The Journal of Engaged Pedagogy
Online ISSN : 2436-780X
Print ISSN : 1349-0206
Critical Perspectives and Thinking of Global Citizenship Education and its Pitfall
with the Frameworks of “East - West” and “South - North”
Yuta NAGUMO
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2025 Volume 24 Issue 2 Pages 97-110

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グローバル・シティズンシップ教育の批判的視点・思考

とその陥穽:「東・西」「南・北」の枠組みをもとに

Critical Perspectives and Thinking of Global Citizenship Education and its Pitfall: With the Frameworks of “East - West” and “South - North”

南雲 勇多 (奈良教育大学)

1.はじめに

グローバリゼーションが加速して進むこの現代では、国際社会および日本国内において、グローバル・シティズンシップの育成がその社会的要請ととともに広まっている。そしてその育成のあり方が学校を含む様々な地域で、また多様な教育分野で現代的な課題として議論され、実践されるようになってきた。この国際的な潮流に伴い、グローバル教育や開発教育、国際理解教育や異文化間教育など、隣接する多くの教育分野でもグローバル・シティズンシップとその育成のための教育について実践・研究が進められてきた。1この実践・研究の推進は国際機関、欧州やアジア圏などの地域、さらには各国や足元の各地域で、独自の固有性を持ちながらも、協力関係をつくり重層的に行われている。2

本論では、上記のようにその取り組みが展開されるグローバル・シティズンシップ教育(Global Citizenship Education:GCED)において、批判的視点・思考が重視されていることを確認しつつ、その枠組みとしての「東・西」「南・北」に着目する。そして、その視点・思考の枠組みの重要性を認めつつも、二つの枠組みを交叉させてみることで、見過ごされがちな立場・状況の存在を指摘する。そして批判的視点・思考を重視した実践がその枠組みの用い方によってかえって目を向けるべき立場・状況やそこにある社会課題を見過ごすことになりかねないという実践の陥穽について示すとともに、それらをもとに批判的実践のあり方について論じることが目的である。そのため、本論の前半では理論的な整理と確認を行い、後半ではGCEDが問い直そうとしてきた社会課題にせまるための一つのきっかけとして視点・思考の枠組みの交叉を提示し、そこから浮かび上がってきたものをもとに論じていくこととする。3

2.GCEDにみる批判的視点・思考

ここではまずGCEDにおける重要な要素の一つとして批判的視点・思考が位置づけられていることについて、国連・ユネスコが示すGCEDに焦点をあてるとともに、他のGCEDの理論にも目を向けながら確認していく。

(1)ユネスコのGCEDにみる批判的視点・思考

 ユネスコがGCEDを教育事業として位置づけて動きはじめた頃から、GCEDにおいて「批判的思考」が一つの重要課題であったことがうかがえる。永田(2015:207)によれば当初、ユネスコ本部の関係者のあいだで共有されていた一つの「GCEDの構成図」があった。そしてそこにはGCEDの主な特徴として「多元的な社会が前提となり、すべての教育段階と教育セクターとが協働して取り組むことが期されているという点」とともに、「『対話』、『価値観形成』『批判的思考』『ホーリズム』などの手法や原理が重視されている点」がみいだせるという。(ibid:207-208)ここに、ユネスコでは当初からGCEDの「手法や原理」として「批判的思考」が捉えられていたことがうかがえる。

小林(2019:23-24)は「そもそも地球市民教育(GCED)の目的は何なのか」ということをユネスコが「GCEDプログラムの発足に当たって発行したガイドブック」(UNESCO 2014)から参照4し、その概念を心理学的に読み解いている。そして重要な三つの側面として次の「地球市民性を構成する要因」を提示している。第一に「当事者意識」であり「世界の問題を自分事として捉える態度」、第二に「問題解決への意欲」であり「現状をそのまま是認しない批判的思考」、第三に「対話的姿勢」であり「勝ち負けの論理ではなく共生の論理」である。この小林の観点からもユネスコのGCEDにおいて「批判的思考」が重要なものであるとみることができる。

2015年にユネスコが提示したGCED(UNESCO 2015)をみても批判的視点・思考がGCEDにおいて重要な要素の一つとされていることがわかる。ユネスコはGCEDの学習内容(ibid:21-43)を示す際、「学びの領域」を「認知的」「社会・情動的」「行動的」の三つの領域に分け、それぞれの領域で求められるものを「鍵となる学びの成果」、次いで「鍵となる学習者の特性」などに整理して提示している。それらが「全体的な指針」として示されたチャート(ibid:29)を参考にすると、「認知的」領域の「学びの成果」には「地域、国、グローバルの様々な問題・課題や異なる国および住民同士の相互関連・依存性についての知識と理解を学習者が身につけること」、また「批判的な思考と分析のためのスキルを学習者が向上させること」が示されている。続いてその下に紐づく「学習者の特性」には、「広い知見に精通し、批判的なリテラシーを身につけていること」として具体的に「地域、国、グローバルの様々な問題・課題、ガバナンス・システムおよび構造について知ること」や「地球全体と地域の関心事・課題の相互関連・依存性やつながりを理解すること」、そして「批判的な問い直しや分析のためのスキルを向上させること」があげられている。

