2024 Volume 23 Issue 1 Pages 45-56
生の教育学
―文化に焦点を当てた実存主義教育哲学の提唱―
杉本 泰聖(Alum, University of Miami)
1.本研究の目的
本研究は、文化に着目した実存主義教育哲学「生の教育学」を提唱し、家族、言語、宗教など生の文化的土台から根こぎにされた子どもは、いかにして自己存在にまつわる葛藤や苦痛を乗り越え、安定した自己概念や共同体的な主体性を獲得し、自らの人生を切り開いていくことができるか、という難題に答えようとするものである1。
今日もどこかの地域で国際紛争が起こされ、どこかの国で民族人種的差別が行われ、どこかの家で暴力が引き起こされている。土地を追われ、家を追われ、心のよりどころを失った子どもは、苦しみの中に生きており、深刻なケースでは自死や非行に至ることもある(Fanon 1968)。このような状況に子どもとともに向き合い、子どもが生の針路を自ら選び取っていくことができるよう励ますのは、教師の務めである(bell hooks 1994)。
文化的な限界状況を打ち破る教育哲学を確立するためには、確固たる理論的土台が必要である。そこで本研究では、まず第2章において、ジョン・デューイに代表される機能主義教育哲学の概要と問題点とを明らかにする。次いで第3章では、フランスの精神科医、教育学者であるアンリ・ワロンの関係論的児童発達理論を批判的に摂取し、精神科医森田正馬の「あるがまま」の理論を組み入れ、そこに私の教育経験を加味し、人間主義的な教育哲学「生の教育学」を提起する。そして第4章では、本研究の意義と課題とを示し、生の教育学のさらなる発展を促す。
2.近代教育の本質―機能主義
2-1.デューイの機能主義教育哲学
近代教育を貫く思想の主流は、機能主義である。機能主義は、20世紀前半に教育界に圧倒的な影響を及ぼし、現代もその影響は色濃く残っている。その代表的論者が、ジョン・デューイである。本章ではデューイの思想を概観するとともに、課題も示すことにする。
デューイは現代においても世界的に大きな影響力のある教育者である。なお、米国ではパウロ・フレイレがデューイに比肩するが、日本ではフレイレはあまり人口に膾炙していない点は興味深い2。デューイは、経験主義教育、個々の生徒の興味に基づく学習、少人数学級、民主主義教育といった革新性がその思想の核をなしているとしばしば見なされてきたが、本研究では別の見解を提示する。
デューイは、20世紀初頭の米国社会の産業発展を目の当たりにし、それに対応し加速させるような理論・実践方法を編み出した。デューイにとって、究極の目標はアメリカ社会の産業化である。この点を押さえておけば、教育の主要な目標は忍耐強い勤労者のモラルを内面化することだとデューイが断じた真意が分かるだろう(Dewey 1916)3。つまるところ、デューイにとり教育の究極目的は自制である(Dewey 1938)。
デューイの主著『民主主義と教育』は、エミール・デュルケムの『社会分業論』(1933)を、社会秩序生成から産業化へと議論の力点を移し、教育思想に落とし込んだ書物だといえる(Sadovnik and Semel 1998)。デューイの思想は、デュルケムのそれをアメリカナイズしたものである。たとえば、デュルケムが資本家と労働者との賃金とは同一であるべきなどと、現代から見てもかなり大胆な議論を展開したのに対し、デューイはそのような経済的是正を、労働者階級を怠惰に導く害悪だとして退けている。
2-2.機能主義教育哲学の問題点
前節におけるデューイ理論の解釈に対して、経済発展を肯定する思想を強く否定する理由はないのではないか、という反論が予想される。本節では、この反論に簡単に答えたい。
