Human Sciences
Online ISSN : 2434-4753
Practical Article
The importance of “Experiencing Empathy”—What we have learned from an examination of Rogers’ theory of empathy
Masahiro NakamuraTakanori HiwatashiShoji MurayamaNaoko MurayamaTomoko KitadaKoki NakayamaShintaro Fujimoto
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2024 Volume 6 Pages 48-55

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抄録

カール・ロジャーズが早い時期にその意義を提唱し以来パーソンセンタード・アプローチ(PCA)注1)の中で重視されてきた「共感」について,近年様々な分野で取り上げられるようになっている。本報告は共感実践が抱える問題に対して7名の執筆者がロジャーズの文献による理論検討,調査研究,臨床報告に基づいて検討を行ったものである。ロジャーズの共感論を読み込むと,共感の2つの側面(「状態」と「過程」)の間を彼が揺れ動いていることがわかる。近年,「状態」の側面に関して共感の有効性のエビデンスが蓄積されている。このことには大きな意義があるが,臨床の場でさらに重要なのは「過程」の側面,すなわち「共感を生きる」ことであり,そうした体験を共有することであると考えられる。本稿では4つの具体的な場面における「共感を生きる」体験を取り上げて記述する。

Abstract

Empathy, which Carl Rogers advocated early on and has been emphasized in Person-Centered Approach (PCA) ever since, has recently come to be discussed in a variety of fields. The present report involves a theoretical examination, empirical research, and clinical observations conducted by seven authors in response to the challenges associated with empathy practices, drawing upon the literature of Rogers. When we read Rogers’ theory of empathy, we find that he oscillates between two aspects of empathy (“state” and “process”). In recent years, evidence of the effectiveness of empathy with respect to the “state” aspect has been accumulating. While this is of great significance, what is even more important in clinical settings is the “process” aspect, or “experiencing empathy,” and sharing such experiences. In this paper, we will focus on the experience of “experiencing empathy” in four specific situations and describe them.

1. はじめに

ここ十数年,共感という人間の在り方(being)の社会的重要性について,人類学,動物行動学などで積極的な発信が多く見られている。

共感に対する積極的な発信がなされている一方で,共感の実践は容易なこととは言えず,共感について再検討する社会的意義は大きい。そこで本論では「共感」の有効性を世界ではじめて提唱したロジャーズの共感論を中心に共感の実践に対して再検討を行った。本報告は共感実践が抱える問題に対して7名の執筆者がロジャーズの文献による理論検討,調査研究,臨床報告に基づいて検討を行ったものである。

まず筆者から共感の基本的な5つの視点を提案する。

【ロジャーズ共感論の5つの基本視点】

① 「共感」は心理療法の諸派に共通する効果要因の可能性を持つ。

② 対人関係援助職の養成において訓練可能な変数である。

③ 心理療法だけでなく,すべての対人関係に影響を与える重要な変数としての価値があること。教師,生徒,親子関係,部下上司関係,に有効な変数である。

④ 重要性を示す客観的データ(エビデンス)が蓄積されている。

⑤ 新しい科学観の提唱。「人間か科学か」でなく,「人間も科学も」という両者の世界,客観性と主観性,対人関係の3つを生きたロジャーズの特異性に触れていきたい。

(村山 正治)

本稿の構成は次のとおりである。まず,第2節において,ロジャーズが共感の2つの側面(人間/科学と言ってもいいし,主観/客観と言ってもいい)の間を揺れ動いていたことを示す。第3節ではデータが蓄積されてきていることに触れる。ただし,ロジャーズも感じていたように共感にはどうしても言葉になりにくい,エビデンスとしにくい部分も残るのではないかと考えられる。それらに関わる実際の現場での体験を第4節に述べた上で,全体のまとめを第5節に示す。

2. 共感についてのロジャーズの揺らぎ ―ロジャーズ「共感―実存を外側から眺めない係わり方―」1)を読んで―

この論考は70代後半となったロジャーズが,自分の過去を振り返りつつ共感についての考えを述べたものだが,その中で彼は共感に関する自らの以前の定義を不満足なものだと示唆して次のように書いている。「今ではそれを『共感という状態』と定義しません。それは過程であって状態ではないと思うからです。」では,過程であって状態ではないというのはどういうことなのだろうか。そしてここでロジャーズはなぜ,以前の定義を改訂しようと考えたのだろうか。

