2020 年 2020 巻 p. 345-368
2019年の政治面では,リー・シェンロン首相の後継者として,ヘン・スイーキア財務相が5月の内閣改造で副首相に昇格し,次期総選挙に向けた動きも進み始めている。とくに,基盤の脆弱な野党側は早くから動きを見せ,8月上旬には注目を集めている新党「シンガポール前進党」(PSP)も正式に結党された。一方で,8月末には選挙局が選挙区設定委員会を招集し,11月には与党「人民行動党」(PAP)の党大会でリー首相が支持を訴えるなど,総選挙への準備が明確になりつつある。予算・財政については,社会保障費の増加や国民への積極的還元策の実施から,財政構造の悪化が顕著になりつつある。また,社会的自由については,オンライン虚偽情報・情報操作防止法(通称「偽ニュース防止法」)の制定や宗教調和維持法の改定が議論をよんだ。とくに前者は,その規定内容の曖昧さから,政府の強権化,言論の自由の制約,メディアの萎縮などの危険性が指摘されている。
経済面では,米中貿易摩擦の影響から製造や貿易が打撃を受け,年間経済成長率は0.7%に落ちこんだ。しかし,将来的な成長を持続させるための経済構造改革は継続しており,とくに技術革新とデジタル経済への適合を目指している。同国を高付加価値・創発型産業のハブとするための,企業に対する積極的な誘致や助成,社会実験への取り組みも,世界的な評価を獲得しつつある。こうしたなかで,2019年は都市型ハイテク農業や自動運転技術などの分野で成果が見られた。
対外関係面では,米中対立の構造化と影響が顕著になりつつあり,シンガポールは米中双方に協力を呼びかけると同時に,一方の側に立たねばならない事態を強く懸念している。このため,米軍の基地使用や後方支援を約した対米軍事協定を延長する一方で,中国との間では「一帯一路」をめぐる各種の経済協力をさらに深化させるなど,引き続きバランス外交を堅持している。また,前年から悪化した最隣国マレーシアとの関係は,直接の原因となった領海・領空および水資源の問題について,一時的棚上げと実務レベル協議を継続し,沈静化を図っている。しかし,マレーシアは2018年から開始した,シンガポールの国土発展計画に必要な埋め立て用海砂の禁輸を継続するなど,引き続き課題が残されている。
小都市国家のシンガポールでは,政治的安定性は国家生存のために不可欠な条件のひとつであり,とくに,国家指導層の円滑な世代交代は,1965年の建国以来重視されてきた課題である。それ故に,この8年間には,現在のリー・シェンロン首相を中心とした「第三世代」から,次世代指導層である「第四世代」への権限移譲が計画的に進められてきた。そこで焦点となってきたのが,2022年の70歳での引退を公言してきたリー首相の後継問題であった。その答えは2018年11月,ヘン・スイーキア財務相(当時)が,後継者の踏むべき要職とされる与党「人民行動党」(PAP)の第一書記長補佐に選出されたことで明らかとなった。
2019年4月23日に首相府は,5月1日付内閣改造でのヘン副首相(財務相兼任)の誕生と,閣内には上級相として留任するものの,「第三世代」であるテオ・チーヒエン副首相,ターマン・シャンムガラトナム副首相の退任を発表した。これによりヘン副首相は,リー首相の正式な後継者としての地位を確立した。もっとも,過去数年の内閣改造とは異なり,上記3人以外の閣僚名簿には変化がなかった。これは既存の「第四世代」閣僚たちが,次期首相を支えるチームとして確立されたメンバーであることを裏付けている。なお,PAP内ではチャン・チュンシン通産相が務めていた院内総務職を,ジャニル・パスチャリ上級国務相(運輸,通信・情報担当)に交代しており,同上級国務相の将来性が注目される。
この内閣改造以降,ヘン副首相は活動を活発化させ,メディアへの登場も頻繁になっている。5月1日のメーデー集会ではリー首相に代わって演説し,7月10日にはリー首相が1週間の休暇を取るに際して首相代行を務めた。このほか,5月と11月には中国を訪問し,次期首相として中国との関係性を確立している。
こうしたなかで意識されているのが,次期総選挙の実施時期である。前年には,2019年中に実施されるとの観測があったものの,実際にはヘン副首相の昇格が5月であり,国民間での信頼や人気はいまだ高くない。仮にそのような状態で総選挙が実施され,好ましくない選挙結果を残せば,ヘン副首相の次期首相としての安定性を損なうことになる。また,これまでの総選挙では,経済全般が良好かつインフレ率の安定している時期が選択される傾向がある。この観点から見ると,米中貿易摩擦のあおりを受けて経済成長が低調に推移した2019年内は,総選挙を実施するタイミングとして適切な時期ではなかったといえる。
もっとも,総選挙に向けた実際の動きは進みはじめている。とくに建国以来,PAPによる圧倒的な一党優位体制が続き,基盤が脆弱な野党側は,早くから動きを見せた。たとえば,シンガポール民主党(SDP)は,2月23日には総選挙に向けたキャンペーンを開始し,8月2日には2つのグループ選挙区と3つの小選挙区の計5選挙区で候補者の擁立を表明した。さらにSDPは,9月28日にはマニフェストを発表のうえ,10月19日には選挙前集会を開催している。
8月3日には,前年から注目されていた新党「シンガポール前進党」(Progress Singapore Party:PSP)が,正式に結党された。同党の中心人物であり書記長をつとめるのは,PAP出身の元議員で,2011年の大統領選挙に出馬し,PAP本命候補のトニー・タン前大統領に得票率0.3%の僅差で敗れた,タン・チェンボクである。PSPは,PAPの政権運営に不満を抱く国民各層の支持獲得をねらっており,1月16日には社会団体登録を申請するなど,準備を進めてきた。しかし,登録が4月に完了した後,6月15日には結党大会を開催する予定であったが,PSPの主張では警察など関係官庁の集会認可が遅れたため,正式結党が8月にずれ込んだ。この後,9月29日には約300人の党員と,全国29の選挙区を遊説する1日イベントを実施するなど,総選挙に向けて体制を整えている。
