アジア動向年報
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朝鮮半島 金大中・金正日会談以降の南北関係
柳 学洙
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2014 年 2014 巻 p. 37-50

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はじめに

2000年6月13日に大韓民国第15代大統領として平壌空港に降り立った金大中が,朝鮮民主主義人民共和国(以下,北朝鮮)国防委員会委員長であり朝鮮労働党総書記である金正日と固い握手を交わした場面は,分断後はじめて南北の首脳が顔を合わせたシーンとして全世界のメディアが報道した。そして,南北の和解と協力は金大中の「太陽政策」を引き継いだ盧武鉉大統領の時代にも進展を見せた。しかし,2008年2月に大統領に就任した李明博が北朝鮮の核放棄を最優先課題とし,南北の交流・協力事業を推進するための前提条件として位置づけたことで,それまでの和解と交流の過程は中断した。

2011年に金正日総書記が死去し,2013年に朴槿恵が韓国大統領に就任したことで,南北関係は新たな時代に入ることになる。ここでは金大中と金正日の会談から始まった南北関係の緊張緩和と交流が盧武鉉政権期に拡大したにもかかわらず,李明博政権で大幅に後退した過程を分析し,金正恩政権と朴槿恵政権の時代に入ってからの南北関係を展望する。

初の南北首脳会談

2000年6月13日の首脳会談を開くことを最初に打診したのは北側だったが,それを実現した背景には,金大中政権による対北アプローチの変化があった。従来,南側の統一案は南北を統一する行政府を設置することを目的とし,そこに至るまでの漸進的過程において国家連合を形成することはありうるが,最終的に統一された行政府は自由民主主義制度に基づくことが前提となっていた。これに対して北側は,南北の2つの政治制度が共存する連邦制に基づく国家の創設をもって統一とする案を提示していた。双方の掲げる統一案の相違は,お互いの国家体制の違いに起因する。北側では国家および社会団体に対する朝鮮労働党の指導が貫徹しているために,政治制度が共存していても党の統制が乱れることはないが,南側にそのような政党組織はなく,自由民主主義制度そのものが国家の存立条件となっているからである。

1998年2月に発足した金大中政権も最終的に統一された行政府を設置する目的は変えなかった。しかし,それは長い時間をかけて実現されるべきものであると位置づけ,まずは平和的な統一を可能にする環境を整備することが目標にされた。和解と協力を積極的に進めることを基本路線とするアプローチは「太陽政策」と名づけられた。

太陽政策の最初の成果は,1998年6月に現代グループの鄭周永名誉会長が平壌を訪問して金正日と会談し,北側の金剛山で南北共同の観光事業を進めることに合意したことである。それから,1999年6月には黄海(朝鮮西海)上で南北の海軍が交戦するという事件があり軍事的緊張が高まったが,金大中政権は太陽政策を継続する意思を崩さなかった。その姿勢に信頼感を持った北側は,2000年の年明けに,南北首脳会談を平壌で開催する案を非公式ルートで持ちかけた。これに対して南側からは,林東源国家情報院院長が5月27日と6月3日に北側に入って事前の調整を行った。そして6月13日に金大中は平壌空港に降り立った。

金大中と金正日は具体的な交流・協力関係を進めていくことで合意した。6月15日付で発表された南北共同宣言(6.15宣言)には,(1)統一問題を南北が自主的に解決する,(2)南側の「連合制案」と北側の「低い段階での連邦制案」に共通性があると認め,この方向で統一を志向していく,(3)離散家族の再会,非転向長期囚送還などの人道的問題を早期に解決する,(4)経済協力を通じて民族経済を均衡的に発展させ,社会・文化面での交流を進める,(5)以上の合意事項を早急に実践に移すため,早い時期に当局間の対話を開始するという5項目で合意したこと,また「適切な時期に」金正日がソウルを訪問することが明記され,「大韓民国大統領金大中」と「朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長金正日」の署名がある。

首脳会談の成功は南側に熱狂を巻き起こし,金大中政権の対北政策は国民の圧倒的な支持を得た。朝鮮労働党も「歴史的な北南最高位級会談が開催された」として会談の意義を高く評価した。アメリカ,中国なども南北和解の流れを歓迎し,金大中はその年にノーベル平和賞を受賞した。

