Bulletin of Data Analysis of Japanese Classification Society
Online ISSN : 2434-3382
Print ISSN : 2186-4195
Research notes
Attitudes and Opinions regarding Environmental Protection
—Public Opinion and Underlying Consciousness—
Ryozo YoshinoYan-Yan ChenYuejun ZhengFumi Hayashi
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2020 Volume 9 Issue 1 Pages 13-26

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要 旨

本稿では, 歴史や文化を含む社会経済的・環境的要因をも考慮しながら,環境配慮に関する人々の行動が実効性を持つようなメカニズムを探索する中で, 現在の「環境問題」自体が内包する問題や課題について考察を巡らせる. 特に, 常に現実の政策立案と密接に研究を推進していた林知己夫による人々の意識の表層と基底の区別や意識調査一般についての知見にも留意し,環境問題について具体的に実効性のある方策とは如何にあるべきかに思いを巡らせる.

Abstract

This research note briefly reviews some ideas about how people’s consciousness is associated with effective environmental protection behavior. This extends to culture, history and religion. Global environmental issues involve many complex factors such as economics, politics, humanitarianism, and religion. Furthermore, scientific measurements of the environment on a global scale are technically difficult and the data obtained are not always reliable. Therefore, many debates on global environmental protection are too complex to decide which is true or false. With all this in mind, we need to act as reasonably as calmly as possible without overreacting to the media and the advertising of extreme activists.

1. 序

環境問題に関する論文や文献等は,既に世界中で長年の蓄積があり,それら全体を詳細に俯瞰するのはかなり困難であろう.他方で,過去の対応策では処し難い新たな「問題」が次々と生まれ続けている.局地的な水や大気の汚染などは解決の姿が比較的明瞭であり具体的な対応策を練ることができる.他方で地球温暖化問題などは人為によるか否かについて研究者間でも意見が分かれている(国立環境研究所, 2017; 武田, 2009: 山本, 2008)のだが,科学的根拠の確定を待っては解決不能になるとして,政治や行政では根拠の確定を前提とせずに予防政策をとっている(環境省総合環境制作局, 2005).

2019 年1 月の世界経済フォーラムに,環境運動家の少女(グレタ・トゥーンベリ)が招かれた.各国の重鎮を前に「気候変動のことを話し合う会議に,プライベートジェットで来るなんて,頭がおかしくありませんか? 偉そうなことを他人に言うなら,自分が実践しなければ,誰も真剣に受け止めませんよ」という演説に,ジェット機などで大量の汚染ガスを舞き散らしてやってきた聴衆たちは沈黙した(選択, 2019, pp.14–15).また,地球環境問題でノーベル賞まで取ったアル・ゴアの豪邸では光熱費に月数十万円費やしているという(池田・養老, 2008).政治や行政レベルのトップが本当は地球環境問題を真剣には考えていないのではと思わざるを得ない.他方で,世界のニュースの中で,環境問題解決のためと言えば皆が賛成しなければならない雰囲気(socialdesirability)が醸成されてしまっており,巨額な予算と多大なマンパワーの使用が無批判に正当化されかねない.

確かに,特定の環境問題の原因を科学的測定で速やかに同定することの困難は水俣病でも経験してきたことであり,因果の証明を待たずに予防措置へという主旨は分かる.しかし,他方で,曖昧なリスク評価では予防方策が恣意的になりかねず,それに伴い巨額な費用が支出され,逆に人々の関心や実効感が薄まる危惧も払拭できない.環境問題が政治的に利用されている懸念がぬぐえず,それが本当の喫緊の社会的課題への対応を遅らせてしまわないか,慎重さも求められる.常に最新の科学的データのもとでの総合的な見直しが必要とされている.

現時点で,多様な調査研究とその知見を俯瞰しながら,個人,地域社会,自治体,企業,政府,政府間の国際関係など,それぞれのレベルでの環境配慮行動や環境問題への対応や態度の特徴を明らかにすることは重要であろう.しかし,あまりに多様な要因が複雑に絡む環境問題研究においては,既存の環境配慮行動の予測モデルはほとんど一般論にとどまらざるを得ないようで,前述の個人から政府間の国際関係までそれぞれのレベルのアクター間において,環境配慮への行動や意識の差違や対応策の実効性まで考慮されているものは,皆無ではなかろうが,あまり見られない.環境意識の形成や環境配慮行動の影響要因に関して,社会心理学や環境社会学などの分野で先行研究が蓄積され,いくつかの理論的な枠組みが構築されてきたが,環境意識のどの要素が環境配慮行動に寄与するのか,環境配慮行動の種類によりその形成メカニズムに違いがあるかなどについて十分には明らかになっていない.また,環境問題調査に関する各国・地域での技術的制約や政治的制約等がある一方で,一般の人々は常時,複雑な政治や経済について明確な意見を持って行動しているわけではない.