同党の結党についてタン書記長は,PAPに代わって意見を述べる存在になるとして,「人々が政策,主張,アイデアを出し合い,討議できる空間を創る」(7月26日)ことを目標にすると述べている。また同書記長は,次期総選挙でPAPの議席を3分の2以下に抑えることを目標に,ほかの野党とも緩やかに共闘すると表明している。こうした野党共闘の動きについては,2018年7月に労働者党(WP)とシンガポール人民党(SPP)を除いた全野党が話し合いを行っており,2019年2月23日にもSDPのチー・スンジュアン書記長が,PAP議席を3分の2以下に抑えるための野党共闘を呼びかけている。しかし,選挙区選出の議員6人,非選挙選出の指名議員3人を有するWPは協力姿勢を見せておらず,先行きが不透明である。
一方で,PSPはリー首相の実弟であるリー・シェンヤンの支持を受けている。リー・シェンヤンは,実兄のリー首相と数年来対立しており,「もはやPAPは父(筆者注:建国の父であるリー・クアンユー元首相)の時代とは異なり,道を失っている」,「PSPの方向性や価値観を心から支持する」(7月28日のFacebook投稿)と表明している。同氏とタン書記長は,2018年11月と2019年2月に公の場で朝食を兼ねた意見交換を行うなど,良好な関係を築いてきた。もっとも,リー・シェンヤンは自身の政界進出について,具体的な明言を避けている。
政府・与党側の動きを見ると,9月4日には選挙局が,次期総選挙実施の前触れとされる選挙区設定委員会の招集を8月末に実施したと発表した。また,現有議席を持つWPに対しては,数年来の問題となっている同党地盤アルジュニード地区評議会の利益誘導問題に関連した追及を続け,国会決議を用いた圧力などで印象悪化を図っている。さらに11月10日にはPAP党大会で,リー首相が総選挙に向けた支持を訴えている。
総選挙の実施時期については,現行の国会任期が2021年1月15日に満了するが,一方で例年12月~3月は年末休暇,旧正月,予算編成・審議といった行事が重なるため,2020年4月以降との予測が有力になりつつある。
2019年度予算案と財政問題2月18日,政府は国会に2019年度予算案を開示した。これによると,歳入は749億シンガポール・ドル(Sドル)(前年比1.7%増),歳出は802億Sドル(同1.6%増)となっている。また,投資運用収益組入金(NIRC)などを含む総歳入は921億Sドル,特別移転(Special Transfers)などを合計した総歳出は955億Sドルとなっている。
総歳入内容を見ると,NIRCが172億Sドル(18.68%)と最大を占め,次いで法人税167億Sドル(18.13%),個人所得税118億Sドル(12.81%),物品サービス税(GST)117億Sドル(12.7%)となっている。総歳出内容を見ると,国防155億Sドル(16.23%),特別移転153億Sドル(16.02%),教育132億Sドル(13.82%),保健117億Sドル(12.25%),運輸107億Sドル(11.2%),内務67億Sドル(7%),通商産業44億Sドル(4.61%),国家開発33億Sドル(3.46%),社会・家庭30億Sドル(3.14%),環境・水資源28億Sドル(2.93%)となっている。
以上の内容で特徴的なのが,総歳入におけるNIRCの高さと,総歳出における特別移転の伸長である。NIRCは,政府投資公社(GIC),金融管理局(MAS),政府系持株会社テマセック・ホールディングスの投資活動における長期・期待ベースでの年率投資収益を,部分的に歳入に組み入れるシステムで,かつて2010~2015年度の平均では82億Sドルにとどまっていた。しかし,経済政策や社会保障の歳出増加に伴い,総合財政収支は2015年に大幅な赤字を記録したため,2016年度からはNIRCの組み入れ比率が最大50%まで引き上げられた。以降は2016年度146億Sドル,2017年度147億Sドル,2018年度164億Sドルと,増加の一途を辿っている。2019年度も172億Sドルが組み入れ予定となったが,それでも34億Sドルの赤字に沈むと予測されている。
この理由は,近年同様に2019年度予算案でも継続した,社会保障や国民向け還元による歳出増加である。同予算案では,1950年代生まれで独立・建国時代に貢献したとする高齢層(ムルデカ・ジェネレーション)への医療支援61億Sドル,長期療養支援50億1000万Sドル,ラッフルズ上陸200年記念と銘打った国民向け還元11億Sドル,中央積立基金(CPF)関連の補助金2億3000万Sドルなど,総選挙を意識した還元策を発表している。このため2019年度総歳出における特別移転は,前年度比63億Sドル増加の153億Sドルとなっている。
もっとも,政府はこれ以上のNIRCの組み入れ比率引き上げには慎重である。とくに,NIRCの指標であるGICの長期・期待ベースでの年率投資リターンは,2019年3月末時点の過去20年平均が3.4%に低下し,4年連続で4%を下回っている。この傾向は,今後の世界経済の不透明感から数年は継続すると考えられている。しかも,5月8日にはMASが,より高いリターンを得られる長期投資に保有資金を配分するとして,外貨準備のうち450億SドルをGICに移管しており,ファンド規模のさらなる巨艦化から,長期の安定的な運用リターン確保がいっそう難しくなる可能性もある。これを受けて12月8日には,大統領顧問会議でヘン副首相がNIRCに関して報告し,検討が行われている。
一方では,さらなる高齢化により社会保障関連の支出増が予測されるなかで,健全財政の持続可能性が問われている。このため,増税による歳入増加策は不可避となっている。すでに,2021~2025年のいずれかの時点でGSTの9%(現行7%)までの引き上げは確定しているが,このほか,国会では与党の一部議員から,超富裕層への相続税や資産税を導入すべきとの意見も出ている。
社会的自由をめぐる問題2019年に国際的な注目を集めた事項のひとつが,4月1日に国会へ提出されたオンライン虚偽情報・情報操作防止法(Protection from Online Falsehoods and Manipulation Act 2019:POFMA,通称「偽ニュース防止法」)である。同法案では,ネット上での情報が虚偽で,国益に反すると判断された際,政府が掲載メディアに訂正命令を行使できるとされている。また,虚偽情報の拡散で有罪となった場合,法人は最大100万Sドルの罰金,個人は最大10万Sドルの罰金および最大10年の禁錮刑となる。