また、2023年11月採択のユネスコ新勧告「平和と人権、国際理解、協力、基本的自由、グローバル・シティズンシップ及び持続可能な開発のための教育に関する勧告」でもGCEDが重要なテーマ・課題として明記されており、そこでも批判的視点・思考が提示されている。同勧告においてGCEDが重要な位置づけとなっているのは、何よりそのタイトルからもがうかがえるが、その内容をみてみてもそれがよくわかる。同勧告内のGCEDの定義が示されている箇所には、「教育2030:すべての人に包摂的かつ衡平な質の高い教育の保障と生涯学習の機会の推進を(インチョン宣言および持続可能な開発目標4の実装のための行動枠組み)」(UNESCO 2016)で提示されたものを参照することが記されている。世界教育フォーラム2015の成果文書であるそのインチョン宣言の「教育2030」の該当箇所を確認すると、「GCEDは次のコア・コンピテンシーを学習者が養うことを目的とする」(ibid:49)ものであるとして次のことがならべられている。すなわち、GCEDは「グローバル・イシューや政治、公正、尊厳、尊重などのような普遍的価値についての深い知識」や、非認知能力、また行動能力を身につけることとともに、「課題の異なる次元、視点、視野を認識するような多角的な視点からのアプローチを取り入れることを含む、批判的で、システム的で創造的に考える認知能力を養う」ものであるとされている。つまり、批判的視点・思考と関連する批判的な能力が、ユネスコの重要な新勧告におけるGCEDの肝要な要素として示されていることがうかがえる。ここであげられている批判的な能力は、先述のユネスコが提示した他のGCEDとも重なる。

上の四点を例としてもわかるように、国連やユネスコにより提示されるGCEDにおいてその目的や内容などの構成要素をみていくと、他の重要な要素とともに批判的視点・思考が肝要なものとして位置づけられていることがわかる。5

(2)GCEDの多様な批判的視点・思考

前述の国連やユネスコのものに加え、多様なGCEDではそれ以外のものにも共通して批判的視点・思考やそれに関連するものへの重視がうかがえる。

 GCEDに関する研究をレビューしてまとめた原田(2019:205)は「多様なグローバル・シティズンシップ教育の枠組の中」で、モラル・道徳的な規範によるGCEDとその研究の意義を認めつつも、GCEDが「『どのようなグローバル市民になるか』という規範的な要素のみならず、『グローバル市民』がエリート主義的な規範に適応する市民になる、という傾向に陥らない」こと、そのために「国家間の非対称性、エリートと非エリートの非対称性といった批判的なリテラシーをも視座に入れた」ものとしてGCEDを考えることが求められると指摘している。

佐藤(2015:24)はGCEDで「どのような能力・資質が提案されている」のかについて論じる際、国際的にシティズンシップ教育の目標や理念を検討したCoganら(2006)を手掛かりにしている。6そこで示された「21世紀に求められる能力・資質」の八つのうちの四つ目に「批判的かつ体系的に考える能力」があげられている。佐藤(2015:24-25)はこれを「批判的思考力」として捉え、「不合理な規則や既成の枠組みを疑ってかかることができる能力である」としている。そして「社会や文化の既成の枠やステレオタイプ」を「批判的に捉え返していく力」、また「批判的にその構造自体を捉え直す力」の重要性を説いている。

 また、より批判的な性格をその特徴とするものに「クリティカル・グローバル・シティズン教育」(C-GCED)がある。7 GCEDが台頭し展開されるに伴い、GCEDの理論や実践は多様化し、GCEDそれ自体が多義的なものになっていった。その中でGCEDのもつ批判的視点・思考をより明示するかたちで、さらには他のGCEDのあり方を批判的に問い直すものとしてC-GCEDが示されてきた。

