2024 Volume 23 Issue 1 Pages 237-251
国語科教育における自己観の考察
―「いい子」の抑圧を和らげるために―
南 咲貴子(関西学院大学大学院・院生)
1.はじめに
小・中・高等学校の教員や国語教育の研究者の多くが所属する全国大学国語教育学会が編集する『国語科教育学研究の成果と展望』において、田近(2002)は「異質なる他者との出会いによる主体の形成」を国語教育の中核的な教育内容として論じている(p.19)。永田(2007)は、ジュディス・バトラーの論を引用しながら、「主体性」「遂行性」「行為者性」の関係から国語教育における「自己」観を整理している。主体の形成をめざす国語科教育において、学習者の自己観を捉えることは重要である。国語科における自己観は、これまで、一元的自己観と多元的自己観を軸にして議論が展開されてきた。
一元的自己観とは、エリクソン(エリク・H・エリクソン1980=西平・中島2011)がアイデンティティの視点から述べる「〈自分自身の内部の斉一性(セイムネス)と連続性(コンティニュイティ)(心理学的な意味における自我)を維持する能力〉が〈他人にとってその人がもつ意味の斉一性と連続性〉と調和するという確信から発生する」(p.96)ものであり、首尾一貫し統合した自己を示す。一方、多元的自己観とは、「状況に応じて、相手に応じて、異なった顔を見せて」浅野(2015:213)いる自己観であり、は今日の日本の若者の自己やアイデンティティは多元化しつつあるという。
ここから、児童は首尾一貫し統合した自己である一元的な自己観だけでなく、多元的な自己観をもっていることが考えられる。しかし、国語科の先行研究における自己観について、永田(2009)が「複数の自己に一貫性を見出そうとする一元的自己観を持つものが多く、複数の自己に一貫性も連続性も見出さない多元的自己観を持つものは見られなかった」(p.16)と述べていることからも、一元的自己観を中心に児童が理解されている現状だといえる。
一元的自己観を中心とする教室空間は、特に「いい子」として教員から捉えられるような児童にとって、多様な自己表現を困難にすると考えられる。山川(2001)は「いい子」の規定因として環境要因の一つに「社会の風潮と親・教師の期待(過剰期待)」を挙げ、「期待を感じ取った子どもは自己抑制をする」と述べる(p.51)。また、大河原(2012)は、「よい子」を過剰適応と関連付け、「将来心配な「よい子」」を「自分の身体の中からあふれてくるネガティヴ感情(いやな気持ち・不快感情)を表出しないので、周囲の大人を困らせることがなく、それゆえに「よい子」と評価されている子ども」(p.569)としている。ここから、「いい子」は周囲に気を遣うあまり、他者によって作り上げられた自己イメージに合うような自己を無意識的あるいは意識的に形成し、行動していると考えられる。他者が一元的自己観を基に「いい子」を捉える際、他者による児童のイメージが、「いい子」のもつ自己のイメージと一致している、あるいは近い場合は問題ない。しかし、自他のイメージにズレが生じている場合、「いい子」は他者からの期待に応えようとして、自己を抑圧してまで他者による自己イメージに近づこうと努力する。他者は、「いい子」にとって重要な他者である親や教員といった大人、そして「いい子」が評価されていると感じる身近な他者が考えられる。加えて、私たちの多くが“常識”としてもっている “成績は高い方がよい”、“友達は多い方がよい”といった、社会で広く受け入れられている価値観も含まれる。抑圧の継続は、「いい子」の生きづらさだけでなく、「いい子」が「いい子」を再生産する問題も生じさせる。「いい子」が他者の評価規準を自身の評価規準とすることで、その規準から外れる自己や他者を許容できなくなるためである。
自他を許容できないことは、多様な学習者の存在を尊重し認めたり、自身の考える理想や“当たり前”と異なる状況を想像したり、現実に向き合ったりすることを困難にする。国語科は、物語の登場人物の視点や多様な学習者と交流する中で得た視点を基に、価値観を拡げたり深めたりすることができる。しかし、『国語科教育学研究の成果と展望Ⅱ』、『国語科教育学研究の成果と展望Ⅲ』ともに、「いい子」を対象とした研究は進展しておらず、原田(2022)は「学習者の多様性に焦点を当てた研究は、その分野に関心のある実践者や研究者に限られているために、質的・量的に偏りがある」ことを指摘している(p.558)。そのような中で、国語科教育における「いい子」に関する研究は、これまでに丸田(2018)、一色(2020)らによって取り組まれてきた。