から2020年まで重点地域を毎年移しながら観光客を増やそうとするキャンペーンで,2020年の観光客数を200万人と見込んでいる。UCPN-Mのダハール議長は人民戦争期の要衝を観光資源化する「ゲリラ・トレッキング」を提案した。

バッタライ首相は,10月16日「統治と経済の緊急行動計画2012」を公表した。15分野200事業を含む野心的な事業活動のメニューであり,航空機購入,1万5000人の若者の雇用創出,大型投資家に対する表彰や政府行事の簡素化などが盛り込まれている。

「2012年土地利用政策」が閣議決定(4月18日)され,農地,林地,宅地,商業地,公有地,工場用地,その他の7つの土地利用区分が初めて導入された。土地の細分化や優良農地の蚕食が問題になっているためである。農業・協同組合省(当時)によれば,2008~2009年に5万9464ヘクタールの水田が都市的目的に転用された。

海外出稼ぎの状況とその影響

2011/12年度の新規の海外出稼ぎ者は,前年度を約3万人上回る38万4198人に達した。海外からの送金額は,2011/12年度の当初8カ月間で2177億ルピー(27億4000万ドル)に達し,対前年同期比34.7%増となった。海外送金額は国内総生産の22%に相当する。

2011/12年のネパール人海外出稼ぎ者の死亡数は643人にも上ったが,さらに2012年には834人に増加した。交通事故,気候条件の相違,自殺,殺害などが主因である。また,女性権利保護団体からの要請を受けて,政府は8月,中東湾岸諸国への出稼ぎについて30歳以下の女性は禁止する措置をとった。送金額のほとんどが消費支出に充てられている。消費水準の上昇に合わせて海外出稼ぎが常態化する悪循環に陥り,今後20年間に若年労働力不足による国内経済の空洞化や人口高齢化が懸念されている。また,家族の消費生活向上のため出稼ぎしなければならないという脅迫観念,留守世帯の不適切な支出,留守家族の逃亡と家出人捜索願の増加,家庭崩壊や離散の増加が社会問題化している。

首都圏一極集中型都市化の概要

政府は4月末にカトマンドゥ盆地首都圏開発公社を設置し,また5月に省庁再編により都市開発省を新設した。そして,アジア開発銀行からの援助金460億ルピーを導入して,首都圏開発事業を開始した。中国の援助による首都の外周道路の拡幅工事は2015年完成を目指しており,また旧市街地内の道路拡幅工事も首相の強力な指示の下で進められている。

ネパール・ラストラ銀行(中央銀行)の報告書「国民経済におけるカトマンドゥ盆地の比率」(2012)によると,盆地内の居住人口は65万7000世帯,251万1000人で,経済活動の規模は推計で3156億ルピー,GDPの23.4%となっている。同地域の一時的な居住者を含む人口は約400万人と推定され,これを考慮した地域総生産額は4176億6000万ルピーで,GDPの31.0%に相当する。同盆地全体のエネルギー消費量の全国に対する比率は,電気が29.2%,石油は45.5%,ディーゼル油は15.5%,灯油は37.6%,LPGは60.0%である。

対外関係

国際社会における位置

2012年のネパールの対外政策で特筆すべき点は,1月15日にバッタライ首相が記者団に対して,ネパールはもはやかつてのような「ふたつの岩の間のヤム芋」でなく,「インドと中国の中継地」として位置づけることができるとしたことである。そのうえで,同首相は,最大規模でかつ最速で経済成長する両大国の架け橋となり,その有利性を活かすべきであり,またそれは可能であると述べた。

6月12日,国連は毎年公表している「子供を武力紛争に使用している集団」(不名誉のリスト)からUCPN-Mを除外したことを公表した。これは,2010年4月のPLA不適格者(入隊当時未成年者)の除隊を根拠にした決定とされている。また同様に,アメリカ政府が国際テロリストに指定していた「マオイスト」すなわちUCPN-Mが,9年ぶりに指定解除された。UCPN-Mは,2008年の憲制議選挙で第1党に躍進して以降,アメリカ政府に指定解除を強く要請してきたところ,9月10~11日に来訪したロバート・ブレイク米国務省南アジア・中央アジア問題担当次官補がダハールUCPN-M議長との会談の席上で正式に伝えた。

