In this paper, I would like to discuss the meaning of “integrity” based on Kazuo Inamori’s philosophy and deeds. Integrity has two meanings, honesty and sincerity, both of which are emphasized in Inamori’s philosophy. In this paper, I will focus on integrity as honesty.
Inamori’s philosophy accentuates the importance of practicing primitive morality, whether it is honesty or any other virtue, and not just knowing it. However, there is one episode in which, Inamori professes, he has lied. The story goes that when Kyocera was still a small company with about 100 employees, major manufacturers approached him about delivering a difficult product that the company had never made before, and he pretended to be able to do it and got the order.
By examining whether or not, or in what sense, Inamori lied in this episode, I will clarify the multifaceted nature and depth of integrity as honesty. Specifically, the following two points are suggested: (1) In terms of the past and the present, it is important to distinguish between “not lying” and “not telling the truth” with regard to facts, the former being essential for honesty. (2) In terms of the future, it is not necessarily dishonest to promise something that is difficult to achieve within one’s current capabilities, and in fact such overextension is vital for the growth of the company, but once a promise has been made, you must be faithful to fulfil it to assure integrity.
本稿の主眼は〈誠実さ〉について考えることにある。「誠実」という言葉には正直と真心という2つの意味合いがある。本稿では正直の観点から〈誠実さ〉を考える。それを進めていくにあたり、誠実さ(正直)に関わる稲盛和夫の哲学(考え方)、さらには稲盛の言行を考拠(1)とする。すなわち「稲盛の哲学や言行を手がかりに、正直としての〈誠実さ〉を考える」のが本稿の目的である。
稲盛哲学といえば、それを何よりも特徴づけるのは〈利他〉であることは論をまたない。稲盛自身が最も頻繁に語る徳性である。それに比べると〈誠実(さ)〉という言葉を稲盛が使う頻度ははるかに少ない(2)。とはいえ、〈誠実さ〉の意味する「嘘をつかない」「正直であれ」ということは〈利他〉と並んで、稲盛の大いに強調するところである。その意味で、稲盛研究の一つの切り口として〈誠実さ〉を取り上げる意義は十分にある。
以下、第2節において、稲盛哲学における〈誠実さ〉の位置づけを確認する。続く第3節では、その〈誠実さ〉(正直)の実行こそが重要だと稲盛が強調していることをみた上で、しかし稲盛自身が「嘘をついた」と公言しているエピソードを紹介する。それは京セラがまだ従業員100名程度の小さな会社だった頃、同社が手がけたことのない難しい製品の納入を大手メーカーから打診され、できそうなふりをして注文を取ってきたという話である。『京セラフィロソフィ』など稲盛の著書で紹介されている。
この「注文取りのエピソード」を題材にしながら〈誠実さ〉の諸相、その奥行きを考えていくのが第4節以降である。まず第4節で考えるための枠組みをつくる。そこでは稲盛哲学からはいったん離れ、正直という意味での〈誠実さ〉がどのような要素から構成されるかを手短に考察する。その枠組みを使って正直としての〈誠実さ〉の観点から「注文取りのエピソード」を吟味するのが、本稿の中心的な節となる第5節である。〈誠実さ〉を時間軸の上でとらえることで、稲盛がどのような意味で「嘘」をついたのか/つかなかったのか、を考える。その結論を第6節でまとめる。さらに第7節ではそこからの示唆として「経営における健全さと活力」と〈誠実さ〉の関係を論ずる。最後の第8節では、本稿の基本的なスタンスを改めて確認しつつ、経営哲学領域での稲盛研究の一つのあり方について、筆者の考えるところを述べる。
