2025 Volume 24 Issue 1 Pages 89-99
学校で死とともにあることを語り、思考することの意義と課題
―レヴィナス思想の教育への接続をてがかりにして―
福若 眞人(阪南大学)
その思想がたえざる源泉だというのは、言い換えるなら、私がその思想とともに、それが与えてくれる新たな始まりから出発して、たえず思考し始め、思考しなおすだろうということです。
(Derrida 1997=2024:22=24)
はじめに
死は予測不可能に到来する。自らの死そのものを経験することはできず、他方で生き続ける限りにおいて、いくつもの他者の死を経験する。かつては、経験する他者の死との関わりを、文化や慣習を通じて共同体や生活集団のなかで共有することもできたが、今日の社会では、そうした共有の機会や術を持ちえない場合もある。死という経験をどのように捉えていけばよいのかという問いは、容易に答えには辿り着けない課題の一つである。
そうした死という経験、あるいは死とともにどのように生きていくことが可能なのかという問いに、学校教育が正面から応えるという機会は決して多くない1。学校教育においては、死そのものというよりも、死を含む「生命」あるいは「いのち」という包括的な観点から「生きていくこと」を探究する学びが展開されてきた2。だが、さまざまな生きづらさ3のなかにある子ども4にとって、「生命」や「いのち」と呼ばれるものを自分事として捉えることは難しく5、他者の死のほうがかえって身近に感じられる場合もある。生きることが遠く、死を身近に感じる6子どもに対し、教師や大人が死とともにあることを語り、思考するという仕方で学校教育が応えることに、どのような意義があるのだろうか7。
以上の問題関心に、本論文では、現代フランス思想の哲学者の一人であるレヴィナス(Emmanuel Lévinas 1906-1995)の死をめぐる議論や言動をてがかりとしながら、検討をおこなう。レヴィナスの思想において「死」がどのように位置づき、かつその論点を学校教育においてどのように援用しうるかという点については、いくつかの先行研究のなかで検討されてきた(朴 2015、福若 2014;2017など)。だが、近年、レヴィナス独特の概念における性の捉え方やユダヤ思想との連関、それにともなう政治的言説との齟齬など、レヴィナスの思想を援用するうえで検討すべき内在的な課題が指摘されている。その指摘には、死をめぐる議論において関連するものも含まれる。本論文では、レヴィナスの思想に内在する課題に対する検討をふまえながら、教師や大人が死とともにあることを語り、思考することの意義と課題を探ることを目的とする。
そのために、以下のような流れで論を進める。まず、レヴィナスの死に関する議論を概観し、その特徴と教育への接続の仕方を確認する(第1節)。次に、レヴィナスの思想をめぐる内在的な課題を、教育学におけるレヴィナス思想の援用をめぐる問題と併せて見ていく(第2節)。そのうえで、教師や大人が死とともにあることを語り、思考することの意義と課題を検討する(第3節)。以上の論を通じて、教師や大人が死とともにあることを語り、思考することが、さまざまな生きづらさのなかにある子どもの支援のあり方を問い直すことや、子どもと関わる教師や大人の資質を捉え直すことに寄与することをめざす。
第1節 レヴィナスの思想における死の捉え方と教育への接続
第1節では、死とともにあることを語り、思考する教師や大人のあり方をイメージするために、レヴィナスの死に関する議論について、レヴィナスの思想の流れをもとに整理し、その特徴を把握しつつ、レヴィナスが自身の思想を教育の場にどのように接続しようとしていたのかを確認する。
(1)死をめぐる「主体」と「時間」の関係
「死」についてレヴィナスは、初期から晩年に至る多くの著作のなかで言及している。その捉え方は、おおまかに「自己の死」の位置づけと、「死」と関わる自己のありようの二つに分けられる。その二つに関わるのが「時間」の捉え方である。
