アジア動向年報
Online ISSN : 2434-0847
Print ISSN : 0915-1109
各国・地域の動向
2014年のインドネシア ジョコ・ウィドド新政権の船出
川村 晃一濱田 美紀
著者情報
解説誌・一般情報誌 フリー HTML

2015 年 2015 巻 p. 431-466

詳細

2014年のインドネシア ジョコ・ウィドド新政権の船出

概況

2014年は,5年に1度の選挙の年であった。とくに今回は,2004年から政権を担当してきたスシロ・バンバン・ユドヨノ大統領の任期が終了し,政権交代を決する選挙ということで,選挙戦は過熱した。ジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)とプラボウォ・スビアントという対照的な候補者による一騎打ちは,プラボウォの急速な追い上げもあって接戦となったが,最後はジョコウィが勝利を収めた。10月に平和的に政権移行が実現し,インドネシアは自国の民主主義の深化を世界に示した。しかし,少数与党政権となったジョコウィと,国会で過半数を占めるプラボウォ陣営との対立は先鋭化し,政権発足直後から国会運営は行き詰まった。

経済成長率は,5.0%と低調に終わった。経常収支は赤字が常態化し,ルピアの下落が目立った1年であった。未加工鉱石の輸出禁止や村落法の施行といった対外的・国内的に重要な政策が実行に移され,社会保障庁(BPJS)の発足によって長年の念願である国民皆保険の実現に向けて第一歩を踏み出した年でもあった。経済の低調さは新鉱業法や燃料補助金削減など特定の原因によるものではなく,政権交代の年であったことや,中国経済の停滞などの国際環境の変化も含めた複合的なものであったといえる。新鉱業法の影響はニッケルなど個別分野への影響は甚大ではあるものの,全体として経済成長の足かせとなったのは石油・ガス部門の縮小であった。

インドネシアは,ユドヨノ大統領の下で外交力を回復したが,ジョコウィ新大統領はユドヨノの国際協調路線を継承するのではなく,より国益を重視した外交に転換しようとしている。国民生活の向上を最優先とするジョコウィ政権は,「海洋国家」という新しいドクトリンを掲げるとともに,経済外交を中心に据える方針である。

国内政治

議会選挙――闘争民主党が第1党になるも,予想外の伸び悩み――

1998年の民主化後4度目となる議会選挙が,4月9日に実施された。インドネシアでは,中央と地方のすべての議会選挙が同日に実施される。選出される対象は,国政レベルの下院にあたる国民議会(DPR)と上院にあたる地方代表議会(DPD),第1級地方自治体の州,第2級地方自治体の県および市の各地方議会(DPRD)である。今回は,ユドヨノ大統領の任期切れにともなう大統領選挙を3カ月後に控え,その前哨戦として結果が注目される選挙であった。

選挙前の大方の見方は,ユドヨノ大統領の与党・民主主義者党が大敗を喫し,大統領選挙でジョコウィ・ジャカルタ首都特別州知事の擁立を決めた闘争民主党(PDIP)が勝利するであろうというものだった。闘争民主党が第1党となることはほぼ確実であり,焦点はむしろ,同党がどこまで票を伸ばしてくるかであった。ところが,闘争民主党に対する支持が伸び悩んだことから,5月9日に総選挙委員会から発表された公式の投票結果は,意外感をもって受け止められた。

民主主義者党が大敗したことは,大方の見方どおりであった。2009年の議会選挙では,1期目のユドヨノ大統領の政権運営が評価されて第1党になった同党だったが,第2期政権になってから次々と明るみに出た党幹部の汚職関与によって一気に有権者の支持を失った。「公正で民主的な社会の実現」を政権公約に掲げ,汚職撲滅に積極的に取り組んできたユドヨノ政権の足元で続発した汚職事件だっただけに,党への打撃は計り知れないものがあった。

民主主義者党が失った票のもっとも大きな受け皿となったのが,プラボウォ率いるグリンドラ党であった。2009年の議会選挙で思うように得票を伸ばせなかったグリンドラ党は,プラボウォの弟ハシム・ジョヨハディクスモの持つ莫大な資産を背景にした豊富な資金力を活かして,地方での党組織の整備と支持基盤の構築を行ってきた。2014年大統領選挙をにらんだプラボウォの周到な準備が,同党の躍進を支えたと言えるだろう。また,ユドヨノ大統領の指導力不足に対する有権者の失望をプラボウォがうまく取り込んだことで,民主主義者党が失った票をグリンドラ党が獲得することができたと思われる。

今回の選挙で大方の予測を裏切ったのが闘争民主党であった。2004年以降,野党の座に甘んじていた同党は,ジョコウィという人気政治家を大統領候補として擁立することで,議会選挙から大統領選挙までを一気に制することをねらっていた。同党自身も,ジョコウィ擁立を決めた段階で得票率の目標を27%に設定した。有識者も,25%前後の得票を獲得することは確実とみていた。

ところが,現実には,10年ぶりに第1党の座に返り咲いたとはいえ,得票は期待したほどは伸びなかった。同党の得票率19%は,前回の得票率から4.9%上積みしただけで,1955年の第1回総選挙を含めても,第1党の得票率としては最低である。同党党首のメガワティ・スカルノプトゥリ大統領が政権運営能力を問われて下野することになった2004年の議会選挙の時でさえ,得票率は18.5%であった。闘争民主党は,ジョコウィという切り札を出したにもかかわらず,その2004年時の党勢を回復しただけにとどまった。「ジョコウィ効果」が期待ほどではなかった理由としては,同党が選挙戦のなかでジョコウィを活用できなかったという党の選挙戦略の失敗や,ジョコウィ人気の過大評価などの要因が指摘されている。

民主主義者党のみが大敗し,闘争民主党が大勝できなかったため,ほとんどの政党が得票率を上積みすることに成功した。その結果,議会ではこれまでと同様に多党分立の状況が続くことになった。今回議席を獲得した政党の数は,前回から1増えて10政党になった。

大統領候補の擁立

大統領選挙に出馬する候補者は,政党による擁立が必須条件である。しかも,大統領候補を擁立できるのは,議会選挙で得票率25%以上もしくは議席率20%以上を獲得できた政党および政党連合である。4月の議会選挙では,単独でこの条件を満たす政党がなかったため,大統領候補擁立に向けて活発な連立交渉が政党間で展開された。そのなかで最初に候補者が決まったのは,グリンドラ党が擁立したプラボウォである。同党は議会選挙で第3党だったということもあり,当選後の閣僚ポストの配分を事前に約束するなど,なりふり構わぬ連立工作を展開した。その結果,宗教色の比較的強いイスラーム系の4政党が連立に加わった。副大統領候補にも,そのうちのひとつである国民信託党(PAN)の党首で,ユドヨノ政権下では運輸相,経済担当調整相を歴任したハッタ・ラジャサが選ばれた。

一方,第1党になった闘争民主党はジョコウィを大統領候補に擁立することを議会選挙前から決めていたが,連立交渉においては事前のポスト配分を拒否し,真にジョコウィに協力してくれる政党だけと連立を組む戦略をとった。ただし,副大統領候補選びでは,候補の個人的人気を重視するのか,組織や地盤をもった人物を選ぶのかで党内で意見が割れた。結局,組織・地盤の力を無視することはできず,ゴルカル党の元党首で,第1期ユドヨノ政権で副大統領を務めたユスフ・カラが副大統領候補に選ばれた。

議会第2党のゴルカル党や与党第1党の民主主義者党は,独自の候補を擁立することができず,いずれもプラボウォ陣営に合流した。こうして,大統領選挙の立候補者は,闘争民主党など5政党が擁立したジョコウィ=カラのコンビと,グリンドラ党など6政党が擁立したプラボウォ=ハッタのコンビの2組に決まった。ジョコウィ連合は,4月議会選挙の得票率の合計が40.9%,議席率の合計が37%であるのに対して,プラボウォ連合は,得票率の合計が59.1%,議席率の合計が63%となり,組織面ではプラボウォ連合がリードする形になった。

対照的な2人の候補者

大統領選挙に立候補したジョコウィとプラボウォの2人は,出自や性格の点できわめて対照的な人物である。

1961年にジャワ島中部の古都ソロに生まれたジョコウィは,庶民の出身である。大学卒業後に家具製造会社を興して,成功を収めていた。2005年に闘争民主党の公認をうけてソロ市長選に立候補して当選したことが,政界入りのきっかけであった。市政改革を断行し改革派首長として名をあげると,その人気に目をつけたカラやプラボウォによってジャカルタ首都特別州知事候補に担ぎ出された。2012年の州知事選では,現職の圧倒的優位という下馬評を覆して当選を果たした。

ジョコウィが地方首長時代に取り組んだのは,住民の目線に立った政策の実行だった。政府内の汚職を追放し,効率的な行政サービスの提供を進めるなどの行政改革に取り組んだ。貧困家庭に対する医療・教育の無償化を実現させた。また,再開発事業を実施する際に対話を通じて住民の同意を得る努力をした。これまでの政治エリートとはまったく異なる政治手法はマスコミでも大きく取り上げられ,人気は全国へと拡大したのである。

当初,2014年大統領選挙にはメガワティ党首自身が立候補する意欲をみせていた闘争民主党も,党内外のジョコウィ人気を無視することはできなくなった。同党は,議会選挙の選挙戦が始まる直前の3月に,ジョコウィを正式な大統領候補とすることを決めた。

