The Journal of Engaged Pedagogy
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The Reception and Development of Folk High School Ideals through Educational Exchange
A Case Study of Fircroft College in the UK
Sachiko Morita
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2025 Volume 24 Issue 1 Pages 31-42

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教育交流を通じたフォルケホイスコーレの受容と展開

―イギリスのファークロフト・カレッジにおける事例をもとに―

森田 佐知子(宇都宮大学)

1.研究の背景と目的

近年、デンマークで発祥したフォルケホイスコーレが注目を集めている。フォルケホイスコーレは、聖職者、教育者、政治家として活躍1したグルントヴィ(N.F.S. Grundtvig、1783年~1872年)によって構想され、彼の思想に賛同する人々によって設立された寄宿制の成人教育機関であり、180年以上の長い歴史を有する。Balle(2014)によれば、グルントヴィの教育思想には7つの中心的要素(生活教育、全人教育、生きた言葉による教育、歴史・詩的教育、生きた相互作用による教育、啓発教育、コミュニティ教育)があり、初期のフォルケホイスコーレの多くはこうしたグルントヴィの教育思想の影響を受けつつ、当時のデンマークにおける新興階級であった自営農の子弟に対して実践的かつ教養的な教育を提供することを目指していた2。フォルケホイスコーレはその後、1864年のノルウェーを皮切りに北欧諸国に普及し、さらに他の地域へも展開された3が、北欧以外の地域における展開に関して清水(2024)は、必ずしもフォルケホイスコーレの精神が忠実に継承されたわけではなかったことを示唆している。

一方で、清水(2024)が「デンマークのフォルケホイスコーレに忠実な形式4」をとったと評価した教育機関の一つにイギリスのファークロフト・カレッジ(Fircroft College、以下「ファークロフト」と略す)がある。ファークロフトは、バーミンガムの製菓事業者であるキャドバリー家の支援を受けて1909年に設立された寄宿制の成人教育機関であり、フォルケホイスコーレに倣い「学生を市民としても個人としてもより向上させ、労働生活へ送り返すこと」(諸岡, 1967)を目的としていた。ファークロフトは工場労働者や商店員など多様な職業の人々を惹きつけたため、その実践を学ぶためにデンマークから多くの教師や校長が訪問した(The Association of Folk High Schools, 2019)ことが報告されている。では、なぜファークロフトは北欧と異なる文化圏においてもフォルケホイスコーレに忠実な形式を保持することができたのだろうか。

ファークロフトに関する日本語で書かれた先行研究は森田(2024)が詳述しており、同研究においてフォート(1924)、小島(1928)、諸岡(1967)の研究が、ファークロフトの創設期の様子や初代校長トム・ブライアン(Tom Bryan:1865年~1917年)、そして当時の入学試験や個人チュートリアルについて記載していることが分かっているが、ファークロフトがフォルケホイスコーレの形式を忠実に継承し得た要因に関しては詳しく分析されていない。また、森田(2024)自身も、トム・ブライアンが学校設立前にデンマークのフォルケホイスコーレを視察していることを指摘しているが、自国にフォルケホイスコーレに倣った教育機関や学習コミュニティを設立する前にデンマークのフォルケホイスコーレを視察することは、当時、日本を含む他の国でも行われていたことである。

そこで国外の文献に目を向けると、例えばFoght(1914)の以下の記述の通り、ファークロフトが設立後少なくとも数年間、デンマークのフレデリクスボー・ホイスコーレ(Frederiksborg Højskole5)との間で教育交流を行っていたことが指摘されている。

ここ数年、フレデリクスボーとファークロフト(Bournville School)との間で非常に興味深い意見交換が行われている。教師と学生が相互に派遣されており、1年前にはイギリスの教師グループがフレデリクスボーを訪れた。また、過去2年間、熱心な若いイギリス人であるジョンティ・ハナガン(Jonty Hanaghan6)がフレデリクスボーに滞在し、ヨークシャーでのフォルケホイスコーレ活動に備えている。一方、彼の婚約者である若いイギリス人女性は、同様の活動の準備をヴァレキレ7で行っている。1912年には、Fircroftの学生の約4分の1がフレデリクスボー地域から来たデンマーク人であった8