これについてリー首相は,「オンライン・メディアの言論に責任を持たせるため,政府には誤った情報への訂正命令の権限が必要であり」(4月25日),「言論の自由は絶対でなく,社会に影響を及ぼす前に抑制する必要がある」(4月27日)と述べている。5月初旬の国会審議でもK・シャンムガム内相兼法相が,「オンライン・メディアを通じた偽ニュース拡散が,民主政治の基盤を侵食している」(5月7日)として成立を訴え,5月8日には与党の賛成多数で可決・成立した。
同法案をめぐっては,政府の強権化,言論・表現の自由の制約などの危険性が,野党,メディア,人権団体,IT関連業界から指摘されており,とくに「国益に反する」という基準が具体的でなく,疑念を呼んでいる。WPのロー・ティアキャン元書記長は「絶対権力維持のため手段を選ばぬ独裁政権の行い」と非難し,国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは「言論統制が目的」と指摘している。また,世界的IT企業のグーグルは「政府が進めるデジタル技術革新と経済成長を妨げる恐れがある」と警告を発している。一方で政府側は,3月1日の国会でシャンムガム内相兼法相が,外国勢力の介入を防止する法律が必要と述べているように,法案推進の背景には,大国間や隣国との間で微妙な立場にあるシンガポール特有の事情もある。なお,法案成立後にヤフー・ニュース・シンガポールが実施した世論調査では,54%が必要,34%が既存法で十分,10%が分からないと回答しており,国民からは一定の理解を獲得していると考えられる。
しかし,同法案が10月2日に施行されると,政府は早速適用を開始し,11月25日には情報通信メディア開発庁(IMDA)が,PSPのブラッド・ボイヤー党員がFacebookに投稿した内容に虚偽があるとし,訂正命令を出した。同月28日にもIMDAは,Facebook上でStates Times Reviewという政治情報ページを運営する個人に対して訂正命令を出した。これをページ主催者は拒否したが,Facebookは法令に従い,同月30日にウェブサイト上で訂正通知を掲載している。さらにIMDAは,12月14日にはSDPのウェブサイトとFacebook投稿に,12月16日には人民の声党(PVP)党員のFacebook投稿に,相次いで訂正命令を出すなど,政府批判や野党見解が標的にされているとの懸念が高まっている。
また,近年は宗教的過激思想が社会の不安定要因となるなかで,政府は民族間・宗教間の問題にも対策をとっている。7月後半には宗教的不和・憎悪を拡散する人物に制限命令を行使できる,宗教調和維持法(1990年制定)の改定を表明し,9月2日に国会へ提出した。改定案では,宗教的憎悪表現への削除命令を即時執行可能(従来は2週間)とし,罰金も引き上げた。さらに,国外からの影響防止にも重点が置かれ,宗教団体運営者を国民か永住権保有者に限定し,一定額以上の国外からの寄付や海外の宗教との関係性について申告を義務付けるなど,規制が強化されている。この改定案は,宗教的自由を脅かすものとの議論もあったが,国会で10月7日に可決・成立した。
このほかにも,2019年には社会的自由の問題が散見された。3月7日,IMDAはスウェーデンの過激メタルバンドであるヴァーテイン(Watain)の公演に中止命令を出した。シャンムガム内相兼法相は,同バンドの反キリスト教的内容をシンガポールは容認できないと表明している。7月30日には,インド系シンガポール人でユーチューバー兼ミュージシャンのプリーティプルス(Preetipls)が作成したラップ・ミュージックの内容が,他民族を侮辱しているとして,IMDAがソーシャル・メディアに削除要請を出し,警察も調査に乗り出す事態となった。プリーティプルスは,シンガポールの表面的な民族調和の偽善性を風刺するのが特徴で,問題となった曲とビデオも,華人系コメディアンが顔をペイントして少数民族に扮し物議を醸した企業広告を揶揄したものであった。シャンムガム内相兼法相は,どれほど小さい問題でも容赦しないとして,強硬な姿勢を示している。
9月2日には,政府・与党に批判的なオンライン・メディアThe Online Citizen(TOC)に対し,リー首相が一族間の内紛に関する記事で名誉を棄損されたと主張し,記事削除と全面謝罪を要求した。しかし,TOC側に拒否されたため,同月8日に提訴している。また,9月15日には,マラソン大会で死刑反対と書かれたTシャツを着て参加した受刑者更生・社会復帰支援NGO主催者の夫婦が,違法デモの疑いで拘束され,事情聴取を受けた。以上のように,シンガポールの社会的自由については,後退と見られる動きが相次いでいることに留意する必要がある。
2019年の景気動向は,実質GDP(改定値ベース)が0.7%増と,2018年の3.4%から大きく減速した。これは主に,米中貿易摩擦と中国経済減速から製造業や貿易業が影響を受けたためで,1.5~3.5%の成長率予測を大きく下回った。
各期の具体的状況を見ると,第1四半期は半導体関連,エレクトロニクス,精密エンジニアリングなどの製造業や卸売・小売・貿易業の不調によって成長率は1.0%増にとどまった。このため5月21日に,通産省(MTI)が通年経済成長率の見通しを1.5~2.5%に引き下げている。第2四半期も製造業の前年同期比2.7%減や卸売・小売・貿易業の3.6%減が響き,成長率は0.2%増にとどまった。これを受けて,7月27日にはMASのラビ・メノン長官が,「米中貿易摩擦がアジアのサプライチェーンに悪影響を及ぼし始めている」と指摘し,下半期は「予想より低い可能性が高い」と述べた。その予測どおり8月13日,MTIは通年経済成長率の見通しを0.0~1.0%に再び引き下げている。第3四半期は,エレクトロニクスは不調だがバイオ医療関連や航空宇宙関連の成長に支えられた製造業が前年同期比0.7%減にとどまり,全体では0.7%増と成長率は若干改善した。これを受けて11月21日,MTIは通年経済成長率の見通しを再び改定し,0.5~1.0%の範囲と予測している。第4四半期は製造業が前年同期比2.3%減となったが,卸売・小売・貿易業が1.9%減にとどまり,ほかの業種も堅調であったことから,全体では成長率は1.0%増となった。
