法学ジャーナル
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消極的安楽死における終末期の定義と治療中止の正当化要件及び根拠
――福生病院透析中止事件をきっかけとして――
後藤 有里
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2020 年 2020 巻 98 号 p. 95-131

詳細

  • 目次
  • 1.はじめに――本稿の目的――
  • 2.前提的考察
  • 3.福生病院透析中止事件の投げかける問い
  • 4.ドイツの学説および判例状況
  • 5.日本の終末期における安楽死の議論
  • 6.結びにかえて

1.はじめに――本稿の目的――

本稿は、2019年3月、東京都福生市の公立福生病院で発生した透析中止の事案1を契機に、安楽死の概念を再考するための資料を整理し、考察のアウトラインを画定することを目的とする。

福生病院透析中止事件では、患者の同意に基づく、治癒不能な疾病に対する治療の中止という、いわゆる消極的安楽死の要件が一応充たされているにもかかわらず、一部メディアではこれを表現するにつき「安楽死殺人」2、「与死」3という言葉が使われた。福生病院透析中止事件は消極的安楽死の事例ではないのか、そうした微妙な評価の因って来る所為は何か、が事実としてまず確認されなければならない。

次に、治療行為として、透析治療を行うか否か選択する権利は、安楽な死を選ぶ権利と異なるのか否か、また、消極的安楽死にはあたらない治療中止が許される場合があり得るのか、さらに、安楽死の要件である「治癒不能」あるいは「終末期」とはどのような条件の下に認められるのかが検討されなければならない。福生病院透析中止事件においては、患者の治療中止の意思が撤回されたように見える場面もある。もし、有効な撤回がなされたとみるならば、その撤回がどのような意味を持つのか、そして、撤回が一定の法的効果を生じるのだとすれば、それはどの時点までなのか、「もう遅い」という時点では変更することができないのかの試案的検討も試みる。

2.前提的考察

2-1.福生病院透析中止事件の問題の所在

福生病院透析中止事件においては、公立福生病院で透析治療を受ける予定であった患者が単純な意味での「終末期」にはなかったことが前提とされなければならない。医師が透析治療の中止か継続かの選択肢を提示した時点で、患者は自己の意思により、透析治療の中止を選択した。本件患者は透析治療を継続しても治癒の見込みがなく、近々死亡するという状態であったとすれば、「終末期」にあったと言えないこともないし、「消極的安楽死」と考えられないこともない。ただし、後述するように、本件では通常の消極的安楽死について想定されている「終末期」より、死の切迫性はやや低いようにも見える。

さしあたっては、この観点から、福生病院透析中止事件の事案を確認しておかなければならない。

2-1-1.事件の概要

2019年8月9日、長年、透析治療4を受けていた病院からの招待状を持って、公立福生病院(以下、福生病院とする)に、糖尿病症の腎症や心筋梗塞などを起こし5、腎臓病に罹患した女性(患者Aとする6)が来院した。患者Aは前の病院で週3日の透析治療を受けていた。患者Aの福生病院への来院時、腎不全を患っており、腕の血管の分路(シャント)が閉塞し、それまでの方法での透析治療が困難な状態であり、「末期の腎不全」と診断された7

この病状に鑑み、福生病院における患者Aの担当医師(医師Xとする)は、患者Aに対して、「血液透析は治療ではない。腎不全による死期を遠ざけているにすぎない」「多くの犠牲もつきものであるため、最も大切なのは自己意志だ」と説明し8、とり得る処置として、① 首に管を入れる新たな手段で透析するか、または、② 従来の透析を中止するか、という選択肢を提示した。

患者Aは同日中に、透析治療をやめる(提示されたふたつの手段のうちの②を選択)ことを決め9、患者Aの家族(Aの夫)が同席する場で、医師Aから「透析を中止すれば、生命に関わる」、「透析をやめると2週間くらいで死に至る」と説明されたのち、透析治療から離脱するという趣旨の文章が記載された同意書(「透析離脱証明書」10)にサインし、帰宅した。同10日も、看護師、内科医、ソーシャルワーカーが透析中止を患者Aと夫に確認したが、患者Aの意思は固かった11

同意書へのサインから5日後の同14日、患者Aは呼吸が苦しくなるなどの体調不良を訴え、福生病院に入院した。その後、容態が悪化した。死亡直前の同16日未明、患者Aは、パニック状態に陥っており、看護師に対して、「こんなに苦しいなら透析した方がいい。撤回する」、「苦しいので透析中止を撤回したい」と透析再開を求めた。Aの夫も「透析できるようにしてください。助けてください。」12と医師Xに透析再開を訴えた。医師Xは、患者Aが落ち着いた同16日正午ごろ、手術して透析を受けるか、苦しみの症状を軽減するかの意向を確認した。患者Aは多量の鎮静剤の投与による苦しみの症状の軽減を選択し、同16日午後5時過ぎに死亡した。このとき、Aの夫はストレス性の胃潰瘍のため、同病院にて手術を受けており、麻酔から醒めた時には既に患者Aは死亡していた。この選択に関して、医師Xは「正気の時の(治療中止という女性の)固い意思に重きを置いた」とした13

通常の消極的安楽死の場合、末期状態にあって死苦に苦しむ患者が死苦を長引かせることなく自然な死を迎えられるように、積極的な延命措置をとらない14。例えば、治癒不可能な患者に対して、患者ないし家族の意思に沿わない延命を目的とする人工呼吸器や栄養補給などの装着を行わないような場合である。

患者Aが前述の通り、週3回のペースで透析を受けていたとするならば、福生病院来院時点で、最大中2日となるため、最後の透析治療は8月7日だと考えられなくもない。だとすると、患者Aは透析中止の9日後に死亡したと推測できる。福生病院に来院してから、1週間強で死亡しているならば、患者Aは「終末期」にあったとも言えそうでもある。しかしながら、1週間強で死亡しているとはいえ、通常の安楽死で想定されている「終末期」とは異なるため、検討されなければならない。

2-1-2.福生病院透析中止事件の特徴

透析中止については、日本透析医学会の設定した要件がある。日本透析医学会による透析中止の判断ポイントは以下の5点である15

  • ① 医療チームは患者に適切な情報提供し、患者の意思決定を尊重する。
  • ② 患者が強い意思で透析を拒否する場合は、治療の必要性を説得するが、意思が変わらなければ尊重する。
  • ③ 患者の全身状況が極めて不良で、本人の意思が明示されている場合、中止を検討する。透析を安全に続けられない場合も中止を検討する。
  • ④ 患者の体調が改善したり、家族が意思決定を変えたりした場合は、状況に応じて再開する。
  • ⑤ 透析を中止した患者には効果的な緩和ケアを提供する。

本件では、前の病院で行われていた透析治療の福生病院による継承、延長と考えるならば、治療中止であり、福生病院のみをみれば、治療不開始である。末期の腎不全を患っていたという点と、医師の行為及び患者あるいは患者家族の自己意思による治療中止であるという点に鑑みると「消極的安楽死」に該当するようにも見える。しかしながら、本件の患者の病状は通常の安楽死において想定されている「終末期」とは異なり、透析治療の中止という決断を以てはじめて「終末期」が開始したようにも感じられる。しかも、患者が福生病院を訪れた時点からみれば生命保続の時間はそれなりにある。この点が、本件を簡単に「安楽死の事案」とは呼びにくいものとしている。終末期医療の要件としての「終末期」とは、死ぬまでの時間の長短が基準となるのか、それとも、生命保続の可能性が基準となるのかが検討されなければならない。

2-2.終末期医療とは

「終末期」の定義の詳細に関しては後述するが、終末期とは、大きく言えば死期が目前に迫っていることをいう。終末期における安楽死とは、死期が目前に迫っている病者が激烈な肉体的苦痛に襲われている場合に、その依頼に基づいて苦痛を緩和・除去することにより安らかな死に至らしめる行為をいう16。延命治療とは、例えば、化学療法、輸血、輸液、人工呼吸器の装着、胃ろうなどがあり、福生病院透析中止事件での人工透析も延命治療のひとつである。

安楽死は、行われる行為の態様とそれに依存する正当化要件の違いにより、以下の4つに分類されるのが通例である。① 純粋安楽死、② 積極的安楽死、③ 間接的安楽死、④ 消極的安楽死である17

2-2-1.純粋安楽死

純粋安楽死とは、生命の短縮を伴わずに苦痛を除去し、安らかな死に至らしめる行為である。純粋安楽死は生命の短縮を伴わないため、人の死期のみに着目すれば、その死期に他人が介入することがなく、死期を早めることはない。それゆえに、法的な問題が生じることはない。

問題となるのは、人の死期を早めることを伴う以下の3つの場合である。

2-2-2.積極的安楽死

積極的安楽死とは、死苦を免れさせ、軽減するために、生命の短縮をもたらす行為である。例えば、そのことによって死期が早まることを認識しながら致死量を超える薬剤を投与する場合である。積極的安楽死の場合は、侵襲の重大性から、患者の非常に厳格な明示的な意思表示が要求される。

