In this paper we examine the trajectory of Masao Uchino from prewar years to postwar period, who was called “my lifelong mentor” by Kazuo Inamori. Masao Uchino (1802–1973) was born in Kumamoto prefecture as a fourth son of Giichiro. He graduated from the applied chemistry course in the department of engineering of the Tokyo Imperial University in 1916. In 1917 he joined Furukawa Mining, and was in charge of the construction of electrostatic dust collection plant and arsenous acid manufacturing plant which contributed to the solution of lead poisoning.
In 1921 Uchino became a plant manager of Osaka Smelting Company as a subsidiary of Furukawa Mining, then joined national Osaka Industrial Institute in 1927. Further he transferred the South Manchurian Railway Company (hereafter SMRC) in 1932, and was in the posts of an engineer, chief of inorganic chemistry section of Central Research Institute of SMRC, and a manager of Fushun temporary aluminum plant. After the establishment of Manchurian Light Metal Company (hereafter MLMC) in November 1936 under the support of the Kwantung Army of Imperial Japan, Uchino became a chief engineer and standing director of MLMC, directed the initial stage of aluminum production based on not bauxite but alum shale. In 1944 he was in the posts of director of light metal association and manager of Korean branch of the association.
Uchino was exiled from public office in 1946 due to the wartime activities, and became president of Higo Wax Company located in Kumamoto, then experienced a severe labor dispute. At the age of 62, Uchino became an engineering professor of Kagoshima Prefectural University in 1954, then encountered Kazuo Inamori, a senior student. In this paper we follow an undulated road of Uchino who had a great influence on Inamori.
本論文では稲盛和夫が「生涯の心の師」(稲盛、2004、53)と呼んだ内野正夫の戦前・戦中・戦後の活動を検討する。内野正夫(1892–1973年)は1892年2月3日に儀一郎の四男として熊本県下益城郡富合村釈迦堂に生まれ、熊本中学、第五高等学校を経て1916年に東京帝国大学工科大学(工学部への名称変更は19年から)応用化学科を卒業した。同年細川護立の内意を受けて約3カ月間東内蒙古を視察し、続いて1年志願兵として軍務に服した。17年に古河鉱業に入社し、足尾鉱業所在勤中にコットレル式電気集塵工場およびその副産物である亜砒酸製造工場の建設に従事し、鉛害鉱毒問題の解決に貢献した(中西編、1936、484–485;人事興信所編、1957、う41;加藤、1979、302)。
1921年に内野は傍系の大阪製錬株式会社工場長となり、27年に商工省の大阪工業試験所に入所し、博士論文「銅ノ湿式冶金法ニ於ケル副産物トシテ『コバルト』回収ニ就テ」によって29年11月に京都帝国大学から工学博士の学位を受けた。続いて32年に南満洲鉄道(以下、満鉄と略記)に転じ、36年には満鉄技師、満鉄中央試験所無機化学科長、臨時撫順アルミニウム工場長を兼任していた(中西編、1936、484–485;南満洲鉄道中央試験所、1935、7)。
1936年11月に満洲軽金属製造(資本金2,500万円)が設立されると、内野は同社技師長・常務理事となり、同社におけるアルミニウム生産の立ち上げを指揮した。41年夏、内野は郷里の熊本に帰るが、42年には軽金属統制会理事・朝鮮支部長に就任して朝鮮半島におけるアルミニウム・マグネシウム増産に邁進した。
1946年に公職追放となった内野は51年に郷里の肥後製蝋株式会社社長に就任するも、同社では激しい労働争議を経験した。54年9月に鹿児島県立大学工学部教授となった62歳の内野は、40歳年下の4年生の稲盛和夫と出会うことになる。58年3月に鹿児島大学(鹿児島県立大学が55年に改組)を定年退職した後、内野は日本パーカライジング取締役・技術研究所長や関東学院大学教授を務め、70歳代に入っても内野の研究意欲は衰えることがなかった。