なお本稿では、公刊された稲盛の著書のほかに、盛和塾の機関誌『盛和塾』所収の塾長講話の記事を資料として用いる。『盛和塾』記事は、検索機能を備えた稲盛和夫研究会資料データベースを活用した。
稲盛はしばしば、誰もが幼い頃から言い聞かされてきた「プリミティブな道徳」の大切さ、とりわけそれを実行することの重要さを説く。自らの経営でこうしたプリミティブな原理原則を守ることを経営判断の原則としたことの重要性を繰り返し説いている(3)。
そこで言われるのは基本的には〈誠実さ〉が大きな割合を占めていると言ってよい。例えば次のような発言がある(『盛和塾』100号、2010年8月、34)。
「人間として何が正しいのか」という問いから得られる解とは、人間が本来持つ良心に基づいた、最も基本的な倫理観や道徳観でもあります。「欲張るな」「騙すな」「ウソをいうな」「正直であれ」など、誰もが子どもの頃に両親から、または先生から教えられた、人間として当然守るべき単純でプリミティブな教えと同じものです。
プリミティブな道徳の例示について、内容的には全く同じものが同じ順番で京セラのホームページにある「京セラ経営哲学」でも挙げられていることから(https://www.kyocera.co.jp/philosophy/)、この例示が稲盛の言う「プリミティブな道徳」の代表的なものと言ってよいだろう。
ここでは「欲張るな」「騙すな」「ウソをいうな」「正直であれ」という4つの例を列挙しているが、このうちあとの3つは、要するに「誠実であれ」ということである。稲盛がプリミティブな道徳観を言うのに、「正直であれ」「人を騙すな」「ウソをいうな」の3つのみを例示しているケースも少なくない(4)。「良心に基づいた、最も基本的な倫理観・道徳観」として、稲盛が〈誠実さ〉を重視していることが窺える(5)。
もっとも、今日我々が使う誠実という言葉には、「正直」と「真心」という2つの意味合いがある。辞書を引いてみると、前者の観点で誠実を定義している例が「言動にうそ・偽りやごまかしが無く、常に良心の命ずるままに行動する様子」(『新明解国語辞典(第8版)』)、後者で定義している例が「他人や仕事に対して、まじめで真心がこもっていること」(『広辞苑(第7版)』)である。
もちろんこの2つの定義には重なり合うところがある。「うそ・偽り」をもって相手に対するのでは「まじめで真心がこもっている」とは言えない。とはいえ、正直の方は、嘘やごまかしを言わない・なさないように自らを慎むという意味で「内向き」の趣がある。一方、真心の方は自分以外の人や事のために、純粋な動機に基づいて自分の力を尽くすという、いわば「外向き」の話と言える。
稲盛の言う「プリミティブな道徳」で代表的に挙げられる諸々の〈誠実さ〉は、このうちの「正直」に関わるものである。「嘘をつかない」「人を騙さない」「正直である」という誠実さを、以下では「正直としての〈誠実さ〉」と呼ぼう。
その一方で、稲盛は「真心」としての〈誠実さ〉を説くことも多い。「純粋な動機で他のために全力を尽くす」という意味での誠実さである。例えば稲盛の「経営12ヵ条」の第11条に掲げられた「思いやりの心で誠実に」というときの「誠実」は、真心の意味合いが強い。この第11条について「稲盛和夫 OFFICIAL SITE」では、「思いやりは、『利他の心』とも言い換えられます。つまり、自分の利益だけを考えるのではなく、自己犠牲を払ってでも相手に尽くそうという、美しい心のことです。ビジネスの世界においても、この心が一番大切です」と述べられている(https://www.kyocera.co.jp/inamori/management/twelve/twelve11.html)。「自己犠牲を払ってでも相手に尽くそう」というのは、「純粋な動機で他のために全力を尽くす」という「真心」としての〈誠実さ〉に他ならない。そしてここにも述べられているように、真心としての〈誠実さ〉は、稲盛が最も強調する〈利他〉と不可分である。真心なしの利他は偽善になる。
このように稲盛思想においては正直、真心の両面で〈誠実さ〉が重要な位置を占めるのだが、以下、本稿ではこのうち「プリミティブな道徳」に関わる正直としての〈誠実さ〉に焦点を当てることにしよう(それゆえ本稿に「『正直』の観点から」という副題をつけた)。以下〈誠実さ〉とは、特に断りのない限り、正直としての〈誠実さ〉である。
人間は、嘘をついたり、他人を騙したりせず、誠実であるべきだ。これは誰もが知っており、異議を差し挟む余地のほとんどない、文字通り「プリミティブな道徳」である。とはいえ、誰もがその通りに誠実であるわけではない(『盛和塾』67号、2005年10月、10)。
「誠実であれ、正直であれ、謙虚であれ」というようなことは、口では容易に言えます。しかし日常生活の中で、それが常に行動として表れていなければ何にもならない。その実践こそがたいへん難しいことなのです。
稲盛の言うように、実践、実行こそが問題である。しかし実際にはプリミティブな道徳を知識としてもっていても、それが実行できない、身についていないことが往々にしてある。稲盛はJALの破綻の元凶もここにあるとして、2010年に再建に着手した早い段階からリーダー教育に乗り出し、JALの役員たちに嘘をつくな、人を騙すなという「当たり前のこと」を根気よく説き続けたことはよく知られている。
大がかりな企業不祥事の根本にも経営トップの「不誠実」ないしは「誠実さを貫き通せないこと」が横たわっていると稲盛は言う(『盛和塾』89号、2008年12月、14;『盛和塾』49号、2002年10月、42。〔 〕内は引用者)。