日本において、積極的安楽死は、刑法199条殺人罪に抵触する行為である。また、患者が積極的安楽死を望んでいたとしても、刑法202条同意殺人及び嘱託殺人罪の構成要件に該当する。問題は、にもかかわらず、不処罰にとどめることができるか否か、できるとすれば、それはいかなる要件の下で、いかなる根拠に基づいてかにある。

2-2-3.間接的安楽死

間接的安楽死とは、苦痛緩和のための薬剤を使用することにより、その薬剤の副作用として、死期を早める行為である。例えば、後述するホリゾンやセレネースの投与である。これらの薬は統合失調症や躁病の治療に活用される。しかしながら、昏睡状態の患者、重症の心不全の患者などへの投与は禁忌とされており、重大な副作用を引き起こす。とりわけ重大な副作用として、心肺への負荷が大きく、血圧降下、呼吸困難、強度筋強剛、意識障害などがある。尤も、間接的安楽死とは、殊に肉体的な苦痛緩和が主たる目的であり、その副作用としての生命短縮は致し方のないものと理解される。苦痛除去及び緩和のための薬剤の投与という点に着目して、治療型の安楽死ともいわれている18

2-2-4.消極的安楽死

消極的安楽死とは、積極的な延命治療をしないことにより、延命治療を行った場合に想定される死期に先立って死を迎えさせる行為である。つまり、延命治療の中止及び治療の差し控えなどである19。終末期の治療中止行為は「最後の治療行為」としての側面をもつとされており20、このような治療を中止する行為が許容される要件として、これまでの研究において、① 医学的適応性、② 医術的正当性、③ インフォームドコンセントの3要件が挙げられている21。また、消極的安楽死の正当化要件は、医師の治療義務の終了時点が問題であって、患者の意思とは独立であり得るとする見解もある。

2-3.日本における安楽死に関する判例

日本において「安楽死」というトピックに関係づけられる判例は多くない。代表的とされるのは名古屋高裁判決22であるが、これは積極的安楽死の事例であり、且つ医療機関の手によるものではないので、福生病院透析中止事件を評価する手掛かりとはなりにくい。東海大学事件と川崎協同病院事件はいずれも、医療機関において行われたものであり、かつ、治療中止にあたる要素を有しているので、比較の対象とする意義が認められる。

この二つの事件には先行研究が多くあるため、それぞれの詳細および裁判所の判断の当否に立ち入ることはしない。ここでは、福生病院透析中止事件との比較に必要な限度で、事案の概要及び判旨を整理するにとどめる。

2-3-1.東海大学「安楽死」事件23

【事案の概要】24

横浜地裁平成7年3月28日判決

東海大学「安楽死」事件の被告人は東海大学医学部付属病院の医師(以下Yとする。)である。医師Yは、1991年4月1日より、多発性骨髄腫25で同病院に入院していた患者(以下Bとする。)の治療に加わった。同13日に、患者Bは疼痛刺激に反応しない状態となり、余命数日と予測された。Bの妻と長男は、Bを自然に楽にさせてやりたいと思い、医師YらにBの治療中止を要請した(家族意思による延命治療中止の要請)。医師Yは、Bの死期を早めかねないと認識しつつ、フォーリーカテーテルと点滴を取り外し、その後、エアウェイも取り外した。

しかし、Bは苦悶様のいびきが続き、その様子を見かねたBの長男が、医師Yに再度要請をし、医師Yはいびきを可能な限り小さくしようと試み、呼吸抑制のあるホリゾンを通常の2倍量で注射し、さらに、抗精神病薬セレネースを通常の2倍量で注射した。その後もBは依然として、苦悶様のいびきが続いたため、Bの長男は医師Yに強い口調で、3度目の要請をした。これを受けた医師Yは、殺意を以て、除脈、一過性心停止等の副作用のあるワソランを通常の2倍量、加えて、心停止を引き起こす作用のある塩化カリウム製剤(KCL)をそれぞれ静脈注射した。その結果、患者Bは急性高カリウム血症に基づく心停止によって、死亡した。

【本件の特殊性】

本件では、Bの長男が3度目の要請をしたのちの、ワソランとKCL の注射をした医師の行為を積極的致死行為とした。また、この事案の判決は患者の自己決定権を基軸とするが、その一方で、消極的安楽死及び間接的安楽死の場合には、推定的意思や家族による推定でも可能であるとしている。

本件横浜地裁は、医師による「積極的安楽死」が許容されるための要件として「① 患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること、② 患者は死が避けられず、その死期が迫っていること、③ 患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと、④ 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること」を挙げた。以上の要件を本件にあてはめると、患者は死期が切迫しており、回復不能な状態にあり、治療中止は検討の対象となり得る段階にあったものの、患者本人が自分の病状についての正確な情報を持っておらず、明示の意思表示をしていなかった。明示の意思表示がない場合には、推定的意思でも足りるが、推定するための間接的事実もなかった。また、医師Yは担当医になって間もなく、家族の意思表示であっても、患者の意思を推定させるに足るものか判断できないと考えられ、被告人である医師Yの行為は、安楽死と評価されるものではなく、医師の行為として許容される範囲をはみ出したものであったとされた。

2-3-2.川崎協同病院安楽死事件26

【事案の概要】27

最高裁平成21年12月7日第三小法廷決定28

患者Cは、平成10年11月2日、気管支喘息重責発作を発症し、心肺停止状態で病院に運び込まれ、救命措置により心肺は蘇生したが、意識が戻らず、人工呼吸が装着されたまま集中治療室で治療を受けることになった。しかし、低酸素血症になり、大脳機能及び脳幹機能に重い後遺症が残り、昏睡状態となった。

被告人である呼吸器内科部長の医師Zは同4日、患者家族と会い、患者Cの意識の回復が難しいこと、植物状態となる可能性が高いことなどを説明した。

患者Cの自発呼吸が認められたため、同6日、人工呼吸器が取り外されたが、舌根沈下を防ぎ、かつ、痰を吸引するための気管内チューブは装着されたままであった。

同8日、医師Zは脳の回復は期待できないと判断し、患者家族らに患者Cの病状を説明し、呼吸状態が悪化した場合に再び人工呼吸器をつけることはしない旨の承諾を得た。このとき、気管内チューブの抜管は窒息の危険性があるため抜けないことを説明した。ただし、患者C自身は昏睡状態であり、かつ、患者C自身の終末期における治療に関する考え方は明らかではない。

同16日、患者Cの妻から、家族の意向として、気管内チューブの抜管を要請された。家族らの要請に従い、医師Zは、抜管により患者Cが死亡することを認識しながら、気管内チューブを抜いた。ところが、予期に反して、患者Cは苦悶様呼吸を始めたため、鎮静剤を静脈注射した。なお、鎮めることができず、医師Zは同僚の医師に示唆に基づき、筋弛緩剤ミオブロック3アンプルを静脈注射するという方法で投与した。そののち、患者Cの呼吸及び心臓が同16日午後7時ごろ停止した。

【判旨】

気管内チューブの抜管は家族からの要請に基づき行われた行為であったものの、抜管の時点において、Cはすでに昏睡状態にあり、被害者であるCの推定的意思に基づくともいえない。加えて、余命を判断するために必要とされる脳波の検査等も行っておらず、的確な判断を下すに充たなかったことも認められる。本件では、気管内チューブの抜管及びミオブロック投与のふたつの行為を併せて判断し、医師Zの行為は殺人行為を構成するとした29

2-4.二つの事案から

以上、二つの事案は、疼痛刺激に全く反射しない状態あるいは昏睡状態にある点を考慮すると、二つの事案の患者は共に末期状態にあった捉えることが可能であろう。また、二つの事案の患者は終末期医療、延命治療の中止を判断する時点において、自身の意思を伝えることが不可能な状態であり、患者の自己決定権に基づいた治療の中止ではなかったことが窺える。

加えて、両事件において、KCL 注射及びミオブロック投与は、苦痛を除去するために行ったとはいえ、医師が死期を早めることを認識しながら行った積極的な医的侵襲であり、行為を実行していることに鑑みると、殺人行為そのものである30。一方で、東海大学安楽死事件のフォーリーカテーテル、点滴、エアウェイの取り外しと川崎協同病院安楽死事件の気管内チューブの抜管は、治療中止行為に該当する。実際の裁判においては、患者の自己決定権に焦点が当てられ、論点とはされていないが、医師の治療義務の終了時点は問題となり得るであろう。これは、福生病院透析中止事件の本質的な問題となり得るところであり、この二つの事案と福生病院透析中止事件との共通する論点となり得る。

