2014 年 2014 巻 p. 301-332
2013年,インラック政権は,政権の目玉政策と目された3政策の成否をめぐって大きく揺らいだ。その3政策とは,第1に憲法改正の動議,第2に恩赦法の施行,そして第3に籾米担保融資制度の運営であった。
2011年の総選挙で勝利して以来,長期政権樹立を目指してインラック政権が採った具体的な戦略は,まず,クーデタ後に制定された2007年憲法下で広範な権限を付与された司法,とりわけ憲法裁判所の権限を弱体化させることで首相の権限を相対的に拡大させることを試み,次に恩赦法を通じて,国軍や民主党幹部とあわせてタクシン元首相を免罪し,彼の政権復帰を実現することであった。そして上記2つを可能にするためにも,籾米担保融資制度を通じて農村部での所得向上をはかることで,大票田の農村部における支持基盤を維持,確立することであった。ところが2013年,インラック政権はこの上記すべての政策でつまずいた。
憲法改正動議は11月に憲法裁の違憲判断を受け頓挫した。そして何よりもタクシン元首相を免罪する修正恩赦法を11月1日未明に下院の賛成多数で可決したことで,恩赦法の成立阻止を唱える反政府デモを勢いづかせた。勢いはその後恩赦法そのものが上院で否決されても収まらず,街頭デモを率いるステープ前副首相らは恩赦法阻止からインラック首相即時辞任を求める政権打倒運動,さらには「タクシン体制」の国外追放とその要求レベルを高め,大規模な反政府・反タクシン運動へと発展させた。参加者を増やし勢いづくデモ隊は,政府庁舎を占拠し公務員のサボタージュを呼び掛け,この影響を受けて政府は一時,一部機能停止に追い込まれた。
参加者推定10万人に上るタイ史上最大級の規模に発展したバンコクの街頭デモを背景に「人民の代表」を標榜する反政府運動に対し,インラック政権は,ならば国民の信を問うと12月9日には任期半ばで下院を解散して対抗した。ステープが事務局長を務める「国王を元首とする民主主義のためのタイ改革人民委員会」(PDRC)は選挙自体を認めず,数々の妨害工作を行ったが,政府は2014年2月2日に予定どおり総選挙を実施した。結局,28の選挙区で立候補者の登録が妨害により受け付けられず,新首相選出に必要な475議席(500議席中)の当選議員数を確定できなかったため,インラック政権は新内閣を組閣することができず,暫定政権のままとどまることとなり,反政府運動との政治決着は持ち越された。
また,2013年の政治対立の経済的影響は無視できないものとなった。とりわけ,景気浮揚策として期待されていた大規模インフラ投資プロジェクトが頓挫し,投資委員会(BOI)の新委員会発足棚上げに伴い新規投資の承認が遅れたことは経済成長を鈍化させる要因となった。最終的には2013年のGDP成長率は前年の6.5%から大幅に減速し2.9%となった。加えて,政権の目玉政策であった籾米担保融資制度のもたらした巨額の財政負担が,財政規律ならびに農業生産に悪影響を与えはじめている。この制度の綻びが露見すると,一気に政治問題化し,2013年12月には約束した融資の支払い遅れで農家による抗議運動が繰り返されるようになった。
対外関係においては,2015年のASEAN経済共同体(AEC)成立時に,地域戦略上,経済的に優位な立場を確立できるようその準備を進めることが外交上の課題となった。具体的には,近隣諸国との間にタイを中心とする交通網を整備することであり,その交通インフラ整備に海外投資を呼び込むために首相や運輸相によるトップセールスが続けられた。なかでも,インド洋とタイを結ぶ要所となるミャンマーのダウェー経済特区の開発,および,ダウェーとタイとを結ぶ東西回廊の整備に参加してほしい日本や,タイからラオス,中国につながる高速鉄道建設に参画してほしい中国の両国との関係強化に努めた。
インラック政権を支える与党タイ貢献党およびその支持者たちは,司法,独立機関の裁定の「二重基準」や,司法による立法府および行政府に対する過度の,そして偏った介入が2006年以後,現在まで繰り返される政治対立の根本たる原因となっていると主張していた。したがって与党タイ貢献党は,国民の対立を解消するうえでは,司法機関関連の憲法規定を改正し,その権限を縮小させることが不可欠であるという立場であった。
また,2008年にタイ貢献党の前身である人民の力党のソムチャイ政権が,憲法裁判所の解党命令を契機として政権を失ったように,現行憲法下では,選挙で下院の過半数を押さえたとしても,憲法裁の解党命令ひとつで首相を失職させられる状況下にある。そのため,現行憲法は民選首相にとっては不都合な権力関係を規定しており,インラック政権が長期政権を目指すうえで,2007年憲法下で強化された司法の権限を抑制することはタイ貢献党(および前身となる人民の力党)の悲願であった。
2012年に政府・与党は憲法改正条項(第291条)の改正を通じて,新憲法を起草することを試みたものの,憲法裁は国会での憲法改正審議を差し止め,改正は条文ごとであれば国会で,憲法全体であれば国民投票で改正するよう命じた。タイ貢献党はこのような憲法裁の判断を受けて,国会を通じた条文ごとの改正プロセスを選択し,2013年に入って憲法改正案を3案国会に提出した。
第1の改正案は第68条と第237条を改正する案である。第68条と第237条は憲法裁に対して,それぞれ現行体制(国王を元首とする民主主義体制)の変更を企図し,また選挙違反を犯した政党に対して,解党および党執行委員の5年間の公民権停止を命じる権限を付与している。改正案は,憲法裁に付与されたこの権限を剥奪することにあった。
政府・与党はまず,現行体制の変更を企図する行為を禁じる第68条について,当該行為の告発を受理し,その行為について捜査する権限を検察庁に一元化することを明示する改正を提案した。改正の狙いは,第68条違反の告発手続きを検察庁経由に限ることで,検察庁さえ押さえれば,違憲審査手続きを未然に防ぐことが可能となり,憲法裁の権限を骨抜きにできる点にあった。加えて,第237条の改正では,憲法裁に付与された,選挙違反した政党の強制解散および党執行委員の5年間の公民権停止を命じる権限を剥奪する内容とした。
第2の改正案は,第111~114条の上院規定の改正案である。上院は現在,定数150議席のうち77議席が77都県からの公選制,73議席が任命制となっている。改正案は,これを定数200議席に増やし,すべて公選制に変更するものである。この改正の狙いは憲法裁をはじめとする独立機関と上院の間の事実上の互選関係に楔を打つことにあった。ここでいう互選関係とは,憲法裁判事をはじめとする独立機関のメンバーは上院の承認が必要であり,一方,その上院議員の半数近い任命議員を憲法裁長官,選挙委員長,国会オンブズマン長官,国家汚職防止取締委員長,会計検査委員長,最高裁判所大法廷が委任した最高裁判所判事,最高行政裁判所判事を委員として構成される委員会で選出するというルールのことである。すなわち,上院と司法および独立機関がお互いに,民選首相や下院,政党の影響力が及ばない独立した形で承認し合い,協同して民選議員に対抗できるメカニズムを確保しているという実態を指す。したがって,上院議員全員を選挙によって選出するルールを定めることで,上記委員会の上院議員任命権限を剥奪することで,この互選関係を崩すことが,改正の主眼となる。
第3に第190条改正案である。外国政府および国際機関との協定締結に際し,国会の事前承認を義務づけたこの条項の適用範囲を狭め,自由貿易協定や経済協力などについては事前の国会承認がなくても交渉できるよう緩和し,政府が国会からより自由に,そして迅速に経済交渉できるようにすることが,狙いとされた。
これら3案のなかでも,憲法裁に付与されていた政党解散命令権を剥奪する改正点は,行政府と司法府の関係を大幅に変更させるもので,タイ政治のルールの根本的な書き換えにつながる。それだけに,任命制上院議員をはじめ,野党民主党らの反発も激しくなった。加えて,そもそも改正案が憲法裁の権限を大幅に縮小させる目的であるため,憲法裁自ら改正案に合憲判断するかは疑問視されていた。
憲法改正案の審議が始まると即座にソムチャーイ・サウェーンカーン上院議員が審議についての違憲審査を請求し,審議差し止めの仮処分申請を憲法裁に対して請求した。憲法裁はこの請求を3対2の僅差で受理すると決定,一方で仮処分請求については棄却したため,国会での審議は続行された。