対するプラボウォは,ジョコウィとは対照的に,トップ・エリートの家庭に生まれ育った人物である。プラボウォは,1951年にジャカルタでジャワ貴族の家系に生まれた。父は,インドネシアにおける経済学の大家スミトロ・ジョヨハディクスモである。その父に連れられて少年時代に海外での生活も長く経験しているため,外国語も堪能である。その後陸軍に入隊したプラボウォは,スハルト大統領の第4子と結婚すると,軍内でも急速な昇進を遂げた。1997~1998年に民主化運動が高揚したときは,陸軍のエリート部隊である特殊部隊(Kopassus)や戦略予備軍(Kostrad)の司令官として,民主化活動家の誘拐事件やジャカルタ暴動に関与していた疑いがもたれている。スハルト大統領が辞任した後,これらの人権侵害事件の責任を問われて軍籍を剥奪されると,しばらくは国外で暮らしていたが,2004年の大統領選挙を前に帰国して政治活動を始めた。2004年はゴルカル党からの立候補を目指したがかなわず,2009年はメガワティの副大統領候補として大統領選挙に出馬したが,ユドヨノに敗れている。2014年4月の議会選挙でグリンドラ党が第3党に躍進したことにより,プラボウォはようやく自らが立候補する権利を得たのである。

大統領選挙で問われたもの

両陣営の特徴をみてみると,プラボウォ陣営にはイスラーム系政党が多く集まったとはいえ,いずれも世俗系政党とイスラーム系政党の連合であり,イデオロギー的差異はそれほど大きくない。両陣営の政策にも大きな違いはみられない。どちらも,汚職の撲滅,地方や農村の開発,農林漁業の振興,教育,保健,住宅政策の強化などを打ち出している。

それでは,有権者は何を基準に投票したのであろうか。今回の大統領選挙で有権者に問われた選択は,2人の候補者がそれぞれ体現する政治指導者像であり,それから生じる政治スタイルの違いであった。

ジョコウィは,庶民出身の政治家として,国民と同じ目線に立ち,国民との対話を通じて,国民とともに歩んでいく新しい政治スタイルを有権者に提示した。自らを飾らず,誠実であろうとする彼の姿勢は,これまでの既存エリート政治家にはみられなかったものであった。連日報道される汚職事件のニュースに接していた国民にとって,政治家とは自らの利権獲得ばかりを考える存在でしかなかった。既存の政党や政治家に対する不信感が高まっているときに,ジョコウィは新しいタイプの指導者として国民の前に現れた。これまで政治的に顧みられることのなかった庶民は,自らが中心となる新しい政治のあり方を実現してくれる政治家としてジョコウィに期待を寄せるようになったのである。

一方,プラボウォは,旧来の伝統的な政治指導者像を提示することで,民主化後の時代に失われた強い指導者の出現を求める国民の渇望感に応えようとした。演説では,外国によって国富が奪われていると説き,民族の尊厳を回復して強いインドネシアを建設するためには強い指導者が必要だと訴えた。それは,スカルノ初代大統領の姿に重なるものだった。プラボウォは,自らを叡智によって国民を導いていく政治家と位置づけたのである。

2人が提示している指導者像はまったく正反対のものだった。この異なる指導者像は,政治スタイルの違いに直結している。両者が国民に示した政策綱領の内容は似通ったものであるが,その実現方法はまったく違うものになる。ジョコウィが,国民とともに政策課題を解決していこうとするのに対して,プラボウォは自らのリーダーシップで政策を実現していこうとする。有権者には,新しい指導者像を体現するジョコウィと,旧来の伝統的な指導者像を体現するプラボウォという対照的な選択肢が示されたのである。

大統領選挙――大激戦の末,ジョコウィが勝利――

7月9日の投票日は,激しい選挙戦が嘘のように静かな投票風景が全国各地で見られた。7月22日に発表された総選挙委員会の公式結果によると,ジョコウィ=カラ組が得票率53.2%でプラボウォ=ハッタ組を破った。選挙戦の終盤には,支持率の差が4%まで縮まっているとの世論調査の結果が発表されるなど,両者の差はほとんどなくなっているとみられていた。しかし,選挙戦最終盤のジョコウィ陣営による巻き返しが功を奏し,ジョコウィがプラボウォを振り切った。

州別の投票結果を見てみると,ジョコウィが全国33州のうち23州を制したのに対して,プラボウォが勝利したのは10州にとどまっている。ただし,ジャワ島6州の合計得票率ではジョコウィが51.9%とわずかに上回ったが,スマトラ島10州の合計得票率ではプラボウォが50.3%と僅差でジョコウィを上回るなど,有権者の78%が住むジャワ島とスマトラ島ではほぼ互角の戦いだった。

当選を左右したのは,ジャワ,スマトラの2島に次ぐ票田であるスラウェシ島におけるジョコウィの大勝である(得票率62.3%)。この地域は,ジョコウィと組んだ副大統領候補カラの地元で,彼の強力な組織的・人的ネットワークが集票に役立った。ジョコウィが副大統領候補を決めるにあたっては,非政党人や退役軍人なども選択肢として候補にあがっていたが,スラウェシを中心とするインドネシア東部地域に強い支持基盤をもつという点が決め手となってカラが選ばれた。結果的には,その選択が勝負の決め手になったといえる。こうして,インドネシア史上初めて,既存のエリート層とは関係ない,庶民出身の大統領が誕生した。

ジョコウィが大統領に就任

10月20日,大統領選挙で勝利したジョコウィがインドネシア共和国第7代大統領に就任した。上下両院を合わせた国民協議会で開催された大統領就任式には,両院議員682人と国内外の招待客650人以上が出席した。就任式のボイコットをほのめかしていた野党各党も,それまで敗北を認めていなかったプラボウォも出席し,就任式は平穏に開催された。

就任式のあとには,議事堂から大統領宮殿に移動する道中のメイン・ストリートで祝賀パレートが行われた。夜には,ジャカルタ中心部にある独立記念塔周辺の広場で祝賀イベントが開催された。いずれも大統領選挙でジョコウィを支えた市民ボランティアが組織し,人気アーティストらが無償で参加した。ジョコウィはいずれのイベントにも顔を出し,集まった約3万人の市民から祝福をうけた。

ジョコウィは,この日の演説で,「国民全員が政府のサービスの受益者である」,「国民の福祉のために国を運営していく」ことを繰り返し強調して,国民が主役の政治を目指すことを約束した。それと同時に,「国民は望むだけではいけない。国民も努力し,働かなければならない」と述べて,インドネシアの発展のために共に働くことを国民に呼び掛けた。

「働く内閣」が発足

ジョコウィ大統領が閣僚の顔ぶれを発表したのは,就任から1週間経った10月26日であった。当初は就任前の9月中にも発表されると言われていた内閣の発表は,大幅にずれ込んだ。就任式翌日の発表という予定も直前に延期されるなど,閣僚の選任はぎりぎりまで調整が続けられた。

内閣の陣容がなかなか決まらなかった背景には,第1に,野党陣営に対する切り崩し工作が続けられたことがある。当初ジョコウィは,2〜3の閣僚ポストを野党陣営から与党陣営に鞍替えしてくる政党のために用意していた。

しかし,選挙で敗れたプラボウォも,野党陣営の結束強化を図ってこれに対抗した。プラボウォは,野党の協力関係を「紅白連合」(「紅白」はインドネシア国旗を指し,ナショナリズムの象徴)と名付け,協力関係を5年後の次期選挙まで続けると宣言した。野党の結束は予想以上に維持され,ジョコウィ陣営による切り崩しは難航した。結局,与党陣営に合流したのは開発統一党(PPP)だけだった。

内閣発表が遅れた第2の理由は,さまざまな利害の調整に時間が必要だったからである。インドネシアのような広大な国土に多様な民族が暮らす国家では,組閣の際にもその多様性を反映させる努力が要求される。閣僚の出身地,民族,宗教,出身組織など,さまざまな要素のバランスが考慮されたのである。ジェンダーのバランスも配慮されており,今回のジョコウィ内閣には過去最多となる8人の女性が入閣を果たした。

連立参加政党へのポスト配分も必要である。内閣発足までに政権参加を表明した5政党に対して,議席数の多さに応じて計14ポストが割り当てられた。残りの20ポストには非政党人の専門家が就任している。

しかし,非政党人の選任もジョコウィ大統領がひとりで決められるわけではない。副大統領のカラと元大統領で闘争民主党の党首であるメガワティが推薦する候補者との調整が必要であった。とくにメガワティとその周辺からは,長女プアン・マハラニ,側近のリニ・スマルノ,退役軍人のリャミザルド・リャクドゥらの入閣要求といった露骨な情実人事の要求が出された。ジョコウィも,自らの出身政党の党首であるメガワティの要求を拒絶することはできなかった。

内閣発表が遅れた第3の理由は,大臣候補者の最終選考の段階で,汚職撲滅委員会(KPK)などの捜査機関に身辺調査を依頼したためである。汚職排除は民主化後の政府が取り組む重要課題であるが,ユドヨノ政権が成果を出しつつも閣内から次々と汚職事件の容疑者を出し,信頼を失っていったことを繰り返さないため,ジョコウィは事前に身辺調査を行うことにした。その結果,汚職の疑惑があると判定された人物は候補者リストから外され,選任しなおす必要が生じたのである。

