2021 年 2021 巻 p. 341-364
2020年のシンガポールは,新型コロナウイルス感染症(COVID-19)流行という非常事態のなかでも,比較的安定した国家運営が行われた。
新型コロナウイルス対策では,2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)流行の経験もあり,1月から迅速な対応が取られた。これにより,一部に混乱もみられたが,初期段階では感染抑制に成功した。しかし,4月に入ると市中感染の拡大に加えて,劣悪な環境に置かれてきた外国人労働者向け宿舎での感染爆発が発生した。これに対して政府は,事実上の都市封鎖に近い措置や,外国人労働者向けの集中対策などを6月上旬まで続けることで,国内での流行を封じ込めた。
こうしたなかで,かねてから2020年内の実施が見込まれていた国会総選挙が,7月10日に実施された。結果は,野党の労働者党(WP)が過去最高の10議席(改選前比4議席増)を獲得した一方で,与党の人民行動党(PAP)の得票率は過去3番目に低い61.23%となり,政権に厳しい内容となった。また,世論調査の結果でも若年層のPAP離れが示されており,建国以来のPAP支配という「政治的常識」に,ゆっくりとではあるが確実な変化が発生していると考えられる。
経済は,新型コロナウイルスの影響により第2四半期には景気後退が確認され,通年の実質経済成長率は-5.4%に落ち込んだ。政府は企業,雇用,民生を守るため,補正予算ベースで合計約1000億Sドルの積極的な財政支出を実施し,社会・経済への打撃緩和に努めた。一方で,高付加価値・創発型産業の育成といった将来を見据えた戦略に変更はなく,「2025年研究・革新・企業計画」(RIE2025)では,今後5年間で総額250億Sドルの投入が発表されている。
対外関係では,世界的にグローバル化の逆行が顕著となっている現状に政府は危機感を募らせており,リー・シェンロン首相など政府要人が,相次いで警告を発している。また,米中間の対立が加速するなかでシンガポールは,従来どおりにアメリカとは安全保障面で,中国とは経済面での関係強化を進めながら,微妙な舵取りを継続している。最隣国のマレーシアとの関係は,3月のマレーシアでの新首相誕生以降は安定的に推移したが,数年来の懸案事項であったシンガポール=クアラルンプール間の高速鉄道計画は,12月末に中止が決定された。
2020年7月10日に実施された国会総選挙では,野党WPが過去最多の10議席を獲得し,一方で与党PAPは現有89議席を維持したものの,得票率は過去3番目の低水準に落ち込んだ。これはシンガポールの政治に,ゆっくりとではあるが確実な変化が発生していることを,強く印象付けるものとなった。
この総選挙は,2019年にリー首相の後継者に内定したヘン・スイーキア副首相兼財務相が率いる,「第四世代」指導体制への実質的な信任投票でもあった。このためPAPに好ましくない選挙結果を残せば,次期指導体制の安定性を損なう可能性があったことから,リー首相が公言してきた70歳(2022年)での引退や,2021年1月に切れる国会任期も睨みながら,実施時期が検討されてきた。
しかし,2020年3月上旬には新型コロナウイルスの市中感染が拡大し,政府が総選挙の実施を検討するうえでの懸念となった。4月7日には事実上の都市封鎖に近いサーキットブレーカーが発動され,6月1日まで実施された。このため社会・経済の動きは停止して,実質国内総生産(GDP)成長率も第1四半期0%,第2四半期-13.3%と厳しく落ち込み,PAPへの逆風になりかねない状態となった。一方で,この特殊な状況下では野党の選挙活動も難しくなるため,PAPは固定支持票に加え,安定志向の有権者の支持を集めて優位に立つとの観測もあった。
5月後半には,市中感染者の増加に歯止めがかかり,6月上旬のサーキットブレーカーの段階的解除が視野に入り始めた。これを受け,5月27日にヘン副首相が総選挙は間近と発言し,実施の観測が一気に高まった。野党は総選挙延期を要求したが,6月2日にはサーキットブレーカー解除の第1段階,同月19日には第2段階が実施された。そして6月23日,リー首相はハリマ・ヤーコブ大統領に国会解散を進言し,大統領は解散宣言と選挙実施命令に署名した。
今回の総選挙には,先述のようにヘン副首相が率いる「第四世代」指導体制移行への信任投票の意味があった。したがって最大の注目点は,「第四世代」指導体制が国民から信任されるに十分な得票率を得られるか,または2011年の総選挙以来6議席を確保してきた野党が,どこまで議席数を増やせるかにあった。
6月30日の立候補届け出の結果,全11政党から191人および無所属1人の合計192人が立候補した。PAPは,政党ごとの複数候補者のチームを選出する「グループ選挙区」と,単独候補者を選出する「1人選挙区」の合計である全31選挙区で,選挙区選出議員定数の93人を擁立した。しかし,ゴー・チョクトン前首相は出馬せず,政界を完全引退すると発表した。また,コー・ブンワン,リム・フンキャン,リム・スイーセイ,ヤーコブ・イブラヒムなど「第三世代」閣僚経験者も,不出馬・引退を表明している。
最大野党のWPは6選挙区21人,シンガポール民主党(SDP)は5選挙区11人を擁立した。WPもカリスマ的人気のあったロー・ティアキャン前書記長などが不出馬を表明し,今回の総選挙は,プリタム・シン書記長など若手指導部のリーダーシップが問われる戦いとなった。
2018年から注目を集め,2019年8月に正式結成されたシンガポール前進党(PSP)は,9選挙区24人を擁立した。PSPは,現政権に不満を抱く国民各層の受け皿を目指し,PAP出身の元議員タン・チェンボクを中心に結成された。タンは2011年大統領選挙に独立系候補として出馬し,トニー・タン前大統領に得票率0.3%の僅差で敗れた人物である。なおPSPは設立準備時から,リー首相と対立関係にある実弟リー・シェンヤンの支持を受けている。今回,リー・シェンヤンは出馬を見送ったが,PSPに正式に入党した。
選挙戦は6月30日に開始され,リー首相は「この危機の最中の総選挙は,シンガポールの未来を形作る」と述べ,熱の入った論争が繰り広げられた。その争点は,雇用確保や生活支援,外国人労働者の流入抑制や人口政策,新型コロナウイルス対策への評価などであった。