最終的に11月20日,憲法裁は上院の選出方法についての改正案について,内容面,および手続き面の双方から違憲とする判決を下した。まず,内容面について,改正点となる上院議員の選出方法および構成の変更は,憲法の意図する首相権力に対する監視機能を弱体化させるため,憲法第68条に規定された「国王を元首とする民主主義制度」という現体制の変更にあたるとして,憲法裁判事9人のうち6対3で第68条違反のため違憲とした。次に,手続き面について,この改正案にかかる国会審議が不当に短時間で打ち切られ,加えて下院採決の際,不在議員の分を他議員が代理投票したとして,手続き上の瑕疵があることが挙げられた。したがって,この改正案には憲法改正手続きを規定した第291条違反とする違憲判断(5対4)が下された。
憲法改正案を動議した与党タイ貢献党は,憲法裁の違憲判決を不当な介入として非難し,野党民主党は憲法違反の改正案を国王に上奏したインラック首相の辞任を求めた。改正案が憲法第68条違反であるという判決ゆえに,タイ貢献党ら与党に対して解党命令を下されることが心配されたものの,その点は回避された。
この結果,タイ貢献党の改憲の試みは2012年に続き,下院の過半数を占めながらも憲法裁により阻まれることになった。現状の政治ルールを規定する憲法を政府与党が変更することは許さないが,他方で憲法裁の中立性を疑われるような解党命令は出さない,という憲法裁の基本姿勢は,2006年からの紆余曲折を経た政府と憲法裁の間の力の均衡点でもあり,現在のタイにおける行政―司法関係の基本原則として,2年連続して確認されることとなった。
差し替えられた恩赦法と勢いづいた反対運動タクシン政権末期の2005年来,タイの政治はタクシン派と反タクシン派の分裂が続き,両者の対立が収まる兆しは2013年になってもみられなかった。有罪判決を受けたタクシン元首相の処遇や,2010年の政治デモ集会で逮捕され収監されている赤シャツ派政治犯の釈放,国軍およびアピシット前首相らの2010年赤シャツ派デモ集会弾圧の責任追及は,いずれも対抗政治勢力の抗議を喚起するものであり,十分な捜査も,和解することもできず,膠着状況にあった。
対立を解決するための手法として2013年に政府与党が目指したのは,恩赦法の成立であった。2006年9月19日クーデタの日以後の政治集会への参加や抗議運動における違法行為,違法な政治見解表明について不敬罪に抵触するもの以外についてすべて免責し,タクシン派,反タクシン派双方の政治責任および刑事責任を同時に免罪することで,責任追及の応酬で膠着する政治対立に終止符を打つというものであった。2012年に国民和解法の名で提案され頓挫したものとほぼ同一の内容であり,政府与党として2度目の挑戦であった。
2013年3月20日,与党タイ貢献党下院議員ウォラチャイ・へーマが提出した原案では,恩赦が適用される政治集会について,対象期間を2006年9月19日から2010年5月10日に定め,適用対象は「当該機関における政治運動の決定または命令の権限を有するものたちの行為を含まない」すべての者と規定した。重要な点は,この法案ではタクシン元首相やアピシット前首相,国軍司令官らは恩赦適用外という点であった。
タクシン元首相が免責されないことが明らかになると,反対運動の関心も高まらず,8月7日から始まる下院での審議を控えて,アピシット民主党党首が国会に向けてデモ行進を行ったものの,最終的な参加者はわずか数十人と恩赦法ウォラチャイ案に対する抵抗は非常に小さいものであった。したがって,このまま恩赦法が無事成立するかと思われていたが,事態は急転した。
10月18日,下院恩赦法案審議特別委員会において,副委員長を務めるタイ貢献党のプラユット・シリパニットが審議中の恩赦法について修正案を提出した。プラユット案では恩赦の対象を「政治運動の決定または命令の権限を有するものたち」を含めるすべての人物に広げ,加えて2006年9月のクーデタ後に設置された機関(例:資産調査委員会[ASC])によって訴追された者や事案も免責対象に含めた。対象期間についても,2013年8月8日までに拡大し,インラック政権下で有罪判決を受けた反タクシン運動家たちを懐柔することを狙った。
アピシット前首相はこの修正の目的が,第1にタクシン元首相を免罪し政権復帰をさせることであり,第2にクーデタ後に暫定政権を担った国家安全保障評議会が設置したASCの決定により没収されたタクシン元首相の資産(および利子分)570億バーツの返還を実現することなのは明らかだとして反対した。最終的には11月1日,与党の賛成多数で第2,第3読会を通過し修正恩赦案は可決され,上院へと送られた。
修正恩赦法に対し,反タクシン派はタクシン元首相の免罪と政権復帰を阻止するため大規模な反対運動を呼び掛け,気勢を上げた。各種世論調査で明らかにされた市民の反応も8月の恩赦法原案時とは異なり,半数以上が反対の意を明らかにし,加えて20%が恩赦法に賛成でも政治指導者は含むべきではないという考えであった。タマサート大学をはじめ,各大学学長も修正された恩赦法は法治国家としての根本を破壊するものとして反発し,反対運動に加勢した。
与党タイ貢献党にとって痛手であったのは,この修正恩赦法に対しては,インラック政権・タイ貢献党を支えてきた赤シャツ派も反発したことにある。その理由は,この修正恩赦法案では2010年の集会を弾圧した国軍の指導者,アピシット前首相,ステープ前副首相が免責され,弾圧行為に対する責任追及が不可能になるためである。したがって,修正恩赦法案の採択は2010年の集会弾圧によって犠牲になった家族,仲間の「正義」の実現を求めてタイ貢献党を支持した人々に対する裏切り行為ですらあった。
気勢を上げるデモ隊と議会政治を見限った民主党タクシン元首相復権に道を開く恩赦法に対する反対デモの中心的役割を握ったのはステープ前副首相ら野党民主党議員であった。民主党は2013年に入り,3月の都知事選,8月の都内の下院議員補選と,ともにタイ貢献党候補との一騎打ちを制し,選挙において好調が続いていた。2013年6月の世論調査においても,タイ貢献党の支持率は依然として第1位であったものの,低下していることが明らかになり,民主党への支持率との差は縮まりつつあった。それでも民主党が街頭デモを重視したのは,10月18日にタクシン元首相を免責する形に修正された恩赦法を,現国会で止めるすべがなく,議会政治においては勝ち目がないことが再確認されたためであった。
強行採決で修正恩赦法を通過させたタイ貢献党は,表向きは国民和解のためには「過去を水に流して前を向く必要がある」と正当化していた。しかし,反対派は,この法案にはタイ貢献党の裏の意図,すなわちタクシン元首相の政治復権があるということを告発するとして運動を始めた。そのため,“Whistleblower”(告発者)が合言葉となり,集会では何千何万人もの参加者が運動のシンボルとしてWhistle(笛)を吹き鳴らして反対運動を盛り上げた。
民主党議員ら率いる街頭デモは,恩赦法成立反対からタクシン体制追放へと,その達成目標をレベルアップさせると,支持者をさらに集め,11月25日には「100万人集会」を呼び掛けた。この日は,国会にて首相の不信任案の審議が始まる前日でもあり,民主記念塔をはじめとするバンコク都内の要所を行進し,首相辞任を求める「民意」を議場外で示して圧力をかけた。
11月28日に首相に対する不信任案が与党の反対多数で下院にて否決されると,11月29日には反タクシン諸派は一堂に会し,ステープを事務局長とするPDRCを設立した。そしてジェーンワッタナの政府合同庁舎をPDRCの拠点と定め,街頭デモの指揮系統を一本化し,改めてPDRCを通じてインラック首相の即時辞任をいっそう強く要求するようになった。政府は事態打開を模索し,国軍の仲介を経てインラック首相とステープPDRC事務局長の直接会談も行われたが,ステープ側の要求は解散総選挙ではなく,選挙によらない国民の諸団体の代表によって構成される「人民会議」への権限委譲であった。インラック首相は,議会の決定によらない「人民会議」の設置および権限委譲は憲法上規定がなく,憲法違反にあたるとして要求を却下し,両者の妥協点は見い出せないままであった。
その後,12月5日の国王誕生日を迎え,デモ活動は一時休止したものの,その後はすぐに復活し,12月8日には民主党下院議員153人全員が議員辞職し街頭デモに加勢した。民主党議員の加勢を受けて,PDRCは彼らが国民を代表しているといっそう喧伝するようになった。こうした攻勢に対抗するため,翌12月9日にインラック首相は,それならば国民の信を問うと下院を解散し,翌2014年2月2日の総選挙日が勅令によって確定した。しかしながら,ステープらPDRCの主要メンバーはタクシンの影響力を排除できる政治改革なしに選挙を行っても意味がないとして,あくまで「人民会議」の設置や選挙によらない中立暫定政権の樹立を要求し続け,デモを継続した。