本稿では,歴史や文化を含む社会経済的・環境的要因をも考慮しながら,環境配慮に関する人々の行動が実効性をもつようなメカニズムを探索する中で,現在の「環境問題」自体の問題や課題について,ささやかながらも考察を巡らせてみる.特に,常に現実の政策立案と密接に研究を推進していた本学会の元会長の林知己夫による人々の意識の表層と基底の区別や意識調査一般についての知見にも留意し,各環境問題について具体的に実効性のある方策とは如何にあるべきかに思いを巡らせてみよう.本稿は,飽くまでも断片的な「研究ノート」にすぎないかもしれないが,実効性のある政策立案にささやかでも一助となれば幸いである.

2. 研究の背景

日本では,戦後の高度成長時代に九州の水俣病や川崎市の大気汚染の公害問題を発端に,環境問題が大きく取り上げられるようになり,環境庁の創設,国際社会での環境問題解決のための活動も始まった.その初期においては,水,大気,食物などの汚染の問題が,各国で広く見られるようになり,それらの公害問題への取り組みが行われたが,やがて,大気汚染,海洋汚染など地域や国境を越えた地球環境問題へと進展してきた.初期の公害問題は地域問題であり,被害者たちの困難は場合によっては深刻であり今日でも社会的問題としては完全には解決されたとはいえないが,科学技術的に被害を特定し,原因究明することは長年月を必要としながらも最終的には可能であった.

しかしながら,今日の地球レベルでの環境問題とされる「人類の二酸化炭素排出による地球温暖化」など,科学的に証明しがたい部分が残る.地球レベルでの環境を科学的に云々することの困難を指摘し,特に地球温暖化の原因を人為とすることは間違いとするものも少なくない(池田・養老, 2008; 武田, 2009).人為であるとしても,京都議定書のCO2 削減基準を遵守しても温暖化は防げないと試算するものもある(山本, 2008).そもそも,事の発端となったIPCC(気候変動に関する政府間パネル)の調査報告書執筆に携わった経験のある杉山(2014) は,環境影響評価報告書(IPCC AR5 WG2[ワーキンググループ2])とSPM(政策立案者への要約)を検討し,結論として,「地球温暖化によって何らかの重大な悪影響が起こる」という説得力ある説明は見られず,人為的な環境の改変や人間の適応能力の高さを考慮したリスク評価がなされていないとしている.報告では,科学的に地球温暖化が人為によるものと科学的には証明できていないのに,マスコミも政府もいつの間にか,温暖化の悪影響ばかり強調することで進行していることを批判している.そして,各国は,環境省や環境研究所を設立し,多数の研究者と巨額の予算を用い,膨大な研究論文や書籍,一般市民への啓蒙書が生み出されてきた.杉山(2014, pp.97–98) は,WG2 の総括責任者であったRichard Toll は最終段階で脱退し,世界中が「集団思考の罠」に陥っている危惧を指摘している.

地球レベルか否かは別にして,人々が解決しなければならず,また人々の手で解決でき得るはずの環境問題は確かに存在する.そして,人々の環境意識を実際に環境配慮行動に効果的に結びつけるには,それらの関係を具体的に明らかにすることが重要である.しかし,環境意識や環境配慮行動は,人々が環境の質の現状と変化を認知した上で, 各社会の多様な制度や規範,各人固有の価値観や態度などから形成していくものであり,その関係は非常に複雑であることは容易に推察できる(鄭・吉野・村上, 2006).

Dunlap & Jones (2002) は,環境意識(environmental concern)については数百の定義がみられ,Fishbein & Ajzen (1972) も環境に関する人々の態度を測定する操作が500 以上あることを指摘している.したがって,具体的な課題解決には,問題を拡散させすぎず,環境配慮行動についての意識と行動の関係を整理した上で,実効的な対応に結びつくように研究フレームを明確にする必要があろう.

環境配慮行動の形成に関しては,Schwartz (1970, 1977) による規範活性化理論(norm activationtheory)とAjzen (1991) による計画的行動理論(theory of planned behavior)が広く用いられている.規範活性化理論では,人々に利他行動(環境配慮行動を含む)を喚起する主な要因として,「被害の深刻さの認知」と「自らの責任の帰属の認知」を挙げている.これは利他行動を説明するために提案された,おそらく最初の理論で,環境配慮行動の喚起のメカニズムを示すものとしても注目されている.人々は深刻な環境結果・危機を感じ,それに対処できる能力が自分にあるという実効感,さらに利他的環境配慮行動を起こす責任感と行動すべきとの義務感が喚起されて,実際に環境配慮行動が生じるというのである.

一方,Ajzen (1991) の「計画的行動理論」は合理的行為理論(theory of reasoned actions)(Ajzen & Fishbein, 1980) の進化版であり,人々の行動に対する態度と主観的規範に加え,個人の行動に対する統制感も考慮に入れ,行動や行動意図をより正確に予測できるとしている.このように,より有効に行動を予測しようとすることは計画的行動理論の一つの着眼点であろう.Ajzen (1991)自身も,計画的行動理論は外に開いているモデルであり,他の要因も行動や行動意向の予測に有効であれば,追加してもよいとしている.実際,その後の実証研究では,この計画的行動理論の有効性を検討しながら,モデルに様々な予測要因が追加されていったのである.