丸田(2018)は、「〈よい子〉」を「親から安心感を直接的又は間接的に与えられないため、過剰適応を起こしてしまい、負情動を抑圧せざるを得なくなっている子ども」とし、太田正夫の「十人十色を生かす文学教育」を援用した書くことの実践により「〈よい子〉支援」を検討している。一色(2020)は、「よい子」を「いわゆる問題行動をとっていない子どもで、①自身の不快情動の表出を抑えること②不快情動の「認知」と「内的反応」が難しいことという①②のうち一つ以上が習慣化している子ども」と定義し「よい子」の不快情動に着目し、読むことにおける不快情動の表出をめざした実践を行っている。それぞれ、「いい子」と周囲との関係性や、「いい子」の内的側面と外的側面に関しては言及されているが、「いい子」の自己観の在り方、その自己観に着目した抑圧の緩和については、十分に言及されていない。また、南(2022)では、「難聴」と「いい子」の抑圧が重なった児童を捉える中で、従来「いい子」と認識されていなかった児童を「いい子」として捉えなおすとともに、「いい子」の抑圧のメカニズムを示している。しかし、抑圧のメカニズムは周囲の他者として親や教員、友人が一括りにされており、周囲との関係による自己観や抑圧の違いは詳述されていない。
以上より、本研究の目的は、国語科教育における「いい子」の抑圧を緩和する自己形成に必要な視点について検討し、考察することである。本研究における「いい子」の定義は「他者からの期待や社会規範を重視することにより、自己を抑圧・否定してしまう子」とする。なお、「いい子」としての自己を表現するかは他者との関係性や状況によって変化するため、あくまで傾向として捉える。本稿における「いい子」「よい子」の表記は同義とする。
本研究の方法は次の3つである。まず、「いい子」の先行研究を基に、「いい子」の自己観に影響している抑圧について、人権の観点からその構造を捉える。次に、「いい子」の自己観を明らかにするために、心理学および社会学から得た知見を援用しつつ、「いい子」の自己観と抑圧の関係を整理する。その上で、国語科教育における自己観をめぐる先行研究を挙げ、「いい子」の抑圧を和らげるために国語科に必要な自己観を考察する。その際、フィールドワーク先の小学校における「いい子」の変容の過程を基に、「いい子」の抑圧を和らげるための自己観の要素を明らかにする。
2.「いい子」の抑圧と自己の関係
「いい子」に関する先行研究から、「いい子」の自己観に影響を与えている抑圧について考えていく。先述した社会的に期待される抑圧的な価値観も含めて捉えるために、抑圧の定義は、Anti-Oppressive (Socialwork) practice(AOP)の定義(坂本2021:12)を参考にする。この定義の中には「平和的または暴力的な手段によって、信念体系、価値観、法律、生き方を他の集団に押し付けることも含まれる」(Baines 2017:3)とある。ここでは他の「集団に」となっているが、1対1の関係での抑圧も想定し、個人から個人に対する押し付けも含めて考えていきたい。ここで注目したいのは、「平和的」な手段であっても抑圧に含まれるという点である。つまり、「いい子」に育ってほしい、と保護者や教員といった他者が望み、その理想を意識的あるいは無意識的に子どもに伝え、うまくできたときに積極的に褒めるということなども抑圧になり得る。
では、こうした周囲からの抑圧はどのように「いい子」の自己観に影響を与えるのだろうか。外的抑圧と内的抑圧ということばを用いて人権の観点から自己を捉えた森田(1998)をみていく。外的抑圧とは社会や周りの人から与えられる抑圧であり、内的抑圧は自分が自分に与える抑圧である。森田(1998)によると、外的抑圧は「「おまえはバカだ」「ちっとも美しくない」「おにいちゃんより頭が悪い」といった身近な人間からの比較、非難、揶揄であり(中略=稿者)、偏見や差別であり、さらにはいじめや虐待といった暴力」(p.20)であるという。そして、内的抑圧とは外的抑圧にさらされているうちに、「「自分はどうせバカだから何をやってもだめだ」(中略=稿者)「やっぱりわたしは女だからそんなこと無理」」(森田1988:20)などと自分で自分を抑圧することだという。