例えばOxleyとMorris(2013)は多様なGCEDを「覇権主義的・支配的」と「反覇権主義的・理想的」とに、またコスモポリタンタイプとアドボカシータイプとに整理を行った中で、その一つのかたちとしてC-GCEDを提示している。その背景となる論者として、脱開発論者として知られるエスコバル、『オリエンタリズム』(Said, 1978)のサイード、またグラムシやマルクスなどをあげ、さらに、背景となる教育論に『被抑圧者の教育学』(Freire 1970)のパウロ・フレイレなどにみる批判的教育学をあげている。そしてそれらをふまえ、C-GCEDとは「不平等と抑圧によって生じる(挑戦的な)課題に焦点をあてたもの」であり、「土地・家・財産などを奪われた/サバルタンの人々の生活の向上をはかる行動を提唱・提言するための社会規範8に関する批判を用いて、特にポストコロニアルに関するアジェンダを通して」行われるものであると説明している。(ibid:306)

加えて、上記のOxleyとMorris(2013)をはじめ他のC-GCEDに関する多くの言及において参照されてきたのがVanessa AndreottiのC-GCED論である。Andreotti(2006)は既存のGCEDを目的や姿勢などの違いを対比させて論じ、多くのGCEDをソフト(soft)・グローバル・シティズンシップ教育とクリティカル・グローバル・シティズンシップ教育という概念で整理した。そして、既存の構造的問題や不公正な関係性をこえて社会変革を起こすためにC-GCEDの重要性を主張した。(Andreotti 2006)

このように、国連・ユネスコのGCEDおよび他のGCEDにおいて、批判的視点・思考に関連するものがその特徴や構成要素の一つして掲げられていたり、さらにはC-GCEDのように「クリティカル」という語そのもので形容され特徴づけられたものが出てきたりするなど、批判的視点・思考が肝要なものとなっていることがわかる。

3.批判的視点・思考の「東・西」「南・北」の枠組み

 批判的視点・思考を重視するGCEDが問おうとしてきたこと、またGCED自体が問われてきたその内容や背景をみていくと、そこには視点・思考の枠組みとして「東・西」や「南・北」というものがあることがわかる。9それは例えば、現在の社会課題の要因が歴史的に「西から東へ」「北から南へ」と「西」および「北」とされる地域・社会の価値観や論理が展開・流入したことによるとされていることや、さらには教育がその一つの機能・装置として働いてきたとされることとの関連などからみいだせる。そこで次に、それらの枠組みとその批判内容について、とりわけGCED自体がそれらの流れを内面化しているものであるという指摘をみながら確認をしていく。

(1)「東・西」の枠組みによる批判的視点・思考

まずGCEDの様々な批判的視点・思考の一つとして「東・西」という枠組みで社会課題を問おうとしてきただけでなく、GCED自体が問われてきたことについてみていく。前者は、グローバリゼーションや近代化といった動きが「西から東へ」と起きており、そのあり方や内容をGCEDが/で問い直すというものである。一方、後者については、GCEDそれ自体も「西から東へ」の動きとしてつくり出されているものであるとの指摘をふまえ、そうした流れを問い直したり、「東」からGCEDを描きだすことを志向したりするものなどである。

Arneil(2007)は、GCEDに対して様々な肯定や批判がなされているだけでなく、帝国時代におけるその意味についてあまり意識が払われていないことに注視を呼びかける。そしてアメリカの帝国主義の分析とともに、9.11後の帝国の「現実政治」の一つのかたちとしてグローバル化したシティズンシップの概念がつくられ、あるいは用いられ、そしてそれが世界へ、特に中東へと広げられていく動きを批判している。

Tully(2008)は様々な議論と実践の重ねられた「シティズンシップ」と「グローバル」(または「グローバリゼーション」)というそれぞれの言葉があわさるGCEDの捉え方の複雑さと困難さをおさえた上で、GCEDの傾向とタイプをmodern citizenshipとdiverse citizenshipの二つに分けて論じた。その中で、modern citizenshipを西洋による近代化や植民地化の歴史的経緯に関連して組み立てられた一つのかたちや役割をもつものであると指摘した。それに対し、西側諸国だけでなく非西側諸国におけるシティズンシップの多様な実践を含め、様々な地域で無数のかたちをとる各自の、また“地域の”実践としてシティズンシップを捉え提示するものであるというdiverse citizenshipの有用性を論じた。(ibid:16)

前出のOxleyとMorris(2013)は上記のArneil(2007)やTully(2008)らを参照しながら、コスモポリタニズムなどにみるような規範的・徳性的なものを志向するGCEDは「人権の枠組みの中で表現されることが多いが、その普遍主義的観点が西洋中心であるといわれる一連の制度や慣行の中に根ざしているため、一部の人からそうしたグローバル・シティズンシップは新帝国主義的な一つのかたちであるとみなされている」と述べている。(Oxley・Morris 2013:305-307)このことをふまえると、GCEDは「新帝国主義的な一つのかたち」として“グローバル・シティズンシップ”を伝え広げる役割を持つものであるとの批判的な指摘へつながるといえる。