3.福生病院透析中止事件の投げかける問い

福生病院透析中止事件は、上記した二つの事案「東海大学『安楽死』事件」と「川崎協同病院安楽死事件」とは性質を異にする点が2点ある:①明白な終末期かどうか、② 患者の明示的な自己決定権の行使があるか否か、である。

まず上記①に関して、福生病院透析中止事件の患者はシャントが塞がり、重大な腎不全であったが、東海大事件や川崎協同病院事件と同様な意味で「終末期」と言える状態ではまだなかった。困難な状態であったとはいえ、透析治療を継続すれば、ある程度の延命の可能性はあったようにも見えるからである。しかしながら、延命の可能性の有無のみで「終末期」か否かが決まるとすると、例えば、末期癌の場合においても、延命の可能性は病勢がかなり進行するまで認められるため、簡単には「終末期」と認められないことになるであろう。また、脳死は人の死ではないとする立場に立てば、脳死状態であっても延命可能な状態であり、「終末期」とは認められない。とすれば、福生病院透析中止事件は到底「終末期」ではないという結論になる。

他方、治癒の見込みはなかった。この観点だけで終末期を画することも不可能ではない。しかし、これだけで安楽死の許容要件である終末期を画定しようとすると、現在根治が見込める療法がないとされている多くの難病の患者についてかなり早期から安楽死が認められてしまうことになる。

次に、②に関して、上記二つの事案とは異なり、福生病院透析中止事件の患者は医師の説明を受けた上で、明示的な意思表示を行い、治療の中止を要請した。確かに、医師が患者に対して、治療中止を選択肢のひとつとして提示しているが、患者自身が考え、決定している。患者の自己決定により、治療が開始されなかったと考えることができる。

この点は①との関係でも重要な意味を持つ。腎不全における透析治療の中止は、死期を早める危険があり、命を脅かすものである。この点を考慮すると、この透析治療の中止の決断時点が、患者の「終末期」の開始時点であると考えることもできる。この時点では、治癒の可能性はなく、延命の現実的可能性も終局的に断たれている。こう考えた場合は、患者が死の直前に意思を撤回したようにみえる事実が、問題となる。もしこの意思の撤回が有効だとすると、医師は治療を再開しなければならないことになりかねない。そのような結論を回避するために治療義務の終了をいうのであれば、「終末期であること」は単独でも(患者の意思に反してでも)治療義務の終了を根拠づける効果を有することになる。以上の諸点から、福生病院透析中止事件は、「終末期」の定義及び開始時点に関する検討を動機づける。

また、これに関連して、福生病院透析中止事件を、上記のように福生病院における治療の不開始としてではなく、別の病院で開始された継続的な透析治療を中止した事案と捉えることもできる。東海大学安楽死事件のフォーリーカテーテル、点滴、エアウェイの取外し、川崎協同病院事件の気管内チューブの抜管行為も同様に治療中止である。治療中止が患者の意思に基づいて行われた以上、正当化されるものであるとすれば、東海大学安楽死事件におけるように、その後の薬の投与などの積極的な生命短縮措置が、これらに追加されているだけで直ちにアウトとされるのかは問題であり、先行する治療中止行為が正当化されるならば、その後において何をしたとしても許されると考える余地があることになる。

以上のように、福生病院透析中止事件は、治療中止ないし不開始を消極的安楽死と考えるならば、その要件となるべき「終末期」とはどの時点を指すのか、中止と考えるか不開始と考えるかでその時点は変わり得るのか、さらに、終末期であること以外にも患者の意思によることは絶対的に必要なのか、という問題を孕んでいる。そして、この問いに答えるためには、消極的安楽死が、すなわち延命治療の中止ないし不開始が供されるのはそもそもどのような根拠に基づくのかが検討されなければならないことになる。

4.ドイツの学説および判例状況

医師が治療行為を中止して、患者が死亡すれば、刑法上の殺人罪または、それが患者の意思に沿うものであったとしても同意殺人罪ないし嘱託殺人罪の成否が問題となる。日本の刑法典と同様、嘱託殺人、同意殺人の規定を持つドイツ法の下では、積極的安楽死に関して実定法解釈の問題としてはほぼ同じ枠組みで議論が行われている。また、従来の「臨死介助」というカテゴリー設定の故もあってか、積極的安楽死に限らず終末期医療における治療中止をも視野に入れた議論が活発に行われてきた。さらに、比較的近年の「業としての自殺幇助禁止」をめぐる議論によって、実定法上不可罰となっている自殺幇助に関しても再検討がなされるようになり、議論の成果は既にかなり蓄積されていると考えられる。それゆえ、治療中止の正当化の問題を考えるにあたって、ドイツにおける議論を参照しないで済ませることはできない。

4-1.ドイツにおける臨死介助を巡る議論

ドイツにおいて、医的な臨死介助(Älztliche Sterbehilfe31)は、原則として、不処罰である。ここでいう臨死介助とは、重篤な病を患っているひとを本人の意思あるいは、少なくとも推定的意思に従って、人間的な尊厳ある死を可能とすることをいうが、生命を短縮する行為であるため、多くの問題を孕んでいる32

Eric Hilgendorf によれば、「臨死介助(安楽死)」には、① 積極的行為による臨死介助(積極的安楽死)と② 治療の差し控えによる臨死介助(消極的安楽死)がある。積極的安楽死はその手段によって、直接的な積極的安楽死、間接的な積極的安楽死の2種類があり、消極的安楽死は死に際する介助、死に対する介助、治療中止の3種類に区別される33

4-2.治療中止に関するドイツの刑事判例

前述のように、治療を中止するにあたっては、医師が積極的に死期を早める措置をとるわけではないから、ここでは消極的安楽死に関する議論に焦点を絞る。

注目すべきは、近年、BGH の判決において、明示的な患者の意思がある場合34、治療中止は不処罰となるとされたことである35。他方、2015年12月には、業としての自殺幇助(geschäftmaßig geleisteter Beihilfe zum Suizid)を患者の明示的な意思の有無にかかわらず処罰の対象とする刑法217条が導入された36

4-2-1.ケンプテン事件37

1990年10月、被告人である医師Tは、当時70歳のE(以下、患者E)の担当医となった。患者Eは認知症(Demenz)に罹患していた。このとき、患者Eは話すこともできず、また、歩くことも立つこともできず、視覚・聴覚への反応がなく、圧迫刺激への反応もなかった。

同年9月はじめ、心停止により、脳に不可逆的な深刻な損傷を受けた。そのため、医師Tは、チューブのよる栄養補給を指示した。はじめは、鼻にチューブを通しての栄養補給であったが、1992年に胃からの栄養補給(胃ゾンデ)に変更した。

1993年の初めごろ、医師Tは患者Eの病状がこれ以上改善しないと考え、チューブによる栄養補給から、その代わりに紅茶(Tee)のみを与えることを考えた。その際、紅茶のみを与えれば、苦痛を伴わずに、2週間から3週間で死に至ると予測した。そして、これを患者Eの子であるSに話し、Sは同意した。その際、医師TとSは「私は、医師Tの了解の上で、私の母親が、現在使用中の栄養が空になるか、あるいは、1993年3月15日になった時点で直ちに、紅茶のみで栄養を与えることを望みます」という旨の同意書を確認し、サインした。

しかしながら、この同意書を見て疑念を抱いた看護スタッフが、ケンプテン後見裁判所に通告した。医師Tは、現在行っている栄養補給は1993年3月22日までしかもたないことを告げたが、当該裁判所は暫定命令によって、胃ゾンデによる栄養補給の中止の承認を拒否した。しかしながら、その後、医師Tは、胃ゾンデによる治療を中止し、紅茶のみ与えることにした。患者Eの医療は他の医師に引き継がれたが、患者Eは栄養不足と肺水腫のため、治療中止から数週間のうちに死亡した(1993年12月29日死亡)。

原審は、死の過程が始まっている場合においてのみ臨死介助あるいは看取り(Sterbebegleitung)が問題となることを前提とし、本件のような死の過程にない場合は、臨死介助あるいは看取りが問題になることはなく、このような場合には患者の推定的意思が問題となることはないとして、医師T及びSに故殺罪の未遂が成立するとした。BGH は、原審へ差し戻した。その理由としてBGH は、患者の推定的意思に基づく許容の可能性を挙げた。「死」という過程が未だ開始されていないという理由だけで治療ないし処置の中止が許容されない場合であっても、患者の推定的意思に基づく例外的許容の可能性はなお残る、というのである。患者の推定的意思を認めるためには厳格な要件が必要であり、その要件は、口頭あるいは書面による事前指示、宗教的信念、価値観、余命、苦痛の程度などであり、患者の推定的意思が認められない場合には、「疑わしきは生命の利益に」の原則が適用されるとした。