戦前・戦中・戦後と波乱に富んだ研究者、技術者、経営者人生を送った内野が、1954年に稲盛の前に立ち現れたのである。本論文では半世紀近くに及ぶ内野の歩みを追跡することを課題とする。
技術者の社会的地位の向上を目的に1920年12月に日本工人倶楽部が設立され、30年の会員数は約5,000人に及んだ。内野もこの日本初の本格的な技術者運動の拠点ともいうべき日本工人倶楽部の活動に深く関わった。20年代後半になると同倶楽部はさまざまな活動を展開するようになるが、団体の性格、運動の方向性をめぐって内部で意見の相違が顕在化した。そうしたなかで「関西財界の随一住友社員が全部脱会したるなどは支部として相当の痛手であつた」(内野、1929、6)といった事態も生じていた。
1929年9月に日本工人倶楽部大阪支部は同倶楽部の定款第1条(28年改正)「本会ハ技術者ノ職業組合ニシテ技術ノ健全ナル発達ヲ図リ社会ノ福利ヲ増進スルヲ以テ目的トス」を「本会ハ工人ノ健全ナル発達ヲ図リ社会ノ福利ヲ増進スルヲ以テ目的トス」に改正すること、つまり「職業組合」なる言葉を削除することを提案し、意見書を会員に送付した。職業組合を削除する理由として、意見書は職業組合が「工人ノ階級意識ヲ高調スルモノナリトスレバ、本会ノ如キ各種階級ノ工人ヲ網羅セントスル本旨ニ矛盾」し、「強イテ之ニ職業組合ノ名ヲ冠スルモ其ノ実之ニ伴ハズ,徒ラニ社会ノ誤解ヲ招クノミニシテ会員ノ行動ヲ不自由ニシ不利ヲ蒙ラシムルニ過ギザル」ことを指摘した。この見解に対して百数十名からの返信のうち反対は1名のみであった(内野、1929、8–9)。
この大阪支部の動きを受けて、1930年の定期総会では定款第1条の変更が決議され、「職業組合」の言葉が削除されることになった。「有力なる者に対抗するよりも先づ之に理解を求むべきである」、「倶楽部はより以上に危険視せらるゝ事は努めて避けねばならぬ。脅威を与ふるよりも畏敬せらるべきである」、「定款第一条の改正を要望するのは理想論からは無用かも知れない。然し現実の問題としては必要な事に思ふ」といった意見を開陳しつつ、大阪工業試験所技師の内野ら「現実主義者」は労働組合とは異なる日本工人倶楽部の「超階級」的性格を打ち出していったのである(内野、1929、10–11)(1)。
日本工人倶楽部は1935年に日本技術協会と改称した。37年6月に成立した第1次近衛文麿内閣は重要革新政策の一つに「文官任用令の改正」を掲げた。満洲軽金属製造にいた内野はこれを高く評価し、「法科万能の時弊を改め技術者の進路を開拓するの急務なる所以を宣明せるは正に之れ天来の福音にして我等同志が多年提唱し来れる工人運動の熱誠が神明に通じて此の人(近衛―引用者注)をして此の言を発せしむるのではないかと思はるゝ」とのべた(内野、1937、5)。
1920年から37年に至る日本工人倶楽部・日本技術協会の歩みを、内野は「技術者のみの利益を擁護せんとするが如き低調なる労働運動にあらずして技術奉公の熱意に出発し時局匡救の大願望を志したる結果にして不合理に技術部門を閉塞さるゝ事が如何に国運の進展を阻害し其の能率を低下するかを痛切に経験し自覚したるを契機として全体主義的な社会正義の確立を期待したに外ならぬ」と総括した。そうしたなかで「技術者を不合理に逼塞せしむる事が如何に有害なるかは容易に知る事が出来る。殊に準戦時体制などと云ふ様な事を考へてゐる軍人などには最も理解し易き事柄である。之れ陸海軍が技術者の善き理解者たる所以である」として陸海軍と技術者の親和性の高さを強調した(内野、1937、6)。
1932年に大阪工業試験所を辞して内野が満鉄に入社したのは、満鉄が軽金属に取り組むということで諸先輩の推薦を受けたためであった。そのとき内野には軽金属製錬に関する専門的知識はほとんどなかった。それにもかかわらず、内野がこの問題に取り組もうと決心したのは、「当時満洲問題は国民的関心事であつたので、私も聊かなりとその重大性を認識した結果であつた」(内野、1965、27)。技術者としての内野にとって、「満洲」(以下、括弧省略)産業開発は挑戦するに値する大きな課題であった。
内野の入社後間もなくして、1932年6月に関東軍の幕僚や顧問が満鉄本社を訪問し(2)、満鉄で満洲産
「関東軍は自ら満鉄に乗り込んだばかりでなく、当時、日本の
「満洲に於ける軽金属工業の将来」と題する論文において、1933年に内野は「満蒙資源の開発即撫順炭田の開発だと称したい(中略)撫順炭の採掘量を増せば必然的に粉炭及灰分の多い石炭量が増す。之はどうしても地元に於て消化する事が合理的である。然かして之をなすには発電によるのが一番簡単である(中略)満洲には多量の粘土とマグネサイトとが埋蔵する。之からアルミニウムとマグネシウムとを製煉するには多量の電力を要するのだから、電力利用法としても又此等の土砂類から有用物を採取すると云ふ意味からも満洲に於ける軽金属製造工業は当然起るべき必然性がある」(内野、1933、70)として、満洲におけるアルミニウム工業とマグネシウム工業の振興を提唱していたが、これは上記のような状況を反映したものであった。
アルミニウム地金はアルミナ(酸化アルミニウム)を溶解氷晶石のなかで電気分解することによって製造するが、アルミナは、ボーキサイトからバイヤー法によって製造する方法と礬土頁岩・明礬石・燐酸礬土などから製造する方法があった。世界的には前者が主流であるが、日本(帝国)内にはボーキサイトは産出せず、資源自給の観点から満洲に豊富に賦存する礬土頁岩からアルミナを製造する後者の製法が国策として注目されたのである。