上記に関連し、「“西洋”による」ものに偏重しがちなGCEDに対し、それらをこえていく試みの重要性も提示されてきた。例えばSantら(2018)は、様々な鍵となる教育要素とともに形成されたGCEDをめぐっては複雑で多様な議論があることをまずおさえた上で、次の点について強調している。それはGCEDでは、ローカル、ナショナル、グローバルといった多層的な次元で重要なポイントや課題を確認するために事例や実践研究を用いる際、そこでのポイントや経験、歴史などの論点が「“西洋”による」(within 'the West')ものに偏りがちなこと、したがって、論点として「“西洋”をこえて」(beyond 'the West')含めていくことである。

このように「東・西」という枠組みを用いて「西から東へ」の「西」の影響およびその影響を伝えるGCEDのあり方が問われてきたといえる。

(2)「南・北」の枠組みによる批判的視点・思考

次に批判的視点・思考を重視するGCEDがその一つとして、「南・北」という枠組みで「北から南へ」の動きや流れを問おうとしてきたこと、また、GCED自体が問われてきたことについてみていく。10「東・西」の枠組みの場合と同様、「南・北」でみると既存の多くのGCEDがグローバル・ノウスとしての「北」である地域・社会とその論理がいかにもとになっているかが問われることになる。そしてそのGCED自体がそうした論理や構造および関係性を再生産してしまうきっかけをつくり出したり、それらの機能を担ってしまったりしていないかを問い直すことがGCEDをめぐる批判的なアプローチの一つとして示されてきた。

 例えば、GCEDそのものを「南・北」の枠組みおよびポストコロニアルの視点から批判的に問い直す動きとして次のようなものがある。AbdiやShultz、Pillay(2015)らはGCEDそのものが「植民地化」されていると指摘し、「GCEDの脱植民地化」をはかる試みの重要性を主張している。またBosioとWaghid(2023)はグローバル・ノウス中心に展開されるGCEDに対し、グローバル・サウスにて展開されるGCEDに着目している。そして、そうしたグローバル・サウスの取り組みや経験、そこにみる視点などからの理論化と実践をもとに既存のグローバル・ノウス由来のGCEDへの問い直しをはかっている。また、先にあげたAndreottiとSouza(2011)はグローバル・シティズンシップ教育におけるポストコロニアルの視座の重要性と役割を明示し、その視座にもとづくグローバル・シティズンシップ教育のあり様を提示した。関連してBashirとGray(2015)は GCEDそのもののあり方を批判的に問い直し、「脱構築/解体する」試みをまとめている。

 上記のように批判的視点・思考の枠組みの一つとして「南・北」をみいだせる。そして GCEDによる「南・北」の構造・関係性やそこにみる社会課題に対してだけでなく、GCEDそのものがそれらの再生産へ関わっている可能性への問い直しがみられる。さらには「批判的な問い直し」を目的化することにとどまらず、「北」を中心に形成され「南」をその「対象」に含んで様々に展開されてきたGCEDに対し、オルタナティブなものとしてグローバル・サウスにおいて/により形成され展開されるGCEDをみていくこと、そこから学んでいくことの重要性が示されている。そして実際に「南」の「声」と経験をもとに、そうした「北」によるGCED、ひいてはGCED全体の動向や議論のあり方を再構成する意義とそのための実践的取り組みが(部分的にではあるが)はかられてきていることがうかがえる。

4.批判的視点・思考の枠組みの交叉と浮かび上がる構造・関係性の重層性

ここでは、それぞれの視点・思考の枠組みを交叉させることで、「東・西」または「南・北」の軸・枠組みだけではみえづらかった構造・関係性の重層性と、そのことで「西」や「北」の影響をより受けがちな、また被抑圧的になりがちな可能性のある立場・状況の可視化をはかる。

(1)二つの軸・枠組みの交叉と浮かび上がる現象

「東・西」「南・北」にみる流れ

先述のような「東・西」や「南・北」の枠組みで批判的実践が展開されることをふまえ、次のような図を設けてみる。

図1の中で縦に引かれているのは「東・西」を浮かび上がらせる軸であり、「西」と「東」が表すのはいわゆる西洋と東洋とされるような文化・“文明”としての「西」と「東」を意味する。矢印は近代以降、グローバリゼーションや近代化、そしてGCEDを含む多くの教育分野でも起きているような「西(洋)から東(洋)へ」の流れが強くあったことを示している。

同様に、図2は横に「南・北」を示す軸が引かれており、「北」と「南」が表すのはグローバル・ノウスとグローバル・サウスと称される構造・関係性、特に抑圧的また搾取的なそれらにみる「北」と「南」を意味している。植民地・帝国主義時代から、そしてその歴史の影響を現存させた「北から南へ」の強い流れを矢印が示している。