文化心理学を基盤にしたMarkus&Kitayama(1991)によるとアジアの文化的な自己観として「相互協調的自己観」を挙げており、「相互協調的な文化圏の人が示す独立的な行動(例えば、自分の意見を主張すること)は、その根底にある相互協調を前提としている可能性が高い」(p.227)ことを説明する。Markus&Kitayamaは相互協調的な関係として、日本の例を幾度か挙げているが、日本で生活する多くの人間が相互協調的自己観に沿って行動しているわけではない。しかし、相互協調的な自己観を前提とする日本社会では、空気を読む文化や同調圧力などが外的抑圧として作用し、これらが内的抑圧となると、「いい子」の自己抑制面につながると考えられる。また、平和的な手段の抑圧として述べたように、「いい子」がポジティブな声掛けから、その裏の意図を読み取ることも外的抑圧として作用する。
以上から、他者志向性が高く、自己抑制面が強い「いい子」は、保護者や教員、学校という組織、日本的な文化からの影響を一層強く受けて、それらに自己を適応させて生きている。ここには、権力関係の問題もある。「いい子」に対して権力をもつ他者が「いい子」に肯定的な評価をすると、「いい子」はそれが抑圧であろうと“正しい”ものだと受け入れたり、他者や集団に認められるために“当たり前”だと捉えたりしやすくなる。他者の期待や気持ちを受け取り、応え続けることで、「いい子」は、自分が「いい子」でいることを自他共によいことだと、抑圧を内在化するようになるのである。
つまり、「いい子」は、権力のある周囲の人間から、ポジティブ・ネガティブに関わらず抑圧を生む見方や考え方、価値観を学ぶことにより、新たな抑圧を内面に生んでいる。また、抑圧を内在化した「いい子」が権力を得た際には、自分よりも権力性の弱い立場の人間を抑圧するという連鎖も考えられる。このため、周囲から与えられた抑圧を内在化して自己の評価規準とする自己意識は危うい。しかし、外的な抑圧は生きていく中で無自覚に学ぶことも少なくないため、まずは日常的に外的抑圧を受けていることに、「いい子」自身が気づくことが重要である。そして、気づきを基に、社会の在り方を問いなおしていく力が求められる。この時、「いい子」だけでなく、周囲の人間関係全体の抑圧を助長する価値観および、既に内在化した抑圧的な価値観を緩和していく必要がある。
3.「いい子」の自己観
これらを踏まえ、「いい子」の自己観を考察する。
江藤・向山(2019)は性格特性を5因子で表したBig Fiveとの関連から「いい子」の特徴を捉えている。なお、Big Fiveとは、心理学において主要な理論であり、5因子は「外向性」「誠実性」「情緒不安定性」「開放性」「調和性」で構成されている。江藤・向山(2019)は、「いい子」の行動および思考や感情の特徴にあてはまる項目を因子分析し、「過剰適応」「他者志向性」「自己抑制」「優等生」といった4つの因子を抽出している(pp.41-42)。そして、この4つの因子それぞれとBig Fiveの関連について、「過剰適応」は「外向性、開放性と負の相関が見られた」とある(p.44)。一方で、「他者志向性」では「外交的で開放的、調和的」(p.44)とあり、「優等生」においても「外向性、開放性、調和性と正の相関が見られた」(p.45)とある。ここから「いい子」は、相反する自己の側面をもっており、他者に合わせて自己の見せ方を変えていることがわかる。この点に着目すると、社会学における「多元的な自己観」をもっていることが考えられ、方略的に上手く適応していると見ることができる。しかし、他者から期待された自己のイメージを、自分の思いや感情を抑圧・否定してまで形成するという、先行研究による「いい子」の特徴からは、個人に対しては一貫した自己である「一元的な自己観」の枠からはみ出ないようにしていると推察される。
「いい子」は生まれたときから「いい子」ではない。ここから、「いい子」は社会の中で作られるものだといえる。社会によって自我が形成されるという点は、G・H・ミードの社会的自我論で説明できる。そこで、一元的にみえる「いい子」の反応についてG・H・ミードの「I」と「me」から考える。
ミードは、「「I」は他者の態度にたいする有機体の反応であり、「me」は人が自ら想定する他者の態度の組織化された組合せである。他者の態度は、組織化された「me」を構成し、次に、人はその「me」にたいして、「I」として反作用する」と説明している(G・H・ミード1934=河村1995:215)。つまり、自己認識のためには他者の態度を持たなければならず、一般化された他者(集団の中の他者の態度)に対する反作用によって新奇なものが生まれるのである。これは、他者が指標となることで自己認識ができることを指している。加えて、ミードは、「「me」と「I」の相対的価値は、状況に大きく依存している。」(G・H・ミード1934=河村1995:244)と述べており、状況によっては「me」や「I」の二つの側面の重要度が変化すること、それでもある量の適応と再適応とが生じていることについて言及している。他者志向的な「いい子」の場合は、「I」より「me」の重要度が高いと考えられる。
