喜怒哀楽といった感情表現が脳内の生体分子によって制御されていることは想像に難くない.また,モノアミン欠乏仮説に代表されるように,うつ病などの精神疾患は遺伝素因や環境要因を背景とした生体脳の分子環境の変化により引き起こされると考えられてきた.精神疾患の病因仮説が提唱される経緯を考えると,医療行為を行う過程で偶然に経験した事実と,その事実を裏付けるために行われたヒト死後脳研究および実験動物を用いた薬理学研究の成果に基づいており,患者の生体脳から生体分子を直接採取して分析した結果ではない.生体脳から非侵襲的に生体成分を採取することは既存の技術のみでは困難であり,精神疾患の病因解明に至らない一因といえよう.「脳内の生体分子を非侵襲的な手法により採取し,その分子情報を解析する技術」は,ヒトの感情表現や精神疾患を脳内分子の挙動として理解するために必要不可欠である.この問題を解決するには,革新的なテクノロジーが必要であることは言うまでもない.
我々は「生体の脳内分子を非侵襲的に採取して分析する技術」を開発するため,学術変革領域(B)の支援の下,工学,医学,薬学,化学の異なる専門性をもつ研究者が集まり,その実現可能性について討議してきた.目指す先は,脳内外の物質輸送と生体内プロセスの相関を解明すること,ならびに,ヒトの情動を制御する脳内分子環境を理解し,精神疾患を脳内分子情報に基づいて理解することである.JPW2022(第96回日本薬理学会年会/第43回日本臨床薬理学会学術総会)では,我々が目指す研究とそのアプローチを各シンポジストが紹介し,脳科学,精神医学,ならびに薬理学研究に新たな学術的視点をもたらしたいと願いシンポジウムを企画した.
本特集は,当該シンポジウムの内容をより詳しく紹介するものである.水野および安楽は,血液脳関門を効率的に通過し,脳内へ薬剤を送達するナノマシンの開発について紹介する.また,これらのナノマシン技術をブラッシュアップして脳内分子を非侵襲的に回収・検出する「はやぶさ型ナノマシン」の開発についても紹介する.宮田は,中高年齢のうつ病患者及びそのモデルマウスの白血球における遺伝子発現プロファイリングの結果から,うつ状態の重症度と相関するバイオマーカー候補遺伝子の同定に関する研究を紹介する.さらに,白血球での遺伝子発現データから脳の病態を予測する試みや,精神疾患における情動機能異常のメカニズム解明に有用なトランスジェニックマウスの開発について説明する.上田および竹本は,扁桃体中心核および外側分界条床核の遺伝子発現プロファイルから,恐怖や不安の制御における両部位の類似性と差異について紹介する.また,恐怖条件付け学習時の遺伝子発現応答の違いについても概説する.川井は,キャピラリー電気泳動-質量分析による微量生体分子計測の技術について,基本原理と応用例を紹介する.また,筆者らが挑戦している単一細胞解析や計測感度を向上させるためのオンライン試料濃縮技術を紹介する.
2024年8月