首脳会談のあった6月から2000年末までの半年間で交流・協力事業は大きく進展した。6月27~30日にかけて第1次赤十字会談が開かれ,離散家族再開問題と非転向長期囚の送還問題について合意ができると,8月15~18日にかけて第1次離散家族訪問団の交換訪問が行われ,非転向長期囚63人は9月2日に北側へと送還された。

また,同年6月28~30日にかけて訪朝した鄭周永現代グループ名誉会長は元山で金正日と会談した。金正日は,南北共同で運営する工業団地を建設するための候補地として開城を指定し,ここから開城工業地区の開発に向けた動きが始まった。7月29~31日にかけて開催された第1次閣僚級会談では,1996年以降中断していた板門店の南北連絡事務所の再開と京義線の連結に関する協議を早期に開始することが決定された。京義線はソウルと新義州間を結ぶ鉄道であり,南北分断に伴って線路も断絶していたが,再び連結されれば南北間の物流に画期的な変化がもたらされ,朝鮮半島と中国,ロシアの物流をつなぐ動脈として大きな経済的意味をもつことになる。連結工事を進めるためには双方が協力して非武装地帯を管理することが必要であり,京義線の復旧は「平和の回廊」を建設するという象徴的な意味も帯びた重要なインフラ建設事業となった。

同年12月12~16日にかけて開催された第4次閣僚級会談では,鉄道・道路の連結や開城工業団地の建設,臨津江の水害防止事業の推進について具体的に協議するための南北経済協力推進委員会を組織することが決まり,経済的交流を推し進めるための基盤が固まった。

交流事業が急速に進んだのは人道,経済分野だけではない。同年9月25~26日にかけて国防相会談が開催され,6.15宣言の履行のために相互が協力し,鉄道・道路連結のための非武装地帯共同管理の実務的な処理を進めていくことで合意した。また,9月に開催されたシドニーオリンピック開会式では南北選手団の共同入場が実現し,今後社会・文化面でも交流が進んでいくことを期待させた。

このように,分断後初となる首脳会談を契機として,南北間の交流・協力事業は堰を切ったような勢いで一気に動き出した。ただ,ここで注意しておくべき点がひとつある。6.15宣言は統一に向けて相互の和解と協力を進めることを謳いながら,国家体制の統一という本質的な対立をはらむ問題については先送りするものだったという点である。

朝米枠組み合意の崩壊

2001年1月にアメリカ大統領に就任したジョージ・W・ブッシュは,クリントン前政権が進めた対北朝鮮政策を全面的に見直す意向を表明,翌2002年1月の一般教書演説ではイラン,イラクとともに北朝鮮を「悪の枢軸」として名指しで非難した。北朝鮮はこうしたブッシュ政権の姿勢に強く反発し,クリントン政権下で進んだ朝米関係改善の流れに暗雲が立ち込めたが,南北の交流・協力事業は続いた。2002年4月に林東源が平壌で金正日と会談した後,8月27~30日にかけて開かれた第2次経済協力推進委員会では,京義線と東海線の連結工事を同時に着工し京義線の鉄道連結は年内に終えること,開城工業団地建設工事に年内に取りかかることで合意し,鉄道の連結工事は9月から始まった。

林東源との会談で金正日は,アメリカからの特使を受け入れる意向も表明した。これを受けてケリー国務省東アジア・太平洋問題担当次官補がアメリカの大統領特使として2002年10月3~5日にかけて訪朝した。しかし,それによって1990年代以来の北朝鮮をめぐる核問題が再燃することとなる。ケリーが訪朝を終えた後の10月16日,アメリカ国務省は北朝鮮当局がウラン濃縮計画の存在を認めたと発表したのであった。これに対して北朝鮮外務省は10月25日に談話を発表し,アメリカ側が何の根拠も示すことなくウラン濃縮計画の疑いをかけてきたことを批判したうえで,ブッシュ政権が北朝鮮を敵視する状況下において,「我々は自主権と生存権を守るために核兵器はもちろん,それ以上の物も保有することになると明確に述べた」と言明し,アメリカに対して不可侵条約を結ぶように要求した。