こうした苦労の末に発足した新内閣にジョコウィ色は見られるだろうか。まず,ジョコウィは,立候補時から政策や戦略作りを支えてきた腹心の学者を大統領直属のポストに任命した。国家官房長官のプラティクノ,内閣官房長官のアンディ・ウィジャヤント,国家開発企画相のアンドロニフ・チャニアゴらである。国家開発企画省とその下にある国家開発企画庁(Bappenas)は,これまで経済担当調整相の下で開発政策の策定と実施を担っていたが,ジョコウィはこれを大統領直属のシンクタンクとする意向である。今後は,大統領補佐官や政策実施室などを統合して大統領オフィスを設置し,大統領の指導力を強化することを目指している。

経済関係の閣僚には,民間出身の経営者が多く登用された。たとえば,運輸相に任命されたイグナティウス・ジョナンは,国鉄改革を成功させた民間出身の経営者である。海洋・漁業相には,高校中退ながら水産会社を起業し,商品を輸送する航空会社まで立ち上げた辣腕女性実業家という異色の経歴を持つスシ・プジアストゥティが抜擢されている。このほか,民間企業の経営や国営企業改革の経験がある人物が合わせて8人登用されている。いずれも,企業経営や経営改革といったマネジメントの実績を買われての入閣である。

10月27日に発足した新内閣は「働く内閣」と名付けられた。ジョコウィ大統領は,「大統領の公約を政策としてすぐに実行せよ」と初閣議で指示し,閣僚には行動を重視することを求めた。大統領自身も,地方首長時代からの自らのトレードマークである抜き打ちでの現場視察を行うなど,全国を飛び回っている。

野党陣営との対立から国会運営が麻痺

市民の後押しで大統領に登りつめたジョコウィであるが,議会での支持基盤は脆弱である。選挙結果が確定すれば,大臣ポストを求めてプラボウォ陣営からジョコウィ陣営に鞍替えをする政党が次々と出てくるという思惑は外れ,与党連合は議会の44%の議席をおさえるにとどまった。

野党陣営とジョコウィとの対立は,政権発足前から始まった。7月7日,改選前の国会は,国民協議会・国民議会・地方代表議会・地方議会に関する法律(以下,「議会法」)を可決した。同法の審議が始まった当初は,大きな改正は意図されていなかったが,大統領選挙がジョコウィとプラボウォの一騎打ちとなることが明らかになると,プラボウォ陣営は,改選後の議会で過半数を制していることを利用して,議会の権限を強めたうえで議会運営を一手に握る改正案を提出し,それを成立させることに成功した。

その内容は,第1に,国会には政府に対して政策遂行上の勧告を行う権限があり,勧告を受けた政府はそれを実行する義務があることが明記された。そのうえで,その勧告を実行しなかった者に対しては,国会が国政調査権などを行使することができ,大統領に対して何らかの処罰を下すよう求めることができると規定された。また,大統領に対する質問権の行使に必要な定足数も3分の2から過半数に引き下げられた。第2に,これまで議席率に応じて配分されていた国会の役員(議長1人,副議長4人)と各委員会の役員(委員長1人,副委員長3人)は,国会会派が役員候補をまとめて提案し,それを議会内もしくは委員会内での投票で選出するように変更された。つまり,これまでは議会内第1党に国会議長ポストが,それ以下の政党に副議長ポストが配分されたのだが,この改正によって,議会内過半数勢力が役員をすべて独占できるようになった。委員会の役員についても,これまでの比例配分が廃され,議会内過半数勢力がすべての委員会役員を独占することができるようになった。第3に,汚職撲滅委員会や警察・検察当局が議員に対して捜査を行う場合,国会の倫理委員会の承認を事前に得なければならないとされた。この規定に対しては,汚職容疑で次々と逮捕される国会議員を当局の捜査から守ろうとする意図があると,有識者やNGO関係者は批判した。

10月1日に改選後の国会が開会すると,法改正で意図されたことがまさに起こった。国会の役員は,議会過半数を握るプラボウォ陣営の「紅白連合」が全ポストをおさえた。国民協議会の役員選出でも,民主主義者党の取り込みと地方代表議会議員票の取り崩しに成功したプラボウォ陣営が選挙で勝利し,全役員ポストを掌握した。さらに,国会の委員会役員についても,与党陣営が話し合いでの比例配分を主張して審議をボイコットするなか,野党陣営が単独で委員会を開催し,全委員会の全役員ポストを独占してしまった。これに反発した与党陣営は,野党とは別に本会議を開催して独自の議長を選出するなど,対立を深めた。ジョコウィ大統領も,閣僚に対して,国会が正常化するまで国会での審議に参加することを禁止したため,国会運営は完全に麻痺してしまった。

このような国会の行き詰まりを打開するため,与野党間では断続的に協議が続けられた。その結果,委員会の副委員長ポストを1人増員し,それを与党各党に配分すること,および議会の勧告を実行しなかった者に処罰を下すよう大統領に求めることを規定した条文を削除することで合意が成立し,会期末ギリギリの12月5日に議会法の改正が行われた。これによって,国会は,年明けの会期からようやく正常化する見込みとなった。

地方首長選の制度変更をめぐる混乱

与野党対立のもうひとつの焦点となったのは,地方首長選挙に関する法律だった。この法律も,大統領選挙が始まるまでは,主要な改正点について政党間で鋭い対立があったわけではなかった。ところが,大統領選挙でのプラボウォの敗北が確実となると,2005年以来住民による直接選挙が実施されていた地方首長選挙を,それ以前の地方議会による間接選挙に戻すという提案がプラボウォ陣営から出されたのである。その表向きの理由は,地方首長選挙を金のかからない,社会的な対立の種とならないものにするため,というものだった。

しかし,野党陣営がこれを提案した本当の理由は,多くの地方自治体でプラボウォ陣営が議会の過半数をおさえていることから,地方首長を議会による間接選挙にすれば,地方で続々と親プラボウォ派首長が誕生し,ジョコウィの率いる中央政府が地方を統制できなくなるから,というきわめて権力政治的なものだった。たとえば,州議会レベルでは,バリと西カリマンタンの2州を除く31州でプラボウォ陣営が過半数を制している。これらの州でプラボウォ派が知事ポストを獲得すれば,中央政府が政策を実行しようとしても,地方政府がそれをサボタージュするという事態に発展する可能性があるのである。

この法案の採決で鍵を握っていたのが,ユドヨノ大統領率いる民主主義者党であった。同党は,当初は州知事を直接選挙に,県知事・市長を間接選挙にするという案を支持していたが,プラボウォ陣営がすべてを間接選挙にするという提案をすると,これに同調する姿勢を示した。しかし,国民から「地方首長直接選挙の廃止は民主主義の後退である」という反対の声が強くあがると,ユドヨノが直接選挙制を維持する方針を打ち出して,同党の方針は再び変わった。改選前国会の最大会派である民主主義者党が間接選挙制に反対票を投じれば,改正案が否決され,直接選挙が維持されるはずであった。

ところが,9月27日に国会本会議で同法案の採決が議事にかけられると,民主主義者党議員は一斉に議場から退場してしまった。同党が採決に参加しなくなったことで,プラボウォ陣営は過半数を確保することになり,地方首長選挙を間接選挙へと改正する法案が可決されてしまったのである。

これを聞いた外遊中のユドヨノ大統領は,自党幹部が自らの指示と異なる行動を取ったとして激怒した。帰国したユドヨノは,10月2日,地方首長選挙法(法律2014年第22号)を破棄し,地方首長選挙を直接選挙に戻すことなどを定めた法律代行政令を制定した。法律代行政令は,緊急の事態などで大統領が自らの権限で制定できる法令で,法律と同等の効力を持つが,次の会期で国会の承認を得て法律化しなければならない。これで,一時避難的に地方首長選挙の間接選挙化は回避され,中央と地方の深刻な対立がジョコウィ新政権を揺さぶる事態がすぐに生じる心配はなくなった。しかし,地方首長直接選挙が維持されるかどうかは,この法律代行政令を審議する年明けの会期まで先延ばしされたにすぎない。

このように,ジョコウィ大統領は,政権発足直後から,議会との対立に悩まされることになった。一方,ジョコウィ政権に対して攻勢を強めている野党陣営も,決して一枚岩ではない。野党最大会派のゴルカル党は,大統領選挙前からジョコウィ支持かプラボウォ支持かで内部が割れていたが,選挙後にはその対立が顕在化し,党が分裂状態に陥っている。2019年の選挙までプラボウォ陣営にとどまることを主張するアブリザル・バクリ党首派が党大会を強行開催してバクリ党首の再選を決めると,ジョコウィ政権への参加を主張するアグン・ラクソノ副党首らを中心とするグループも,独自に開催した党大会で新執行部を選出してバクリ派に対抗するという泥仕合が繰り広げられている。

開発統一党も,大統領選挙前からのジョコウィ支持派対プラボウォ支持派の対立が表面化している。国民協議会役員選挙で同党がポストを失ったことをきっかけに公式には与党入りはしたものの,党内はジョコウィ支持のムハマド・ロマフルムジ派とプラボウォ支持のスルヤダルマ・アリ派に分裂したままである。

経済

継続する経常収支赤字と低調な成長

2014年の経済は前年からさらに鈍化した。名目GDPは1京542兆6935億ルピア(速報値)と京の桁に達したが,実質成長率は5.02%であった。政府は2014年度予算の前提として5.5%の成長率を目指していたが,その目標には届かずに終わった。