先の1932年7月のアルミニウム協議会において、内野や栗原鑑司満鉄中央試験所所長などは理研法だけでなく、満鉄中央試験所の有森毅技師らが長年研究してきた湿式アルミナ製造(硫酸法)も併せて検討すべきであると発言した(木村編、1996、28)。満鉄のアルミナ・アルミニウム製造プロジェクトの中心にいたのが40代になったばかりの内野であった。内野は理研法の考案者である鈴木庸生博士の報告書を関東軍によって取り寄せてもらう一方、内地に出張して理研の田中寛博士の研究室で塩素ガスでアルミナを精製する実験を見学し、日満アルミニウムの八巻彌一理事からも話を聞いた。続いて大連に戻った内野は中央試験所で技師らと設計を続ける一方、臨時撫順アルミニューム試験工場の整備を進めた。1934年2月に同工場が完成、工場長には内野が就任し、翌月から実験を開始した。原料については、礬土頁岩は煙台、小市、牛心台から採鉱し、氷晶石は満洲産蛍石から自家製造し、電極は撫順製油工場の無灰シェールコークスおよび本渓湖煤鉄公司のタールを使用して自家製造する計画であった(木村編、1996、34–36;清水、2002、272)。
しかし本プロジェクトの遂行は容易ではなかった。①塩素ガスによる精製法(乾式法)、②溶融アルミナの粉砕、③アルミナの電解、いずれも困難な技術的課題であった。内野たちは一つひとつ問題を解決しながら礬土頁岩からアルミナができることを実証していった。残るは電解技術と電解炉用の電極の製造法であった(木村編、1996、39–40)。
そうしたなかで三井物産大連支店から貴重な情報が伝えられた。ノルウェーのゼーゼルベルク(英語読みではゼーダーバーグ)が発明した自焼成連続電極に関する情報であり、ゼ式電極の特許権所有者はノルウェーのエレクトロ・ケミスク社であったが、同社はアルミニウム工場を所有しておらず、フランスのアレ・フロージュ・エ・カマルグ・フランス電気化学冶金製造株式会社のリューペル(Riouperoux)工場が電解工場として事業を展開していた。そこで内野らが試験工場で製造した、①理研方式、②内野らが開発した水砕方式、③硫酸方式の3方式によるアルミナ3種類各2トンをリューペル工場に送って内野ら立ち合いの下で試験してもらいたい旨の希望を三井物産に伝えた(木村編、1996、42–46)。
三井物産大連支店の吉田源三(同支店機械部長)、松本尚茂らの努力によってこの願いは叶えられ(内野、1940、12–14)(4)、1935年9月、内野は電気技師の石田親城、化学技師の有森毅とともにエレクトロ・ケミスク社のセム博士の案内でリューペル工場を訪問した。5年後の40年に内野は「私の其の時の喜びは非常なものであつた。案内して呉れた三井の松本氏も大事にしてゐたものを他人に取られた様な気持だと述懐してゐた。(中略)私は見た瞬間に之を採用して可なりと判断した。(中略)私の疑問の全部は其の時以来氷解したのであつた。然るに尚同行者の石田、有森両君の力を籍りて1ケ月を費し其の詳細なる調査を遂げ両君等も其の良好なるを確認した」のである(内野、1940、14–15)。リューペル工場では先に送り出していた3種類のアルミナの電解実験もしてくれ、結果は好評であった。
内野はケミスク社のセム博士の紹介で、その時ハンガリーのブダペストの電解工場を指導していたシェリー技師と出会い、人柄と能力を認めたうえで撫順の電解工場に来てもらう約束を交わした。シェリー技師は後日、日本アルミニウムの高雄工場、満洲軽金属製造の撫順工場、日本軽金属の蒲原工場の電解工場の設計、操業指導を行った(木村編、1996、49–50)。
ゼ式電極の特許権買収の交渉を進めていた矢先、満鉄総裁が林博太郎から松岡洋右に交代すると、内野の下に交渉打ち切りの電報が届いた。内野の受けた衝撃は大きく、三井物産の松本にはこの話が切れないように予備的な契約を依頼して急ぎ帰国した。大連に戻った内野はただちに松岡総裁に会い、特許権買収の意義を必死に説明した。その結果、松岡は特許権買収とアルミ工場の建設を承諾した。先の調査旅行の結果、乾式アルミナ製造法に代わるものとして、ノルウェーのホーヤンゲン工場で実施されていたアルミン酸カルシウム法が採用された。その後も撫順の試験工場では電気炉、電解炉での試験、満鉄中央試験所ではアルミン酸石灰からアルミナの製造までの試験を行った。無機化学班は水酸化アルミニウムの濾過しやすいものを作るための炭酸ガス吸圧沈殿法を開発した。こうして「満洲軽金属法」と呼ばれるアルミニウム製造方式が確立していったのである(木村編、1996、51–52、54–55;清水、2002、272–274)。
1940年に内野は「最近日本に於けるアルミニウム工業は主として南洋からボーキサイト鉱を輸入し、製造方式も全部外国方式により専ら急速に増加せる国内需要に応じようと努めつゝある。此の時に当り唯独り満洲におけるアルミニウム工業は、出発の第一歩より専ら満洲産礬土頁岩を原料として自給独立を計るを以て、これを使命とし来つた関係上此後も尚この方法を持続」(内野、1940、28)するとのべた。
一方マグネシウム製造に関しては、苦汁を原料とする理研式(電解法)とマグネサイトを原料にマグネシウムを製造する満鉄式(還元法)があったが、両方を活用するために、1933年10月に日満マグネシウムが設立された(内野、1941、10)。公称資本金700万円(払込資本金175万円)の内訳は、満鉄6万8,200株、理化学興業2万5,100株、住友合資会社1万株、住友伸銅鋼管9,900株、三菱航空機9,900株、古河電気工業5,000株、沖ノ山炭鉱4,900株などであった(日満マグネシウム、1933年下期、株主名簿)。重役陣は、斯波忠三郎社長(満鉄系)、島田乙駒常務取締役(理研系)、今井栄量常務取締役(営口商業会議所会頭)(今井、昭和8年2月18日)、平山敬三取締役(満鉄系)、内野正夫取締役(満鉄系)、古田俊之助取締役(住友系)、福岡成一取締役(理研系)から構成され、内野は満鉄を代表する重役の一人であった。また大河内正敏理化学興業取締役会長と吉田豊彦予備陸軍大将が相談役に就任した(日満マグネシウム、1933年下期、1–2)。しかし次節でみる満洲軽金属製造での技師長・理事の業務が多忙化したためか、内野は36年10月に日満マグネシウム取締役の職を辞任した(日満マグネシウム、1936年下期、2)。
1938年3月、満鉄は所有株式全株を理化学興業に譲渡し、日満マグネシウムの経営から撤退した。これを受けて翌4月に社名も理研金属に変更され、これを機に満鉄系重役も辞任することになった(「理研金属」、1938、51)。