「民主主義」など、一般に善きものと見なされている概念を指示するいくつかの語が、現代の言語における核を成している。民主主義以外では、発展、包摂、多様性などがその代表例である(e.g., Kymlicka 1995)。しかし、民主主義の起源をたどれば、アテネの民主制に行き着き、この制度は、大多数の見えざる者―すなわち奴隷階級―を経済社会的土台として成り立っていた。20世紀初頭の米国では、不平等な社会階層が成長した。そして現代では、経済的ネットワークは世界の隅々までいきわたっているが、政治的対話の網の中で南の国々は周縁化されている。南北問題をこのように捉えると、古代アテネで起きていたことが、今日世界規模で起こっているだけなのだと分かる。しかも、このような非人間的な社会関係は、発展、民主主義、包摂、多様性といった正統的な中心概念によって正当化され、正面から批判するのが非常に困難となっている。たとえば、アマルティア・センの開発理論は、ケイパビリティの概念をもって称揚されているが、彼の主著『不平等の再検討―潜在能力と自由』を読むと、彼が諸個人の尊厳よりも市場システムの維持を、至上命題として優先していることが分かる(Sen 1999)。もし、現代の被抑圧階級の青年が民主主義に疑義を挟もうものなら、その若者は異端視され、ますます周縁化されるだろう。
本章では、機能主義教育哲学が産業化という大きな目標を最優先してきたことを示した4。機能主義教育哲学は、国家社会や市民の行き方に不安を抱く大衆を安心させる効果を有したが、他方、多様な個人の尊厳を軽視した点に限界があった。機能主義教育哲学に従うと、民族的マイノリティや難民の子どもは、社会的偏見・差別を甘受した場合に限り、言い換えれば自分が二級市民であるという条件を自覚するしないにかかわらず飲み込んだ場合にのみ、ある国家社会の成員として認められるということになる。つまるところ、機能主義教育哲学とは、諦観の哲学なのであった5。
本研究では言語学の議論に立ち入る紙幅の余裕がないが、上述のとおり、英語や日本語といった既存言語が、文化的抑圧装置として機能している点は改めて指摘しておきたい。言葉は人々の思想の祖型であるが、その言葉が、被抑圧者を巧みに抑圧している。
この強力な文化的抑圧に立ち向かうべく、フレイレは、「生成語」を鍵概念とする解放的教育手法を提案した。フレイレによれば、植民地における零細農民は、批判的討議を通じて、いくつかの重要語の意味を再解釈することにより、自分たちが搾取・差別されていることをはっきりと認識し、社会改善のための集合行動をとることができるようになるという。例えば、「スラム」という語から、社会の吹き溜まりという意味を人々は想起するが、批判的再解釈を通じ、植民者による被植民者の搾取の結果物という新しい意味が付与される。このような知的作業を続けることにより、いつしか被植民者の社会観自体が転回すると、フレイレは示唆している(Freire 1973)。
しかし、フレイレの思想は半世紀前に確立されたものであり、今日的観点からは、乗り越えるべき点もある。まず、重要語の選択や議論の展開は「ファシリテーター」という公務員等の知識人階級によって主導されており、フレイレの教育法は権威主義的な色彩を残している。また、上述したように、既存言語が1つの体系として被抑圧者階級に沈黙を強いているという文化的限界状況を認識したあとでは、もはや既存語の批判的再解釈では手強い文化的抑圧を乗り越えることは難しいように思われる。被抑圧者は一体いかにして自己を解放することができるのだろうか。
3.新しい教育哲学
機能主義教育哲学とは異なり、新しい教育哲学は生の志向性を肯定する。新しい教育哲学は、人が自由に生き、主体的に交わり、ともに新しい事物を生み出していけるよう、人々を励ますものなのである。
私はマイアミ大学、マイアミ日本人補習校、マイアミのコミュニティ矯正プログラム、マイアミ近郊の女子刑務所、日本の矯正施設などにおいて、多様な文化的背景を有する子どもや、非行のある子どもの教育に携わってきた。また、私自身、台北日本人学校、マイアミ大学大学院に、それぞれ数年間通ったことがある。海外で学生生活を送る中で、民族的なマイノリティ集団の成員が日常生活の中で味わうもどかしさを経験してきた。個人的な体験からも、マイノリティ集団の成員が学究生活の中で抱く独特の感情を、他集団に理解してもらうことは困難である(南 2000)という指摘は妥当といえる。