実際にエンロンやワールドコムで、業績に影響を与える事象が生じたときに、リーダーが欲張り、企業決算を粉飾しました。またその事実が発覚しないようにウソを言い、人を騙し、事実の隠蔽に走りました。
〔2002年2月に発覚した〕東京電力の原子力発電所の問題も同じです。(……)このくらいの傷なら直ちに安全に支障が出ることはないから黙っていよう。さらにデータを改ざんし、嘘の報告をしておこうとなった。(……)〔プリミティブな道徳が〕人格にまで染み込んでいませんから、それができない。正直に公表すれば大問題となる。それよりは、報告を少し改ざんしよう、わずかな嘘なら許されると思い、不正な行為に走ってしまったんではないでしょうか。
これほど大がかりな事態にまで発展しなくとも、経営の現場では―それどころか我々の社会生活全般にわたり―至る所で、ついつい嘘をついたり隠し立てをしたりといった不誠実は起きがちである。
むろん、「実践が伴わない」ことは〈誠実さ〉に限らず、〈利他〉や〈謙虚〉など様々な徳性についても言える。それらを今まとめて《理念》と呼ぶなら、稲盛は《理念》の実行、固守を(自分自身も含めて)厳しく求める。
2006年6月にNHK教育テレビで放送された稲盛の特集番組で、インタビュアーが「おっしゃるように気高い理念をもって経営にあたることは大切だが、激しい競争、買収の脅威、明日会社が潰れるかもしれないといった危機に直面したときなど、理念に反したことをせざるを得ない場合もあるのではないか」という趣旨の率直な質問を、幾度も稲盛に投げかけた。これに対して稲盛はその都度丁寧に反駁を繰り返している(稲盛、2010、46–48。〔 〕内は引用者)。
〔理念というものは〕それを守って実践してこそ理念なわけです。(……)それを競争が激しいからといって、「守っていてはやっていけない」と理念を曲げたとしたら、それは理念ではありません。
簡単に曲げるようでは単なるご都合主義で、理念というものとは違うんです。
どんな事情があろうと、〔理念に反したことは〕してはならんのです。
理念を曲げるぐらいなら、従業員ごと会社がつぶれなければいけませんね。
〈誠実さ〉もまた実行してこそのものである。稲盛はつい嘘をついてしまう人間の弱さ、〈誠実さ〉を貫くことの困難さを理解した上で、しかし〈誠実さ〉という理念を貫くよう自らを人一倍戒め、部下にも厳しくそれを求めてきた。このことについては首肯してよいであろう。
ところが、その稲盛が「嘘をついた」と自ら公言しているエピソードがある。『京セラフィロソフィ』をはじめとした稲盛の著書に出てくるし、盛和塾でも繰り返し語っている、京セラを創業して間もない頃のエピソードである。以下は『京セラフィロソフィ』からの引用である。
(……)「当社はこういうセラミックスの技術を持っていますが、何かお手伝いできることはないでしょうか」と言いながら、〔これまで取引関係のない〕東芝や日立の研究所にアプローチしました。すると相手の技術者は、「私のところは、こういうメーカーに頼んでいます」と言って、先発のセラミック・メーカーにお願いしているような普通の製品の相談はまったくしてくれません。そして、「あなたのところがセラミックスの技術を持っているのなら、こういったものはつくれますか」と言って出してくれるものは、先発の大手セラミック・メーカーでもできなかったものなのです。
普通はすでに他のメーカーに発注している仕事を、新しく売り込みに来た者に「これを頼む」とは言いません。したがって、そういう会社からの話は必ず難しい製品の相談になるのです。ところが、「それは当社では、つくったことがありません」と言えば、それでその会社とのつながりは切れてしまいます。そこで、本当はブラウン管の絶縁材料しか扱ったことがないのに、できそうなふりをして「いや……、難しそうですができると思います」と言わざるを得ません。そう言わないと、相手がそれ以上の関心を示してくれないものですから、首をかしげて考えているようなふりをして「何とかやってみましょう」と答えてしまうのです。しかし、できると言ったのはまったくのうそなのです。(稲盛、2014、417–418。圏点、〔 〕内は引用者)
嘘をつかないこと、正直であること、しかもそれを唱えるだけでなく実行することを信条としている稲盛が「できると言ったのはまったくのうそなのです」と公言しているのである。
このときのことについて、稲盛は「注文をもらえるだけの技術もない、設備もない企業の経営者が、百人ほどに増えた従業員を食べさせていくために、苦肉の策で注文を取らなければならなかった」(稲盛、2014、421)と述懐している。
しかし、従業員を食べさせるためならば嘘をついてよいのだろうか。「できないものは、できません」とキッパリ言うのが「正直」なのではないのか。たしかに目的が手段を正当化するということはある。人を守る、救う、といった大義名分のために不本意ながら嘘をつく。そのことがいわゆるホワイトライ(white lie:罪のない嘘)として許容される場合もあるだろう。しかし大義名分があれば嘘をついてよいというのでは、正直を貫くことにこだわりぬく稲盛の理念に反するのではないか。先述のように、稲盛自身、「理念を曲げるぐらいなら、従業員ごと会社がつぶれなければいけませんね」と言っているのである。