さらにデンマークの文献を見ると、例えば、フレデリクスボー・ホイスコーレの校長ホルガー・ベグトラップの回顧録(Begtrup, 1929)には、「Et vindu i Vest(西の窓)」という章があり、そこには1909年にトム・ブライアンが初めてフレデリクスボー・ホイスコーレを訪問して以降、相互に両校の校長、教師、生徒が行き来している様子が描かれている。Jensen(1970)によると、「Et vindu i Vest(西の窓)」とはホルガー・ベグトラップがフレデリクスボー・ホイスコーレの冬のスクールに追加した10人~12人の学生定員を持つコース9の名称であり、このコースでは英語とイギリスの歴史に関する徹底的な指導が行われ、このコースに所属する学生の何名かはファークロフトや姉妹校のウッドブルック・カレッジ(Woodbrooke College)に留学したと記されている。

このフレデリクスボー・ホイスコーレとの教育交流は、ファークロフトがデンマークのフォルケホイスコーレに忠実な形式をとり、それをイギリスという異文化の文脈で展開していくことに大きな役割を果たしたと考えられるが、この教育交流がどのようにファークロフトに影響を与えたのかについて詳細に調査した研究は管見の限り見当たらない。そこで本研究では、フレデリクスボー・ホイスコーレとの教育交流が、ファークロフトにおけるフォルケホイスコーレ受容に与えた影響を調査することを目的とした。

2.研究の方法

 本研究では、史料分析を手法として採用する。分析の対象とする一次史料は、ファークロフトが初期に発行していた学生マガジン『The Old Fircrofter』である。史料は、2023年5月にイギリスのバーミンガム図書館アーカイブセンター(Wolfson Centre for Archival Research)にて、同センターに保存されている1909年から1914年までのThe Old Fircrofter(1909年12月号、1910年3・12月号、1911年3・7・12月号、1912年3月号、1913年3・12月号、1914年3・7・12月号)を、同センターの利用規約に従い写真にて複写して収集した10

このマガジンは年に数回発行され、学期ごとの在籍者名簿や、特筆すべき出来事・活動、さらにはデンマーク出身の留学生による寄稿記事やフレデリクスボー・ホイスコーレとの相互訪問の記録が掲載されている。加えて、記事のほとんどが教職員ではなく在籍していた学生によって執筆されており、本研究が焦点を当てるフレデリクスボー・ホイスコーレとの相互訪問やデンマーク出身の留学生が果たした役割について、学生の視点から分析するための有益な一次史料であると考えられる。本研究では、デンマークとの定期的な交流が継続的に行われていたファークロフトの創成期6年間(1909年~1914年)のThe Old Fircrofterを分析の対象とすることとした。

また、学生マガジンの内容の分析と解釈においては、先述のBegtrup(1929)に加え、Jensen(1970)およびヴァレキレ・ホイスコーレの学校誌『Fra Vallekilde Folkehøjskole』など、デンマークに残る史資料を補足資料として参照した。

3.研究の結果

 本研究の結果、先行研究で指摘されていたフレデリクスボー・ホイスコーレとの教育交流の詳細が明らかになった。さらに、ファークロフトが毎年受け入れていたデンマーク出身の留学生と卒業生により設立されたギルド(同窓会組織)が、デンマークとの教育交流に大きな役割を果たしていたことが確認された。以下に調査結果の詳細を示す。

(1)フレデリクスボー・ホイスコーレとの相互訪問の詳細

まず、先行研究で指摘されていたフレデリクスボー・ホイスコーレとの相互訪問が、ファークロフトにおけるフォルケホイスコーレ受容に与えた影響に関する調査結果を述べる。

表1は、調査対象とした学生マガジンにおいて、フレデリクスボー・ホイスコーレとの相互訪問に関する記載があった号とその内容である。表1の通り、1909年に16名の学生・教師がフレデリクスボー・ホイスコーレを訪問し、翌年にはホルガー・ベグトラップがファークロフトを訪問したことが確認できる。その後は主に、トム・ブライアンとファークロフトの学生たちがデンマークを訪れることで両校の交流が継続されていることが分かる。