民族的なステレオタイプの押し付けへの抵抗感や、マイノリティ集団の成員たちが置かれている困難な状況を他者に理解してもらうことがなぜ難しいのか、と考えてみると、同じ立場になく、同様の経験をしていないからだという答えがまず浮かぶ。しかし、この解答に対して、言葉は共感を促す有力な手段ではないのか、という反論が想定される。この反論に対して、「自分は一体何者なのか?」という問いに象徴される、実存にまつわる子どもの苦痛や、子どもが心の内奥で希っている人間関係の在り方などを適切に表現する語がないのだと、本研究は再反論する。しかも、革新的な言語学者(e.g., Chomsky 2002; 時枝 2007a, 2007b)も、その多くは新しい概念・語の生成というテーマには取り組んでこなかった。
前章で述べたように、英語や日本語といった既存言語は、被抑圧者にとっては自身を強く縛る、しなやかな文化的抑圧システムである。したがって、被抑圧者が自由に生きられるようになるためには、子どもたち自身が既存言語に挑み、抑圧を乗り越えなければならない。具体的には、既存語の再解釈では十分でなく、人間主義的な語を共同生成し、それを多様な人々と共有する必要がある。
3-1.新しい教育哲学の土台:ワロンの関係論的児童発達論
実存的苦痛は、社会の歪みがもたらしたものであり、端的には人間関係の問題だと捉えることができる(Kleinman, Das and Lock 1999)。したがって、この問題の克服のためには、強力な関係論的教育哲学が要請される。本研究では、フランスの精神科医、教育学者であるアンリ・ワロンが提唱した、関係論的児童発達理論を理論的土台として、新しい教育哲学を探求する。ワロンは、ヨーロッパの教育界に多大な影響力を及ぼしてきたが、米国ではほとんど知られておらず、日本でも今日忘れ去られている(浜田 1983)。本節では理論紹介を簡潔に行うに留める。
ワロンは、児童の発達は行動、感情、思考の3段階からなると主張した(ワロン 1962)。まず、赤ん坊は生物学的な欲求によって体を動かす、行動期を経験する。次に、多彩な感情が子どもの生活を彩る、感性期がやってくる。そして青年期には、徐々に思考を発達させ優位となる、思考期を迎える。幼い頃は、子どもにとって、自分自身は世界と混然一体となっているのであるが、成長するに連れて徐々に世界を構造化していき、ついに自己を確立するに至る。この理論は、かつてワロンとともに働いていたピアジェの理論(Piaget 2005)とは反対の見解であり、注目に値する。幼い子どもは、自己中心的なのではなく、世界と一体化しているとするのである。
さらに興味深いことには、青年期に思考能力を十分に身に着けたのちには、翻って批判的思考が感性に訴えかけ、豊かな感性が社会的行動を促すという、逆向きの能力発達を人は経験すると、ワロンは述べる(ワロン 1962)。
このように、ワロンの理論は、前提をできる限り排し、感性や共同体的主体性を重視したダイナミックなものだが、いくつか問題もある6。まず、ワロンの著作は難解であり、後世の研究者に十分に理解されてこなかった。また、青年期や民族的偏見・差別の問題に対しては不十分であり、ワロンの理論は未完成である。本研究では、彼の児童発達理論をもとに、社会的マイノリティ集団の青年を主対象とする人間主義的な教育哲学を提唱し、ワロンの理論を批判的に発展させることを試みる。
3-2.生の教育学
武力的な国際紛争や苛烈な民族差別などによって、文化的な根こぎ状態に追いやられた子どもは、自己存在のよすがを失っている(Camus 1995)。自由に生きる自己という、心の奥で希求する自己概念と、周縁化された存在、劣った存在、あるいは生きていることが罪であるかのような存在という、他者に押し付けられた自己概念との間には、埋めることのできない隔たりがある(Fanon 2008)。根こぎにされた子どもは引き裂かれた自己を有しており、この子どもにとって生は苦痛である(Laing 1960)。