通常、死は「終わり」であり、自己の生きる時間も死によって止まると考えられる。だからこそ、自らの死を経験することができないと捉えられる。こうした死の持つ無化あるいは自己の有限性をもとに、自己の生きる時間を捉え直すという思考が、ハイデガーの死と時間をめぐる議論から導き出されることがある。だが、レヴィナスは「死から時間を捉える」のではなく、「時間から死を捉える」ことによって、自己の死の経験を単なる自己の無化と捉えない可能性を示唆する8。その可能性は、前期思想における〈ある〉(il y a)という概念をもとに検討されてきた。
〈ある〉において、自己は「自らの思い通りには存在し得えない」状態で「存在し続ける」。言い換えれば、自己という主体として生きることを剥奪された状態のまま、「死ぬ」ことすらできないという状況に陥るのである。さらに、そうした主体として生きることを剥奪された自己、あるいは不在となった者は、賞賛や批評の対象にされたり、誰かの記憶や物語に回収されたりと、自己の意に反する形で他者から扱われることとなる。こうした状況に対し、初期から中期における著作において「多産性/繁殖性」(fécondité)という概念とともに「子を生む/産む」9という現象をてがかりに主体の変容について論じることで、レヴィナスは「個人の死を乗り越える人間的な時間性」(小手川 2016:258)を捉えようとした。
主体として生きる自己にとって、死は自らのものだけでなく、他者の死についても、予期しえない、言い換えれば自己の可能性には収まりきらない状況として到来する。「他者の死」に対する自己の応答、あるいはその到来に対する責めへの向き合いに、レヴィナスは後期の著作で「犠牲」や「身代わり」といった極端なあり方を提起してきた。そして、そのあり方には、「記憶」として回収できないにもかかわらず維持されるような他者と自己の関わりに流れる「隔時性」(diachronie)と呼ばれる時間の性質が関わっていた。隔時性は、自己の主体性を擁護するという仕方で存在するのではない、別の仕方を探究する思考を支える時間と主体との関係を意味していたのである。
このように、レヴィナスにおいて「死」は、「時間」との関係をめぐる自己の存在や、他者への関わりといった主体のありようをめぐる思考に関わっている。他者に対する応答責任を主題化したとされるレヴィナスの思想は、死とともにあることがどのようにして可能になるかという本論文の核となる「問い」を探究するうえでのてがかりを提供しうるのである。
(2)教育という場での「思想の展開」の示し方
レヴィナスの著作において、死をめぐる議論が扱われてきたことは上述のとおりである。死をめぐる議論は「書き言葉」として残されたが、講演や講義での語りがもとになっているものがある。例えば、晩年にジャック・ロランによって編まれた『神・死・時間』(1993)は、レヴィナスが1975年から76年にかけてソルボンヌでおこなった講義「死と時間」および「神と存在-神-学」の講義録であり、「死と時間」においては、先述した「時間を起点として死を思考すること」に向けた議論が展開されている。
この講義録は、レヴィナスがおこなった「哲学教育の数少ない痕跡のひとつ」に位置づけられており、その講義の中核には「他者の顔をとおして私に向けられる問いとしての〈他なるもの〉の問いを提起し、いま一度提起し、再び取り上げ、反復している」という特徴があると、ロランは指摘する(Lévinas 1993=1994:9=3、傍点は原著強調)。
ロランが述べるように、この講義録の内容には、それまでレヴィナスが著してきた書物や論考に書かれたものと「同じ」ものが含まれている。だが、講義を通じて「別の仕方で」語ることによって、レヴィナスは「問い」の提起をめざそうとしていた。また、ロランは、講義のなかで展開された「哲学の伝統との対話」10において、レヴィナスが一人ひとりの哲学者を「固有性」(固有名)とともに迎え、一人称で対話をおこなっていることに注目する。こうしたレヴィナスの語りは、哲学史を教えようとしていた「教授レヴィナス」として例外的であるとロランは捉えている(Ibid.:9=3)。