このケンプテン事件では、患者の推定的意思が主たる争点となっているが、患者の「死」の段階に言及した点でも画期的な判決であるといえる。しかしながら、死の段階として一般的にどのような段階があるかについては言及しておらず、当該事案の患者Eの病状では死期が迫っているとはいえないとしたにとどまる。

4-2-2.プッツ事件38

【事件の概要】

2002年10月、76歳のK(以下、Kとする)は半昏睡状態に陥り、受け答えができない状態であった。Kは、PEG ゾンデにより生命維持に必要な栄養補給を摂っていた。医師の所見では、Kの治療を継続することに医学的適応性はなく、改善の見込みはなかった。

Kは、以前Kの夫が脳出血になったときに、自分の娘Sに対して「私が意識不明で、話すことができなくなったら、人工的な栄養補給及び人工呼吸の延命治療を望まない。何らかの管につながれることを望まない。」と発言していた。

2006年、被告人であるプッツ弁護士(医事法、とりわけ緩和医療専門)は、Kの子どもら(娘Gと息子S)に対して助言をしていた。プッツ弁護士に助言を受けたKの子どもらは、治療の中止を決断し、PEG ゾンデによる栄養補給を停止した39

その後、Kは病院に搬送された。その数日後、Kは死亡したが、自然死であった。

これを受け、フルダ・ラント裁判所は、プッツ弁護士をドイツ刑法212条、22条、23条、25条の故殺未遂の共同正犯として、有罪判決を下した40

プッツ事件において、Kはいまだ終末期に至っていなかったが、その病状はすでに不治の経過をたどっていた41

4-3.ドイツにおける治療中止の正当化事由

いずれの判決も、患者の自律に基づく事前意思あるいは推定的意思が存在することに正当化根拠を求めている。さらに、治療中止が認められる要件のひとつとして、患者の病状が「死に至る過程」にあるということが挙げられている。他方いずれの事案においても、当該患者が「死に至る過程」にあったとは認めていない。とりわけ、プッツ事件においては、当該患者が不治の経過をたどっていたにもかかわらず、「終末期」に至っていないとしており、「死に至る過程」がいわば2段階構造で捉えていることが読み取れる。しかしながら、「死に至る過程」に関して、どのような段階をたどるのか、どの時点で「終末期」に切り替わるのかに関しては言及されていない。

ドイツの臨死介助とは、治療行為の不開始あるいは中止によって、生命の短縮をもたらす場合をいう42。患者の治療にあたる医師はドイツ刑法13条に基づき、当該患者に対する保証人的地位を有する43。もっとも、延命治療の中止あるいは不開始は、患者の真摯な同意がなければ、ドイツ刑法13条、211条あるいは13条、212条の罪が成立することとなる44。ドイツにおいて、臨死介助の正当化根拠を巡る議論は患者の自己決定権と医師の保証人的地位の解除が基軸として行われている。

まず、延命治療を拒否する自己決定権と結び付けられた臨死介助は、「不作為による臨死介助」であるとする見解がある45。これは、延命治療を拒否するということは、人が生命維持の医療措置を受けることなく死ぬということを意味しており、すなわち、不作為が死を生ぜしめるというのである46。この見解は、医師に作為による治療義務はないことが認められた時点で、医師の保証人的地位として負う義務が遮断されるとする47。不可逆的意識喪失の状態、すなわち、意識を回復することがもはやないことが医学的に確実である状態の患者に関しては、生命維持義務がもはや存在しないこととなり、この時点を以て医師の治療義務が解除されると解するのである48。確かに、医学技術の発展により、例えば脳死判定、余命の診断などの判定の精度は増してはいるが、意識を回復することがもはやないことを確実に証明できるとまでは言えず、どの時点をもって治療義務を解除できるかがなお検討されなければならない。

これに対して、患者の同意によって医師の保証人的地位が解除されるとする見解がある49。医師は原則として当該患者の保証人的地位にあり、生命維持の義務を負うが、患者の治療中止あるいは不開始への同意により、医師の保証人的地位が解除され、ドイツ刑法13条、211条あるいは13条、212条に該当しないとするのである50。しかしながら、ドイツ刑法211条及び212条が存在する以上、患者本人が説明を受けた上で治療の中止に同意していたとしても、それだけで、とりわけ死を導くような治療中止の正当化を認めることはできないであろう。尤も、ドイツでは、基本法1条において人間の尊厳に関する規定があり、人間の尊厳は不可侵であると明記されており、患者の自己決定権は重要であるとされている。しかしながら、患者の自己決定権により、生命の放棄を直ちに認められるとは言えず、患者の自己決定権の射程範囲についてより具体的に検討されなければならないであろう。

5.日本の終末期における安楽死の議論

前述のとおり、福生病院透析中止事件において、問題となるのは、当該患者が来院時点で終末期であったかどうかである。来院時点において、終末期であると認められるのであれば、治療不開始は、消極的安楽死として正当化される可能性がある。しかしながら、来院時点の病状では終末期と認められない場合は、安楽死を許容する要件が欠如するため、殺人罪の成否が問題となる。また、仮に透析治療の中止を消極的安楽死として捉えるならば、当該治療中止が正当化されるための法的要件はどこに求められるのであろうか。さしあたり、まず、「終末期」とはどの時点で認められるのか、次に、治療中止はどのような法的根拠をもって正当化され得るのかを考える必要がある。

5-1.終末期とは

医学の発展に伴い、延命医療の技術が発達した。近年の著しい医療技術の発展により、自然の死を遂げていたであろう不可逆的意識喪失者の生命をも一定の間維持することができるようになってきている51。すなわち、「患者への積極的治療を継続することにより死期をかなり先に延ばすこともでき、逆に、治療のレベルを落とすことは早期の死を招来する」52

しかしながら、医療は万能ではなく、生命・健康の維持回復という目標には限界があることも忘れてはならない53。人間の生命にも医療技術にも限界がある以上、延命のための治療を積極的に継続することが、医学的知見から、それ以上意味を持たないという時点があるはずであり54、その時点こそが「終末期」が認められる時点であろう。

注意が必要なのは、仮にこの基準が純粋に医学的な基準であるとすれば、法的に医師の治療義務が解除される時点とは必ずしも一致しないであろうという点である。法的義務は自然科学的な観点のみから基礎づけられるものではないからである。そればかりか、この基準は、医学的観点からであっても、「意味を持たない」か否かを問題としている以上、既に純粋に自然科学的な時点の特定ではない。そこには医療という限局された局面においてではあれ社会的な目的合理性の観点が含まれており、何のために「意味を持たない」のかがさらに明らかにされなければならない。

ここで問題としているのは、延命措置が「意味を持つ」か否かであり、治癒の見込みがないことがそもそも前提となるから、医学的観点は大きく後退するはずである。医師にとっては(医学的には)延命のためだけの措置などそもそも意味がないとさえ言えるからである。延命措置がだれのために意味を持つかといえば、患者本人と遺族のためであろう(それを含めて「医療」上の意味だとはいえる。)。延命治療の義務が法的に解除される終末期とは、すなわち、患者本人と遺族にとって延命が意味を持たなくなる時点であり、これこそが消極的安楽死が正当化され得る時点である。この特定が本稿の課題である。

透析治療を受ける患者の「終末期」に関しては、日本透析医学会は、福生病院透析中止事件を受けて公表した文書の中で「透析を行っている患者さんは終末期に含まないこと」と示す一方で、患者の病状は透析に伴う合併症等を含めて個々に判断すべきであるとしている55

「終末期」とはどのような状態であり、どの時点において認められうるのか。自然科学的観点からは、死期に時間的に近いだけで「終末期」と定義することもできる。医学的観点からは、治療・治癒不可能な時点を終末期と捉えることもできる。しかし、法的・社会的な観点からは、治療義務が解除され得る時点であると考えなければならない。その時点は必ずしも明確ではなく、患者が有する疾病や状態によって様々であり、「終末期」の定義もその病状により異なる。

前述のように、医学的な観点からは、一般的に、「終末期」とは回復の見込みがほとんどないような状態をいう。例えば、日本救急医学会は、救急医療を基準に、「終末期」とは突然発症した重篤な疾病や不慮の事故などに対して適切な医療の継続にもかかわらず死が間近に迫っている状態であるとする56。これは、救急医療の現場を前提にしている定義である。救急医療の現場では、患者が死期に切迫しているため、限られた時間しかなく、その時間の中で可能なことをすべてやりきらなければならない。すなわち、入手可能な時間的、人的、医学的資源をすべて投入したが、回復の見込みがないという現場を重視した定義であろう。

日本小児科学会の「終末期」は社会学的観点から定義されている。子どもの医療の特性に鑑み、疾患やその時々の状態は個別性が強く、生命維持に関わる治療の差し控え等に対する意見は多様であるとし、「終末期」の定義はないとする57。これは、子ども本人が「終末期」に関しての理解ができていない(であろう)という点を考慮し、親の考え方を重視している。

