2015 年 2015 巻 p. 643-668
2009年12月,オバマ米大統領は2014年をもってアフガニスタン駐留の米軍・北大西洋条約機構(NATO)軍を中核とする国際治安支援部隊(ISAF)軍が撤退すると表明したが,2014年の年末についにその時を迎えた。当初ハーミド・カルザイ大統領はこの年に予定されていた大統領選挙を数年間延期するのではないかとの観測もあったが,彼が2013年7月17日に選挙の監視に関する法律を承認したことで同年中の選挙の実施も確定的になっていた。
こうして9・11アメリカ同時多発テロを受けた2002年以来駐留を続けた国際駐留軍の撤退と,2001年12月に暫定行政機構議長に就任して以来国家元首の地位にあり続けたカルザイ大統領の退場および次期大統領の選出という2つの大きな転換期をアフガニスタンは同時に迎えることになったのである。
国際問題に目を転じると,イランを挟んでさらに西側のイラクおよびさらにその西に位置するシリアにまたがって,6月に過激テロリスト集団のIS(「イスラーム国」)がカリフ国樹立を宣言した。この集団はもともと1990年代に当時ソ連撤退後の内戦状態にあったアフガニスタンにターリバーンの客人として潜入したオサーマ・ビン・ラーディンの指導したアルカーイダを淵源にするだけに,ターリバーン側からISとの連携の動きがどのような形で出てくるか関心が集まった。
現在のところアフガニスタン側のターリバーンがISとの全面的な連携を行っている兆候は出ていないが,パキスタン側のターリバーンについては一部連携の動きも観察されるだけに,今後とも注視が必要である。現在ターリバーンがアフガニスタンの地方農村部で堅固な支配力を保っている背景には,近年におけるケシ栽培の顕著な拡大がある。アフガニスタンにとってケシ栽培からの脱却は古くて新しい問題だが,それはガニー新政府の政治的安定のためには従来にも増して喫緊の課題になっている。
2014年前半の国内政治は,もっぱら第3回大統領選挙を中心に展開した。4月5日の第1次投票,6月14日の決選投票,9月21日の独立選挙委員会(IEC)による選挙結果発表が大きな流れであり,それに先立つアシュラフ・ガニー候補とアブドゥッラー・アブドゥッラー候補との合意によって一応の決着に至った。9月29日にガニーが新たな大統領に就任し,翌日にはアフガニスタン・アメリカ間の懸案であった安全保障協定が調印された。2013年11月24日にアフガニスタンの最高議決機関であるロヤジルガ(国民大会議)が同協定の年内署名をカルザイ大統領に求めてから,すでに10カ月以上が経過していた。
まずはアフガニスタン大統領選挙の第1回選挙結果が公表され,上位2候補による決選投票が決まるまでの経緯を多少の考察を加えつつ詳細に追っていくことにしよう。2月2日,2013年11月発表の公認候補11人で第3回大統領選挙の本格的な選挙戦が始まったのである。
これに先立つ1月13日,ソ連侵攻時代の1990年代からアフガニスタンの主要な軍閥のひとりであり,2001年の9・11同時多発テロ事件以降の一時期ターリバーン勢力への支持を鮮明にしていたゴルブッディン・ヘクマティヤールが,彼が長年党首を務めてきたイスラーム党(ヘズベ・イスラーム)の党員宛て書簡で,4月の大統領選挙への積極的な参加を促している。その後ヘクマティヤールの率いるイスラーム党は大統領選でのゴトゥブッディン・ヒラールへの支持を表明した。ヒラール候補はヘクマティヤールの首相在任時に副総理を務めており(1993~1996年),イスラーム保守主義的な政治家といわれる。
さらに決選投票の結果がほぼ判明した8月13日の段階で,ヘクマティヤール自身が新政府との会談の意向を表明している。激しい転変が相次いだアフガニスタン政界を35年以上もの間生き抜いてきたヘクマティヤールの政治的な「嗅覚」を信じるとすれば,このエピソードはターリバーンが今後のアフガニスタンをめぐる政治的な主役の座から追われはじめていることを暗示しているようにも感じられる。ターリバーンは今回大統領選挙の実施に際し,第1回投票と決選投票を通じて頑ななまでに選挙への絶対反対と阻止を叫んで,度重なるテロ攻撃で選挙の妨害を試みている。それを承知のうえでこの老練な政治家はあえて選挙への参加を呼び掛けていたからである。
ターリバーンの選挙妨害にもかかわらず,アフガニスタンの多くの国民が都市部・農村部を問わず,内外の選挙関係者やジャーナリスト・マスコミを驚かすほどの勇気と熱意をもって投票所に足を運んだことの意味はきわめて重要である。これはターリバーンの影響力の拡大と彼らによる支配の再来を国民が決して望んでおらず,現在の憲法体制における民主的な政治体制の維持こそが彼らの希望であることを端的に表現していると評価できるからである。今回の大統領選挙の最大の意義は,この重要な政治的転機におけるアフガニスタン国民の民主化への明確な意思表示そのものにあったといえる。
2月5日には大統領選に関連してアフガニスタンで初めてのテレビ討論番組が企画され,政策論争を中心とする活発な議論が放映された。これは民主主義化で遥かに先行するイランの例に倣った政治の民主化・透明化の試みのひとつでもある。イランにおいて大統領選挙でテレビ討論の手法が導入されたのは,2009年の第10回大統領選挙の際であった。イランとアフガニスタンの公用語はペルシャ語(ダリー語)として共通性があり,このためテレビなど公共放送の分野でもイランは長年支援を行ってきた。このテレビ討論番組は選挙の投票日に向けて2月16日には2回目が放送されており,その後も継続したものと思われるが,投票日直前の3月31日にはカーブルの治安の悪化のため中止になっている。
選挙戦では投票日が近づくに従って次第に候補者が絞り込まれていった。3月5日にはカイユーム・カルザイ大統領候補がザルマイ・ラスール候補支持のため選挙戦からの撤退を表明,16日にはアブドゥル・ラヒーム・ワルダク大統領候補が選挙戦からの撤退を表明した。さらに第1回投票日が近づいた3月26日には,サルダール・モハンマド・ナーディル・ナイーム大統領候補がザルマイ・ラスール候補支持のために選挙戦からの撤退を表明している。
こうしたなか,投票日直前の4月1日にアフガニスタンの若者組織が投票者拡大のため「指にインク」キャンペーンを企画するなど,選挙前の盛り上がりは社会のさまざまなレベルでみられた。第3回大統領選挙第1回投票と各州議会選挙の投票が同日実施された4月5日には,かねて選挙実施の実力による妨害を予告していたターリバーンによる各地のテロで20人の市民・関係者が死亡している。しかしその規模は想定を下回るものであり,他方投票所に熱心に足を運んだ全国の老若男女の数は大方の予想をはるかに上回る750万人を記録した(アフガニスタンの有権者総数は約1200万人)。投票所に並んだ有権者全員が投票できるよう締め切りを1時間遅らせる措置まで取られ,投票用紙の不足する会場もあったと伝えられる。
