2024 Volume 64 Issue 4 Pages 224-225
最初に,生物物理学会の会員ではない私に執筆の機会をくださったことに感謝申し上げます.現在,私はマサチューセッツ州ボストン郊外に位置するブランダイス大学物理学科のセス・フレイデン(Seth Fraden)先生の研究室,及びカリフォルニア大学サンタバーバラ校物理学科のズヴォニミル・ドジック(Zvonimir Dogic)先生のご指導の下で博士研究員としてピペットを握っては顕微鏡を覗き込んでいます.まだ駆け出しのポスドク二年生によるつたない文章ではありますけれども,この記事を読んで何か発見があったり,面白いと思っていただけたりしたら,とても嬉しく思います.
私の研究の興味は,もともと生物物理とは少し異なる液晶にありました.学生時代には,早稲田大学の多辺由佳先生の研究室で液晶の物理を研究し,学位を取得しました.液晶とは言っても液晶ディスプレイといった役に立つ応用に興味があったわけではなく,中間相としての液晶に特有の流動性,異方性,大きな外場応答を活かした基礎研究を行っていました.具体的には,鏡映対称性の破れたカイラル液晶において,流れと力学の交差相関が生じ,液晶にトルクが生じる「レーマン効果」という現象を研究していました.これは,カイラルな形状をした風車が風という流れの下で回転する現象と類似していますが,液晶に生じるトルクは分子(あるいは分子の向きを局所的に平均した配向ベクトル)というミクロなスケールで発生し,非自明な非平衡ダイナミクスとして興味深い現象です.学位取得直前から直後にかけては,東京工業大学の石川謙先生の研究室にお邪魔し,層状構造を持つスメクチック相における電場応答を観察していました.これは,強誘電ネマチック相をとる化合物において,強誘電ネマチック相と常誘電ネマチック相の間に現れる特殊なスメクチック相で,静的な構造や動的な電場応答が全く予想できない面白さがありました.
日本では液晶の研究に集中していましたが,博士研究員として何か新しいことに挑戦したいという考えを持っていました.新しい分野として,ソフトマターつながりで生物物理に興味を持ちました.タンパク質やアミノ酸が何かすら良く分かっていなかった私にとって,生物物理は完全に新しい分野でしたが,液晶研究で培ったソフトマター物理の知識・技術は生物物理にも通じるところがありました.そこで,かねてより研究内容に興味があったフレイデン先生,ドジック先生のグループに連絡を取り,参加させていただくことになりました.
現在の研究内容としては,生物物理というよりは生体由来材料を用いた物理・工学という方が適切な気がします.微小管とその上を歩くキネシンによって油と水の界面に形成される二次元のアクティブネマチックを研究しています.微小管が持つ局所的な配向秩序と,配向の定義されない特異点であるトポロジカル欠陥の発現といった特徴が従来のネマチック相と類似していますが,系内にエネルギー源があり,カオスなアクティブ乱流が生じます.私の系では光応答性のキネシンを用いており,照射する光強度に応じてアクティブネマチックの運動性が変化します.これを利用して,アクティブネマチックのカオスな乱流を制御することが目標です.最近,シンプルなPID制御を用いて,流動の平均の速さをリアルタイムに制御することに成功しました.平均の速さは制御するパラメーターとしては最もシンプルなものですが,アクティブマターのリアルタイム制御はグループで実現できていなかった目標の一つであり,最初の一歩に貢献することができたかなと思っています.これからは,流動場の制御や,配向場,欠陥のような静的な構造のリアルタイムな時空間制御まで実現することが目標です.