二つの軸・枠組みの交叉から浮かび上がる現象

 図1と図2の二つの軸を交叉させて図3の通りコンパスのように四象限のかたちで図式化をはかってみる。すると東・西・南・北をめぐって四つの領域がみえてくる。そして図4のように、先ほどの図1と図2の矢印によって流れが示され色がかかったものを掛けあわせてみると、次のように主に三つの領域と現象が浮かび上がってくる。

一つ目は〈西×北〉の領域であり、図4の「西から東へ」「北から南へ」の(矢印の)動きにあっては色がかからない領域である。「西(洋)」においてグローバル・ノウスに位置づく社会や立場、もしくはグローバル・ノウスにおいて「西(洋)」に足場をもつ社会や立場と捉えることができる。二つ目は先の〈西×北〉「以外」の領域であり、図4にみるように、それらはすべてで色がかかかることになることである。三つ目は、色がかかる〈西×北〉「以外」のすべての領域の中でも、特に色が重なって濃くかかる〈東×南〉の領域である。とりわけ「西に対して東」が、また「北に対して南」が客体化されやすく、そして被抑圧的になりやすいといった状況において、その両者の流れが重なる領域が浮かび上がる。

(2)枠組みの交叉から提示される構造・関係性の重層性

 前述の通り、二つの枠組みの交叉により浮かび上がるものの一つが、より「西」や「北」の影響の客体とされがちになってきた、また抑圧構造が重複する可能性のある〈東×南〉の領域である。そしてそこから推察されるのが、より厳しい立場に立たされやすい人々やその社会、そしてその文化などの存在である。「東」とされる中でもさらにグローバル・サウスの立場・状況に、また、グローバル・サウスにおいては「東」とされる地域・社会とそこにいる人々である。換言すれば、二つの枠組みを交叉させることで、「東」や「南」それぞれの内部・内側にさらに存在する抑圧・被抑圧や不公正が働く構造や関係性について、そしてそこで不利益を被りかねない人たちの存在の可能性について意識を向けることができる。GCEDにおいては、いかにここに視点が向くかが実践課題の一つとなるともいえる。

例えば「東」とされる地域・社会についてみてみると、それぞれの間にも様々な政治的・経済的・文化的な力関係が存在する。「東」においてもグローバル・サウスとグローバル・ノウスの関係にあたる歴史的な植民地・被植民地の関係性やグローバル資本主義による経済的な搾取・被搾取的な関係性、関連して国際的な政治的発言力や外交などにみる不公正な関係性などが存在する。「東」とされる地域内においても南北問題、さらには南南問題とされる問題は存在している。

 「東」とされることが多い日本の国内をみてみても類似するものがみえてくる。一つは必ずしも即時的に「南」と直接つながって連想されずとも、国内の地域間の構造・関係性をみれば、南北問題で「南」がおかれる立場に重なる立場・状況も少なくないことである。例えば、ヤマトに対するアイヌや琉球などの関係性、また首都圏と「地方」とされる地域との(「中央と周辺」とされる)関係性などである。上記と関連して経済格差にみる関係性、また上記にあげた以外にも数多く存在する社会的マイノリティとされる様々なグループとマジョリティとの関係性なども連想されうる。

国内で浮かび上がる「南・北」の関係性に関するもう一つは、(上述でふれた社会的マジョリティとマイノリティとの関係性にも含まれるが)実際に「南」の地域・社会出身の人々と“日本人”としてのマジョリティとの関係性である。各地域において多くの人が実際に「南」から移民労働や特定技能の資格による来日などで移動し、地域の一員として暮らしたり働いたりしている。そこに既存の国際的な「南・北」の関係性が時には明示的に、あるいは潜在的に足元の地域やコミュニティの関係性に内面化・スライドしていることが少なくない。「内なる国際化」といわれて久しいが、国家間・地域間の歴史的な政治的・経済的・文化的不公正を内面化する「内なる不公正な国際化」や「内なる“南北問題”化」といった一面があることは、例えば移民労働者の雇用条件や労働環境、また地域での人権・権利の保障状況などをみれば否定できないのではないか。

このように、「東」とされる地域・社会おいて「南・北」にみる構造・関係性と同様のものが様々なところに存在するといえる。そして、足元の地域やコミュニティで(本人の意図というよりは不公正な力関係の中で)そのような立場にさせられてしまっている多くの存在がいること、さらにはその存在は“私たち”の中にいることが想起され、このような点を意識することが重要となる。