このような問題提起をしたのは、稲盛の「矛盾」を批判しようというためではない。このことを題材にして〈誠実さ〉について掘り下げて考えるためである。稲盛はどのような意味で「嘘」をついたのか/つかなかったのか。このケースにおいて嘘があるとしたら、それは〈誠実さ〉の観点でどのように許容され得るのか/され得ないのか。こうしたことを考えるための材料として、上記のエピソードを活用しようというのである。
この先第5節以下では、上記エピソードについて、あくまで『京セラフィロソフィ』の当該箇所でなされている記述に則して、言い換えればそこでの記述における登場人物としての「稲盛和夫」の言行にみる〈誠実さ〉について吟味する。その吟味を通じてこの登場人物の〈誠実さ〉を評価することは、このエピソードが起きたときの実際の稲盛の言行の是非を評価することとは切り離して考える、ということである(敢えてこのような設定をおく意味は第8節で述べる)。(生身の)稲盛を評価することではなく、この事例を元に〈誠実さ〉について考究することが、本稿の主意である。
なお、以下では『京セラフィロソフィ』から引用した上述のエピソードを「注文取りのエピソード」と呼ぶことにする。
正直としての〈誠実さ〉とは何かについて、ここで改めて考えてみよう。一口に〈誠実〉と言っても、そこにはいくつかの意味が含まれる。大きく分けると「虚言を為さないこと」と「言を成すこと」の2つの意味合いがある。
(1) 「虚言を為さない」誠実「虚言を為す」とは、「嘘をつく」「他人を欺く」こと、「自己の利益を守る/増すために、事実に反することを他者に伝える」ことである。虚言は、過去、現在、未来それぞれについて為しうる。
過去については、「嘘の結果報告」がまず考えられる。粉飾決算や品質データ改竄はその一例である。一方、過去の不都合な事実を隠しようがない場合、あるいは粉飾・隠蔽していた事実が露見してしまった場合に出てくる嘘が「言い逃れ」である。問題があることを本当は知っていたのに「自分は知らなかった」などと言う類いである。
現在についての虚言の一つは「相手にとって害になるとわかっているものを、害にならない(それどころか得になる)ものとして提供すること」である。例えば、安全性に重大な問題があることに気づいているにも拘わらず、その事実を隠して製品を売ることである。ドラッカーは「『知りながら害をなすな』こそ、プロとしての倫理の基本であり、社会的責任の基本である」と言った(Drucker, 1974, 邦訳431)。「知りながら害をなす」ことは虚言、不誠実の最たるものと言ってよい。
他方、相手に害をなすような悪いものではなくても、低品質のものを高品質と偽って売ったり、どこにでもある代物を稀少品だと言って売りつけたりするのも、現在についての虚言の例である。
現在についての虚言は、直接的な売買相手など特定の他者に対して為されるだけではない。不特定多数の他者に対して為されることもある。例えば、自分や自社がやっている取り組みや事業を、実際以上に立派なこと、善なることであるかのように社会にアピールすることがそれである。もっぱら自分が儲かるためにやっているのに、それを「社会貢献だ」とことさらに標榜するとすれば、そこには虚栄、偽善があると言わねばならない。
未来についての虚言もある。自分が実現させるつもりのないことを実現させるつもりであるかのように伝えること、あるいは実現見込みの低いものを、高いかのように信じ込ませることは、未来についての虚言と言える。空手形の公約を掲げるのは前者の例、相場性の商品を「必ず値上がりします」と言って売りつけるのは後者の例である。
以上のような「虚言を為す」ことを断じてしないのが〈誠実さ〉の一つの側面である。なお、過去についての虚言と現在についての虚言は、区別が難しい場合もある。現在と言っても、それについて言及するときにはすでに過去になっている場合も少なくない(6)。過去も現在も、すでに事実は確定して変えようがない。それに対して未来は未確定である(この区別は後の議論において重要な視点になる)。そこで以下では、過去と現在についての虚言はひとまとめにして論じることにする。
(2) 「言を成す」誠実正直としての〈誠実〉のもう一つの側面は、ひとたび約束したことは断じてこれを実行すること、つまり「言を成す」ことである。誠という字はまさに言と成からできている。然諾を重んじ、その約束を履行することは、ビジネスにおいても重要であることは論をまたない。約束した納期に間に合わせる、利益目標の必達を期すなど、約束を守ることが求められる場面は数限りない。
その場合、約束した時点では、その約束を将来実現させる意志も見込みもあった(「未来についての虚言」を為したわけではない)としても、その後事情が変わり、実現の意志が弱まったり客観的な情勢変化で実現の見込みがなくなったりすることもありうる。しかしそれでも「言を成す」誠実さを貫こうとするなら、そうした不利な状況に立ち向かってでも何とかそれを実現させなければならない。
他方、実現できる見込みが薄いのに約束してしまうことも、人にはありがちなことである。それ自体は「未来についての虚言」に属する可能性がある。しかし約束した時点で実現への意志さえもっていれば、事後的にその約束を本当にする―言を成す―こともありうる。
〈誠実さ〉を以上のように整理した上で、改めて前述の注文取りのエピソードについて考えてみよう。
稲盛はこのエピソードについて、「できると言ったのはまったくのうそなのです」と述べている。では、このときの(エピソード登場人物としての)稲盛は、どのような意味で「嘘」をついたのか/つかなかったのか。