そして,7月10日に発表された投票結果はPAPに厳しい内容となり,得票率は歴代3位の低さとなる61.23%に落ち込んだ。これは前回2015年総選挙時の69.9%を大きく下回る。また,選挙区選出議員定数が89から93に増えたにもかかわらず,議席数は現有の89議席にとどまった。
一方で,野党はかつてないほど善戦した。たとえば,新設のセンカン・グループ選挙区では,PAP「第四世代」の柱の1人であるン・チーメン首相府相のチームが敗れ,WPの若手チームが52.12%の得票率で4議席を得た。これに同党が堅守したアルジュニード・グループ選挙区(5人区,得票率59.95%)とホウガン1人選挙区(得票率61.21%)を合わせ,当選者は過去最大の10人となった。
このほか,閣僚2人を含むPAPとタン書記長率いるPSPの対決となったウェストコースト・グループ選挙区では,PSPが得票率差3.36%で惜敗した。イーストコースト・グループ選挙区でも,厳しい事前予測結果となったため,PAPは次期首相であるヘン副首相を候補者グループに投入した。その結果,勝利はおさめたものの,WPとの得票率の差はわずか6.78%にすぎなかった。
さらに5つの選挙区で,WP,PSP,SDPの主要野党は40%以上の得票率を獲得し善戦した。この結果,接戦・惜敗した野党に議席配分する非選挙区選出議員枠で,PSPは2議席を獲得した。
変化するシンガポールの「政治的常識」与党苦戦と野党躍進という総選挙結果は,シンガポールの「政治的常識」の底流で,変化を求める動きが拡大している現実を,PAPに突きつけるものであった。
従来,シンガポールの政治システムは,野党の存在を圧倒的少数に抑え,与党絶対優位のなかで国会を有名無実化し,安定した政権運営を行うものであった。したがって,国会議員は体制内エリートから選出され,総選挙はこれに白紙委任を与えるセレモニーにすぎなかった。しかし,体制が建国以来作り上げてきたこの「政治的常識」に対し,旧来の価値観や呪縛から脱却しつつある若い世代を中心に違和感が強まり,野党支持が拡大していると考えられる。
世論調査も,若い世代の変化が選挙に影響したことを裏付けている。たとえば,世論調査機関Blackbox Researchによると,WPは21~25歳の層から最も支持を集め,PSPは元々PAPに投票していた25~59歳の層からも広く支持された。一方で,PAPは60歳以上の層から最も支持を集めたが,多くの層はWP,SDP,PSPなどの主要野党と比べてPAPを「傲慢」(40%)とみており,「PAPに白紙委任を与えるべきでない」(47%)と答えている。
シンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策大学院政策研究所の世論調査でも,「政治的多様性を望む」とする割合が過去最高の22.4%に達した。これは,以前から「政治的多様性を望む」傾向があるとされた,比較的高所得・高学歴の若い世代だけでなく,低所得・低学歴の若い世代も同様の意識を持ち始めたことを示している。「最も信頼できる政党はどこか」との質問では,PAPが首位を維持したものの支持率は低下し,逆にWPは全年齢層で支持を伸ばした。とくに20代後半~30代前半の層ではWPの支持率がPAPを上回った。
こうした民意の変化が選挙結果に表れたことによって,政権は野党に対する従来の姿勢を変える必要に迫られた。リー首相は投票翌日の記者会見で,「全般的には満足すべき結果で,PAPは明確な信任と幅広い支持を得た」と強調したが,一方で選挙結果は「国会での意見が多様化することへの明確な要求を示し」,「若い有権者が野党の存在拡大を望んでいる」と認めた。この背景として,「若い人々は,明らかに古い世代とは異なる生き甲斐や優先すべきものをもっており,それは政治のプロセスや政策に反映されるべき」と述べ,変化の発生を認めている。
さらにリー首相は,これまで公式には認めてこなかった「野党指導者」という地位を今後はシンWP書記長に用い,国会内での執務室,スタッフ,予算を割り当てたうえで,重要機密事項に関し政府説明を受ける権利を与えると表明した。この変化は,リー・クアンユー時代からの野党軽視の姿勢を改め,公式に国民の意見・意思の一部として,野党の存在を認めたことを意味する。これについて,ゴー・チョクトン前首相は「非常に意義深い動き」(7月11日付Facebook投稿)と評した。政権内でも比較的リベラルで国民の人気が高いターマン・シャンムガラトナム上級相も,「我が国の政治は恒久的な意味で変化しつつある」(7月19日付Facebook投稿)と述べており,シンガポールの政治は新たな転機を迎えた。
第5次リー・シェンロン内閣の発足総選挙後の7月25日,リー首相は第5次内閣の陣容を発表した。もっとも,新型コロナウイルス流行への危機対応から,多くの閣僚は留任となった。閣内における役職の移動では,オン・イエクン教育相が引退したコー・ブンワン運輸相の後任となり,ローレンス・ウォン国家開発相兼第二財務相が教育相兼第二財務相に,デズモンド・リー社会・家庭発展相が国家開発相に,マサゴス・ズルキフリ水資源・環境相が社会・家庭発展相兼第二保健相に,グレース・フー文化・地域・青年相が持続可能性・環境相(水資源・環境相から改称)に,それぞれ就任した。
このほか,新たに3人が入閣し,落選したン・チーメン首相府相のポストをモハマド・マリキ・ビン・オスマン国防・外務担当上級国務相(2001年初当選,55歳)が引き継ぎ,第二教育相と第二外務相も兼任した。また,エドウィン・トン保健・法務担当上級国務相(2015年初当選,51歳)が文化・地域・青年相兼第二法務相に,医師・起業家出身で2020年総選挙に初当選したタン・シーレン氏(56歳)が首相府相兼第二人材相兼第二通産相に就任している。
一方で,リー首相が以前から公言してきた2022年の70歳での引退は,新型コロナウイルス流行による社会・経済の打撃が長期化する可能性があるため先送りされるとの観測が出始め,首相自身も危機終息までの続投を示唆している。さらに,総選挙で圧勝できず存在感を示せなかったヘン副首相については,一部で後継首相の地位に変化があるのではないかとの観測もあった。しかし,これについては「計画の変更も話し合いの予定もない」(チャン・チュンシン通産相),「第四世代メンバー全員が,ヘン副首相の指導力の下で一致団結していることに疑問の余地はない」(ビビアン・バラクリシュナン外相)として否定されている。