10月8日,国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は「ネパール紛争報告書」を公表し,いわゆる人民戦争(反政府運動)期の1996~2006年の10年間に発生した著しい国際人権侵害事件9000件の詳細を明らかにした。それによると,同期間の紛争による犠牲者は少なくとも1万3000人で,さらに1300人が今なお行方不明となっている。実態はさらにこれを上回るとされ,6月に平和・復興省が公表した犠牲者は1万7800人となっている。OHCHRの報告書に対して,ネパール政府は,公表前の了承や利害関係者の同意なしに取りまとめられたもので,かかる手続きは国際的常識にもとるものとし,同報告書の正統性を損ねるものと批判した。さらに,現在ネパールが和平工程と憲法制定のさなかであるにもかかわらず,その積極的側面はいささかも触れられていないとコメントした。

アメリカのブータン難民受け入れ数は,2007年以降の累計で6万3400人に達した。その他の受け入れ国はオーストラリアが3837人,カナダ5296人,オランダ326人,デンマーク724人,ノルウェー546人,ニュージーランド710人,イギリス257人である。これらの総計は2012年12月13日で7万5126人に達した。ネパール国内のブータン難民は4万1000人の規模であり,このうち3万1300人が第三国移住を希望している。

対インド関係

2月2日,インドのビハール州政府は,UCPN-Mの活動家11人の刑事訴追取り下げ請求を地元裁判所に提出した。反インド活動の嫌疑で2004年に一斉検挙され2006年に釈放後,処分保留のまま放置されていたもので,現在はネパールに帰国し政治的要職に就いていることや両国間の関係改善に照らして今回の処置に踏み切ったとされる。

4月上旬にPLA兵の退職希望者除隊手続きが開始され和平工程が大きく進展したことに関連して,UCPN-Mのダハール議長は,「2005年にデリーで署名した12項目合意に始まる旅がひとつの結論を迎えた」と述べた。さらに,その後の憲制議選挙,王政廃止と共和国宣言,和平工程の推進,憲法制定過程と続くネパールの政治の節目にインドの支援があったことも明らかにした。

インド人民党指導者ヤスワント・シンハ元蔵相が7月30日~8月1日に私的に来訪し,政府首脳とも会談した。バッタライ首相は8月3日,同氏の来訪がヤダヴ大統領の招きがあったとはいえ外交儀礼に反するとして,不快感を表明した。

4月4~6日,シン・インド陸軍参謀長が災害対応と人道支援に関するセミナー出席のため来訪した。つづいて,7月10~14日にも来訪し,政府要人と二国間軍事協力およびインドの対ネパール軍事援助再開について会談した。4月16日,チダンバラン・インド内相は,ネパールとバングラデシュを経由して侵入するテロリストによりインドの安全保障が脆弱化していることを指摘し,550キロメートルに及ぶ国境線の特別警備の必要性を強調した。

5月16日に在ビルガンジ・インド総領事館のメタ館員がマデシの運動を扇動する発言をした問題で,ネパール政府およびダハールUCPN-M議長は,発言が内政干渉に当たるとしてプラサッド在ネパール・インド大使に釈明を求めるとともに,同館員の召喚を要求した。

8月30日,カトマンドゥで「連邦国家ネパール-インドの教訓」シンポジウムが開催され,挨拶に立ったプラサッド・インド大使は,連邦制以前に州を擁していたインドよりもネパールの連邦制の形成はいっそう困難なものであると指摘した。