開票作業は翌6日から始まったものの,山間の遠隔地での投票箱回収作業の困難さなどもあり26日になってようやく5日投票の大統領選挙暫定結果が公表され,確定結果は5月15日の発表となった。この時の暫定結果によれば,1位はアブドゥッラー・アブドゥッラー候補の297万票(得票率44.9%)であり,2位はアシュラフ・ガニー候補の208万票(同31.5%)であった(詳細は表1参照)。
(注) 得票率は%。
(出所) IECのウェブサイト,Wikipedia,各種報道などにより筆者作成。
その後5月3日には8人中6位に終わったゴルアーガー・シェールザイ候補が,第1回首位のアブドゥッラー・アブドッラー候補への決選投票での支持を表明。また11日には暫定結果3位(ただし得票率は11.5%)のザルマイ・ラスール候補が同様にアブドゥッラー候補への支持を表明している。
5月15日になって大統領選挙第1回投票の確定結果がIECにより公表されたが,大勢は暫定結果と変わらなかった(表1を参照)。同時に上位2人による決選投票の6月14日実施が発表された。国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)は決選投票が透明性をもって行われることを期待する旨表明している。
こうしたなか5月22日にはカルザイ大統領の兄マフムード・カルザイが選挙戦でのアブドゥッラー支持を表明,また27日には情報局元長官のアムルッラー・サーレフもアブドゥッラー候補への支持を正式に表明して,この時点では第1回投票で首位となった同候補に支持が流れるかとの印象も与えた。だが6月8日にはカルザイ大統領の兄のカイユーム・カルザイがガニー候補への支持を表明しており,副大統領候補のドーストムはウズベク人とトルコ人の有権者にガニー候補に必ず投票するよう促している。
他方で6月2日にはターリバーンが有権者に対して大統領選の決選投票に行かないよう警告を出しており,治安面での不安も再び浮上した。こうしたなか6日にはアブドゥッラー候補の車列に対する自爆テロがあり,ボディガードら7人が死亡した。6月10日には14日の決選投票に向けて,国軍が19万5000人の兵を全国に配置している。また同日のIECの発表で,決選投票では全国6423カ所の投票所のうち184カ所が治安上の理由で閉鎖された。
6月14日には大統領選挙の第1回投票結果で1位だったアブドゥッラーと2位だったガニー候補による決選投票が行われ,同日中に開票作業が始まった。17日の深夜には不服審査委員会(ECC)の苦情受け付けが終了,第1回より少ない2558件を受け付けたとの発表があった。
しかし18日にアブドゥッラー候補の側がIECによる選挙不正の疑いで開票作業の中断を要請。それにもかかわらず開票作業が継続されたため,その翌日には結果受け入れの拒否を示唆している。
7月2日,IECは選挙の透明性確保のために暫定結果発表を7日に延期すると発表。7日,決選投票の暫定結果としてガニー候補が勝利したと発表し,これに対してアブドゥッラー陣営は結果の受け入れ拒否を表明した。
この事態を重くみたケリー米国務長官の直接の仲介により,12日にはアブドゥッラー候補とガニー候補の両陣営が全票再集計の実施で合意。17日に再集計作業が開始されたが,不正票の判定基準の食い違いなどで作業は停滞を続けた。
8月25日にはオバマ米大統領がガニー候補とアブドゥッラー候補に電話し,両候補が結束を保つよう要請する一幕もあった。26日には大統領選決選投票の再集計作業が3度目の中断をみる。そして31日のラマダーン明けに,大統領選決選投票の再集計作業が再開され,9月5日に大統領選決選投票の再集計作業の終了が発表された。発表によれば,ガニー候補の得票は448万5888票(得票率56.44%)であったのに対し,アブドゥッラー候補の得票は346万1639票(得票率43.56%)と比較的僅差であった。
その後も両候補の交渉は続き,20日になってようやくガニーとアブドゥッラーの両候補が挙国一致政権の枠組みに関する合意文書に署名するに至った。同日IECがアシュラフ・ガニー候補の次期大統領当選を発表して,4月5日の第1回投票から5カ月以上続いた第3回大統領選挙はここに幕を下ろした。
アフガニスタンの新たな指導者たちここで,アフガニスタンの新政府を担う3人の主要な政治家たちの横顔を確認しておくことにする。まず新大統領のアシュラフ・ガニー(1949年生)であるが,彼はパシュトゥーン人の名家であるアフマドザイ家の出身で,ベイルートのアメリカ大学とアメリカのコロンビア大学に学び,元々は社会人類学の専攻であった。1991年から2002年まで世界銀行に勤務した。2001年の9・11同時多発テロではマスコミに頻繁に登場し,その後短期間国連の特別アドバイザーを務めたのち24年ぶりにアフガニスタンに帰国した。2002年から2004年までカルザイ暫定政府の財務相を務め,また暫定政府末期には制憲ロヤジルガの開催にも積極的に関わっている。その後2004年から2008年までカーブル大学の学長職にあった。カーブル大学を退いた後はISEセンター(国家効率改善センター)の設立に関わり,また2006年には国連の次期事務総長に擬せられたこともある。
ガニー新大統領は2009年の大統領選挙にも立候補しているが,この時はカルザイ大統領,アブドゥッラー,ラマザン・バシャルドゥーストに続いて4位であった。ガニー大統領は経済・開発分野に知見と人脈をもち,欧米にも人脈が広く,また日本との人的なパイプも太いものがある。このようにガニー大統領の人物像については欧米諸国の信頼が厚く,その選出についても暗黙の強い支持があったと思われる。だが2001年のアフガニスタン帰国が24年ぶりであったことからもうかがえるように,彼の国内的な基盤が前任のカルザイ大統領と同様脆弱さをはらんだものであることも示している。
次に,9月29日に発足した挙国一致政権で行政長官を務めることになったアブドゥッラー・アブドゥッラーの経歴を見てみよう。彼はガニーよりも10歳ほど若く,1960年生まれである。ガニーがローガルの生まれであるのに対し,アブドゥッラーは首都カーブルに生まれ,少年期をパンジュシール,カンダハール,カーブルなどで過ごした。アブドゥッラーの両親は,父親は支配民族のパシュトゥーン系であるが,母親がタジク系(イラン系に近い)といわれる。
こうした背景もあって,彼は「パンジュシールの獅子」と呼ばれ,現在も一部でカリスマ的な人気をもつ故シャー・マスード将軍のアドバイザーとして2001年の9・11同時多発テロの直前まで仕えた。9・11事件の直前にマスード将軍が暗殺されると,G.W.ブッシュ米大統領(当時)は南部カンダハールの空爆やアフガニスタンへの米軍駐留を決定,12月5日にはボン合意に従って暫定行政機構が発足,アブドゥッラーはターリバーンの対抗勢力であった北部同盟の一角としてカルザイ暫定機構政府に参加し,外相を務めた。