例えば、厚生労働省が治療義務解除の時点の特定を試みている。これによれば、前提として、「終末期」の定義はないとし、どのような状態かをみて、それを終末期として認めるかどうかは医療・ケアチームの適切かつ妥当な判断によるべきであるとしている58

また、日本医師会は、2008年「終末期医療に関するガイドライン」において「終末期」の多様性を考慮して、その定義はないとしているが、2009年のグランドデザインにおいて、「終末期」の広義の定義を「担当医を含む複数の医療関係者が、最善の医療を尽くしても、病状が進行性に悪化することを食い止められずに死期を迎えると判断し、患者もしくは家族が意思決定できない場合には患者の意思を推定できる家族が『終末期』であることを十分に理解したものと担当医が判断した時点から死亡まで」をいうと定義している59

全日本病院協会は、「終末期」を認めるための条件を提示している。① 複数の医師が客観的な情報を基に、治療により病気の回復が期待できないと判断すること、② 患者が意識や判断力を失った場合を除き、患者・家族・医師・看護師等の関係者が納得すること、③ 患者・家族・医師・看護師等の関係者が死を予測し対応を考えること、この3点を充たす場合を「終末期」であるとする。

具体的な数字によって「終末期」を示すものもある。たとえば、日本医師会の長尾は「終末期」を、病態により異なるという前置きをした上で、死期が迫った時期とし、概ね3か月ないし1~2週間であるとする60。また、日本学術会議では亜急性型の「終末期」に着目し、悪性腫瘍などに代表される消耗性疾患により、生命予後に関する予測が概ね6ヶ月以内とされている61

ここまでの定義のバリエーションをみると、着眼点は① 死期の切迫性、② 治癒・良好な予後の見込、③ 患者ないし家族の意思の3点である。上記のいずれ定義においても、医師の治療義務が解除される時点はこの3点が重畳的に一定の水準を充たすときであるとされている。

死期の切迫性の日数のみで判定するのであれば、福生病院透析中止事件の患者は、(推定ではあるが)1週間強で死亡しており、とりわけ、患者が治療の再開を望んだ時点において死亡まで数日しかなかった。この点にのみに着目し、つまり、問題となる措置から何日生きたのかを事後的に考慮するだけで足りるのであれば、当該患者は「終末期」にあったといえる。しかしながら、そもそも「死期」の切迫性なのであるから、日数のみが問題なのではない。事前段階で治療中止が許されるのか否かを判定する要件である以上は、具体的な病状、治癒の見込みを考慮に入れる必要があろう。

福生病院透析中止事件における患者の病状に従い、日本透析医学会の理解に依拠するならば、担当医が透析治療の準備を進めていたことを含め、患者にはまだ治療の余地があり、延命が可能であったため、「終末期」とは認められないという結論もあり得る。確かに患者本人が、医師に示された透析治療の継続か治療不開始かの二つの選択肢のうちの治療不開始を選択し、同意書にサインをしており、透析治療の不開始を望んでいるとしても、健康維持の目標はわずかであっても達せられる状況にあり、この点を厳格に解すれば、「終末期」と認めることは難しくなる。また、患者の透析治療再開の要望を考慮にいれると、「もう遅い」という時点であったとしても、医師の治療義務62は必ずしも限界を迎えていたとは言えず、何かしらの手を打つことができたように思われる。

本稿の目的は、福生病院透析中止事件をきっかけに「終末期」の時点の特定及び治療義務の正当化根拠の考察のアウトラインを画定することであるため、終末期の定義については、以上の整理にとどめ、詳しくは立ち入らないこととする。

5-2.治療中止の正当化事由

治療中止が許容される前提として、① 患者が耐えがたいほどの肉体的苦痛を感じていること、② 死期が切迫していること、③ 患者本人が苦痛緩和・除去を真摯に臨んでいることが不可欠の要件である。すなわち、一般に、終末期における治療中止が許容されるのは、「死が避けられない患者」のみである63

安楽死一般について言えば、我が国の学説では違法性が阻却される場合があることを肯定するのが多数説である64。正当化根拠としては、第一に、人間的同情や惻穏の行為等を論拠とする適法説がある65。これは、安楽死の方法は倫理的に承諾されるものでなければならず、倫理的に承諾される方法により為された安楽死は適法であるとする説であり、積極的安楽死の正当化を巡る議論において提唱されたものである。第二に、自己決定権からアプローチする見解がある。生命・身体に関する自己決定権から、自律的生存の可能性がなくなった場合、本人の生命に対する処分権の行使が許容されるため、本人の意思を実現する行為として安楽死が正当化されるとする説である66。殊に、消極的安楽死における治療中止に関して、その正当化は医師の治療義務の限界の問題であるとして解決を試みる説がある。これは、医師に末期医療における患者の福祉のために行動する裁量の余地を与え、法の威嚇から自由に行動する権利を認めるべきだとする67

福生病院透析中止事件の透析治療の中止行為は、消極的安楽死に類似する事案である。また、患者の意思があることはどの立場からも共通の条件とされているため、患者の意思の正当化効果を巡る議論は別論として、本稿においては、上述の安楽死の正当化に関する法的根拠3つのうちの「治療義務の限界」論に焦点を絞る。

5-2-1.終末期の治療義務終了の根拠

終末期には医師の治療義務が終了することを根拠づける考え方の一つに、法が、生命保護の要請を理由に、医療従事者に対し、極限まで患者の脳と心臓とを人為的に機能させ続けることを義務づけるとすれば、それは非人間的なことである68とするものがある。この見解は、なぜ「非人間的」なのかを明らかにしておらず、せいぜい、人為的生命維持に対する反感を論拠とすることができるにとどまる。このように自然主義的かつ情緒的な根拠に基づいて、治療義務の終了時期を画するとすれば、法的安定のある基準を案出することは困難であろう。

患者が延命措置の中止を要求しているにもかかわらず、延命治療を無理強いする行為は、強要罪や暴行罪に該当する恐れがあるとの指摘もある69。いわゆる専断的治療行為とのアナロジーであろう。しかしながら、延命治療を拒否する意思は、自らの死を望む意思とほぼ重なる。同意殺人ないし嘱託殺人が処罰されることを前提とする以上、そのような意思がその侵害に対して刑法的保護を受けると考えることは背理である。特に、同意殺人あるいは嘱託殺人の処罰根拠が生命尊重の価値観、気風といった国家的ないし社会的法益であると考える場合、望む者であっても殺してはならないと要求しているのは国家、社会である。患者の意思に反する延命治療を「無理強い」だと表現することは、無理強いの主体が刑法であって、医師ではないことを忘れさせ、刑法が要求する通りにすれば刑法によって罰されるという矛盾した事態を論拠として口走らせてしまう原因となる。

意思に反する延命措置が暴行罪に該当するという命題が意味を持ち得るのは、延命措置を取っても余命わずかである場合に、それを理由として死を望む意思に殺人について正当化効を(例外的に)認める場合に限られる。つまり、この命題を治療義務終了の論拠として提示することは、消極的安楽死は許容されるべきであるから、患者の意思に沿う延命措置中止は同意殺人・嘱託殺人にはあたらないというトートロジーに、延命措置中止に従わないことは犯罪を構成する、という無意味な中間項を付け加えているにすぎない。

これに関連して、日本学術会議「死と医療」報告書によると、患者の意思を無視して行われる医師の一方的な延命治療は従来の医療では「人命尊重の立場から当然に認められるべきであると考えられてきた」が、「医療においてはインフォームドコンセントの法理が支配すべきであるとすると、意思ないし判断能力を有する患者が末期状態において延命医療を拒否している以上は、たとえそれによって生命の短縮を招くことが明らかであっても、医師はその患者の意思に従うべきであって、それを無視して延命治療を施せば、それは行き過ぎた医療とな」70るとする。この見解は、終末期における延命治療中止を人命尊重の建前と患者の意思との対立緊張関係の問題と促えた上で、患者の意思が尊重されることを宣言するものであって、上記二つの見解に比較すれば、実質的かつ説得力のある判断を示すものであると評価できる。しかしながら、何故末期状態において、卒然、患者の意思が優先されることになるべきなのかに関する説明がなお求められるところである。

5-2-2.治療中止は作為なのか、不作為なのか

いったん開始した治療を中止する行為は作為になるか、不作為になるかに関しては学説上、争いがある。

福生病院透析中止事件における透析治療の中止は、これを「以降の透析を行わなかった」ものと理解すれば、不作為と捉えられる。しかし、二回にわたる予後の説明とあり得る措置の選択肢の提示によって、患者自身に透析治療を中止することを選ばせている点を捉えれば積極的作為による(教唆的)介入とも言える。