対中国関係

1月14日,温家宝中国首相がわずか5時間ではあったがネパールを訪れた。前年12月に一度延期されていた訪問を,湾岸3カ国歴訪の途中で立ち寄ることで実現した。政権交代直前ではあったが,温家宝首相の訪問は中国側のネパール重視の姿勢を表明したものである。これに対してネパール側は,1月13日および23日の2度にわたってインドから帰国途上のチベット人難民を多数カトマンドゥで逮捕し,「ひとつの中国」政策の支持を表明した。中国側は,和平工程と憲法制定に対する支援に加えて,年間1億5000万元から2億元へ経済援助を増額することを約束した。そして,今後3カ年で1億5000万ドルの相当の資金援助,2000万ドルの今年度政府財政支援事業,インフラ開発援助,文化交流事業,ネパール・中国通商経由地の利便性向上,ネパール警察の基礎整備,自主退職PLA兵支援事業,ポカラ空港整備事業の8つの覚書の調印と,さらに両国間の経済技術協力の促進,ネパール武装警察学校の建設,ネパール警察装備援助についても蔵相レベルの公文が交わされた。

11月1日,楊厚蘭中国大使は文化・観光・民間航空省次官との間で在ネパール中国文化センターを設立することに合意した。つづいて,12月25日に二国間の通商路として期待されるシンドゥパールチョーク郡下の商工会議所支部設立式に臨み,中国にとってネパールが重要な隣国であるとし,対ネパール協力の継続を強調した。

12月24日に来訪したドルジ中国チベット自治区商務庁副庁長は,ヒマラヤ国境をまたぐ交易路のインフラ建設に中国側が関心を抱いていると表明した。

ネパール政府は,増加が見込まれる中国人観光客の入国ビザの簡略化と発行所を増設する計画を12月にまとめた。また政府は,連立与党のマデシ系政党の反対を押し切り,中国通で知られる弱冠50歳のリラマニ・ポーデル首相府事務次官を7月29日の人事で官僚の最高ポストである上級事務次官代理に任命した。同氏は8月6日に正式に就任し,ほかの5人の上級事務次官は慣例を無視した政府の人事発令に抗議して辞任した。周辺からは,中国重視の姿勢を示すものと受け取られている。

また,12月16~25日にCPN-Mのバイディア議長が艾平中国共産党対外聯絡部副部長の招待により中国を訪問した。同議長は帰国後の記者会見で,中国指導部の発言として,民族主義連邦制は国家の分裂をもたらすと懸念が示されたことを表明した。この発言内容に対してバッタライ首相は不快感を表明した。

その他の諸国との関係

イギリスは,1月10日,EUと共同してネパール気候変動支援計画のため1650万ユーロ(18億ルピー相当,イギリスの分担分は760万ユーロ)の贈与に関する覚書を交わした。また,6月26~28日にダンカン国際開発相が来訪し,貧困削減や災害対策,官民の能力開発を中心に今後4カ年にわたり合計470億ルピー(3億3100万ポンド)の援助を約束した。この来訪時に,イギリスが援助資金を提供しているNEFINが5月20~22日にかけて全国的な交通ゼネストを敢行したことや,民族主義連邦制を支持していることの指摘を記者団から受け,同相は,イギリスは同連合の事業活動を支援しているのであって,政治団体の支援を行っているわけではないとかわした。

1月3~9日にリチャード・イギリス陸軍大将が英グルカ兵のネパールにおける活動視察のため来訪した。ネパール政府は3月,このグルカ兵制度に関連して,時代遅れの海外雇用制度であり,イギリスが軍事費削減を理由に採用数を減少させていること,退役グルカ兵に対するイギリス市民権付与のために人材流出につながることなどから,再検討の時期に来ているとした。

2月7日,アメリカは,PLAの退職希望兵の除隊作業が開始されたことは「和平工程の歴史的瞬間」と歓迎の意を表明し,国軍統合後の新司令部の装備および訓練のため200万ドルの支援を行うと述べた。4月4~5日,シャーマン国務省政治問題担当次官が来訪し,ネパールの政治情勢について,政党・政府の首脳から,チベット人団体やネパール市民団体まで幅広い層と会談した。