その後,彼は2009年の大統領選挙に立候補して現職のカルザイ大統領を厳しく批判するようになり,第1回投票では27.8%の得票で2位となった。しかし彼は1位のカルザイ候補が大規模な不正を働いたとして公表された開票結果への不満を表明,結局この時は決選投票への立候補を取り止めている。
同選挙後アブドゥッラーは「変革と希望への連合」(CCH)を結成してカルザイ政権に対抗する野党勢力を糾合,2010年9月の国会下院選挙で同組織は90議席を獲得して野党第1党になっている。またアブドゥッラーは2006年から非政治的なシャー・マスード基金の総裁を務めており,旧北部同盟系の主要な政治家として多大な影響力を誇っている人物である。
このようにガニー大統領とアブドゥッラー行政長官は,まったく対照的な経歴と背景をもっており,今後とも2者が協調してアフガニスタンの政治を運営していくことは必ずしも容易でない。だが他方でこの2人の政治家が互いの欠点を補いつつ同国の政治的な難局に対処していくスタイルが確立した場合には,そのメリットがアフガニスタン政治の安定のために大いに発揮されることも期待されるのである。
現在の挙国一致政府を支える3人目の主要な政治家として,ガニー政権の第一副大統領となったアブドゥルラシード・ドーストムの経歴にも触れておこう。
ドーストムは1954年生まれで,ガニー大統領とアブドゥッラー行政長官の中間の年齢である。アフガニスタン北部に居住するウズベク人の旧軍閥であり,ウズベク人の間ではカリスマ的な人気がある世俗的な政治家でもある。
ドーストムは北部ジョウズジャーン州の出身で,ソ連との戦争時には反政府軍の将軍として軍を率い,その後はウズベク民族を糾合して独立の軍閥となった。彼はターリバーンの支配が全国に及んだ時期,腹心のマリクの離反によりトルコへの亡命を余儀なくされた。その後ドーストムは2001年にアフガニスタンに舞い戻り,ムハンマド・ファヒーム将軍やイスマーイール・ハーン,モハンマド・モハッケクらとともにアメリカのターリバーン掃討作戦に参加する。
ドーストムはこれまでカルザイ政権の要職に加わることはなかったが,ガニーの立候補にあたっては第一副大統領候補を引き受けた。これは新政権の一翼を担うことでウズベク人の発言力を確保するという意味をもったが,さらに言えば,新政権の基盤をパシュトゥーン民族以外にまで拡張する象徴としての役割を担ったのである。
こうして大統領選挙の過程では不正などさまざまな問題が露呈したものの,その結果として成立した現在の挙国一致政権は,アフガニスタンのこれまでの歴史においても画期的といえるほどの多面的な性格をもつようになったといえる。こうした多様性が裏目に出ると,新政府の閣僚人事の遅れにみられるような意思決定遅延といったマイナス面が強調されることもあろう。だがガニー大統領が復興・開発,アブドゥッラー行政長官が政治・外交,ドーストム副大統領が軍事というようにそれぞれの得意とする分野を緩く分掌するような形が定着すれば,案外安定的な政府へと転換する可能性を秘めているのではないかと考えられる。
外国軍の撤退完了までのプロセスアシュラフ・ガニーが新大統領に就任した翌日の9月30日,アメリカとの間の最大の懸案であった安全保障協定への大統領署名がようやく実現した。これは年末の米軍・ISAF軍撤退後,約1万2000の外国兵が残留することを双方が約束するものである。10月2日,アフガニスタンに軍事的に大きな関心をもつ隣国のパキスタンも協定署名に対する歓迎の意を表明しており,今後数年間のアフガニスタンの治安維持を基本的に方向づけるものと評価される。11月4日にはキャンベル米・ISAF総司令官がアフガニスタン残留兵力の規模拡大と残留期間の延長について再検討を始めている。
その後,11月23日には下院が年末の撤退後も外国軍1万2500の駐留を認める米軍・NATO軍との安全保障協定を了承しており,また27日には下院に続き上院も圧倒的多数で承認した。こうして年末の外国駐留軍撤退への国内的な準備が着々と進む一方で,外国軍の撤退作業自体についても2014年を通じて粛々と進行していった。年初の1月15日にはポーランドの国防相が同国軍のアフガニスタン撤退を予定より早めると発言している。3月17日にはNATO駐留軍として派遣されたイギリス軍が南部ヘルマンド州の2つの基地から撤退,同基地をアフガニスタン国軍に明け渡した。4月21日の段階で,NATO軍の基地・施設335カ所がアフガニスタン国軍に移管されたと報道されている。さらに5月16日にはアフガニスタン政府がイギリス軍にヘルマンド州とカンダハール州の軍収容施設の移管を要請した。
また米軍は早くも1月中にはアフガニスタン撤退後の駐留米軍の具体的な規模の検討に入っており,22日に米軍指導層がアメリカ政府に対し2014年末以降の駐留米軍の規模を1万と提案している。28日になって米軍撤退後の残留規模を9800と示唆している。国際的にはこの規模での駐留継続が大方受け入れられているようである。中国外務省高官は29日,アメリカが米軍撤退後の残留軍を適切に用いるよう期待を表明している。
他方オバマ米大統領の示した米軍駐留継続の方針に対し,ターリバーン側は即座に反発を示したが,それでも捕虜交換などでのコンタクトは維持した。2月22日にターリバーンはアメリカとの捕虜交換交渉が中断したと発表していたが,5月31日になってオバマ米大統領は,アフガニスタンでターリバーンに唯ひとり5年間拘束されていた米軍兵士がグアンタナモ収容所のターリバーン高官5人との捕虜交換で解放されたと公表した。これは年末の米軍撤退に向けての準備の一環とも考えられ,実際にターリバーン側の高官5人がカタールで解放されている。また12月7日にはアメリカはパキスタン・ターリバーン指導者のラティーフォッラー・メフスードを含む3人をパキスタン側に引き渡した。アフガニスタン下院はこれをアフガニスタンの国家主権の侵害として非難している。
ともあれ年末の12月28日には米軍・NATO軍がアフガニスタンでの戦闘任務をすべて終了して撤退を完了,これに先立ってオバマ米大統領は26日にクリスマスの挨拶でアフガニスタンにおける軍事作戦の「責任ある終結」を宣言した。22日のアメリカ国防省の発表によれば,2015年以降米軍はアフガニスタン国内のターリバーン勢力およびパキスタンのカラチ在住とされるターリバーン指導者モッラー・オマルを軍事的な標的にしないという。
ターリバーンとの戦闘の激化外国軍のアフガニスタン撤退の進行と関連して,10月2日にはターリバーンの首領モッラー・オマルがラマダーン明けのメッセージでアフガニスタンでの「戦争勝利」を宣言した。同日の政府当局の報告によれば,9月30日の新大統領による安全保障協定署名の後,ターリバーンの攻撃件数が減少したという。しかし通年でみれば,過去数年に比べてターリバーンの軍事的な攻勢はかえって強まっているという印象を受ける。