新内閣が成立した7月27日,リー首相は演説を行った。そこでは,先の総選挙は「政治上の多様な意見を求める国民の意思が反映された」として,野党に建設的議論と代替案提議を求めた。同時に,政権・与党が国の長期的方向性を示し,世代を超えてシンガポールを導くためには,優れた指導力の下で国民と密接に連携できるチームが必要になると説いた。
非常事態における2020年度予算案と財政悪化2月18日,政府は2020年度予算案を開示した。これによると,歳入は760億Sドル,歳出は836億Sドルとなっている。純投資利益組入(NIRC)などを含む総歳入は946億Sドル,特別移転(Special Transfers)を合計した総歳出は1056億Sドルとなり,総合財政収支は110億Sドルの赤字予想と発表された。
主な総歳入の内容は,NIRCが186億Sドル(19.66%)と最大で,次いで法人税171億Sドル(18.08%),個人所得税125億Sドル(13.21%),物品サービス税(GST)113億Sドル(11.95%)となる。総歳出の内容は,特別移転220億Sドル(20.83%),国防151億Sドル(14.30%),保健134億Sドル(12.69%),教育133億Sドル(12.60%),運輸109億Sドル(10.32%),内務70億Sドル(6.62%),国家開発45億Sドル(4.26%),通商産業38億Sドル(3.60%),社会・家庭発展33億Sドル(3.13%),環境・水資源29億Sドル(2.75%)となる。
2020年度予算の特徴は,新型コロナウイルス流行に伴う非常事態を意識し,各種の手厚い支援が導入された点である。さらに政府は,企業・労働者を支援する64億Sドルの特別補正予算も確保し,企業の資金繰り支援,労働者の雇用確保,特定業界の支援などに40億Sドル,家計向け特別支援に16億Sドル,政府機関向けに8億Sドルを配分すると発表した。
しかし,予算案発表以降,新型コロナウイルス流行による経済的・社会的な打撃が急拡大したため,政府は機動的に追加経済対策を講じた。3月26日には,総額480億Sドルにも上る大型補正予算案を公表した。また,この補正予算捻出のため,建国以来積み立てられてきた政府準備金(国家安全保障を理由に総額非公開)から最大170億Sドル分を,大統領承認を経て引き出すことも決定した。4月6日にもサーキットブレーカー発動にあわせ,3回目の追加経済対策となる51億Sドルの投入を決定し,政府準備金から40億Sドルが拠出された。
しかし経済のさらなる悪化から,政府は5月26日に4回目の追加経済対策となる330億Sドルの投入を表明した。これに先立ち,ハリマ大統領は「国家存亡の危機」(5月22日)と述べ,26日には310億Sドルの政府準備金引き出しを許可したが,一般会計の2020年度財政赤字は,当初予測の110億Sドルから743億Sドル(対GDP比15.4%)に急拡大する見込みとなった。これは2019年度財政赤字が17億Sドルであったことと比較すれば,いかに巨額であるか理解できる。さらに8月17日,政府は5回目となる80億Sドルの追加予算投入を表明した。
以上のように,「建国以来最悪の不況」(ヘン副首相,3月26日)を乗り切るため,政府は機動的な補正予算の編成と経済対策を実施し,企業,労働者,家計を守るために積極的に支援した。しかし,現実問題として近年のシンガポールの財政は,社会保障や国民向け還元などの関連支出増加によって恒常的な経常赤字に陥っており,その健全化が課題となっている。
これまでは,政府投資公社(GIC),金融管理局(MAS),政府系持株会社テマセック・ホールディングスの投資活動における,長期・期待ベースでの年率投資収益を部分的に歳入に組み入れるNIRCを活用してきた。その総歳入に占める比率は2019年度実績で18.68%,2020年度予想で19.66%にも上る。一方で,7月に発表されたGICとテマセックの運用利回りは,過去20年平均ベースでそれぞれ年2.7%と年6%に低下しており,今後も世界経済の悪化で改善を期待することが難しくなっている。
今回の危機では,総額規模が不明の政府準備金という「虎の子」を活用できたが,それも無尽蔵ではなく,将来には財政のリバランスを行う必要がある。本来であれば,2021~2025年のいずれかで予定されているGST(物品・サービス税,消費税に相当)増税も,2月の予算案の発表時点では2021年度導入が見送られている。10月15日の国会答弁で,ヘン副首相はGST増税時期を「引き続き慎重に検討する」としているが,具体的な見通しは不透明である。
ヘン副首相は今後の財政状況について,「今後数年で大幅に悪化する」としながらも,「徐々に立て直しは可能」(3月27日)と述べている。またリー首相は,2021年度も財政赤字が継続するとして,「国家財政の均衡回復には時間が必要」(11月17日)との認識を示している。
継続する言論・社会的自由の制約かつて「明るい北朝鮮」と揶揄されたシンガポールは,この20年ほどの間で言論・社会的自由の制約が徐々に緩和されているが,完全な自由化にはほど遠い状況である。たとえば,国際ジャーナリスト団体「国境なき記者団」が4月に発表した「2020年度報道自由度ランキング」では,世界180カ国・地域中158位(前年度比7ランク低下)であり,「報道環境が極めて深刻な状況」に分類された。
とくに批判されているのが,2019年10月施行の「オンライン虚偽情報・情報操作防止法」(Protection from Online Falsehoods and Manipulation Act 2019:POFMA,通称「偽ニュース防止法」)である。同法について政府は,新型コロナウイルス流行下の流言飛語が蔓延しやすいなかでは必要(エドウィン・トン保健・法務担当上級国務相[2020年2月当時])と,その存在を正当化している。