「南」においても同様に、「東・西」の構造・関係性が内部・内側に存在し、そこにいる人々の被抑圧的状況と様々な社会課題が看過されうる可能性があるといえる。

5.批判的実践における陥穽と実践のあり方の再考

最後に、それぞれの視点・思考の枠組みの交叉をふまえ、「東・西」「南・北」の軸・枠組みだけではかえって問うべき問題を見落とすという陥穽をつくり出しかねない可能性について示す。そしてそのことをもとに批判的実践のあり方について論じる。

(1)批判的視点・思考の枠組みとその用い方における陥穽

二つの枠組みの交叉によりみえてくる〈東×南〉の領域が提示するものは、抑圧構造の重複やより厳しい立場に立たされやすい人々の存在の可能性といった、GCEDがそれらを問い、解決を志向する社会課題だけではない。GCEDにおける批判的視点・思考やその枠組みの用い方をめぐる陥穽、つまりGCEDの批判的実践における実践課題についても改めて考えてみる重要性が浮かび上がっていると捉えることができる。

枠組みの交叉によってより被抑圧的な立場に立たされやすい状況が浮かび上がるということは、裏を返せば、そのような立場や構造が「東・西」または「南・北」の軸・枠組みのどちらかのみを用いるだけではみえてきづらいということを意味している。つまり、「西に対する東」または「北に対する南」からの批判的視点・思考はそれぞれ重要であるが、一方で、どちらかの軸・枠組みのみに単純化して用いることで、「東」や「南」それぞれのさらに内部・内側に存在する抑圧・被抑圧や不公正といった構造・関係性などを、かえって不可視化してしまうことにつながりかねないことになる。そして被抑圧的な立場により立たされやすい状況にいる人々や社会の存在をかえって「置きざり」にしてしまう可能性があるといえる。むしろ、これまで批判的実践を通してどちらかの枠組みのみが用いられてきたことで、そうした不可視化につながっていたかもしれないことが懸念される。

このことはGCEDの目的との矛盾になる。GCEDの多くが、不公正で持続不可能な状況や「置きざり」にされがちな人々とその状況をつくり出す構造のあり方ならびにその暴力性を問い直し、そうした社会を変革していくことを志向してきた。しかしながら上記の点は、そのための「西に対する東」「北に対する南」からの批判を(無意識にでも)どちらかに偏って実施しようとするあまり、GCED本来のその目的をむしろ損いかねないことを意味している。そしてGCEDが問い直そうとしている社会課題を自ら再生産してしまいかねないという皮肉的な可能性を示しているといえる。

(2)批判的実践のあり方の再考

最後に、先ほどの陥穽をふまえ、批判的実践のあり方について再考していく。とりわけ批判的実践においてそうした実践課題が生まれるという懸念がさらに示唆するのは、「批判的実践を批判的に問えているか」ということである。つまり、批判的実践それ自体が絶えず批判的に自己省察を行えているかが問われることになる。

特に、批判的視点・思考を重視し、実践や理論に用いることを意識するGCEDでは、その意義についてある傾向をみてとることができる。すなわち、自身が批判的実践に取り組むことについて、アプローチする社会課題の深刻さや緊急性ゆえ、またそれらの解決や既存の社会の変革が求められるとされているがゆえに、それらを根拠として自らの重要性や必要性が主張されがちである。さらには、それらにもとづき “批判的でない”姿勢をもつGCEDやその他の教育に対し、相対的に正当化されがち(なようにみえたり)、もしくはそのことをもって自らを正当化しがちな傾向がある。

そうであるならば、前節でふれたように、批判的視点・思考を重視するGCEDはそれらを単純化して用いることにより、かえって本来の目的と矛盾するかたちでGCEDにおいて指摘すべき課題(本来、焦点化すべき人々の存在とその「声」や経験)を不可視化したり、それらをつくり出す構造を再生産したりすることにつながる可能性については、他と比べてもより十分に注意をはらう必要があるといえる。したがって、常に実践の問い直しが重要となり、実践において「問い(方)に問いを立てること」「クリティカル(のあり方)にクリティカルであること」といった自省的な姿勢が求められることとなる。

加えて、この「自省的な問い直しが求められる」という批判的態度・姿勢は本論および筆者にそのまま返ってくることを最後に追記する。本論自体を批判的に問い返してみれば、例えば第一に、今回の二軸の交叉についてはあくまで、そのどちらかへの単純化に偏るよりは比較的・相対的に東・西・南・北をめぐる構造・関係性の重層性がみえやすくなるものにすぎないといえる。ある意味では四象限の図式化により単純化しているともいえるため、このことで再び見過ごされる立場・状況や社会課題がないか常に点検・検討が必要となる。第二に、二軸を交叉させたり視点を重層的にして問い直したりしていくだけでなく、そもそも東・西・南・北による枠組み自体にも課題があることから11、社会課題へアプローチする際には、むしろそうした東・西・南・北といった枠組みをあえて意識しない、またはそれらをくずすようなアプローチもあわせて視野にいれていくことも重要となると考える。