インドネシアは,2014年第4四半期からGDPの実質値を評価する基準年を2000年から2010年に変更した。加えて国民経済計算体系2008SNAを2010年に遡って適用した(2008SNAの適用はアメリカが2013年,EUが2014年にされており,日本では2016年度に適用が予定されている)。その結果,より細かな分野の統計が取られるようになり,名目GDPが400兆ルピア以上増加した。成長率は2000年基準であれば5.08%であったが,2010年基準では5.02%とわずかに低下した。近年,格差の拡大が問題になっているが,2014年9月の貧困者比率は前年同月から0.5ポイント低下し,10.96%とわずかながら改善した。完全失業率(2014年8月)も0.3ポイント低下し,5.9%であった。

経済成長を牽引したのは,引き続き名目GDPの56.1%を占める家計消費である。経済成長への寄与度は2.8%であった。2008SNAに基づいたことで支出部門における民間消費支出から「対家計民間非営利団体」(NPISH)が分離されるようになった。NPISHには,政党,財団,宗教団体,労働組合,援助機関,成果を公に無料で提供する研究機関や環境団体などが含まれる。このNPISHがGDPに占める割合は,2013年が1.09%,2014年が1.18%となっている。NPISHの成長への寄与度はそれぞれ0.09%と0.14%であった。政府支出の割合は9.5%と2013年から横ばいで,成長への寄与度は2013年の0.6%から大幅に下がり0.2%となった。2008SNAにしたがい,兵器類が政府支出から投資(総固定資本形成)に移行した。投資の割合は4.1%増の32.6%で,寄与度は1.3%であった。投資調整庁によると,外国直接投資総額(実施ベース)は前年比0.3%減の285億ドルであった。全投資の9.5%を占める日本からの投資は前年比43%減の27億ドルと大幅に落ち込み,3.9%を占める韓国も49%減の11億ドルと低調であった。一方,中国は前年比169%増の8億ドルを投資し,全体の2.8%を占めるに至った。

輸出が名目GDPに占める割合は前年の24.0%から23.7%と微減し,輸入も24.8%から24.5%とやはり微減であった。輸入の伸びが2.2%と輸出の1.0%より高かったため,純輸出(輸出マイナス輸入)の成長への寄与度は2013年の0.6%から0.3%減と大幅に減少し,成長鈍化の主因となった。

次に,GDPを生産部門別にみてみる。なお,2008SNAに準拠したことで産業の分類が大きく変わり,9つあった大分類が17に増加した。主要な生産部門別では,例年伸びのもっとも高い運輸・通信部門から分割された情報・通信部門が10%ともっとも高く,続いて金融・不動産・ビジネスサービス部門から分割されたビジネスサービス業が9.8%と高い伸びであった。寄与度はそれぞれ0.4%と0.2%である。次に高い伸びを示しているのが,サービス部門から分割された保健・社会活動サービスの8%と運輸・倉庫業の8%であった。寄与度はそれぞれ0.1%,0.3%であった。経済成長への寄与度がもっとも高かったのは製造業の1.0%で,実質GDPに占める割合は前年と変わらず21%であった。成長率は微増の4.6%であった。製造業のなかでは食品・飲料の伸び率が9.5%と高く(寄与度0.6%),新たに単独の分類となったタバコも8.9%増(同0.1%)など,家計消費が経済成長を支えている様子を反映している。機械・機器製造は8.8%の伸びであった。旧分類の機械・機器から分割され単独となった輸送機器製造は,前年は15%と大幅な伸びを示したが,2014年は3.9%となった。2009年以降毎年販売記録を更新していた自動車の販売台数は,5年ぶりに前年を割り込む1.8%減の120万8019台となった。二輪車の販売台数は,前年比1.6%増の786万7195台であった。名目GDPの9.8%を占める鉱業・採石業の成長率は0.6%増であったが,そのうち石油・ガスは2.4%減,金属鉱業が0.7%減,石炭は0.4%増,採石などその他が8.8%増であった。

2012年から常態化している経常収支赤字は,前年より赤字幅は縮小したものの,262億ドルの赤字であった。貿易収支は第2四半期のみ3億7516万ドルの赤字となったが,これは鉱石輸出の減少による影響よりも,32億ドルの石油・ガスの赤字によるものが大きい。石油・ガスの赤字は年間で118億ドルだったが,非石油・ガスが172億ドルの黒字であったことで,通年の貿易収支はかろうじて69億ドルの黒字となった。輸出は未加工鉱石の輸出禁止の影響もあり前年比3.7%減の1753億ドルであった(中銀国際収支ベース)。非石油・ガスで輸出額がもっとも多いのは,石炭の208億ドルであるものの前年比14.6%減であった。これに続くのが,175億ドルのパーム油(5.7%増)であった。天然ゴム・ゴム製品は70億ドルで前年比24.5%減と大幅に減少した。

2014年の非石油・ガスの輸出相手国の1位は165億ドルの中国であったが,前年比22.2%減と大幅に減少した。2位はアメリカの159億ドル(前年比5.6%増)で,前年まで2位であった日本と入れ替わった。日本は前年比8.7%減の146億ドルであった。非石油・ガスの輸入に関しても1位は305億ドルの中国で,前年比3.4%増であった。2位は日本の168億ドルであったが前年比11.2%の減少であった。赤字が常態化している対中国貿易は,石油・ガスも含めた貿易収支では赤字幅が大幅に拡大し,前年の74億ドルから2014年は134億ドルと2倍近くに膨れあがった。

資本は継続的に流入している。直接投資は前年の234億ドルから257億ドルに増え,ポートフォリオ投資も121億ドルから234億ドルと倍増している。政府部門への流入は103億ドルから154億ドルに増加した。従来,ポートフォリオ投資は長期国債を中心とした政府部門への流入が主体であったが,株式・短期債券などの民間部門への流入が前年の19億ドルから80億ドルに急増した。

マクロ経済で注目されたのは,ルピアの下落である。2013年後半から下落を始めたルピアの対ドルレートは,年初には1万2000ルピア台まで下落した。4月上旬には1万1240ルピアまで値を戻していたが,その後は再び下落が続いた。中銀の介入にもかかわらず,12月15日には1万2933ルピアと1998年8月以来16年ぶりの安値をつけている。このルピア安は,アメリカの政策金利の引き上げが2015年に見込まれることや,ロシア・ルーブルの通貨安による世界経済の不透明感からアジア通貨が売られるなど,国際環境による要因が大きい。しかし,アジア通貨が一様に売られるなか,インドネシア経済自体も経常収支が第3四半期の70億ドル,第4四半期の62億ドルと赤字が続き,経済成長率も目標に達していないことなどからファンダメンタルズが弱いと判断された。

鉱物・石炭鉱業法による未加工鉱石の輸出禁止

2014年の輸出に影響を与えたのが,2009年に公布・施行された鉱物・石炭鉱業法(新鉱業法)である。新鉱業法は,鉱物資源を効率的に管理するとともに,経済発展に資するよう付加価値を創出することを目的として,鉱石の国内での加工を義務づけた。また,施行後5年間の猶予を経て,未加工鉱石の輸出を禁止することを定めていた。施行から5年目となる2014年に入り,1月11日には新鉱業法を実施するための政令が公布され,国内での鉱石の加工・精錬の義務化が実行に移された。これに合わせて,同日に3本の大臣令も公布され,未加工鉱石の輸出は12日から禁止された。11日に公布されたエネルギー・鉱物資源大臣令2014年第1号では,加工・精錬基準などの施行の細目が規定された。商業大臣令2014年第4号では輸出条件が規定され,財務大臣令2014年第6号においては,精鉱の輸出関税が規定された。純度の下限を設定したうえで一部の精鉱の輸出は許可されるものの,ニッケル鉱石,ボーキサイト,スズ,金,銀,クロムなどの未製錬品の輸出は認められない。輸出が許可される鉱物に関しても,輸出関税を2016年までに段階的に60%まで引き上げ,17年以降は完全禁輸とする方針が示された。輸出が認められる銅15%以上を含む銅精鉱の輸出関税は,2014年は25%,2015年前期35%,後期40%,2016年前期50%,後期60%となる。鉄51%以上,酸化アルミニウムと二酸化ケイ素をそれぞれ10%以上含む鉄精鉱は,2014年の20%から2016年には60%まで段階的に引き上げられる。

新鉱業法の完全実施により,2月から銅鉱石,ニッケル鉱石の輸出は完全に停止した。ボーキサイトは,2月にわずかながら140トン,金額にして2万7000ドルが輸出されている。前年同月には銅鉱石,ニッケル鉱石,ボーキサイトの輸出額は3億9000万ドルであったが,それがほぼゼロになった。輸出禁止の影響が産業に深刻な打撃を与えるとして,インドネシア鉱物経営者会議(APEMINDO)は1月に憲法裁判所に新鉱業法に対する司法審査を請求し,2月にはインドネシア商工会議所(KADIN)も輸出関税の見直しを要請した。7月には米系ニューモント社が国際仲裁を申請した。急激な輸出減に伴い,貿易収支の悪化や鉱業に携わる企業の業績の悪化と従業員解雇による失業率の悪化が強く懸念された。一方,米系フリーポート社は,2月に国営鉱山会社アネカ・タンバン社と銅精錬プロジェクトの技術支援などの実現性評価を行う覚書を結ぶなど前向きな対応をみせた。