なお,総選挙を実施するにあたって重視される指標のひとつでもある消費者物価指数は,2019年は通年で0.6%上昇(前年0.4%上昇),金融政策判断上で重要となる住居費と個人交通費を除いたMASコアインフレは1.0%上昇(前年1.7%上昇)と,安定的に推移している。
以上の景気動向の推移を受けて,MASの金融政策にも変動があった。2月27日にメノン長官は,現行金融政策は適切であるが,4月の定例見直しは成長・物価の見通し次第との認識を示した。実際,4月12日の半期定例金融政策会合では,2018年10月に採られたSドル相場を若干上昇方向に誘導する金融引き締め策を維持した。声明では「経済成長は減速し,生産は潜在水準に接近している。労働コストは若干の上向きであるが,物価上昇は緩やかなため,インフレは抑制されると考える」としている。しかし,第2・3四半期の低成長を受け,10月14日の半期定例金融政策会合では,Sドル相場の上昇方向を若干緩やかにするとして,3年半ぶりの金融緩和措置が採られた。同月22日,メノン長官は必要に応じて追加措置を採用するとしたが,同時に,製造や貿易が不調な一方で他業界は堅調なことから,景気は年末から2020年にかけて底を打つとの見通しも明らかにしている。
なお,シンガポールの為替調節を用いた金融政策の調整方法は,5月28日にアメリカ財務省の半期為替報告書で,為替操作の監視対象となったことから微妙な注目を集めた。同月29日にMASは,貿易を有利にするため,あるいは経常収支を黒字にするための為替操作ではなく,仮にSドル相場を押し下げればインフレ率が上昇するため,中期的な物価安定を前提とするMASの基本方針にも相反すると反論している。もっとも,アメリカの監視を意識して,2020年7月からは前年半年分の為替介入データを公開し,透明性を高めることを決定している。
経済構造改革の継続シンガポールは小都市国家としての独立と発展を維持するため,常に経済構造を進化させ,新しい時代の経済競争力を高める必要がある。ヘン副首相は,「国内の経済構造改革を加速させることが重要。米中貿易摩擦がなくとも,技術革新の急激な変化には直面する」(5月28日)と強調して,変化を促している。
この問題意識の下,技術革新とデジタル経済への適合を目指し,高付加価値・創発型産業のハブを建設するため,政府は企業に対する積極的な誘致や助成,社会実験への取り組みを継続し,評価されている。たとえば,スイスの国際経営開発研究所(IMD)による「競争力ランキング」で第1位,アメリカのコーネル大学とフランスのINSEADによる世界知的所有権機関の「グローバル・イノベーション・インデックス」で第8位(アジア第1位),ダボス会議を主催するスイスの世界経済フォーラムによる「国際競争力ランキング」で第1位,IMDの「デジタル競争力ランキング」で第2位,IMDとシンガポール工科デザイン大学(SUTD)の「世界スマートシティー指数」で第1位など,高い評価を獲得している。
引き続き,新しい高付加価値・創発型産業の開発にも注力しており,とくに目立ったのは,生産性の高い都市型ハイテク農業への取り組みである。シンガポールでは,自国の抱える問題や需要に焦点を当て,解決する技術を吸収・蓄積し,産業化したうえで,このビジネスモデルを輸出するというパターンを得意とする。こうしたなかで同国は,食料安全保障の問題を新たなビジネスの機会に変えようとしている。現在,食料自給率は10%前後とされるが,国土面積の限定された同国の農地は全体の1%に過ぎない。政府は食料輸入先を分散するなどの対策を取っているが,効果には限界がある。一方で,世界の食料・農業分野は成長を続けており,市場規模と付加価値は拡大している。
この課題を解決し,さらには産業化するため,政府は2018年からイニシアティブを開始し,2019年には具体策が明らかになってきた。3月7日,マサゴス・ズルキフリ環境・水資源相は国会で,2030年までに国内必要栄養量の30%を国内産食料とする「30 by 30」という計画目標を示し,そのために必要な研究開発や助成の具体策を実施するとした。これを受けて,政府は生産性を高めたハイテク農業の研究開発拠点「アグリフード・イノベーション・パーク」の建設を決定し,国内外企業と共同で,2021年半ばまでに第1期を完成させるとしている。
6月11日には,都市型農業を展開する国内企業に都市栽培有機野菜の国家規格認証を付与し,同月19日には北西部の農地10カ所3万6000平方メートルを,20年の賃貸期間で入札にかけた。屋上農園の開発・生産にも意欲的に取り組んでおり,手掛ける民間企業の数も増加している。さらに政府は11月20日,農業・食料関連の技術革新を,すでに国内で成長している先進製造業,バイオ医薬品,食品製造などの産業とシナジー的に応用発展させるため,既存研究機関を統合した「食料・バイオテクノロジー革新研究所」の設置を発表している。
このほか,自動運転技術に代表されるスマートモビリティーの開発にも,引き続き注力している。これは,政府が同分野を次世代成長産業として捉え,技術誘致や社会実験に極めて積極的であることに加えて,国内での自動車保有コストの高さや規制の厳しさが,結果としてスマートモビリティーの潜在需要を生み出していることが大きい。国際的な会計・コンサルティング事務所大手KPMGの調査によると,自動運転技術の開発と導入準備で,シンガポールはオランダに次いで世界第2位となっている。1月31日には,企業庁が完全自動運転の導入に向けたガイドラインを発表し,次のレベルの社会実験に向けた環境を整えた。さらに,陸上交通庁(LTA)は10月24日に,社会実験の範囲を国土西部全域の公道1000キロメートル以上にすると発表した。これは世界でも先進的な実験であり,多くの実証データが得られるものと期待されている。
こうしたなかで,8月15日からは陸上交通大手コンフォート・デルグロが,国内南東部でオンデマンド型バスの試験運行を開始した。防衛・エンジニアリング最大手STエンジニアリングも,8月26日から小型自動運転バスで実際に乗客を乗せる実験を開始した。同社は,2020年半ばには80人乗りの大型自動運転バスを用いて乗客搭載の実験を行ったうえで,2022年開始の国内3地区での実際導入にも参加の予定である。このほか,ドイツ企業ボロコプターのドローン技術を応用した飛行タクシーが,10月22日に世界初の都市中心部での実演飛行を行い,同社CEOは2~4年以内にシンガポールで商業実用化を目指すと表明している。