ロランは、レヴィナスの思考の仕方に「哲学史の研究と思想に固有な展開とのあいだに厳密な区別」を見てとる。思想に固有な展開、すなわちレヴィナスが独自の思想を展開する際、「過去の数々の哲学を援用しはするのだが、そうした哲学との明確な論争や真の対話に取りかかる必要を感じてはいない」とロランは捉えている(Ibid.:259=321)。この講義で示される思想が、『存在するとは別の仕方で あるいは存在の彼方へ』(1974)に書き記されたばかりの思想と軌を一にしているものの、「偉大な先哲たちや同時代の偉大な哲学者たちとの対話と論争をとおして思想が織りなされていく」(Ibid.:260=322)点に、思考の示し方の違いがあるのである。
このように、「死と時間」でレヴィナスが思想を展開する際には、著作すなわち書き言葉として「思想を展開する」こととは別の姿勢が見られた。ロランはそこに講義という教授活動の特徴を見てとる。ただし、それは「口頭の教え」に何か新しい要素を含めようとしているわけではない(Ibid.8=2)。主体に応答を迫るような「問い」を、哲学者との対峙というレヴィナスとしては珍しい仕方を通じて再提起し、反復させているのである。
第2節 レヴィナスの思想に内在する諸課題と教育に援用することへの留意
第1節では、レヴィナスの死をめぐる議論の特徴を、レヴィナスの思想の流れとともに整理するとともに、自身の思想を教育にどのように接続しようとしていたかを、講義「死と時間」の特徴に着目しながら見てきた。
こうしたレヴィナスの死をめぐる教育的な取り組みは、学校教育において教師や大人が死とともにあることを語り、思考することのロールモデルとして捉えることもできる。特に、書き言葉ではない講義において、主体に応答を迫る「問い」を提起するというあり方は、死とともにあることを語り、思考する教師や大人の資質や能力の一つとして注目に値する。だが、レヴィナスの思想や姿勢をめぐっては検討すべき課題もいくつかあり、無批判に援用することには注意が必要である。
第2節では、近年のレヴィナス研究で指摘されてきた内在的な課題を確認するとともに、教育学におけるレヴィナス思想の援用をめぐる問題を併せて検討することで、学校教育で具体化していくうえでどのような留意が必要かを見ていくことにする。
レヴィナスをめぐる研究の蓄積は数多く積み重ねられており、レヴィナスの思想を多様に読む、あるいは福祉や医療、心理学や教育学など、ケアを含む多方面に開いていくという動きが国内外を問わず、活発におこなわれている(藤岡ほか 2012;杉村ほか編 2022;レヴィナス協会編 2022;村上 2023;渡名喜 2024など)。前節で見た死をめぐる問題についても、死者の問題が他者の問題と結びつく点からレヴィナスに注目しようとする動きが見られる(末木 2018)。だが、いくつかの先行研究で指摘されるとおり、レヴィナスの著述やそのなかで用いられる概念の捉え方については、留意すべき点が存在する。
例えば、「ユダヤ教に由来する厳格な一神教の他者論」(末木 同上書:249)をレヴィナスの思想に見る末木文美士や、レヴィナスが「ユダヤ=キリスト教的伝統の中でのみ倫理的関係が可能である、という考えにとらわれていた」(Butler 2015=2018:106=141)ことに着目するジュディス・バトラーのように、レヴィナスの思想とユダヤ教との距離については、慎重を要する。レヴィナス自身、ユダヤ教論と哲学のそれぞれを扱う著作を出す際、出版社を意図的に使い分ける工夫をしていたことからも、何を主題とする著作であるかということは、表面上は便宜的に区別することができる。だが、国外の先行研究でも、レヴィナスの思想へのユダヤ教の反映、あるいはキリスト教との親和性を、護教論的なものとして短絡的に判断すべきでないと捉えられている(藤岡ほか 前掲書:342-347)。
また、死をめぐる問題について考える際、宗教との連関は、レヴィナスが社会問題として語る「イスラエル」に関する著述にも影響を与えている。レヴィナスが用いる「イスラエル」という表現を建設的に捉える立場も存在するが(レヴィナス協会編 前掲書:64-66)、レヴィナスの言動を「そのタイミングと内容とにおいて、政治シオニストの振る舞いにしか見えない」と問題視する立場もある(早尾 2024:34)。レヴィナスのイスラエルをめぐる言動と、〈倫理〉の探究との間にある乖離や矛盾を、正面から受け止めつつ、「レヴィナス自身に抗して」考える方向性も模索されている(Butler op. cit.:106=141)。