ところで,この一連の反政府デモに参加したのはどのような人々であっただろうか。参加者は大きく3つのグループに分けられる。第1にバンコク在住でかつての黄シャツ派の集会にも参加したことのあるバンコクの反タクシン派の人々であり,第2に民主党の支持基盤である南部からステープらの呼び掛けに応じて加勢した人々である。こうした人々が長期間路上テントで寝泊まりしつつ,住み込みで路上集会を継続した。第3にはネット上の呼び掛けに応じて参加した学生や会社員であり,この人々の参加は週末に行われる集会の規模を大きく押し上げた。アジア財団の調査によると,デモ参加者の半分以上がバンコク都民であり,次いで近郊の中部各県出身,そして南部出身が多い。また,6割以上が,「政治デモへの参加は今回が初めてである」と回答している。参加目的については,「タクシンおよびその親族による政治支配を終わらせること」と答えた割合が最大で,恩赦法や憲法改正など個別政策への反対を目的とする人数を大きく上回っていた。
一方,国軍はどのような立場であっただろうか。国軍は今回,政府とPDRCの間で中立的立場をとることに腐心した。ステープらによるクーデタの要求に対して,プラユット陸軍司令官らは繰り返し不快感を示し,クーデタ実行の意思がないことを示し,政府の治安回復要請に対しては,それは警察の仕事であるとして,国軍兵士がデモ隊の排除のため発砲することを固く禁じた。プラユット陸軍司令官がこのような立場をとったのは,彼自身の残りわずかとなった任期を無事に終えたいという個人的な理由にもよると推測されるが,それ以上に組織的利益を考えて武力行使を最小限に抑える必要があったためであろう。それは,2006年のクーデタや2010年の赤シャツ派デモに対する発砲鎮圧後に,国軍の責任追及を求める声が国民から多く上がった経験に基づいている。また,国王の健康状態の悪化が心配されているなかでは,国王に1990年代のような仲裁的立場を期待することもかなわない以上,分裂した世論を早急にまとめることは困難であり,そのような状況下では,国軍としては関与を最低限に抑え,政治デモに対する違法行為の取り締まり,責任者および実行者の逮捕はあくまでも警察の仕事であることを強調した。
南部国境3県,和平交渉と過激化する抵抗運動バンコクでの治安維持活動に際して,治安当局が抑制的に動いたのと対照的なのは南部国境3県(ヤラー,パッタニー,ナラティワート)の状況であった。
警察の発表によると,2013年,南部国境3県における中央政府とパッタニー独立運動派の間の対立は激化し,治安当局,武装組織,そして一般住民の合計267人が犠牲となった。犠牲となった人命の数,2000億バーツともいわれる治安予算,6万人に上る国軍兵士の派遣は,いずれもバンコクを舞台とする政治対立における各数字と比べて桁違いの規模であり,その点だけからでも南部国境3県を舞台とする政府と反政府武装勢力の対立の深刻度がうかがえる。
解決の糸口がみえない南部国境3県における暴力が続くなかで,2013年,中央政府と反政府勢力(パッタニー独立運動諸派)の関係改善にむけて,微かな希望はみられた。2月28日,パラドーン国家安全保障会議(NSC)事務局長はマレーシアのクアラルンプールにおいてムラユ・パッタニー国家革命戦線(Barisan Revolusi Nasional Rakyat Melayu Pattani:BRN)のハッサン・タイブ代表と南部国境3県をめぐる和平交渉開始に合意したと発表した。交渉開始にあたってタクシン元首相とナジブ・マレーシア首相の働きかけがあったことも併せて明らかにされ,1カ月後の3月28日にはクアラルンプールで第1回和平交渉が実施された。和平交渉はその後,第2回目が4月29日,第3回目が6月13日と連続して開かれたが,和平交渉の開始は,暴力の沈静化にはつながらなかった。第1回交渉の1週間後,4月5日にはヤラー県副知事が爆弾テロの標的となり死亡し,5月1日には2歳の男の子を含む6人が撃たれ犠牲となった。
警察の発表によれば,2013年における政府治安関係者の犠牲者は前年の60人から129人へと倍増し,反政府武装組織側の犠牲者も前年の28人から53人にと急増した。和平交渉が開始したにもかかわらず,実際には武装闘争が過激化している原因は諸説考えられている。第1に,そもそも暴力の発端である治安当局による不当拘留・逮捕が頻発しているためとする説である。第2に,反政府武装勢力側の世代交代が進んだことで,交渉に参加する旧世代の指導者たちと新世代の指導者たちの間で対立が生じているために,かえって活動の過激化を誘発しているという説である。第3に,南部3県で内戦状態が長引くことで経済活動が低下し,そのなかで麻薬取引が蔓延するようになり,その結果,利権をめぐって殺し合いが頻発しているという説である。
このように,南部国境県で犠牲者が急増した一方で,2013年に和平交渉が開始されたという点も特筆すべきことである。第1にタイ中央政府が正式に武装闘争を続けてきたグループの一派(BRN)を対話の相手として認めたことは画期的であった。BRNは南部タイの反政府諸派を束ねる立場にないことが次第に明らかになったものの,武装勢力のなかに交渉相手を求めるタイ政府の立場が明確になったことは,今後の対立緩和に向けてその意義は小さくない。
第2に,BRNのような南部国境3県の武装勢力の要求が肉声を通じて明らかになったのも画期的であった。要求の中身について,アブドゥルカリム・カリブBRN交渉代表団員は,4月29日にYouTubeを通じて以下のように発表した。「一つ,植民地支配者シャムはマレーシアをファシリテーターではなく調停者として受け入れること,二つ,和平交渉はBRNに代表者されるパッタニー人と植民地支配者シャムの間で行われるということ,三つ,交渉にはASEANの加盟国,イスラム協同機構(OIC),およびNGOから証人が参加すること,四つ,植民地支配者シャムは無条件で拘留者すべてを解放し逮捕状を取り下げること,五つ,植民地支配者シャムはBRNがパッタニー人解放運動であり,分離独立運動ではないということを認めること」。上記声明で用いられた「植民地支配者シャム」という術語は,多くのタイ国民にとって初めて聞く言葉であり,中央政府,タイ国民のもつ南部問題への基本認識を改める言葉となった。第2回和平交渉でパラドーンNSC事務局長がBRNの要求を正式に却下したものの,拘留者の処遇につき,無条件一括解放は不可能でも,1件ごとに解放の可否を精査する姿勢をみせ,中央政府との交渉の扉は開かれていることを示した。
第3に,第3回和平交渉で,ラマダン月の停戦が合意されると,2013年7月の1カ月間は暴力事件の件数は42件と2004年来最低の数字を記録した。停戦は実現しなかったものの,暴力事件がひと月当たりで最低を記録した事実に目を向ければ,BRNとの交渉は限定的ではあっても実際に効果があるということが示されていた。
通年で犠牲者を数えると,2013年は対立の激化した年であり,バンコクにおける政府とPDRCの間の対立ゆえに年内に第4回交渉が開かれることはなかった。したがって,和平に向けての道は頓挫したかのようにみえる。それでも,中央政府のみならずBRN側も,和平交渉は時間がかかるが和平に向けた唯一の方法であると認めており,その共通認識が培われたことは,2013年の大きな成果であったといえるだろう。
2014年2月17日の国家経済社会開発庁(NESDB)発表によると,2013年の実質GDP成長率は2.9%となり,2012年の6.5%から大きく低下した。GDP成長率を四半期ごとにみると,第1四半期は前年同期比で5.4%増と堅調であり,2011年洪水後の復興投資などの投資部門が成長を下支えしていたものの,第2四半期は2.9%と,中国の需要低下や日本の円安,記録的なバーツ高の影響を受け輸出が伸び悩んだのを背景に成長スピードは鈍化した。第3四半期は国内民間消費が前年同期比でマイナス1.2%と減退し,同様に国内投資もまたマイナス6.5%と減退の影響を受けて,2.7%と低成長で推移した。第4四半期はGDPの約半分を占める家計消費が前年同期比マイナス4.5%と1998年以来の落ち込みをみせたことで,0.6%の低成長となった。
タイの株価指数(SET指数)は,2011年の洪水後の回復需要も手伝って,2013年は年初から好調を維持し1643.43ポイントと16年ぶりの高値を記録(5月21日)した。その後中国経済の鈍化やアメリカの量的緩和の縮小をめぐる懸念から海外勢の売りが加速し,SETは一時1275.76まで下落(8月28日)した。その後,一時は1486.76まで回復(9月20日)したものの,政治対立の影響で大規模インフラ投資計画への政府支出が延期されることがわかると,SETは再び下落しはじめ,2013年の最終日(12月27日)には1298.71まで下げた。