インドネシアの銅生産はフリーポート社,ニューモント社の2社がほぼ独占している。3月29日,エネルギー・鉱物資源省は,国内精錬を確約した2社に輸出を認めるための推薦状を発行した。しかし,推薦状は付与されても財務省からの輸出許可が下りず,銅鉱の輸出はその後も停止したままであった。そのため,輸出関税の規制を緩和すべく7月25日に財務大臣令2014年第153号が公布され,精錬所建設の事業計画の進捗状況に応じて税率を引き下げる優遇措置がとられた。精錬所の建設の進捗状況を第I段階(7.5%未満),第II段階(7.5~30%未満),第III段階(30%以上)の3段階に分け,2017年1月12日までの輸出関税をそれぞれ7.5%,5%,0%と大幅に緩和した。この緩和により,フリーポート社は8月に,ニューモント社は9月に銅精鉱の輸出を再開した。

2014年の年間の石油・ガスを除いた鉱物資源の輸出は,金額で前年比26.2%減,量で25.6%減となった。月別の輸出額をみると,2013年12月は駆け込み輸出もあって30億ドルだったが,2014年1月は20億ドルに減少した。その後も毎月20億ドルを下回る水準で推移している。資源別にみると,ボーキサイトの年間輸出額が13億ドルから4800万ドルと96.4%減(量では96.2%減),ニッケル鉱石は17億ドルから8600万ドル(1月輸出分)と94.9%減(同93.3%減)となった。銅精鉱は7月まで輸出が止まっていたため,金額で前年比44.2%減,量で50.9%減となった。鉱物資源輸出の約8割を占める石炭の輸出量は,1月に前年同月比で10.6%減少したものの,2月は同4.2%増,3月は同1.2%の微増と大きな影響はなく,年間では金額で14.6%減,量では3.4%減だった。加工義務づけの対象外である石炭は,新鉱業法の影響はなかったが,継続的な価格下落の影響が大きかった。

新鉱業法の影響は世界各国で出ているが,戦前からインドネシアのニッケル鉱業へ投資を行っており,輸入の44%をインドネシアに依存する日本においては非常に大きな問題となった。日本政府は,精錬所建設の実現可能性についての調査を進めることと並行してニッケル鉱石の輸出許可をインドネシア政府に求め続けていたが交渉は難航し,4月にインドネシアがニッケルなどの鉱石輸出を不当に制限しているとして世界貿易機関(WTO)に提訴する方針をインドネシア政府に通告した。これに対しインドネシア政府は,輸出を禁止しているのではなく,国内で付加価値をつけて輸出しようとしているのだと理解を求めながらも,仮にWTOに提訴された場合,争う準備はできていると冷静に対応した。

金融サービス監督庁の始動

2014年は2つの新しい国家機関が始動した。ひとつが,2013年12月31日からフル稼働となった金融サービス監督庁(OJK)である。OJKは1999年の新中央銀行法に設置が明記されながらも,関係当局の間の調整に時間がかかり法案成立までに12年かかった。同法は,2011年10月にようやく国会で可決され,その後さらに2年余りを要し,2012年12月31日に財務省から非銀行金融機関監督部門が切り離されて正式にOJKが設立された。設立当初は,財務省が監督していた保険会社,年金,証券会社,ベンチャーキャピタル,非銀行金融機関を管轄していたが,2013年12月31日に中銀の銀行監督局がOJKに移管され,すべての金融機関の規制・監督を一元化するという世界的にもあまり例のないミクロ・プルーデンスの実施機関が誕生した。同庁は,6つの地域支部,29の地方支部の計35の支部を組織内にもつ。中銀との協力は2012年から始まり,2013年末には1150人の中銀職員が3年間の契約でOJKに異動し,後にOJKに残るか中銀に戻るかを選択する。

OJKの運営費は,国家予算と金融機関からの納付金で賄われる。将来的には納付金のみで運営する予定である。納付金は,銀行や保険会社など主だった金融機関が1000万ルピアを下限として資産の0.045%を毎年納付する。

OJKの活動は活発である。3月には,毎月提出義務のある財務報告書が提出されなかったベンチャーキャピタル1社を含む4社の営業許可を剥奪した。金融機関に関する規則も多く制定し,2014年には32本のOJK令を公布した。3月の2014年第2号令では,コーポレートガバナンスのためのロードマップが規定された。2014年第28号令では,非銀行金融機関への外資の出資比率を85%以下に制限することが定められた。また,2014年29号令では非銀行金融機関のインフラ部門への貸出を認めるなど,OJKは幅広い案件に目を光らせている。

社会保障庁の始動

2014年に始動したもうひとつの国家機関が,1月1日に発足した社会保障庁(BPJS)である。同庁は,国民皆保険制度の実施を目指して2011年に制定された社会保障庁法(法律2011年第24号)において設置が定められていたものである。BPJSは,既存の公務員向け健康保険(ASKES),公務員向け労働保険(TASPEN),軍人・警察官向け保険(ASABRI),労働者社会保障(JAMSOSTEK),貧困者向け健康保険(JAMKESMASおよびJAMKESDA)を統合して発足し,社会保障と公的扶助のふたつの機能を併せ持つ。

BPJSは国民健康保険を管轄する健康保険BPJSと,労働保険を管轄する労働保険BPJSの2つの機関からなる。健康保険BPJSは1月1日から業務を開始し,2019年までに国民皆保険を実現する予定である。労働保険BPJSは国営労働者社会保険会社(JAMSOSTEK)を基本とし,労災,老齢給付,年金,死亡保障などの労働者社会保障を2015年7月1日から開始する。

健康保険BPJSにとって,2014年はまずまずの滑り出しとなった。開発監督・管理大統領作業ユニット(UKP4)の評価は「合格」であった。まず2014年の加入者目標は1億2160万人であったが,実際には1億3340万人と109.7%の達成率となった。診療機関への支払いに関してもとくに問題はないという評価を受けた。診療を行った医療機関は翌月初めまでに健康保険BPJSに請求書を提出し,健康保険BPJSは受付後15日以内に支払いをするというシステムになっているが,2014年末までに100%の支払いが終了している。さらに2014年末までに10万4427件の苦情が寄せられたが,すべて解決済みということも評価された。また,国民への普及も進んでいる。Sucofindo社の調査では,1万202人のうち健康保険BPJSを知っている人は95%と政府目標の65%を大きく超えた。またMyriad Research Committed社の調査によると,健康保険BPJSに満足していると答えた割合は81%と政府目標75%を超えた。

村落法の施行

インドネシアの地方分権はスハルト政権崩壊後の2001年から始まった。地方政府の財政は,1999年中央地方財政均衡法(均衡法)と2004年新均衡法によって規定されたが,この均衡法では中央政府と地方政府(州および県・市)間の配分と調整についての規定が主となり,村レベルまでの財源配分は十分に考慮されていなかった。また,県や市を通じて村に交付金を支給しても途中で着服され村まで資金が届かないという現実もあった。そのため,村落を対象とする独立した法律が必要となった。2013年12月18日,国会で村落法が成立し,2014年1月15日から同法が施行された。

村落法では,全国の7万4093の村を対象に,国から地方交付金の10%が配分されることが定められた。2015年度から,村の面積や村民数,地理的な要素を勘案して,1カ村当たり最少2億4000万ルピアから最高11億ルピアの村落交付金(Dana Desa)が村落開発のために配分される予定になっている。交付金を受け取る条件としては,村の設置から最低5年経っていること,最低住民数は,ジャワでは6000人もしくは1200世帯,バリでは5000人か1000世帯,スマトラでは4000人か800世帯,南スラウェシ・北スラウェシでは3000人か600世帯,西ヌサトゥンガラでは2500人か500世帯,中・西・東南スラウェシ,ゴロンタロ,南カリマンタンでは2000人か400世帯,東・西・中・北カリマンタンでは1500人か300世帯,東ヌサトゥンガラ,マルク,北マルクでは1000人か200世帯,パプア,西パプアでは500人か100世帯と定められている。

2015年度の村落交付金は,ユドヨノ政権が策定した8月15日発表の予算案では,本来であれば地方交付金総額638兆ルピアの10%に相当する64兆ルピアが割り当てられるはずのところ,9兆1000億ルピアが計上されるにとどまった。しかし,ジョコウィ新政権が2015年1月に策定した補正予算では,周縁地域の開発を重視する新政権の政策を反映して,村落交付金には129%増の20兆8000億ルピアが配分されることになった。村落交付金の優先的な使途は,波止場や路地,市場などの村落インフラ,水道整備などの保健事業,教育や社会福祉事業,職業訓練などの分野とされている。

ジョコウィ政権の経済政策

10月20日に就任したジョコウィ政権の経済政策は,5月に発表された選挙公約のなかに示されている9つの優先課題(Nawa Cita)が中核となる。国家開発企画庁は,2015年1月に,このNawa Citaを基礎にして「国家中期開発計画2015~2019年」を策定した。9つの課題のうち,経済分野では「国内経済の戦略的分野を活性化し,自立を実現する」ことと,「国民の生産性と国際市場における競争力を向上する」ことという課題があげられている。それを実現するための優先分野としては,(1)食糧安全保障,(2)エネルギー安全保障,(3)海洋開発,(4)観光業と製造業育成,(5)水資源の安全保障,基礎インフラ,連結性向上があげられている。(3)の海洋開発は,ジョコウィ政権の柱となる政策コンセプト「海洋国家」に掲げられる分野である(「海洋国家ドクトリン」については,対外関係の項も参照)。島嶼国でありながらこれまで注目されずにきた海洋に照準を定め,海運や造船,漁業,海洋観光,水産資源など海洋に関わるあらゆる産業を振興し,海洋高速道路(海運航路と深海港湾)の建設を通じて地域の連結性を高め,流通能力の向上を図ることを目指している。

