2024 Volume 64 Issue 5 Pages 270-271
このエッセイは6月にドイツで開かれた学会帰りの飛行機の中で書いています.キャリアデザインという壮大なテーマのお題をいただきしばらく筆を取れずにいましたが,久しぶりの知人との再会でリフレッシュした頭に様々な思い出がよぎり,それに任せて徒然と書いています.少しでも若い人たちの参考になれば幸いです.
私は静岡県の三島市にある国立遺伝学研究所という所でPIをしています.研究室を立ち上げてから今年で10年の節目に当たり,サプライズのお祝いを密かに期待しているところです.微小管やラミンなど細胞骨格をテーマに,生物物理の知識と技術を使って胚発生における核や紡錘体のダイナミクスを研究しています.自分の研究室を持って自らの研究の世界を広げていきたいと学生の頃から漠然と心に抱いてはいましたが,キャリアを“デザイン”して今に至るというよりはむしろ周りの人たちに助けられながら“ドリフト”して辿り着いた場所のように思います.
振り返ると私は少々哲学的な高校生で,思春期の至りかこの世界の成り立ちや人間の存在について考えを巡らせていました.それにつられて大学は物理学科に進学し,力学,電磁気学,固体力学など聞いただけで引かれてしまいそうなハードコアな物理を一通り学びました.学年が上がるにつれて憧れの相対論の授業を学ぶ機会がやってきましたが,黒板に書かれた数式の羅列が全く頭にイメージできず打ちひしがれたことを今でも鮮明に覚えています.よっぽど悲壮な顔をしていたのか,キャンパスのベンチに座っていたとき通りすがりの知らない先生に「大丈夫か」と声を掛けられたことを覚えています.挫折感を抱えながら図書館で何気なく本を漁っていると,生物物理のことが書かれた一冊の本に出会いました.これは難波啓一先生が書かれた本だったと記憶していますが,まるで人間がデザインした機械のような鞭毛モーターの美しい電顕写真を見て衝撃を受けました.生物が機械のようなしかけで動いているとは当時考えたこともなく,それから生物物理の世界観にどっぷりとハマってしまいました.
幸運なことに私が所属していた物理学科には生物物理を専門にしている研究室があり,4年生の初めに門を叩きました.それは石渡信一先生の研究室で,分子モーターや筋収縮について手解きを受けました.中でも私が魅力を感じてしまったのが骨格筋や心筋が示すSPOC(スポック)と呼ばれる自励振動現象です.筋肉を顕微鏡で覗くとサルコメアと呼ばれる周期構造が見えますが,ある溶液に浸すとそれが非常に綺麗に振動し,さらに振動の波が次々と隣に伝搬するのです.体の中から取り出して膜も除いた“死んだ”サンプルが生きているかのように動き出す様は感動的でした.それからしばらくの間,当時大変な賑わいだった一分子モーター研究で華咲く同僚たちを傍に,誰も見向きもしない地味なSPOC研究に打ち込むことになります.放任(放置?)主義で有名な石渡先生の元でほとんど手つかずのテーマに取り組むのは苦労もありましたが,その反面自由度は究極的に高く,色々と考えを馳せながら自己流で研究を進められた経験は今でも自分の流儀になっているように思います.
結局学位を取るまで普通より2年も多く掛かってしまいましたが,ある日ついに“Aha”モーメントが訪れて自分の中でSPOCのしくみが納得できてしまいました.達成感と同時に少なからずの虚無感を感じていたちょうどその頃,石渡先生が共同研究を始めたロックフェラー大学のTarun Kapoor教授と知り合う機会がありました.私はSPOCの研究でガラスを細く引いて作った探針を使っていましたが,Kapoor教授はそれを彼の細胞分裂研究に使いたいと言うのです.一分子の最先端技術が次々と生まれる中で自分の超オールドスクールのガラス針が役立つかもしれないというニュースは救いでした.その後ニューヨークに1ヶ月ほど滞在して自分の技術が実際に使えることが分かり,Kapoor教授に誘われてポスドクとして渡米することになります.
アメリカには全部で6年ほど居ましたが,初めの一年はとにかく死ぬほど大変でした.日常会話は日本で習ったより2倍も速いスピードで行われ,ニューヨークのアグレッシブで自己主張しないと埋没して消えてしまいそうな雰囲気とロックフェラーに世界中から集まる超優秀な学生やポスドクに囲まれて,人間としての小ささをこれでもかというほど痛感しました.ロックフェラーに集まった人たちは皆知的かつ野心的でサイエンスに直向きでしたが,同時にオープンマインデッドで知識に対しても寛大で,日本にいた頃とは異次元の感覚でした.それから英語も文化も学問も必死に勉強し,2年目くらいからようやく対等にコミュニケーションできるようになりました.アメリカはよく実力主義だと言われますが,ロックフェラーもまさにそれを体現しており,成果が芳しくないと明日にでもクビになることはザラでした.一方で研究に打ち込める環境はものすごく整えられていて,3年目にはなんとか論文も出すことができました.そしてなんと学生時代の憧れだった一分子顕微鏡も作らせて貰い,それを使った研究もまとめることができました.大変インテンスな6年間でしたが,境地から這い上がったときの人間の成長にはすさまじいものがあると我ながらに思います.
ポスドクも中盤に差し掛かった頃,ロックフェラーで出会った前多裕介君の勧めで応募した上田泰己総括のさきがけに採択して貰ったり日本の学会に呼んで貰ったりと,日本とのつながりが少しずつ増えていきました.前多君は今ではずいぶん出世されて京大の教授をされていますが,当時から私にとても親切にしてくれて,今でも共著で論文を書く仲です.彼の伝手で遺伝研の木村暁さんにテニュアトラック公募の情報をいただき,折角教えて貰ったからと応募をしてみたところ幸運にも採用していただくことができました.アメリカでもジョブハントを進めていましたが,一番初めにいただいた遺伝研のオファーに縁を感じて日本に戻って研究することに決めました.
日本で生まれ育った私にとって帰国は簡単なものと思っていましたが,中途半端にアメリカのカルチャーに浸ってしまったためか再適応に至る過程はなかなか興味深いものでした.今ではこの環境にもすっかり慣れ,研究室も軌道に乗り始めています.私のルーツであるガラス針を使った実験を相変わらず続けながらも,それを応用した新しい研究の芽も出つつあります.新しい研究の多くがガラス針の技術を使いたいと外の人が持ちかけてくれて始まったもので,自分だけの得意技を地道に丹念に磨き上げることの大切さを実感しています.そして節目節目で助けてくれた周りの人たちを本当に有り難く思います.
サイエンスを職業にする上で一つ心がけていたことがあるとすれば,与えて貰った仕事に人生を捧げ,自分にしかできないやり方でこれでもかというレベルにまで質を高めようとしてきたことでしょうか.そうすることで同じ価値観を持つ人たちが自然と周りに集まり,この仕事がライフスタイルになった気がします.ある有名なスポーツ選手が「全力でやるのは前提,そこから何ができるか」と言っていたのを思い出します.若い頃は迷いも多いですが,自分を信じて目の前のことに全力で取り組めばおのずと道は開けてくると信じています.
最後に,私のキャリアで出会った先達と仲間たち,そしてこの身勝手なドリフトを支えてくれた家族に心より感謝いたします.
(記2024年6月10日)
島本勇太(しまもと ゆうた)
国立遺伝学研究所准教授