ここで,以前の定義を引用すると次のとおりである(以下,本節における引用は文献1)による)。

共感状態,あるいは共感的であることは,相手の内面的枠組をあたかもその個人であるかのように彼の情緒的要素や意味を正確に知覚することを意味する。この場合,『あたかも・・・のように』という条件を失ってはならない。その個人が感じるかのように痛みや喜びを感じ取り,彼が見つめるようにその理由を知覚するのである。もちろん,彼が傷ついているごとく,彼が喜んでいるごとくという認識を失ってはならない。この『あたかも・・・のように』という特性を失うなら,それは単なる同一視にすぎない。(「第三節 初期の発見」)

第2文以下は補足説明であって定義自体は第1文のみで完結している。ロジャーズ自身,これを「非常に厳格な定義」としているように,明快な言葉で簡潔にわかりやすく示されている。

それに対して新しい定義,すなわち過程としての共感についての記述はかなりまわりくどい。「共感とはこれのことだ」という書き方ではなく,共感的であることのいくつかの側面が述べられているに過ぎない。すなわち次のような記述である注2)

他者に対して共感的であるあり方はいくつかの側面を有します。それは,他者が私的に知覚する世界に入りこみそこでいごこちよく感じることを意味します。他者の内部を流れゆく瞬間ごとに変化する感じをつかむこと,その個人が体験しつつあるものが恐れ,怒り,やさしさ,困惑等何であろうとつかむ事を意味します。それは,一時的に他者の生活にはいりこみ,判断を停止して微妙に動いていくことを意味します。つまり個人がほとんど認識していない意味を感じとり,それでいてあまりに脅威的ならば無意識の感情を暴露することはあまりに脅威的なので行わないのです。それは,ある個人が恐怖感を抱いている事柄を新鮮な恐れのない目でみつめ感じ取り,それを伝えていくことを含みます。あなたが感じ取ったままをその個人と共によく検討し,相手から受け取る反応によって歩んでいくことを意味します。あなたは相手の体験過程というこの役立つ指標に焦点を当て,その意味を十分に体験し,その経験の中で前進するよう援助するのです。

他者とそのように生きることは,しばらくの間あなたは自己の視点や価値観を横において偏見を捨てて他者の世界にはいりこむ事を意味します。これは,たとえ他者の奇妙で見慣れない世界に入りこんでも混乱したりせず,望むなら自分の世界に気持よくもどることのできる安定した個人のみが行える事です。

以上のことから,共感的であることは,繊細でおだやかではありますが,複雑で厳しく強い側面を持つことがわかっていただけたと思います。(「第五節 現時点での定義」)

以前の定義と比べて,「相手の内面的枠組み」という言葉が「他者が私的に知覚する世界」に変わり,「情緒的要素や意味」という言葉が「流れゆく瞬間ごとに変化する感じ」に変わり,「あたかもその個人であるかのように」が「一時的に他者の生活にはいりこみ」に変わるなど言葉づかいは変わっているが,意味する内容として共通する点は多い。

では,以前の定義と新しい定義の重要な違いの変化は何なのだろうか。1つは,以前の定義はカウンセラー(以下,Coと略記)の側に起きている静的な状態についての記述であったのに対し,新しい定義にはクライエント(以下,Clと略記)との相互作用に関する内容(「それを伝えていく」「共によく検討し」など)があり,動的な表現(「感じをつかむ」「微妙に動いていく」など)がある。

そしてもう1つの違いは,以前の定義は短く簡潔に言い切るものであったのに対し,新しい定義は直接的に定義するような表現を避け,いくつかの側面に関する長い記述によって雰囲気を伝えるものだということである注3)

ではなぜ,ロジャーズはこのように定義を修正する必要があったのかという点が次の疑問である。すなわち共感を状態として捉えて概念として明確に定義することの弊害,逆に言えば共感を過程と捉えて冗長あるいは雰囲気的な定義をすることのメリットである。