以上より、私たちは自ら想定した他者の態度を組織化した「me」を基に「I」を構成しており、他者の態度とは、広く社会規範とも捉えられる。これらを内在化しつつ反作用をすることで自分自身を表現するのが「I」であり、「me」と「I」の二つの側面が相対的に依存し適応と再適応を繰り返す。これは、一時的なものではなく、過去現在未来を通した時間的なつながりとしてみることができる。ミードは、「I」と「me」の複数性について言及していないが、「いい子」の場合、異なる他者に対して、それぞれの他者の態度を組織化した「me」を創っていると考えられる。つまり、「いい子」は、複数の「me」を持ち、それぞれの「me」に対して「I」の反応が変化するため、「I」も複数存在するといえる。このため、同時に存在する多元的な自己の存在を空間的な広がりを持つものとして考える必要がある。広がりは、横だけでなく縦もあり、各々の個人的自我同士は、距離を保っているものもあれば、重なりを持っているものもあると想定できる。以上より、「いい子」における「I」と「me」の関係は、次の図のように示すことができる(図1)。なお、図の「他者」は個人のこともあれば集団や組織、コミュニティであることも考えられる。本稿では共時的な図のみを示しているが、時間的つながりは図1が連続する形で表現される。
図1 「いい子」における「I」と「me」の関係(稿者作成)
図で示したように、「いい子」の場合、「I」の「me」に対する反作用や新奇性よりも、他者の態度を組織化した「me」による統御が強く表れ反作用しない、あるいは「I」が反作用をしていてもそれを自己として受け入れることができない。つまり、「I」が「me」に対抗しえず、一般化された他者である「me」の枠から外れることができない、あるいは外れることを悪だと認識するようになる。このため、「me」の枠から外れないように自己を抑圧したり、外れた時には自己を否定したりする。また、それぞれの他者に対して期待されている「いい子」傾向を見せるという点から、一つの自我に統一するというよりは他者によって異なる自我を持っているといえ、その複数の自我のズレにより自己の捉え方や自己評価もつながりが持てないものになっている。これは、個々の相手に対してあらゆる自己を表現して異なる自己評価を得るため、それぞれの自己が孤立して存在するように感じ、自己と自己とを結び付けることができていない状態にある。自己の捉えや自己評価が孤立することは、「自分らしさ」を認識することを困難にし、自己肯定感を育みにくくなる。一方で、他者からの期待に敏感だという点に着目すると、児童に対して明確な期待を抱いていない他者や関係性が薄く児童が期待を感じ取ることができない他者に対しては、「いい子」傾向は表現されにくいと考えられる。
4.国語科教育における自己観と「いい子」に必要な力
国語科はことばを重視する教科であり、ことばには文化や価値観が強く表れる。逆にいえば、子どもたち自身のことばの捉えなおしや変化は、表面的な変容だけでなく内面的な変容も起こすのである。『国語科教育学研究の成果と展望』の「国語科目標論の成果と課題」において、田近(2002)はコミュニケーションの手段としての言語を中心とするプラグマティックな教育観を否定し、国語教育における人間形成について述べている。田近(1975)は、『言語行動主体の形成』の中で自己の形成を次のように示す。
私たちは、己れの行動が少くとも主体の生存と深くつながっているということを第一の条件としつつも、それが真に主体的であるかどうか、つまり、その行動が正しいかどうかを、常に問うていかねばならない。(中略=稿者)自己を問うとは、自己に対する対自的な認識であるが、それは自己を相対化してとらえる目の上に成り立つものである。(中略=稿者)そのような目を獲得するためにもっとも重要かつ有効な働きをするのが、他者理解の行為だと考えている。読むことや聞くことを通して、私たちは自己以外の視座や認識のしかたと出会い、自己を相対化することによって自己を乗り越え、新しい自己を形成することができるのである。(田近1975:12-13)