表1:フレデリクスボー・ホイスコーレとの相互訪問に関する記事の概要

掲載号 内容
1909.12 1909年8月、校長トム・ブライアン夫妻、副校長夫妻、16名の生徒がデンマークのフレデリクスボー・ホイスコーレを訪問した11。到着時、学校には英国の国旗が掲げられ、デンマークの少女たちが歓迎のために集まった。彼らはフレデリクスボー・ホイスコーレに6日間滞在し、その間にフレデリクスボー城やクロンボー城を訪れた。最終日の夜は夕食を共にし、スピーチを行い、変わらぬ同胞愛の寛大さと優しい感情で満たされた。
1910.12 1910年9月にホルガー・ベグトラップ夫妻がイギリスを訪問した。ロンドンで4日、オックスフォードで1日、そしてファークロフトで6日間を過ごしたが、すべての訪問先を回るには短すぎる旅程であった。彼らはエドワード・キャドバリー夫妻の招待を受け、またシェークスピアの生家を見学した。かつてデンマークを訪れた卒業生らも集まり、これが相互訪問(inter-visitations)の始まりとなることを期待している。
1911.7 1911年の5月末に校長トム・ブライアンがデンマークを訪問した。この訪問の目的は、デンマークに住むファークロフト卒業生をできる限り訪問することと、フォルケホイスコーレの教授法および生活を学ぶことであった。フレデリクスボー・ホイスコーレに加えて、クリステン・コルが学校を設立したダラム(Dalum)およびアスコウ(Askov)のホイスコーレも訪問した12。ホルガー・ベグトラップを含むフォルケホイスコーレの教師たちの燃えるような雄弁に耳を傾ける栄誉に恵まれた。「生きた言葉」でメッセージを伝える講演者からは一瞬たりとも目を離すことができない。デンマークの教育は、頭と頭で話すのではなく、心と心で話す。教師の目的は魂を揺さぶることではなく、聞き手の深いところに触れることであると考えられる。
1912.3 ジョナサン・ハナガンは冬の間にフレデリクスボー・ホイスコーレに滞在しており、デンマークで高い評価を得ている。ヴィルヘルム・ラーソンがイギリスを訪問したいと言っているが、入院中のためイースターが終わるまでは訪問できない13
1913.12 1913年8月、17名の学生がデンマークを訪問した。校長トム・ブライアンらとコペンハーゲンで合流して5日間滞在した後、フレデリクスボー・ホイスコーレを訪問した。ここでも数名の卒業生と会い、その後、クリステン・コルが設立したダラムの農業学校に3日間滞在した。
1914.7 校長トム・ブライアンはデンマークへの2週間の旅から帰国したばかりである。彼はデンマークにいる多くの卒業生に会い、フレデリクスボー・ホイスコーレを訪問してホルガ―・ベグトラップ家族や学生たちと良い時間を過ごした14。1916年にデンマークへの訪問を計画している。

 ここで注目すべき内容が3点ある。1点目は、1911年7月号に記載されたフォルケホイスコーレの教師による講演のエピソードである。この時ファークロフトの教師や学生は、フォルケホイスコーレの教師による情熱的な「聞き手の深いところに触れる」講義を受けており、これはまさにグルントヴィの「生きた言葉による教育」を体験したものだと考えられる。さらに、1911年および1913年の訪問時には、クリステン・コルが設立したダラムの農学校を訪問されている点である。クリステン・コルはグルントヴィが「国民学校の理念を真に理解し実践した最初の人」と評していた(佐々木, 1965)ことからも、コルが設立した学校を視察することは、フォルケホイスコーレの理念を理解する上で有益であったと考えられる。加えて、いずれの訪問においてもデンマークの人々が盛大にファークロフトからの訪問者をもてなしており、短い滞在期間であったにもかかわらず、相互に学び合うための基盤が十分に整えられていたと解釈できる。

(2)デンマーク出身の留学生とその役割

前述の相互訪問に加え、ファークロフトではデンマーク出身の留学生を毎年一定数受け入れていた。本節では、彼らがファークロフトにおけるフォルケホイスコーレの受容に与えた影響と役割について考察する。