私見であるが,ロジャーズは次のように考えた,ないしは感じ取ったのではあるまいか。実際に臨床にあたるCoが共感を意識した際に,それを「状態(state)」と考えてしまうと,それは今ここから離れたところにある理想像となり,その理想に向かおうという努力は今ここにClと共にあるあり方と矛盾するかもしれない。以前の定義は明確すぎて概念的な思考を働かせることにつながるだろう。それよりも共感を「過程(process)」と考えたほうが,今ここでClと共にいる状況に注意が向きやすく,理論の世界はさておき現実世界の中で我々がより共感的であるために役に立つのではないか。すなわち今ここでClとともにあるためには,概念的な思考はむしろ邪魔になり,共感に関わる雰囲気を感じるほうが有益だろう,と。そしてロジャーズは,ともすれば概念的な思考によってカウンセリングを不自由にしてしまう傾向から我々を引きはがそうとして,このような長くて明確さを欠く記述を行ったのではないか。

ところで,ロジャーズはここで留まってはいない。この論考1)の第五節で前述の新しい定義を示したあと第六節「実践のための定義」として,ロジャーズの考えを踏襲した研究者たちによる,短く明快に述べられた共感の操作的な定義とこれを測定するための尺度について言及されている。これらの定義と尺度の内容は過程としての共感についてのものであるが,記述のスタイルは操作的であり概念的思考に近いものと考えられる。さらにその後,傾聴の実践でも知られているジェンドリン等が関わった市民のための傾聴マニュアルが取り上げられているが,このマニュアルの内容は概念的な思考よりも傾聴の過程を重視していると考えられる。そしてさらにその後に,操作的な定義をもとに行われた共感に関する研究が紹介されている。

このように,本論考においてロジャーズは概念的な思考(静的な状態,操作的定義とそれをもとにした研究と親和性が高い)と過程を重視した見方(動的な過程,今ここ,雰囲気,実践と親和性が高い)について交互に記述しているが,それは実は,本論考の冒頭にある過去のロジャーズの歩みにも見られる。

すなわち,もっとも初期の頃について「セラピストとして働き始めた頃,私はクライエントに注意深く耳を傾けることが役立つことを見出しました」「こういった消極的関係が役立つことは大変な驚きでした注4)」とあり,ある意味で素朴な傾聴の意義を強調している(①)。

その後ロジャーズは,ランク派の影響から「感情をクライエントに反射する」ことを学び,さらにカウンセリングを録音して分析する研究を行ったとしている。その中ではカウンセリングは録音という形で固定され,科学的な分析を行う対象とされた注5)(②)。

ところが次の時点では,ロジャーズは「私たちのアプローチがこうして完全に歪曲されたことにショックを受けて」共感的傾聴について語るのをやめ,共感的態度に重点を置くようにしたとしている。すなわち具体的な方法ではなくCoとしての気持ちの持ち方といった点を強調するようになったとしていいだろう(③)。

これに,傾聴に関する以前の定義(④),傾聴に関する新しい定義(⑤),ロジャーズの影響下の研究者たちが作った操作的な定義(⑥),ジェンドリンらの市民への傾聴の手引き(⑦),操作的定義を用いた研究(⑧)を加えてまとめると,図1に示されるように見事に2つのあり方を行き来しているのがわかる。このような揺らぎは,おそらくロジャーズは,Coとして天性の力を持ちながら,それだけで満足することができず理論や技法として一般化をしたい欲望があり,しかしそれをやっていくと本当のセラピーにならないことにどこかで気づいてまた戻る,というようなところから来ていたのではないか。そしてこの短い論考の中にもそれが反復されているように思える。

図1 ロジャーズが行き来する2つの態度

この点は,我々が共感を考える上での1つのポイントではないか。すなわち,はっきり見ようとすれば見えなくなるような特質である。ロジャーズはそこで,はっきり見せようとする態度と見せるよりもいざなおうとする態度を,止揚しようとするわけではなく切り換えるようにして示している。それがロジャーズの,語ることができない事柄について示そうとするあり方であったのではないか。