これに対して国軍側としてはいくつかの重要な戦果があった。6月30日,アフガニスタン国軍がターリバーン側の攻撃を受けていたヘルマンド州サンギーン地区の奪還を発表した。8月10日にはターリバーンのシャードゴル司令官を含む96人を殺害,同30日にはヌーリスターン州の作戦で治安維持部隊がターリバーン高官のモッラー・ネエマトッラーとスルタンを含む28人超を殺害している。しかし,これらの戦果が戦況全体を好転させてはいない。9月6日にはヘルマンド州での激戦の結果200人以上の軍・警官が死亡,州内の主要地区をターリバーンが掌握したと報告された。それに先立つ6月25日にはヘルマンド州で800人規模のターリバーンによる攻勢があったが,これは米軍撤退後の空白をねらったものと思われ,外国軍撤退後の状況についての懸念材料となった。
自爆テロや外国人に対するテロも相次いだ。1月17日,レバノン人が経営するカーブルのレストランで自爆テロがあり,外国人13人を含む21人が死亡した。7月29日には南部カンダハール州のカルズ村でカルザイ大統領の従兄弟でありガニー候補の陣営幹部として選挙運動に当たっていたハシュマト・カルザイが自爆テロにより死亡した。11月以降はカーブル郊外の外国人居住地区やカーブル市内の大使館地区がターリバーンによる攻撃の標的となっている。
これらの戦闘は全体として,ターリバーンと対峙する主体が米軍・ISAF軍からアフガニスタン国軍へと移行していることを示している。ターリバーンの攻撃の主な目的は4月および6月の大統領選挙の妨害と,首都カーブルへの対抗拠点となる南部カンダハールの後背地であり主要な資金源ケシの産地でもあるヘルマンド州の軍事的な掌握であったが,いずれの作戦でも顕著な成果を上げるには至らなかった。そこで,軍事的な危険性は高いが短期的な宣伝効果の大きい首都カーブルでのテロ攻撃の強化に移行したものと考えられる。
他方でパキスタン国内を含め,次第に行動の余地を狭められつつあるターリバーンの一部過激グループが,イラクおよびシリア方面で6月以降劇的に登場したIS(「イスラーム国」)の動きに同調してターリバーンを離脱するという動きに出ていることも報道されている。
8月28日の報道によると,ISの軍事的成功に刺激を受けたパキスタン・アフガニスタン国境地域の一部過激グループがジャマーアテ・アフラールを名乗り,パキスタン・ターリバーン本体から分離している。9月27日にはガズニー州のアジーリスターン地方でアフガニスタン治安部隊がISを名乗るテロ集団と戦闘,30人を殺害したと発表。さらに12月16日には パキスタン・ターリバーン運動(TTP)がペシャーワルで軍関係者の学校を襲撃して児童130人を殺害し,パキスタン国内の広範な反発を買うと同時に国際的にも非難が集中した。この事件をひとつの契機にして一部過激グループがTTP内部での孤立を強めるなかでISに接近し,TTP本体を離脱する動きも加速しているものと思われる。
アフガニスタンの経済開発の現状を,悲観的な側面のみから語ることは必ずしも適切ではない。日本を含む国際的な支援の努力によって,保健・衛生・教育・社会インフラの各部門においてこの10余年の間に顕著な改善がみられたことは疑いようもない。平均寿命は以前には40歳前後であったのが,近年では60歳以上まで急伸しているし,就学児童数は以前には90万人程度であったのが,現在では800万人超となっている(うち女生徒は260万人)。
2002年にわずか50キロメートルほどであった舗装道路は急ピッチで整備が進んでおり,現在では1万1920キロメートルに及ぶとされる。その維持のための財源捻出が問題となるほどである。国民の3分の2ほどが携帯電話を持ち,また国民の6割が日常的にテレビを観ている。
だが他方でアフガニスタン経済の現状において,将来的に懸念される深刻な課題があることも事実である。たとえばアフガニスタンでは以前から豊富な地下資源の存在が確認されているものの,その開発にあたっては輸送コストの問題が横たわっている。またアフガニスタンにおいて2013・2014年はケシの作付面積・アヘン生産量ともに過去最大を更新しており,ケシ作からの脱却が一向に進まないことも問題である。
カーブル銀行不正融資事件に象徴される汚職の問題も解決しているとは言い難い。10月1日にはガニー大統領が2010年のカーブル銀行の不正融資事件の再調査を要請しており,新政府の腐敗への取り組みのひとつの試金石になっている。729万ドルの使途はいまだに不明であり,早期の解明と同時に効果的な汚職の防止策が求められる。
これと関連して,11月23日にドーストム副大統領が新政府の閣僚選任の遅れを指摘するとともに,選任後は国内の腐敗した階層の摘発を強力に進めると公言している。挙国一致政権による新閣僚の選任が単なる猟官運動に堕してしまえば重要な転機にあるアフガニスタンの将来にとって損失は計り知れないだけに,この問題では国際社会が注視していく必要がある。
従来アフガニスタンの復興を支えてきた国際的な復興援助資金が今後とも継続するかどうかもまた少なからぬ懸念材料である。1月23日にはアメリカが2014年の対アフガニスタン開発・軍事支援予算を50%削減する予定と報道された。この大幅削減の多くの部分が軍事予算であるとはいえ,アフガニスタンの復興に対する国際的な関心の低下は大いに懸念されるところである。
その意味では12月4日からロンドンで開催されたアフガニスタン会議は大きな意義があるだろう。パキスタンのナワーズ・シャリーフ首相も出席するなかで,ガニー大統領とアブドゥッラー行政長官の両指導者が揃って国際的支援の継続を訴える絶好の機会となった。アフガニスタンに対する支援の新たな動きとしては,アメリカ国際開発庁(USAID)の新女性エンパワーメント・プログラムがノルウェーの関与で11月8日にスタートしている。また12月15日にはUSAIDがガス発電プロジェクトに1億2500万ドルを配分したとの発表もあった。
アフガニスタンは改めて言うまでもなく,アジア大陸の内陸部に位置する陸封国である。この国の経済の将来的な発展を期すためには,安定的な国際的流通ルートを確保する必要性が常に存在する。その意味では現在アフガニスタンの経済支援にもっとも意欲を示している中国のみならず,アフガニスタンの北側に位置するタジキスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタンなどの中央アジア諸国,さらにそれらの国に強い影響力をもつロシアの積極的な関与が近い将来強く望まれるところである。
ケシ栽培の蔓延と拡大国連薬物・犯罪事務所(UNODC)が11月に発表した「アフガニスタン・ケシ栽培報告2014」によれば,現在世界最大のケシ栽培国であるアフガニスタンの2014年の作付面積は,前年よりも7%多い22万4000ヘクタールで,推定生産量は前年を17%上回る6400トンであった。これに関連してケシの買い取り価格は各州で一様に下落し,新摘みのケシで20%,乾燥したケシでは23%それぞれ下落した。