5.おわりに

 本論ではまずGCEDにおいて批判的視点・思考が重要なものとされてきたことを国際的な動きなどから確認した。次にその中の枠組みの一つとして「東・西」および「南・北」の枠組みを用いて論じられていることについて確認をした。そして「東・西」と「南・北」の軸を交叉させることで、GCEDが解決を目指すべき社会課題をめぐる問題構造や不公正な関係性の重なりのありようの一端について確かめた。最後に、GCEDにおいて批判的視点・思考の枠組みを用いる際の陥穽および批判的実践のあり方について論じた。

国際的な植民地主義の時代からグローバリゼーションなどが加速して進む現在の国際社会にいたるまで、「西」および「北」の中心性・権力性が問われてきた。その中にあって、「東・西」や「南・北」の枠組みを用いて批判的実践を試みることはGCEDの重要な役割の一つといえる。しかしながら、本論で指摘したように、批判の枠組みを単純化することでより影響を受けやすい・被抑圧的になりやすい可能性のある立場・状況と、そこにいる人々の「声」や経験が蔑ろにされてしまいかねないことには改めて意識を向ける必要がある。そのためにも批判的実践の実践課題として、その「批判のあり方」や「問い直し方」についてもまた常に批判的問い直しが求められる。今回であればその一つのきっかけとして、「東・西」と「南・北」というそれぞれの軸だけでも批判的視点・思考の枠組みとして成立してきた(ようにみえていた)ものをあえて交叉させてみることにより考えるきっかけとした。

 本研究に続く今後の研究・実践課題としては次のことがいえる。本論ではあくまで理論的な問い直しの点にとどめている。したがって、より具体的にGCEDの再構成をはかるためには、今回明らかにした点を活かしつつ、例えば次のような問いをもとに実践的な試みが重要となる。先述の二軸の交叉のコンパスの図でいえば、一つ目の問いとは各領域から、つまり〈西×南〉〈東×北〉そして〈東×南〉の領域にいる人たちからみれば、既存の〈西×北〉領域発信のGCEDはどのようにみえるのか。二つ目は〈東×南〉や〈西×南〉の領域の人たちが求めるGCEDやそれと関連してグローバリゼーションとはどのようなものなのか。さらに三つ目は、四つのそれぞれの領域の人たちが越境的に・共に・公正に描く実践をしていくことを通し、そこで協働的に描かれたGCEDとはどのようなものになるのかである。今後はGCEDが/を通して批判的視点・思考により社会課題や既存の社会のあり方を問い直そうとしていくだけでなく、そのために多様な領域の様々な「声」や経験を包摂していくべく、GCED自身を問い直しながら発展的に再構成していくこと、そしてそれ自体を多様な参加にもとづきながら実践的な学びのプロセスとしてつくり出していくことが求められる。

謝辞

本論は科学研究費補助金(科研費)研究課題21K02269の助成を受けた研究の成果の一部を反映させたものです。感謝申し上げます。

参考文献

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小林亮(2019)「ユネスコの地球市民教育が追究する能力―グローバル時代における価値教育の新たな展望―」玉川大学教育学部編『玉川大学教育学部紀要』(18)、pp. 19-32.

佐藤郡衛(2015)「「トランスナショナル」な状況下での文化間移動とグローバル・シティズンシップ」『異文化間教育』 42 (0)、pp.15-29.

田中治彦(1999)『南北問題と開発教育:地球市民として生きるために』亜紀書房.

永田佳之(2015)「ユネスコを中心とした国際理解教育」日本国際理解教育学会編『国際理解教育ハンドブック:グローバル・シティズンシップを育む』明石書店、pp.202-209.

原田亜紀子(2019)「グローバル・シティズンシップ教育に関する研究動向」『東京大学大学院教育学研究科紀要』59、pp.197-206.

深草正博(1995)『社会科教育の国際化課題』国書刊行会

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Arneil, B. (2007) Global Citizenship and Empire, Citizenship Studies, 11 (3), pp.301-328.

Bashir, H., Gray, P. W. (ed.) (2015) Deconstructing Global Citizenship: Political, Cultural, and Ethical Perspectives. Lexington Books.

Bosio, E., Waghid, Y. (ed.) (2023) Global Citizenship Education in the Global South: Educators’ Perceptions and Practices (The Moral Development and Citizenship Education, 21) Brill Academic Pub.