なお,本論考の中で「共感の最高の表現は受容することと批評しないこと」という記述があるが,これはロジャーズが3条件の理論2)を立てたあり方とは相入れない表現である。すなわち受容や批評しないことは3条件の中では「無条件の肯定的配慮」に相当するものであるのに,これが共感として述べられている。このように,ロジャーズは一方では理論を立てながらもう一方では平気でそれを逸脱するところがあり,村山正治によればそれが「ロジャーズの弱さであり,強さである」(研究会における発言)。本稿で指摘した「揺らぎ」もこれに通じるところがあり,ロジャーズの一貫性のなさでありつつも魅力のひとつであろう注6)

こうしたロジャーズの揺らぐあり方は,現在,臨床に携わっている我々に大きな示唆を与えるものと考えられる。次第にエビデンス重視の傾向が高まる中で,共感も明確に定義され効果を測定される対象となる(本論文の第3節)。それは必要なことであるが,それだけでは何か重要なものが抜け落ちてしまう。すなわち,概念的な思考から自由になってClとともに今ここにしかないプロセスを生きることである。本論文の表題である「共感を生きる」とはこのようなあり方のことである。

(中村 昌広)

3. 「共感」の治療的効果

共感にはどのような治療的効果があるのか。近年,医学分野でも共感が注目されており,複数の研究によって治療的な効果が確認されている。本節では共感の治療的効果についての研究を紹介する。

現在指摘されている主な共感の治療的効果としては大きく以下の3つをあげる。当然ながらそれぞれ独立したものではなく影響し合っているものである。

(1) 治療同盟の構築

このことについて改めて説明するまでもないが共感は良い治療同盟を構築する基礎となるものである。Nienhuis et al3)によるメタアナリシスでも治療同盟とCoの共感との関連が見られており,共感が治療同盟に影響を与えている可能性が示唆されている。

(2) 治療に対する動機・コンプライアンスの向上

これは(1)との関連が深いものではあるが,Coの共感が治療動機,コンプライアンスの向上につながることも知られている。治療に対する動機やコンプライアンスが上がることは効果的な治療が進んでいくことにつながり,後に述べる症状の改善につながる中間因子となっている面も指摘されている4)

(3) 身体症状・精神症状の改善

Coの共感的態度は身体症状の改善につながることも多くの研究で示されている。

891人の糖尿病患者を対象に行われた研究では,主治医の共感スコアが高いほど,アウトカムが良好という結果であった5)。また,共感的コミュニケーションは過敏性腸症候群の身体症状や痛みなどの改善につながるといった研究もある6)。共感による精神症状の改善も含め,その他Coの共感的対応が症状の改善につながる研究も多くなされている。

以上,簡単ではあるが共感の治療効果について述べた。共感の治療的効果は大きく,治療における役割も大きい。ただ,本節では共感とは何かについて触れていない。共感には研究では扱いにくい測定できない側面もあるため後の節で臨床実践の中から,さらに共感について検討していく。

(樋渡 孝徳)

4. 「共感を生きる」体験

(1) 共感…理解していこうとするプロセス

「共感」という言葉は一般にも日常会話に普通に出てくる。その際は「私もそう思う」など「同感」という言葉に近い意味に使用されているようだ。対して,心理士の使う「共感」は,「理解」という言葉に近いように思う。

筆者のカウンセリングのなかでの体験例を簡単に示してみる。例えば社会常識的にはAという方向が良いとされているが,話しているうちにClはAよりBが良いと感じているのではないかと推測されることがあった。筆者自身も自分の考えはAに近いため,一歩間違えば「BよりAの方が良いだろう」という価値観で進めてしまいそうな場面である。しかし,その「A」という考えは万人の常識なのだろうか?とまずは疑ってみる。また,Clは「Aの方が良いと思うけれど…」と話されるのだが,よく話を聴くと実際はBの方の様式で過ごしてこられているようであり,それでうまくやっておられるようだった。また他のエピソードからも,Bの方がその人に合うように感じられた。しかしこれまでのしつけや環境から「常識的に良いとされている」Aの方を良いと言っているように思えたため,Clに「Bで困ったことありますか?Bがいいと思っておられるのかなと感じるのですが…」と自分が感じたことをそのまま伝えた。すると我が意を得たりというような様子で「そうなんです!それをわかってくれましたか!」というようなことを言われた。