現在ケシを栽培しているのは17州,栽培していないのは15州で,これについては前年と変わらない。そのうち,アフガニスタン南西部を中心とするもっとも治安の悪い9州にケシ栽培の89%が集中している。それらは南西部のカンダハール州・ヘルマンド州・ニームルーズ州・ファラーフ州,東部のナンガルハール州,南部のザーブル州・ウルズガーン州,北西部のバードギース州,東北部のバダフシャーン州(ワハン回廊の地域を除く)である。
言うまでもなくケシ栽培は現在でもターリバーンの主要な収入源になっている。ケシから生成される薬物の最終消費地の多くが先進国に集中しているだけに,国際社会によるこれまで以上の真剣な取り組みが強く望まれる。
女性のエンパワーメント4月の大統領選挙第1回投票では,投票所に足を運んだ750万の有権者のうち女性の占める割合は35%であったと報告された。これは従来アフガニスタンの国政選挙ではみられなかった程の高率である。今回大統領候補として立候補した女性はいなかったものの,2人の女性が副大統領候補となった。またターリバーン支配期とうって変わって州議会選挙に立候補する女性の存在も目についた。
アフガニスタンでは社会的・文化的に女性の社会進出に対する障壁は現在も低くないが,それでも2001年のターリバーン敗走以後のアフガニスタン社会における女性の地位の変化は瞠目すべきものがあった。そのひとつの象徴が,パキスタン北部ハイバル・パフトゥーンホワ州(現在)のスワート渓谷出身のパシュトゥーン人であるマラーラ・ユースフザイが,10月にノーベル平和賞を受賞したことである。マラーラの「すべての女性に教育機会を」という主張は,アフガニスタンが直面している多くの社会・経済開発問題に対しても有効な処方箋のひとつになるものと考えられる。
アフガニスタンにおける女性教育の普及活動としては,ラズィア・ジャーンによる取り組みが参考となる。彼女は1970年にアメリカに渡り,その後1979年末のソ連の侵攻などで帰国のチャンスを失っていたが,2005年にアフガニスタンの女性教育問題を取り上げてアメリカで基金を募った。2008年に帰国し,カーブル郊外の土地を教育省に寄付してザーブリー教育センターを開設,6年を経た現在では400人の女生徒がここに学んでいるという。
こうした女性の教育プロジェクトは,問題に取り組む次の世代を再生産していく自律的なサイクルを内包しているものであり,社会的な伝統意識にまつわる絶望的な状況の改善に向けて不可逆的な社会変化を導くためのもっとも有効な手段のひとつであるといえよう。
自然災害対策の脆弱さアフガニスタンでは2014年にも大規模な自然災害とこれに伴う市民の犠牲が多数発生し,この分野での対策の脆弱さが改めて浮き彫りになった。
5月2日には北東部バダフシャーン州で雪解け水による洪水が発生,約250人の人命が奪われた。また同日のバダフシャーン州では大規模な地滑りも発生して250~2000人(国連の推計では500人)の人命が奪われ,なお危険な状態にあると報じられた。3月に就任したばかりのモハンマド・ユーネス・カーヌーニー副大統領が現地入りする一方,下院は国の危機管理責任者を召喚した。この災害に際してはオバマ米大統領が犠牲者への弔意を表している。
1979年末のソ連によるアフガニスタン侵攻以来,35年にもわたって戦火の止むことがなかったアフガニスタンで,自然災害への備えがこれまで顧みられることが少なかったことは事実であろう。だが特異な自然条件を有するアフガニスタンにおける災害対策という課題は,日本などが将来的に貢献できる重要な分野のひとつであることは間違いない。
現在のアフガニスタンの政治過程が,アメリカをはじめとする諸外国との外交関係を濃厚に反映していることは,これまで述べてきた通りである。以下ではここまでの記述のなかで充分に触れることのできなかった注目すべき対外関係上の動きについて,パキスタンおよび中国を中心にまとめて提示しておく。
対パキスタン関係従来アフガニスタンにとってパキスタンという存在は,アフガニスタン・ターリバーン運動(TTA),パキスタン・ターリバーン運動(TTP)とパキスタン政府および軍部との複雑に錯綜する関係を抜きにしては語ることのできないものであった。だが2013年5月に下院総選挙でパキスタン・ムスリム同盟シャリーフ派が勝利すると,パキスタン史上初とも言われる民主的なプロセスを経て同年6月5日にナワーズ・シャリーフ首相が就任した。その後,2014年9月のアフガニスタンの新政権誕生という要因も加わって,両国関係は地域的な安定に向けた新たな変化を遂げつつある。
これから少し遡った2月7日の段階では,アフガニスタンの高等和平協議会(HPC)がパキスタン政府とターリバーン側の交渉開始を評価するなど,パキスタンとターリバーン側との関係は改善の方向に動く可能性があったのである。だがその直後,17日にターリバーン側がパキスタンの治安部隊員23人の処刑を発表し,両者の交渉は暗礁に乗り上げていた。
その後,3月27日にはパキスタン・ターリバーンがパキスタン政府との停戦合意を前提にアフガン・ターリバーンとの連携に秘密合意したと伝えられたが,恐らくこうした方針の揺らぎは,パキスタン・ターリバーン内部における路線の対立が無視できないほどの大きさに広がっていたことを物語るものであろう。
他方でパキスタン政府は,大統領選挙前からアフガニスタンとの関係強化を打ち出しており,第1回投票直後である4月10日にはいち早くアフガニスタン新政権との連携強化の意向を表明した。5月5日にはこうした政府の意向に沿うべくパキスタン軍がアフガニスタンに軍事物資を空輸し,治安維持を物資供給の面で支援した。その翌日には5月2日のバダフシャーン州の地滑り被害への救援を表明,両国の協力関係が決して軍事面にとどまるものでないことを印象づけた。19日にはパキスタン軍司令長官のラヒール・シャリーフがカーブルを訪問し,対テロ戦争についてアフガニスタン・NATO側と協議した。アフガニスタン側はこの時パキスタンに対して6月の決選投票での治安維持支援を要請している。
決選投票実施後の6月26日にはアフガニスタン政府治安関係のトップがイスラマバードを訪問し,パキスタン側と協力関係の深化につき協議した。さらに挙国一致政府樹立への合意が成立した直後の9月25日には,パキスタンは新政権との対テロ戦争での協力拡大を表明している。このようにアフガニスタンの新政権誕生までには数カ月間にわたる紆余曲折があったが,その要所要所でパキスタン政府が新政府発足への期待を表明したことは,アフガニスタン側にとっても統一政権の合意実現に向けて少なからず支えになったものと思われる。