以上のような環境理論の枠組みは環境意識のどのような要素が現実の環境配慮行動を促すかについて有益な知見を提示したが,他方で予測精度は低く,人々の意識と行動の間に大きなギャップがある問題について,ほとんど未解決のままである.人々の日常生活の中での行動は精緻なモデルにしたがっているものではなく,そのプロセスを厳密に記述しようとすると,無数の要因に直面するであろう.モデルの予測精度向上のみを目的として関連する変数を追加し続ければ,モデルの「過剰定式化」になる危惧は大きく,既存の多様なデータを説明できるが将来予測には全く使えず破綻してしまう危惧に留意が必要である(吉野・千野・山岸, 2007, pp.5–6).

比較的簡明で広範な領域をカヴァーする環境研究の枠組みとして,日本では,広瀬(1994) が「環境にやさしい目標意図」の形成と「環境配慮的行動意図」の形成の二段階があるとし,環境リスクなどの認知は目標意図と関連があるが,行動や行動意図とは必ずしも結びついていないことを示唆している.彼は,人々が環境問題に対して貢献したいという態度に加え,行動のコスト感,社会規範感,実行可能感も,実際の行動に影響を及ぼすと主張した.さらに,環境配慮行動のプロセスを「環境問題の認知」と「環境配慮行動の評価」を区別し,それぞれの規定要因を明確にし,環境配慮行動の抑制要因を検討する必要性を示唆し,態度と行動の不一致について,ある程度の解釈を与えている(4.1 節参照).

これらの理論を基盤とし,鄭・吉野・村上(2006) による一般市民の環境配慮行動モデルでは,環境配慮行動に影響する要因を,「環境意識」,「行動に対する信念」,「知覚的行動制御能力」,「主観的規範・道徳観」,「社会・人口統計にかかわる外的要因」の5 つの類型に総括することを試みている.

社会的行為の類型に関しては,かつてMax Weber(奥井, 2014)は人間の行為をその動機に基づいて,「目的合理的行為」,「価値合理的行為」,「感情的行為」,「伝統的行為」に四分類している.特に,Stern (2000) は環境配慮行動をその行動の形成領域に基づいて,「急進的な環境配慮行動(例.環境デモ)」,「公共領域の環境配慮行動(例.環境請願書署名,環境税の支払い)」,「私的環境配慮行動(例.再利用,エコ商品の購入)」と,「その他の環境配慮行動」の四類型に分類している.

これらのうち,まず,「個人生活領域」と「公共領域」との区別は,当然念頭に置かねばならない.私的領域の環境配慮行動としては,エコ商品購入,再利用,節水,省エネ,公共交通利用及び買物袋持参など,個人の日常生活で実施でき,直接,身近な環境に影響を与える事が想定される.公的領域では,環境保護に関する講演会参加,ボランティア活動,環境保護請願書の署名,環境保護団体への寄付などが考えられ,一度に多くの人々に対して環境保護を推進する意識を高める意義がある.省エネ,再利用などの私的領域の環境配慮行動については「お金を節約する」という促進要因があるのに対し,環境講演会参加,環境保護団体への寄付などの公的領域の環境配慮行動の形成には,コストや手間などの抑制要因がある.これらの環境配慮行動の各々について,さらに各家庭,自治会,市町村や県レベルの地方自治体,中央政府,政府間など,いわば制度上の階層的組織が相互作用し,各個人の環境配慮行動を促進したり,時には阻害したり,正負のフィードバックがかかることもあろう.

ここで留意すべきは,環境配慮行動を促すためには人々の意識が重要であるのは確かであろうが,環境配慮に関する世論調査やアンケート調査に現われる人々の回答は,回答者が意識するか否かに関わらず社会的望ましさ(social desirability)のバイアスも含まれ,実際の環境配慮行動とはギャップがあるため,アンケートの表層のデータだけからの行動予測の精度はあまり高くないことが問題である.人々の意識の解明のためには,アンケートでの回答という「表層」と,自然観や宗教観,死生観をも含む「基底意識」との両面からの考察が必要であろう.これが異文化間,異なる国々の法制度や法意識の差違,同じ国でも世代間,性別の差違などとの関連の明確化へとつながる可能性を指摘しておきたい(3.2 節参照).

他方で,個人の日常生活のレベルから,地方自治体の活動,政府の方針や施策,国家間の交渉のレベルへの「空間的階層構造の枠組み」での考察が,それぞれのレベルでの環境配慮行動に関する意識と行動の関係の解明に必要であろう.これは筆者らが長年国際比較調査で開発してきた「文化多様体解析(CULMAN)」の考え方に連なるものである(吉野・林・山岡, 2010).