ブランダイス大学はアメリカ・マサチューセッツ州ウォルサムにあります.ウォルサムはボストン都市圏の一部であり,ボストン,ケンブリッジ,サマヴィルといった沿岸部の中心地から車でも電車でも30分から1時間程度の距離に位置しています.この地域には,ハーバード大学,マサチューセッツ工科大学,タフツ大学,マサチューセッツ大学,ボストン大学,ボストンカレッジといった多くの研究大学が密集しており,学術的活動が活発に行われています.ブランダイス大学は総学生数6,000人未満と小規模ながら,この学術激戦区の中でも確かな存在感を示しています.私の所属する物理学科における研究は,高エネルギーとソフトマターのみが行われています.かつては幅広い研究が行われていましたが,大規模な大学に引けを取らない質の高い研究を行うため,分野を絞って研究室間の協力を強化する方針を取っているようです.
ブランダイス大学では,Materials Research Science and Engineering Centers(MRSEC)のプロジェクトが進行中で,物理学科,化学科,生物学科,生物化学科,計算科学科の人々が共同で研究を行っています.UCSB,マサチューセッツ大学等の学外の研究室とも共同研究が行われており,全体としてとても大きなグループを形成しています.ブランダイスの物理学棟がその中心で,建物自体が一つの大きな研究室のように風通しの良い環境で仕事ができます.私を含む物理系の実験家と解析・計算を行う理論家が多数を占めていますが,物理学科でありながら生物化学や工学の専門家も所属しており,タンパク質の精製やマイクロ流路の作製も同じ建物で行っています.したがって,材料の精製から実験系の設計,観察,そして解析まで同じ建物の中で一貫して行い,研究のすべての過程に関わることができます.このように,各分野の専門家がすぐ近くにいて気軽に議論できる環境は,専門外の知識や技術を身に付けるのに非常に有益です.
フレイデン先生やドジック先生をはじめとする先生方は,非常に優れた能力を持つだけでなく,親しみやすく素晴らしい人柄の方々ばかりです.そのおかげで研究を楽しみながら多くのことを学ぶことができています.また,同世代のポスドク仲間も多く,研究に関する議論だけでなく,日常の雑談もたくさん交わして楽しい時間を過ごしています.競争はありますが,周りの人々の温かさに支えられて,ポジティブな環境で切磋琢磨できています.
ボストン郊外(主に大学のあるウォルサムと居住しているコンコード)での生活を語る上で特筆すべき点は,治安の良さであると個人的に思っています.私自身今までに特に怖いと感じるような経験は一度もありません.日本にいるときとほとんど変わらない感覚で生活ができています.また,陽が沈んだ後に(時には日付が変わった後に)実験を終えた女性が一人で歩いて帰っても大丈夫なくらい安全です.公共交通機関も充実しており,電車とバスを利用すれば車がなくても生活が可能です.電車やバスはお酒を飲むときくらいしか利用しないのですが,車内の治安はとても良いと感じます.
物価が非常に高いというイメージを持つ方が多いと思いますが,実際に高いのは家賃と人件費だと感じています.アメリカの中でも特にボストン周辺の住宅事情は最悪で,家賃は非常に高く,空き家も少ないので,良い住まいを見つけるのは至難の業です.また,人件費も高いので,ちょっとした外食でも高くつきます.一方で,スーパーで手に入る食材はそこまで高いわけではなく,ものによっては日本よりも安く手に入るので,自炊に徹すれば金銭的にはかなり余裕が持てるはずです.
総じて,ボストン都市圏はアメリカの中でも治安が良く,住宅事情さえ目をつぶれば過ごしやすい場所だと思います.
Brandeis MRSECのウインタースクールにて(2024年2月Chittenden, Vermont)
頼りない学生だった私の面倒をよく見てくださり,現在でも支えてくださる多辺先生,石川先生,坊野慎治博士,そして生物物理を全く知らない私を快く受け入れ,辛抱強く指導してくださるフレイデン先生,ドジック先生,ジョン・ベレズニー(John P. Berezney)博士にお礼申し上げます.その他にもお世話になっているすべての皆様と実験で使用しているものたちに感謝いたします.また,執筆の機会をくださった生物物理学会の先生方,編集の皆様にもお礼申し上げます.