雇用および外国人労働力規制の現状2019年通年の失業率は2.3%となり,前年の2.1%から若干上昇した。各期推移を見ると,第1四半期2.2%,第2四半期2.2%,第3四半期2.3%,第4四半期2.3%となった。こうした失業率の安定的推移には,経済構造改革による国民雇用環境の不安定化を防ぎ,国内人材の適応を促進するため導入してきた,労働技能向上制度「スキルズ・フューチャー」や,管理職・専門職・技術者向けの労働技能向上・キャリア転換支援制度「プロフェッショナル・コンバージョン・プログラム」などが貢献していると考えられる。
ただしシンガポールは,少子高齢化の進行で労働力が不足し,一方では,中高技能の外国人労働力流入が国民雇用環境の不安定化を惹起するというジレンマを抱え続けている。データを見ると,2019年の出生率は1.14(2018年1.16)と低下する一方で,65歳以上の人口は10.2%(2018年9.7%),年齢中央値は41.1歳(2018年40.8歳)と,それぞれ上昇している。このため年間約2万人に国籍を付与し,人口増加の調整を図っている。総人口(年央)570万3600人(2018年年央563万8700人)の内訳を見ると,国民350万900人(同347万1900人),永住権保有者52万5300人(同52万2300人)に対し,大部分が労働力の外国人は167万7400人(同164万4400人)となっている。
こうしたなかで,労働集約型産業,とくにサービス分野では,過去3年に若干緩和された外国人労働力の流入規制が,再び強化された。2月18日の国会でヘン財務相(当時)は,サービス分野の外国人労働力を抑制しつつ,その競争力を高めるため,外国人雇用の上限比率を40%から2020年1月には38%,2021年1月には35%に引き下げ,とくに非熟練労働力は15%から2020年1月には13%,2021年1月には10%まで引き下げると発表した。さらに7月1日には,外国人労働力の雇用ビザ申請に連動した,シンガポール人従業員の給与基準額の引き上げが実施された。これにより飲食,物流などの分野が影響を受けるが,政府は生産性向上が停滞する同分野の産業構造強化に,本格的に着手したものと思われる。
一方で,高付加価値・創発型の産業分野では,技術者獲得がハードルになっている。9月2日の国会でチャン通産相は,国内での先端産業分野の雇用需要は大きく,国内の技術者不足によって外国から獲得する必要があるものの,国際間での人材獲得競争も激しく,対策が必要との見解を示している。このため政府は,「テック@SG」という先端産業分野向けの外国人材獲得・雇用支援策を用意し,戦略的・弾力的な対応を実施している。
年を追うごとに深まる米中対立の構造は,安全保障と経済の両面で双方と関係が深いシンガポールの立場を,複雑なものにしてきた。とくに2019年は,米中の経済的対立が決定的となり,その長期化を強く懸念するシンガポールは,米中双方の協力を呼びかけている。たとえば,5月26日に上海を訪問したヘン副首相は,「競争が対立や敵意に発展すれば破滅的結果になる」,「米中は競争しても,相互利益をもたらす部分では協力が期待される」と述べている。同氏は5月30日にも東京での講演会で,「米中の強硬姿勢が強まれば,世界秩序は新しい冷戦に陥る」,「今ならば米中の溝は埋められる」と発言している。
こうしたなかで5月31日~6月2日に,シンガポールでは毎年恒例のアジア安全保障会議(通称「シャングリラ・ダイアローグ」,国際戦略研究所主催)が開催された。同会議ではリー首相が基調講演を行い,「2つの大国がヘゲモニーを争うことは自然な流れだが,紛争は回避可能である」として,「主要分野における相互協調を期待する」と述べた。しかし,対中政策を主眼においたインド太平洋戦略を発表したアメリカに対して,中国は軍備増強が自衛目的であり,南シナ海問題についても自国主権下にある領域であるとして,従来の主張を繰り返した。
このような状況に,リー首相は懸念を強めている。8月18日,独立記念日集会の施政方針演説で,「短期での米中対立解消は難しく,世界秩序に影響を及ぼす」として,「シンガポールを含む各国は,一方に立つことはできない」と述べている。10月6日放映のアメリカCNNのインタビューでも,「我が国はアメリカの親しいパートナーだが,中国とは経済関係で密接」として,「どちらか一方を選択することは極めて難しく苦しい」と率直な発言を行っている。
中国との関係については,2019年も経済を中心に発展を続けており,とくに中国が力点を置く「一帯一路」関連の進展が顕著であった。たとえば1月24日,シンガポール国際仲裁センター(SIAC)と中国国際経済貿易仲裁委員会は,「一帯一路」関連の国際仲裁委員会を共同でシンガポールに設置すると発表した。これはシンガポールがこの数年力を入れている,国際商事仲裁機能の強化になると期待されている。4月26日にはリー首相が,北京で開催された第2回「一帯一路」国際協力ハイレベルフォーラムで演説し,同構想が多国間枠組みとして重要な役割を果たす可能性に言及した。このリー首相訪中に際して,シンガポールは中国との間で,「一帯一路」の複数案件で協力を確認している。5月13日には,MASと中国人民銀行の間で3000億元/610億Sドルの通貨スワップ協定が更新され,貿易や「一帯一路」関連プロジェクトの資金を円滑化すると期待されている。
このほか,次期首相であるヘン副首相の2度の訪中も特徴的であった。副首相昇格から間もない5月22日,同氏は数十人の財界人と訪中し,23日に北京で李克強首相やカウンターパートの韓正副首相と会談した。この席で双方は,二国間関係のさらなる強化と,「一帯一路」の協力推進を確認している。さらに10月にヘン副首相は,9人の「第四世代」閣僚を率いて再訪し,15日に韓正副首相と重慶で産業協調会議を開催した。この席では,自由貿易協定(FTA)の内容改定など複数の覚書が交わされると同時に,「一帯一路」でのさらなる協力が確認された。