以下では, これまでの人々が積み重ねてきた議論を筆者らの視点から整理しながら,持続可能な環境問題での現実的な対処法について模索してみる.

3. 人々の意識の表層と基底

3.1. 自然観や宗教観

地球環境破壊の原因を,宗教的伝統に帰する議論がある.例えば,梅原(1990, 2013) や岡田(2002, 2006) の議論は,日本人の宗教意識や自然観,死生観を深く突き詰めたもので,確かにこの2,3 百年ほどの欧米流の「近代化」に反省を迫り,環境問題を考察し,問題解決のために示唆するものは少なくないように思える.特に,梅原(2013) は,「草木国土悉皆仏性」という縄文文化以来の自然観や生命観が,インドから中国を経由し伝来した仏教を4 世紀ほどの間に,インドや中国とは異なる日本仏教に創り上げ深く根付かせていったと指摘する.これは,国際比較の視点からも興味深く,人々の意識の表層と基底の関係に触れるものである.この問題は,「脳死」と臓器移植に関する人々の意識についての欧米と日本と違いにも関連し,自然観と死生観が深く交絡するところでもある(梅原編, 1992; 峯村・山岡・吉野, 2010).そして, 環境問題についても,単に身の周りのゴミや汚染のみの問題だけではなく,人々の生活や人生,生命の奥深いところとの結びつきに思いを及ばせる.

辻村(2012, 6 節) によると,米国の歴史学者Lynn White, Jr. が1967 年3 月に雑誌Scienceに「人間のエコロジーはわれわれの自然と運命についての深淵,すなわち宗教によって深く条件づけられている」とし,「異教徒のアニミズムを駆逐することによって,キリスト教は自然を搾取する事を可能にした」と述べた事が契機となり,環境危機の歴史的起源がユダヤ・キリスト教的世界観にあるとする議論がなされるようになったとされる(畠中, 2002).しかし,辻村(2012) は,Shrader-Frechette (1991) が環境悪化は貪欲やエゴイズムや短絡的視点が原因で,特定の宗教の責任ではないとし,またチベット仏教のダライ・ラマ14 世も「自然と天然資源の破壊は,無知,貪欲,地上の生物に対する敬意の欠如の結果」と述べ,宗教的伝統に帰することはなかったことを指摘している.

確かに,伝統的な宗教観や自然観のもとで自然を尊重してきたはずの日本が水俣病などの公害問題を引き起こしたことなどを鑑みると,世界が抱えている環境問題を特定の宗教のせいだけにするのは皮相的であり,異なる宗教間の無用な衝突を引き起こしかねず,誤謬であろう.

数理経済学者の宇沢弘文は,後半生において環境問題について理論を展開し社会的活活動家でもあった.1972 年にストックホルムで開催された「国連人間環境会議」に重症の水俣病患者の方々が参加したことを,宇沢はストックホルム環境会議のAgenda を象徴していたとする(宇沢, 1998).その後,そのような地域的公害問題は世界各地に見られるようになり,環境問題は世界的規模で考えられるようになっていった.すべての人々が一致してなさねば効果がない全地球的な環境問題について,宗教の違いを強調していては,困難を招くだけである.

しかし,他方で,地域社会から国家,世界のレベルまでにかかわる環境問題を解決する際に,宗教を含め,各国や各地の人々の基底にある自然観の類似性や相違を全く考慮に入れないのは,効果的で持続可能な方策の実現を遠ざける危惧もあろう.人々の環境意識の基底にある自然観や生命観も,時代や地域によりかなり異なることもあろう.

厳しい自然に対峙し生存競争を繰り広げてきた北欧や砂漠地帯の人々やアメリカ大陸開拓者の自然観と,自然の恵みの中に生きてきた南欧や東南アジアの人々の自然観とは,意識調査データを比較してもかなり異なる(林, 2004; 吉野, 2008).日本では自然の恵みへ感謝する一方で,地震や台風,洪水などの災害に恐怖する.人為ではどうすることもできない自然を畏れ敬う態度が基底にある.その基底意識が政治権力に対する態度にも反映されているという見方もある(山本,1982, 10 章).

青柳(2004) は高齢者問題を考察する中で,異なる文化圏での高齢者への対応もそれぞれの社会の人々の「自然観」と無関係ではないことを指摘している.例えば,アメリカ先住民の一部,野牛狩りなどで武勇を誇る集団で老いは軽侮され,老人は置き去りにされたり,自らそうされることを選択したりしたことを記している.おそらく,厳しい自然に生きる集団ではやむを得ないのであったろう.人々の生産能力が高まるにつれ,そのような慣行は廃れたに違いない.一方,いつもどこかの国を敵にして戦っていなければ気のすまないような集団の人々は,動きの遅い老人を足手まといと思い,老いを価値の低いものとみなす態度が続いているのかもしれない.