2013年の課題

憲制議の解散後も,主要政党は協議すれども結論なしの政治交渉を重ねてきた。ヤダヴ大統領は,憲制議の再選挙のために挙国一致内閣の樹立が不可欠と判断し,主要政党に対して首相候補者の選出を要請した。しかしながら,自党自派の主張に明け暮れる主要4党は首相候補者を絞り込むことができなかった。

このような状況で迎えた2013年の当初,4~5月の選挙の実施はほぼ不可能との見通しが一般的であった。実際,UCPN-Mが提案したNCおよびUCPN-M以外の党の所属者か第三者を首相に擁立した選挙内閣の設立案に対して,NCおよびCPN-UMLはまったく省みることがなかった。だが,中立候補を首班とする選挙内閣を発足させ,2013年(6月もしくは11月)に憲制議選挙を実施する案が次第に有力視されるようになった。そして,2月下旬レグミ最高裁長官を首相とする選挙内閣を発足させる案が固まり,ついに主要4党は3月11日に11項目の合意に達し,翌14日にレグミ選挙内閣が誕生し情勢は急展開した。主要4党は選挙の投票日を6月21日(1回延期可能)までとすることで合意しているものの,選挙人名簿の確定など選挙の実施までに課題が山積しており,新首相は投票日の公表に踏み切れない状況が続いている。いずれにせよ,2013年は憲制議選挙の実施が焦点であり,選挙結果を踏まえた和平工程の進捗とやり直しの憲法制定過程の帰趨が注目される。

(日本大学教授)