これに対して,2020年1月8日には,前年から同法適用で政府と対立していた野党SDPが裁判所に異議を申し立てたが,非公開審理の末,2月5日に退けられた。また,政府は2月17日にはFacebookに対し,政府に批判的なオンライン・メディアStates Times Reviewへの国内からのアクセスの遮断を命令した。このほか政府は,選挙期間中の7月上旬には,野党ピープルズ・ヴォイス党(PV)のリム・ティン党首がFacebookおよびYouTubeページに投稿した内容に対して,また,SDP有力候補ポール・タンブヤ医師の発言を取り上げた4つのニュースサイトの記事に対して,訂正命令などを相次いで出している。これは同法が,野党に不利になるよう恣意的に利用されているとの批判を招いた。
リー・クアンユー時代からよく使われた,政府に批判的な人物に直接的圧力をかける方法も,いまだに用いられている。たとえば,10月2日には,PVのリム党首が背任容疑で逮捕されたが,同氏はこれを「政治的動機に基づく」として批判している。同日には,政府に批判的な若手歴史学者サム・ピンツィン氏の主催するネットメディアNew Naratifが,選挙法違反の容疑で家宅捜索を受け,同氏も事情聴取された。サム氏は以前から政府閣僚と論戦を展開し,5月にはNew Naratifへの偽ニュース防止法適用に法的異議を提出するなど,活発な活動で知られるが,今回の圧力に対しては,国外の学者や人権団体からも非難の声が上がっている。このほか,11月23日には反体制活動家のジョロバン・ワム氏が,2件の不法集会に関与したとして,公序良俗法違反の罪に問われ起訴されている。
リー首相と対立している実弟リー・シェンヤンの家族にも圧力が継続している。同氏の妻で弁護士であるリー・スエッファン氏は,自身が関与したリー・クアンユー元首相の遺書作成に不正があったとして,11月には弁護士会から資格停止の懲戒処分を受けた。夫妻の息子であるアメリカ在住のリー・シェンウー氏にも,7月29日に法廷侮辱罪で有罪判決と罰金刑が下されている。
2020年の景気は,新型コロナウイルスの流行から国内外経済が深刻な打撃を受けた影響で,実質GDP成長率が改定値ベースで-5.4%となり,前年の1.3%から大きく悪化した。
リー首相は2月14日の時点から,景気後退がありうると述べ,通産省も2月17日には,通年の経済成長率予測を従来の0.5~2.5%から-0.5~1.5%に引き下げていた。ところが第1四半期には0%を記録し,通産省は3月26日に通年の成長見通しを-4.0~-1.0%に引き下げた。第2四半期には-13.3%となり,2四半期連続のマイナス成長となって景気後退が確認された。5月26日,通産省は通年の成長見通しを-7.0~-4.0%に引き下げ,建国以来最大の不況になる可能性を警告し,さらに8月11日には-7.0~-5.0%に下方修正した。第3四半期は新型コロナウイルス流行の鈍化から経済活動が再開し,とくに製造業がけん引したことで,-5.8%に下げ幅が縮小した。これを踏まえて11月23日,通産省は通年の成長見通しを-6.5~-6.0%とし,そのレンジを狭めた。さらに,第4四半期は製造業の伸びとサービス業のマイナス幅縮小で-2.4%に落ち着いた。
なお,2020年の消費者物価指数は通年で0.2%下落(前年比0.6%上昇)し,金融政策の判断上で重要となる,住居費と個人交通費を除いたMASコアインフレも0.2%の下落(前年1.0%上昇)で推移している。
こうした前例のない景気悪化を受けて,MASも機動的な金融政策を実施した。例年4月中旬に実施される半年に一度の金融政策決定は,3月30日に前倒しされ,Sドルの誘導方向をゼロに引き下げ,名目実効為替レート政策バンドの水準中心値も引き下げるという,2009年以来の大幅な金融緩和が発表された。また,MASはドル資金調達の安定性強化と市中の流動性確保のため,3月19日にアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)との間で600億米ドルのスワップ融通枠を設定し,同月27日から市中供給を開始した。
このほか,MASは3月末に銀行協会,金融業協会との合意で,債務返済が困難に陥った個人や中小企業を救済する返済猶予を年内までの時限措置として導入し,後に2021年以降も利用可能とする延長案を発表した。4月には企業庁と連携した中小企業救済の「運転資金融資プログラム」と「つなぎ資金融資プログラム」を創設し,金融機関への低利資金融通によって貸し出しを奨励している。もっとも,MASのラビ・メノン長官は7月16日に,支援策は無期限に継続できないと指摘し,緩やかな縮小の時期・方法を検討していることも明らかにしている。
高付加価値・創発型産業の育成継続新型コロナウイルスの流行によって国内経済が打撃を受けるなかでも,2020年の国内固定資産投資は前年比13%増の172億Sドルとなり,また,未来に向けた産業構造の革新も止まることはなかった。ヘン副首相は12月7日の講演で,「ハイテク分野は企業と労働者に機会を提供する」として,高付加価値・創発型産業を育成するための,大規模投資の継続を表明した。
12月11日には「2025年研究・革新・企業計画」(RIE2025)が公表され,政府は2021~2025年度の5年間に総額250億Sドル(前回190億Sドル)を投入すると発表した。同計画では,「国家のニーズに対応し,新型コロナウイルス対策などの難局を乗り越えるためにも,研究開発は非常に重要」と記されている。主な配分先は,デジタル経済,製造・貿易,健康,持続可能性の4つを柱とした基礎研究に73億Sドル,大学や研究機関の施設増強に65億Sドル,用途未定の機動資金に37億5000万Sドル,人材開発用途に22億Sドルとなっている。
政府がとくに注力するのが,情報通信やスマート化といったデジタル経済であり,6月上旬には2020年度の情報通信技術関連支出を35億Sドル(2019年度27億Sドル)に拡大している。第5世代移動通信システム(5G)についても,4月に5G全国展開免許の国内通信2社(シンガポール・テレコム,スターハブ・M1企業連合)への交付が内定し,2021年1月には本格展開される予定である。なお,6月24日には5G免許交付に内定した2社が,それぞれ通信ネットワーク機器をスウェーデンのエリクソン,フィンランドのノキアから調達すると表明した。米中両国と良好な関係を維持したいシンガポールにとって,「踏み絵」となっていた中国の華為技術(ファーウェイ)は不採用となった。