まず、治療中止行為を不作為と捉える見解からみる。この見解は、治療行為の中止を「将来に向けてもはや治療行為を行わない」ことと同価値であり、事態の一部を分離せず実態に即してみれば、それは死にゆく人を助けるという行為をそれ以上しなかったという消極的な行為と捉え、不作為であるとする71。不作為犯は、作為義務を負っている者が作為義務に反して作為に出なかった場合にのみ成立する72。治療中止を不作為とする見解は、治療義務の不存在を根拠とする。つまり、医師が患者の治療を継続するのは治療義務の履行であり、治療を中止した場合、「それ以上の救命行為を行わない」という作為が刑法的評価の対象とされる73。もはや救命不可能という段階に至った時点で、治療を継続する刑法上の義務が存在しないことを意味するため、その限りにおいて、医師は保証人的地位から解放され、この段階で治療行為を中止しても、保証人的地位にない医師は不作為犯の主体とはなり得ず、殺人罪や同意殺人罪の構成要件に該当しないと理解されることになる74

次に、治療中止を作為であるとする見解である。この見解は、治療を中止する際に、患者の生命を終わらせるための動作が介入していることは否定できないとする観点に着目したものである75。患者の生命維持装置の取り外しや気管内チューブを抜管する行為と、患者の死亡という結果の間の因果関係の存在が否定できないことに根拠を置く。治療中止行為を作為であるとすると、行為の主体は限定されないため、治療義務を負っている医療従事者以外のものにも刑事責任を負わせることができる。この立場によるときは、治療中止及び不開始という行為を患者の死亡という結果の間に因果関係があり、また、当該行為は作為であると解するため、医師は当該行為の主体となり得るため、殺人罪及び同意殺人罪の構成要件に該当するということになる。

5-2-3.治療義務の限界とは

治療中止行為は、患者にとって「最後の治療行為」としての側面をもつ76が、医師にはその治療行為の義務を当該患者の死亡という時点まで負うであろうか。

治療中止が刑法上の生命保護規範とされることの根拠は、法的治療義務の欠如に求められることがある。最終的には広い意味での「医師の治療義務の限界」に求められるが、患者の自己決定権も治療義務の限界もどちらも単独で治療中止の根拠となり得るとする説もある77。また、「治療義務の限界」論は「自己決定権」の際限ない拡大を防ぎ、法的な不安定さを科学的客観性によって補っていると考えられ、この背景には、従来の医療慣行に対する信頼があるとする説もある78。この見解によると、治療義務の限界は、例えば、患者が意識を回復する可能性がまったく失われた状態で、もはや生命維持装置などを装着して治療を続ける必要がないと判断された場合に認められる。このような場合には、医師はもはや当該治療を続ける義務を負わないとする説である。

医療のあり方を、人が生まれてから死ぬまでの過程に寄り添い、なるべく健康に、生を全うできるようにするためのものであることとし79、治療として意味を成さない行為、すなわち「過剰な延命医療」あるいは「やりすぎの医療」を続けることは医師に負わされた義務ではないとして、ここに治療中止の法的根拠を求めるのである80。しかしながら、治癒・改善の見込みがない場合、直ちに「過剰」、「やりすぎ」の医療だとすることは、既にその表現において結論を先取りしていると言えよう。例えば、ペインクリニックによる緩和医療の導入や、患者本人あるいは家族が満足するところまで手を尽くす、すなわち精神的なケアも医療の果たすべき役割であり、任務であると考えることもできるので、そうした措置が「過剰」であることは別途論証されなければならない。結局、治療義務の限界が治癒、病状改善の見込みによってのみ画されるのであるとすれば、この見解は、人の生命を科学的客観性を僭称する医師の恣意や経済効率に委ねるものに過ぎないと言えよう。

また、治療中止と治療の差し控えを法的に同列に置くことができるとするならば、治療の差し控えの判断基準を治療中止の場合にも援用できるとする解釈もある。ここでの判断の要素とは、死期の切迫性、意識回復の可能性、治療継続が患者に与える負担、治療手段の特別性・異例性(手術の実施、侵襲性の大きなカテーテルの挿入、人工透析、血液浄化、人工呼吸器、人工心肺)の程度である81。治療中止と治療の差し控えに際する判断基準の援用は可能であるとしても、治療中止行為及び治療の差し控えという行為は法的に同列に置くことができるかについては疑問が残る。

過剰な延命医療に関しては、「行わなくてもいい」のではなく、「行ってはならない」ことが原則であると解する説もある。これは、例えば、蘇生の可能性がなく、臨死状態にある患者を家族から引き離し、延命医療を行い、死亡時刻を数分間遅らせるような医療は「真に意味のない延命医療」であるとし、そのような行為は治療の名に値しない行為であり、正当化することはできないと解する82。しかしながら、どの時点あるいはどのような行為が過剰な延命医療に該当するのかの言及はなされていない。また、過剰な延命治療を「真に意味のない延命医療」であるとするかどうかは、患者あるいは家族が判断することであり、結論の先取りであると言わざるを得ない。

6.結びにかえて

本稿の目的は福生病院透析中止事件をきっかけに、「終末期」の開始時点および終末期の治療中止行為の正当化の足掛かりを探ることである。

「終末期」の定義に関して、個別具体的に考えなければならないが、法的安定性が確保されるためのある程度の基準も必要である。「終末期」の概念は患者個人の病状により異なるし、とりわけ余命を具体的な数字で示すことは難しい。本稿で概観した「終末期」の定義のバリエーションから、「終末期」が認められる要件として、① 死期の切迫性、② 治療・良好な予後の見込み、③ 患者ないし家族の意思が重畳的に一定の水準を充たすことが重要である。しかしながら、③ 患者ないし家族の意思に関しては注意が必要であり、患者ないし家族が「終末期」であると認め、終末期における治療の中止及び不開始に同意しているとしても、そもそも死ぬということへの自己決定権は日本において認められていないので、③の要件は重要ではあるが、③のみが強調されてはならず、①と②の要件が客観的にチェックされなければならない。本稿の福生病院透析中止事件では、③ 患者の意思が重要視され、完全な回復ではないといえども治癒の可能性があったと考えられるし、そうであったとするならば、来院時点から1週間強で死亡したとしても、死期が切迫していたとは考えられず、本件の患者が来院した時点を終末期の開始時点として認められないと考えることが妥当であろう。一方で、具体的な病状などは公表されていないが、本件患者の入院後、透析治療再開を望んだ時点で、もう手遅れであったということが医学的知見から認められるのであれば、治癒の見込みがなく、死期が切迫していたと認められ得ること、このことについて患者が理解し、患者の明示の意思表示があったことを考慮すると、上記の3つの要件が充たされるため、この時点においては「終末期」を認められ得ると言えそうである。「終末期」の開始時点は個別具体的に検討しなければならず、客観的な判断が重要な事項である。この判断基準に関してはより具体的な検討が必要である。

また、とりわけ延命治療の技術が発展していく中で治療中止行為がどのような根拠を以て正当化され得るかに関する議論は重要である。治療中止が認められる正当化根拠は医師の治療義務が解除されることに求めるのが妥当であるように思われる。医師の治療義務が解除される時点は、学説にもあるように患者が意識を回復する可能性がまったく失われた状態で、もはや生命維持装置などを装着して治療を続ける必要がないと判断される場合であろう。しかしながら、この見解は、「過剰な延命医療」、「やりすぎの医療」を続けることを医師に負わされた義務ではないとすることに法的根拠を求める点に未だ検討しなければならない点がある。前述したように、「過剰」、「やりすぎ」の医療は、既にその表現において結論の先取りであるため、法的根拠に関して、より具体的な検討が必要であろう。本稿は研究ノートであるため、これらの検討に関しての結論を出すことは今後の研究課題とし、検討を進めていきたい。

Footnotes

1 以下、福生病院透析中止事件と記載する。

2 「安倍政権は33万人の透析患者を殺すのか」PRESIDENT Online 2019年4月19日https://president.jp/articles/amp/28473?page=2(2020年2月1日閲覧)。

3 「『与死』の危険背後に経済主義――手続き論医療倫理とかい離――」中日新聞2019年3月26日(火)朝刊、与死とは、「患者の意思を問わず、一定の条件を満たせば、医師が何らかの医療措置を施し、死に誘導させる行為を指す」(同中日新聞2019年3月26日朝刊解説参照)。

4 腎臓の働きが低下すると、老廃物が溜まり、全身の臓器に不具合を生じせしめ、命を脅かす。そこで、人工的に老廃物を取り除くのが透析治療である。この透析療法(透析治療)とは、自分の腎臓では命を保てない末期腎不全患者に適用される腎代替療法である。その中で多く採用されている透析療法は血液透析であり、体外に血液を引き出し、機械できれいにして体に戻す方法である。専用の液体を腹に入れ、老廃物や水分をとりこんで排出する腹膜透析というものもある。福生病院透析中止事件の患者のように、末期腎不全になると、腎臓の機能が回復することはほとんど見込めず、透析を続けることとなる。