重要日誌 ネパール 2012年
  1月
2日 「2012~2013ネパール投資年」開始。
4日 政府,地方行政管理制度(2011年6月導入)を汚職の温床として廃止決定。
8日 マデシ人権フォーラム(ネパール),連立政権との閣外協力を解消。
8日 野党15党,統一ネパール共産党毛沢東主義派(UCPN-M)に7項目合意の履行要求。
12日 バッタライ首相,UCPN-Mの人民政府接収財産合法化法案を閣議決定。
13日 政府,チベット難民114人逮捕。
14日 温家宝中国首相,来訪。8合意文書に署名。
15日 「2012ルンビニ訪問年」開始。
18日 シン・インド首相,会見したガッチャダール副首相にネパール訪問の意思表明。
20日 野党17党,UCPN-Mの人民政府接収財産合法化法案閣議決定の撤回要求。
23日 政府,チベット難民65人逮捕。
25日 最高裁,1月12日の閣議決定取り消し請求審理開始。
26日 政府,「良い統治」と「経済繁栄」の2行動計画公表。
27日 政府,最高裁に憲法制定議会(憲制議)の設置期間延長禁止の見直しを提訴。
31日 国家再編コミッション(SRC),連邦11州と6州の両論併記の報告書を政府に提出。
  2月
3日 軍統合特別委員会(AISC),UCPN-M人民解放軍(PLA)退職希望兵の除隊作業開始。
6日 主要3党(UCPN-M,ネパール国民会議派[NC],ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派[CPN-UML]),憲制議正常化で合意。
9日 バッタライ首相,1月12日閣議決定撤回し,接収財産合法化法履行せずと表明。
11日 AISC,PLA退職兵一時金支払い完了。
12日 国軍,バッタライ首相にPLA統合案提示。
17日 東部出身憲制議議員,統一州要求。
20日 憲法委員会作業部会,重要争点の解決を主要政党の最高首脳に一任決定。
21日 グプタ情報・通信相(マデシ人権フォーラム(連邦)[MJF-G])に汚職事件で現職大臣初の実刑判決下る。
23日 統一ネパール共産党(CPN-U),連立政権との閣外協力を解消。
25日 政府とタライ地下武装組織,6項目休戦合意書に署名。
27日 ネパール石油公社前で石油製品高騰を批判した爆破事件発生。死者3人。
29日 AISC,10日以内にPLAの13兵站基地閉鎖と15基地への兵士集結を決定。
  3月
1日 政府,首都を貫流するバグマティ川の河川敷不法占拠者排除を表明。
3日 憲制議若手議員14人,研修目的で招待受けインド訪問(~10日)。
3日 首都のカリマチ青果物市場全焼。
4日 元無資格PLA兵,4項目要求全国スト。
4日 政府とマデシ武装勢力,6項目合意書に署名し,後者は武装放棄。
7日 AISC,PLAの13兵站基地撤収開始。
12日 AISC,PLAの13兵站基地撤収完了。
12日 デウバNC指導者,1990年憲法の改訂復活可能と発言。
13日 政府とキラット労働者党,5項目合意書に署名し,後者は武装放棄。
15日 パルパ郡下でビル爆破事件発生。
23日 バッタライ首相と国軍,PLA兵統合方式と予算につき協議。
25日 憲制議,SRC報告書の審議開始。
28日 最高裁,2011年11月25日の憲制議設置期間延長禁止判決の見直し請求を却下。
30日 AISC,国軍統合希望PLA兵の国軍引き渡しを決定(期限4月12日)。
  4月
2日 ジャー副大統領,期限内憲法制定は不可能と発言。
7日 憲法委員会,SRC報告書の審議開始。
9日 憲制議,憲法制定手続き簡略化議決。
10日 AISC,PLA兵と兵站基地と武器の国軍管理移管開始。翌11日に完了。
15日 閣議,AISCのPLA兵統合方式承認。
19日 AISC,第2回選別でPLA兵の国軍統合希望者は9705人から3129人に減少と公表。
24日 UCPN-M,チトワン郡へ首都移転提案。
26日 UCPN-M,連邦10州案公表。
27日 NC,連邦7州案公表。
27日 極西部単一州市民運動,極西部単一州を要求し交通ゼネスト開始(~5月16日)。
28日 最高裁,民族主義連邦制差し止め請求を却下。
29日 玄葉外相,来訪(~30日)。
30日 ジャナカプール市で開催の自治州要求集会で爆破事件。死者4人,負傷者18人。
  5月
1日 主要4党(主要3党と統一民主マデシ戦線[UDMF]),憲法草案の一部票決を決定。
2日 マデシ連合(ヤダヴ派),単一マデシ州を要求しタライ各地で交通ゼネスト開始。
3日 主要4党,5項目合意書に署名。