日本の戦後は,様々な面でアメリカの影響を強く受けてきた.「あなたは,お若く見えますね」というのが褒め言葉となる価値観は,厳しい自然を生き抜く力を持つ開拓者のたくましさを象徴するものであろう.アメリカ人研究者Cumming & Henry (1961) は,人は高齢になるにつれ人間関係が少しずつ希薄になり,ついには孤独になると考察する.Anderson (1972) は,人は高齢化と共に「脱文化」化していくとする.「老い」をそのように見る価値観を,いつの間にか,日本人も受け入れてきた.しかし,本来の日本は,そして厳しい自然のアラブなども含め,長い歴史のある多くの国々では「老い」を否定的に捉えることはなく,高齢者は尊重すべき価値のあるものであった(吉野, 2008).

3.2. 世論調査におけるパーソナリティと意見の変容—「合理的な人」と「そうでない人」

世論調査や意識調査データを解読するに当たって,林知己夫らによる一種のパーソナリティ研究は表層の世論に対して,人々の基底意識まで入り込んだ解析において深いものがある.

1976 年頃より登場した「お化け調査」というニックネームの研究は,林知己夫を中心に,統計数理研究所の水野欽司,駒沢勉,林文,鈴木達三,所外からは飽戸弘,上笹恒,杉山明子,鈴木裕久,岩男寿美子,丸山久美子,堀洋道らのMDS(多次元尺度法)研究会のメンバーによって始められたものである(林編, 1979a; 林・飽戸, 1976).ニックネームだけからは,一見,戯れたものに思えるかもしれないが,調査技術や心理学的に深遠な配慮がなされた学術研究である.

この調査の背景には,林知己夫の次のような考えがあった.林は,日本の戦後,統計的標本抽出調査に基づく世論調査を日本の実情に沿って創始し発展させてきた.しかしながら,世論調査では人々のタテマエが出てくるので,そのホンネをつかむのに限界を認識していた.勿論,タテマエだからといって無価値なのではない.政治は大義名分というタテマエで動く.世論調査の結果は民主主義政治のための重要な情報であり,その調査結果が戦争の開始や阻止というような重要政策につながることもある.他方で医療や環境,国際関係を含む,複雑な社会問題に対処するためには,人々の心の奥にある生命観,自然観,宗教心,死生観などに触れずには,本当の解決は難しいこともある.

そこで世論調査のように社会的望ましさ(social desirability)が入り込む人々の「意見」ではなく,お化けやUFO,超能力など,超自然的なものなどに対する各人の興味や感情を表す「態度」に着目し,性別や年齢層,学歴,職業などの外的属性を乗り越え,人々のパーソナリティの分類(「合理的な人々」vs「合理的ではない人々」)の区別へと進んだ.その区別は,1990 年代初めにはガン告知の是非の問題など,病気治療におけるそのパーソナリティの影響に関する研究などの医療問題(林, 1996)や,原子力発電所に関する住民の意識調査(林・守川, 1994; 北田, 2019)などへ発展した.(なお,林編[1979b] には「選挙意識の感情構造」に関する解析があり,血液型と政治意識の傾向について報告されている.それは「お化け調査」研究へ結びつく先駆的研究の1 つとして位置づけられるかもしれない.)

上記の一連の林らの一種のパーソナリティ研究の要点は,以下のようになる.

1. 人々は,「合理的な人」「やや合理的な人」「やや合理的ではない人」「合理的ではない人」の4グループ(ほぼ同じ割合)に分けられる.

2.「合理的な人」は自己の意見を強く主張する.他者からの説得(プロパガンダ)に意見を変えない傾向がある.しかし,説得ではなく,自分から突然に意見を変えることがあり,しかもそれまでの主張とは正反対の極端な意見への変容が見られることもある(吉野, 2014).

3. 中間的な「やや合理的な人」「やや合理的ではない人」は,自己の意見を強く主張することは少なく,比較的温和である.しかし,マスコミの事故や事件の報道や他者からの強い説得に流されることも少なくない(プロパガンダに流されかねない)傾向がある.

(ここで,「合理的」とは完ぺきな論理を展開するという意味とは限らず,その人なりの理屈を強く主張するパーソナリティを示している.)

このような視点にたって,例えば林(1996) は,厳密な結論は未完としたものの,「ガン告知」において患者のパーソナティを考慮しない対応が精神的苦痛で患者を苦しめることの危惧を表している.1990 年代半ば頃までは,日本でも,医療,宗教などを含め,広範囲な分野の人々がこの問題について議論していたのだが,議論が収まらないままに,米国流の告知が当然の流れが進んでしまった.その後の著しい治療技術の進歩を見ると「ガン治療」自体については当時とは事情が異なってきているかもしれないが,いつの時代も治療の困難な致命的な病気はあり,同様の問題はあり続けるのであろう.人の心の問題,社会的課題解決に対する科学の力の限界について欧米人と日本人との認識の違い(林, 1993)を無視した政策は決して自然ではなく,これは臓器移植などの医療のみならず,環境問題についても言えることである.