内野はマグネシウム製造法に関する発明によって、1935年に帝国発明協会から有功章を受け(内野、1953、64)、さらに37年には炭化石灰や珪素などを還元剤にもちいてマグネ蒸気だけを生成する還元法によってマグネ結晶を得ることに成功した。その後自らがこの研究に従事する余裕はなかったが、マグネシウム工業に関する研究は後継者たちに引き継がれた(内野、1955、4)。
周知のように1936年には満洲において産業開発5カ年計画が急速に具体化する。同年10月の湯崗子会議における関東軍・満洲国政府・満鉄の3者の意見調整を経て12月16日には満洲産業開発五年計画綱要の成案をみ、37年1月には関東軍最終決定案が完成し、37年度から産業開発5カ年計画が開始された(原、2013、61–69)。5カ年計画に組み込まれた軽金属生産に関して、関東軍司令部は早くも36年4月28日付「満洲軽金属製造株式会社設立要綱案」を作成し、そのなかで同社のアルミニウム生産能力を年産4,000トン、資本金は2,500万円、その内訳は満洲国政府500万円、満鉄1,000万円、「日満両国関係事業者及主要需要者」1,000万円、「但シ会社創立当時ノ経済界ノ状勢ニ応シ出資ノ一部ヲ公募スルヲ妨ケス」とした。また重役についても理事長1名、常務理事2名、理事3名以内、監事3名以内とした。さらに関東軍司令部は満洲国政府は同社製アルミニウムの輸出税を免除すること、日本政府は輸入税の減免に配慮すること、満鉄は撫順炭鉱発電所から満洲軽金属製造に供給する電力を「可及的低廉」にすることなどを要求した(関東軍司令部、昭和11年4月28日)。
こうした関東軍の手厚い保護の下、1936年11月に満洲国特殊法人第1号として満洲軽金属製造が設立された。資本金2,500万円の内訳は、満洲国政府1,000万円、満鉄1,400万円、住友アルミニウム・昭和電工・日本曹達・日満アルミニウム4社合わせて100万円であった。「日満両国関係事業者及主要需要者」の出資額は、関東軍が想定した額からは大きく後退したものであった。設立時の重役は理事長根橋禎二、常務理事藤飯三郎右衛門、常務理事劉燏棻、理事(兼技師長)内野正夫、理事高橋康順、監事堀義雄、監事山本信夫、監事張本政の8名であった(満洲軽金属製造、1936年下期、7–8)。なお38年3月に満洲国政府と満鉄の持株はすべて満洲重工業開発(鮎川義介総裁)に譲渡された(高石、1970、656–657)。
満洲軽金属製造は1937年4月に撫順に第1次アルミニウム年産5,000トン能力工場の建設に着手し、翌38年6月に完成させ、10月から操業を開始した。撫順工場が建設途上にある37年11月に満鉄産業部冶金係の松浦和雄から撫順や安東と比較した場合の鏡泊湖の工場立地としての可能性を問われた内野は、「鏡泊湖は将来低廉なる電力資源として考慮の価値充分なりと考へられ研究中なるも満洲国に於ても他に重要なる利用に就て考慮せられ居る様なれば果して当社のアルミニウム企業に振り当せらるゝやも不明に候間当社としては一日も早く各方面の御意向をも参酌し方針を確立し有利なる地点に工場を設置する様努むるの必要に迫られ居り」と回答し、工場立地についてさまざまな可能性を検討中であることを伝えた(内野、昭和12年11月4日、32–34)。
しかし鏡泊湖が選択されることはなく、満洲軽金属製造は上でみたように1937年4月にすでに撫順で工場建設に着手しており、続いて38年10月に第2次5,000トン工場の建設に乗り出し、40年11月に操業を開始した。将来は年産3万トンの生産が見込まれており、満洲産業開発5カ年計画の実現を担う有力企業として位置づけられていたのである。満洲軽金属製造は満洲マグネシウムと撫順セメントの2子会社を設立して、アルミニウムだけでなく、満洲における軽金属工業の推進に努めた(高石、1970、658;「満洲軽金属製造」、1938、127)。
設立時から満洲軽金属製造の理事兼技師長に就任した内野は(5)、1939年に「日満支協同体の第一歩は、何よりも先づ、共存共栄の経済ブロックを形成することから始まる」としたうえで、「多数の人の知識により創造せらるゝ高度の化学品の製造業は、矢張内地に重点を置くことがよからう。之に反して製鉄の如く、軽金属製錬の如く、多量の原料と石炭と電力とを要し、然も大工業に適するものは、之を努めて大陸に移し、工場と共に学校も病院も劇場も一緒に之を移し、以て人口の調整を計ると共に高度文化を大陸に移すことにしては如何と思ふ」として日本国内と「満洲国」の分業体制、「日満支経済ブロック」の見取図を描いている(内野、1939、1)。
この議論はさらに発展し、1940年には「軽金属製錬に限らず、電力や石炭や土地を大量大規模に必要とする大工業はみんな満鮮乃至北支に移るべきだとね。(中略)内地には製菓とか、化粧品とかの工場くらひしか残らぬようになりはしませんか。新東亜100年の計などゝ云ふ事もこの点を閑却しては何にもなりませんよ」といった発言となった。さらに内野は外国技術の導入に関する問題も指摘する。「各社はもつと胸襟を開いて技術上の問題を研究し合ふ状態に早くなりたいものですね。こつそり、独りでうまい事をしやうと云ふ考を皆が持つから、結局皆が損をする事になるのです。製錬の方面で、好い例はゼーダーベルグの電炉で、全体として権利を取れば非常に廉くあがる筈だつたのに、皆が自分だけうまい事をしやうとするものだから、各社がそれぞれ非常な金をとられてゐますよ」と自らの経験を踏まえた指摘を行った(「内野正夫氏との一問一答録」、1940、13–14)。
1940年6月6日に高松宮が満洲軽金属製造を視察した。その折には吉野信次理事長(元商工大臣)と内野が同社の現況を説明した(木村編、1996、18–19)(6)。同日の日記に高松宮は「満洲軽金属のアルミナ工場(バン土頁岩よりするので電解してやる。ボーキサイトのものが210円として、茲のが250円位になる由)」(高松宮、1995、25)と記した。また満鉄中央試験所および満洲軽金属製造におけるアルミニウムおよびマグネシウムの工業化の功労者として、1940年に満鉄は内野に対して同社の最高表彰である有功章(功績章)を2回授与したが、一人で2回の受章は内野が最初であった(内野、1940、30;内野、1953、64)。また同年に内野は満洲国から文化褒章も授与された(人事興信所編、1957、う41)。