もっとも,中国は両国関係を経済面だけでなく,安全保障面にも拡大させたい思惑であるが,シンガポールは慎重姿勢を崩していない。5月29日にはン・エンヘン国防相が,アジア安全保障会議のためシンガポールを訪問した中国の魏鳳和国防相と会談して,両国軍の合同演習や相互訪問・交流などを柱とした防衛交流協定の改定に合意し,10月20日に北京で署名している。しかし,シンガポールは地域安全保障について,アメリカを要とする既存体制を基本とすることに変わりはない。このため5月31日には,ン国防相とシャナハン米国防長官代行(当時)が,対米軍事協定(1990年締結)の15年延長で合意している。これを受けて,9月23日に国連総会出席のため訪米したリー首相は,ドナルド・トランプ米大統領との会談後に協定に署名し,引き続き米軍に海空軍基地と後方支援を提供する。
なお,アメリカが同盟国やパートナー国の実質的な「踏み絵」にしている,中国企業である華為技術(ファーウェイ)の第5世代移動通信システム(5G)ネットワークからの締め出しについて,政府は5月7日に2020年からの5Gネットワーク導入計画を表明したものの,ファーウェイの取り扱いについては明言を避けている。これはシンガポールの置かれた微妙な立場を象徴するものといえる。
最隣国マレーシアとの関係過去十数年は順調な関係を維持してきたマレーシアとの関係は,2018年5月の同国総選挙で野党連合が勝利し,マハティール・ビン・モハマド首相が再登場すると,状況が一変した。着工寸前であったシンガポール=クアラルンプール間高速鉄道計画の延期,シンガポールが購入する水資源の料金見直し要求,シンガポール西南端トゥアス港と向かい合うジョホール港の港域拡張宣言による領海重複問題と,これによる両国公船の対峙,シンガポール北部セレター空港の管制方式をめぐる対立など,問題が相次いで発生した。
最も対立が深刻化したのは,2018年末から両国公船が対峙し,シンガポールの複数閣僚が「不測の事態」に強い警告を発した,トゥアス港沖の領海重複問題である。両国は2019年1月から協議を開始したが,2月9日にはトゥアス港沖の争議海域で,マレーシア公船と外国籍貨物船の衝突事故が発生し,10日には外務省が改めてマレーシア公船の退去を求め抗議している。こうした緊張のなか,3月14日には両国間で,双方主張の一時取り下げと,共同委員会による対話継続で合意した。これを受けて4月8日には海事港湾庁(MPA)が,マレーシアに対抗してシンガポールも拡張していた港域線について,双方が紛争前の位置に戻したと発表し,5月13日には共同委員会の初会合が開催されている。
しかし,7月4日にはマレーシアのザビエル・ジャヤクマル天然資源相が,2018年10月3日以降にシンガポールを含めた海外への海砂輸出が禁止されているとの報道を公式に追認し,新たな問題が生じている。海砂はシンガポールの国土拡張の埋め立て,とくに2040年の全4期完工で世界最大かつ完全自動化したコンテナターミナルとなるトゥアス港の建設のため,膨大な量が必要となる資源で,その97%はマレーシアからの輸入に依存している。ロイター報道によれば,マハティール首相は,同国内での海砂採取・輸出の不透明な利権構造に加えて,海砂がシンガポールの発展に利用されていることに不満を持っているとされ,海砂の安定供給に不透明感が漂っている。
2018年末から表面化していた,シンガポール北部セレター空港での新発着管制システム導入に伴う航空管制の問題についても,1月2日にマレーシアがジョホール州南部パシルグダン地区上空を飛行制限区域に指定し,問題が悪化した。しかし,同月8日の両国間協議では,双方が措置を停止して今後も協議を継続することで合意し,さらに4月6日には,セレター空港の発着管制システムを両国が共同開発することで落着した。
一方で,2018年6月にマハティール首相が提起した,シンガポールへの原水供給価格と浄水買戻し価格が不当であるとの問題について,両国は1月から協議を開始した。4月9日にはリー首相とマハティール首相の会談で,今後の協議継続と最終手段として国際仲裁の検討を行うことで合意している。しかし,8月19日にはマレーシアのジャヤクマル天然資源相が,2022年までにジョホール州の浄水自給体制を確立し,シンガポールの浄水を購入しない方針を打ち出しており,2061年の現協定失効に向け,水資源問題は引き続き両国の懸案になると思われる。
なお,両国間での1日30万人以上もの越境通勤による慢性的渋滞を解消するため,シンガポール=ジョホールバル間で建設が予定されていた都市鉄道の中断問題は,交渉と着工期限延長を経て,10月31日にはマレーシアが計画再開を発表した。しかし,両国間の正式合意と着工は,2020年になる見込みである。また,延期されているシンガポール=クアラルンプール間高速鉄道は,4月16日にマハティール首相が,同区間の必要性は高くないと述べる一方,ペナンやタイ国境まで延伸したルートであれば,将来的に建設したいと語った。計画見直しについてマレーシアは,6月28日に技術評価と商業評価のコンサルタントを任命し,具体的な再検討に入っている。
日本との関係2019年の両国関係は例年どおり,きわめて良好であった。4月30日には,天皇陛下(現在の上皇陛下)御退位に伴い,ハリマ・ヤーコブ大統領とリー首相が書簡を送っている。5月30日には,安倍首相と訪日したヘン副首相が会談し,二国間関係の強化を確認している。6月27日には,G20大阪サミットで訪日したリー首相が,シンガポールの日本産食品輸入規制の撤廃問題,南シナ海や北朝鮮問題,技術革新や環境問題について安倍首相と意見を交換した。とくに,食品輸入問題については日本側提議を受け,6月1日には肉・卵類製品の輸入を解禁したのに続き,11月初頭には福島県産食品の輸入規制撤廃を表明している。10月22日には,天皇陛下の「即位礼正殿の儀」に参列するためハリマ大統領が訪日し,23日には安倍首相と会談した。
このほか,リー首相は10月10日,シンガポール日本商工会議所の設立50周年記念講演会に登壇し,「日本の投資重要性を理解しており,世界の需要変化や我が国の経済発展に応じ,日本企業も投資を進化・発展させてきた」と,その貢献を高く評価した。11月29日~12月1日には,東南アジア最大の日本ポップカルチャーイベントであるC3アニメフェスティバルアジアが開催され,各地から約11万人が来場するなど,両国間の多面的交流はさらに盛んになっている。