重点のひとつであるスマートモビリティ分野でも,大きな進展がみられた。2月18日,ヘン副首相は国会演説で,2040年までのガソリン・ディーゼル車の段階的廃止と,電気自動車を普及させるインセンティブの導入や充電施設の拡充(2030年までに2万8000カ所)を発表している。8月には韓国の現代自動車が,電気自動車の研究開発・製造工場を建設し,2022年に生産を開始すると発表した。これは国内の精密・電子部品の関連産業だけでなく,ロボット工学,人工知能,モノのインターネット化といった分野との連関や雇用を創出すると期待されている。
前年から本格化した都市型・ハイテク農水産業の育成は,10%以下の食糧自給率を2030年までに30%に改善(「30×30」計画)し,同時に世界的課題となりつつある食料供給問題を,ビジネス機会にする手掛かりを探るものである。とくに,2020年は新型コロナウイルスの流行で,主な食料供給源のひとつである最隣国マレーシアをはじめ,世界各地からの流通に問題が生じ,食料安全保障が現実問題となった。こうしたなかで政府は,4月17日には農水産物の国内生産を2年以内に増加させ,他分野の技術とも相乗効果が見込めるハイテク農水産業を振興する支援策「30×30Express」を立ち上げた。さらに,屋上菜園や家庭菜園の推奨,地産地消促進の国産農水産物認定制度の創設,代替肉などのノベルフード(新食品)安全性ガイドラインの策定,世界初の培養鶏肉の販売認可などの動きがみられた。
このほかにも,持続可能性の観点からクリーン・エネルギーへの転換が推進され,2030年までに太陽光発電を現在の7倍となる2ギガワットピークに拡大させる計画が進められている。また,2015~2019年で投資額が7200万米ドルから8億6100万米ドルに急増し,2020年には約400社の4900人分の雇用を生み出すなど成長著しいフィンテック分野にも,政府は支援を継続している。8月には「金融業界テクノロジー&イノベーション」(2015年開始)の第2期が始まり,今後3年で2億5000万Sドルが投じられる。さらに,2022年開業の「デジタル・バンク」(ネット専業銀行)も,12月にはMASが4陣営に銀行免許を交付している。
外国人雇用規制の厳格化2020年の在住外国人を含む全体失業率は3.0%,国民失業率は4.2%と悪化した。国民の間では新型コロナウイルスの流行で雇用不安が現実化し,総選挙に向けた議論でも雇用維持が争点のひとつとなった。一方で政府の基本政策は,成長に不可欠なセクターで代替不可能な技能をもつ外国人を雇用しつつ,国民技能の向上と高賃金・良質な雇用先を創出することで,国民の雇用を促進して雇用ギャップを埋める,というものである。
このため1月14日に政府は,2014年に導入された国民雇用促進策「フェア・コンシダレーション・フレームワーク」を見直し,雇用差別を行った企業に外国人就労ビザの発給停止措置をとるという罰則強化を発表した。また,1月からは一般技能労働者向け就労ビザ「Sパス」(SP)発行の最低月給水準を2300Sドルから2400Sドルに,5月からはホワイトカラー・専門技術者向け就労ビザ「エンプロイメント・パス」(EP)の最低月給水準を3600Sドルから3900Sドルにそれぞれ引き上げた。さらに3月には,技能・需給ギャップを埋めるため,中堅・高齢労働者向け雇用・訓練への20億Sドルの拠出を決定し,5月には雇用支援に27億Sドルを拠出することで,10万人分の雇用・訓練の機会を確保している。
しかし,総選挙の厳しい結果から,政府は国民雇用策のさらなる促進を迫られた。これを受け政府は,8月27日にはEPとSPの最低月給水準を,2020年中にそれぞれ4500Sドル(金融業界5000Sドル)と2500Sドルに再び引き上げると発表した。8月31日の国会でも,与野党がビザ発給枠設定や制度厳格化を求める意見を提出している。ただし経済界は,地元人材が不足している現実や人件費増加で,企業が事業縮小・撤退を余儀なくされる可能性を指摘している。
たとえば,EP基準の引き上げで標的のひとつになった金融業界では,従事者の7割を国民が占めるものの,上級職に占める国民の比率は4割にとどまるとして,8月にはメノンMAS長官が,同業界のテクノロジーやリスク管理の分野で,地元人材の雇用拡充を求めている。しかし,業界からは金融センターの地位を低下させ,結局は国民の雇用機会に影響するとの懸念が出された。
一方で,国策によって強い成長をみせている高度ハイテク産業の人材不足については,経営幹部向けにEPとは別枠の「テックパス」が創設され,2021年1月から受付開始予定である。リー首相は11月に「国民は外国のハイテク人材流入で厳しい競争に直面し不快かもしれないが,彼らの経験や専門知識から学ぶ必要がある」と述べ,同セクターの発展には外国人材が不可欠との認識を示している。
一部にある外国人排除の風潮には,経済紙『ビジネスタイムズ』も9月8日付社説で,国の未来には外国人材への開放性維持が必要として,批判を展開している。政府系世論調査機関REACHが10月に発表した調査結果でも,開かれたシンガポールの維持は重要であるかとの問いには,強く支持・支持が63%となった。外国人の気になるところは何かとの問いに対しても,仕事・雇用関連との回答は23%にすぎず,国民の多数はシンガポールの開放性に引き続き寛容と考えられる。
なお,過去に生産性の観点から政府の標的となってきた,建設,清掃,飲食・サービスなどの労働集約型産業の外国人労働者には,新型コロナウイルス禍の特殊環境下で,従来と異なる政策が適用された。これは4月に入り,劣悪な住環境にあった外国人労働者用宿舎での感染爆発が発生し,4月21日には全宿舎が隔離・封鎖されたことで,深刻な労働力不足に陥ったことが影響した。
このため政府は,4月に単純労働者向け就労ビザ「ワークパーミット」(WP)保有者の異業種転職の全面緩和,6月にはWP保有者雇用時の人頭税減免を実施した。経済団体も,国民が敬遠する労働集約型産業での外国人労働者は不可欠として申し入れを行い,政府も理解を示している。結局,8月上旬に宿舎居住の全外国人労働者へのウイルス検査が終了し,同月末には9割の労働者が職場復帰した。
一方,外国人労働者用宿舎での感染爆発は,国家の繁栄を底辺から支える層が,長年にわたり公然と劣悪な環境に放置され,決して社会から顧みられることのない,シンガポールの暗部であったことを浮き彫りにした。外国人労働者の就業環境は,国内外の大きな注目を集めて強い批判を招き,政府は外国人労働者の宿舎や待遇への監督を強化する必要に迫られて対応を開始した。