タイ・バーツは米ドルや日本円の量的緩和の影響を受けて第1四半期だけで5%のバーツ高となり,アジア通貨のなかでももっとも大幅な切り上げを記録した。4月21日には,16年ぶりの高値となる終値1ドル=28.625バーツを記録し,輸出部門,とりわけコメ,ゴム,衣類が打撃を受けた。政府は中央銀行に政策金利の切り下げを求めるも,中央銀行は国内の個人債務の高さを理由に2.75%に据え置き,ようやく5月29日になって,2.50%へと小幅な切り下げに応じた。一方,アメリカの量的緩和縮小や中国の需要減退を背景に,2013年後半は一転してバーツ安が進行した。中央銀行は,第3四半期以降投資支出および家計支出が前年を下回ったことを理由に,11月27日には年2.5%から年2.25%に政策金利を引き下げ,為替レートも12月26日には4年ぶりのバーツ安となる1ドル=32.76バーツを記録した。
2013年は,このほかにタイの経済成長率を失速させる要因が重なった。第1に,民間国内消費は通年でわずか1%の成長であった。低成長の理由は,2012年に実施されたマイカー取得減税策により,自動車需要が一巡したことが大きな要因であると考えられる。また2013年に計画されていた治水インフラ事業などの大規模インフラ投資の延期が響き,公共投資はマイナス4.4%となり,民間投資と合わせて通年での国内投資額は前年比マイナス1.9%まで縮小した。
なお,GDPの約38%を占める製造業において,2013年の工場稼働率が60%と低位で推移しているなかでの国内投資減は,今後の製造業の成長にとって懸念事項である。国内の政治対立が継続し,先行きが不透明ななかで,第4四半期の民間投資がマイナス13.1%と大幅な減退を記録したこと,および,政府の大規模インフラ投資が滞っていることも2014年に向けての懸念材料である。
タイ経済を牽引してきた輸出部門に焦点をあてると,2013年の中国経済の減速や,日本の円安に伴う需要減により,コンピューター部品関連が6.8%減,ゴムが5.9%減を記録し,輸出部門合計では0.3%のマイナス成長であった。タイの特筆すべき点は,政治的対立の経済とりわけ輸出部門への影響が概ね限定的であったことにある。しかし,2013年にはこれまでの「政経分離」の前提が通用しないことが明らかとなった。とりわけ政治対立が激化した第4四半期の投資の縮小がもたらす長期的な影響も計り知れない。損失を回復しようにも,下院解散後暫定内閣となったインラック政権は,選挙管理内閣として権限を制限され,総選挙後に新政権が誕生するまでは実効的な経済政策,とりわけ大規模な政府投資を始めることはできない見通しである。
インラック政権はその経済政策の大方針として,輸出主導型から内需主導型経済への移行を目指すとしていたが,2013年の経済成長の鈍化,そして数カ月に及ぶ国内の政治対立の影響を受けて,基本方針の修正を余儀なくされている。そこで以下では,その政策方針の修正をもたらした2013年の経済政策の行き詰まりについて,インフラ整備計画の延期,籾米担保融資制度の綻び,そしてBOIの機能停止についてそれぞれ記したい。
2つのインフラ開発計画の頓挫――交通運輸・治水インフラ整備事業インラック政権の中長期の経済政策は,第1に国際市況に左右されやすい輸出主導型のタイ経済を内需主導型に変え,安定的な経済成長を実現することであり,第2に2015年のAEC成立を前にして,タイを大陸部東南アジアの生産ネットワークにおけるハブにするという国家開発戦略であった。周辺国に比べ賃金が高騰するタイの経済成長のためには,政策目標として労働集約型の産業から高付加価値の資本・技術集約型の産業への転換を進め,同時にGDPの15.2%といわれる物流コストを2%にまで引き下げることが掲げられた。インラック政権発足直後の2011年には,高付加価値産業が集積していたアユタヤ地域の工業団地が,大洪水により大規模な損害を出したため,各投資家の信頼を回復するために,抜本的な治水インフラ整備事業の推進が優先課題となった。加えて,2013年1月1日から施行された全国一律最低賃金300バーツ政策などによりタイ国内賃金の高騰が決定的となるなかでも,タイが東南アジアの生産ネットワークのハブとなるためには,国内および近隣各国との接続性を高めて財・サービスの移動がより円滑に安定的に行われるよう,高度な交通インフラの整備もまた急務であった。
このような国家開発戦略に基づき,2013年3月,インラック政権は閣議において総合的な全国交通輸送システム建設のため,財務省に2兆バーツの借り入れ権を付与する法案を国会に提出することを決定した。史上最大規模となるこの借入額の使途内訳については,42.7%が高速鉄道建設事業,24.9%がバンコクの地下鉄延伸事業,15%が道路補修・改善事業,14.4%が既存の鉄道網の複線化および新規路線整備事業,1.6%が港湾整備事業,1.5%が国境道路部の荷役集積所建設事業に充てられることとなっている。政府試算によると,この総合交通整備事業により,経済効果として7年間にわたって毎年GDP成長率が1%上乗せされ,建設期だけで50万人分の雇用を創出すると試算されている。長期的にはタイ国内の輸送網を道路中心から鉄道中心へとモーダルシフトを行い,物流コストを大幅に引き下げることを目標としている。マクロ経済への効果と同様に重要な政策目標は,インフラ整備の結果,地方間の接続性が向上することでバンコクを中心としない地方経済圏をタイ各地に5~10地域誕生させることにある。一部は国境をまたいで形成される各地の国境域経済圏がインフラの充実により活性化することで,中央集権的なタイの地理的経済構造をより地域分散型へと変化させ,2015年のASEAN統合を見据えた多極的な経済センターを通じてタイ経済を底上げする仕組みを構築することを目標としている。
しかしながら,財務省の2兆バーツ借り入れ法案の審議は,恩赦法および憲法改正案の審議を優先させたしわ寄せをうけて棚上げとなり,国会の承認は大幅に遅れ,最終的に11月20日にまでずれこんだ。加えて,国会承認を経た直後には野党民主党のゴーン元財務相が,2兆バーツ借り入れ法案はタイの財政規律を著しく損ねるものであり,合憲性に疑いがあるとして憲法裁に違憲審査請求を行った。その結果,国会通過後の国王への上奏手続きは一時停止を余儀なくされ,事業実施はさらに先送りされることになった。計画当初の予定では2013年年内にも第1期高速鉄道建設の国際入札を実施する予定であったが,2兆バーツ借り入れ法案に対する憲法裁の違憲審査結果を待つこととなり,入札は延期され実現は翌年に持ち越された。
2013年の注目政策であるもうひとつの大規模インフラ整備プロジェクトは,治水インフラ整備事業実施であった。2011年の大洪水で明らかとなったタイ全土の洪水リスクを軽減するため,政府は放水路,貯水ダム,遊水地の建設などからなる,予算総額3500億バーツの総合的な長期の治水インフラ整備事業を2012年に策定された「タイ総合的治水計画マスタープラン」に基づき計画し,事業の入札結果が6月18日に発表された。
9つの事業区分からなる治水インフラ整備事業のうち,最大の事業区分を落札したのは韓国水資源公社(K-Water)で,放水路建設と遊水地建設の2件を1623億バーツで,中国電力建設集団/中国水利電力対外とタイの建設大手イタリアン・タイの共同事業体(JV)がメーウォンダム建設など5件総額1100億バーツでそれぞれ落札し,優先交渉権を得た。落札者の決定を受けて,政府は事業費3143億バーツの借り入れを承認した。
入札および予算承認手続きは終了したものの,用地確保に伴う住民移転の問題や貯水池建設区域の環境問題などの未解決問題について,落札者の決定直後,反対運動を行っている環境保護団体が事業の取り止めを求めて行政裁判所に提訴した。6月27日,中央行政裁判所は政府に対し,落札業者との契約前に環境・健康アセスメント,住民に対する公聴会の実施を命じる判決を下したため,事業契約,着工の遅れは必至となった。9月22日には建設予定地のナコンサワンから約1000人が400キロメートルを歩いてバンコクを訪れ,メーウォンダム建設計画に反対する集会を開き,プロジェクト反対を呼び掛けた。
事業管理者の治水・洪水管理委員会(WFMC)の委員長,プロートプラソップ副首相は行政裁判所の命令に対して,すでに十分な環境アセスメントを行っていると反論したが,インラック首相は9月24日,事業の治水対策への有効性を強調しつつも,住民や自然環境への影響も認め,反対派の意見を聞く考えを示し,公聴会を開くよう関係者に指示した。公聴会は10月より約3カ月間かけて,工事の影響を受ける県で実施すると発表された。ただ,タイミングの悪いことに,バンコクにおける反政府運動に呼応して,11月以降は公聴会でも抗議運動が激しさを増すようになった。11月18日にピチット県で開かれた公聴会では,事業に反対する地域住民らが,説明に訪れたプロートプラソップ副首相を取り囲み,バンコクでの反政府デモと同様にホイッスルを一斉に鳴らして抗議した。同副首相も持参した自身のホイッスルを吹いて対抗するなど,各地で開催された公聴会で混乱が続き,事業実施の前提条件となる公聴会が多数延期に追い込まれた。追い討ちをかけるように,インラック首相が12月9日下院を解散したことで,暫定政権下では1件当たり数百億バーツ規模の事業契約を行うのは無理があるという見解を治水洪水管理委員会のスポット事務局長が示し,事業実施は新内閣が成立する翌年まで持ち越しとなった。