5日 バッタライ挙国一致内閣発足。
6日 カスキ郡下でセティ川氾濫。死者15人,行方不明者30人以上。
10日 高位カースト共闘委員会,民族主義連邦制反対の全国ストライキ開始(~11日)。
10日 UDMFと少数民族議員団,民族主義連邦制支持を含む4項目で合意。
14日 ネパール全国人民闘争合同委員会,新憲法制定要求署名を憲制議議長に提出。
15日 主要4党,連邦11州などで合意。
15日 主要3党,極西部単一州市民運動の要求に対して住民投票による解決を確認。
17日 タライマデシ民主党,連邦11州案に反対し政権離脱。
20日 先住民共闘委員会,3日間交通ゼネスト開始。22日に政府と9項目合意書に署名。
22日 政府,憲制議3カ月延長法案上程。
24日 NC,憲制議延長に反対し政権離脱。
24日 政府とタルー共闘委員会,10項目合意書に署名。
25日 最高裁,憲制議延長法案に違憲裁決。
26日 合同リンブ戦線,リンブ州(ネパール東部)設立宣言。
26日 政府とカルナリ自治州闘争委員会,7項目合意書に署名。
27日 バッタライ首相,憲制議解散と11月22日再選挙を国民に公表。
28日 潘基文国連事務総長,憲制議解散に遺憾の意を表明。
30日 16党,大統領に挙国一致政権樹立を要請。別の16党は憲制議選挙歓迎を表明。
31日 バム最高裁判事,白昼狙撃され死亡。
  6月
2日 広マデシ戦線,バッタライ首相の解任を大統領に訴願。
3日 最高裁,バム最高裁判事銃撃事件に抗議して全国一斉休廷ストライキ。
10日 マデシ人権フォーラム(民主)(MJF-D),中央委員10人離党し分裂。
17日 ヤダヴ大統領,茶会主催し政党に対話呼びかけ。25政党が出席。
18日 UCPN-M,バイディア派が分離しネパール共産党毛沢東主義派(CPN-M)結成。
18日 バッタライ首相,国連環境サミット出席のためブラジル訪問(~25日)。
20日 主要4党,憲制議解散後の初会合。
21日 CPN-UML,連邦7州案を公表。
25日 バッタライ首相,選挙による次期政権誕生まで辞任しないと断言。
28日 バンダリ元MJF-D指導者,全国マデシ社会主義党結成。
  7月
1日 MJF-G,汚職で有罪の党議長代行を反対派閥が除名し分裂。
2日 コイララNC総裁とバイディアCPN-M議長,バッタライ政権打倒で一致。
3日 バッタライ首相,複数の少数民族政党の代表と会談。
4日 国軍,PLA兵の国軍統合手続き開始。
4日 野党22党,大統領に予算行政令の不承認を要求。
4日 ギャネンドラ元国王,国民の意思により儀礼的王制復活の可能性に言及。
6日 PLA兵,国軍統合審査基準の不当性に抗議して統合手続き阻止。
8日 ダハールUCPN-M議長とバイディアCPN-M議長,党分裂後初の会談。
9日 バッタライ首相,元国王の政治的発言に対し国家が供与する権益剥奪を示唆。
10日 シン・インド陸軍参謀長,来訪(~14日)。
15日 政府,2012/13年度予算(3分の1のみ)行政令公布。
17日 UCPN-M,第7回党中央総会開催。PLA兵向け資金流用疑惑の釈明要求で議事混乱。
25日 政府,11月22日選挙を正式決定。
25日 ジョシ元内相(NC),汚職事件で実刑判決。
27日 政府,選挙法改正行政令を閣議決定。
30日 選挙管理委員会(選管),11月22日の選挙実施は不可能と表明。
30日 シンハ・インド人民党指導者,来訪(~8月1日)。
31日 NC,地方代表者全国会議で憲制議選挙が最善策とする大会文書承認。
  8月
2日 政府,選挙関係閣僚級委員会設置。
4日 政府とタライ武装勢力,4項目合意書に署名。
8日 政府,国軍参謀長にラナ中将任命。公式就任は9月9日。
9日 先住民運動団体,社会民主複数国民党の結成呼びかけ。
10日 CPN-Mと6政党,連合連邦戦線結成。
13日 カドカ元内相(NC),汚職事件で実刑判決。
15日 UCPN-Mと20政党,連邦民主共和連盟(FDRA)結成,代表にダハールUCPN-M議長。
17日 ヤダヴ大統領,憲制議選挙法改正と普通選挙法改正の2行政令を承認拒否。
17日 野党青年組織17団体,政権選択模擬投票実施。19日にヤダヴ大統領に投票結果報告。
23日 政府,AISC設置期間3カ月延長。
28日 バッタライ首相,国民に対して就任1周年のテレビ演説。
29日 主要3党,1カ月以内に首相候補を選出することに合意。
29日 バッタライ首相,第16回非同盟運動サミット出席のためイラン訪問(~9月1日)。