さらに、前節で見た「個人の死」の克服として提起された「繁殖性/多産性」という概念には、「父と息子」の関係性が主題化されることに対する家父長制の指摘や、『全体性と無限』(1961)第4部で展開される「女性的なもの」といった概念を含めて、女性蔑視あるいは異性愛中心主義やシスジェンダー中心主義などの規範の潜在があるという指摘もある(古怒田 2024)。先述のように、「繁殖性/多産性」の概念を、生物学的な生殖行為ではない「メタファー」として捉えようとする立場も存在するが、近年ではレヴィナスの異性愛中心主義に抗する「クィア」な解釈の可能性も模索されている(古怒田 2023)。
こうした宗教や政治、性といった、レヴィナスの概念の周縁にある問題を丁寧に捉え直していくことは、レヴィナスが後期思想に探究した「死に瀕した他者を孤立させずに弔うこと」(古怒田 2023:96)とも密接に関わっている。一見すると「死」に直接関係しないように見える言説や言動であっても、それらに内在する見方や考え方にどのような特徴や課題があるかという点に留意する必要がある11。また、「生きづらさ」も「社会」や「環境」、「時代」との関係において生じる現象として捉えられるため12、どのような支配的な価値観や社会規範、人間関係の存在のなかで、レヴィナスの概念を捉えようとしているのかを自覚しておく必要がある。
(2)レヴィナスの思想を教育に援用するうえでの課題
同様の留意は、レヴィナスの思想を教育や教育研究に援用するうえでも必要となる。先述の通り、レヴィナスの思想をめぐる研究は多岐にわたっている。とりわけアメリカを中心とする英語圏では、「比較思想研究や学際的な応用研究など、レヴィナス哲学に対してより自由なアプローチを試みる研究が多く見られる」(吉野 2018:134)という特徴がある。そうした動きは21世紀に入ってから、より活発となり、教育学におけるレヴィナスの思想への接近も、1990年代以降に見られるようになった(安喰 2022:23)。
日本における教育学へのレヴィナスの受容については、「レヴィナスの思想と教育学との隔たりを保ちつつ、既存の教育学に理論を広げる一契機としてレヴィナスを扱う初期の研究から、レヴィナスの思想を教育的関係へと積極的に援用したり、様々な概念の検討を行いながら教師の非暴力的な教育的働きかけの可能性や倫理的主体形成のあり方を提示する、後期のより自由で積極的なレヴィナス解釈を行う研究へと進行してきた」とされ、英米圏でも似通った仕方で受容が進んできたと捉えられている(安喰 同上書:28-29)。
こうした教育学におけるレヴィナスの思想の受容の過程で、レヴィナスの哲学的な著述で用いられる「教え」(enseignement)や「師」(maître)に注目が向けられることもある。この点について、一見すると教育に関係するように見える語彙を字義通りに理解してしまうことで、「レヴィナスの思想の安易な実践的応用を通して、彼の思想を抽象化し、皮相なものにしてしまう危険がある」(吉野 前掲書:136)ことに留意する必要がある。国外の研究においては、「レヴィナスの諸概念を教育へと応用する方法を処方しない」という点を強調しつつ、「レヴィナスの読解が、しばしば自明とされる教育という事柄に対する根本的な再考を促すこと、そして、そこに伏在している(哲学的であったり政治的であったりする)諸前提の批判的分析を可能にする」(吉野 同上書:137)ことをめざすという方向性が模索されてきた13。
このように、レヴィナスの思想の教育への援用については、これまでの先行研究において幾度も見直されてきている。レヴィナスの教育に関連する諸概念を捉えつつ、それらをてがかりに「教育という事柄の根本的な再考」をめざすということは、レヴィナスの思想の安易な実践的応用とは別の仕方を模索することを意味している。レヴィナスの死をめぐる問いや思考についても、教育への接続や援用が安易な実践的応用となることを回避する必要がある。第1節では、レヴィナスによる死をめぐる講義のうちに、主体に応答を迫る「問い」を提起するというあり方を見てきたが、そのあり方は「教育という事柄の根本的な再考」に向かう側面としても、教師や大人に求められる資質となるのである。