世界経済を結ぶ重要センターのひとつであるシンガポールは,国際社会における自由で開放的な経済体制から,大きな利益を享受してきた。このため,近年の米中対立や新型コロナウイルスの流行などで,グローバル化の逆行が顕著となっている現状に,政府は危機感を募らせている。
3月26日に開催されたG20首脳の緊急テレビ会談でも,招待枠で参加したリー首相は,「内向化によるグローバル化の逆行に抵抗する必要がある」と述べ,国際協調の必要性を主張した。9月21日の国連創設75周年記念ハイレベル会合の録画演説でも,リー首相は,国際ルールに基づく多国間主義が,世界的課題を克服し,安定した環境を構築するには不可欠と述べた。
一方で,6月11日に国民向け演説を行ったテオ・チーヒエン上級相は,新型コロナウイルスの流行によって地政学的影響が浮き彫りになり,排外主義や保護主義が台頭し,国際秩序やシステムが脅威に直面していると述べた。そのうえで,もはやグローバル化や開放的な世界市場を当然とする思考は通用しないと述べている。また,ヘン副首相は10月15日の国会演説で,国内で外国人を雇用することへの国民の反発を念頭に,シンガポールが内向化することに警告を発している。
こうしたなかにあって,シンガポールは多国間体制への積極関与を継続した。たとえば,国連「世界知的所有権機関」(WIPO)の次期事務局長に,シンガポール知的財産局のダレン・タン長官が立候補して3月に選出され,シンガポール人初の国際機関のトップとなった。国際経済協定の締結にも積極的で,11月には地域的な包括的経済連携(RCEP)協定に調印し,12月10日にはイギリスとの自由貿易協定(FTA)を締結した。
なお,国際的な政財界トップの集う「ダボス会議」は,2021年会議を新型コロナウイルスの流行が深刻なスイスではなく,シンガポールで開催することを決定した。この誘致成功の決め手となったのは,地理的利便性,セキュリティー,インフラ,そして新型コロナウイルスの感染拡大抑止の成功であったとされ,会議の開催は,シンガポールの国際的知名度を高めることに貢献すると目されている。
米中関係の緊張継続とシンガポールの立場2020年も米中対立は加速し,その角逐はシンガポールに影を落としている。3月2日,バラクリシュナン外相は国会で,「米中との良い関係を望むが,いずれかの命令に従うことはない」としたうえで,引き続き双方と関係を深めると述べた。リー首相も3月のアメリカのCNNや11月のブルームバーグのインタビューで,米中協力を呼びかけると同時に,双方の関係修復には時間が必要と指摘した。
こうしたなかで,シンガポールは引き続き,アメリカとの安全保障面での関係を深化させている。1月9日には,アメリカ政府が垂直離着陸可能な最新鋭ステルス戦闘機F35Bを最大で12機,シンガポールに売却することを承認した。アメリカ国防総省は「シンガポールはアジア太平洋地域の政治的安定と経済発展に重要な戦略的友好国である」との声明を発表している。5月24日には南シナ海で,両国海軍が共同訓練を実施した。
8月4日にはバラクリシュナン外相が,ポンペオ米国務長官と電話会談を実施し,東南アジアでアメリカが建設的かつ安定的な存在であることを歓迎すると伝えた。ただし,南シナ海問題でシンガポールは当事国ではなく,特定の側を支持することはないとの立場も表明している。8月31日にはン・エンヘン国防相がエスパー米国防長官と電話会談を実施し,アジアでのアメリカによる安全保障上の影響力維持と防衛協力の強化を確認している。9月16日には例年の次官級協議「戦略安全保障政策対話」が開催され,防衛協力の強化など多方面で合意した。なお,11月17日にはケネス・ブレイスウェイト米海軍長官が講演で,対中戦略の一環としてインド・太平洋を結ぶ海域を管轄する「第1艦隊」の創設構想を明らかにし,シンガポールを母港とする可能性にも言及した。しかし,これに対するシンガポールからの反応は明らかになっていない。
中国とは,7月14日にリー首相と習近平国家主席が電話会談を行い,二国間関係の重要性に言及し,とくに経済協力の強化で合意した。7月31日にはヘン副首相が韓正副首相と電話会談を行い,公衆衛生やワクチン供給などの関係強化で一致している。8月19日からは中国外交の責任者である楊潔篪中国共産党政治局委員がシンガポールを訪問して3日間滞在し,リー首相や主要閣僚と個別会談を行ったが,この訪問は対米けん制との見解も出ている。さらに10月13日には,中国の王毅外相がシンガポールを訪問し,バラクリシュナン外相と会談した。このほか,12月8日には「シンガポール・中国二国間協力共同委員会」がオンライン上で開催され,ヘン副首相などが参加して,各種の経済協力を確認した。
一方で2020年には,三国間で微妙な問題も発生している。7月にアメリカ司法省は,シンガポール国籍でシンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策大学院の博士課程院生であるディクソン・ヨーを訴追したと発表し,10月には禁錮1年2カ月の有罪判決が下された。ヨーは中国情報機関の指示でアメリカにダミーのコンサルティング会社を設立し,情報収集を行っていた。判決に際してヨーは後悔を表す一方で,中国の理念に共鳴しているとも述べた。ここでシンガポールにとって問題となったのは,ヨーの指導教官が2017年に「外国政府の工作員」としてシンガポールが永久追放処分を下した中国系アメリカ国籍のホアン・ジン(黄靖)教授であった点である。ヨーはホアン教授の思想的影響下にあったとも言われ,シンガポールが特定国の諜報活動拠点になっていた事実,そして米中角逐をめぐる緊張のなかに巻き込まれている実態が,あらためて浮き彫りになった。
なお,2020年には米中関係の緊張や中国国内の事業環境変化を背景に,中国系企業によるシンガポールでの拠点開設・事業拡大の動きが顕著であった。5月に中国IT最大手企業のひとつであるアリババは,拠点ビル確保と地場配車サービス大手グラブへの30億米ドル規模の出資交渉を行っている。9月には,同じくIT最大手企業のひとつであるテンセントが東南アジア地域統括拠点を設置して,中国事業の一部も移転させた。このほか,動画投稿アプリTikTokを運営するバイトダンスも,10月に数十億Sドル規模の投資と数百人の雇用で拠点を開設し,動画配信サービス大手iQIYIも国際本部の開設と数百人規模の雇用を表明している。