「この見事なコンビによって、出身母体は違っていても、大勢の技術者、事務員が、一つの目的の『外地での日本勢力圏の材料による、アルミニウム製造工場の新設』という大事業が開始された」といった指摘にあるように、満洲軽金属製造では創立時から岡崎直喜と石田親城の二人の副技師長が内野技師長を支えた(木村編、1996、78、82)。岡崎は1920年に東京帝大工学部応用化学科を卒業後(内野の4年後輩)、農林省臨時窒素研究所、東京工業試験所嘱託を経て31年に満鉄に入り、計画部無機化学班主査、中央試験所兼務を経て36年に満洲軽金属製造に入った。入社後は副技術長兼計画部長、研究部長事務取扱、安東建設部長、技術部長を歴任した。石田親城は18年に旅順工科学堂電気科卒業後ただちに満鉄に入り、撫順炭鉱、技術局、計画部に勤務し、35年にはアルミニウム電解技術および電極製造法に関する調査のためにヨーロッパ各国に出張し、36年に満洲軽金属製造創立と同時に入社、建設部長、副技師長、製造部長を歴任した(中外産業調査会編、1941、295)。なお満洲軽金属製造の工務関係の責任者である清岡
内野技師長、岡崎副技師長、石田副技師長の下で働いた技術者である森永卓一(1935年満鉄中央試験所入所)の内野評は以下のようであった。「岡崎氏が計画、設計方面を、石田氏が建設方面を、それを総轄して内野氏が見てゐる」、「内野氏は満軽の生みの親で、仏国までアルミナの電解に行つた人。非常に綿密の様であり、一面放漫な人で、筆者等の若手連中が悩まされた大親分である。質問をうけた場合は、うけた方が、そのことを知つてゐようと、知つてゐなくとも、堂々と長講一席弁じ立てると御機嫌良く、そのコツを会得して居れば、実に楽な方であつた。酒豪家でアルミニウム屋は酒を呑まぬ様では駄目だと云はれ、何にかにつれて宴会があり、酒を好むものは嬉び、好まぬものは又かと躊躇した次第」、「岡崎氏は内野氏が生みの親なら育ての親である」、「石田氏は内野氏と共に仏国に行つた、田舎味のある人で、岡崎氏とは性格的に相反する様に想はれた」。こうした性格の相異なる副技師長が内野の活動を支えたのである(森永、1950、14、17)。
日中戦争の長期化、1939年9月の第2次世界大戦の勃発によって満洲軽金属製造を取り巻く経営環境も厳しさの度を深めていた。40年上期の撫順工場では「既設工場ノ操業ハ電力ノ制限、原材料ノ確保不安及満人労務者ノ著シキ移動並不足等ノ好マシカラサル条件」が顕在化し、撫順第2次増産工場でも「建設資材ノ一般的入手難ニ加フルニ欧州戦乱ノ影響ヲ受ケ完成時期モ漸次遅延スル」ようになり、さらに「安東第三次増産工場ノ建設計画ハ諸種ノ情勢ニ基キ修正ヲ余儀ナクサルル事トナ」った(満洲軽金属製造、1940年上期、8)。続く40年下期では「撫順第二次増産工場ハ一部附属工場ヲ除キ六月末ヲ以テ略完成ヲ見期首操業開始ノ予定ナリシトコロ原材料ノ入手難、満人労務者ノ補充難及電力制限等ノタメ予定ヨリ遅延シ既設工場モ亦是等諸条件ノ影響ヲ受ケ操業極メテ困難ナル状態ニ立至リ」、礬土頁岩の採鉱も「労力及資材入手困難ノ為其ノ大半ハ遅延ノ止ムナキニ至レリ」といった状態であった(満洲軽金属製造、1940年下期、6–7)。表1に示されているように創業以来順調に増加していた「満人」従事員数も40年上期には大幅な減少に転じた。労働者の調達難が次第に深刻化していたのである。
(人) | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年・期末 | 社員 | 試傭 | 見習 | 嘱託 | 従事員 | 合計 | ||||
職員 | 准員 | 雇員 | 月俸者 | 日給者 | 日本人 | 「満人」 | ||||
1936年 | 47 | 47 | 33 | 127 | ||||||
37年 | 88 | 30 | 100 | 3 | 117 | 10 | 9 | 4 | 467 | 828 |
38年 | 203 | 91 | 373 | 33 | 255 | 33 | 10 | 9 | 2,091 | 3,098 |
39年 | 507 | 68 | 1,016 | 13 | 180 | 74 | 21 | 10 | 3,564 | 5,453 |
40年上期 | 657 | 202 | 1,296 | 53 | 25 | 8 | 2,792 | 5,033 |
[出所] 満洲軽金属製造(各期)。
満洲軽金属製造の第2期工事が完成し、第3期安東工場の企業計画が進展し、用地買収も終わった1941年3月、同社の重役構成に大きな変化があった。鮎川義介理事会長、吉野信次理事長、藤飯三郎右衛門常務理事、内野常務理事、および世良正一理事の5名が退任し、鮎川の後任に島田利吉、吉野の後任に世良、藤飯の後任に川合正勝、内野の後任に岡崎直喜、世良の後任に田中恭がそれぞれ就任し、新たに石田親城が理事に選任されたのである(満洲軽金属製造、1941年上期、3)(7)。
40代を満洲での軽金属事業に没頭した内野は、「もう一応責任を果して、私を推薦して呉れた先輩各位に対しても、何等恥ずる所がないと云う解放感は、私をして満洲軽金属製造を去る、心理状態に陥らしめたものと思う」と説明しているが、満洲軽金属製造における重役陣の大幅な交代は、1941年3月の満洲重工業開発(満業)改組と深く関わるものであった。3月改組について原朗は「満業がその創立時に期待された機能を果たしえなかったことを認めたものであった」とのべているが、物動計画の強化によって満業の活動は大きく制約されるようになっていたのである。3月改組に際して、鮎川は満洲軽金属製造を含む満業傘下の各会社の理事長・取締役等をいっせいに辞任し、吉野信次副総裁も退任して相談役となり、新たに高碕達之助が副総裁に就任した(原、2013、280、283–284)。そのあたりの事情は語らず、戦後の内野は「郷里なつかしく、小児心に立ち返り矢も楯もたまらず、急いで内地に引揚げで緑川の清流に沿う大慈禅寺門前に移り住んだ」と回顧した(内野、1965、28)(8)。