(1) 過去・現在についての虚言か第一に、過去・現在についての虚言があったかどうか。相手が求める製品を手がけた実績がないという事実がある以上、「あなたのところがセラミックスの技術を持っているのなら、こういったものはつくれますか」と尋ねられて、「当社は、それをつくったことがあります」と言ったとしたら、明らかな嘘だったであろう。しかしそういう嘘はつかなかった。
かといって「それは当社では、つくったことがありません」と正直に言ったかというと、そういうわけでもない。代わりに稲盛が言ったのは「いや……、難しそうですができると思います」というセリフだった。つまり、つくったことがあるかないかという過去・現在の事実には触れずに、つくれそうだという未来のことにのみ言及しているのである。過去・現在の事実に言及しようとすれば、正直であるためには「つくったことがありません」と言うしかなく、そうなれば注文が取れないことは明白である。だから、敢えてそこには言及しない。言及すれば正直であることに間違いないが、それだけが正直さ―嘘をつかないこと―を貫く道ではない。
他の道を見出す一助になるのが、哲学者マイケル・サンデルが著書Justice: What’s the Right Thing To Do?(邦訳『これからの「正義」の話をしよう』)の中で挙げる「technically true but misleading statement」という考え方である(Sandel, 2010, 133)。邦訳版では「真実ではあるが誤解を招く表現」と訳されているが(Sandel, 2010, 邦訳173)、「厳密に解釈すれば虚偽でないが、人を誤解させる言明」と言った方が正確だろう。
よく知られているように、カントは嘘をつくことを不道徳の最たるものとして厳しく戒めた。それは徹底していて、「友人があなたの家に隠れていて、殺人者が彼女を探しに戸口へやってきた」としても「殺人者に嘘をつくのは正しいことではない」とするのがカントの立場である(Sandel, 2010, 邦訳172)。しかしだからといって、正直に「彼女はここにいます」と告げて友人を見殺しにするなど、大方の人間には受け入れがたい。ではどうしたらよいのか。そこでサンデルが「カントのものとは異なるが、彼の哲学の精神に則したもの」(Sandel, 2010, 邦訳173)として提示するのが「厳密に解釈すれば虚偽でないが、人を誤解させる言明」なのである。
自宅のクロゼットにかくまっている友人を殺人者から守るために言えることの選択肢は二つである。一つは「真っ赤な嘘(outright lie)」をつく―「いいえ、彼女はここにはいません」―こと、そしてもう一つが「厳密に解釈すれば虚偽でないが、人を誤解させる言明」である。例えば、「1時間前、ここからちょっと行ったところにあるスーパーで見かけました」(それが事実だったとして)と言うのである。そのように言われた殺人者は、狙っている友人がここにはいないと「誤解」して余所を探しに行くだろう。「後者の戦略は道徳的に許されるが、前者〔真っ赤な嘘〕の戦略は許されない」というのがサンデルの見立てである(Sandel, 2010, 邦訳173)。
後者の戦略は単なる屁理屈、言い逃れのように思われるかもしれない。しかしここで重要なことは、「真っ赤な嘘」をつく場合とは異なり、「厳密に解釈すれば虚偽でないが、人を誤解させる言明」をわざわざする場合には、①真実を告げる義務に忠実であり、遠回しとはいえ道徳法則に敬意を示していること、②聞き手を支配していない、すなわちよく聞きよく考えれば聞き手はその言葉が嘘かもしれないと疑ったり、嘘であることを見抜いたりしうること(7)、である(Sandel, 2010, 邦訳178–179)。
つくったことのない製品を「つくれますか?」と聞かれた場面で、「つくったことはありません」と答える代わりに、首をかしげつつ「難しそうですができると思います」「何とかやってみましょう」と答えるのも、ある種の「厳密に解釈すれば虚偽でないが、人を誤解させる言明」と言えるのではないか。
「誤解」とは言っても、むろん日立や東芝の技術者が「この男に任せれば大丈夫だ」と思い込むほどまで「誤解」させはしなかっただろう。ある程度は眉に唾をつけて聞いていたであろう。とはいえ、その時点での京セラの力量を実際より高めに見積もるという程度の「誤解」はさせたはずである(そうでなければ、取引実績もない従業員100名程度の会社に注文など出さないだろう)。
それでは、「難しそうですができると思います」という言明は、「厳密に解釈すれば虚偽でない」と言えるだろうか。上述の友人を匿うケースでは「1時間前にスーパーにいるのを見た」という過去の確定した事実を語っている以上、それが虚偽でなく真実であることは明らかである。しかし「難しそうですができると思います」という言明は、過去・現在ではなく未来に関わることである。つくれることが確定しているわけではない。そうである以上、「できると思います」と言った時点では、この言明が「厳密に解釈すれば虚偽ではない」とは言い切れない。
ということは、この言明は「未来についての虚言」だったのだろうか。
(2) 未来についての虚言か未来についての虚言を、前節では「自分が実現させるつもりのないことを実現させるつもりであるかのように伝えること、あるいは実現見込みの低いものを、高いかのように信じ込ませること」と定義した。もし稲盛がはなから実現させるつもりもないのに「何とかやってみましょう」と適当なことを言って注文を取ってきたとしたら、その時点で「未来についての虚言」である。しかし、「それをうそのままにしてしまったのでは、もう二度とその会社に顔を出すことはできません。(……)新しい仕事は受注できなくなってしまいます」(稲盛、2014、418–419)と彼は当然ながら自覚していた。実際、従業員を食わせていく必要に迫られて苦し紛れに「何とかやってみましょう」と言った稲盛が、それを実現させる気がなかったとは考えられない。