対マレーシア関係最隣国であるマレーシアとは,2018年のマハティール・モハマド首相の再登場以降,領土・領空や水資源の問題を中心に一時的に緊張したが,2020年3月1日にムヒディン・ヤシン新首相が就任したことで,全般的には安定に転じている。しかし,新型コロナウイルスの感染拡大を受けて,一時的な混乱も生じた。
川を挟んで隣り合う両国は非常に密接な関係にあり,とくに向かい合うジョホール州との間では,両地を毎日往復する越境通勤者が,シンガポール労働人口の1割に相当する30万人以上いるといわれている。しかし,新型コロナウイルスの感染拡大から,マレーシアが3月18日から2週間の国境閉鎖を発表すると,前日の17日にはシンガポールに向かう人や車両の激しい混雑が発生し,シンガポールも越境通勤者の臨時滞在先確保など対応に追われた。またマレーシアは,生鮮食品や製造部品などの流通は妨げられないことを確約したが,シンガポールでは買い溜め騒動などが発生し,実際には一部で流通が滞るなどの混乱も生じた。
マレーシアは国境封鎖を当初2週間としたが,その後に期間延長を決め,越境通勤者の混乱は継続した。結局,6月26日に両国首相の電話会談で,往来再開の枠組みを協議することで一致し,7月14日には両国外相が,公務・ビジネスの移動を認める「グリーンレーン」と,長期就労ビザ保有者の一時帰国・再入国を認める「定期通勤」によって,8月10日からの制限付き往来を再開すると発表した。
なお,数年来の懸案であった両国間の2つの鉄道計画は,異なった結果で落着した。シンガポール=ジョホール間の都市鉄道計画は,7月22日にマレーシアのウィー・カシオン運輸相が,事業費を49億3000万リンギから37億リンギに縮小し,着工は2021年1月,運用開始は2026年後半になると発表した。7月30日には両国首相が調印し,11月22日にはマレーシア側で正式着工した。
一方で,2018年9月に計画が凍結されたシンガポール=クアラルンプール間の高速鉄道計画は,再開期限の5月末に年末までの再延長が決まり,その間も交渉が継続した。しかし11月にマレーシアは,シンガポールへの延伸ではなく,ジョホールバルを終点とした単独での建設を提案した。これはマレーシアが,総合的な設計・管理を担う両国共同の「鉄道資産会社」を設置せず,事業を進めたい意向であったことが理由といわれている。このため,12月2日には両国首相がテレビ会談で打開策を模索したが,年末年始にかけて正式な計画中止が発表された。
対日関係対日関係は,引き続き良好で着実な発展がみられた。2020年は新型コロナウイルスの影響から往来の難しい年ではあったが,閣僚間の交流は活発であった。
8月13日には茂木敏充外相がシンガポールを訪問し,バラクリシュナン外相と会談して,往来回復や東・東南アジア地域の諸問題を討議した。12月27~30日には河野太郎行革相がシンガポールを訪問し,28日にヘン副首相と昼食を共にしながら会談した。河野行革相は政界に入る前,民間企業での勤務時代にシンガポール駐在の経験を持ち,外相や防衛相を務めた時にも関係構築に積極的であった。
このほか,電話・テレビ会談などは,4月2日に茂木外相とバラクリシュナン外相,5月1日には梶山弘志経産相とチャン通産相,5月19日には河野防衛相(当時)とン国防相,10月19日には再び茂木外相とバラクリシュナン外相,そして10月29日には菅義偉首相とリー首相の間で行われている。
なお,新型コロナウイルスの流行で寸断された両国間の往来については,9月18日に「ビジネストラック」制度が開始された。これは重要度の高い公務・ビジネスを目的とした14日以内の相互往来を認めるもので,日本にとってはシンガポールが第1号となった。9月30日には,双方の国民や居住者が相手国に長期滞在する際の入国を円滑化する「レジデンストラック」制度も開始されている。
2020年のシンガポールは,新型コロナウイルスの流行という非常事態においても,積極的な対策で感染症拡大を抑制し,高い危機対応能力を証明した。そして,国会総選挙や積極財政などを実施し,可能なかぎり安定的な国家運営に成功した。
しかし,国内対応の成功とは別に,この危機がもたらした大きな変化,すなわち,グローバル化の逆行や米中関係の緊張加速,基本的なヒト・モノ・カネの移動の停滞といった事態は,世界と地域の経済システムのなかで枢要な役割を果たしている都市国家のシンガポールに,長期的な動揺や打撃をもたらす可能性が高い。
こうした趨勢のなかで,2021年のシンガポールは引き続き,経済面では景気への打撃軽減,雇用・民生の維持,産業構造の革新,財政バランスの再調整といった諸課題を,政治面では次世代指導者への交代に向けた着実な準備を,安定的に遂行していく必要がある。
(開発研究センター)
1月 | |
9日 | アメリカ政府,シンガポールへのF35Bステルス戦闘機売却を承認。 |
12日 | 外務省,台湾総統選で勝利した蔡英文総統に祝意を表明。 |
13日 | アメリカ財務省,半期為替報告書でシンガポールを監視対象国に継続指定。 |
14日 | 人材省,国民雇用促進・平等化のための「フェア・コンシダレーション・フレームワーク」の見直しを発表。 |
16日 | 食品庁,福島産食品の全規制を撤廃。 |
22日 | ガン・キムヨン保健相,新型コロナウイルス対策の省庁間タスクフォースを発表。 |
23日 | 新型コロナウイルス感染者を国内で初確認。 |
28日 | 暗号資産関連の新法「決済サービス法」が施行。 |
2月 | |
3日 | ン国防相,海賊対策のため国軍海上保安特別部隊の再編を発表。 |
4日 | ハリマ大統領,インドネシアを訪問しジョコ・ウィドド大統領と会談。 |
7日 | 政府,新型コロナウイルスの警戒レベルを引き上げ,買い溜めなど混乱が拡がる。 |
14日 | リー首相,景気後退の可能性に言及。 |
18日 | ヘン副首相,国会で予算案の説明を実施し,通常予算以外の特別予算64億Sドルの投入を発表。 |
28日 | 内務省,韓国系新興宗教団体の活動の禁止と国内からの排除を決定。 |
3月 | |