就任後,ジョコウィ大統領が最初に着手したのは,現金支給によらない形での公的扶助プログラムであった。これは,燃料補助金削減にともなう燃料価格上昇が低所得層の家計に与える影響を軽減するとともに,家計の生産性を向上させることを目的としている。ジョコウィ大統領は,ソロ市長時代とジャカルタ州知事時代にも無償教育カードや無償医療カードを配布しており,すでに実績のある得意分野である。

11月3日に大統領訓令2014年第7号が策定され,福祉家族カード(KKS),インドネシア健康カード(KIS),インドネシア教育カード(KIP)の3つのプログラムが開始された。これらのカードは11月7日から配布が開始された。KKSカードは172万世帯に,KISカードは8810万人に,KIPカードは2400万の貧困家庭の子供たちを学校に通学させるために配布された。KKSの予算は6兆2000億ルピアで,月当たり20万ルピアを2カ月ごとにカードに振り込む電子マネー方式が採用された。貧困対策に電子マネーを導入することも新たな試みといえる。

KKSは大統領令2010年第15号で設置された国家貧困削減促進チーム(TNP2TK)が,KIPは文化・初中等教育省が,KISはBPJSが主管する。BPJSの役割のひとつである公的扶助機能がKISの実施によって実践されることになる。

燃料補助金の削減

3種のカード配布後の11月17日,ジョコウィ大統領は選挙公約に掲げた燃料補助金の削減に着手した。これによりガソリン価格は1リットル=6500ルピアから8500ルピアに値上げされ,軽油は5500ルピアから7500ルピアに引き上げられた(灯油は2500ルピアで価格据え置き)。この燃料価格の値上げによってインフレ率の上昇が見込まれるため,11月18日中銀は,政策金利を0.25ポイント引き上げ年率7.75%とした。

この削減から1カ月後,ジョコウィ大統領は燃料価格政策の歴史的な変更を実施した。12月31日,スカルノ時代から続く補助金制度のうち,ガソリンの補助金を廃止し市場変動制に移行することを大統領令2014年第191号で定めた。この変更は翌1月1日から実行された。

大統領令では,燃料は,補助金が付与される「特定燃料」,補助金が付与されない「特別指定燃料」,および「一般燃料」の3種類に分類された。「特定燃料」は灯油と軽油からなる。「特別指定燃料」は補助金付き燃料ではないが,遠隔地域など供給が容易ではない指定された地域において流通するものである。具体的には,ジャカルタ首都特別州,バンテン州,西ジャワ州,中ジャワ州,東ジャワ州,ジョグジャカルタ特別州,バリ州を除く地域で流通するガソリンRON88を指す。「特定燃料」と「特別指定燃料」以外が「一般燃料」となる。軽油の価格は,基本価格に付加価値税と自動車税を加えたものから補助金1000ルピアが引かれたものになる。ガソリンRON88の価格は,基本価格に付加価値税と自動車税を加え,さらに流通業者の費用2%を加えたものとする。「一般燃料」価格は市場価格に従うが,価格決定から政府が完全に手を引くわけではない。「一般燃料」価格は,基本価格に付加価値税,自動車税,流通業者のマージンを乗せたものが価格となるが,行き過ぎた価格競争に陥らないように,マージンは5~10%の間に定められた。この燃料補助金の撤廃は歴史的な変化であるものの,原油価格の下落傾向と重なったこともあり,国内では比較的冷静に受け止められている。

軽油,灯油,ガソリンRON88の燃料価格は,エネルギー・鉱物資源省が毎月公表する。たとえば,2014年末に発表された2015年1月の価格は,軽油が1リットル=7250ルピア(含付加価値税・自動車税),灯油が同2500ルピア(含付加価値税),ガソリンRON88は7600ルピアであった。原油の国際市場価格の低下を受け,軽油は7500ルピアから7250ルピアに値下げされた。灯油は2500ルピアと据え置かれた。懸念されるインフレ率は,2014年央にかけて4%程度に低下していたが,11月の燃料価格引き上げによって11月は6.23%,12月は8.36%に上昇した。しかし2015年1月には6.96%と低下する傾向にあり,燃料補助金撤廃の影響は限定的とみられる。

燃料補助金は常に財政の圧迫要因であった。2015年度の当初予算では,燃料補助金のために276兆ルピアが計上されていたが,補正予算では82兆ルピアにまで減らすことができた。歳出に占める補助金の割合は,14%から一気に4%に減少した。ジョコウィ大統領は,この削減分をインフラ開発や貧困層に対する再分配政策の財源とする考えである。さっそく,当初予算にはなかった64兆8000億ルピアが,インフラ開発を進めるため国営企業44社に資本注入されることになった。

対外関係

ジョコウィ新政権の外交政策

ユドヨノ大統領は,アジア通貨危機後に低下したインドネシアの国際的地位を回復させた立役者であった。ユドヨノは,インドネシアを「世界最大のイスラーム教徒人口を抱える民主主義国家」と再定義することで先進国の評価を勝ち取るとともに,全方位外交を展開して世界にインドネシアの存在感を示した。その結果,インドネシアは「ASEANの盟主」の立場を取り戻すとともに,東南アジアから唯一主要20カ国・地域(G20)入りを果たした。

しかし,ジョコウィ大統領は,成功を収めたかに見えるユドヨノ外交を否定する。ユドヨノの全方位外交は,自国の利益を主張する前に国際協調を優先する弱腰外交だとみなされた。それゆえ,新政権は,主権を維持・強化することを目指して,「強い,尊厳ある,国民指向の,国益重視の,行動する外交」(レトノ外相)を展開する必要があると主張する。インドネシアの外交は,ユドヨノの国際協調路線が破棄され,国益重視の現実主義外交へと大きく舵を切ろうとしている。

経済外交の重視

ジョコウィは,国内政治で「国民の生活が第一」の政策を展開することを約束して大統領に当選したが,国際政治でもそれを貫徹する方針である。国民の生活を第一に考える外交を展開するためにとくに重視されている分野が,経済外交である。ジョコウィ大統領は,「外交の8割は貿易がテーマになる」と述べて,経済外交を最優先する姿勢を示している。各国に駐在するインドネシア大使に対しても,自国の商品を売り込む「ビジネスマンたれ」と訓示している。

政権発足直後には,中国・北京でのアジア太平洋経済協力会議(APEC),ミャンマー・ネーピードーでのASEAN関連会合,豪ブリスベンでのG20首脳会議の3つの国際会議に参加して,中国,アメリカ,日本,ロシアなど主要国の首脳との会談をこなし,順調な国際社会へのデビューを果たしたジョコウィ大統領だったが,ジョコウィの目的は「大統領就任披露」というよりも,「投資誘致」にあった。ジョコウィは,APEC首脳会議にあわせて開催されたAPEC・CEOサミットで,自ら演説内容を準備し,シンプルな英語でインドネシアへの投資を呼び掛けた。

中国の習近平国家主席との会談では,ジョコウィ大統領は,中国が提唱するアジアインフラ投資銀行(AIIB)への参加を正式に表明した。アジア地域のインフラ整備を促進するため中国が2013年10月に発表したこの構想は,10月24日に賛同する21カ国が設立に関する覚書に調印していたが,ユドヨノ政権は政府の意向を発表することを保留していた。これに対して,国内のインフラ整備促進を最重要課題とするジョコウィ政権は,インフラ投資の資金を調達するにはAIIBの果たす役割が重要であると判断し,参加を決定した。11月25日には,バンバン・ブロジョヌゴロ財務相がAIIB設立の覚書に調印している。ただし,中国の覇権的な地位を牽制するため,ジョコウィ大統領はAIIBの本部をジャカルタに誘致する意向を中国側に伝えている。

ジョコウィの海洋国家ドクトリン

政府が経済外交を進めるにあたって準拠するのが,ジョコウィ大統領の中心的な政策コンセプトである「海洋国家」である。その具体的な中身は,11月13日の東アジアサミットで「海洋国家ドクトリン」として国際社会に提示された。

ジョコウィは,「インドネシアをグローバルな海洋ハブと位置づける」ことを目指すとしたうえで,そのための戦略を5つにまとめている。まず第1に,1万7000余りの島々からなる群島国家であるにもかかわらず,これまで陸を中心とした国土開発を優先してきた政府の方針を反省し,国家の未来は海にあることを再確認し,海洋文化を再興する。第2に,水産業の開発や漁業従事者の保護など,水産資源に対する主権を確立し,海洋資源を保護・管理する。第3に,海運航路,港湾,物流,造船,観光など,海洋インフラと連結性に関する分野の開発を優先的に進める。第4に,密漁,領海侵犯,国境線紛争,海洋汚染,海賊問題の解決など,海洋分野での国際協力を進める。第5に,2つの大洋の結節点にある国家として,太平洋・インド洋地域協力を進めるとともに,海上防衛力を向上させる。

これら5つのポイントのうち,第1の点はアイデンティティに関するもの,第2と第3が経済に関するもの,そして,第4と第5が国際関係・安全保障に関するものである。これらのなかでも,中心的な位置づけが与えられているのは第2と第3の経済的な戦略である。ジョコウィが国外の企業に投資を呼び掛けているのも,海洋インフラや連結性に関する分野である。