しかし内野のアルミニウム工業に対する関与は満洲軽金属製造常務理事の退任で終わった訳ではなかった。1941年9月に内野は「アルミニウム工業確立ノ為技術的指導機関設置ニ関スル意見書」を公表した。相互に連絡のない各社独自の研究開発では技術進歩はおぼつかず、「現在各個バラバラニナツテ居ル各方面ノアルミニウム製造ニ関スル研究ヲ総合統一シテ全機能ヲ発揮セシムルコト」、「共栄圏内ノ国産原料ニ依ルアルミナ製造方法ト工場在地ノ検討及鉱産資源ノ開発並ニ国産原料ト輸入鉱石トノ調整、転換等ニ関スル技術的方針ノ確立ニ関シ常時研究調査ヲ進メ置キ如何ナル変動ニモ応ジ得ルコト」などのためには技術的指導機関の設置が不可欠であり、「各社ハ其ノ資本及製産額ニ応ジ研究費ヲ公平ニ負担」し、「各社ノ技術的企画、調査及研究ノ現在員ヲ簡抜シ新組織ヲ以テ共通ノ問題ヲ考究」し、その延長線上に「弱体会社ヨリ逐次合併統合シ遂ニ大合同ニ迄デ進展セシメ」ることが内野構想の骨子であった。このように意見書は単なる研究機関の統合、司令塔の設置にとどまらず、業界再編成を見通した野心的な内容であった(内野、昭和16年9月)。
一方太平洋戦争勃発後の満洲軽金属製造であるが、緒戦の勝利によって南方のボーキサイト鉱山が確保されると、安東工場の建設はいったん中止に追い込まれた。しかし戦局が反転するなかで大量のアルミニウム確保の必要性が高まると、ふたたび非ボーキサイト原料が注目され、満洲軽金属製造では1942年に撫順でのアルミニウム年産5,000トンの増産計画を立てるとともに、中止していた安東工場の建設が再開された(疋田、2007、697)。
倍加する困難な状況下にもかかわらず満洲軽金属製造はさまざまな革新技術を生み出しつつ生産を続けた。しかし1943年12月に石田親城理事は「礬土頁岩ニヨルアルミニウム生産技術トコストハ之ヲバイヤー法ニ比較スル時未ダ完成ノ域ニ遙カニ遠キ感アリ」(石田、昭和18年12月1日)として、南方資源であるボーキサイトによるアルミニウム生産に対して礬土頁岩に依存したアルミニウム生産が技術的にもコスト面でもまだまだ課題が多いことを告白していた。
1942年9月に軽金属統制会が設立されると、設立当初、朝鮮支部長は銓衡中であったが(『大阪朝日新聞』1942年9月2日)、商工省嘱託であった内野が後に同統制会理事・朝鮮支部長に就任することになった(重要産業協議会編、1944、771、773)(9)。1943年3月に内野はマグネシウム工業に関して「朝鮮及び満洲に苦汁があり、食塩があり、ブルーサイトがある。石炭と電力とがある。殊にマグネシウムの製造には現在の所、電力の消費量が1噸当り4~5万キロ時を要するとすれば、電力の豊富なる地点に其の工場が集中されるべきことは、今更論ずるの必要がない」(内野、1943、7)として朝鮮、満洲でのマグネシウム工業の振興を訴えた。
またアルミニウムの原料自給についても内野は年来の主張を展開した。「今まで日本のアルミニュームの製造原料としては南方のマライ、ビンタン、パラオ鉱を輸入して之を用ひた。今後も内地では或る程度これを続けるであらう。然しこれには多数の輸送船を必要とする。もつと近い所にボーキサイトに代用すべきアルミナ原料はないかといふことは何人も考へねばならぬことである、大陸に軽金属製造の重点を置かるゝ理由は電力の外に原料自給の問題があるからである。今日の状勢の下に於て朝鮮のアルミニューム原料を南方からボーキサイト鉱を輸送して来るといふことは甚だ無理だと思ふ。然し数ケ月前までは斯様なことが考へられた向もあるかも知れない、しかし軽金属工業の自給自足の大方針は既に我国策として強く官に於て明示された、我等はこの指導方針に忠実に積極的に順応し、急速に遺憾なく之を実行せねばならぬ」(内野、1944、4–5)として、戦局の悪化にともなって東南アジアからの原料の海上輸送が困難になるなかで、ふたたび原料自給の観点から大陸資源の開発に注意を喚起したのである。
さらに朝鮮におけるマグネシウム工業の振興についても、内野は「マグネシウムの原料としては豊富なマグネサイト鉱石が北鮮に産出するのである、然し不幸なことには現在ある朝鮮のマグネシウム工場は大部分がその原料を塩田の副産物たる苦汁を用ふるの方式である、苦汁は関東州や北支が主要産地であるから海陸の輸送が必要である。又苦汁の生産は天候に左右されるから工業原料としては不便が少くない、今後の増産を確保するにはどうしても外に方法を考へねばならぬ、これにはどうしても曹達工業を朝鮮に誘致してこれを結びつける必要がある」(内野、1944、6)として関東州・中国北部と朝鮮の間での海陸輸送の問題も指摘した。
内野は朝鮮における科学技術についても発言した。「科学技術は恰も植樹と同様に此の半島の本土にしつかりとした根を下さねばならぬと思ふのである、この意味に於て科学技術の現地第一主義を私は主張したいのであり、内地依存の安易に流れてはならぬ、内地と比肩するの力と寧ろこれをリードするの見識が必要であり、且決して困難ではないと信ずるのである」として朝鮮における科学技術体制の整備のために農工業系学校の拡充を呼びかけた(内野、1944、7–8)。
太平洋戦争中も内野は多忙であった。1943年9月には小倉正恒を団長とする経済視察団が華北に派遣され、関係者と懇談を重ねたが、視察団は小倉の他に稲田稲助三井鉱山取締役、柳田誠次郎日銀理事、水津利輔鉄鋼統制会理事、中西敏憲東亜経済懇談会常務理事、および内野正夫軽金属統制会朝鮮支部長から構成された(『朝日新聞』1943年9月25日)。
1944年5月に京城から東京に出張した内野は、25日に礬土頁岩の大鉱床、マグネサイトの富鉱だけでなく、豊富な労力と電力の存在を考えるとき、朝鮮におけるアルミニウム・マグネシウム工業の将来がきわめて有望であることを語った。さらに3月に実施された現員徴用によって労働者の出勤率が従来の82%から92%に上昇し、移動率も激減したため、前年同期と比較して今期はアルミニウム生産において数倍、マグネシウム生産では「比較にならぬほどの生産実績を上げてゐる」と指摘した(『朝日新聞』1944年5月26日)。
京城からの上京中、内野は終戦の日を迎えた。「朝鮮も満州も北支も、私に取つては軽金属の問題で、まことに思い出の深いことばかりである」(内野、1965、27)と述懐しているが、内野の戦時は終わった。