7)は心理臨床家の訓練としてまず「想像力」を高めることが問題や対象の理解に必要と述べ,そのための活動のひとつとして小説を読むことも挙げている。筆者も相手に共感する,つまり理解しようとしていくプロセスは,例えばファンタジー小説を読む際にその設定や状況を理解していくことに近いのではないかと考えることがある。

筆者は内外のファンタジー小説を読むのが昔から好きだった。特に「気づいたら異世界に居た」というような設定が好きでよく読む。例えば,「異世界で10年過ごしたがこの世界では1時間も経っていなかった」とか,「動物になったり人間になったりできる」などである。読んでいるうちにその設定を理解していき,そこで起こるアクシデントや主人公の心情を,私たちの住む世界と違う設定のなかでの暮らしや状況を想像しながら読み進めていく。読んでいる間はその世界にしっかり浸って読んでおり,いちいち「そんなわけないだろう」などとこの世界の常識のままの思考で読んでもおもしろくない。

カウンセリング場面でClの話を聞く際,そんな異世界の話を聴くように自分の常識や価値観は一旦脇に置いて,その人の世界の「設定」…つまりおかれている環境やその人の価値観や経験など…を少しずつ理解しようとしていく。そのなかで,そのような「設定」で生きる人ならば,こんな風に感じるのではないかなどと推測を進めていっているのではないだろうか。

(北田 朋子)

(2) 共感の実際

心療内科でお会いするClは,こちらの想像が追いつかないような心身の苦痛を抱えている。筆者の中ではClに“接近”していくイメージがあり,まずは相手の話を聴き,何度も尋ねる。聴いているうちに筆者が共鳴したことを慎重に伝え,「…と感じたけれど,あなたはどうか」とClに確認するようにしている。筆者の接近に対して,Clは否定したり,付け足したり,黙って頷くこともある。このやりとりを続けていくうちに,想像が難しかったはずのClの感情が徐々にではあるが自然と感じやすくなってくる。Clも筆者の言葉を通じて,自分自身に起こっていることを実感しようとしている様子がうかがえる。たがいに自分が感じていることを表現しようと試み,それらを素直に受け入れようと努めていく。はじめはCoから接近していたが,気がつけばClが近くまで来ていたように感じる。共感には,Coからの関わりや態度だけではなく,実際にはClからの接近も含まれていると思われる。

(中山 幸輝)

(3) 共感の難しさ

筆者は普段の臨床において,なるべくClの話を追体験できるようにイメージをしながら話を聞くように努めている。Clが言葉で表現するエピソードやその場面の描写,感情等を整理しながら話し合っているが,もちろん共有しやすい場合もあれば難しい場合もある。それは表現の仕方や体験との距離等様々な要因があり,どの程度の共感が求められているのかを感じ取り,深さや距離を調整できることが重要である。医療機関での臨床から,特にトラウマを抱えている方との面接においては注意しておく必要があると感じており,共有されすぎてしまう,明らかにしすぎてしまうことはClにとって苦痛になることもある。吉良8)が述べているように,体験との距離が近く,内面の情動に圧倒される体験様式のClには,自身の問題を語ることの辛さを共有することや,辛くならない方策を考えることが大切なのではないだろうか。また,心理教育テキスト等を用いて,面接の軸を示していくことや,まずは現在の生活が安定するように働きかけていくことが重要であると考えている。

(藤元 慎太郎)

(4) エンカウンターグループにおける『過程としての共感』

中村はロジャーズの「共感についての新しい定義」に関する見解1)を本稿の第2節で述べている。「他者に対する共感的である在り方はいくつかの側面を有します」を引用して,新しい定義すなわち『過程としての共感』についての定義は分かりにくいと述べて,しかしこうであろうかとの私見を述べている。筆者は体験的にこの論に賛同出来る。そこで,筆者自身のエンカウンターグループ(以下,EGと略記)体験の中の「参加者のありのままを受け止め」「今起こっていること,感じていることからそれぞれの自分に向き合う」というリアルな場面の一部をエピソード風に記述してみることを思い立った。

