2024 Volume 64 Issue 5 Pages 279-280
初めてのポスドクとしてフランスの地に降り立ったのが2008年4月のこと,それから早16年をフランスで過ごしたことになります.日仏間での研究スタイルや文化の違いを日々感じながら,3つのポスドクを経験し,2017年からフランス国立科学研究センター(CNRS)の研究員,すなわち終身雇用の公務員として研究に従事しています.フランスと一口に言っても,私の勤務先は結果的に,全てパリの5区内.ここには,多数の研究機関やソルボンヌ大学などが集まり,読者の中にも,訪れる機会のある方も多いのではないでしょうか.
現在の勤務先は,パンテオンにほど近いパリ高等師範学校(Ecole Normale Supérieure),通称ENSの化学科で,Damien Baigl教授率いる,出身国9か国,総勢15人ほどのチームに,4人のパーマネントメンバーの1人として所属しています.チーム名「SOFT」の名の通り,ソフトマターの視点から,無生物(コロイド,DNA折り紙,人工細胞モデルなど),および生物(脳オルガノイドなど)の系に見られる自己組織化を対象に,幅広く研究を行っています.フランス革命の際に建てられたENSは,入学試験が課せられる「グランゼコール」の中でも最難関とされていて,エリート中のエリートの意味を込めて「クレーム・ド・ラ・クレーム」,クリームの中でも一番美味しいところ,と呼ばれたりします.化学・生物学・医学で偉大な業績を残したルイ・パスツールはENSの化学科出身で,会議室には彼が残したサンプルをはじめ貴重な試料が飾られており,学科内で随一かつ唯一の観光スポットとなっています.化学科,物理学科,地球科学科の入る私たちの建物とは少し離れた,哲学科や数学科,学生寮などの入るメイン・キャンパスは,建物自体が非常に美しく,中庭には金魚の泳ぐ噴水付きの小さな池とバラ園があしらわれ,一見の価値があります.ENSもそうですが,フランスの研究機関はもともと小規模精鋭が多く,そのため,国際的なランキングでは不利となっていました.フランスは誇り高く国際ランキングなど気にしないでほしい,という周囲の期待をよそに,近年大規模な大学編成が行われ,ENSも,ご近所の研究機関ESPCIやキュリー研究所などと共に,PSL(Paris Sciences et Lettres)大学という新しく創設された大学に組み込まれ,名称もENS-PSLとなりました.
フランスの博士課程は3年が標準で,予算が許せば4年間に亘ることも珍しくありません.家賃の高いパリで暮らすと余裕はありませんが,まずまずの給料が支払われ,国際的に見ても抜群の社会保障制度の恩恵を受けることができます.指導教官の責任が大きく,指導できる学生の人数も限られているため,手取り足取り指導してもらえる印象です.博士論文の審査会には友人,家族も招いて,終われば盛大なパーティーをその場で開くのが恒例です.研究内容だけでなく,他のメンバーとのコミュニケーションや,プレゼンテーション力が重要視されるため,そういった面での訓練も積むことができます.博士課程と1つ目のポスドクが上手く運んだなら,すぐにパーマネントのポストを狙いにいくのが,フランスでは最善手です.逆に,長くポスドクをすればするほど,ポストに就くのは難しくなり,若い方が有利というこの傾向は,近年顕著になっているように感じます.アカデミアに残り独自の研究をしていくと決めた場合,ここから大きく分けて2つの道に分かれます.1つ目は,大学に所属して准教授になる道.そしてもう1つは,筆者のように,国立の研究機構に公務員として勤務する道.後者は,授業を受け持つ必要がなく,研究だけしていれば良いというポストで,自分が行きたい研究室を選び,フランス全土から集まる審査員たちを前にしたコンクールを経て,ポストを得ます.博士課程とポスドクを異なる国で経験すること,そして,その都度良い論文を出版するというのが,条件として挙げられます.一方で前者は,研究をする傍ら大学での授業と事務作業なども受け持つことになるため,教育者としての熱意がある人でなければ務まらず,教授に昇進するまでに現状平均15年かかると言われています.いずれにしても,ポスドク後テニュアなしにパーマネントのポストが得られるというのは,近隣諸国を見渡してみても珍しいため,給与は相対的に良いとは言えませんが,色々な国からの研究者が応募します.パーマネントのポストを得たら,次は研究資金.EUからの大きな予算を得られれば良いですが,そうも簡単にはいかず,国からの小規模な予算獲得に奔走します.フランスでは教育費は無料,むしろ大学が学生に給料を支払う側であるのもあり,学科内で分け合える研究予算は非常に限られています.そのため,研究費は個々の研究者が国などに申請して獲得しますが,申請書,報告書を書くために膨大な時間が割かれ,こと細かな評価にさらされ,研究者同士も競争を強いられるという,自由な発想ができにくい環境になってきており,これを改善したいという声が多く聞かれます.申請者の強みと弱みを述べよ,という申請書の欄に,弱みは予算がなかなか獲得できないこと,強みは予算が獲得できなくても落ち込まない耐性を培ったこと,と書いた研究者がいたとかいなかったとか.つらい場面も皮肉で乗り越える,フランス人らしいですね.