アメリカは圧力強化に乗り出し,2002年12月中に朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)は北朝鮮への重油提供を中断した。これを受けた北朝鮮が2003年1月に核兵器不拡散条約(NPT)からの脱退を発表したことで,1994年に結ばれた朝米枠組み合意は崩壊した。南北首脳会談によって加速されるはずだった朝米関係改善のモメンタムは完全にストップし,北朝鮮をめぐる核問題は再び国際社会の大きな不安定要因になった。

6者会談の開始

2003年2月に発足した盧武鉉政権は自らの対北政策を「平和繁栄政策」と名づけ,金大中政権が進めた太陽政策を継承するのと平行して,新たに持ち上がった核問題を解決するために積極的にコミットする姿勢を鮮明にした。

協力事業は順調に進んだ。2003年2月には京義線と東海線沿いの臨時道路が開通し,金剛山の陸路観光が始まった。同年6月には開城工業団地の着工式が行われ,7月9~12日にかけて開かれた第11次閣僚級会談では,軍事境界線沿いでの非難放送を中止することで南北双方が合意した。11月4~6日にかけて開催された第5次赤十字会談では金剛山に離散家族面会所を建設することで合意し,離散家族再会事業の定例化に向けて動き出した。

2004年6月3~4日にかけて開かれた将官級会談では,黄海海上での偶発的衝突の防止と,軍事境界線地域での非難放送中止に関する合意書が採択され,安全保障の分野でも南北の緊張緩和が進んだ。とくに黄海の北方限界線(NLL)付近での軍事衝突防止について対話が始まったことは,軍事的緊張の緩和において重要な意味を持っていた。もともと,南側と北側の海上での実効支配地域について朝鮮戦争の停戦協定には明確な規定がなく,後に国連軍司令官が紛争防止のために南側の支配地域として北方限界線を設定,これを北側に通知したという経緯があるだけである。北側は1973年から北方限界線の無効化を主張し,先に述べた1999年6月の黄海交戦以降,たびたびこの付近の水域で軍事衝突が発生し,南北間の軍事的対立を煽る原因となっていた。

金日成逝去10周年の記念行事へ参加する予定だった韓国の民間団体の訪朝が許可されなかったことや脱北者を韓国が大量に受け入れたことが影響し,2004年7月から南北当局間の対話は一時停滞した。しかし,民間レベルの交流や経済協力事業は続き,12月には開城工業地区で生産された初の製品が韓国に搬入された。開城工業地区は南側から入居した企業に対して北側が土地と労働力を提供することで運営される工業地区であり,平和的統一に向けた環境整備のために南北経済共同体を形成するという戦略の象徴となるプロジェクトだった。南北間の経済関係は開城工業地区の事業を通じていっそう深まることになる。

一方,核問題の解決について盧武鉉政権が主導権を握ることはなかった。北朝鮮にとって,核開発を進めることで対話の場に引き込みたい相手はあくまでアメリカだったためである。2003年1月に北朝鮮がNPTから脱退した後,中国の積極的な働きかけによって,北朝鮮の核問題は北朝鮮と韓国にアメリカ,中国,日本,ロシアを加えた6者会談の枠組みで解決案を模索することになった。だが,2003年8月27~29日にかけて開かれた第1次会談では対話によって問題を解決するという原則的な方針を中国が議長声明として発表するにとどまり,第2次および第3次会談でも参加国すべてが同意した共同声明は発表できなかった。北朝鮮は核開発の凍結とそれに対する補償を同時に実施する一括妥結方式を主張するのに対し,アメリカは北朝鮮がすべての核計画を停止し,それを確実に検証した後で補償について話し合う方針を崩さず,両者の主張は平行線をたどった。

2004年6月23~26日にかけて開かれた第3次会談が特段の成果なく終了した後,北朝鮮は6者会談への参加を保留し,2005年2月10日に発表した外務省声明で核保有国になったことを宣言した。