この考察は,医療,政治,経済などに限らず,日常生活を含むあらゆる社会的な場面で,合理的な人とそうではない人の違いを考慮せずに一律のルールを作ろうとすると実効性を失うことにつながりかねないことを警告する.我々も,このような人々の基底意識を常に念頭に,環境に関する意識と行動の問題をとらえていかねばならない.

さらに林知己夫は,(株)原子力安全システム研究所の研究報告書(林文, 1996, pp.2–10)において,上記のような視点から原子力発電を含む環境保護問題について示唆を与えている.(ただし,その研究は,2011 年の福島第一原子力発電所事故の10 数年前のものであることに留意する.晩年の林知己夫から指導を受け原子力発電に関する住民意識調査を遂行してきた北田(2019) にも林の知見が詰まっているので参考になろう.)

特に同報告書の冒頭で述べられた以下のような主旨は,環境問題を含め,社会政策一般にも通じるものがあるので重要に思える,

林は,自然保護・地球環境保護は現代社会における最高の価値基準となっているが,それらが唯一無二のものであるならば,その極限は未開への回帰であり,人類の消滅より他に道はないことを指摘する.そして,「持続性ある開発」のためには,環境の総合的アセスメントが重要であるが,それは実際は極めて困難であることも指摘する.環境アセスメントは,「複雑なものを取り扱う」「総合的に取り扱う」ことを焦点としなければならず, それは科学の最も不得手とし,「不可能である総合評価」を基にした考え方であると明言する.このあたりは,複雑な社会科学現象解明のための「データの科学」(林, 2001)の展開へと通ずる考え方と見られる.

結論として,林は人々ができることは,すべてにわたって程度を越えずに,一次元的最適化の考え方で極端にものを推し進めることなく,程々に事を運び,環境問題に対しては,あまり徹底して極端に走らぬ心構えが重要であるとする.さらに,一面的自然保護運動や視野が狭く偏った抽象的地球環境保護論者やそれに同調するマスコミを批判し,一部の人々の自然観はマスコミ誘導的な考え方に影響されて,自然と開発との関係で問題のある考え方も見られるとする.一方で,一般の人々はまだまだ極端に走ったり偏ったものになったりしてはいないとし,あとは産業界が健全な自然観に基づく産業理念の確立・浸透を図り,それに沿ったマネージメント・研究開発・生産・サーヴィスの実効をあげることが課題であるとした.

4. 環境配慮行動を観る枠組み

4.1. 広瀬(1994) の理論の要点

広瀬(1994) の環境配慮行動の規定因に関する研究は四半世紀前のものではあるが,包括的に実態に目を向けており,その後も多くの研究者が参考にしている.彼は,まず,生活排水やゴミ問題からエネルギーや水資源問題にわたって,環境配慮行動が個人的便益を損なうこともあり,環境問題が公と私の間の社会的ジレンマの構造を持っていることを指摘する.これは,意識調査で人々の回答がホンネとタテマエの混合であることに留意させ,また意識と行動の間の乖離とつながり,例えば調査データの皮相的分析では,問題解決に至らないことを示唆する.

広瀬(1994, 図1) は環境配慮行動とその規定因との連関の一般モデルを次のように表し,エネルギー危機,渇水,ゴミ問題,生活排水問題の事例について, 6 要因(環境問題についての認知の3 要因と環境配慮行動の評価の3 要因)について検討している.

その結果,

1. 環境認知は目標意図となりえても,行動意図の直接の規定因とはなりにくい.

2. 実効可能性,便益・費用,社会的規範についての行動評価は,すべての事例で環境配慮行動の主要な規定因である.

3. 資源枯渇型の事例では,環境認知のうち,責任帰属よりもリスク認知が「環境にやさしく」と.の目標意図との関連が深い.他方,環境汚染型の事例では,責任帰属がリスク認知よりも目標意図との関連が強かった.対処の有効性認知は,2 つのタイプで共通に目標意図との関連が見られた.また,いずれの型でも,環境配慮行動についての3 つの行動評価は,いずれも行動意図や行動の主要な規定因であることが確認された.

図1 環境問題についての認知と評価の枠組み(広瀬, 1994, 図1 参照)

総じて,3.2 節で述べた林知己夫の考察のように,マスコミの描く姿,政治や行政が掲げる姿と対照して,人々は自分の直接の便益と公の利益,理想と実効性とのバランスの中で,日常生活を送っている姿が確認される.

4.2. 増田(2015) の環境倫理学的考察

増田(2015) は自然環境のみならず,人間と人間との関係という社会環境をも視野に入れ,共生や共同性という概念に着目し,現代日本の環境倫理学が自然環境の改変の歴史を地域社会に足場を置いているとしている.そして,人間と人間との関わりは,持続性のある共同性を醸成し,共同性は自然と人間の関わりを維持する責任感を生むとする.