1日 | リー首相,マレーシアのムヒディン新首相に祝意。 |
2日 | バラクリシュナン外相,マレーシアとの水資源取引内容の見直しに柔軟姿勢。 |
3日 | テオ人材相,ホワイトカラー・専門技術職向け外国人就労ビザ(EP)の発行基準の厳格化を発表。 |
5日 | タン知的財産局長官,国連の世界知的所有権機関事務局長に選出。 |
17日 | マレーシア,18日からの国境封鎖を発表し,シンガポールでも混乱が拡がる。 |
19日 | 金融管理局(MAS),米連邦準備制度理事会(FRB)とドル資金融通枠の拡大で合意。 |
23日 | リー首相,オーストラリアのモリソン首相とテレビ会談を行い,軍事・経済面での協力強化で合意。 |
25日 | 人材省,マレーシアからの入国要件を緩和。 |
26日 | 政府,480億Sドルの追加経済対策を発表。 |
30日 | MAS,大幅な金融緩和を実施。 |
4月 | |
1日 | 人材省,単純労働者向け外国人就労ビザ(WP)の就労条件を緩和。 |
2日 | 茂木外相,バラクリシュナン外相と電話会談。 |
6日 | 政府,51億Sドルの追加経済対策を発表。 |
7日 | 国会,新型コロナウイルス対策の暫定措置法を可決し,政府は非常措置サーキットブレーカーを発動。 |
21日 | 保健省,感染爆発が深刻な外国人労働者の全宿舎を封鎖・隔離。 |
29日 | 情報通信メディア開発庁,第5世代移動通信システム(5G)の免許付与先を発表。 |
5月 | |
1日 | 梶山経産相,チャン通産相とテレビ会談。 |
5日 | 国会,選挙特別措置法を可決。 |
17日 | 食品庁,食料自給率向上の強化策「30×30 Express」を発表。 |
19日 | 河野防衛相,ン国防相とテレビ会談。 |
24日 | 海軍,南シナ海で米海軍と共同訓練。 |
26日 | 政府,330億Sドルの追加経済対策を発表。 |
6月 | |
2日 | 政府,サーキットブレーカーの第1段階緩和を実施。 |
19日 | 政府,サーキットブレーカーの第2段階緩和を実施。 |
23日 | ハリマ大統領,国会解散宣言・総選挙実施命令に署名。 |
24日 | 前進党(PSP),リー・シェンヤン氏(リー首相実弟)入党を発表。 |
25日 | リー首相,ゴー前首相の出馬辞退と政界引退を公表。 |
26日 | リー首相,マレーシアのムヒディン首相と電話会談を行い,両国間往来を再開する枠組みを整備することで合意。 |
27日 | 人民行動党(PAP),選挙公約を発表。 |
28日 | 労働者党(WP),選挙公約を発表。 |
29日 | PSP,選挙公約を発表。 |
30日 | 総選挙の立候補届出日。 |
7月 | |
10日 | 総選挙の投票日。 |
14日 | リー首相,中国の習国家主席と電話会談。 |
27日 | 第5次リー内閣が発足。 |
28日 | 政府投資公社,過去20年平均の実質運用利回りが年2.7%に低下と公表。 |
29日 | リー首相の甥リー・シェンウー氏,法廷侮辱罪で有罪判決を受ける。 |
30日 | リー首相,マレーシアのムヒディン首相と,シンガポール=ジョホール間の都市鉄道計画に調印。 |
31日 | ヘン副首相,韓中国副首相と電話会談。 |
8月 | |
4日 | バラクリシュナン外相,ポンペオ米国務長官と電話会談。 |
10日 | マレーシアとの制限付往来が再開。 |
13日 | 茂木外相,シンガポールを訪問し,バラクリシュナン外相と会談。 |
17日 | 政府,80億Sドルの追加経済対策を発表。 |
20日 | リー首相,シンガポールを訪問中の楊中国共産党政治局員と会談。 |
24日 | 国会,開会式を開催。 |
27日 | テオ人材相,EPとSPの発行基準を再度厳格化することを発表。 |
31日 | ン国防相,エスパー米国防長官とテレビ会談。 |
9月 | |
3日 | WPのジェイマス・リム議員,国会で最低賃金法の導入を提起。 |
16日 | シンガポールとアメリカの「戦略安全保障政策対話」開催。 |
10月 | |
9日 | アメリカの裁判所,中国情報機関の協力者であったシンガポール人に有罪判決。 |
13日 | バラクリシュナン外相,シンガポール訪問中の王中国外相と会談。 |
29日 | 菅首相,リー首相と電話会談。 |
11月 | |
3日 | 国会,新型コロナウイルス対策の暫定措置法改正案を可決。 |
8日 | PAP,党大会を開催。 |
11日 | 内務省,韓国系新興宗教団体の構成員21人を拘束。 |
15日 | チャン通産相,地域的な包括的経済連携(RCEP)協定に署名。 |
17日 | ブレイスウェイト米海軍長官,シンガポールを母港候補地のひとつとする「第1艦隊」創設構想に言及。 |
12月 | |
4日 | MAS,「デジタルバンク」(ネット専業銀行)免許2種類を各2陣営に付与。 |
7日 | 2021年ダボス会議,シンガポールでの開催が決定。 |
10日 | チャン通産相,イギリスとの自由貿易協定に署名。 |
11日 | 政府,今後5年の科学技術研究に250億Sドルを投じる「2025年研究・革新・企業計画」を発表。 |
28日 | 政府,新型コロナウイルス対策の第3段階緩和を実施。 |
(注)1)一院制,選挙区選出議員定数93(任期5年)。与党・人民行動党83議席,野党10議席。
(注)総人口は居住権者(シンガポール国民と永住権保有者)と非居住権者(永住権を持たない定住者あるいは長期滞在者)から構成。
(出所)Ministry of Trade and Industry, Republic of Singapore, Economic Survey of Singapore 2020 およびThe Singapore Department of Statisticsウェブサイト(http://www.singstat.gov.sg)。
(注)1)2020年は暫定値。
(出所)表1に同じ。
(注)1)2020年は暫定値。
(出所)Ministry of Trade and Industry, Republic of Singapore, Economic Survey of Singapore 2020.
(出所)表3に同じ。
(注)1)2020年は暫定値。
(出所)表3に同じ。
(注)1)2020年は暫定値。
(出所)表3に同じ。