この段階に至って,初めて韓国は核問題で積極的な動きに出た。2004年後半から1年近くにわたって停滞していた南北会談が,2005年5月16~19日にかけて開かれた次官級会談を機に再開され,この会談の場で南側は核問題に関する「重要な提案」を北側に提示した。そして6月14~17日にかけて鄭東泳統一部長官が大統領特使として訪朝し金正日と会談した。鄭東泳は帰国後の記者会見で,金正日に対して「重要な提案」の内容を伝えたこと,また北朝鮮が7月中にも6者会談に復帰する用意があると述べたことを明らかにした。その言葉どおり7月26日から第4次6者会談が始まり,北朝鮮のすべての核兵器および核計画の廃止と朝米の国交正常化に関する合意を明記した共同声明が9月19日に採択された。声明では北朝鮮に対するエネルギー支援についても触れられており,韓国が北朝鮮に対して提示していた「重要な提案」が軽水炉建設を終了する見返りとして南側から北側に200万kWの電力を送電する案であったことが明らかにされた。

だが,北朝鮮の核問題をめぐる6者会談で韓国が状況をリードしたのはこれまでだった。アメリカ財務省は第4次会談開催中の9月15日,北朝鮮の資金洗浄に関わっている疑いがあるとして,マカオのバンコ・デルタ・アジア銀行(BDA)をマネー・ローンダリングの懸念がある金融機関として指定し,マカオ当局は同銀行にある北朝鮮の口座を凍結した。北朝鮮はこの措置をアメリカの金融制裁だとして強く反発し,2005年11月9日から始まった第5次6者会談は,同月11日に中国が議長声明を発表して休会した後,1年以上にわたって停滞した。

アメリカの姿勢に不信感を強めた北朝鮮は,2006年7月5日に「自衛的国防力強化のための軍事訓練の一環」としてミサイル発射実験を行った。アメリカはこれを強く非難し,日米英仏が中心となって作成した制裁決議案が7月7日に国連安保理に提出されたが,中国とロシアの働きかけによって最終的には非難決議案の採択に落ち着いた。これを受けた北朝鮮は決議採択後の7月16日に外務省声明を発表し,「アメリカの敵対行為による最悪の情勢が続くかぎりは自衛的戦争抑止力を強化する」と述べた。そして3カ月後の10月9日に核実験を実施し,名実ともに核を保有した。6者会談の参加国のすべてがこの核実験を非難し,国連安保理は10月14日に北朝鮮に対する制裁決議を採択したが,同時に中国は6者会談再開に向けた働きかけを本格化させ,第5次6者会談の第2セッションが12月18~22日にかけて開かれた。

もはや韓国が北朝鮮の核開発に対して影響力を行使できる場面はなかった。北朝鮮にとって核開発はアメリカの軍事的脅威から体制を守るための命綱であり,南北関係とは別次元の問題だった。

それでも盧武鉉政権の南北交流推進の意思は確固としていた。2005年6月21~23日にかけて第15次閣僚級会談が開催され,離散家族の再会事業を8月26日から実施するのと同時に,金剛山に建設する離散家族面会所の着工式を行うこと,黄海の平和定着促進のために水産協力実務協議会を設立・運営することなどが合意された。2007年に入ると鉄道の連結事業が大詰めを迎え,2月27日~3月2日にかけて第20次閣僚級会談が開かれた。この会談では,上半期中に南北をつなぐ鉄道の試運転を行うことで合意し,5月17日に京義線の汶山駅=開城駅間と東海線の猪津駅=金剛山青年駅間を走る列車の試運転が行われた。

そして10月2~4日にかけて盧武鉉は平壌を訪問し金正日と会談,南北が6.15共同宣言を堅守し,思想と制度の違いを超えて南北関係を相互尊重と信頼のある関係へと転換させていくこと,現在の停戦体制を収束させ,恒久的な平和体制を構築していくこと,経済協力事業を相互に融通しあう原則で拡大発展させていくこと,人道主義協力事業を積極的に推進することなどで合意した「南北関係発展と平和繁栄のための宣言」(10.4宣言)を共同で発表した。この10.4宣言の方針の下でさらに具体的な内容を協議するため,11月14~16日にかけて第1次首相会談が開かれ,黄海平和協力特別地帯を設置することや南北経済協力共同委員会を設立・運営することなどを骨子とする「南北関係発展と平和繁栄のための宣言履行に関する第1次南北首相会談合意書」が採択された。