満洲軽金属製造常務理事であったことを理由に(総理庁官房監理課編、1949、693)、1946年に公職追放を受けた内野は、51年に指定が解除されると、同年に郷里の肥後製蝋株式会社の社長に就任した(内野、1953、64;学士会編、1951、81)(10)。しかし戦後復興期の肥後製蝋の経営は多難であった。経営難から会社は50年7月に賃金切り下げを行い、退職金規定もないため、労働組合は51年10月8日に組合大会を開催して、賃金の増額と退職金規定の制定に関する要望書を提出し、再三会社側と団体交渉を行ったものの交渉は行き詰まり、熊本県地方労働委員会に斡旋が申請された。斡旋員は賃上げと退職金規定を切り離して斡旋に努めたものの、会社側は退職金規定は企業整備(人員整理)を前提とし、組合はあくまでも平常規定として制定することを要求した結果、スト突入必至の状況となった。しかし10月末日の最後の斡旋によって、退職金規定が示されたため、争議は一応の解決をみた(熊本県地方労働委員会事務局編、1953、35–36)。
しかし1951年12月26日、経営不振を理由に人員整理が発表され、これに対して組合側は全員の退職を申し出、解雇予告の白紙撤回を要求した。年が明けると組合は会社側と交渉を持ったが、内野社長と会えず、工場長は権限外として結論が出なかった。52年1月12日に、組合は人員整理の白紙還元、労働協約(とくに解雇問題)の締結、企業整備の際の特別退職金の斡旋を地労委に申請した。地労委の斡旋に対しても会社側には忌避する態度がみられ、斡旋は行き詰まった。内野社長が13名の解雇とその条件にのみ問題を限定しようとしたのに対して、組合は残留者の保障を求め、保障が得られないかぎり全員退職するとした(熊本県地方労働委員会事務局編、1953、37)。
1952年2月14日に組合から「組合員全員の退職を前提としての退職金並に社宅立退料その他の給与問題について」と斡旋内容変更の申立が行われた。労使交渉は長引いたが、3月8日に至って、(1)組合は組合員全員(24名)の退職を承認する、(2)会社は退職金並びに移転手当等総額250万円(税込み)を支給するといった内容で妥結した(熊本県地方労働委員会事務局編、1953、38)。
この争議を経験した後の1953年に内野は、『寒厳禅師伝』(寒厳禅師尚徳会)を刊行した(内野、1953)。曹洞宗の開祖道元の高弟、寒厳義尹は文永11(1274)年に極楽寺(内野の郷里、緑川南岸の釈迦堂)を創建し、弘安元(1278)年に大慈寺を開山する。『寒厳禅師伝』は寒厳義尹の足跡を内野がまとめた小冊子(全64頁)である。内野は「敗戦後故郷に帰り、土に親しむ間に、世の変遷を感じ、道義の頽廃を慨き、郷土の人々に禅師の遺風を思ひ出して貰い度い念願」から公職追放中の1948年に寒厳禅師尚徳会を発起し、同尚徳会は大慈寺内におかれた。また内野は52年に大慈寺総代に就任した(内野、1953、62–64)。
寒厳禅師の思想の核心を、内野は「寒厳の宗風は現実の生活其のものゝ中に活かされると云ふことであります。寒厳宗は山の宗教から里の宗教へと進出し、生活其れ自身を道を求めることであるのに特長があるのではないかと思はれます。(中略)寒厳宗は禅の高風を堅持し乍ら高い品格を保ち乍ら、然かも実際生活と遊離しない所に、特長があるのでないかと思ふのであります」(内野、1953、26)と要約した。また寒厳禅師は「常に政治に関与せず、軍閥に屈せず、只管人生の一大事を究明し衆生を度する菩薩行に徹せられて、其の徳化を永く後世に垂れ給ふた」とし、「禅師は我を生む所のものは、父母であり、父母こそ尊ぶべく、凡ゆる事業は先づ父母を祭り、身心を清らかにして後、出発すべきであることを、実地に示されて居ることを発見して、禅師の御心に触れた様に、感ずるに至りました」(内野、1953、62–63)と内野はのべる。
寒厳義尹の紹介であると同時に、内野自身の体験を踏まえた願望が綯い交ぜになった文章である。一方で労働争議に対峙し、他方で大慈寺総代として郷里の精神的復興に取り組む内野の姿を思い浮かべることができる。
1954年に肥後製蝋の社長のポストを細川護貞に代わった内野は(熊本年鑑社、1954、名簿篇485;同、1955、名簿篇525)、同年9月に鹿児島県立大学工学部(55年7月に国立移管され、鹿児島大学工学部となる)教授に就任し、電気化学を担当した(鹿児島大学、1960、510)。同じ下益城郡出身で、熊本中学、五高時代からの友人である福田得志が52年に鹿児島県立大学学長に就任し、その福田の招聘で同校に着任したのである(加藤、1979、303)。この年に内野は大学4年生の稲盛と出会うことになる。これまでみてきたように戦前・戦中・戦後を生き抜いてきた内野が、稲盛の前に立ち現れたのである。
着任から約1年半後の1956年3月に内野は、「わが国の歴史家の内には、占領以来俄かに日本の古代史はすべて伽話と同然と考える人もいるようであるが、歴史は時代によって変り得るだろうかとの疑問を深うする」との感慨を吐露した。また「国の政治は空疎なデモクラシーや平和論では国民は救われない。いやしくも政治は1人の失業者を出すことを許さず、完全雇傭を目標とせねばならぬ。これがためには国民の力を挙げて産業の開発に向けねばならぬ。(中略)闘争経済は断じて国利民福を招来するものにあらずして、貧困に追込む謀略としか考えられない。私どもは東洋古来の経世済民の道義経済のみが、現代日本の採るべき唯一の道と確信する」として自己の政治的経済的信条を語った(内野、1956、276–277)。肥後製蝋での経験が、内野に「闘争経済」の不毛さを痛感させたのかもしれない。
内野の産業開発への思いは戦前以来一貫したものであった。結論からいえば総工費200億円をかけて年間19億kWhの電源を開発し、アルミニウム、その他の軽金属の製錬、人造黒鉛、その他の耐火物、および鉄合金を、屋久島で生産する産業開発構想であった。さらに島内の19河川の水資源を利用して5,000町歩の水田を開拓し、15万石の米を収穫する構想が続いた。最後に内野は「島自体がもう少し繁栄しなければ、この離れ島の観光などは単に呼声だけに終わり、稀なる登山家以外の客を迎えることは困難であろう」とした(内野、1957、26–30)。