第3節 学校で大人が死とともにあることを語り、思考することの意義と課題
第2節では、レヴィナスの思想や言動について、近年のレヴィナス研究で指摘されてきた内在的な課題を確認するとともに、教育学におけるレヴィナス思想の援用をめぐる留意点を確認してきた。死とともにあることを語り、思考するうえでも、「教育という事柄の根本的な再考」につながることを意識しつつ、その課題や留意点をどのように引き受けていくかが重要となる。本節では、学校で教師や大人が死とともにあることを語り、思考することの意義と課題について、ここまでのレヴィナスをめぐる議論をふまえて検討する。
先述のように、死はそれが自己のものであれ、他者のものであれ、予見できず、自己の可能性に収まりきらないものとして到来する。そうした死を前にしたとき、既存の生活にある言葉や価値観のみならず、「生きる」ことそのものを自分事化することが困難になる場合がある。とりわけ圧倒する暴力的な記憶を伴う場合には、「言葉を喪うしかなかった」と思わざるを得ない場面にも遭遇しうる(宮地 2007:3)。そうした状況のなかで、学校教育のなかで教師や大人が死とともにあることを語り、思考する必要があるのは、なぜなのだろうか。
レヴィナスの場合、固有の哲学者と対峙しながら「時間を起点として死を思考する」ことで、自らに先立って到来する他者の死とどのように対峙するかという「問い」を提起し、反復することをめざしていた。他方、死を意識化することによって「自己の生」14の理解へと向かう立場(山本 2017)や、発達段階をふまえて「棚上げ」15という仕方を学ぼうとする立場(近藤 2009;近藤編2007)もある。このように、死とともにあることを語り、思考するという仕方には、いくつかの道筋が存在する。心理的発達や個別の学習者の状況などによっては、死とともにあることの一つの向き合い方として、「自己の生」の理解や「棚上げ」するという選択肢が有効となる場合もある。死とともに生きていこうとするうえでのあり方を模索するためには、そのための仕方を何かしらの形で共有することが必要となる。教師や大人には、その役割を担い、子どもに応答することが可能である。
だが、「死とともにあることを語り、思考する」ことは、選択肢を得ることによって完結できるものではない。死や生と関わるうえで、宗教や政治、性といった日常を生きるうえで用いる概念の捉え直しが必要となる。また、何らかの思考の仕方を安易に援用することに留意したり、言動との齟齬が生じた際の問い直しをおこなったりする必要がある。子どもに関わる教師や大人が生活する時代や環境に支配的な価値観や社会規範を自覚し、そこから排除・抑圧される生きづらさを把握することが求められるためである。だからこそ、学習者である子どもに先立って、教師や大人が、自らの死を迎えるまでに何度も「問い」を提起し、反復しながら思考を続けることが必要となるのである。
おわりに
以上、本論文では、レヴィナスの死をめぐる思想と教育への接続の特徴と、レヴィナスの思想に内在するいくつかの課題を整理しながら、学校において大人や教師が死とともにあることを語り、思考することの意義と課題について検討してきた。
レヴィナスの死をめぐる思想の理解には、妻と娘以外の家族や親戚がナチスによって命を落としたというレヴィナス自身の体験を参考にすることができる(村上 2023:38)。このことは、本論文で見てきた日本における学校教育の子どもをめぐる状況とは、一見すると距離があるとも捉えられる。つまり、レヴィナスの背景と類似する時代、地域であることが、「教育への接続」の意義を見るうえでの条件となるという捉え方も存在する。本論文は、教育への接続や援用が安易な実践的応用となることには留意しつつも、そうした限定を拡張する形で、さまざまな生きづらさのなかで死を身近に感じる子どもと向き合うこと、そのために教師や大人に求められるあり方について考えるために、レヴィナスの思想に注目した。
