近年の英語圏地理学史研究では, 地理的知識の生産・流通・消費における空間の意義を問題化する知の空間論の視点が勢いを増している. 本稿では, 京都帝国大学教授として日本で最初の地理学教室を主宰した小川琢治が, 紀州を中心とする多様な空間的コンテクストの中で, 地理学に関わる思想・実践をどのように育んでいったのかを検討した. 少年期に紀州で育まれ, 後年の中国歴史地理研究に活かされた漢学の素養は, 不眠症に陥った青年期の小川を熊野旅行へと導いた. 熊野の物質的景観との遭遇は小川の地学への志向性を呼び覚まし, そこでは地表の外形や地表諸現象の相互関連への関心が表明された. 慶応義塾で地理学を教えた紀州出身の養父の理解は小川の理科大学地質学科入学を可能にし, 地学への志向を標榜する地質学教室は彼の地理学的想像力の内的進展を促した. 知の空間としての東京地学協会は, 小川に地理学を新たな専門分野として明視させる契機を与えた.