むしろここでの焦点は、稲盛自身が「できる〔であろう〕と言ったのはまったくのうそなのです」と言ったように、実現に向けた意志ではなく能力に関すること、つまり「実現見込みの低いものを、高いかのように信じ込ませること」に関わる。しかしこの面でも、稲盛の言う「嘘」が(どのような意味で)「未来についての虚言」であったか(否か)については、吟味する必要がある。
第一に、自社の能力を「信じ込ませる」ほどの確証を稲盛が相手に与えようとしたかというと、そういうわけではない。(少なくともここでの登場人物としての)稲盛の言によれば、「首をかしげて」「難しそうですができると思います」という程度である。「誤解」を与えはしたが、積極的に相手を騙したとも言いがたい。逆にもし自信ありげに「任せてください」と断言したのだとしたら、「未来についての虚言」であっただろう。
第二に、より重要なこととして、その時点での京セラの能力からすれば「実現見込みが低い」としても、だからといって「実現できない」と決まっていたわけではない。むろん先方が望む製品を明日にでも持って来いと言われたら「実現できない」に決まっている。しかし稲盛が先方にした約束は「3ヶ月後に試作品を持ってくる」というものだった。稲盛にこの約束を守る意志があったことを前提とするならば、これは事実上「3ヶ月後には我々は必要な能力を身につけています」と約束したのと同義であろう。この約束は「実現できる」かもしれない。
本当に3ヶ月後に身につけているかは、なるほど不確定ではある。しかし過去・現在のことは確定していてもはや変えられないのに対して、未来のことは―不確定であることの裏返しとして―自らの力で変えうるし、自らがつくり出しうる。何でも思い通りに変えたりつくり出したりはできないが、ほかならぬセラミックのメーカーがこれまで手がけたことのないセラミック製品を開発しようというのだから「実現見込みがまったくない」とまでは言えない。例えば食品メーカーや製薬会社がセラミック製品を3ヶ月後に納品しようというのとはわけが違う。
そうである以上、「実現見込みが低い」からといって稲盛が「(3ヶ月後にも)できません」と断れば正直だったかというと、そうとも言えなくなる。できるかもしれないのに、できない可能性を見越して「できません」と言うのも、ある意味では「嘘」である。そこには逃げや無責任な態度が見え隠れする場合さえある(8)。
問題は、できる「かもしれない」程度がどのくらいかである。言い換えれば、「その時点での実際の自分の能力(α)」と「将来の一定時点でその約束を実現するのに必要な能力(β)」の「差分(γ)」がどのくらいか。その差分がゼロ(またはプラス)であれば、「できると思います」と言うのは嘘ではない。しかし差分がマイナスで、そのマイナス幅が大きくなればなるほど、嘘の色合いが強くなる。
稲盛は、少なくともその注文を受けた時点の自社の能力(α)に基づけば、差分(γ)のマイナス幅が大きいと認識していた。「事実、そういった難しいものは過去に全然やったことがありませんでした。当時の京セラの技術力では無理と思われても仕方ない状況ではありました」と述べている(『盛和塾』33号、2000年1月、37)。そのとき京セラの技術者たちも口を揃えて「稲盛さん、それは無理ですよ」と言っていた(同)。
「できると言ったのはまったくのうそなのです」と稲盛が言うのは、そのためである。差分の現実を客観的に判断すれば「未来についての虚言」だったということになろう。しかし稲盛は、別の観点からは、じつは必ずしも嘘をついたわけではない(嘘をついたつもりはない)とも主張しているのである。
(3) 未来進行形で能力をとらえる稲盛は自社の能力(α)について、約束した時点での実態は低く評価していたものの、約束の期限である3ヶ月後までにはそれが向上すること―3ヶ月後の自社の能力(α’)が大きくなっていること―を見込んでいた。「差分」はゼロまたはプラスになる(α’ − β = γ’ ≧ 0)と信じていたのである。注文取りのエピソードに関連して、稲盛は先述の「当時の京セラの技術力では無理と思われても仕方ない状況ではありました」という発言に続けて次のように述べている(『盛和塾』33号、2000年1月、37)。
しかし、それを無理だと認めてしまうと話が台無しになってしまいますから、研究者たちを納得させるために、「我々の能力を、未来進行形でとらえよう」ということを言い始めたわけです。今の能力なら出来ないのは自分も承知している、しかし三ヶ月のうちには、我々の能力は実験を繰り返しながら進歩するはずだ、私はそう言いました。
能力を未来進行形でとらえることによって、少なくとも稲盛自身は「差分」を小さめに見積もっていたと言える。主観的な判断・主張であるには違いない。しかしそもそも主観なしに誠実さなど語れるものだろうか(9)。
このことはしかし「未来のことはどんなことでも自分に都合のいいように解釈する」という意味ではない。あくまでも「自分(たち)の能力」という、自らの意志と努力で操作可能なものについての考え方である。
能力を未来進行形でとらえることの意義については、後に再び論ずる。
前節での考察を踏まえて、注文取りのエピソードから正直としての〈誠実さ〉について改めて考えてみたい。