5 「透析中止『問題なし』福生病院が初めて説明したこと」朝日新聞DIGITAL2019年3月29日https://www.asahi.com/sp/articles/ASM3Y4RNJM3YUBQU00J.html(2020年1月13日閲覧)。

6 患者Aの夫によると、患者Aは1999年、自殺の恐れがある「抗うつ性神経症」と診断されていた。「医師から『透析中止』の選択最後まで揺れた女性の胸中“自己決定” といえるのか」毎日新聞2019年3月7日https://mainichi.jp/articles/20190307/k00/00m/040/008000c(2020年1月11日閲覧)。

7 「医師の判断で透析患者を殺してもいいのか」PRESIDENT Online 2019年3月16日http://president.jp/articles/-/28042?page=1(2020年1月14日閲覧)。

8 「透析中止で女性死亡遺族が福生病院を提訴」産経ニュース2019年10月18日https://www.sankei.com/affairs/news/1910170019-n1.html(2020年1月12日閲覧)。

9 患者Aは「元々、シャントがつぶれたらやめようと思っていた」と意向を示していた。一方で、医師Xはエックス線投影を行うなどして、事前に患者Aの手術の準備をしていたという(中日新聞2019年3月29日朝刊「担当医『できることやった』」より)。

10 「公立福生病院透析中止事件提訴報告集会に参加を」精神障害者権利主張センターhttps://acppd.org/a/1849(2020年1月11日閲覧)。

11 朝日新聞DIGITAL・前掲注5(2020年1月13日閲覧)。

12 「透析中止・夫の手記全文まさか『死ぬための入院』だなんて…」毎日新聞2019 年3 月13 日https: //mainichi. jp/articles/20190313/k00/00m/040/115000c(2020年2月2日閲覧)。当時、Aの夫はストレス性の胃潰瘍により同病院に入院中であった。

13 「医師が『死』の選択肢提示透析中止、患者死亡、東京の公立病院」毎日新聞2019年3月7日https://mainichi.jp/articles/20190307/k00/00m/040/002000c(2020年1月13日閲覧)。

14 これに関連して、久保田顕二「積極的安楽死と消極的安楽死(I)――『殺すこと』と『死ぬに任せること」――」倫理学研究5巻(1992年)17頁以下は、積極的安楽死と消極的安楽死を比較し、積極的安楽死を「殺すこと(Killing)」のひとつであるとし、消極的安楽死を「死ぬに任せること(letting die, allowing to die)」であるとする。

15 日本透析医学会血液透析療法ガイドライン作成ワーキンググループ透析非導入と継続中止を検討するサブグループ「維持血液透析の開始と継続に関する意思決定プロセスについての提言」透析会誌47巻5号(2014年)269頁以下。

16 手嶋豊『医事法入門〔第5版〕』(有斐閣アルマ、2018年)305頁。

17 消極的安楽死を「尊厳死」とする見解もあるが、筆者は消極的安楽死と尊厳死は別のものと考える。消極的安楽死を尊厳死とする見解として、例えば、樋笠尭士・樋笠知恵「患者の自己決定権の根拠について:安楽死・尊厳死を手がかりに」嘉悦大学研究論集61巻1号(2018年)38頁、古牧徳生「なぜやはり安楽死なのか」紀要第12巻2018年)38頁。

18 日本尊厳死協会では、終末期鎮静(ターミナルセデーション)という言葉を用いて、間接的安楽死に関する行為をひとつの医療行為として考えている。

19 これに関連して、消極的安楽死の治療中止行為を尊厳死として扱う見解もあるが、筆者は消極的安楽死の治療中止行為と尊厳死はその要件などを慎重に考慮した上で別のものとして扱う必要があると考えている。消極的安楽死の治療中止行為と尊厳死を同様に扱う見解として、例えば、有馬斉「消極的安楽死の合法化が社会的弱者に及ぼしうる否定的影響に関する倫理学研究」。

20 町野朔・池上直己「対談・終末期における医療と法律」刑事法ジャーナル35号(2013年)99頁、古川原明子「安楽死・尊厳死の刑法的評価――終末期における治療行為論に向けて――」現代刑法18号(2009年)100頁。

21 田坂晶「治療行為中止の許容性」島大法学第56巻第4号(2014年)115頁。

22 高等裁判所判例集15:684-580(1962年)。名古屋高裁判決について、詳しくは、大塚仁「13 安楽死」『刑法判例百選(新版)』(ジュリスト、1970年)32頁以下、同「34 安楽死」『刑法判例百選Ⅰ総論』(ジュリスト、1978年)78頁以下、同「30 安楽死」『刑法判例百選Ⅰ総論[第二版]』(ジュリスト、1984年)68頁以下。

23 横浜地裁平成7年3月28日判決、判時1530号28頁、判タ877号148頁。

24 東海大学「安楽死」事件について、詳しくは、内田博文「21 安楽死」『刑法判例百選Ⅰ総論[第四版]』(ジュリスト、1997年)44頁以下、甲斐克則『安楽死と刑法』(有斐閣、2003年)170頁、武藤眞朗「東海大学『安楽死事件』」『医事法判例百選〔第1版〕』(ジュリスト、2006年)88頁、加藤摩耶「東海大学『安楽死』事件」『医事法判例百選〔第2版〕』(ジュリスト、2014年)196頁、松浦繁「東海大『安楽死』裁判をふりかえって」中央ロー・ジャーナル5巻1号(2008年)25頁、斉藤信治「安楽死と治療中止・尊厳死――東海大事件・川崎協同病院事件および『鎮静』について」中央ロー・ジャーナル5巻1号(2008年)52頁、中山研一『安楽死と尊厳死』(成文堂、2000年)164頁、山口厚『刑法総論〔第2版〕』(有斐閣、2007年)167頁。

25 多発性骨髄腫とは、血液細胞のひとつである形質細胞の癌であり、医学が進んだ現在においても根治不能な悪性腫瘍のひとつであるとされている。2000年以後、新たな治療方法の開発が進み、改善されつつあるが、事件が起きた1990年代においては、治療法は少なく、予後が厳しい病気であった。多発性骨髄腫について、詳しくは、半田寛「多発性骨髄腫の疫学と余後の変遷」『日内会誌』105号、1202頁以下。

26 最高裁平成21年12月7日第三小法廷決定、刑集63巻11号1899頁、判時2066号159頁、判タ1316号147頁。

27 川崎協同病院事件は、安楽死の事案の中で唯一最高裁まで争った事件である。川崎協同病院事件について詳しくは、甲斐克則「治療行為の中止――川崎協同病院事件」『医事法判例百選〔第2版〕』(ジュリスト、2014年)198頁。同『終末期医療と医事法』(信山社、2013年)、同『尊厳死と刑法』(成文堂、2004年)279頁、辰井聡子「治療不開始/中止行為の刑法的評価」明治学院大学法学研究86号(2009年)57頁、小田直樹「治療行為と刑法」神戸法学年報26号(2010年)1頁などがある。

28 川崎協同病院事件の第1審は横浜地判平成17年3月25日(判タ1185号114頁)、第2審は東京高判平成19年2月28日(判タ1237号153頁)。

29 なお、第1審(横浜地裁平成7年3月28日)の傍論において、治療中止は以下の3要件のもとに認められると説いた:① 治癒不可能な病気に侵され回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること、② 治療行為の中止を求める患者の意思表示が中止時点で存在すること、③ 中止の対象となる措置は、薬物療法、人工透析、人工呼吸器、輸血、栄養・水分補給など、疾病を治療するための治療措置及び対象療法である治療措置、さらには生命維持のための治療措置など、すべてが対象となる。

30 古川原明子・前掲注21・82頁。

31 Gijs Spitshuis, ,Euthanasieʻ noch immer ein Tabu? ; Stefanie Graefe, Shöner Tod? “Euthanasie“ in Vergangenheit und Gegenwart, Bundeszentrale für politische Bildung (4. 8. 2015). 現在、ドイツにおいて安楽死に対応する言葉としては“Sterbehilfe” が使われることがほとんどである。「安楽死」は“Euthanasie”からの翻訳であると思われるが、“Euthanasie” という言葉は、ドイツのナチス時代のT4 作戦(“Euthanasie-Aktion T4”)に使用された。T4 作戦は価値なき生命の抹殺を容認するものであり、優生学思想を徹底した作戦であり、作戦遂行当時から、キリスト教教会などから強い批判があった。このT4 作戦は未だに強い批判を受けており、この作戦に使われた“Euthanasie” という言葉もこの作戦の基礎にある優生思想を想起させるため、現在では用いられない。尤も、このふたつの言葉の違いを自己決定権の有無や医師の手によるか否かなどの観点から区別しようとする論者もあり、言葉そのものの語意に関する争いはおよそ1世紀にわたっているようである。