上記から、自己を批判的に問うことで自己を相対化することが重要であり、自己を相対化するためには他者理解が必要だということがわかる。この考えは、ミードの一般化された他者「me」を通して「I」を構築していくという「人間は他者の見地を通じて自己を内省化し、それによって新たなものを創発するもの」(船津2000:65)と共通している。相対化や他者理解は、「メタ認知」や「関係性」ということばとの関連が深いものであり、『国語科教育学研究の成果と展望Ⅱ』においても複数の章で確認できた。しかし、田近は自己形成において、一元的自己観を前提としており、「いい子」のような一元的・多元的自己観をもつ学習者の想定は、十分にされているわけではない。
このように、自己が重視されるようになった背景には、主体としての読者の役割を重んじる国語教育が展開していった流れがある。こうした展開を踏まえ、永田(2009)は先行研究における自己観を分析している。永田(2009)は、国語教育の先行研究において連続性は持つものの、複数の自己観を持つ研究として、難波(2008)を挙げている。難波(2008)は、「自己内他者たち」「分裂した自己」について言及し、「国語教育の現場では、登場人物の心情や自分の感想については、単一のもの、あるいは、複数の場合は、一貫性があることを求められる。異なる場合は、「変わった」と表明しなければならないのである。これは、明らかに、人間の認知の実態を無視している」(p.166)と述べる。学習の前と後での変化を見るにあたって、ある程度の一貫性や連続性を持って子どもを捉えることは避けられないが、教科教育学は教室に根ざした学問であることから、子どもの実態に即したものでなければならない。また、権力性を持つ教員が、子どもを一貫したまなざしで見ることや授業で自分の想定する“正解”をゴールとすること自体が「いい子」の抑圧や生きづらさを生む可能性がある。
永田(2009)は「複数の自己における一貫性を拒否しつつも、連続性を重視する自己観に立てば、学習者の思考や言語活動を一元化することもなく、一方で学習者のことばひとつひとつに責任を迫ることができる」と「両義的な自己観」に立つことを主張している(p.18)。これは連続性の部分が一元的自己観に、複数の自己における一貫性を拒否する部分が多元的自己観に関係していることから、どちらの要素も取り入れたものであり、一元的自己観と多元的自己観の両面を持つ「いい子」に援用できると考えられる。
清水(2022;2023)は永田(2009)の「両義的な自己観」を受け、「自己が複数存在し、「ゆるやかに」つながる」状態の具体化、「国語教育の言葉の学習」としての学び方を示す実践の必要性を述べている。清水(2023)は、多元的自己観をもつ傾向にありながらも一元的自己観に収まる6年生の学習者について、「①級友の性格や考え方などを容易に決めつけ、優劣を決めたがる。②級友との協働的学びを嫌がり、互いに関わることを避ける。」問題を挙げ、多元的自己観を育む国語科単元学習の実践を行っている。そして、清水(2023)は、永田(2009)な両義的な自己観に関する課題を補う形でハーマンスの対話的自己論を挙げ、「学習者自身が場や状況、関係性によって自己のあり方を切り替えできる多元的自己を表現しつつ、同時に複数に生起する自己から生じる言動はそれぞれが無責任に切り離されるわけではなく、Selfをメタ的ポジションとしたある個人に内包されているという自己観自体を意識的に獲得する」(p.40)必要性を主張する。その上で、清水(2023)は多元的自己観を「場や状況、関係性、時間軸に関係しながら生起する複数の自己の一貫性を否定しつつも、ある個体内に複数の自己は確かに内包されているという意味において連続性が担保されている自己観」(p.40)と定義している。
清水(2022;2023)が述べる自己観は、永田(2009)の「両義的な自己観」を具体化したものである。清水(2022;2023)の実践では、学習者たちがことばを介して、実生活の人間関係とは異なる自他の姿を自覚できている。自他の複数性を自覚することは、「いい子」の一元的自己観による抑圧を和らげ、多元的自己観を肯定することにつながる。しかし、「いい子」の抑圧は、「Selfをメタ的ポジションとしたある個人に内包されているという自己観自体を意識的に獲得する」ことや、「ある個体内に複数の自己は確かに内包されているという意味において連続性が担保されている自己観」を持つだけでは不十分だと考える。なぜなら、「いい子」の自己犠牲的な他者志向性を変容させるためには、上記に加えて、複数性・複層性をもつ自己を肯定する感覚も必要だからである。