この子どもは苦痛を生きているのであるから、もし教師がその苦痛を否定すれば、それはその子どもの存在を否定することになってしまう。重要なことに、生の苦痛はまた、子どもの生の志向性の証でもある。子どもはいかなる瞬間も生きようとしている。したがって、教師は、この矛盾に満ちた社会的現実、あるいは子どもの実存的苦痛を、まず、あるがままに受け止めることから始めなければならない(Löwith 1990)。そして、子どもがこの限界状況を打ち破り、自らの生を導いていくことができるよう、新しい教育哲学を打ち立てなければならない。この新しい哲学が、生の教育学(the pedagogy of life)である。
生の教育学は、6段階からなる(表1)。
表1:生の教育学によって達成される6段階の成長
1.何もない状態に追いやられた自己の正視(Merleau-Ponty 2010)
2.自己の感性の(再)発見、感性をよすがとする自己存在の確証(森田 1974)
3.自己省察、自己肯定、民主的学校生活を通じた多様な生の肯定(Lane 1949)
4.批判的省察や水平的討議に基づく社会的矛盾の認識(bell hooks 1994)
5.社会的背景を超えた多様な実存的苦痛への共振、様々な社会的矛盾に対する 義憤(Darder 2017)
6.実存的苦痛・自らの望む自己の在り方・実現すべき社会関係の在り方など、 いまだ言語化されていないこれらの感性・アイデアを表す語の共同生成、コミ ュニティ改善活動への主体的参画を通じての新語の普及(McKnight and Kretzmann 1993)
第2段階において、生の苦痛を生の力に変える、一種の転換が行われる点が最も重要である。また、この成長理論はワロンの理論の応用であり、「行動→感性→思考→思考→感性→行動」の成長段階を踏む。
第1段階の不条理の正視は、哲学的には、世界に宙づりにされた自己の生きる苦しみを徹底して描いたアルベール・カミュの実存主義にヒントを得ている(Camus 1953)。この段階では、子どもは迫害、差別、虐待といった過去の経験を思い出さざるを得ず、この回顧はしばしば苦痛を伴う7。しかし、自分を見つめ続けることは、人が自己を確立する上で不可欠の作業である。
第2段階では、抑えていた自己の感性の(再)発見と(再)躍動とを子どもは経験する。感情を抑え込むことは、人種差別などの長期的な抑圧に対するコーピング・メカニズムである(Anderson 1990)。これは人が生き延びるための技術であるが、そのような生き方は自由な生ではない。喜びや悲しみの感情を無理に抑えるのではなく、そのままに感じることが肝要である。そのとき人は、一見何もないと思われる状況にあっても、自己の感情は確かに存在しているのだと気付く(Rousseau 1913)。しかもこの感情は、何か絶対的と見なされているものや、肩書などの社会的立場に拠らない、いわば裸の感情である。ここに、自己確証の契機がある。
第2段階は非常に重要である。森田療法を提唱した精神科医の森田正馬は、一般に否定的なものだと捉えられている不安や恐怖などの感情は、実は人の生の志向性ゆえに生じたものであるとする。落ち着いた環境で、自らの感情の波をあるがままに感じることにより、人は、感性の動きも生の動きの一部なのだと徐々に理解していき、いつしか不安や恐怖に過度に捕らわれることなく自らの生を導いていくことができるようになる(森田 1974)。矛盾含みの生をまるごと受け止めようとする森田の思想が、第2段階の理論的基礎である。
第3段階では、省察的な生徒が学校における民主的共同生活を通じて自己存在を肯定し、さらには多様な存在を認め合っていく(Neill 1953)。開かれた自己を有する生徒間、生徒・教師間の心からの交わりが、生徒の人生を豊かにする(Goffman 1916)のである。
第4段階では、生徒間、生徒・教師間の忌憚ない対話や、社会を批判的に考察することを通じて、暴力、差別、迫害といった社会的矛盾の非人間性を認識していく。異なる立場から様々な意見を闊達に出し合う多論理的(multi-logical)討議によって、議論の方向は常に変化し、結論は常に未知である(Cage 1981)。
第5段階において、多様な社会的苦痛への共振、不条理な社会関係に対する義憤を子どもは経験する。この段階は、空なる自己に他の被抑圧者たちの苦痛がなだれ込んでくるという、独特の実存主義思想に示唆を得ている(中上 1977)。