籾米担保融資制度の綻びタイ貢献党の最大の経済政策にして,2013年もっとも大きくつまずいた経済政策は,籾米担保融資制度の運用であった。稲作農家に対して,収穫した籾米を担保に資金を融資するこの制度は1982年に始まったものであるが,アピシット政権期に一時中断された制度の復活をインラック政権は2011年選挙時の公約とした。注目されたのは,融資基準額が市場取引価格を大きく上回る,普通米1トンあたり1万5000バーツという高値に設定されたことであった。インラック政権下で運用された籾米担保融資制度は市場取引価格より高い基準で融資を行うため,実質的には融資元の農業・農協銀行(BAAC)が籾米を高値で買い上げる稲作農家の所得増加政策であり,農村部に対する消費刺激策であった。
融資価格が市場価格を上回るため,農家は積極的に制度を利用し,籾米担保融資制度はタイのコメ生産量のほぼ全量で利用されるようになった。ただ,市場価格が融資時の価格よりも高くなることはまずないので,担保にした籾米を農家が質請けすることはなく,質流れしたコメの融資資金をBAACが支払い続けることになるため,制度運営の課題は,膨れ上がる融資総額を政府が負担し続けられるか否かという点にあった。
インラック政権の籾米担保融資制度では,農家は認可精米所に籾米を預け入れ,そこで発行される質入れ証書と引き換えにBAACから融資を受ける。認可精米所が引き受けた籾米は精米されて公共倉庫機構(PWO)に納入され,精米所は精米料と運搬料を受け取る。PWOに納入された精米は(1)政府間取引,(2)輸出業者への入札,(3)国内卸売業者への入札の3つの方法で保管米を売却し,売上金を国庫に戻すことになる。したがって,PWOに保管された精米の売却状況が籾米担保融資制度の成否につながることになる。ただ,払い出しの3方法のうち,タイ国内に卸す入札については,国内市場での売値が統制されているため,応札額が融資基準額に達することがない。そのため,保管米を国内に卸せば逆ざやとなり,必然的に損失を累積させることになる。したがって,制度を継続可能なものにするためには,保管米の輸出価格と輸出量の動向が鍵を握ることとなった。
2013年6月にはこの制度の綻びが露見しはじめた。発端は格付け会社ムーディーズが6月3日,籾米担保融資制度の損失額が初年度の政府予想1000億バーツを大幅に上回る2000億バーツに達すると発表したことにあった。ブーンソン商務相はこの見解に対し反論する記者会見を開いたものの,具体的な政府間取引の売上額は食糧安全保障上の理由から公表できないとして政府間で730万トンの売買契約を締結したとのみ発表し,具体的な損失額を公表することもなかったため,損失額をめぐる憶測が飛び交い,現制度の継続性に不安が立ちこめた。
籾米担保融資制度の損失にメディアの注目が集まるなか,財務省の監査チームは監査結果を発表した。籾米担保融資制度の初年度の記録として,政府は2170万トンの籾米に対して3520億バーツの融資を行い,払い下げによる売り上げは約600億バーツ,保管米の評価額は1560億バーツとなり,初年度確定損失額は1360億バーツになるとした。その後,監査チームのリーダーを務める財務省のスパー副事務次官は,上院委員会にて籾米担保融資制度の損失額は2011年から始まった3収穫期(2011/12年雨季作,2012年乾季作,2012/13年雨季作)で合計約2210億バーツに上っていると発表し,加えて汚職の蔓延を指摘した。
損失が累積した最大の要因は保管米の輸出が進んでいないことに起因する。タイは長期にわたって世界最大のコメ輸出国であったため,制度設計にあたっては,タイの国際コメ市場価格に対する影響力を大きく見積もっていた。つまり,タイ産米の卸売り価格の上昇は国際市場価格の上昇に直結するという楽観的な見通しがあった。ところが,見通しに反して国際市場でのコメ価格は想定したほど上昇せず,加えて籾米担保融資制度においてタイ産米の品質管理メカニズムが十分に機能しなかったため,国際市場においてタイ産米の品質に対する信用が低下し,タイ産米の輸出競争力は失われ,より安価なインドやベトナムに輸出市場を奪われた。
政府のその後の対応は事態をさらに複雑化させた。累積する財政負担の軽減のため,国家コメ政策委員会は6月18日,普通米1トンあたり1万5000バーツとしていたこれまでの担保融資価格を6月30日から1万2000バーツへと引き下げる予定であると発表し,翌日閣議決定された。同決定では6月20日から担保融資限度額を無制限から1世帯,1収穫期あたり最大50万バーツに制限し,これらの政府の決定は,稲作農家に対する公約違反であるとして農業団体は政府を非難し,政府が設定した担保価格が高すぎると非難し続けていた野党までもが,農家の反発に乗じて政府の価格引き下げ決定を非難した。
籾米担保融資制度をめぐる混乱の影響もあって,内閣支持率が低下するなか(バンコク大学世論調査で内閣支持率は48.8%から41%に下落),政府は支持率回復を期待して6月30日に内閣改造を行った。新任のニワットタムロン商務相は7月1日,すぐさま6月19日の閣議決定を撤回し,9月15日まで普通米1トンあたり1万5000バーツに据え置くことを発表し,農家の不満を解消しようと努めた。
担保価格引き下げ決定の撤回は,他方で,コメ卸売価格の低下を期待したコメ輸出業者を困惑させた。融資基準価格の据え置きは,輸出用のコメの払い下げ価格も高止まりすることを意味し,コメ輸出業者として利ざやはきわめて小さくなる。この決定に対し,タイ・コメ輸出業者協会のチューキアット名誉会長は「二転三転するタイ政府の政策を国際市場は嘲笑している」と政府を批判した。
次に問題となったのは,籾米担保融資制度の融資金の支払い遅延であった。籾米担保融資制度の融資は農家が精米所で質入れ証書を受け取り,証書をBAACに提出し,後日資金を受けとる手順となっている。BAACが農家に支払う資金は政府が調達し,そこに保管米の売り上げ金を加えてBAACに払い戻す仕組みとなっている。政府が2011年当初用意した籾米担保融資制度用の運転資金は5000億バーツであり,タイの民間銀行の試算によればこれまで4度の収穫期に対して6600億バーツの支払いを行い,1800億バーツが売り上げとして還流したため,差し引き4800億バーツが負担額として累積した計算となる。したがって当初の準備金はほぼ底をつき,2013年後半はとくに,その継続性が危ぶまれることになった。
制度維持に黄信号が点るなか,政府は,まず融資基準額を普通米1トンあたり1万5000バーツに据え置きつつも,1世帯あたりの融資限度額を35万バーツに引き下げた。加えて保管米の売却益を得るために,政府対政府の取引に限定せず,8月には一般競争入札による払い下げを検討した。しかしながら,政府の設定した最低払い下げ価格が高すぎて募集の20万トンに対して3万トンしか成約できず,12月にはBAACの資金確保のため,金融債750億バーツの発行を目指したが,政治不安もあって応募額は370億バーツにとどまり,BAACの資金繰りは悪化したままであった。
12月になると,いよいよ籾米融資の支払いが滞りはじめた。キティラット副首相は支払い遅延が政治対立に伴う行政機能の停止によるものであり,BAACの資金不足が理由ではないと強弁した。東北部や北部に比べても,とりわけ支払いが遅れたコメどころの中部では,支払いに数カ月待たされた稲作農家による抗議デモが始まった。最終的にキティラット副首相は12月17日陳謝したものの,支払いは滞ったままであった。さらに下院解散後は,政府に国債発行などの方法による新規借入れの権限が失われたため,支払いの見通しすら失われた。
タイ貢献党は籾米担保融資制度について,その受益者は約2000万人であると推計し,最低賃金300バーツ/日への引き上げ政策やマイカー減税策などと比べてもはるかに多くの国民の所得増加に貢献する最重要経済政策と位置づけていた。したがって,籾米担保融資制度の成功は,タイ貢献党が長期政権を実現する基礎条件となる,公約を守る政党であるというブランドを維持し,所得増加で農村部での支持を固めることと同義であった。それゆえに,巨額の財政負担累積や大規模な汚職の疑いなど,当初から批判の声が大きな政策であったが,政府は一切の妥協を拒否してきたのであった。