31日 ネパール人権委員会,国際基準欠く真相究明・調停委員会行政令反対表明。
  9月
1日 タライ武装勢力,8月4日合意に基づき武装解除。
3日 AISC,第2回選別によるPLA退職希望者と軍統合審査不合格者に一時金支払い。
4日 FDRA,全党集会実施。
6日 AISC,PLA兵の国軍統合開始。
6日 アメリカ政府,UCPN-Mテロ組織指定解除。
10日 CPN-M,70項目要求書を首相に提出。
16日 ヤダヴ大統領,主要政党に秋季祭礼期までの合意形成要請。9月30日にも再要請。
19日 主要4党,憲制議再選挙に合意。
21日 主要4党,憲制議選挙に向けて政治的争点の一括解決方式を確認。
24日 野党16党,バッタライ暫定政権打倒を要求し街頭運動強化。
26日 CPN-M,インド登録車両通行禁止街頭闘争を展開。
  10月
1日 マデシ系と少数民族系7党,連邦民主戦線結成。
2日 32政党,憲制議解散後初の全党会合。
3日 NC,先住民族系党員36人離党。
4日 CPN-UML,先住民・少数民族・マデシ系党員550人離党。
5日 ダハールUCPN-M議長とコイララNC総裁,10月16日までの合意形成で一致。
7日 ヤダヴ情報・通信相,2013年5月選挙を示唆。
8日 UCPN-M,NCに憲制議復活案提示。
10日 ネパール商工会議所連合会,最小経済政策と全国家予算案の合意を政党に要望。
12日 バッタライ首相,政治抗争の隙を狙った王政復帰を戒め政党に合意形成促す。
17日 NCとCPN-UML,バッタライ首相辞任と挙国一致内閣下の憲制議選挙で共闘確認。
19日 ヤダヴ大統領,全党会議開催。
26日 NC,コイララ総裁は憲制議選挙,ポーデル副総裁は憲制議復活で,党内抗争激化。
30日 主要4党,党首脳に合意形成一任。
31日 AISC,PLA退職希望者への退職金の最終分割分支払開始。
31日 NC,中央執行委員会で憲制議選挙を正式承認。
  11月
1日 NC,元憲制議議員78人が党議決定に不満表明し,一時的な憲制議復活案主張。
4日 最高裁,元無資格PLA兵への一時金支払い差し止め。
6日 CPN-UMLとNC,政党の合意なき予算行政令に反対で一致。
8日 政府,グルン選管委員長代行任命。
13日 ヤダヴ大統領,行政令の早期承認のため政党に合意形成を要請。
16日 ダハールUCPN-M議長,党主催の茶会の席上で暴行受ける。
17日 CPN-M,ダハールUCPN-M議長暴行犯は自党とは無関係と表明。
19日 ヤダヴ大統領,22日までに政党間の合意形成を図るよう指示。
20日 政府,2013年4~5月の憲制議選挙と予算行政令公表。ヤダヴ大統領が即日承認。
21日 AISC,PLA兵で国軍に統合した4171人分の役職設置を政府に要請。
22日 先住民系元憲制議議員など,連邦社会主義者党結成。
23日 ヤダヴ大統領,7日以内に政党合意による首相候補選出を指示。
25日 政府,大統領による首相候補選出指示は憲法違反として正式拒否。
29日 ヤダヴ大統領,首相候補選出期限をさらに7日間延長。
  12月
2日 NCとCPN-UML,バッタライ挙国一致内閣への参加を否定。
7日 ヤダヴ大統領,首相候補選出期限をさらに6日間延長。
13日 ヤダヴ大統領,首相候補選出期限をさらに5日間延長。
18日 ヤダヴ大統領,首相候補選出期限をさらに5日間延期。
22日 UDMF,憲制議選挙を含む9項目提案。
24日 ヤダヴ大統領,首相候補選出期限を12月29日まで延期。
24日 ヤダヴ大統領,インド訪問(~29日)。
24日 選管,投票日など憲制議再選挙の重要事項の決定を全政党に要請。
25日 NC,地方代表者全国会議でコイララ挙国一致政権下の選挙実施を強調。
27日 FDRA,政党間で4月選挙の合意不成立なら憲制議復活と主張。
30日 ヤダヴ大統領,首相候補選出期限をさらに5日間延期。
30日 NC先住民系元憲制議議員,社会民主党結成。

参考資料 ネパール 2012年
①  国家機構図(2012年12月末現在)
②  政府要人名簿1)

主要統計 ネパール 2012年
1  基礎統計
2  支出別国内総生産(名目価格)
3  産業別国内総生産(2000/01年固定価格)
4  対外貿易
5  国際収支
6  国家財政1)
 
© 2013 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
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