盧武鉉政権の5年間は,南北の交流・協力関係が大きく発展した期間といえる。統計データをみても,南北間の人的往来数(図1参照),交易額(表1参照)ともに盧武鉉政権の任期中(2003~2007年)に急伸している。とくに開城工業地区のインパクトは大きく,同団地の運営が始まった2005年から人的往来数と交易額が飛躍的に伸びていっているのがわかる。

図1  南北間の人的往来数の推移
表1  類型別に見た南北交易額の推移(単位:100万ドル)

(出所) 図1,表1ともに韓国統一部ウェブサイトを基に筆者作成。

金剛山観光事業も陸路観光が始まってから観光客がさらに増え,2005年6月時点で累積観光客数が100万人を突破した。金剛山で建設が進んでいた離散家族面会所も2007年11月の時点で完成を間近に控え,再会事業の定例化も目前まで来ていた。安全保障分野についてみれば,黄海上の境界線をめぐって南北で合意するまでには至らなかったが,軍事境界線を挟んだ非難放送が中止されたことや,南北を結ぶ鉄道運行を実現するための軍事実務上の合意がなされたことは成果といえる。金大中の太陽政策のもとでまかれた和解と協力の種は,盧武鉉政権の下で大きく育ったといえるだろう。

だが,2007年12月19日に行われた第17代大統領選挙では,ハンナラ党から出馬した李明博が当選した。この選挙でもっとも重視されたイシューは雇用創出をはじめとする経済対策であり,対北政策に関する国民的な関心は2002年の大統領選挙と違って低かった。金大中・盧武鉉政権とは異なる路線を掲げる李明博が当選したことで,南北関係は新たな局面を迎えることになった。

李明博政権の対北政策と南北関係の停滞

2008年2月に発足した李明博政権の対北政策について,北側は当初公の論評を避けていた。しかし2008年3月26日,南側の合同参謀本部議長に内定していた金泰栄が北朝鮮への先制攻撃を示唆する発言をすると,北側は激しく反発した。3月27日には開城にある南北経済協力協議事務所の南側当局者を立ち退かせ,29日には金泰栄の「先制攻撃」発言の謝罪と撤回を要求した。さらに4月1日付の『労働新聞』に掲載された論評では李明博大統領を名指しで非難し,「非核・開放・3000」構想は「対決と戦争を追求し,南北関係を破局へと追いやる反統一宣言」だと主張した。

こうして政治的な緊張が一気に高まったところで,同年7月11日,金剛山観光地区の立ち入り禁止区域に入った南側の観光客を北側の兵士が射殺するという事件が起こった。南側は翌日に金剛山観光事業を中止し北側に真相究明を要求,これに反発した北側は金剛山観光地区に駐在する南側人員を追放する措置をとり,南北の経済協力事業の象徴のひとつだった金剛山観光事業は中断された。さらに11月12日,北側は李明博政権が6.15宣言と10.4宣言を軽視し対決姿勢を強めていることを理由に,12月1日から軍事境界線上の通行を厳しく制限,遮断する措置をとると発表した。南側も,11月28日に南北間の鉄道運行の中止を決定し,2007年の試運転からわずか1年あまりで鉄道運行は中断した。

2009年に入ると,北朝鮮の核開発をめぐって朝米間の対立が再び深刻化した。2006年の核実験後,ブッシュ政権は北朝鮮との直接対話を進め,マカオにあるBDAの口座凍結やテロ支援国指定など,アメリカ独自の制裁措置を段階的に解除,それに合わせて北朝鮮も核施設の無力化を進めていた。この路線をアメリカの次期政権が引き継げば,朝鮮半島の非核化と朝米関係の改善に大きな進展が望めるかにみえたが,2009年1月にアメリカ大統領に就任したバラク・オバマの対外政策の重点はイラクやアフガニスタンの紛争を終結させることにあり,朝米間の対話は後回しにされた。