(1) 虚を言わず、実を犯さず:過去・現在についてつくったこともない製品を「できると思います、やってみましょう」と言ったとき、まず、それが過去・現在についての虚言であったかと言えば、少なくとも「真っ赤な嘘」をついたわけではなかった。その代わり「厳密に解釈すれば虚偽でないが、人を誤解させる言明」を用いた。「虚偽ではない」こと(できそうだ)を言ったが、本当のこと(当社はそんなものはつくったことがない)は言わなかった。
筆者は先にマイケル・サンデルの概念を借りてこうした区別について論じた。そしてこの概念は、正直さを維持するのが困難な場面に直面したときに、そこを巧妙に切り抜けるための屁理屈のこね方を教えるためのものではなく、むしろそうした場面でもなお正直であること―虚偽を語らないこと―、そのような道徳的義務を尊重し続けるための方法を言ったものであることに注意を促した。
じつは稲盛自身、馬鹿正直とは異なるが正直さを重んじるこうした態度について、京セラ創業の恩人であり自らが経営の恩師と仰ぐ西枝一江から教示を受けている。
京都セラミックの経営者になり、仕事でいろいろな指示を出さなければならない時に、N〔西枝〕さんに相談しましたら、こんなことをおっしゃった。
「稲盛さん、ウソを言ったらあかんよ。しかし、ほんとのことを言わんでもいいんだよ」
私はそれを聞いて、飛び上がるほどうれしかった。私は子供の頃からウソは絶対につくなと両親から厳しく教えられていたので、経営者になっても、ウソを言ったらいけないと、心からそう思っていました。しかし、経営する上では企業秘密に関することや人事に関することなど、時には本当のことを言いづらいケースも出てきます。たぶん私は、そういう難問に悩み苦しみ、相談したのだと思うのです。その答えが、最低限のこととして「ウソをつかない」という態度は貫くが、しかし洗いざらい本当のことを言わないことで、事態の打開を図ることはできる、というものだったわけです。(稲盛・梅原、2020、91–92。〔 〕内は引用者)
注文取りのエピソードとの時間的前後関係は不明だが、このエピソードでも「洗いざらい本当のことを言わないことで、事態の打開を図ること」をしたのは確かである。
人はややもすると「虚言を為す」ことと「本当のことを言わない」ことを一緒くたにして、どちらも「嘘をつく」とみなしてしまう。しかし、前者は誠実を重んじていないが後者は重んじているという点で、両者は微妙とはいえ本質的に異なる。「過去・現在についての誠実さ」というなら、「嘘をつかず」かつ「本当のことを言う」のがベストであることは言うまでもない。しかし「本当のことを言う」のが適切でない場合には、せめて「嘘をつかない」ことが「過去・現在についての誠実さ」を貫くためには不可欠になる。虚を言わず、(実も言わないことで)実を犯さず、というのが過去・現在についての誠実さを守る最低条件であろう。
このことはむろん「未来についての誠実さ」にも当てはまる。未来についての言明―端的には人との約束―をなすのに、実現する意志がなく、能力も全く欠けていて見込みがないのにそうするのは嘘になる。詐欺師はその典型である。しかしながら、未来に関する誠実さは「虚を言わず」だけでは完結しない。嘘というのとは異なる意味での「虚への対応」が必要になる。
(2) 虚を実にする:未来に向かって意志があり能力もある(ないしは差分(γ)が小さい)ときに約束をするのは嘘をつくことではない。けれども、どんな約束もそれが果たされるまでは「虚」である。「未だ実現していない」という意味で「虚」である。嘘の虚ではなく、未実現の虚という点では、注文取りのエピソードのように能力が大幅に不足している場合に限らず、はじめから十分な能力を備えていたとしても、虚であることに変わりはない。十分な能力があるからといって必ずできると決まったわけではないからである。必要な能力の一部が欠けているかもしれないし、環境変化など外的な要因で実現が困難になるかもしれない。あるいは何らかの事情で、実現する意志を喪失するかもしれない。ましてや必要な能力が不足しているなら、虚の度合いはより一層大きくなる。約束とはすべて、それを為した時点では虚である。
そうした中で、ひとたびした約束を実現させること、すなわち「言を成す」ことが、未来についての―あるいは未来に向かっての―誠実さに他ならない。虚を実にする、という誠実さである。
稲盛は、注文取りのエピソードの中で「うそを言って無理やり注文をもらってくる。そうすると、後がたいへんです。なぜなら、そのうそ(虚)を本当(実)にしなければならないからです」(稲盛、2014、419)と述べている。ここで稲盛は「うそ」と言っているが、本稿のこれまでの議論からすれば「嘘の虚」よりはむしろ「未実現の虚」ととらえた方がよいだろう。実際、稲盛は当時自社の技術者には次のように語っていたという(『盛和塾』33号、2000年1月、37)。
「私は嘘など言ってはいない。私たちの今の能力だったら、未来には可能になるはずだ。約束のときまでに試作品が出来なかったときは『嘘を言った』ことになる。しかし、そのときまでに試作品が出来上がっていたら嘘にはならない。だから、これは嘘とは言わずに『方便』と言うのだ」
現在の能力で測った差分(γ)の大きさから言えば、「できると思います」と言うのはある意味では嘘である。しかしこのような未来についての「嘘」は、①能力を未来進行形でとらえて差分(γ’)を推定することによって、言明の時点において少なくとも主観的には虚言とは言い切れなくなる上に、より重要なこととして、仮に嘘だったとしても②未来において「虚を実にする」ことによって、事後的に解消できる。そのことを、稲盛の上の発言は示唆している。