まず、調査対象とした学生マガジンに掲載された各タームの長期滞在学生数とデンマーク出身の学生数および氏名を表2に示す。表2より、この期間、ファークロフトには常に1名以上のデンマーク出身者が長期滞在していたことが確認できる。また、複数タームにわたって滞在していた者、1タームのみ滞在していた者など、様々な滞在期間が見られることも分かる15。なお、1911年7月号の長期滞在者名簿に氏名が掲載されているGunner Begtrupはホルガー・ベグトラップの息子である16

表2:ファークロフトの長期滞在数とデンマーク出身者(1909年~1914年)

掲載年 掲載号 長期滞在学生数 うちデンマーク出身者数とその氏名(表記は原典のまま)
1909年 12月号 20名 2名 Svend T. Koefoed, Salomon Neilsen
1910年 3月号 18名 1名 Svend Koefoed
12月号 14名 3名 Andreas P. Dahl, A. Martin Andersen, Jens Toft
1911年 3月号 19名 2名 Andreas Dahl, Vilhelm Larsen, Jens Toft
7月号 22名 3名 Albert Andersen, Holger Thestrup, Gunner Begtrup
12月号 20名 2名 Peder Just, Viggo Rosent 
1912年 3月号 18名 3名 Peder Just, F. Sorensen, J. Cristensen
1913年 3月号 19名 3名 H. Yensen, T. Sams, C. Hansen
12月号 14名 3名 H. K. Randers, M. Kjaer, B. Jensen
1914年 3月号 18名 2名 J. Philipsen, M. Kjaer
7月号 18名 4名

J. Philipsen, S. Bronsted, J. C. Ellehauge,

C. Christiansen

12月号 20名 1名 C. Yespersen

 これらデンマーク出身の留学生がファークロフトにおいて果たした役割を明らかにするため、彼らが学生マガジンに投稿した記事の内容分析を行った。分析の対象とした学生マガジンのうち、1911年12月号および1914年3・12月号の3号を除く9号に、デンマークからの留学生による記事が掲載されていた。その概要を表3に示す。

 表3の通り、デンマーク出身の留学生が寄稿した記事にはいくつかの特徴がある。まず、フォルケホイスコーレの創設と発展に影響を与えた教育者の紹介記事が多い点である。これらの人物の教育思想やその実践を留学生から直接学ぶことは、ファークロフトの教師や学生にとって貴重な機会であったと考えられる。

表3:デンマーク出身の留学生による記事の概要

掲載号 著者名 記事のタイトルとその概要
1909.12 Svend T. Koefoed17

Holger Danske(ホルガー・ダンスク)

デンマークの歴史上の王、ホルガー・ダンスクに関する記事。デンマークでは彼の精神が再び目覚め、国を守るために帰還するとされており、困難な時代にあってもデンマーク人に希望を与える象徴的存在とされていることが記述されている。

1910.3 Svend Koefoed

A Dane’s Trip To Stratford-on-Avon(デンマーク人のストラトフォード・オン・エイヴォン旅行)

Svend Koefoedによる英国旅行記。Stratford-on-Avonはシェイクスピアの故郷として知られている。

1910.12 Andreas P. Dahl,

How Grundtvig Got His Ideas About the High Schools(グルントヴィはどのようにホイスコーレの構想を得たのか)

グルントヴィの半生、1829年からのイギリス旅行、また彼のラテン語による学校への批判が記述されている。

1911.3 Vilhelm Larsen

Pioneers of education: Kold and Trier(教育のパイオニア:コルとトリア)

クリステン・コルとエルンスト・トリアに関する記事。

Andreas Dahl

A Song of the Peasant(農民の歌)

デンマーク語の歌詞の英訳が掲載されている。

Vilhelm Larsen ホルガー・ベグトラップがデンマークのホイスコーレニュースに書いたイギリス訪問の記事の英訳。
1911.7 Holger Thestrup

Gefion(ゲフィオン)

北欧神話に登場するシェラン島を創造した女神ゲフィオンに関する記事(英語とデンマーク語で記載されている)。

1912.3 Peder Just

The Talk With a Danish Cottager(デンマークの小作農との対話)