増田は,加藤(1991) の現在生きている人々の合意という同世代内での相互性に基づく民主主義的な決定方式では世代間にまたがるエゴイズム(資源枯渇,自然環境破壊など)を阻止する機能がないとの主張を指摘する.他方で,日本の「恩」と社会的契約との関係を論じる中で,相互的な責任を必要としない社会契約を提唱するShrader-Frechtte (1991) の「世代間の相互性」は可能であるとの主張も紹介している.

しかし,増田は,そこに現実世界での困難さも吐露し,その限界を超えるJonas (1979) の「乳飲み子」の倫理を解説する.Jonas は,相互性は既存のものに限られ,未来への責任に対しては役に立たず,相互的ではない原理的な責任と義務が自発的に承認され,かつ実践されているのは,自身の子どもに対する責任と義務であると説く.眼前に存在する子供に対する責任にこそ未来世代の責任につながる動機があるとする.増田は,人間が歴史的文化的な道程に連なる存在であることを親から子へと教え,「責任とは永遠ではなく,循環するもの」と捉える.その過程で倫理は再生産され,持続性へとつながることを期待している.

一個人が永遠を俯瞰するのは困難でも,各人が自分の親と自分自身の時代,自分から自分の子の時代へとつないでいくこと,各時代に応じて無理なく緩やかに連綿と継続していく姿を想像することは,それほど難しくはない.この「地域社会」,「現在と子の世代へのリンク」という空間と時間を限定しながらも,その中での現実的な対応が地域から国へ,国から世界への階層構造として着実に拡大されていく方略を示唆するように思える.これも前述の林知己夫の考えのように,人々が自然に実行できる考え方につながっているようである.

4.3. 地球温暖化—時間・空間の大規模スケールでの予測の困難さ

前述の4.1 と4.2 は,地域社会での環境問題への対応としては,示唆に富むものである.しかし,地域をはるかに越えた地球レベルの問題にも同様の考えは敷衍できるのか.

金子(2016) は,先述した宇沢弘文が展開した社会的共通資本(social overhead capital)論と地球温暖化問題について深い考察を展開し,皮相的な環境保護運動に対して鋭い批判を投げかけている.さらに,宇沢の理論を紹介する栁沼(2014) の現代科学の知の切り離し,「実践的な世界とつながった知の重要性」についても批判している.例えば,社会共通資本の筆頭である道路建設は,実際には化石燃料の大量消費物であり,膨大な二酸化炭素排出を前提としているが,この事態への配慮が全く欠如していて,限定された視野の中の善意が,それを超えた広い範囲から見ると負につながっている愚かさを指摘しているのである.東日本大震災の復旧・復興はまさしく道路,港湾,堤防,電力施設,鉄道,上下水道などの建設が最優先され,その過程で膨大な二酸化炭素が排出されるが,これに対して,地球温暖化論者からの整合的な回答は見られないようである.

また,金子は,宇沢が地球温暖化について農業や農村の姿を理想としているが,農業が化石燃料とは無縁であるという誤った認識で,今日の水田耕作,果樹栽培,酪農,温室栽培などあらゆる過程で化石燃料を使わない生産活動はないと指摘している.これは,3.1 節冒頭でふれた自然観の抽象的な歴史的議論へも反省を促すものがある.また,ジェット旅客機1 機が1 分間に600 キロ,100 分で60 トンもの二酸化炭素を排出し,世界ではそれが毎日30 万便もあるのに,温暖化の主要因から外してきたIPCC や関連省庁,学会へも批判の矛先を向けている.

そもそも,地球全体で確実に一方的に温暖化しているのか,不明である.Abraham Lincoln は,1790 年から1860 年までのセンサスデータを用いて,各10 年間の平均人口増加率が安定して34%前後であることを確認し,統計的外挿法で,1930 年にはアメリカの人口は2 億5 千1 百万人強となることを予測した(Smith, 2016, p.234).今,我々は1930 年のアメリカの人口がその半分以下の1 億2 千3 百万人ほどであったことを知っている.歴史を数百年から数千年,数万年のオーダーで見ることも少なくはない日本人,アジアや欧州の人々は温暖化と寒冷化が繰り返されてきたきたことを知っている.国家の歴史が短い人々が落ち入りがちな直線的外挿法とは異なり,循環する長期的変動の可能性を冷静に見る認知的枠組みがある.勿論,自然の長期変動とは別に急激に温暖化している危惧はゼロではないかもしれないが,その原因が人為によるのか科学的根拠は不透明であり(国立環境研究所, 2017),また人為によるとしてもそれに対処する人為的行為が実効性をもつのか,人々の実効感が決定的に欠如してしまっていては,人々は動かない(3.2 節,4.1 節参照).

このあたりは,人々の日常生活の中での意識データが,むしろ,冷静に取るべき態度を示しているように思える.先述のように2019 年G20 で,地球温暖化問題はとくに進展が見られなかったのは,人々が意識しようとしまいとも,ホンネが現われたとみるのは穿った見方であろうか.