複数の異なる自他を自覚すること=複数性・複層性をもつ自他を肯定することではない。稿者は、「いい子」が、他者が期待していないような自己すら肯定し、表現できることをめざしている。このためには、一元的自己からの脱却に加え、自己のもつ自己の優劣の意識自体を問いなおす必要があり、さらなるメタ的な自己理解が必要となる。このメタ的な自己理解とは、一面的な自己理解ではなく、多元的な自己から、自己を形作っている構成要素を理解するということである。また、実践では、実物の児童が言葉を介した虚像の児童を「今ここにいる身体を伴うその人とは切り離して捉え」(清水2023:47)ていることを評価しているが、多元化した自己を、普段自分が認識している自己と異なっているものとして切り離して捉える必要はないと稿者は考える。人間とは、複数性・複層性をもつものだと肯定的に捉えることも学びとして重要である。
以上を踏まえて、稿者がめざす、「いい子」の抑圧を和らげる自己観は、一元的自己の関係から脱却した上で、複数性・複層性をもつ多元的自己の一つひとつが、時間的、空間的に結びついており、自己を形作っていることを自覚するとともに、自己たちに対して肯定的なまなざしをもてるような自己観である(図2)。こうした自己観は、多元的自己を持ちつつも、「自分らしさ」を見失わないことにつながると考える。
図2「いい子」の抑圧を和らげる自己観のイメージ図(稿者作成)
特に「いい子」は、周囲の期待や社会規範に基づいた優秀な自己を表現するため、失敗することや周囲からの期待から外れることを人一倍恐れている。この背景には、成功することや周囲から評価されやすい人物像といった、社会的な“正しさ”を無意識のうちに内在化していることがあるといえる。しかし、社会的に“よい”とされる自己が「いい子」の「自分らしさ」につながるとは限らない。また、「いい子」の内在化した価値観で“よい”とする他者が“よい”とは限らない。よって、社会的な“正しさ”の問いなおしも含め、国語科教育を通して、自分とは異なる他者あるいは自分の価値観では許容できない自己や他者に触れ、肯定的なまなざしを持てるようになることがめざされる。これは、「いい子」が「いい子」であるための行動に囚われず、複数的かつ複層的な自己を表現できる力につながる。
5.「いい子」の抑圧を和らげる自己観
5.1.「いい子」による抑圧の変容の事例
「いい子」の抑圧を和らげる自己観の要素について、フィールドワーク先の小学校における「いい子」と稿者のやりとりからみた、「いい子」の変容の過程から考察する。フィールドワーク先の小学校は関西地方にあり、2024年の3学期中、稿者は学習支援員として、4年生のIクラスに入り、児童たちと関わっている。本稿では、他者志向的で人の目を気にして自分の思いや考えを周囲に伝えることが困難かつ自分に自信を持てないサクラ(仮名)を「いい子」として抽出する。
サクラは、はじめは稿者に対して、自ら話しかけることは一切なく、少し警戒しているようだった。机間指導中に稿者が話しかけても、頷く程度の反応しか見せなかった。サクラは仲の良い5人の友人グループの中で、ある児童に不満を持っていたが、直接この友人には伝えることができず、5人のうち一番仲の良い友人にその不満をこそこそと話していた。そして、この場面や内容を、サクラに不満を持たれた友人が、偶然見聞きしたことで、何度かトラブルになっていた。トラブルについて、担任教諭は、こそこそ言わずに直接伝えるように指導していた。トラブルから少し経った学活の授業時、「こんな5年生になるぞ」というテーマで、各児童が個人目標を考えていた。サクラは「自分の気持ちをしっかり伝える」「人にやさしくなる」「自分に自信をもつ」「算数が得意になる」の4つの内容を目標として書いていた。ここから、サクラ自身、自分の課題として他者志向性の強さや自信のなさを捉えていると考えられる。
授業中はおとなしく、真面目に取り組んでいるサクラだったが、ある日、次の授業に遅れそうになった時に、「〇〇先生(担任教諭)は甘いから…(理由があれば多少遅れても大丈夫)」という発言がみられた。また、授業中に担任教諭から見えないようにしながら、折り紙やミサンガを作る姿が何度か見られた。他者志向性が強く、自己抑制的なサクラが気になっていた稿者は、サクラとのかかわりにおいて、一般的に良くないと考えられる自己表現に対して、否定することばは使わず、肯定的なことばがけを意識した。具体的に、折り紙やミサンガを作っているサクラに対して、「やりたくなっちゃうよね、その気持ちわかるよ」「すごい、上手」など伝えた上で、「せっかくそんな素敵に作ってるし、大事な物だからこそ机の中にしまっとき。授業中に触ってたら遊んでいるように勘違いされちゃってもったいないよ」などのことばがけや、黒板を指さしながら「あ、〇〇だって。わかる?」など授業内容に注目させることばがけを行った。注意されると思っていたであろうサクラは、注意されなかったことに驚きつつも、微笑んだり嬉しそうにしたりしていた。なお、担任教諭は授業中に手遊びをしている児童を許さないし認めないという意識を持っている。このため、授業に集中できていない児童を積極的に指名し、質問に答えさせるようにしていた。