デンマークの小作農である友人との対話を基に、裕福な人々や工場労働者に比べて、小作農の生活は食べていくのに困らなければ幸せであることが記述されている。

1913.3 H. Yensen

Steen Blicher(スティーン・ブリケル)

19世紀のデンマークの詩人および作家であるスティーン・ブリケルの半生に関する記事。

1913.12 P. Augustinus 

Art in Education(教育の中の芸術)

知性や記憶に訴えかける学校のほとんどの教科と異なり、芸術はそれに触れる個人、そしてその個人を通じて社会に大きな影響を与える。また、芸術は心を浄化し、人生に対する啓示となることが論じられている。

1914.7 S. Bronsted

Kold and The Danish Free-School(コルとデンマークの自由学校)

クリステン・コルの人生、思想、およびその後に残した影響と、そこから始まったフリースクールの変容について記述されている。

また、デンマークの神話や詩、歌詞に関する寄稿が多いことも注目に値する。グルントヴィ自身も「デンマーク語のホイスコーレで主役を演じるのはとりわけ歴史[物語]と詩歌であるだろうし、それに付帯する祖国の歴史や[民衆]歌謡であろう18」と述べているように、フォルケホイスコーレ思想を提案した当初、歴史教育はその中心に位置づけられていたと考えられている。Holm(2024)によると、グルントヴィは歴史の教育を通じて民衆がデンマーク社会の生に参加可能になることを期待した。民衆が過去について深く洞察すればそれだけ、彼らには未来によりよい仕方で備えられるだろうと考え、フォルケホイスコーレを構想した際に歴史教育を中心に置いたようである。一方でグルントヴィは過去がいきいきとしていないのであれば関心が無いと述べ、歴史の教育と記述は過去との生きた対話でなければならないと考えていた。そのため歴史を生きたものにするためにギリシャ語やラテン語、アイスランド語でも詩作したり、多くの詩を翻訳したりしたという。このように、グルントヴィは乾いた学術よりも生き生きとした詩的精神に一層関心があることを言明し、こうした自身のアプローチを「歴史・詩的」アプローチと呼んだのである。

ファークロフトにおいても歴史は重要な科目として取り扱われていた。例えば森田(2024)に掲載されている設立年1909年秋学期の学習プログラムには、産業の歴史、英国の歴史、英文学の歴史、初期ヘブライ語の歴史、と18の座学のうち4つの歴史に関する科目が開講されている。また諸岡(1967)は1963年の資料と各カレッジの学校案内をもとにイギリスにあるレジデンシャル・カレッジの学習科目を記載しているが、この史料においてもファークロフトの主な学習科目は英語と文学、歴史と政治科学、経済学と社会研究(社会史、経済史、産業上の諸関係を含む)となっており、設立以降も歴史教育に力を入れていたことが分かる。本研究では当時のファークロフトにおいて過去との対話や詩を通じた学習が実施されていたかどうかまでは確認できなかったが、そうした方法論も含め、デンマーク出身の留学生はファークロフトにおけるグルントヴィの「歴史・詩的教育」の継承にも大きな役割を担っていたのではないかと推測できた。

さらに、デンマーク出身の留学生の中にはフォルケホイスコーレの教師であった者も含まれるという点も重要である。例えば、1911年3月号に2つの記事を寄稿しているヴィルヘルム・ラーソンは、ファークロフトに学生として滞在する前に、アスコウ・ホイスコーレで若いフォルケホイスコーレ教師のための夏期講習に参加し、5年間にわたり2つのフォルケホイスコーレ19で教師を務めていた人物である。フォルケホイスコーレに関する「グルントヴィの独創的なビジョンは、人を引き込まずにはおかない明快な言葉でまとめられている20」一方で、「このビジョンをどう実現させるかについての彼の具体的な指令は、多くの点について議論や解釈の余地を残している21」と言われている。フォルケホイスコーレの代表校で学び教師としての経験も有するデンマーク出身の留学生は、自身が学んだグルントヴィの「理念」に加えて、その後のフォルケホイスコーレの発展に寄与したグルントヴィ派の指導者たちの「実践」も伝えることで、ファークロフトがグルントヴィの理念に基づくフォルケホイスコーレの形式を継承し、それを実践していく上で重要な役割を果たしたのではないかと考えられた。