5 まとめに代えて

環境問題に関連して,林(2000) は長期継続調査である「日本人の国民性調査」のデータ解析から,日本人は「自然」の意味を誤解しており,人々が「日本的な美しい自然」と思う森や林や庭園の景観には実は人の手が入っており,完全な自然のままでは人は生きていけないことを指摘する.また,CO2 よりもメタンの方が温暖化に影響が強いといわれるが,メタンの主な発生源である沼地をつぶそうとすると,環境保護の名の下で反対する人々がいる.林は,さらに,前節で述べた金子(2016) と同様に,農業は環境を破壊することに注意を向け,無農薬栽培でも貯蔵には虫除け農薬を使い,砂漠緑化で毒蛇や害虫の退治に農薬散布しているという.ボランティア活動の視野が狭量で,文化財保護と自然保護が矛盾することがある.例えば,アンコールワットを保存するためには木の伐採が避けられない.珍獣を守るため自然を破壊することもある.そのように考えると,人々の視野を際限なく拡大した場合に,例えばリサイクルの是非の総合評価など,限りなく困難であると結論づける.

林知己夫や統計数理研究所員は,昭和40 年代の公害問題が世間を盛んに騒がせた時代に,NOXなどの大気汚染のサンプリング調査で,科学的操作で信頼性の高い測定値を得ることの困難を身を以て知った.統計的無作為標本抽出法で,例えばある公園が地点抽出されたとしても,公園の中央か道路沿いか,測定器の高度,風向き,天気等々によって測定値は大きく変わり,その地点の測定値とは何か,延いては測定対象地域全体の「平均値」とは何か,大きな問題であることを認識していた(林知己夫,私信,1990 年代の林のもとでの勉強会「木曜会」での説明).3.11 以降,東北地方の放射線量測定でも同様に,同じ畑地でも30 cm 離れたり,同じ場所を10 cm 掘ったりしただけで,測定値が大きく変わることが統計数理研究所員によって報告されている(柏木, 2014).「地球温暖化」について,過去の気候変化の要因については,十分ではないサンプル数,予測のために採用するモデルによる結果の大きな差違,測定方法の差違の調整など,統計量について「少なからぬ不確実性」があることが認識されている(国立環境研究所, 2017).

海洋プラスチックゴミについては,日本の環境省は東南アジアに測定技術の供与の方針を明らかにしている(読売新聞, 2019).しかし,政府間交渉の近年の国際政治の場では,本当に環境問題を科学的に把握して議論してるというより,国際政治での協力や牽制という交渉の一環として利用しているのが現実のように見える.それは,2019 年12 月の国連のCOP25 で小泉環境相が脱石炭化を明言できず,「化石賞」を授与されるという批判を受けたことも,政府のホンネを露呈しているかのようである.企業も,ファーストフード店やコーヒーショップなど,プラススチックゴミ減量活動を進めているが,宣伝効果はあろうが,環境面での実効性は正確には計量しがたい.

政府も企業も,自らに負の要因がない限りは環境問題解決の推進を謳うが,自らの枠を超えた統制は関心の外のようである.これは,一般の人々も同様で,日々の生活を大きく超えて,本当に正確に評価できる能力も余裕もないのが普通である.アンケートで尋ねられれば,「環境は大切だ」と回答するが,そのために積極的に自分だけが大きな負担をする意思があるものは必ずしも多くはない(鄭, 2018).

結局は,先述の林知己夫(林文, 1996)が喝破していたように,環境総合的アセスメントは極めて困難な問題であることを認識し,すべてにわたって程度を越えずに,あまり徹底して極端に走らぬ心構えを持ち,程々に事を運ぶことが妥当なのであろう.そして,比較的に単純だが適度に複雑な相互関係の枠組みに基づく総合的アセスメントが可能なレベルまでに,破壊のレベルを抑えるように努力することが妥当なのであろう.

本稿は,著者らの観点から環境問題について思いを巡らせてみたノートにしか過ぎない.社会的課題に向き合う他者の先行研究を批判するのは容易だが,自ら具体的に大きな困難を伴わずに実践可能な解決策を呈するのは容易ではない.今後,実証的な証拠や人々の意識調査データを信頼性のある方法で収集し,包括的なデータ解析の研究へと展開させていかねばならない.

謝 辞

本稿の完成までに,大津副編集長(担当委員)と宿久副委員長,及び匿名の査読者の2 名の方々に細部にわたり貴重なコメントをいただきました.深く感謝申し上げます.なお,本稿の内容は,共著者各々が研究を進めていく萌芽的な段階のものであり,環境問題についての「主張」については現段階で必ずしも共著者全員が一致していると言うわけではなく,第一著者の意見が強く出ている部分が多くあります.それらの部分も,今後の各研究の進展で大きく変わることもあり得る事を御了解ください.また,本研究はROIS-DS 共同研究(課題番号002RP2020)の成果の一部である.

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© 2020 Japanese Classification Society
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