北朝鮮は朝米関係に対するオバマ政権の消極性を早期に見抜き,同政権の注意を引く必要があると判断したようである。2009年2月24日,北朝鮮は運搬ロケット「銀河2号」で人工衛星「光明星2号」を打ち上げるという計画を発表し,4月5日に予告どおりロケット発射実験を行った。国連安保理は同月13日に,北朝鮮が「いかなる更なる発射」も行わないよう要求する議長声明を採択した。これを受けて北朝鮮外務省は翌日に声明を発表し,6者会談への不参加を表明するとともに「自衛的核抑止力」を強化すると述べ,5月25日に2度目の核実験を実施した。国連安保理は6月12日,北朝鮮の核実験に対して新しい制裁決議を採択したが,北朝鮮外務省は翌13日に安保理の制裁決議を非難し,プルトニウムの武器化とウラン濃縮作業に着手すると宣言した。

南北関係の先行きと北朝鮮の核開発をめぐる状況がともに不透明感を強めるなかで,2009年の後半に入ると対話による解決を模索する動きが出てきた。南北関係についてみれば,8月には金剛山観光事業の再開に関する協議で前進があり,9月26日~10月1日にかけて離散家族再開事業も行われた。また,北朝鮮当局に拘束されたアメリカ人2人を解放するため,8月4~5日にかけてビル・クリントン元大統領が訪朝したことを契機に朝米間の接触も始まった。12月8~10日にかけて,ボズワース対北朝鮮政策特別代表が北朝鮮外務省の金桂冠副相と会談し,朝鮮半島を取り巻く緊迫した状況は改善の道へと向かっているようにみえた。しかし2010年に起きた2つの事件によって,事態は一転してさらに混迷の度合いを深めることとなる。

天安号沈没事件と延坪島砲撃事件

2010年3月26日,黄海の北方限界線に近い白翎島の付近で韓国海軍の哨戒艦「天安号」が沈没し,46人の将兵が犠牲になるという事件が起きた。李明博は直ちに安全保障関係長官会議を招集し,「すべての可能性を念頭において」調査を行うように指示したが,韓国内では事件が発生した直後から天安号の沈没に北朝鮮が関与しているという疑惑が提起されていた。その背景には,NLL付近で沈没事件が起きたこと,南側の民間団体による体制批判ビラの散布や韓米合同軍事演習を警戒する北側が李明博政権に対する非難のトーンを強めていたことなどがあるが,政府による調査結果が出る前の段階ではあくまで疑惑に過ぎなかった。

しかし5月20日,韓国の調査団に米英などからの専門家を加えた国際軍民合同調査団が,天安号沈没の原因を北朝鮮の魚雷攻撃によるものとする調査結果を発表したことで,北朝鮮の関与説は韓国政府の公式見解となる。北側はその日のうちに国防委員会の声明を発表し,合同調査団による調査結果を捏造だと批判,沈没を北側の犯行だとする物証を確認するための「国防委員会検閲団」を南側に派遣すると述べた。李明博政権はこの提案を拒否し,5月24日に統一部・外交部・国防部の長官らによる共同記者会見を開いて対北制裁措置(5.24措置)を発表した。その内容は南北交易の全面中断,韓国民の訪朝禁止,北朝鮮に対する新規投資の禁止,非難放送の再開などを骨子とするものであり,これ以降南北間の交流・協力事業はほぼ開城工業地区のみに限定されることとなる。

李明博政権は合同調査団の結論に対して国際的な公認を得るため,6月4日に天安号沈没事件を国連安保理に回付した。しかし,中国が制裁決議案の採択に難色を示し,またロシアも天安号沈没事件の責任が北朝鮮にあるとする立場をとらなかったため,最終的には「天安号への攻撃」を非難する一方,その攻撃を行った国は明示しないという玉虫色の議長声明が7月9日に採択された。