(3)ギルドの形成とその役割

 最後に、1911年に設立されたファークロフトのギルド(同窓会組織)が、デンマークとの教育交流に果たした役割について明らかになったことを述べる。まず、調査対象とした学生マガジンの中でギルドに関する記事が記載されていた号とその内容を表4にまとめる。

表4:ギルドに関する記事の概要

掲載号 内容
1910.12 1期生の学生によるギルドに関する初めての記事。ギルドが長期滞在者だけでなく短期滞在者も包含する意向が示されている。(実際には加入の意思を示した70名の多くが長期滞在者であった)
1911.3 イースターに開催予定の同窓会に40人ほどが集まる見込みであること、チェスやスポーツを行う予定であること、4日間のイベントであることなどが記載されている。
1911.7 ギルドの目的(「人にとって最も貴重な財産である友情を育むこと」であり、さらに「Fircroft を離れて日常生活に戻った後もその仲間意識を持続させること」)が記載されている。別の記事では、イースターに開催された初めての年次会議に40人以上の卒業生が参加し、正式にギルドが発足したこと、ギルドの会員資格は「ファークロフトに一晩以上滞在した、または講義を受講した者」と定義されたこと、支部設立の可能性や会費と会員特典について記載されている。
1912.3 ギルドが発足から7か月で70人の会員を集め、バーミンガムとロンドンに支部を設立したこと、ロンドン支部への訪問と女性の活躍が記載されている。1912年4月に同窓会が開催予定であることも記載されている。
1913.3 1913年は毎年恒例のイースターの同窓会に加えて8月にデンマークでの同窓会も予定されていること、イースターの同窓会ではギルドのバッジのデザインが議論される予定であることが記載されている。
1913.12 1913年のイースターに同窓会が盛大に開催されたこと、そこでは校長や教師らの講演、スポーツ、年次総会、レディース・デイ、ゲームや食事会などが催されたこと、次回の同窓会の予定が記載されている。
1914.3 2月28日に2回目のギルド・パーティが開催され、250名が集まったこと、イースターに開催される同窓会の準備が順調に進んでいることが記載されている。
1914.7 1914年のイースターに開催された同窓会は、これまでで最も素晴らしく成功したものであったこと、天候と素晴らしい仲間、質の高い講演が実施されたことが強調されている。ギルドでは1916年にデンマークへの訪問を計画しており、会員に対して費用の積み立てが提案されている。

  表4を見ると、ギルドは短期・長期滞在者を問わず全ての学生に開かれており、イースターの同窓会や支部訪問を通じて、メンバー間の連帯を維持し「友情」を育む場として機能していたと推測できる。特に、ファークロフトを離れた後も友情や仲間意識を継続させるというギルドの目的は、フォルケホイスコーレが重視する生涯を通じた学びと共同体形成の理念と一致する22。また、デンマークに支部を設立し、1916年にはデンマーク訪問を企画するなど、ギルドがデンマークのフォルケホイスコーレとの国際的な連携を積極的に促進している点も注目に値する。

4.まとめと今後の課題

本研究は、フレデリクスボー・ホイスコーレとの教育交流が、ファークロフトにおけるフォルケホイスコーレの受容とその展開に与えた影響を、学生マガジンThe Old Fircrofterの分析を通じて明らかにすることを目的とした。分析の結果、ファークロフトがフォルケホイスコーレに忠実な形式をとり得た背景には、以下の3つの要因が存在することが確認された。

1点目は、フレデリクスボー・ホイスコーレとの相互訪問である。1909年以降、両校の教員および学生が定期的に訪問し合い、特に、グルントヴィの教育思想の1つでもある「生きた言葉による教育」がファークロフトで実践される基盤形成に寄与したことが示された。2点目は、ファークロフトに毎年在籍していたデンマーク出身の留学生たちが、彼ら自身が学んだグルントヴィの「理念」に加え、フォルケホイスコーレの発展に寄与したグルントヴィ派の指導者たちの「実践」も伝えることで、ファークロフトがフォルケホイスコーレの理念を教育実践の中で具現化することに大きな役割を担ったことが示唆された。また彼らはグルントヴィ独特の歴史教育観である「歴史・詩的」アプローチの継承にも貢献したことも推測できた。3点目は、1911年に設立されたギルドの存在である。ギルドは、学びの場を超えて国際的なネットワークと社会的な結束を支えるプラットフォームとして機能し、ファークロフトがフォルケホイスコーレの精神的基盤を共有・発展させるために重要な役割を果たしたと考えられた。