2013年,籾米担保融資制度がその綻びを露見させたことで,政策に対する評価は大きく分かれることになった。まず,融資基準額の高さ,そして買い取り量の多さゆえに,大幅な所得増が実現したことで農家には人気が高い制度であった。認可精米所にとっても,PWOが精米をすべて引き受けることから,卸売り業者としてのリスクがなくなり,精米料と輸送料を安定的に稼ぐことができ,加えて,籾殻などの売り上げなどの副収入も得られるだけに人気の高い制度となった。
一方で,コメ輸出業者はこの制度への不満,不信を高めている。主な不満の理由は,第1に担保融資基準額の高さゆえに政府米の払い出し価格も高騰したことで,以前のように国際市場価格との間で輸出利益を求めることは難しくなり,第2に政府間取引については事実上政府に近い一部の業者だけが政府間取引を独占しているため公平な競争が阻害されている,というものである。
加えて,本制度維持のために政府支出が増大したため,財政規律が損なわれつつある点を多くの識者が批判した。クルンテープトゥラキット紙によれば,2011~2013年の3季作分の損失は3320億バーツであり,運用コストを上乗せすると実質的な財政負担はさらに膨れあがっているとも考えられる。政府の国家財政規律の基準のひとつに,公的債務は予算の15%以内に抑えるよう定められているが,2013年の政府予算が約2兆4000億バーツであることを考慮すると,籾米担保融資制度だけで,すでに債務枠をほぼ使い切ってしまったことになる。財政規律を守ることで市場や国際的な信用を維持する重要性を認めつつも,財政収支バランスを墨守するため資金調達に強い縛りをかければ,資金不足で農家への支払いが滞ることは必至で,支払いが滞れば制度に対する農家の信用,さらには農家の政権への信用が失われる懸念から,政府は制度の財政運営をめぐって苦しい立場に置かれた。
投資委員会(BOI)の機能停止2013年に経済成長が鈍化した最大の要因は国内民間消費と国内投資の減少であったが,中長期の経済動向を見極めるうえで,政治対立と議会解散がゆえに生じたBOIの機能停止のもつ今後の国内投資への影響は,看過できない。
2013年10月,タイにおいて2億バーツを超える投資申請について承認手続きを行うBOI小委員会の委員任期が満了した。新委員は下院での承認手続きを経て就任するのが規定だが,下院では恩赦法,憲法改正案にかかる審議が優先され,さらに下院が解散した結果,新委員の承認手続きは棚上げとなった。下院解散後のインラック政権は,権限上の制約ゆえに投資申請の承認やBOI小委員会の新委員任命の手続きは行えず,その結果2億バーツ以上の投資認可手続きは停止した。
この間,激しい政治対立にもかかわらず,タイでは2013年末を適用期限とする「持続可能な開発のための投資奨励政策」を利用した再生可能エネルギー,バイオ燃料関連の大型の投資案件の申請が相次いでいた。この結果,2013年の投資申請実績では,最終的にはBOIの年初の目標であった9000億バーツを大きく上回る1兆1104億バーツの申請を記録しており,政府の投資奨励策は有効に働いていた。それだけに,申請の承認遅れに伴う損失がもたらす,長期的な影響が懸念される。キティラット副首相によれば,2013年年末で4000億バーツ分の投資申請がすでに棚上げされており,BOIとして提案可能なことは,規定違反を回避するために,大型プロジェクトを2億バーツ以下に切り分けて申請することを推奨するにとどまり,根本的な解決の目処は立っていない。
インラック政権は2013年には大型インフラ事業や籾米担保融資制度など重要な経済政策を頓挫させた。国内投資,国内消費を刺激することで,マクロ経済の安定成長を狙った経済政策であったが,制度的な綻びや,政治対立で足を引っ張られ,再び輸出部門頼りの経済運営へと大幅な方針転換を余儀なくされている。今後のタイ経済の回復は,籾米担保融資制度がどのように修正されるのか,2兆バーツの総合インフラ整備事業や治水インフラ事業が着工されるか,またBOIが早急にその機能を回復できるかに大きくかかっている。それゆえに,今後の経済動向を理解するためにも,2014年は引き続き,政治動向を注視する必要がある。
外交における2013年のタイの課題は,なによりも経済外交であった。2015年のAEC成立で深化する経済統合を見越し,域内における物流網,生産ネットワーク上の優位な立場を確立するよう,近隣各国との接続性を強化することである。具体的には,外国企業に対する高速鉄道建設を中心とする交通輸送インフラ建設事業入札への応札奨励であり,また,タイが主幹となって開発を進めるミャンマーのダウェー経済特区開発への投資奨励であった。そのため,2013年外交としては,首相および運輸相を中心として活発なトップセールスが中心的なテーマをなした。
日本とはまず,5月23日に東京で開かれた首脳会談で安倍首相が高速鉄道建設への参加をアピールした。タイにとっては,総延長2500キロメートル,東西南北の4線からなる高速鉄道計画において,より好条件の海外投資を得ることを外交交渉の重要目標としている。したがって,インラック首相は日本に対して,鉄道事業入札への門戸を開放する一方で,開発資金が不足しているダウェー開発への日本政府,日本企業の参加を求めた。10月9日にブルネイで開催された東アジア首脳会議(EAS)で行われた日タイ首脳会談では,日本の鉄道インフラをタイの農産物で等価交換できないか,インラック首相は提案した。インラック政権としては,高速鉄道事業をテコに,国内問題となっている籾米担保融資制度の解決の糸口を見出す交渉であったが,WTOで定められたコメのミニマム・アクセス枠の調整問題もあり,すぐに日本からの了承を得ることはできなかった。一方中国に対しても,李克強首相が10月に来訪した際に開かれた首脳会談の場では,鉄道建設協力にかかる覚書(MOU)を締結するとともに,タイ政府が切望していた今後5年間に毎年コメを100万トン,天然ゴムを20万トン輸出するMOUを締結することができた。
また,ミャンマーで開発されているダウェー工業団地プロジェクトもタイ政府がミャンマー政府,イタリアン・タイ社と共同で開発する接続性強化策の目玉政策であり,大陸部東南アジアの東西回廊の実現の鍵を握る国際プロジェクトである。本プロジェクトに対しては,アンダマン海に開かれる深海港建設に対する投資を,とりわけ日本に呼び掛けている。
PDRCは,2014年2月2日の総選挙における候補者登録作業の妨害に成功し,新内閣成立に必要な475議席以上の議席確定を阻んだ。その結果,インラック政権は,暫定内閣としての地位は解消することができず,経済状況の悪化,そしてとりわけ籾米担保融資制度における農民への未払い状況と政権に対する支持の低下に対して,有効な手立てを打てずにいる。こうした状況を利用して,PDRCとしてはインラック辞任の圧力をかけ続けたいものの,こちらも反政府デモにおける犠牲者の増加や,一部参加者の疲弊などで,運動の規模縮小を余儀なくされている。政府,PDRCの両者ともに政治的決着をつける決定打がみつからないまま,今後は第三者機関としての国軍や憲法裁,そして,選挙管理委員会の動向が注目される。
経済面の復調,とりわけ2013年の第4四半期に大幅に落ち込んだ投資の回復を期待するには,政治対立の解消を待つしかない。したがって政治対立が解消されないなかでは,経済成長は輸出部門頼みとなり,アメリカや中国など,国際的な景気の動向に大きく左右されることになる。
対外政策もまた,政治対立の解消抜きには大きな進展は期待できない。新政権が樹立されれば,高速鉄道建設などの国際事業がいよいよ進展する可能性もある。また,バンコクでの政治対立の状況にかかわらず,暴力が激化する南部国境3県の問題解決に向けては,マレーシアとの協力関係を維持することが期待されている。2013年に始まった和平交渉は,道のりは長くとも続ける以外に選択肢はない。継続のためには,マレーシアの協力は必要不可欠であり,これまで以上に密接な二国間関係を構築することが必要となる。
(九州大学比較文化社会研究院准教授)
1月 | |
1日 | 全国一律最低賃金300バーツ政策を施行。 |
9日 | 中銀,政策金利を2.75%に据置き。 |
9日 | スクムパン都知事,任期満了前日に辞任。 |
10日 | 最高行政裁判所,カーンチャナブリー県の鉛汚染被害をめぐる村民による行政訴訟にて,汚染管理局の過失を認定,補償を命令。 |
15日 | ミャンマー,ラオス,カンボジアからの違法移民労働者の国籍証明手続きを4月15日まで特別延長することを閣議決定。 |
17日 | 安倍首相来訪(~18日)。インラック首相と会談。国王に謁見。 |
21日 | チュムポン副首相兼観光・スポーツ相が死去。 |