エピソード

自然に囲まれているが粗末な佇まいの研修所「山の家」は参加者に不安を感じさせてしまうこともある。自分の安全が保障されないのではないかと,最初のセッションにそれが持ち込まれることもある。

第1セッションでKさんは体を揺すりながら顔を手で覆っていた。「この雰囲気は良くないです。」とくり返される。他の参加者も戸惑いながら自分の感じに向き合って,ゆっくりと表現される。その内Kさんは「ファシリテーター(以下,Fac.と略記)がもっと雰囲気作りを上手にして欲しい」と発言される。Fさん,Aさんも今の自分の感じを述べ,Oさんは「私は自分の子どもに対して待てない自分があることを思っていました。」とゆっくり話され,時間が流れた。この雰囲気を感じていたFac.の1人は「この場に座っている自分はとても弱い人間なんだなぁ,とつくづく感じて,自分の体が痛くなっています。Kさんの辛い思いが増してくると,もっと何かが出来る自分でいたいと思い,自分を責めて自由になれない自分がいるのですよ。」と肩をさすりながら発言した。

KさんはFac.やグループから脅威を感じさせられることなく,このままの自分を理解されていると感じて自由を得られたようだ。

また後のセッションでKさんが“自分はどの席に座るのが良いか”を実際に試され,他のメンバーもその様子を見て移動をしてみるという場面があった。その時Kさんがもう1人のFac.の横に来て「今,何が起こっているのですか」と尋ねた。Fac.は「自分の安心できる大事な居場所探しでしょうね」と応えると,Kさんは「うんうん」と頷き,自分の席を自ら決められた。この後,徐々にメンバー同士で心を暖め,Kさんの納得出来る出会いの過程が促進された。

ロジャーズのいう『過程としての共感』は,CoからClへという一方的なものではなく,相互に心理的に安全な場の『雰囲気』という形でそこに存在していたと思われる。

(村山 尚子)

5. まとめと今後の方向

ここまでの検討を踏まえて行った本研究会での議論から,以下の点が考えられた。

1.共感の理解には多様な視点がある。共感を1つの状態と考えることにより科学的な研究が可能となり,様々なエビデンスが蓄積されている。このことには大きな意義があるが,それだけでは抜け落ちる要素もある。ロジャーズは既にこの点を感じとっていたと考えられる。

2.我々の臨床実践において,状態としての共感を概念化しそれを目指そうとすることは,かえって弊害を生む可能性が高い。それではロジャーズが忌避したリフレクションの技法化と同じ轍を踏んでしまうだろう。そうではなくて,「共感を生きる」ことこそが重要と考えられるが,エビデンス重視の傾向が強まっていく現代において,このことが軽視されてしまう危惧を我々は抱いている。

3.第4節で「共感を生きる」体験について記述した。ある場合にはClの世界に「入っていく」,別の場合にはClと「接近する」と体験されていること,後者の場合,CoからClへの一方的なものではなく互いに接近すると体験されていること,EGにおいてFac.から参加者への一方的な共感ではなく,ともに作り上げたその場の雰囲気という形で共感が存在していること,一般には共感というとClとイメージを共有することを含むように理解されるが場合によっては逆にイメージを共有しすぎないよう留意する必要があることなど,「状態」として定義された共感という概念だけで一括して取り扱うことは難しく,個々の体験や実感をひとつひとつ大切にして共有,蓄積されることが必要と考えられる。

4.こうした視点は,臨床心理学の枠を超えて現代社会を照らすことができるのではないか。現代社会を考える多くの人に,臨床心理学からの視点を知ってもらう必要がある。

5.ロジャーズは「研究者・Co・一人の生きる人間」の三層の違った生き方をできる人であった。これが彼の著作における揺らぎや矛盾のもとになっているが,一方ではそれが魅力でもある。そのような生き方は現代あるいは次の時代にあっても,自らの体験と社会の中での客観性をともに生きるべき臨床家にとってのモデルになるのではないかと考えられる。