そして第6段階では、実存的苦痛や、自らの望む自己の在り方、互いに奪い合うのではなく認め合っていくような社会関係の在り方について考究し、生徒たちが新しい、人間主義的な語を共同で生成していく。しかし、社会をより良いものにしていくためには、このような新しい語が広く人々に共有される必要があり、生徒たちは学校の近隣コミュニティの改善活動に参画し、言葉を伝えていくとともに、活動の成果を批判的に評価し、自らのアイデアを彫琢していく(Horton and Clark 1958)。まとめると、この段階において、変革能力(change-ability)、すなわち自己や世界を変化させ続ける能力を、子どもは身に着けていく。
これが、生の教育学における成長の6段階の概要である。生徒は、生み出された言葉やコミュニティ活動参画の成果を自ら眺めることにより、自身をより深く理解し、自己のさらなる変化や成長を志し、自己は螺旋的に発展を続けていくのである。
4.結論―実践と理論との螺旋的発展
本研究では、紛争や差別によって存在のよすがを失った子どもが、肯定的な自我を確立し、自らの人生を導いていくことができるようになるために、教師に何ができるかを探求した。
文化的に根こぎにされた子どもにとって、民主主義、包摂、公正といった正統的概念を中心に組み立てられた既存言語は、社会的抑圧を維持する体系として機能している。社会矛盾が引き起こす実存的苦痛や、望ましい人間関係の在り方に関する革新的アイデアを表現する適切な言葉は、いまだ生み出されてはいない。このような限界状況を自ら省察し、深い苦悩や希望を人々と広く共有し、ともにその状況を乗り越えていくためには、子どもたちは新しい言葉、心からの言葉を自ら生み出す必要がある(栗原 1976)。
生の教育学の目的は、子どもが自由に生きられるようになることである。自らの感性に向き合うことを通じて生の苦痛を生のモーメントに転換することができるよう、また、新しい教育では、子どもたちが民主的学校生活を通じて共同体的主体性を互いに涵養していけるよう、取組を進める。そして、子どもたちが学ぶ上で、物理的、心理的に安全な環境を教師が確保することが不可欠である。教師が子どもたちの存在を無条件で信じることは、子どもたちが自身と向き合うという困難な取り組みを粘り強く続け、自己を打ち立てていくことを可能にするための、最も重要な条件である(石川2007)。教師の最も貴い職務は、子どもの心の灯が消えないよう、差別や暴力といった社会の攻囲から、子どもたちを守ることである。そのような環境が確保されれば、子どもは、周囲の子どもや大人との自発的なやり取りを通じて、自らを着実に成長させていくことができる。
今後の課題は、以下2点である。第一に、新しい教育哲学を実践に移すに当たり、教育方法を確立する必要がある8。本研究においても、多論理的討議など、いくつか手法を示したが、次稿では包括的な教育法を提示したい。特に、新語の共同生成の手法はほぼ未開拓のテーマであり、共同の余地が残されている9。
第二に、本研究は、被抑圧者は語り得るか(Spivak 1988[1999])という、今や古典的といえる問題を探求してきたが、子どもの実存的苦痛は結局のところ社会関係の矛盾の産物であるので、被抑圧者が意識化するだけでは不十分であるという10。対となる問いは、抑圧者はいかにして被抑圧者の声を聴くことができるか、である。教師は、この問いにも答えなければならない。「啓発教育」は手垢のついた語だが、本研究における議論を踏まえて、被抑圧者が抑圧者に伝える、あるいは子どもが大人に伝えるという、ボトムアップの働き掛けの方法を探求する上で、まずこの語を批判的に再解釈してみることは有効であると思われる。
本研究は、「サバルタンは語ることができるか?」という文化的難題に対する1つの答えを提示した。本研究は、教師だけでなく、むしろ生徒が読むことによって命が吹き込まれるものである。当事者である子どもたちが、生の教育学の不徹底さを批判し、力を合わせて解放の哲学を発展させていくであろう。本研究は、被抑圧者による教育学である。