1958年3月に内野は鹿児島大学を定年退職した。在職期間は約3年半と短かった。同年に内野は日本パーカライジングに入社し、翌59年に取締役・技術研究所長に就任、さらに62年1月に足立工場長を兼任した(日本パーカライジング、1962年上期、4)。同年には関東学院大学工学部教授を兼務し、大学では有機工業化学を教えた(大学職員録刊行会編、1962、714)。アメリカのパーカー・ラスト・プルーフ社と技術提携して、28年に設立された日本パーカライジングは防錆をはじめとする表面処理に必要な特殊薬剤を製造販売し、この分野での代表的企業であった(「表面処理薬剤で独走をつづける日本パーカライジング」、1963、66)。64年10月15日に開催された第11回腐食防食討論会(仙台)での講演をもとにして、65年に内野は共同論文「鉄鋼材料の化成処理の問題点」を発表した(内野・徳永、1965)。70歳代になっても内野は旺盛な研究意欲を発揮したのである。65年に内野は日本パーカライジング取締役を退任するが、73年に没するまで同社参与を務めた(日本パーカライジング、1965年下期;『読売新聞』1973年8月12日)。
1967年に内野は「海水の利用を提案して厚生・建設大臣に呈する」と題する文章を発表している。「私がここに提案するのは、真水を回収するのではなく、海水を潤沢に必要箇所に引いて広く利用することである。清浄な海水を大都市に引き、いたるところに海水プールをもうけて、日夕自由に海水浴を行なうことができるならば、市民の健康保持にどれだけ役立つであろう(中略)海水に若干の処理を行なえば、不浄の処理にも道路の清掃にも役立ち、衛生上も風致上にも見違えるほどの効果を招来するであろう」というのが提案内容であった(内野、1967、33)。内容の是非は別として70代半ばになってなお科学の社会的利用に熱心であった内野の姿を確認することができる。
全共闘運動によって全国の大学が大きく揺らいだ1968年、内野は学生からの問いに答える形で自らの歴史観を率直に語った。太平洋戦争について、「今次の第2次大戦に日本が巻き込まれたのも、無条件降伏して旧日本が亡びたのも、その遠因は日本が自ら進んで無名の戦争に突入した第1次大戦の結果であつて、これら一連の因果関係を持つ当然の帰結と考えられる(中略)追い込まれたのは事実である。このままではヂリ貧になるということであつた。しかし太平洋戦争になるまでの道程では果して軍部などは充分に戦争をさけようとしたのかの問題がある」とした。「成功の如く見える日本の(第1次世界大戦への―引用者注)参戦は大なる誤りだつた。軍の堕落はあの時に始まる。この第一世界大戦の結果は連合国の勝利となり、日本は俄かに世界5大強国の一員にのし上つた」といった第1次世界大戦を契機とする「軍の堕落」こそ、太平洋戦争の遠因というのはその過程を歩んできた内野の偽らざる実感であった(内野、1968、2–3)。
「私は天皇制は日本の特有の政治体制で素晴らしいものと思う。天皇は幾何学上の点である。点はあるが幅も高さもない。円の中心はあるがコンパスで円を画いて行く間に穴が大きくなつたらもう中心ではなくなる。天皇ほど無力なものはない。天皇が力を持つたらもう天皇ではなくなる」というのが、太平洋戦争を経験した内野の天皇観であった。戦後憲法に対して、内野は「私は憲法は改正すべきだと思う。私の改憲論は決して第9条の改正ではない。新憲法の第9条と前文とは素晴らしい。世界無比である。この意味ではマツカーサー将軍に感謝する。どん積りであつたかは詮索の要はない。私は時期を見て自主憲法に改正すべきものと思う。押しつけ憲法では順法精神を奪うからである。そして旧憲法の長所も取り入れるべきである。(中略)平和憲法を守り抜くためには、国民に深い信念が必要であ
最後に、「明治100年」に対して、内野は「明治100年のめでたい行事が行はれようとする今、私がこれに水をぶつかけるような発言をするのは誠につらい。私は御祝には賛成する。しかし歴史はめでたいことを祝うばかりでは歴史の研究にならぬ。歴史は過去を回顧して新しい道を発見するところにこそ意味があると私は思う」(内野、1968、4)というのが、1892年生まれの、戦前・戦中・戦後を生き抜いた内野の歴史観であった。
内野の鹿児島県立大学着任は1954年9月であり、稲盛の卒業は55年3月であった。従って二人が同じキャンパスにいたのは半年間であった。しかし卒論発表会で内野は稲盛の卒論を激賞し、発表会の後天文館通りの喫茶店で稲盛に対して技術者の心構えを諄々と話してくれた(稲盛、2004、53)。
1955年4月に稲盛は京都の松風工業(1906年設立)に入社した。翌56年に同社の碍子輸出を受け持っていた第一物産(59年三井物産に改組)から経営調査団がやってきたが、その団長がかつて内野らのリューペル工場訪問に尽力した吉田源三であり、二人は東京帝国大学工科大学の同期生であった。内野は吉田に稲盛のことをよく語り、そのことからホテルに招待された稲盛が吉田にフォルステライト磁器の事業化が軌道に乗りつつあること、松風工業の経営立直しの方向性などについて語ると、吉田は「稲盛さん、若いのにあなたにはフィロソフィがある」といって稲盛を励ましたという(稲盛、2004、53、65–66)(11)。
1958年にパキスタンにある低圧碍子製造会社の社長が稲盛が考案した電気炉を見学し、その後商談がまとまり、さらに技師長として来てほしいとの誘いがあった。この年の3月に内野は鹿児島大学を定年退職していたが、屋久島に水力発電所をつくり、その電力を使って重化学工業を起こすために通産省に頻繁に陳情にいっていた(稲盛、2004、67–68)。
陳情からの帰途に稲盛がパキスタンからの勧誘に逡巡していることを話すと、内野は即座に強く反対し、技術を切り売りするようなことはやめ、日進月歩の先端的技術分野で活躍することを勧めた。尊敬する内野の強い言葉に稲盛はうなずくばかりであった(稲盛、2004、68)。古河鉱業、大阪製錬、大阪工業試験所、満鉄中央試験所、満洲軽金属製造と官民の先端的技術研究の現場を歩んできた内野の言葉には経験に裏打ちされた説得力があったことだろう。
内野と稲盛の親密な交流はその後も続いた。内野危篤の報を出張中のアメリカで聞いた稲盛は、帰国するとただちに羽田から病院に駆けつけた。内野は1973年8月11日に81歳で没した(加藤、1979、300–302)。