天安号の沈没事件後,8月に発生した北側の水害に対して大韓赤十字社が人道支援を行うことを決定し,また10月30日から11月5日にかけて離散家族の再会事業が行われるなど,対話を進めようとする動きが再び出始めたが,軍事的な緊張の高まりはそれ以上のスピードで進んでいた。6月9日,韓国軍は軍事境界線付近に対北非難放送を行うためのスピーカーを設置したほか,7月から10月にかけては大規模な軍事演習を連続して行い,北側に対する軍事的な圧力を強めた。韓国軍は11月22日から陸海空軍共同演習「護国訓練」を始めたが,演習地域の一つに黄海の延坪島が含まれていた。この島は南北が互いに海上軍事境界線から自領域側だと主張する海域に位置しており,朝鮮人民軍にとって延坪島での軍事演習は自国の領海侵犯を意味した。

11月23日,延坪島での砲射撃訓練に入った韓国軍に対し人民軍は砲撃を加え,韓国軍も砲撃で応戦した。その結果,南側には民間人を含む死傷者が出る事態となり,韓国社会には天安号沈没事件以上の衝撃が走った。李明博政権は予定されていた北側への人道支援をすべて中断した。そして,11月28日から12月1日にかけてアメリカの原子力空母も参加する大規模な韓米合同軍事演習に引き続き,韓国軍の軍事演習が実施された。ただし,中国の積極的な外交努力もあり,人民軍側が軍事的な対抗措置をとることはなかった。

李明博政権の5年間で南北関係は大きく後退した。2011年4月29日,北側は金剛山観光地区を廃止して新しく「金剛山国際観光特区」とし,南側企業だけでなくほかの国からの投資も受け入れられるように制度を改編した。8月22日には金剛山地区にある南側事業者の財産をすべて没収し,南北協力事業の象徴としての金剛山観光事業は危機に立たされた。定例化される直前まで来ていた離散家族の再会事業は散発的に行われるだけとなり,南北間を連結する鉄道運行が再開する見通しも立たなかった。南北の和解と協力の時代を象徴する事業の多くがその実質的な意味を失ったが,南北交易だけは発展し,2012年には約19億7000万ドルと過去最高の規模を記録した。これはそのほとんどが開城工業地区を通じた交易の結果である。先に掲載した図1および表1をみてもわかるとおり,2010年の5.24措置以降,開城工業地区を除いた南北間の人的往来と交易はほぼなくなっていた。そして2013年に入ると,この開城工業地区すら閉鎖の危機に直面することとなる。

開城工業地区の危機

2011年12月17日,金正日国防委員長が心筋梗塞によって死亡した。最高指導者の死去によって,南側の大統領選挙に1年先がけて北側に新政権が誕生することになった。金日成から数えて3代目となる最高指導者となったのは,金正日の3男である金正恩である。1983年あるいは1984年生まれと伝えられる若き指導者は,4月15日の故・金日成誕生100周年慶祝閲兵式の場で初めて演説を行い,「革命偉業」を継承し従前からの政策を引き継ぐことを内外に示した。

そのことを誇示するように,金正恩政権は人工衛星を搭載した運搬ロケット「銀河3号」の発射を2012年中に2度行った。4月13日,海外のマスコミも招いて大々的に行った1度目のロケット発射は失敗したが,12月12日に行った2度目の発射は成功し,人工衛星「光明星3号」2号機を軌道上に乗せたと発表,米軍の北アメリカ航空宇宙防衛司令部も何らかの物体が軌道に入ったと発表した。北朝鮮は1998年と2009年に行った人工衛星打ち上げも成功したと発表しているが,実際に軌道投入に成功したのはその時が初めてとみられている。

4月13日の1度目のロケット発射に対して国連安保理は16日に議長声明を発表し,「今回の発射が衛星や宇宙船の発射であったとしても,2006年と2009年の安保理決議に違反する」と断定した。北朝鮮がこれを無視して2度目のロケット発射を行うと,2013年1月22日にこれまでの制裁を強化する安保理決議が採択された。

一方,韓国では2012年12月19日に第18代大統領選挙が行われ,与党候補である朴槿恵が当選した。朴槿恵が当選した理由としては,韓国社会の高齢化などさまざまな要因が挙げられるが,南北関係に関する選挙イシューは有権者の選択にほとんど影響を及ぼさなかった。