この海洋国家ドクトリンは,単なるお題目にとどまらず,すでに実行にも移されている。まず最初に実行されたのが,密漁対策であった。水産資源の保護と水産業の発展のために,広大なインドネシア海域でこれまで放置されてきた密漁を厳しく取り締まるとの方針がジョコウィ大統領から示されると,次々と密漁船が拿捕されるようになった。しかも,ジョコウィは,外国籍の密漁船に対しては,乗組員を法的に処罰したうえで,拿捕した船を当局が爆破して沈没させるという強硬な手段で政府の断固とした姿勢を示そうとした。しかし,拿捕・爆破沈没させられた漁船の送り出し国であったベトナムやタイの政府からは,インドネシア政府のセンセーショナルなやり方に対して強い反発が示された。

「イスラーム国」とインドネシア

中東地域の過激派組織IS(「イスラーム国」)がシリアやイラクで勢力を増すと,その影響は,イスラーム教徒が国民の約88%を占めるインドネシアにも及んだ。年初に入ると,ISのアラビア語出版物がインドネシア語に翻訳されて,国内でも出回るようになった。3月頃には,ISへの支持を表明する団体が国内各地に現れた。7月に入ると,中東のイスラーム過激派組織アル・カーイダとつながりがあり,東南アジアのテロ活動を主導してきたジュマー・イスラミヤ(JI)の最高幹部で,現在は獄中にあるアブ・バカル・バアシルがISへの支持を表明したとする文書が流布した。また,インドネシア出身とみられる人物が,インドネシア人に向けてISへの合流を呼び掛けるビデオがインターネット上で公開されるなど,IS運動のインドネシアへの浸透は無視できないものになった。

これに対して政府は,ISに対して支持を表明することは違法行為であるとの警告を発した。外国に対して忠誠を誓うことは,国籍法(法律2006年第12号)の規定に反しており,国籍を失う恐れがあるというのである。また,ISへの支持が広まることを防止する必要性を認識したユドヨノ大統領は,8月に,ISのプロパガンダ・ビデオを国内で視聴できなくさせるため,関連するインターネット・サイトをブロックするよう関係閣僚に指示した。

しかし,政府の対策にもかかわらず,すでに多数のインドネシア人がISに合流したとみられている。国家テロ対策庁は,300人以上が参加していると推計している。彼らの大半は中東への留学生だと思われるが,12月中旬にはマレーシア経由でシリア入りしようとしていたインドネシア人家族12人が同国当局に逮捕されるなど,国内からISの支配地域に入る動きもみられる。国内でISへの支持を表明しているのは,過去にテロ活動に関与していたイスラーム過激派組織の関係者が多い。政府は,インドネシア人がISの戦闘に参加することで,東南アジアにおけるテロの危険性が再び増す可能性もあるとして危機感をもっている。

2015年の課題

ジョコウィにとっての政治的課題は,議会や与党といかにうまく付き合うかである。ジョコウィ大統領は,執政府と議会を支配する勢力が異なる「分割政府」という事態にインドネシアで初めて直面している。大統領制における分割政府の状態が,政治的な停滞,つまり「決められない政治」を招きやすいことはよく知られている。議会との関係を安定させるためには,ポストや利権を配分して政党を懐柔しなければならない。しかし,国民目線に立った政治を実現するためには,自らの政策に真に賛同する政党で形成するコンパクトな連立が必要である。このジレンマをいかに乗り越えていくかが,ジョコウィの政治手腕の見せ所である。

2019年の8%成長を目指し今後5年間は平均7%成長を目標に据えたジョコウィ新政権であるが,ユドヨノ政権2期目と同時に始まったインドネシア経済への国内外からの大きな期待へのユーフォリアは終わり,ジョコウィ政権が引き継いだのは,ある意味「素」のインドネシアであるといえる。2億5000万人の人口と豊富な資源をフルに活用し,下位中所得国としてさらなる成長を目指すためには,製造業を育成し,技術の蓄積を進め,取り残された金融市場を育成していく必要がある。また,そのためのインフラ整備を早急に進める必要もある。依然として変わらないこれらの課題を確実に解決していくことがもっとも重要な課題である。

(川村:地域研究センター)

(濱田:開発研究センター研究グループ長)