稿者がこうしたかかわりをサクラと続けていたある日、理科の授業中にサクラは稿者を呼んだ。そして、ノートを示しながら「これ(実験の考察)ってこれでいい?A(評価)とれると思う?」と聞いてきた。稿者は、理科の専科教員の評価基準が不明瞭であったため、文章を読みながら考察が十分であるか少し考えていた。この時、偶然専科教員がサクラの机付近に来たため、稿者はサクラに「聞いてみよう」と声をかけた上で、専科教員を呼び止めたが、サクラは専科教員の前では自分から発言しなかった。このため、専科教員の方から「書いた考察みようか?」とサクラに声をかけた。しかし、サクラは反応が薄いままだった。こうしたサクラの様子をみていた稿者は、サクラに「書いたの(考察の文章)読んでもらったら?」とあと押しし、読んでもらうことになった。その結果、専科教員から「この理由がかけたらもっといいね」というアドバイスをもらい、その部分を中心にサクラと稿者は考察の内容を一緒に考えた。この時のサクラは自ら「こういうこと?」「こうなるからこうってこと?」など積極的に稿者に疑問を投げかけていた。この一連の出来事を担任教諭に共有した際、担任教諭は「(以前のサクラは、A評価を取りたいなどはなく、省エネに過ごしていた印象が強かったため)最近のサクラめっちゃいいですよね!」「きっとサクラは、私(担任教諭)にも(考察の件など)言わないと思います。南先生だから言ったんだと思います。」と話した。
次第にサクラは、休憩時間に一番仲の良い友人と遊んでいる時においても、稿者が「何してるの?」と話しかけると、「以心伝心ゲーム」と答え、「先生にお題出してもらったらいいやんな」「先生がお題を出して」と笑顔を見せて話しかけてくるようになった。
ある日、以前と同様に、理科の授業でサクラが稿者を呼び、考察を見せてくれた。考察の内容が深まっていたため、「めっちゃいいじゃん、すごい!」というと、「教科書に書いてあるのをちょっと変えて写した(笑)。でもバレないからいいねん」と微笑みながら話しかけてきた。稿者は、「写したんかい!(笑)」とつっこみながらも、前回の授業時に、実験結果の予想として共有されていた内容と考察内容が対応していることを伝え、考察の内容を理解しているかを確認することばがけを行った。
以上から、サクラは次第に稿者に心を開き、担任教諭や専科教員に見せない姿を見せるようになっていることがわかる。これには、サクラにとって、担任教諭や専科教員のような明らかな評価者の立場と、学習支援員としての稿者の立場は異なることが関係しているといえる。また、稿者がサクラと関わる中で、一般的に教員からはネガティブに捉えられる振る舞いを否定しなかったことで、サクラはあらゆる自己を表現するようになったと考えられる。事例ではサクラが自身の複数性・複層性をどこまで自覚しているかは不明である。しかし、普段教員の前では見せないように意識しているあるいは見せたくても見せられないような自己を肯定されることにより、周囲の視線や気持ちを伺って自己を抑圧していたサクラが、あらゆる自己を表現できるように変容しつつあるといえる。
5.2.「いい子」の抑圧を和らげる自己観の要素
事例からもわかるように、「いい子」は多元化した自己を持ちつつも、教員や友人といった他者に対して嫌われないように、あるいはできない子だと思われないように、一貫した自己を見せようとしている。本稿では、心理学や社会学の知見を基に、周囲の期待や社会的規範を「他者の態度」として内在化したりすることにより、一元的自己観に囚われている「いい子」の自己観について考察してきた。また、一元的自己観を基に多元的自己を構築していることで、他者に見せられる・肯定される可能性が高い自己と、他者に見せられない・否定される可能性が高い自己といったように優劣をつけていることが、「いい子」の抑圧や否定につながっていると述べた。この抑圧の外的要因としては、「喧嘩せず仲良くしないといけない」「できないよりできる方がよい」といった社会的な“正しさ”があり、それが内在化することで内的抑圧になると考えられる。これらの抑圧は、片方だけでなく、双方向からの緩和が必要である。そして、こうした社会的な“正しさ”を基に、自己を抑圧するのではなく、場面や状況に合わせて、自分の気持ちを伝えたり、他者と関係性を構築・修復できるようになったりすることが重要である。