30日 | 収賄罪・殺人罪で7年間逃亡中のチョンブリーの有力者,ガムナン・ポを警察がバンコクにて逮捕。 |
31日 | タイ国鉄,レッドライン建設の入札結果を発表。イタリアン・タイ社が受注。 |
2月 | |
2日 | パッタニー県にて農民2人,ヤラー県にて商人4人が銃殺される。 |
4日 | 首相,カンボジア訪問。シアヌーク王父国葬式典に参列。 |
10日 | ヤラー県ラーマン郡にて国軍襲撃され,兵士6人死亡。 |
12日 | 閣議にて,2014年度予算案を承認。歳出は2013年度比5.2%増の2兆5250億バーツ。 |
13日 | ナラティワート県バチョー郡にて海兵隊と武装グループが銃撃戦。武装グループ16人死亡。 |
20日 | 中銀,政策金利を2.75%に据え置き。 |
24日 | 首相,韓国訪問。朴槿恵大統領就任式出席。 |
26日 | スカンポン国防相,カンボジアの国境係争地からの国軍引き揚げについて,カンボジアのティア・バン国防相と合意。 |
26日 | 国家汚職防止取締委員会(NACC),サティアン前国防次官の資産6500万バーツを凍結。 |
28日 | パラドーン国家安全保障会議(NSC)事務局長,クアラルンプールで国家革命戦線(BRN)のハッサン・タイブ代表と南部国境3県をめぐる和平交渉開始に合意と発表。 |
28日 | 首相,マレーシア訪問。ナジブ首相と会談。 |
3月 | |
3日 | バンコク都知事選にて,スクムパン民主党候補が再選。 |
6日 | 首相,スウェーデン,およびベルギー訪問(~7日)。EU本部にて,タイ・EU間のFTAについて協議。 |
13日 | 首相,ラオス訪問。トーンシン首相と会談。 |
13日 | 赤道ギニアのンバソゴ大統領来訪(~16日)。首脳会談実施。 |
19日 | 政府,インフラ開発のための特別借入れ法案を閣議決定。7年間にわたり,上限2兆バーツの借入れ権限を財務省に付与。 |
21日 | 首相,ニュージーランド訪問(~24日)。キー首相と会談。 |
24日 | 首相,パプアニューギニア訪問(~25日)。オニール首相と会談。 |
28日 | クアラルンプールにて南部国境3県にかかわる第1回和平交渉を実施。 |
29日 | 2兆バーツのインフラ特別借入れ法案,下院第1読会を通過。 |
4月 | |
2日 | 空席となっていた観光・スポーツ相にソムサック・プリシーサック就任。 |
3日 | 憲法改正3案,下院第1読会を通過。 |
3日 | 憲法裁,国会憲法改正審議の違憲審査請求を受理。審議差し止めの仮処分請求は棄却。 |
3日 | 中銀,政策金利を2.75%に据置き。 |
4日 | NACC,首相の資産調査結果を発表,隠蔽なしと結論。 |
5日 | ヤラー県副知事,爆弾テロで死去。 |
18日 | バーレーンのハリーファ国王が来訪(~20日)。国王,首相らと会談。 |
21日 | チェンマイ県3区の下院補選にて首相実姉のヤオワパー・ウォンサワット当選。 |
21日 | バーツ高進行で,16年ぶりの高値となる終値1ドル=28.625バーツを記録。 |
22日 | 赤シャツ派,憲法改正手続き妨害阻止のため憲法裁前にて座り込み集会開始。 |
23日 | タイ工業連盟,中銀に対し政策金利を年2.0%に引き下げるよう要求。 |
24日 | 首相,第22回ASEAN首脳会議参加のためブルネイ訪問(~25日)。 |
24日 | 民主党議員,国会会議規則違反でソムサック下院議長の罷免を上院議長に請求。 |
27日 | 首相,モンゴル訪問(~29日)。演説で2006年クーデタ,2010年デモ制圧を非難。 |
29日 | パラドーンNSC事務局長,BRNと2回目の和平交渉。 |
5月 | |
1日 | パッタニー市でテロ事件。2歳の男の子を含む6人が機関銃で射殺される。 |
13日 | 財務省,洪水対策プロジェクト費3500億バーツのうち,1200億バーツを政府貯蓄銀行とクルンタイ銀行から借入れることで合意。 |
17日 | ラモン・タジキスタン大統領来訪(~19日)。首脳会談実施。 |
19日 | チェンマイで第2回アジア太平洋水サミット開催。バングラデシュ,ブルネイ,フィジー,グルジア,ラオス,ニウエ,韓国,タジキスタン,バヌアツより首脳出席。 |
20日 | 国家経済社会開発庁(NESDB),第1四半期GDPは前期比2.2%減と発表。 |
21日 | 南部14県にて2時間広域停電発生。 |
22日 | ピラパン・プアタイ党議員,国民和解法案を下院に提出。 |
22日 | 首相,訪日(~25日)。タイ投資奨励のため「東京ロードショー」実施。 |
23日 | 首相,安倍首相と会談。 |
28日 | 民主党,憲法改正案に賛成した6政党の解散命令,改正手続きの中止を命じる仮処分を憲法裁に請求。 |
28日 | 2013/14年度予算の地方行政機構への配分について,政府と地方行政機構は当初予定の27%から28%に増分することで合意。 |
29日 | 中銀,政策金利を年2.75%から2.50%に利下げすることを決定。 |
30日 | インドのシン首相来訪(~31日)。 |
31日 | 首相,スリランカ訪問(~6月1日)。 |
6月 | |
1日 | 首相,モルディヴ訪問(~3日)。 |
13日 | NSC事務局長,BRNと3回目の和平交渉。ラマダン月の暴力抑制で合意。 |
13日 | 憲法裁,PADと民主党議員が提出した,憲法改正案に対する違憲審査請求を受理。審議差し止めの仮処分申請は却下。 |
14日 | 白仮面をつけた反政府運動「V For Thailand」と赤シャツ派グループがチェンマイにて衝突。 |
16日 | 反政府運動「V For Thailand」が都内中心部で集会。 |
16日 | バンコク都ドンムアン地区で行われた下院補選で民主党のタンクン候補がプアタイ党のユラナン候補を破り初当選。 |
18日 | BRN,ラジオを通じて進行中の和平交渉を説明。交渉の5条件を提示。 |
18日 | 洪水対策インフラ建設にかかる入札結果発表。韓国のK-Water,中国の中国電力建設集団など4事業体が総計2848億バーツで落札。政府は事業費3143億バーツの借入れを承認。 |
19日 | 籾米担保融資制度の融資価格を普通米1万5000バーツ/トンから1万2000バーツ/トンに引き下げることを閣議決定。 |
27日 | 中央行政裁判所,3500億バーツの洪水対策インフラ建設について,政府に建設事業体との契約前に住民向け公聴会の開催を要求。 |
30日 | インラック内閣改造。首相が国防相を兼任。商務相にニワットタムロン。 |
7月 | |
1日 | 日本政府,タイ国民の15日以内の訪日査証免除を決定。 |
2日 | 政府,籾米担保融資制度の融資価格を引き下げるとした閣議決定を撤回。1万5000バーツ/トンに据置くことを閣議決定。 |
3日 | 首相,ポーランド訪問(~4日)。トゥスク首相と会談。 |
5日 | 首相,トルコ訪問(~6日)。ギュル大統領と会談。翌日,エルドアン首相と会談。 |
10日 | 中銀,政策金利を年2.5%に据置き。 |
12日 | 憲法裁,国会審議中の憲法全面改正案は国民投票が必要であるとし,国会審議の停止及び条項毎の改正手続きを命じる。 |
16日 | 首相,フン・セン首相の父親の葬儀に参列するためカンボジア訪問。 |
27日 | ラヨーン県沖にてタイ石油公社(PTT)傘下のパイプラインが破損。約5万㍑の原油流出。 |
28日 | 首相,モザンビーク,タンザニア,ウガンダ訪問(~8月2日)。 |
30日 | 個人所得税の実質減税につながる国税法典改正案を閣議決定。 |
8月 | |
1日 | ワサン憲法裁長官が辞任。 |
1日 | 政府,国会および首相府周辺バンコク都内3区に治安維持法適用(~7日)。 |
1日 | 国王,滞在中のシリラート病院より,フアヒンのグライガンウォン離宮に転居。 |
4日 | チャイ海軍提督ら率いる反政府運動「人民軍」がバンコク都内で集会開催。 |
8日 | ウォラチャイ・タイ貢献党議員提出の恩赦法案が下院第1読会を通過。 |
19日 | 首相,タジキスタン訪問(~20日)。ラモン大統領と会談。 |
20日 | 首相,パキスタン訪問(~21日)。シャリーフ首相と会談。 |
20日 | 恩赦法審議の議事をめぐり議場内にて民主党抗議。警備員と小競り合い。 |
21日 | 中銀,政策金利を年2.5%に据置き。 |
24日 | 市場でのゴム価格下落に伴い,ナコンシータマラート県にて政府に一定価格での買い取りを求める抗議運動が発生し,農民が幹線道路を封鎖。 |
25日 | 政府提案の「政治改革会議」の第1回会合開催。民主党参加せず。 |
26日 | ゴム農家抗議運動で鉄道線路閉鎖。 |