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本研究は、マイアミ大学に2023年に提出した博士論文(Sugimoto, 2023)の理論部分を抽出し、最新文献や言語学からの示唆などを追加し、彫琢を図ったものである。『関係性の教育学』への本研究の投稿・掲載について、主査であるJohn W. Murphy教授から許可を得た。。
人権教育や多文化教育などの分野においては、フレイレがしばしば言及される(e.g., 原 2023)。
デューイは、“The unity of all the sciences is found in geography. The significance of geography is that it presents the earth as the enduring home of the occupations of man.” (「あらゆる科学の統一は、地理の中に見出される。地理の重要性は、大地こそが人間の様々な職業の揺るぎない土台であることを教えてくれることにある。」)(Dewey 1899; p. 32) と述べている。
より多く生産しなければならないという意識は、現代では美徳というより一種の強迫観念のようになっている。この意識の背景には、現在の食糧生産総量が世界人口を満たしていないという漠然としたイメージがあるのだろう。しかし、ある農業経済学的研究は、世界の食糧生産力は100億人以上の人口を養うことができることを明らかにしている(Holt-Giménez et al. 2012)。したがって、より多く生み出さねばならないという意識は、社会的に構築されてきた部分があると考えるべきである。真に重要な問題は、生産力向上ではなく、再分配、あるいは生産者の生産物からの疎外である。
ある人が “[H]e is only human.” (「私はただの人間である。」)(Laing 1970; p. 69)と表明することは、人間として最低限の要請を他者に対して為すことを意味するが、この最低限の要請が他者によって満たされたことは、これまでの世界では一度もなかったようである。
ワロンはまず、新行動主義、試行錯誤、シェーマ、自己中心性、生の飛躍、実存主義といった現代における有力な諸概念を、想像上の概念として退けている(ワロン 1962)。この主張は本研究の論旨と矛盾するように見えるかもしれないが、ワロンの立場を明確にするためにはこの点に言及することが不可欠である。私は、ワロンの理論と私の実存主義とを統合し、新しい教育哲学を提起することを試みるものである。
暴露療法を批判的に検討することが、再トラウマ化の問題を理解するのに役立つだろう(Stampfl and Levis 1973)。
教育方法という語は、一般に教える方法を想起させるが、本研究ではこの語を、「学習方法、及び、それを補完するような、教授方法」という意味で用いている。 生の教育学は、子どもたちの主体性や創造性を重視する。
生の教育学( the pedagogy of life)、 多論理的( multi-logical)、 変革能力( change-ability)は、一種の新語である。
言葉の共同生成について、本研究は、主に語(words)の生成について述べてきたが、言語(英語、日本語、エスペラント語のような、language)の生成も視野に入れている。なお、会話分析は、対話を可能にする、意識されない構造を探ってきたが、主体的、偶発的な言葉のやり取りが未発のチャンクや新しい意味を生み出していく可能性に焦点を当てて理論を発展させることができるかもしれない(Sacks, Schegloff and Jefferson 1978)。民族的マイノリティは新しい言葉を生み出さなければならないという議論が、ラティンクスの英語学教授によって提起されている(León-Zepeda 2023)。
ガヤトリ・スピヴァクは、著名な1988年の論稿において”The subaltern cannot speak.” (「サバルタンは語ることができない。」)(p. 28)と結論したが、周囲の強い反発を受け、1999年再録時にはこの1文を削除した。概して、より真実に近い言葉ほど、より強く抑圧される。