その他の事項2019年,香港で発生した大規模な政治的・社会的混乱は,シンガポールに若干の影響を及ぼした。一部では,香港からシンガポールへ資金逃避の動きがあるとの観測も出たが,これは7月末にシンガポール大手銀行DBSのピッシュ・グプタCEOが否定しているように,実際は小規模な流入にとどまっていると考えられる。10月初頭のアメリカの投資銀行ゴールドマン・サックスの推計では,6~8月の間に30億~40億米ドルがシンガポールに流入したとされているが,これには規模や今後の継続性を含めて否定的な見方も多い。
一方,外務省は8月16日に,香港への渡航延期勧告を発令している。11月12日には,シンガポール系不動産投資信託の保有する香港のショッピングセンターが,大規模な破壊行為を受けた。これは一部で,リー首相による香港デモへの否定的発言の影響との推測が出ている。また政府は,第5位の貿易相手であり,第4位の投資先である香港の混乱が,自国経済に及ぼす影響を懸念していると同時に,大規模な民衆運動が自国社会を刺激することを警戒しているともいわれる。11月18日にはチャン通産相が,政府が自己満足に陥り,あるいは用心を怠った場合には,将来に同じような問題が起こる可能性があると警告している。なお,11月には香港籍の親中・反デモ派の男性が,シンガポールで小規模なデモ批判の政治会合を許可なく開催したとして,国外退去処分となっている。
経済外交面では,東アジア地域包括的経済連携(RCEP)関連で活発な推進活動を行ったと同時に,10月1日にはロシア,ベラルーシ,カザフスタン,アルメニア,キルギスからなるユーラシア経済連合(EEU)とのFTA枠組みで合意し,11月21日には2018年署名のEUとのFTAが発効している。自由で多角的な貿易関係は,シンガポールの生命線であり,各国とのFTAや,RCEPのような多国間経済協定に,引き続き積極的に取り組む姿勢を見せている。
テロなどの非伝統的安全保障面の分野では,警戒が続いている。多民族・多宗教という社会構成に加え,ムスリムが多数を占める周辺国家,さらには多くの外国人労働力が流出入する環境から,シンガポールではテロの脅威が現実問題となっている。1月22日に内務省が発表したテロ脅威報告では,国内で過激思想に染まった個人が多数確認されており,同国が標的となる可能性は高く,攻撃に備える必要があるとしている。内務省は8月までに,内国治安法に基づき,宗教的・民族的過激思想に傾倒した人物22人を拘束,26件に行動制限,2件に活動停止命令を出しており,引き続き厳しい警戒を敷いている。
なお,シンガポールではサイバー攻撃が近年頻発しており,スマート国家を目指すうえで致命的であるとして警戒されている。こうしたなかで,政府は1月25日にテレコム・サイバーセキュリティ戦略委員会を設置し,通信インフラの安全性対策に向けたロードマップ作成を決定した。3月31日には公共部門データセキュリティ検討委員会も設置され,改善に向けた措置提言と,アクションプランの作成を担っている。しかし,12月21日には国防省が,下請け業者のコンピューターウイルス感染によって,国防省・国軍所属2400人分の個人情報が流出したと発表するなど,問題は継続している。
2019年は,リー首相の後継者としてヘン副首相が正式に確定し,選挙区設定委員会も招集された一方,野党側もPSPの結党や選挙準備が始まるなど,次期総選挙に向けた動きが具体的に高まっている。この次期総選挙では,シンガポールの政治体制を考慮した場合,PAPが圧倒的多数を確保することは容易に予測できる。しかし,新党PSPの支持率の伸び,さらにはPSPと他野党との共闘実現次第では,PAPが最終的に獲得する議席・得票率には不確定な部分がある。
別の不確定要素としては,2019年は米中貿易摩擦の余波から経済が低成長に終始し,その影響が2020年にも継続することで国民生活に及び,政府・与党への逆風となる可能性がある。これを緩和する各種施策は,2020年も継続的に実施されると考えられるが,近年の少子高齢化に伴う社会保障関連支出の構造的増加,さらには国民への相次ぐ還元策から,NIRCの組み入れ金額上昇や財政赤字の発生が見られるように,財政構造は確実に悪化している。この点を考慮すると,総選挙後には国民向け還元策を中心とした歳出の見直し,あるいは予定されているGST増税を含めた歳入拡大への方策といった,財政政策の再調整が予想される。
いずれにしても,政府・与党にとって次期総選挙とは,単に過去数年の施政に対する是非を問うだけでなく,今後十数年にわたるであろう,ヘン副首相を筆頭とした「第四世代」指導体制の誕生への信任投票となるため,負けられない戦いになる。政治・経済・社会の各種要素を考慮しつつ,現行の国会任期である2021年1月や,リー首相が公言する2022年の引退との兼ね合い,さらにはヘン副首相の首相就任に向けた準備を考えた場合には,2020年のいずれかの時期に,総選挙実施の可能性があると考えられる。
(開発研究センター)
1月 | |
8日 | バラクリシュナン外相,マレーシアのサイフディン外相と領空問題につき,双方主張の一時棚上げで合意。 |
16日 | 新党のシンガポール前進党(PSP),社会団体登録を申請。 |
24日 | シンガポール国際仲裁センター(SIAC),中国国際経済貿易仲裁委員会と「一帯一路」関連の国際仲裁委員会の設置を発表。 |
25日 | 情報通信メディア開発庁(IMDA),テレコム・サイバーセキュリティ戦略委員会を設置。 |
31日 | 企業庁,完全自動運転のガイドラインを発表。 |
2月 | |
9日 | トゥアス港沖のマレーシアとの領海紛争がある海域で,マレーシア公船と外国籍貨物船が衝突。 |
18日 | ヘン財務相(当時),国会で予算案を発表。 |
23日 | シンガポール民主党(SDP),次期総選挙に向けたキャンペーンを開始。 |
3月 | |
1日 | シャンムガム内相兼法相,国会で外国勢力介入を防ぐ法律の必要性を表明。 |
4日 | 政府,ハイテク農業研究施設「アグリフード・イノベーション・パーク」設置を発表。 |
7日 | マサゴス環境・水資源相,2030年までに国内必要栄養量の30%を国産食料でまかなう「30 by 30」イニシアティブを発表。 |