アフガニスタン新政権の誕生後も両国の協調関係を印象づける事象が続いた。9月30日のアフガニスタンのアメリカとの安全保障協定の署名に際しては,その直後の10月2日にパキスタンが歓迎の意向を表明している。10月29日にパキスタン軍は4カ月間に及んだ北西部の部族地域におけるターリバーン掃討作戦が成功裏に進んでいると明言した。パキスタン政府はアフガニスタンにおける決選投票後の7月頃から軍を動員して本格的なターリバーン掃討に乗り出しており,これがターリバーン内部の路線対立に結びついたものと考えられる。
11月14日にはガニー新大統領がサウジアラビア・中国に続く3番目の外遊先として,143人の訪問団とともに2日間の日程でパキスタンを訪問した。政治・通商分野での両国間の関係強化で成果があったものとみられる。12月4日には,ロンドンで開催されたアフガニスタン会議にパキスタンのナワーズ・シャリーフ首相も出席しており,両国間の「蜜月時代」ともいえる良好な関係を印象づけた。
パキスタン・ターリバーンがペシャーワルの軍関係者の学校を襲撃し,130人に上る児童を残虐に殺害したのは12月16日のことであるが,これに対しアブドゥッラー行政長官が即座に関係国の一致した対応を強調した。アブドゥッラーは18日には,パキスタン・ターリバーンへの対応でパキスタンと協力できるとCNNのクリスチャン・アマンプールとのインタビューで発言している。
このように,挙国一致政府のなかではパキスタンと比較的距離があるとみられるアブドゥッラー行政長官ですらこのような発言を積極的に行うところまで,2014年を通じて両国関係は改善してきたとみることもできるのである。今後両国政府がこの関係を順調に発展させていけるかどうかは必ずしも予断を許さないが,もしそれが実現した場合,両国間にまたがって存在するターリバーンとの交渉に対してもプラスの影響が及ぶことは間違いないであろう。
経済分野においてもアフガニスタン新政権はパキスタンとの協力関係を着実に前進させている。10月11日には中央アジアから南アジアに向けての送電料金についてパキスタン政府と合意した。20日にはパキスタン政府がアフガニスタンとの包括的な互恵関係のためのロードマップを相互に検討中と報告している。
ただし,この時期もパキスタンはアフガニスタンへの友好的な支援政策のみに傾斜していたわけではないことにも留意が必要である。5月19日から翌日にかけてはパキスタン軍がデュアランド線(国境線)からクナール州側に向けて合計45発のロケット弾を発射している。その後パキスタン側からのロケット弾による威嚇は激化し,これに対する対応を求められたアメリカのジェームズ・カニンガム駐カーブル大使がアメリカの中立的な立場を確認したうえで外交的な解決を両国に求めている。10月7日にはパキスタン軍がクナール州へのデュアランド線越境砲撃を継続していることが報告され,両国間の平和的な関係の実現はそう簡単ではないことを実感させた。11月のイスラマバード訪問の際,ガニー大統領はパキスタンウラマー教会代表の宗教指導者モウラーナー・ファズルルラフマーンと面会したが,「外国軍が完全撤退するまでは戦争は継続されるだろう」との警告を受けている。こうした「攘夷」的な主張が,ターリバーンの周辺にとどまらず,宗教関係者を中心にパキスタン国民の一部で共有されていることをうかがわせる事例である。
対中国関係駐留外国軍撤退後のアフガニスタンの域内における新たなパートナーとして,中国が大きく前面に出てきたのも2014年の特徴であった。中国は元々パキスタンにとりインドとのパワーバランスのうえで重要な同盟国であった。中国にとってはアフガニスタンの豊富な地下資源の将来的な開発への主導権を得ることもさることながら,国内のウイグル自治区にイスラーム過激組織の影響が及ぶことを水際で阻止するという意味も大きい。
こうした背景もあって2月22日には王毅外務相がアフガニスタンの平和・統合・発展を期待する旨を発言,また9月20日にガニー候補とアブドゥッラー候補が挙国一致政府の枠組みに関する合意文書に署名した翌々日には中国政府も合意を称賛し,アフガニスタン再建への支援を約束している。
こうした背景の下,ガニー新大統領はサウジアラビアに続く2番目の外遊地として中国の北京を10月28日から3日間訪問し,アフガニスタン復興における中国の経済分野での役割増大に期待を表明した。これに対し中国は11月1日,北京におけるイスタンブル・プロセスに関する第4回外相級会議の席上で,アフガニスタンの経済計画策定への協力を約束している。
こうした中国のアフガニスタン復興に向けての新たな積極的な姿勢に対しては,日本としても今後大いに注目すべきであろうと思われる。
アフガニスタンは2001年の9・11同時多発テロ以来13年に及んだ米軍・ISAF軍駐留と軍事作戦の終了および撤退完了, 2001年末に発足したアフガニスタン暫定行政機構以来の長期政権を担ったハーミド・カルザイの退場,そして民主的な選挙に基づくアシュラフ・ガニー大統領とアブドゥッラー・アブドゥッラー行政長官による挙国一致政権への平和的移行という大きな転換期を乗り切り,新内閣の閣僚人事を調整する過程にある。
アフガニスタン国民の積極的な投票行為によって示された民主主義への熱心な支持によってともかくも無事スタートを切ったこのプロセスが真に定着し,さらに中・長期的な国民経済の継続的な発展へと繋がっていくかどうかは,アフガニスタン政府自身の誠実な自助努力もさることながら,パキスタン・イランをはじめとする周辺諸国の平和的な連携協力,中国・ロシア・インドといった近隣の大国による長期的視点に立った献身的支援,さらに日本や欧米を含む国際社会によるアフガニスタンの社会経済開発のための積極的な関与が継続していくかどうかが決定的に重要であろう。
同時にアフガニスタンの政治的安定と経済的な発展は同国一国の問題にとどまる問題ではなく,中東地域・南アジア地域・中央アジア地域を繋ぐより広域的な情勢安定と活性化にとってもきわめて枢要な意味をもっている。
これまでアフガニスタンの政情を決定してきた最大の要因のひとつは,2400キロメートル以上に及ぶデュアランド線を挟んだパキスタンの安全保障政策であった。だがこの国境線をめぐる両国の長年の問題については,イラク・シリア方面における2014年度中のISの台頭によって国際的に大きな変化が生じてきているように思われる。それは中国・ロシアなどISの波及を恐れる近隣の大国が,デュアランド線を利用してのターリバーンの反抗的な軍事活動をこれまでに増して許容しなくなっているからである。
その意味で民主的な選挙の結果として挙国一致政府が新たに発足した現在の状況は,ターリバーン勢力との包括的な和平交渉に向けての新たな可能性を内包しているといえるだろう。その場合,アフガニスタン・パキスタンの両国にまたがるパシュトゥーン人居住諸地域の着実な社会的・経済的発展を国際的に支援していくという基本的な方向の堅持が,たとえ迂遠なようでも現状においてもっとも必要とされているということを最後に強調しておきたい。
(地域研究センター上席主任調査研究員)
1月 | |