ENSの庭で誕生日パーティーの後,チームメンバーと.左から6人目が筆者,7人目がチームリーダーのダミアン.
研究に関連して,フランスが近年力を注いでいると思われるキーワードを3つ挙げてみました.男女平等に関しては一歩も二歩も先をいくフランスですが,科学研究に従事する女性の数は,男性に比べてまだ少ないのが現状です.これを打破すべく,近年,トップダウン式の措置が取られるようになってきました.研究員の採用や研究費の申請にあたって,男女比に関する指摘や指導があったり,博士論文の審査員に必ず女性研究者を含めるという規定も設けられました.フランス最大の研究機構であるCNRSは,過去五年間で採用者の女性比を大幅に上げたことで,今年,欧州委員会からメダルを授与されたそうです.次に,スタートアップ.フランスの産業界を盛り上げるため,研究者が特許出願を行ったり,スタートアップを立ち上げることが盛んに推奨され,研究予算の配分にも目に見えて影響が出てきています.スタートアップに研究資金がつぎ込まれる一方で,基礎研究がますます厳しくなるため,これが吉と出るかは時が来ないと分かりません.そして3つ目はサステナビリティ.ここ数年,夏は熱波に襲われる回数が増え,頻繁に豪雨に見舞われるなど,フランスでも気候変動を身近に感じることが多くなってきました.これを重く見た一部の研究者らが立ち上がり,Labos 1point5という誰でも加入できる研究者グループを創立し,情報交換の場を設けただけでなく,研究活動によって排出される温室効果ガスを見積もるツールを無償で提供しはじめました.このツールはフランス国内外で使われるようになってきており,各研究室が,温室効果ガスの排出量を毎年確実に減らすために,実際の数値を基に努力することが可能になりました.
私が現在住んでいるのは12区で,パリの中でも気さくな住民が多く,アットホームな雰囲気の個人商店やレストランがたくさんある地域です.ここから毎日,セーヌ川を渡って自転車通勤をしています.2024年7月現在,オリンピック開催が目前に迫るパリですが,その準備よりも目につくのが,日々新設される自転車レーンと道端の緑草地帯.これらは車道を大幅に削って設けられており,力業で車を減らし,CO2削減と生物多様性復元に同時に一役買おうというパリの政策のようです.パリは景観が美しく,通勤途中にも楽しみたいのですが,自転車同士の小競り合いが日常茶飯事で,今のところあまり気が抜けません.食べ物は美味しく,国籍もとりどりで,有機食品やベジタリアンメニューも充実しています.動物と環境への配慮から,特に若い世代でベジタリアンが増えていて,私も見習っています.息抜きには,近郊の森を散策したり,美術館やコンサートに気軽に行けるのもパリならでは.ENSでも月に1度,昼休みにミニコンサートが開かれていて,準備を手伝う傍ら時々出演したりもしています.研究生活を送る中での雑感を綴ってみましたが,少しでもこちらの雰囲気が伝われば幸いです.パリは特に国際色が豊かで,様々な国籍の研究者や学生と交流を持つことができ,研究面だけでなく文化的な面でも刺激を受けることが多いので,機会があれば,ぜひ一度訪れてみてほしいと思います.