(村山 正治)

注1)  パーソンセンタード・アプローチ(PCA)とは,ロジャーズのクライエント中心療法が発展したものであり,個人が自ら成長する力とこれを尊重する態度を重視する考え方である。こうした考え方をカウンセリングや心理療法以外にも例えば世界平和に向けての人々の相互理解の場などより広い文脈にも適用するにあたって「クライエント」や「療法」の語があてはまらない場合があるため「パーソンセンタード・アプローチ」と呼ばれるようになった。

注2)  長い引用であるが,この長さが新しい定義の特徴のひとつであるためあえて長いまま提示する。また,この文章だけ読むと共感の定義ではなく単なる説明ともとれるが,この引用部分の小見出しは「現時点での定義」となっているため,ロジャーズはこれを新たな定義として示そうとしていたと考えられる。

注3)  実は引用文の前にジェンドリンの体験過程の概念との関連が合わせて記述されているので,さらに冗長であいまいな印象のものとなっている。

注4)  これが驚きであったのはロジャーズが学んでいた精神分析等の既存の理論に対するアンチテーゼだったからであろう。

注5)  この点も,それまでの人の心に対するアプローチが宗教や哲学はもちろん精神分析においてさえも相当程度の神秘性をまとっていたのに対し,これを知性の明るい光のもとに引きずり出そうとしたという意味で,アンチテーゼと考えられる。これを前面にかかげたロジャーズは,注5の点と合わせて,彼が臨床を開始した1920年代9),すなわち「狂騒の二〇年代」「ニュー・エイジ」などと言われ,自動車やラジオなど科学技術の成果の普及もあって伝統の束縛を離れて社会が大きく変化しつつあった時代の雰囲気を体現する人物の1人だったのではないだろうか。

注6)  これと対照的に思えるのが,伝統と革新,権威と平等といったテーマである。こうしたテーマについてロジャーズは全く揺るがず,「革新」「平等」の立場に立っているようだ。

文献
  • 1)  カール・ロジャーズ.共感―実存を外から眺めない係わり方.畠瀬直子監訳,人間尊重の心理学.大阪:創元社,1984, 128–152.
  • 2)  カール・ロジャーズ.セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件.H. カーシェンバウム/V.L. ヘンダーソン編,伊東博/村山正治監訳,ロジャーズ選集(上).東京:誠信書房,2001, 265–285.
  • 3)  Nienhuis JB, Owen J, Valentine JC, Winkeljohn Black S, Halford TC, Parazak SE, Budge S, Hilsenroth M. Therapeutic alliance, empathy, and genuineness in individual adult psychotherapy: A meta-analytic review. Psychotherapy Research 2018; 28(4): 593–605.
  • 4)  Street Jr RL, Makoul G, Arora NK, Epstein RM. How ‍does communication heal? Pathways linking clinician-patient communication to health outcomes. Patient Education and Counseling 2009; 74(3): 295–301.
  • 5)  Hojat M, Louis DZ, Markham FW, Wender R, Rabinowitz C, Gonnella JS. Physicians’ empathy and clinical outcomes for diabetic patients. Academic Medicine 2011; 86(3): 359–364.
  • 6)  Di Palma JA, Herrera JL. The role of effective clinician-patient communication in the management of irritable bowel syndrome and chronic constipation. Journal of Clinical Gastroenterology 2012; 46(9): 748–751.
  • 7)  鑪 幹八郎.心理臨床家の訓練.河合隼雄監修,斎藤久美子,藤井虔,鑪幹八郎(編),臨床心理学〈第4巻〉実践と教育訓練.大阪:創元社,1994, 245–269.
  • 8)  吉良 安之.カウンセリング実践の土台づくり―学び始めた人に伝えたい心得・勘どころ・工夫.岩崎学術出版社,2015.
  • 9)  有賀 夏紀.アメリカの20世紀(上).中公新書,2002.
 
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