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Footnotes

例えば、小関(2011:47)は「グローバル・シティズンシップの育成」が「地球的課題に取り組むあらゆる教育において、重要な教育目標であることに異論を挟む余地はない。環境、開発、人権、平和、多文化、持続可能性などをテーマとする教育では、問題の解決に向けアクティブに行動する市民の育成が緊要の課題となっている」と述べている。

例えば、筆者はグローバル・シティズンシップの育成を目指す英国の開発教育関連の実践・研究団体のネットワークについて右記の通り以前に発表を行った。南雲勇多「英国DECs(開発教育センター)にみるネットワークとグローバル市民育成」(開発教育協会主催「開発教育第42回全国研究集会(d-lab)」2024年8月3日・JICA地球ひろば)

筆者はこの「南・北」「東・西」の枠組みを交叉させることについて、特にクリティカル・グローバル・シティズンシップ教育との関連で右記の発表でも取り上げた。本論ではこれらの枠組みとその交叉をGCEDの批判的実践における実践課題について考察し、そうした批判的実践のあり方を論じるために用いることとする。南雲勇多「クリティカル・グローバル・シティズンシップ教育の批判性」(「日本グローバル教育学会第31回全国研究大会」2024年8月24日・岡山大学)

UNESCO(2014)ではGCEDの目的を次のように説明する。「地球市民教育は、学習者の中に、人類社会全体が直面しているグローバルな諸課題に対して、地域の視点およびグローバルな視点の両方からよりよい解決の方策を考え、みずからそれに関わる動機づけを醸成する取り組みであり、またそれを通じて、より公正で、平和で、寛容で、安全で、持続可能な世界を実現するために当事者として積極的な貢献ができる人を育成する教育の営みである。」訳は小林(2019:23)から引用。

こうした「批判的〇〇」とされるものの類は他の教育分野でも重要な要素として含まれることが少なくないが、とりわけGCEDでは社会課題の解決およびその背景にある既存の社会のあり方への問い直しと変容・変化(transform)を目指すことから、それらが重要な要素として位置づけられていることが多いといえる。

佐藤(2015)はCogan(2006)を参照する際、岸田由美、渋谷恵(2007)を参考にしたと記している。

例えば、人文科学・社会科学分野の学術書を扱う大手出版社のラウトレッジ(Routledge)ではCritical Global Citizenship Educationというシリーズが組まれ、 Theoretical and Empirical Foundations of Critical Global Citizenship Education(Torres 2017)など、現在のところ16冊の関連書籍が発刊されており、2025年3月の時点でも新刊が組まれている。

既存の社会規範への批判ということでもあり、さらには、GCEDによってつくり出され、また「教えられ」ようとしている(しかし、誰かを置きざりにしている可能性がある)社会規範への批判というように捉えることもできる。

ただし、こうした枠組みをめぐっては留意が必要である。それは第一に、そもそも東・西・南・北それぞれが具体的に何を指すのかは時に曖昧であり、何よりそれぞれの内部・内側を本質主義的にみることは、現実の混在・混淆的な実態とはあわず難しいためである。第二に、それらは文脈や立場によって可変的でもあるためである。第三に、「東・西」「南・北」というかたちで二元論的・二分法的な捉え方がもつ危険性と課題に関わるためである。それらの点をふまえつつも、ここでは不可視化されかねない社会課題や構造・関係性に目を向ける視点とその枠組みを再考するために便宜的にこうした東・西・南・北の表現を用いることとする。

このようなGCED自体が「北から南へ」の流れによるものであるとの指摘に関しては、従来、関連・隣接する教育分野でもなされてきた。例えば、グローバル教育をめぐって深草(1995:276-278)は「歴史的にも深刻な爪痕を残している」次のような「先進国の経済発展に基礎を置いたものではないのか」との懸念を示している。それは「『北』が『南』の富を吸い上げて先進国となる一方、『南』が富を吸い上げられて悲惨な状態におちいるなかで、今日の世界資本主義が形成されてきた」ことや、先進国の開発援助はむしろ「南」の地域を「低開発」にとどめるとともに「欧米経済への組み込み」を進めるものであったことなどである。そして、グローバル教育そのものにみる「南北問題の欠落」をふまえると、グローバル教育は「あくまで『北』の立場に立った教育と言うべきであろう」こと、また「本質的に『北』からの発想ではないかと強く思わせるのである」ことを指摘している。同様に開発教育もこれと重なる。当初は「南」の貧困や「低開発」の解決へ向けた「北」による援助のために実践が展開されていた。しかしそれに対し、「北」の目線や論理によるものであったとの批判的な問い直しが起こり、その後再構成がはかられてきた。そして開発(社会づくり)のあり方を問うたり、開発問題を構造的かつ批判的に読み解き、解決のための参加を促したりするものとなってきた。例えば田中(1999)を参照。

前掲の注9を参照。

 
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