2日 | 米上院議員らがパキスタンのイスラマバードでカルザイ大統領と面会,アメリカとの安全保障協定の早期調印を促す。 |
5日 | 選挙管理委員会,4月の大統領選で国内外の30万人の監視員を動員すると発表。 |
16日 | 米軍関係者,アフガンの麻薬取引に対処する情報センターがバーレーンに設置されると発言。 |
17日 | レバノン人が経営するカーブルのレストランで自爆テロ,外国人13人を含む21人が死亡。ターリバーンはNATO軍の空爆への報復と発表,イランが激しく非難。 |
22日 | Khaamaプレス,米軍指導層がアメリカ政府に2014年末以降の駐留米軍の規模1万を提案と報道。 |
23日 | TOLOニュース,アメリカが今年の対アフガン開発・軍事支援予算を50%削減の予定と報道。 |
2月 | |
2日 | 大統領選挙戦開始。前年11月発表の公認候補11人で本格的な選挙戦。 |
5日 | 大統領選に関連して初めてのテレビ討論番組,政策論争が中心。 |
7日 | 高等和平協議会(HPC)がパキスタン政府とターリバーン側の交渉開始を評価。 |
9日 | 政府,バグラム収容所の管理がアフガン内務省に移管されたと発表。 |
10日 | アフガン司法長官,バグラム収容所に収監されていた65人の釈放を命令,これに対しアメリカが非難。 |
15日 | ヘクマティヤールの率いるイスラーム党が大統領選でのゴトゥブッディン・ヒラール候補への支持を表明。 |
17日 | ロイター,HPCの派遣団がモッラー・モオタスィム・アーガージャーンら新旧のターリバーン指導者との接触のためドバイを訪問したと報道。 |
17日 | ターリバーンがパキスタンの治安部隊23人を処刑と発表,両者の交渉は暗礁に。 |
19日 | カーブルでアブドゥッラー大統領候補の車列をターリバーンが急襲,候補は難を逃れる。ターリバーンが犯行声明。 |
23日 | 東部クナール州でのターリバーンとの戦闘で国軍側21人が死亡,最大規模の損害。 |
25日 | セブガトゥッラー・ムジャッディディ率いるアフガン救国戦線,ガニー候補への支持を表明。 |
27日 | ケリー米国務長官がラスムセンNATO総司令官と対談,アフガンでの新大統領誕生後の安全保障協定発効に期待を表明。 |
3月 | |
5日 | カイユーム・カルザイ大統領候補がザルマイ・ラスール候補支持のため選挙戦からの撤退を表明。 |
9日 | ムハンマド・ファヒーム副大統領が心臓発作で死去,享年56歳。 |
16日 | アブドゥル・ラヒーム・ワルダク大統領候補が選挙戦からの撤退を表明。 |
18日 | カルザイ大統領,故ファヒームの後継副大統領にモハンマド・ユーネス・カーヌーニーを指名。 |
20日 | カーブルの高級ホテル・セリナに4人が乱入,カナダ人2人およびアフガン人ジャーナリストとその家族を含む9人を殺害。 |
26日 | サルダール・モハンマド・ナーディル・ナイーム大統領候補がザルマイ・ラスール候補支持のため選挙戦からの撤退を表明。 |
31日 | 選挙前に予定されていた候補者の討論番組がカーブルの治安悪化のため中止。 |
4月 | |
1日 | 選挙クレーム委員会がザルマイ・ラスール候補とゴルアーガー・シェールザイ候補に選挙法違反で科金。 |
5日 | 第3回アフガニスタン大統領選挙および各州議会選挙の投票日。ターリバーンによる各地のテロで20人が死亡。 |
6日 | 大統領選挙の開票作業開始。オバマ米大統領はこの選挙を「重要な転機」と評価。 |
9日 | 暫定1位と目されるアブドゥッラー候補,連立政権の可能性を否定。 |
15日 | 大統領選挙の一部暫定結果が発表に。首位はアブドゥッラー候補。 |
15日 | 東部ナンガルハール州のヘサーラク地区で反ターリバーン蜂起。 |
21日 | 独立選挙委員会(IEC),選挙結果集計紙の93%がすでに検査終了と発表。 |
21日 | Khaamaプレス,NATOの基地・施設335カ所がすでにアフガン国軍に移管されたと報道。 |
26日 | IEC,大統領選挙の暫定結果を公表,アブドゥッラー候補が首位,2位はガニー候補。確定結果は5月14日と発表。 |
5月 | |
2日 | 北東部バダフシャーン州で洪水,約250人の人命奪う。 |
2日 | バダフシャーン州で地滑り。250~2000人の人命奪いなお危険な状態。国連の推計によると死者数は500。 |
3日 | 暫定結果6位のゴルアーガー・シェールザイ候補が決選投票で首位だったアブドゥッラー候補への支持を表明。 |
5日 | パキスタン軍がアフガニスタンに軍事物資を空輸,治安維持を支援。翌日には地滑り被害への救援を表明。 |
8日 | ターリバーンがアフガニスタンに対する春の攻勢を表明。 |
11日 | 暫定結果3位のザルマイ・ラスール候補が決選投票での首位のアブドゥッラー候補への支持を表明。 |
15日 | IEC,大統領選挙確定結果を不正調査により1日遅れで公表,大勢は暫定結果と変わらず。上位2人による決選投票を6月14日に実施と発表。 |
18日 | 上院,アフガン難民に対するシリアでの戦闘員募集につき,イランに対して調査を要請。イラン政府はこの事実を否定。 |
19日 | パキスタン軍司令長官のラヒール・シャリーフがカーブルを訪問,対テロ戦争についてアフガン・NATO側と協議。 |
22日 | 決選投票の選挙運動がスタート,治安関係者は期間中の治安維持について会合,バダフシャーン州の治安状況に危惧。 |
22日 | カルザイ大統領の兄マフムード・カルザイが選挙戦でのアブドゥッラー支持を表明。 |
27日 | アフガン情報局元長官のアムルッラー・サーレフがアブドゥッラー候補への支持を正式に表明。 |
28日 | オバマ米大統領が米軍撤退後の残留規模を9800と示唆,ターリバーン側はこれに反発。 |
31日 | オバマ米大統領,アフガニスタンでターリバーンに唯ひとり5年間拘束されていた米軍兵士がグアンタナモ収容所のターリバーン高官5人との捕虜交換で解放されたと公表。ターリバーン高官はカタールで解放。 |
6月 | |
3日 | 旧軍閥のイスマイル・ハーンらがアブドゥッラー候補への支持を表明。 |
8日 | カルザイ大統領の兄カイユーム・カルザイがガニー候補への支持を表明。副大統領候補のドーストムはウズベク人とトルコ人の有権者にガニー候補への投票を促す。 |
10日 | 14日の決選投票に向け,アフガン国軍が19万5000人の兵を全国に配置。 |
14日 | 大統領選挙の第1回投票結果で1位だったアブドゥッラーと2位だったガニー候補による決選投票。同日中に開票作業開始。 |
18日 | アブドゥッラー候補がIECによる選挙不正の疑いで開票作業の中断を要請。 |
18日 | アフガン自由公正選挙基金(FEFA)が大統領選決選投票の第1次調査結果を公表。 |
23日 | 政府の選挙実行事務局長ズィヤーウルハック・アマルヘイルが決選投票後の不正をめぐる混乱の引責のため辞任。 |