重要日誌 インドネシア 2014年
  1月
1日 社会保障庁(BPJS)が発足し,国民皆保険制度が始まる。
10日 汚職撲滅委員会,アナス・ウルバニングルム前民主主義者党党首を収賄などの汚職容疑で逮捕。
11日 北スマトラ州のシナブン山で大規模な噴火が発生。
12日 新鉱業法に基づく未加工鉱石の禁輸措置が始まる。
13日 ジャカルタ首都圏各地で,大雨による洪水が発生。5人死亡,1万人以上避難。
21日 政府,産業向け電気料金の大幅な値上げを決定。
23日 憲法裁,総選挙法の違憲審査で,2019年から議会選と大統領選を同日選挙とすると判決。
  2月
1日 ギタ・ウィルヤワン商相,民主主義者党内の大統領候補選出予備選に出馬するため,辞任。後任には,前駐日大使のムハマド・ルトフィが就任。
7日 政府,オーストラリア出身の麻薬犯死刑囚コーヴィの釈放を決定。
11日 国会で,植民地時代の1934年商法典にかわる新商法が可決成立。
13日 憲法裁,アキル前長官が汚職容疑で逮捕された後の憲法裁の信頼回復のために制定された憲法裁救済法に対して違憲の判決。
  3月
9日 リアウ州で森林火災による煙霧被害が拡大。
12日 ユドヨノ大統領,中国の差別的呼称「チナ」を廃止し,「ティオンホア」または「ティオンコック」とする大統領決定を制定。
12日 プカンバル汚職裁,ルスリ・ザイナル元リアウ州知事に対して禁錮14年の実刑判決。
14日 闘争民主党,同党の大統領候補にジャカルタ首都特別州知事のジョコ・ウィドド(通称ジョコウィ)を指名すると発表。
15日 議会選の選挙戦開始(〜4月5日)。
20日 政府,高級車の奢侈税を4月から125%に上げることを決定。
27日 世界保健機関(WHO),インドネシアからのポリオ根絶を発表。
  4月
4日 汚職撲滅委員会,シティ・ファディラ・スパリ元保健相を汚職容疑者に指定。
9日 議会選挙の投票日。投票率は75.1%。
18日 教育・文化省,園児暴行事件に関連し,ジャカルタ・インターナショナル・スクール幼稚部の一時閉鎖を勧告。
23日 政府,投資ネガティブリストを公布。11分野で新たに外資出資の上限を設定。
30日 運輸省関係者が,鉄道建設プロジェクトに関連して日本交通技術(株)からリベートを受け取っていたことが明らかになる。
  5月
9日 総選挙委員会,議会選の公式結果を発表。闘争民主党が第1党に。
10日 大統領選での立候補を目指すプラボウォ・スビアント元陸軍戦略予備軍司令官,スハルト政権崩壊直前の1998年5月12日に発生したトリサクティ大学学生暗殺事件の被害者家族と面会。家族の支持を取り付ける。
10日 政府,前年に暴露されたオーストラリア諜報機関によるユドヨノ大統領盗聴事件で本国に召還されていた在オーストラリア大使を5月末までに職務に復帰させると発表。
11日 ユドヨノ大統領,ミャンマーでのASEAN首脳会議に出席。会議前のベトナム首相との会談では,南シナ海問題でベトナム・中国両政府の仲介を申し出。他方,中国に対しては平和的な世界大国としての振る舞いを求めると声明。
14日 預金保険機構,預金保証金利を25ベーシスポイント引き上げ。
15日 マナドで開催の世界珊瑚礁会議(WCRC)大臣級会合にあわせてインドネシア,ティモール・レステ,オーストラリア政府代表が会談。アラフラ海の環境回復と漁業資源乱獲防止に合意。
16日 ユドヨノ大統領,大統領選出馬のため辞任したハッタ・ラジャサ経済担当調整相の後任に,ハイルル・タンジュン国家経済委員会委員長を任命。
18日 民主主義者党のユドヨノ党首,大統領選では中立の立場をとると発表。
19日 憲法裁,憲法裁による地方首長選の不服申立審査を定めた地方行政法の条文を違憲と判断。
22日 憲法裁,国会の予算審議権を定めた国家財政法の一部条文に対して違憲判決。
22日 汚職撲滅委員会,スルヤダルマ・アリ宗教相を汚職容疑者に指定。26日,同相は辞任。
31日 総選挙委員会,大統領選の正副候補がジョコウィ=ユスフ・カラ,プラボウ=ハッタの2組になったことを発表。
  6月
4日 最高裁,ジョコ・スシロ元国家警察監察総監に対して汚職罪で禁錮18年の実刑判決。
8日 国軍,プラボウォ陣営の選挙活動に参加した疑いのある2人の村落指導下士官に対して懲戒処分を下す。
9日 正副大統領候補同士の公開討論会が開催され,テレビで全国に生中継される。討論会は,7月5日まで計5回開催。
16日 ジョコウィ,自身を宗教や民族差別に基づいて批判した記事を掲載した『オボール・ラヤット』紙の経営者を警察に告発。
18日 国会,2014年度補正予算案を可決。
18日 ユドヨノ大統領,第2回太平洋諸島開発フォーラム(PIDF)参加のため,インドネシアの大統領として初めてフィジーを訪問。
18日 スラバヤ市,東南アジア最大の売春街ドリーを閉鎖。失業した売春婦や斡旋業者には補償金を支払い。
30日 ジャカルタ汚職裁,アキル・モフタル前憲法裁長官に対して終身刑の実刑判決。
  7月
4日 民主主義者党は大統領選でプラボウォを支持することをユドヨノ党首が公表。
5日 大統領選の運動期間の最終日。ジャカルタでは国立競技場でボランティア主催のジョコウィ支持無料コンサートが開催される。
7日 国会,議会法を可決。
9日 大統領選挙の投票日。投票率は69.6%。投票終了後にジョコウィとプラボウォの両陣営が勝利宣言。
14日 大統領選でプラボウォ擁立に参加した6政党,政党間協力の継続を約束。
18日 ジャカルタ汚職裁,アンディ・マラランゲン前青年・スポーツ担当国務相に対して禁錮4年の実刑判決。
20日 国際物理オリンピックで,インドネシア人初の金メダルを女子高生が受賞。
22日 総選挙委員会,大統領選でジョコウィ=カラ組が当選したとの公式結果を発表。プラボウォ陣営は,投開票で不正があったとして25日に憲法裁に対して不服を申し立て。
22日 ユドヨノ大統領,ブディマン陸軍参謀長を事実上の更迭。後任はガトット・ヌルマントヨ戦略予備軍司令官。
  8月
3日 ジョコウィ政権移行チームが発足。
4日 政府,IS(「イスラーム国」)の教義を禁止すると発表。国民の渡航・合流を防ぐため宗教界が協力を表明。
12日 岸田外相,来訪。ジョコウィと会談し,二国間の協力関係について話し合い。
15日 ユドヨノ大統領,任期最後の独立記念日演説。2015年度予算案を国会に提出。
21日 憲法裁,大統領選の結果に対するプラボウォの不服申立を却下する判決。プラボウォ陣営の各党代表は判決受け入れを表明。
22日 政府,日本からの牛肉輸入を4年ぶりに解禁。
26日 国会,地熱法改正案を可決。禁止されていた保護林地域内の鉱区の開発が可能に。
  9月
1日 ジャカルタ汚職裁,アトゥット・ホシヤ前バンテン州知事に対して禁錮4年の実刑判決。
1日 ジョコウィ,来訪中の福田康夫元首相と会談し,インフラ部門への日本の援助を要請。
3日 汚職撲滅委員会,エネルギー・鉱物資源相のジェロ・ワチックを汚職事件の容疑者に指定。同相は辞任。
4日 政府,米鉱山会社ニューモントと鉱業契約の見直しに関する覚書締結を発表。
12日 憲法裁,労働法の一部条文に対して違憲判決。
12日 2008年に破綻した旧センチュリー銀行(現ムティアラ銀行)の全株式を日本のノンバンクJトラストが取得すると発表。
15日 最高裁,汚職罪に問われていた福祉正義党のルトフィ・ハサン・イシャアク前党首に対して,禁錮18年の実刑判決。
24日 ジャカルタ汚職裁,民主主義者党のアナス・ウルバニングルム前党首に対して禁錮8年の実刑判決。
25日 汚職撲滅委員会,リアウ州知事のアンナス・マアムンを収賄容疑で現行犯逮捕。
27日 国会,地方首長選を住民の直接選挙から議会での間接選挙へと改正することなどを内容とする地方首長選法と地方行政法の改正案を可決。
  10月
1日 2014〜2019年期の国会が開会。3日に,ゴルカル党のセトヤ・ノバントが議長に選出される。野党陣営が役員を独占。
2日 ユドヨノ大統領,地方首長選法と地方行政法の改正に関する法律代行政令を制定。地方首長選を直接選挙に戻すことなどを規定。
3日 華人でキリスト教徒のバスキ・チャハヤ・プルナマ副知事がジャカルタ首都特別州知事に昇格することに反対するイスラーム急進派団体が州議会前でデモ。暴徒化したデモ隊と警察が衝突。
7日 開発統一党,プラボウォ陣営を離脱しジョコウィ陣営に加わることを決定。
8日 国民協議会(MPR)役員の選出でプラボウォ陣営がジョコウィ陣営に勝利。
9日 南スラウェシ州マロスに残る洞窟壁画を約4万年前に描かれた世界最古の芸術作品とする研究成果が発表される。
10日 ジョコウィ,各議院代表者と会談し,平穏な大統領就任式への協力を要請。
10日 85カ国が参加して第7回バリ民主主義フォーラム(BDF)が開催される。
16日 開発統一党の反党首派がスラバヤで全国大会を開催し,ムハマド・ロマフルムジを新党首に選出。
17日 ジョコウィ,大統領選後初めてプラボウォと会談。
20日 ジョコウィ新大統領とカラ新副大統領の就任式が国民協議会で開催される。その後,市中心部で祝賀パレードと祝賀集会が開催される。
21日 会計検査院新長官にハリー・アズハル・アジスが就任。
26日 ジョコウィ大統領,新内閣を発表。翌27日に内閣が発足し,初の閣議を開催。
29日 ヤソナ・ラオリ法務・人権相,内部分裂している開発統一党のロマフルムジ党首派を公式に承認。
29日 国会で,野党会派が与党会派欠席のまま各委員会の正副委員長を選出。
31日 ジョコウィ大統領,アンディ・ウィジャヤントを内閣官房長官に任命。
  11月
1日 開発統一党のスラヤダルマ・アリ派がジャカルタで党大会を開催し,ジャン・ファリズを新党首に選出。同派は,ロマフルムジ党首派を承認した法務・人権相の決定を行政裁判所へ提訴。
3日 ジョコウィ大統領,貧困層向けの医療費・教育費無償化プログラムの開始を宣言。
3日 中国の王毅外相,来訪。ジョコウィの「海洋国家」構想への協力を申し出。
9日 ジョコウィ大統領,初の外遊に出発(〜16日)。中国でのAPEC首脳会議,ミャンマーでのASEAN首脳会議,オーストラリアでのG20首脳会議に出席。9日,北京で中国国家主席の習近平と会談。中国が提案する「アジアインフラ投資銀行」への参加を表明。
11日 憲法裁,農民保護・強化法の一部条文を違憲と判断。公有地における農民の耕作権などを認める。
16日 ジョコウィ大統領,石油ガス管理改革チームを設置。代表に改革派経済学者のファイサル・バスリが就任。
17日 国会委員長人事をめぐり対立していた与野党,与党への副委員長ポスト追加で合意。国会運営は正常化へ。
17日 ジャカルタ首都特別州政府,2015年の最低賃金を前年比11%増の月270万ルピアに決定。
18日 政府,補助金付きのガソリンと軽油の価格をそれぞれ2000ルピア値上げ。
19日 ジョコウィの大統領就任に伴い空席となったジャカルタ首都特別州知事にバスキ副知事が昇格。初の華人出身の首都知事。
19日 中銀,政策金利を7.75%に引き上げ。
20日 ジョコウィ大統領,検事総長に検察出身のナスデム党国会議員プラセトヨを任命。
24日 ジョコウィ大統領,全国州知事と大統領府で会合。
27日 ジョコウィ大統領,投資調整庁長官に食品飲料品企業協会事務局長のフランキー・シバラニを任命。
30日 ゴルカル党第9回全国大会,反アブリザル・バクリ党首派の反対を押し切って,当初予定を繰り上げてバリで開催。12月3日に全会一致でバクリ党首を再選。
  12月
4日 ジョコウィ大統領,88ある国家機関のうち10機関の廃止を決定。
5日 政府,拿捕した3隻のベトナム船籍密漁船を爆破して沈没させる措置を実行。
5日 国会,与野党対立の原因となっていた議会法の改正案を可決。
7日 ゴルカル党の反バクリ党首派はジャカルタで党大会を開催。アグン・ラクソノ副党首を新党首に選出。
10日 ジョコウィ大統領,ASEAN・韓国25周年記念サミット出席のため韓国を訪問(〜12日)。
11日 ジャカルタ州警察,ISの風刺漫画を掲載した英字紙ジャカルタ・ポスト編集長を宗教冒涜の容疑者に指定。
12日 中ジャワ州バンジャルヌガラ県で豪雨による大規模な地滑りが発生。死者・行方不明者の合計は108人に。
15日 ジョコウィ大統領,海上保安庁(BAKAMLA)を新設。
23日 国営電力会社PLNの新社長にBRI銀行頭取のソフヤン・バシルが任命される。
26日 スマトラ島沖大地震・津波発生から10周年を迎え,アチェで式典が開催される。
28日 スラバヤ発シンガポール行きのエアアジア機がナトゥナ海域で墜落。
31日 政府,1月1日からのガソリンの補助金撤廃を発表。軽油の補助金は固定制に。
31日 ジョコウィ大統領,ルフット・パンジャイタンを大統領首席補佐官に任命。

参考資料 インドネシア 2014年
①  国家機構図(2014年12月末現在)
②  第2次一致団結インドネシア内閣閣僚名簿(2014年10月19日現在)
③  「働く内閣」(Kabinet Kerja)閣僚名簿(2014年12月末現在)
④  国家機構主要名簿
⑤  2014年総選挙の結果
⑥  2014年大統領選挙の結果

主要統計 インドネシア 2014年
1  基礎統計
2  国・地域別貿易
3  国際収支
4  支出別国内総生産(名目価格)
5  産業別国内総生産(実質:2010年価格)
 
© 2015 日本貿易振興機構 アジア経済研究所
feedback
Top