死とともにあることを語り、思考することは、「問い」の提起と反復を要請する。そこには、日常を生きるなかで用いる概念や、何らかの思想に対する姿勢や言動に対する捉え直しが含まれる。こうした「問い」に、「棚上げ」にするという別の仕方を選択肢の一つとして持ちつつも、教師や大人が絶えず向き合い続けることによって、生きることが遠く、死のほうが身近に感じる子どもの「自己の生」の理解や、ともに問うという連帯につながることが求められる。
そうした「問い」を、学習活動のなかで、あるいは学習集団のなかで共有し、ともに考えていくための教育内容や教育方法、その学びを支えるための教師の資質・能力をどのように養うかという教師教育への具体化は、今後の課題としたい。
付記
本研究は、JSPS科研費(20K13990,22K02615)の研究成果の一部である。
引用・参考文献
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安喰勇平(2022)『レヴィナスと教育学―他者をめぐる教育学の語りを問い直す』春風社
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近藤卓編(2007)『いのちの教育の理論と実践』金子書房
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杉村靖彦ほか編(2022)『個と普遍―レヴィナス哲学の新たな広がり』法政大学出版局
高橋和巳(2017)『消えたい―虐待された人の生き方から知る心の幸せ』筑摩書房
渡名喜庸哲(2024)『レヴィナス 顔の向こうに』青土社
西川慧ほか編(2024)『多軸的な自己を生きる―交錯するポジショナリティのオートエスノグラフィ』東北大学出版会
朴シネ(2015)『死の力―死と向き合う教育』晃洋書房
早尾貴紀(2024)「シオニズムに対するレヴィナスとデリダの距離」『Suppléments』no.3、32-37頁
福若眞人(2014)「「他者の死」への倫理的応答を触発する「教え」―レヴィナス思想に見る「死」の主題化と「語り直し」―」『ホリスティック教育研究』第17号、45-54頁
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――――(2022)「子どもの自死や生きづらさに応答するための道徳教育の条件―内容項目「家族愛」および教師の関わりに着目して―」『関係性の教育学』Vol.21 No.1、91-102頁
藤岡俊博ほか(2012)「新しくレヴィナスを読むために―研究・文献ガイド」『現代思想』第40巻第3号、335-357頁
ペリュション・コリーヌ(2020=2023)『レヴィナスを理解するために―倫理・ケア・正義』(渡名喜庸哲・樋口雄哉・犬飼智仁訳)明石書店
宮地尚子(2007)『環状島=トラウマの地政学』みすず書房
村上靖彦(2023)『傷の哲学、レヴィナス』河出書房新社
――――(2024)「生のなかの死、死のなかの生―現象学から見た死」、祖父江典人編『死と向き合う心理臨床』日本評論社、122-134頁
山下美紀(2012)『子どもの「生きづらさ」―子ども主体の生活システム論的アプローチ』学文社
山本詩織(2017)「学習指導要領からみる死生観構築に関する批判的検討」『公教育計画研究』第8号、102-117頁
吉野敦(2018)「エマニュエル・レヴィナスの哲学と道徳教育の問題―今日の研究動向をふまえたその応用可能性について」『早稲田大学教育学会紀要』第19号、134-141頁
レヴィナス協会編(2022)『レヴィナス読本』法政大学出版局
佐藤年明が指摘するように、学習指導要領において「死」そのものを主題化する項目はほとんど存在しない(佐藤 2019:224)。他方、「生命」を尊重し大切にすることなど、「生命」に関する記述は、保育所保育指針、幼稚園教育要領、学習指導要領に共通する事項として、見てとることができる(岡本 2009)。
近藤卓は「いのち」を、身体的な生や死に焦点を置かず、身体的・精神的・社会的側面を統合する存在としての人間のいとなみ、という広い概念として用いている(近藤編 2007:10)。本論文においても、平仮名表記の「いのち」を包括的な概念として用いる。