本研究で得られた知見が意味するところは、ファークロフトのフォルケホイスコーレ受容にあたって、フレデリクスボー・ホイスコーレとの相互訪問、デンマーク出身の留学生たち、そしてギルドの3点が、デンマークのフォルケホイスコーレの精神、ひいてはグルントヴィの教育思想の本質を理解する媒介となったということではないだろうか。特にグルントヴィは多くのテキストや作品を残したが、彼の文章は非常に難解で翻訳が難しいと言われている。例えばLundgreen-Nielsen(1997)は、グルントヴィの多くの作品や著書は、叙情詩で構成されている、デンマークの文脈に深く根付いている、アイデアが試行的・かつ断片的に探究される、一般的なデンマーク語を独特の方法で使用することがある、などの理由から、デンマーク人にとっても理解が難しく、他の言語に翻訳することも困難であることを指摘している。近年ではグルントヴィの作品や著書は、日本語も含め、様々な言語に翻訳され、その研究も進んでいる。しかしファークロフト創成期の時代においては、デンマークとの教育交流という媒介無しでは、グルントヴィの教育思想の本質を真に理解し、それを異文化の文脈で実践として展開していくことは、より困難だったと考えられる。

ファークロフトの事例は、フォルケホイスコーレとの日常的な教育交流を通じてグルントヴィの複雑な教育思想とフォルケホイスコーレの形式を、時間をかけて理解し浸透させ、さらにそれを実践においてどのように具現化するかまで落とし込んで継承することに成功した事例の一つであると言えよう。本研究において得られたこの知見は、フォルケホイスコーレのみならず、ある文脈に深く根付いた独特の教育思想を異文化の文脈においていかに継承・発展させるかについての理解を深め、異文化間の継続的な教育交流の重要性を再認識する契機を提供するものであると考える。

最後に、本研究から派生する今後の課題を述べる。1点目は、2023年5月の現地調査で収集できなかった学生マガジン3号の分析を早急に行う必要がある点である。2点目はこの2校の教育交流がデンマークのフォルケホイスコーレに与えた影響を、デンマーク側の史料から分析することである。3点目は第一次世界大戦以降のファークロフトがどのように変容していったのかを調査することである。これらについては今後の課題として、研究を継続したい。

謝辞

 本研究は、JSPP 科研費(22K02288)の研究成果の一部です。またこの論文の査読にあたり、貴重なご指摘・ご意見をくださった査読員の皆さまにも感謝申し上げます。

引用文献

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森田佐知子(2024)イギリスのフォルケホイスコーレと社会正義のキャリア支援,関係性の教育学,23(1),113–128.

Footnotes

グルントヴィはその長い人生において多岐にわたる方面で精力的に活動した。このことについて、例えばHolm(2024)は、グルントヴィをロマン主義者、神話論者、牧師、歴史家、教育者、賛美歌作家、政治家、そしてデンマーク人という観点で分析している。

このことについて、Borish(2011)は「初期のホイスコーレの多くがグルントヴィの考え方に共感を持たないと公言する教育者達によって指導され」、「息子をこれらの学校へ通わせた農民の多くも、熱心にグルントヴィの教えを賞賛していたわけではなかった」(p.215)と指摘しており、デンマークにおいてですら、グルントヴィの教育思想が初期のフォルケホイスコーレで忠実に具現化されたわけではなかった点に留意する必要がある。

Højskolernes Hus(2009)によると、この資料が作成された時点におけるフォルケホイスコーレやそれに類似した学習機関・コミュニティの数は、デンマークに78、ノルウェーに77、スウェーデンに148、フィンランドに89、さらにヨーロッパではドイツ52、イギリス31を含む140、北米24、アフリカ66、アジア36、南米1、中南米1となっており、フォルケホイスコーレはヨーロッパを超えて世界中に普及したことが認識されている。ただし、日本で掲載されている3件はSetana Folkehøjskole、Tamagawa International Education Center、Tokai Universityであることから、これらの数字には、現在はデンマークのフォルケホイスコーレとは異なる形態であるが、その起源にフォルケホイスコーレの影響を受けた機関等も含まれていると考えられる。

