抄録
アイヌ語の名詞の所属形の起源として,名詞化辞 *IHI を仮定する考えが従来か
ら提案されている(中川 1983)。南 (2020) は中川の提案に基づき,Creissels (2009)
を援用して中川説を補強している。しかし,中川,南の主張は,類型論的,音韻的,
統語的観点のいずれの点からも問題が多い。また所属接尾辞の不規則性を説明する
ための Janhunen (2020) の提案は,アイヌ語の歴史に大規模な母音脱落や子音脱落
があったことを仮定するが,子音や母音の「脱落」が概念形の形成や他動詞からの
逆使役のような,極めて限られた形態領域にしか起きないという問題がある。この
論文では概念形や逆使役の意味的特殊性に着目し,かつてのアイヌ語では,言語学
的に著しく有標な形態を形成する手法として,「マイナス特徴」が用いられたので
はないかという仮説を提案した。この手法は,本来備わっているべき特徴(他動詞
における動作主,身体部位名詞における特定性)の欠損という異常な事態を表示す
る手段として用いられたが,類像性を帯びるために一部の形式に使用が限定され,
その後,接尾辞の付加として再解釈された可能性があることを指摘した。