福若眞人は山下(2012)などを参照しながら、「生きづらさ」に固定的な定義がないことを示したうえで、信頼できる大人の関わりに注目する(福若 2022:94)。本論文では、神原(2020)をてがかりに、「生きづらさ」を社会との関わりから捉えていく。
福若は、道徳教育および学校教育に関する論において「子ども」を「児童生徒」と同義として扱っている(福若 同上書:93)が、本論文では注1および注6をふまえ、就学前の幼児から、一条校として定義される日本の「学校」に就学していると想定される年齢層を「子ども」と捉える。
高橋和巳は、被虐待児の訴えから、「死にたい」と「消えたい」という思いの前提に、人生において「生きたい、生きている」という感覚の有無が反映されている点を明らかにした(高橋 2017:30-31)。このことは、自身が受けた傷について語り直した齋藤塔子も同様に、次のように述べている。「私は「生き延びた」どころか、そもそも十分に「生きて」こなかったのだ」(斎藤 2024:286)。
学校で自死が発生した後、カウンセリングに訪れた生徒から発せられた声をふまえて、志水佑后は次のように指摘する。「教師たちの日常生活復帰への試みは彼らには、あまり効果がなく、「死ねた」という事実のみが先走り、死を身近なものに感じさせていた」(志水 2024:90)。
本論文では、学校で「死とともにあることを語り、思考する」主体を、教師に限定せず、学校や子どもに関わる大人をも含むことで、死に近い子どもを包括的に支援することをめざしつつ、同時に教師の資質・能力の検討にも接続することをめざす。
「死」をめぐるハイデガーとレヴィナスの思想との異同については、小手川(2016)およびペリュション(2020=2023)第10章「死と時間」などを参照されたい。
「子を生む/産む」ことを含む「多産性/繁殖性」は、生物学的現象としての生殖によって「子ども」を産むことではなく、現存する個人の生が不在となる未来において構成される仕方として捉えられている。「多産性/繁殖性」が了解不可能な「他なるもの」への主体の関わりを検討するうえでのメタファーとして捉えられることもあるが、第2節で後述するように、そうした捉え方に対して性の捉え方をめぐる批判が向けられている。
ここでの「対話」という語は、ロランが用いたものであるが、対話の条件を向かい合うそれぞれが語り、聞くという相互関係として捉えるならば、講義でおこなわれたものは「対話」ではなく、「対峙」といった表現のほうが適切である。
思想や言動をめぐる立ち位置を批判的に捉えるうえで、「ポジショナリティ」(池田 2023;宇都宮 2009;西川ほか編 2024など)に着目することがてがかりとなりうるが、その詳しい検討については機会を改めておこないたい。
神原文子は、「生活実現」に着目して、何らかの生活諸課題が充足できない、あるいは許容状態に見えても、その状態を維持することが困難な状態を「生きづらさ」と捉えており、生活者を「生きづらくさせる」諸相について検討している(神原 2020)。
平石晃樹は、レヴィナスと教育が交差する哲学的な位相として、『全体性と無限』やそれ以前の草稿などの資料から言及されていた「教え」の持つ受動的な特徴や、「子ども」や「若者」という主題の特徴から立ち現れる「教育思想」に「時代錯誤」という捉え方を見てとる。だが、その「時代錯誤」と捉えられる視点こそが「教育の現実に埋没せずにそれを批判的に捉えるための座標軸となりうる」という意義を持つのだと指摘する(レヴィナス協会編 2022:233)。
ここでいう「自己の生」とは、「主権者として自己決定権を所有していることを自覚し、それを行使したうえで成立する生命」を意味し、死を意識化することで「自己が変容してきたライフヒストリーやコミュニティによる他者との関係性、そして自己の立ち位置を自覚すること」をめざそうとしている(山本 2017:102)。
近藤は、いのちや死を前にした感情を「なかったこと」にしてしまうのではなく、保留する「棚上げ」を学ぶことを、「小学校高学年から中学生」という発達段階では必要であると捉えている(近藤 2009:11)。近藤は、「棚上げ」するものに「答えの出ない問い」を含めているが(近藤編 2007:21)、「答えの出ない問い」を「棚上げ」にする根拠については不明瞭である。