32 Eric Hilgendorf, Sterbehilfe heute, MedR (2018) 36, S. 733.

33 Erik Kraatz, Arztstrafrecht, S. 131, Rn. 171.

34 患者の事前意思(Patientenverfügung)に関しては、ドイツ民法1901 a条に規定がある:ドイツ民法1901 a条同意能力のある成年が、自らの同意能力を失った時のために、健康状態の診察ら治療が医療的介入について同意するか拒否するか(患者の事前指示)について、それがまだ差し迫っていない時点で書面に明記して指示しておいた場合、世話人はこの指示が、現在の患者の生命に関する状態と、現在の治療状況とに該たるかをチェックする。該てはまる場合には世話人は被世話人の意思に代わって表明し、尊重されるようにしなければならない。患者による事前指示はいつでも撤回できることとする。

35 BGHSt 40, 257ff. ; BGHSt 55, 191ff ; Eric Hilgendorf, Medr (2018), S. 733.

36 Eric Hilgendorf, Medr (2018), S. 733.

37 BGHSt 40, S. 257-272.

38 プッツ事件の翻訳は、ヘニング・ローゼナウ(甲斐克則=福山好典訳)「ドイツにおける臨死介助および自殺幇助の権利」比較法学47巻3号(2014年)211頁に依拠する。BGHSt 55, 191ff. = NJW 2010, 2963ff. ; Gaede, NJW 2010, 2925ff. ;Duttge, MedR 2011, 36ff. ; Erik Kraatz, Arztstrafrecht, 139.

39 もっとも、このとき、老人ホームの管理者が介入し、世話人である子どもらに対して治療再開を要求したが、再開されることはなく、治療は中止された。

40 LG Fulda, Zeitschrift für Lebensrecht, 2009, 97ff.

41 ヘニング・ローゼナウ(甲斐=福山訳)・前掲注38・211頁。

42 Rössner/Wenkel, in : Dölling/Duttge/Rössner vor §§ 211 ff. StGB Rn. 19 ;Kühl, vor § 211 StGB Rn. 8 ; Holzhauer, FamRZ 2006 S. 524 ; Odunch, MedR 2005 S. 440 ; Knopp MedR 2003 S. 379 ; Giesen, JZ 1990 S. 936.

43 Jens Rohrer, Menschenwürde am Lebensanfang und am Lebensende und strafrechtlicher Lebensschutz S. 253 ; Kühl vor § 211 StGB Rn. 8 ; Eser, in :Schönke/Schröder vor §§ 211ff. StGB Rn. 27 ; Schneider, in : Müko – StGB vor §§ 211. Rn. 105 ; Helgerth, JR1995 S. 1995 ; Dölling, MedR 1987 S. 8.

44 Rössner/Wenkel, in : Dölling/Duttge/Rössner vor § 211ff. StGB Rn. 20 ;Stürmer S. 12.

45 Bernat, Das österreichische Recht der Medizin- eine Bestandaufnahme, JAP 3/ 1999/ 2000, 105ff.

46 Moos, in : WK (2. Aufl.) vordem § 75 Rz 32.

47 Bernat, in : Deutsch-FS, 447ff.

48 Moos, in : WK (2. Aufl.) § 75.

49 Schneider, in : Müko – StGB vor §§ 211 ff. Rn. 109 ; Kühl vor § 211 StGB Rn.8a.

50 Jens Rohrer, Menschenwürde am Lebensanfang und am Lebensende und strafrechtlicher Lebensschutz S. 253.

51 上田健二「末期医療と医師の生命維持義務の限界――いわゆる『一方的治療中断』の許容基準をめぐって――(1)」同志社法学41巻1号(1989年)3頁。

52 井田良「終末期医療と刑法」ジュリスト1339号(2007年)39頁。

53 大嶋一泰「生命維持装置の取外しと刑法」福岡大学法学論叢23巻3・4号(1979年)288頁。

54 田坂晶・前掲注21・101頁以下。大嶋一泰・前掲注53・300頁。

55 日本透析医学会「透析患者の皆様、一般の方々、医労者及び報道の方々へ」http://www.jsdt.or.jp/info/2519.html(2020年1月17日閲覧)。

56 日本救急医学会「救急医療における終末期医療に関する提言(ガイドライン)」(2007年)。

57 日本小児科学会「重篤な疾患を持つ子どもの医療をめぐる話し合いのガイドライン」(2012年)。

58 厚生労働省「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」(2007年)。

59 全日本病院協会「終末期医療に関するガイドライン~よりよい終末期を迎えるために~」(2016年)2頁。

60 長尾和宏「【終末期医療】C-1.終末期医療の在り方」医の倫理の基礎知識(2018年、日本医師会)。

61 日本学術会議「終末期医療のあり方について――亜急性型の終末期について――」(2008年)。

62 これに関連して、医師には患者が要求した治療を行わなければならないという応招義務がある。2019年12月、政府が医師の応招義務の報告書(厚生労働省医政発1225号第4号「応招義務をはじめとした診察治療の求めに対する適切な対応の在り方等について」(令和元年12月26日第6回医師の働き方改革の推進に関する検討会参考資料2))によると、医師の応招義務は、医師法第19条第1項において、「診療に従事する医師は、診察治療の求めがあつた場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない。」と規定されている。報告書によると、この報告書によると、日本における応招義務の基本的考え方は、「医師法第19条第1項及び歯科医師法第19条第1項に規定する応招義務は、医師または歯科医師が個人として負担する公法上の義務であり、医師または歯科医師の患者に対する私法上の義務ではな」く、「医師または歯科医師が個人として負担する義務」である。この報告書において、医師法第19条第1項及び歯科医師法第19条第1項の応招義務は「医師または歯科医師が勤務医として医療機関に勤務する場合でも、応招義務を負うのは、個人としての医師又は歯科医師であ」り、「他方、組織として医療機関が医師・歯科医師を雇用し患者からの診療の求めに対応する場合については、昭和24年通知にもあるように、医師又は歯科医師個人の応招義務とは別に、医療機関としても、患者からの診療の求めに応じて、必要にして十分な治療を与えることが求められ、正当な理由なく診療を拒んではならない」とされている。

63 植村和正= 井口昭久「『安楽死』と『尊厳死――法律的考察――』」生命倫理第9号第1巻(1999年)、119頁。

64 内田博文「安楽死」『刑法判例百選Ⅰ[第4版]』、44頁。

65 適法説に関して、例えば、植松正「安楽死の許容限界をめぐって」ジュリスト269号43頁以下、大塚仁『刑法論集(1)』(有斐閣、1976年)146頁以下、藤木英雄『刑法講義総論』(1975年)194頁。

66 積極的安楽死を正当化するものとして、福田雅章「安楽死」荕= 中井編『医療過誤法入門』(青林書院、1979年)237頁。

67 町野朔「『東海大学安楽死判決』覚書」ジュリスト1072号(1995年)89頁。

68 井田良・前掲注52・39頁。

69 植松正「安楽死問題の新局面」ジュリスト623号(1976年)118頁、甲斐克則「尊厳死問題の法理と倫理」愛知学院大学宗教法制研究所紀要49号(2009年)157頁。

70 日本学術会議「死と医療特別委員会報告――尊厳死について――」蘇生13巻(1995年)162頁。

71 井田良「生命維持治療の限界と刑法」法曹時報51巻2号(1999年)373頁。

72 大谷實『刑法講義各論[新版第4版]』(成文堂、2012年)132頁以下。

73 田坂晶・前掲注21・103頁。

74 井田良・前掲注71・373頁。これに関連して、例えば、川崎知巳「刑法上における治療中止の許容範囲――治療中止の許容根拠と要件の考察――」研修744号(2010年)7頁は、治療中止を不作為と解すると、刑事責任を負う行為主体が医師にのみ限定され、その他の者には刑事責任を課さない点に不均衡が生じる点の克服を試みており、行為主体が医師の場合は治療中止を不作為とし、行為主体が医師以外の場合には治療中止を作為と捉える。

75 治療中止を作為と捉える見解として、例えば、石原明『医療と法と生命倫理』(日本評論社、1997年)319頁以下、武藤眞朗「生命維持装置の取り外し――我が国の学説の分析――」『西原春夫先生古稀祝賀論文集第一巻』(成文堂、1998年)319頁。

76 町野朔= 池上直己「対談・終末期における医療と法律」刑事法ジャーナル35号(2013年)99頁。

77 佐伯仁志「末期医療と患者の医師・家族の意思」樋口範雄編『ケース・スタディ生命倫理と法』(有斐閣、2007年)87頁以下。

78 植田和正・井口昭久・前掲注63、119頁。

79 田坂晶・前掲注21、111頁。

80 辰井聡子「治療不開始/中止行為の刑法的評価――『治療行為』としての正当化の試み――」明治学院大学法学研究第86号(2009年)68頁。

81 井田良・前掲注52・45頁。

82 田坂晶・前掲注21・112頁。

 
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