では、「いい子」の内在化した抑圧を和らげるためには、どのような自己観をめざしたらよいのだろうか。先行研究を踏まえ、稿者は、「いい子」の抑圧を和らげる自己観を、「一元的自己の関係から脱却した上で、複数性・複層性をもつ多元的自己の一つひとつが、時間的、空間的に結びついており、自己を形作っていることを自覚するとともに、自己たちに対して肯定的なまなざしをもてるような自己観」とした。
この自己観を獲得するためには、次の3つ段階が考えられる。①一元的自己観から脱却すること、②複数性・複層性およびつながりのある多元的自己観をもつこと、③複数性・複層性をもつ多元的自己の一つひとつが、時間的、空間的に結びついており、自己を形作っているのだという肯定的なまなざしをもつこと、である。特に「いい子」に重要なのは、3つ目であり、多元的自己の一つひとつに優劣をつけることなく、あくまでも自分の一部であるという肯定的な認識を持つことである。「いい子」はその場その場の状況に合わせた「一般化された他者」である「me」を規準に、自己の良し悪し、ないしは、他者の良し悪しを厳しく判断し、良くない自分を抑圧している。それゆえに、抑圧している自己を、自分や「自分らしさ」として認識しにくい。つまり、複数性・複層性のある自己を持っていても、それらを肯定するまなざしが弱い。内的抑圧を緩和するためには、自己に寛容になることが必要であり、このまなざしが必要不可欠である。しかし、「いい子」の意識だけでは、肯定的なまなざしの獲得は困難である。このため、保護者や教員、友人を含む周囲の他者の自己観に対する認識も変容させていくことが重要である。これは、「いい子」の外的抑圧の緩和に関係する。外的抑圧の要因には、意識的あるいは無意識的に、社会規範や価値観を「一般化された他者」として「いい子」に示している保護者や教員、友人をはじめとする周囲の他者が挙げられる。周囲が「いい子」の複数性・複層性を理解、受容し、寛容である姿を示すことは、「いい子」の外的抑圧の緩和につながる。社会的自我論のように、社会は一人ひとりの人間に影響を与えている。外的抑圧の緩和は、新たな「いい子」を生まない、「いい子」が抑圧を再生産しない社会へと変えていくためにも必要な視点といえる。サクラの在籍するクラスの担任教諭は、児童同士のつながりを強めること、児童一人ひとりが自分で考えて行動できるようになることを目標に、学級経営をしている。このため、普段の担任教諭のことばがけからは、児童の考えを可能な限り否定せず肯定している様子、「周りに流されずに自分で状況を見て判断できるようになりましょう」といった発言が幾度となくみられた。サクラが3学期の短期間で大きく変化した理由としては、このような担任教諭による学級経営が背景にあったことも重要な点である。サクラの事例は国語科授業におけるものではないが、事例のやりとりは、他者と関係性を構築するコミュニケーションであり、国語科の学びにつながるものである。特に、小学校段階では、国語科教育と日常生活を連続性のあるものとして児童を理解する必要がある。
6.おわりに
本稿では、国語科教育における「いい子」の抑圧を緩和する自己観について考察を行った。まず、心理学や社会学の知見を基に、「いい子」の自己観を一元的自己観と多元的自己観の両面を持ち合わせているものとして捉えた。次に、「いい子」の抑圧は一元的自己観によって生まれているため、「いい子」が複数性・複層性のある自己を肯定的に捉えるまなざしが重要であることを、国語教育に関する先行研究およびフィールドワーク先の小学校の事例を踏まえつつ述べた。自己について考える際は、周囲の関わりによっては「いい子」の抑圧の助長が考えられるため、教員と児童一人ひとりが表面的なイメージだけで他者理解を行わないことを共有しておく必要がある。
今後は、「いい子」が、複数性・複層性のある自己を肯定的に捉え、表現できること、内的抑圧および外的抑圧に向き合うことができる国語科授業を具体的に検討したい。また、本稿では、国語教育における自己に焦点を当てて考察したが、「主体」をめぐる議論の詳細は取り上げなかった。今後の課題としたい。
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