14日 | バラクリシュナン外相,マレーシアのサイフディン外相と領海紛争につき,双方主張の一時棚上げで合意。 |
28日 | ヘン財務相,国会で物品・サービス税(GST)増税時期は未定と表明。 |
31日 | 首相府,公的部門データセキュリティ検討委員会を設置。 |
4月 | |
1日 | 政府,オンライン虚偽情報・情報操作防止法(通称「偽ニュース防止法」)を国会に提出。 |
8日 | 海事港湾庁(MPA),マレーシアとの重複港域を双方が紛争前の位置に戻したと発表。 |
9日 | リー首相,マレーシアのマハティール首相とプトラジャヤで会談。 |
12日 | 金融管理局(MAS),半期定例金融政策会合で金融政策維持を決定。 |
23日 | 首相府,ヘン財務相の5月1日付での副首相昇格を発表。 |
26日 | リー首相,訪問先の北京で開催された第2回「一帯一路」国際協力ハイレベルフォーラムで演説。 |
5月 | |
1日 | ヘン副首相,メーデー集会で演説。 |
7日 | イスワラン通信・情報相,2020年からの5Gネットワーク導入を表明。 |
8日 | MAS,為替介入実績を2020年から開示と発表。 |
8日 | 国会,偽ニュース防止法を可決。 |
13日 | MAS,中国人民銀行との通貨スワップ協定を更新。 |
17日 | リー首相,来訪中のニュージーランドのアーダーン首相と会談し,関係強化の共同宣言を発表。 |
23日 | ヘン副首相,訪問先の北京で李克強首相,韓正副首相と会談。 |
28日 | アメリカ財務省,シンガポールを為替操作監視対象に指定。 |
29日 | ン国防相,来訪中の中国の魏鳳和国防相と会談し,防衛交流協定の改定で合意。 |
30日 | 安倍首相,ヘン副首相と東京で会談。 |
31日 | リー首相,アジア安全保障会議で基調講演。 |
6月 | |
6日 | 人民行動党(PAP),院内総務をチャン通産相からパスチャリ上級国務相(運輸,通信・情報担当)に交代。 |
7日 | リー首相,来訪中のオーストラリアのモリソン首相と会見。 |
27日 | 安倍首相,リー首相と大阪で会談。 |
29日 | 性的少数者のための毎年恒例の民間イベント「Pink Dot 11」開催。 |
7月 | |
4日 | マレーシアのジャヤクマル天然資源相,2018年からシンガポールに海砂禁輸との報道を追認。 |
28日 | リー首相実弟のリー・シェンヤン,PSPへの全面支持を表明。 |
30日 | IMDA,インド系ミュージシャンの風刺ラップ音楽の動画削除をメディアに要請。 |
8月 | |
3日 | PSPが結党。 |
16日 | 外務省,香港情勢に鑑み渡航延期を勧告。 |
18日 | リー首相,独立記念日集会において施政方針演説を実施。 |
9月 | |
2日 | 政府,宗教調和維持法改定案を国会に提出。 |
4日 | 選挙局,8月末に選挙区設定委員会を招集したと発表。 |
10日 | ハリマ大統領,訪問先のフィリピンでドゥテルテ大統領と会談。 |
23日 | リー首相,訪問先のニューヨークでトランプ大統領と会談し,対米軍事協定延長に署名。 |
28日 | SDP,選挙マニフェストを発表。 |
29日 | PSP,全国29選挙区での遊説イベントを実施。 |
10月 | |
2日 | 政府,偽ニュース防止法を施行。 |
7日 | 国会,宗教調和維持法改定案を可決。 |
8日 | リー首相,訪問中のインドネシアでジョコ大統領と会談。 |
14日 | MAS,半期定例金融政策会合で金融緩和を決定。 |
15日 | ヘン副首相,訪問先の重慶で韓正副首相と産業協調会議を開催。 |
16日 | シンガポール人民党(SPP)のチャム・シートン書記長が引退。 |
19日 | SDP,選挙前集会を開催。 |
20日 | ン国防相,訪問中の北京で中国との防衛交流協定の改定に署名。 |
23日 | 安倍首相,ハリマ大統領と東京で会談。 |
24日 | 陸上交通庁(LTA),自動運転走行実験範囲を,国内西部全域の公道1000km以上にすると発表。 |
31日 | マレーシア政府,シンガポールとジョホール州を結ぶ都市鉄道の計画再開を発表。 |
11月 | |
5日 | ハリマ大統領,サウジアラビアを公式訪問。 |
10日 | PAP,党大会を開催。 |
17日 | リー首相,メキシコを公式訪問。 |
21日 | EUとのFTAが発効。 |
23日 | リー首相,訪問先の韓国で文在寅大統領と会談。 |
25日 | IMDA,偽ニュース防止法による初の訂正命令を実施。 |
29日 | 日本銀行,MASとの通貨交換協定を3年延長すると発表。 |
12月 | |
8日 | ハリマ大統領,大統領顧問会議で投資運用収益組入金(NIRC)について,ヘン副首相からの報告を受ける。 |
11日 | 法務省と通信・情報省,偽ニュース防止法は言論の自由を脅かすものではないとの反論声明。 |
14日 | IMDA,SDPに偽ニュース防止法による訂正命令を実施。 |
16日 | IMDA,人民の声党(PVP)の党員に偽ニュース防止法による訂正命令を実施。 |
21日 | 国防省,下請け業者のコンピューターウイルス感染で,2400人分の個人情報が流出したと発表。 |
(注)1)一院制,選挙区選出議員定数89(任期5年)。与党・人民行動党83議席,野党6議席。
(注)総人口は居住権者(シンガポール国民と永住権保有者)と非居住権者(永住権を持たない定住者あるいは長期滞在者)から構成。
(出所)Ministry of Trade and Industry, Republic of Singapore, Economic Survey of Singapore 2019 および The Singapore Department of Statistics ウェブサイト(http://www.singstat.gov.sg)。
(出所)表1に同じ。
(出所)Ministry of Trade and Industry, Republic of Singapore, Economic Survey of Singapore 2019.
(出所)表3に同じ。
(出所)表3に同じ。
(出所)表3に同じ。