こうして双方に相次いで新政権が誕生したことで,2013年の南北関係がどうなるか注目されたが,その最初の局面はまたしても軍事的な緊張の高まりという形で現れた。2013年2月12日,朝鮮中央通信社は同日に「朝鮮の平和的な衛星発射権利を侵害したアメリカに対する実際的対応措置の一環」として第3次地下核実験を実施したと発表した。国連安保理が3月7日,4度目となる北朝鮮に対する追加制裁決議案を採択すると,3月9日に北朝鮮外務省は制裁決議案を非難したうえで,その代価として核保有国の地位と衛星発射国の地位が永久化されると述べた。

3月から4月にかけて恒例の韓米合同軍事演習が開始されると,人民軍最高司令部は3月5日に代弁人声明を発表し,軍事演習が本格的な段階に突入する3月11日から朝鮮戦争停戦協定(1953年7月27日調印)を全面白紙化すると宣言した。続いて4月8日,朝鮮労働党中央委員会の金養健書記が,開城工業地区で働く北側の従業員のすべてを撤収させ事業を暫定的に中断し,その存続について検討する措置をとると発表した。これを受けて南側の統一部は26日,開城工業地区に残っている企業関係者を全員撤収させることを決定した。開城工業地区は閉鎖の危機に直面したが,6月6日に北側が開城工業地区の正常化と金剛山観光の再開について協議を行うことを提案したことで事態は解決の方向へ動き出した。8月14日に開かれた第7次実務会談で開城工業地区の運営を再開することに南北が合意,9月16日から開城工業地区は操業を再開した。

韓米合同軍事演習が終了した後の5月22~24日にかけて,金正恩の特使として崔龍海人民軍総政治局長が訪中し,24日に中国の習近平国家主席と会見した。2013年5月25日付の『人民日報』によれば,習近平が「朝鮮半島の非核化の目標を貫き関係各国が対話を通じて問題を解決することが必要であり,情勢緩和や6者会談の再開を推し進めるべきだ」と述べたのに対し,崔龍海は「6者会談などさまざまな対話・交渉を通じて問題解決を図ることに向けて前向きな行動をとる用意がある」と述べたという。南北関係とそれを取り巻く国際環境は,またゆるやかに対話のフェーズへと移りはじめているようである。

終わりに――南北関係の未来

南北関係の本質的な問題は,半世紀以上にわたる分断の歴史を経た異なる体制の国家が,どのような形で統一されるのかということである。

2000年代の南北関係は金大中と金正日による首脳会談から始まり,金大中・盧武鉉政権の期間を通じて南北の交流・協力関係は大きく発展した。だがそれは,「統一のための環境を整備する」という名目の下で推進されたものであり,本質的な対立をはらむ「体制の統一」について合意を形成することは先送りされた。南北は互いの体制を根幹から揺るがす可能性のある問題を棚上げしたのであり,それゆえに2000年代の南北関係は,双方の体制内の都合に翻弄された。

核問題はその典型的な例である。北朝鮮にとって核開発はアメリカと対峙しながら自身の体制を存続させるための命綱であり,それが南北関係に与える悪影響は別次元の問題にすぎない。一方,韓国においては国民が常に南北関係を最重視して政権を選択するわけではない。選挙で選ばれた政権の対北政策次第で南北関に深刻な対立が起きうることは,李明博政権期に南北の交流・協力関係が大きく後退した例をみても明らかである。

現在のところ,金正恩政権が核を放棄する兆候はない。朴槿恵政権は南北対話の窓口は開けておくが,北側の挑発に対しては強力な抑止力で臨むとして韓米同盟を重視する立場をとっている。当面は核問題が南北関係に影響する局面が続くであろう。6者会談が再開され朝米関係が改善の方向に進めば,南北の交流・協力事業が再び活発化する環境が整うが,その際には,統一環境の整備のために南北間の交流・協力関係を進めていくべきだというコンセンサスが南北間で再び形成されることが重要である。国際環境が整い確固としたコンセンサスが形成されれば,南北交流が金大中・盧武鉉政権期以上に発展する見込みはある。だがその先には,南北双方が統一国家のあり方において合意ができるのかという本質的な問題が依然として残っている。

(地域研究センター)

 
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