25日 | ヘルマンド州を800人超のターリバーン兵が攻撃,米軍撤退後の空白をねらう。 |
25日 | オバマ米大統領,ジョン・キャンベル将軍を次の米軍・ISAF軍総司令官に任命。 |
7月 | |
2日 | IEC,透明性の確保のため暫定結果発表を7日に延期と発表。 |
3日 | 欧州連合(EU),決選投票の不正についてより広範な調査を政府当局に要請。 |
7日 | IEC,大統領選決選投票の暫定結果としてガニー候補が優勢と発表,アブドゥッラーは受け入れ拒否を表明。 |
10日 | ケリー米国務長官が両候補にアフガン大統領選の混乱への憂慮を伝える。 |
12日 | アブドゥッラー候補とガニー候補がケリー米国務長官の仲介により全票再集計の実施で合意。 |
17日 | 大統領選決選投票の再集計作業が開始されるも,不正票の判定基準の食い違いなどで作業は停滞。 |
29日 | 南部カンダハール州のカルズ村でカルザイ大統領の従兄弟ハシュマト・カルザイが自爆テロにより死亡。 |
8月 | |
7日 | ケリー米国務長官が次期政権について両候補と協議のためカーブルを電撃訪問。 |
11日 | クンドゥズ州でターリバーンが「戦争税」を支払わなかった住民20人を処刑。 |
13日 | 新政府における権力分有の可能性を探る両候補の統合委員会が発足。 |
13日 | イスラーム党の党首ゴルブッディン・ヘクマティヤールが新政府と会談の意向。 |
25日 | 財務省,大統領選終結の長期化による財政負担増は50億㌦に上ると発表。 |
9月 | |
2日 | カルザイ大統領,公邸を引き払う。 |
5日 | IEC,大統領選決選投票の再集計作業が終了と発表。 |
6日 | 激戦の続くヘルマンド州で200人以上の軍・警官が死亡,州内の主要地区をターリバーンが掌握との報告。 |
8日 | オバマ米大統領が両候補に挙国一致政府の樹立を促す。アブドゥッラー候補は最終結果発表を待たずに勝利宣言。 |
15日 | カルザイ大統領が2人の次期首班候補と夜に会合,状況の打開に向け一歩前進。 |
20日 | ガニー,アブドゥッラーの両候補,挙国一致政府の枠組み合意文書に署名。 |
21日 | IEC,アシュラフ・ガニー候補の次期大統領当選を発表。 |
22日 | オバマ米大統領が挙国一致政府の合意について両候補を称賛。 |
25日 | ガニーとアブドゥッラー,政府主要省庁の権限のほぼ同格での分掌に合意。 |
29日 | アシュラフ・ガニーが新大統領に就任。アブドゥッラー・アブドゥッラーを行政長官に迎える。 |
30日 | 新政府はアメリカ政府との安全保障協定に署名。年末のISAF軍撤退後,約1万2000の外国兵が残留することになる。 |
10月 | |
1日 | ガニー新大統領,各省庁の現行大臣等の業務を当面2カ月間継続するとの法令を布告。 |
2日 | ターリバーンの首領モッラー・オマルが断食明けのメッセージでアフガンでの戦争勝利を宣言。 |
9日 | 治安部隊,南部ガズニー州の3日間の戦闘でターリバーン勢力70人を殺害,北部クナール州へのターリバーンの展開を阻止。 |
11日 | EU,新規開発援助の資金14億ユーロを準備と発表。 |
11日 | 政府,パキスタンとの間で中央アジアから南アジアに向けての送電料金の設定で合意。 |
15日 | アブドゥッラー行政長官が国軍司令官および警察長官と会談,作戦目標の明確化を指示。 |
17日 | ガニー大統領,首都カーブルの近代化のため首長の適当な人材が必要と指摘。 |
17日 | イランがアフガンとインドを結ぶ海洋路確保のためチャーバハール港の整備を開始。 |
17日 | ワシントンDCで若手外交官が2週間の研修,アメリカと中国がプログラムを準備。 |
25日 | ガニー大統領,最初の外遊地としてメッカ巡礼のためサウジアラビアを訪問。 |
25日 | IECが遅れていた州議会選挙の最終結果を公表。 |
26日 | イギリス軍,撤退完了。13年間に及び453人の兵員を失ったアフガンでの戦争に幕。 |
28日 | ガニー大統領,2番目の外遊地として中国の北京を3日間訪問。アフガニスタンにおける中国の経済分野での役割増大に期待。 |
31日 | アフガニスタンのイスタンブル・プロセスに関する第4回外相級会議を北京で開催。訪中中のガニー大統領も出席。ターリバーン側は会議への出席を拒否。 |
11月 | |
4日 | キャンベル米・ISAF総司令官がアフガニスタン残留兵力の規模拡大と残留期間の延長について再検討を始める。 |
8日 | アメリカ国際開発庁(USAID)の新女性エンパワーメントプログラムがノルウェーの関与でスタート。 |
14日 | ガニー大統領,143人の訪問団とともに2日間の日程でパキスタンを訪問。 |
14日 | アブドゥッラー行政長官,組閣人事でガニー大統領との間に不一致はないと言明。 |
22日 | オバマ米大統領,撤退後の残留米軍により広い行動権限を与える計画を了承。 |
23日 | 下院は年末の撤退後も外国軍1万2500の駐留を認める米軍・NATO軍との合意文書を了承。 |
23日 | ガニー新政府,外国軍特殊部隊による夜間襲撃の禁止を解く。 |
24日 | ファラーフ州で警官の息子を殺された母親がターリバーン兵25人を報復殺害。 |
26日 | 下院,政権発足2カ月に際しガニー政府に新閣僚の速やかな選任を求める。 |
27日 | ガニーとアブドゥッラー,新閣僚の選任で17ポストで合意,残り9ポストにつき引き続き調整。 |
27日 | 下院に続き上院も安全保障協定を承認。 |
27日 | カーブルの大使館地区でターリバーンによる爆発・銃撃戦。市内の警戒強化。 |
12月 | |
4日 | ロンドンでアフガニスタン会議が開催,新指導者が国際的支援の継続訴える。 |
6日 | 辞任直後のヘーゲル米国防長官がアフガンを電撃訪問,残留米兵の規模を2015年の最初の数カ月間1000人追加すると発言。 |
10日 | ガニー大統領,米CIAの拘留者への拷問手法を強い調子で非難。 |
15日 | アブドゥッラー行政長官が上海協力機構(SCO)の会合でカザフスタンのアスタナを訪問。 |
15日 | USAIDがアフガンのガス発電プロジェクトに1億2500万㌦を配分と発表。 |
16日 | Khaamaプレス,アフガン政府がカタールで近くターリバーンと和平交渉を再開するとの観測を報道。 |
16日 | パキスタン・ターリバーンがペシャーワルで軍関係者の学校を襲撃,児童130人を殺害。国際的な非難が集中。 |
20日 | 国連,アフガン市民の2014年の犠牲者数は前年比19%増と発表。 |
26日 | オバマ米大統領がクリスマスの挨拶でアフガンにおける軍事作戦の「責任ある終結」を宣言。 |
28日 | 米軍・NATO軍はアフガンでの戦闘任務を終了し,撤退を完了。 |