28日 | 上院議員選出法をめぐる憲法第3条改正案を第2読会で賛成多数により通過。 |
29日 | 首相,国会答弁でゴム農家へのコメ農家同様の担保融資制度導入を拒否。 |
9月 | |
1日 | タイ高速道路公団,都心高速道路利用料金を45バーツから50バーツに値上げ。 |
2日 | 首相,南寧で開催の中国・ASEAN博覧会参加のため訪中(~3日)。 |
3日 | 政府は2013/14年度籾米担保融資制度の予算2700億バーツの枠組みを決定。 |
8日 | 首相,スイス,イタリア,モンテネグロ訪問(~15日)。 |
10日 | 政府,ゴム園農家への2520バーツ/ライ(上限25ライ分)の助成金実施を閣議決定。 |
22日 | 洪水対策インフラ建設事業の一部でメーウォンダム建設に対する反対集会開催。 |
28日 | 国会にて上院議員選出方法を規定する憲法第3条改正案が賛成多数で可決。 |
10月 | |
1日 | 新検事総長にアタポン・ヤイサワンが任命される。 |
4日 | 首相,ピニェラ・チリ大統領と首脳会談。タイ・チリ自由貿易協定に署名。 |
5日 | プラーチーンブリー県,ラヨーン県,チョンブリー県で洪水。アマタナコン工業団地冠水。 |
6日 | 首相,APEC首脳会談出席のためインドネシア・バリ訪問(~8日)。習近平中国国家主席と会談。 |
8日 | 2兆バーツの総合インフラ整備特別予算借入れ法案,上院第1読会通過。 |
9日 | 首相,ブルネイで開催されたASEAN首脳会議,東アジア首脳会議(10日)出席。安倍首相とも首脳会談実施。 |
10日 | 検察庁,タクシン元首相のテロ容疑について証拠不十分で不起訴決定。 |
11日 | 李克強中国首相来訪。国会にて演説。高速鉄道開発協力と農産物による支払いの覚書に署名。 |
12日 | 李克強首相,インラック首相と都内開催中の中国高速鉄道展示会訪問。その後シリントン王女,プレム枢密院議長と会談。 |
13日 | 首相,李克強首相と訪チェンマイ。 |
16日 | 中銀,政策金利を年2.5%に据置き。 |
18日 | 恩赦法案審議下院特別委員会にて,恩赦法案を変更。恩赦対象を一般国民のみから,政治指導者,国軍幹部を含むものへ拡大。 |
22日 | タイ,ミャンマー両国政府は両国間を空路渡航の場合,査証免除することを合意。 |
24日 | タイのサンガ(僧団)の最長老,ソムデット・プラ・ヤンナサンウォン法王が敗血症のため100歳で逝去。 |
28日 | プラチュワプキーリーカーン県で,パーム油農家が価格保証を求め幹線道路封鎖。 |
28日 | 検察庁,アピシット前首相およびステープ前副首相を殺人容疑で起訴する方針を発表。 |
31日 | バンコク・サームセーン駅にて恩赦法案に反対する抗議集会開催。 |
11月 | |
1日 | 下院にて,修正恩赦法案が第2,第3読会を通過し賛成多数で可決。 |
4日 | 恩赦法反対運動拡大。民主記念塔付近に数万人規模集結。 |
4日 | タマサート大学教授会,学生組織,恩赦法反対を表明。大学の恩赦法反対運動広がる。 |
7日 | 首相,国会審議中の恩赦法案および国民和解法案を取り下げ,デモ解散を要請。 |
11日 | 上院,恩赦法案を反対多数で否決。 |
11日 | 国際司法裁判所,プレア・ヴィヒア寺院のカンボジア帰属を確定し,周辺域の帰属については二国間での再交渉を要求。 |
12日 | デモ隊を率いるステープら民主党議員9人が議員辞職。政府職員にサボタージュを,国民に税金滞納を呼び掛け。 |
12日 | IMF,籾米担保融資制度を廃止すべきとのレポート発表。 |
15日 | ジューリン民主党議員,首相および内相に対する不信任案動議を下院議長に提出。 |
15日 | パキスタンのシャリーフ首相来訪。 |
19日 | ニュージーランドのキー首相来訪。 |
20日 | 憲法裁,憲法改正案に違憲判決。連立与党の解党処分および憲法改正案賛成の議員資格剥奪請求については,請求を棄却。 |
20日 | 上院,2兆バーツの総合インフラ整備特別予算借入れ案を承認。 |
20日 | 政府は中国とコメ120万㌧とタピオカ90万㌧輸出契約に調印と発表。 |
21日 | 上院一部議員,憲法改正案に賛成した312人の上下両院議員の弾劾請求を提出。 |
21日 | 上院一部議員,憲法裁に2兆バーツのインフラ整備のための特別予算案を違憲審査請求。 |
24日 | 反政府派,バンコクにて政権打倒「100万人集会」実施。マスコミ各社は10万~20万人規模と推定。 |
24日 | ラーチャマンカラー競技場にて赤シャツ派が数万人規模の政府支持集会実施。 |
25日 | 首相,治安維持法適用域をバンコク都内,ノンタブリー県全域,およびスワンナプーム空港区域等に拡大。 |
25日 | 反政府運動,財務省および総理府予算局を占拠,外務省も一時占拠。警察は衝突を回避。 |
26日 | 首相,シンガポール訪問(~27日)。 |
26日 | 反独裁民主統一戦線(UDD),バンコクにて政府支持の集会。会場近くの反政府学生グループと衝突し1人死亡。 |
26日 | タクシン元首相,日本で安倍首相と懇談。 |
27日 | 中銀,政策金利を2.5%から2.25%に引き下げることを決定。 |
27日 | 反政府運動,ジェーンワッタナー通りの新政府庁舎を占拠。工業省などの建物に侵入。 |
27日 | 反政府運動,地方31県にて県庁を包囲。地方公務員への反政府運動参加を呼び掛け。 |
27日 | NSC,BRNとの第4回和平交渉はバンコクの政治混乱を理由として延期と発表。 |
28日 | 首相と内相に対する不信任案審議を下院にて否決。 |
29日 | 反政府運動,「国王を元首とする民主主義のためのタイ改革人民委員会」(PDRC)設立。事務局長にステープ就任。 |
12月 | |
1日 | 首相,ステープPDRC事務局長と第4歩兵大隊本部にて直接会談。即時辞任,「人民議会」への権限移譲要求を拒否。 |
1日 | 首相府,首都警察本部前で反政府デモ隊と警察が衝突(~3日)。5人死亡,263人負傷。 |
1日 | ハッサン・タイブBRN代表,交渉再開条件に議会と首相にBRN側主張承認を要求。 |
2日 | 治安維持担当大臣にスラポン副首相兼外相を任命。 |
2日 | ソムチャーイ元首相ら109人の政党幹部に対する5年間の公民権停止処分期間終了。 |
2日 | 刑事裁判所,ステープPDRC事務局長らに対し内乱罪容疑で逮捕状発布。 |
3日 | 首相府および首都警察本部敷地をデモ隊に開放。催涙ガス弾の使用中止。 |
5日 | 国王,フアヒン離宮にて誕生日恒例の国民向けスピーチを発表。 |
6日 | 首相,ロックレアー米国太平洋艦隊司令官と会談。 |
8日 | 民主党下院議員全153人が議員辞職。 |
9日 | 首相,下院を解散。総選挙は翌年2月2日実施。PDRC側はインラック首相代行の即時辞任を求め反政府運動継続。 |
12日 | 法務省特別捜査局(DSI),アピシット前首相,ステープ前副首相を治安部隊の市民デモへの発砲を許可した殺人容疑で起訴。 |
12日 | 政府,政治改革協議会開催。PDRC側の参加は得られず。 |
16日 | 民主党党大会開催(~17日)。アピシット党首再選。 |
18日 | 三菱東京UFJ銀行,アユタヤ銀行の発行済み株式の72%を獲得し経営権握る。 |
18日 | DSI,逮捕状の出ているPDRCの幹部17人に出頭命令。寄付金用の2口座を凍結。 |
21日 | 民主党,翌年2月実施予定の総選挙ボイコットを決定。 |
22日 | PDRC,総選挙阻止および「タクシン体制追放」を求め都内大規模デモ実施。 |
22日 | ソンクラー県,ナラティワート県にて4連続爆弾テロ発生。2人死亡,27人負傷。 |
23日 | 個人所得税減税の勅令発布。課税所得15万バーツ/年以下は課税免除。 |
23日 | 総選挙参加の政党名簿登録開始(~27日)。PDRCは届け出を阻止すべくタイ日競技場を包囲。最終的に53政党が参加登録。 |
25日 | 政府,首都圏への国内治安維持法適用を60日間延長。 |
26日 | タイ国家放送通信委員会(NBTC),新デジタルテレビ放送のライセンス入札実施。 |
26日 | 政党の選挙参加登録が行われたタイ日競技場前で警察と反政府デモが衝突。96人負傷。 |
26日 | バーツ安進行,一時4年ぶりの安値となる1ドル=32.76バーツを記録。 |
28日 | 総選挙の小選挙区立候補者受け付け開始(~1月1日)。プーケットほか南部8県にて反政府デモが受け付け会場占拠。28選挙区で立候補者登録できず。 |
28日 | バンコク反政府デモ会場で発砲事件。1人死亡,3人負傷。 |
(注) カッコ内は任命日。
(出所) 官報および国防省,警察本部ウェブサイト。