清水(2024)、p.208

Højskolehistorisk Forening(2022)によると、1895年にホルガー・ベグトラップ(Holger Begtrup:1859年~1937年)によって設立され、1937年にGrundtvigs Højskoleに併合された。

Jonty Hanaghamとは、本研究にて調査した学生マガジンの1910年12月号および1911年3・7月号に長期滞在者として氏名が掲載されているジョナサン・ハナガン(Jonathan Hanagham)のことである。Wolfson Centre for Archival Researchに保存されているトム・ブライアンからキャドバリー家に宛てた手紙(1912年4月15日付)には、彼が1911年の冬にフレゼリクスボー・ホイスコーレに滞在し、その時の働きぶりを評価されて1912の冬も招待を受けていると記載されている。Begtrup(1929)によれば、彼は、後述する「Et vindu i Vest(西の窓)」のコースでデンマーク人の生徒たちに英語を教えていた。

デンマークの神学者であったエルンスト・トリア(Ernst Trier:1837年~1893年)によって1865年に設立されたヴァレキレ・ホイスコーレ(Vallekilde Folkehøjskole)のこと。現存する伝統校の1つである。

Foght(1914)、p.44

Begtrup(1929)によれば、このコースは10年間継続された(p.143)。

Wolfson Centre for Archival Researchから提供いただいたファークロフト関連の史料一覧によると1910年7月号、1912年7・12月号も保管されている。しかし、2023年5月の調査においてこれら3号を収集できなかったため、本分析には含まれていない。

一行は、この時のガイドをJ. S. Thorntonに依頼したと記されている。Begtrup(1929)によると、J. S. Thorntonは高等学校の教師であったが他国の自由な学校形態を研究することに興味を持ち、1890年頃にデンマークのフォルケホイスコーレを発見して以来その熱烈な支持者となり、イギリスとデンマークの精神的な橋渡し役となった(p.129)という。

Begtrup(1929)には、この年、トム・ブライアンが2度フレゼリクスボー・ホイスコーレを訪問した(p.137)と記載されているが、2回目の渡航については学生マガジンに記載が無い。Begtrup(1929)によると、トム・ブライアンが1回目のデンマーク訪問からイギリスに戻る際にホルガー・ベグトラップの息子も同行し、そのままファークロフトに入学したようである。

Begtrup(1929)によると、1912年にもフォルケホイスコーレの教師たちの一団がファークロフトを訪問し、トム・ブライアンが彼らのために設けた講座を受講した(p.137)と記載されている。このことについて1912年3月号には記載が無いが、本研究では分析の対象とできなかった1912年7・12号に記載されている可能性がある。

Begtrup(1929)にはトム・ブライアンの1914年のデンマーク渡航について記載されておらず、1913年の訪問が最後である(p.138)と記述されている。ホルガー・ベグトラップ自身はその後、第一次世界大戦中(1915年)に病床のトム・ブライアンと会うためにイギリスに渡っている。

1912年7月号には6名の短期滞在者の氏名が掲載されているが、その中に1名のデンマーク出身者が含まれている。このことからFircroft Collegeではタームごとの留学以外にもデンマークからの滞在を受け入れていたと推測できる。

Begtrup(1929)、p.137

この記事は執筆者が明記されていないが、目次の執筆者欄にはイニシャルで「S. K.」と記されている。この年の在籍者でほかにこのイニシャルの者が存在しないことと、デンマークの神話に関する記事であることからSvend T. Koefoedが執筆したと推測した。

グルントヴィ(2015)、p.40

Hjørlunde Højskole とVoldby Højskole。

Borish(2011)、p.18

Borish(2011)、p.19

森田(2021)はこのことについて、「フォルケホイスコーレの多くの卒業生は、学校で行われる公開の会合に参加できるよう、意識的に学校の近くに住むことを好んだ」(p.99)と述べている。

 
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