経営には健全さと活力の両方が必要である。経営の健全さを保つために、本稿が主題としてきた正直としての〈誠実さ〉が求められるのは論をまたない。エンロン、ワールドコムに限らず、企業の不祥事は経営者や従業員にそれが欠けたところに生まれる。嘘のない正直な経営、正直な商売は事業の長期的な存続にとって不可欠と言える。
こうした正直さはとりわけ過去・現在の確定した事実をめぐる言明に強く求められる。粉飾決算、品質・データ偽装、それらを含めた不都合な事実の隠蔽など、すべて確定した事実を歪めたり隠したりして嘘をつくことに他ならない。そうした嘘を排除することが健全さの基本である。
企業のステークホルダーとの関係で言えば、ディスクロージャーでもそうした〈誠実さ〉が求められる。この点、稲盛は次のように言う(稲盛、2000、146。〔 〕内は引用者)。
ディスクロージャーとは、要するに〔すでに確定した事実としての〕真実をありのままに伝えるという、当たり前のことである。たとえ「良くない事態」が起きたとしても、勇気を持って社外に対し、ただちに明らかにすることによって、逆に会社に対する信頼は高まっていく。打開策を確実に実行していることを、正直に投資家に対して訴えればよいのである。このように自社のありのままの姿をつつみ隠さずオープンにするためには利益よりも公正さを優先するという確固たる経営哲学が不可欠となる。
ここで言われる「公正さ」は〈誠実さ〉と言い換えて差し支えないだろう。
ところで、投資家をはじめとするステークホルダーに対して誠実であろうとするなら、企業が公表していた経営計画/業績予想の達成が難しくなった場合、その「事実」を「正直に」伝えて下方修正するのが筋であるように思われる。ところが稲盛はこれには異を唱える(『盛和塾』114号、2012年8月、11;『盛和塾』103号、2010年12月、27)。
立案した経営計画は、本来は従業員や株主、また社会への約束であるはずです。それなのに、予期せぬ経済環境や市場動向の変動を理由に、目標の撤回や下方修正をすることをためらわない人がいる。私は、そのような状況盲動型の経営者、リーダーは、すぐにでも交代しなければならないと考えます。
状況変化に経営を合わせていては、いったん下方修正した目標でさえ、次にやってくる経済変動の波に翻弄されることとなり、さらに下方修正が必要となってしまいます。そのようなことがあれば、投資家や従業員からの信頼をまったく失ってしまうことでありましょう。「こうしたい」と決めたのなら、経営者は強い意志でやり抜かなければならないのであります。
厳しい環境に直面したときに経営計画/業績予想を修正することは、「守れそうもなくなった約束をそのままにしておいたのではステークホルダーを裏切ることになりかねないから、今のうちに改めておこう」という意味では誠実な対応であろう。しかし別の見方をすれば、そうした修正は「ゴールポストを動かす」ようなものである。それをする時点で、少なくとも従前の約束についてはこれを「破る」ことになる。そうであれば、一度なした約束は維持し続けるのが誠実な態度とも言える。
ただ、その場合に残る問題は「従前の約束を現在の(厳しくなった)環境で実現するのが困難だ」という現実である(10)。約束が実現できなければ、すなわち虚を実にできなければ、結局は不誠実に終わる。
厳しい環境に直面しても、①ゴールポストを動かさず、しかも②従前の約束を実現するためには、「強い意志」、あるいはこれも稲盛がしばしば強調する「勇気」や「闘魂」が必要になる。「言を成す」という誠実さを貫くための強い意志であり、勇気であり、闘魂である。そしてこれらの徳性こそ、経営の活力にとって不可欠な要素に他ならない(11)。
以上から見えてくるのは、過去・現在については(馬鹿正直ではない)正直さを貫くこと(虚言を為さず)、未来については「嘘」の要素があったとしても虚を実にすることによって正直さを確保すること(言を成す)、という〈誠実さ〉の姿である。あとから虚を実にして「嘘」を解消する、などというのはご都合主義のように思えるかもしれない。しかしリスクをとり、新たな価値を造り出していかねばならない企業、健全さのみならず活力も死活的に重要な企業の経営においては、この面の〈誠実さ〉(それに必要な〈勇気〉や〈闘魂〉)も見落としてはならない。繰り返しになる部分もあるが、稲盛の言を引いておこう(『盛和塾』121号、2013年8月、16–17;稲盛、2015、159)。
現在の自分の能力をもって、「できる」「できない」を判断していては、新しいことは何もできません。たとえ今はとてもできないと思われるような高い目標であっても、未来のある一点で達成する、と決めてしまい、それを実現するために、現在の自分の能力を高める努力を日々続けていく。つまり、「能力を未来進行形でとらえる」ことが大切です。
ぜひ皆さん、この言葉を覚えておいていただきたいと思います。人が常識から「決してできない、あんなことがやれるわけがない」と言うこと、そのことをやるのです。それをすさまじい根性とすさまじい闘魂で成し遂げるのです。経営者にはそういう闘魂が絶対に要るのです。
「正直としての誠実さ」は、何よりも経営の健全さの大黒柱である。それは基本的には「虚言を為さない」という意味での誠実さによる。しかしそれだけではない。強い意志や闘魂を伴う「言を成す」という意味での誠実さが、経営の活力の原動力となる。
このような〈誠実さ〉という観点から昨今の経営を見たとき、「虚言を為さない」という健全さの土台としての〈誠実さ〉が偏重され、「言を成す」という活力の源泉としての〈誠実さ〉が忌避ないしは等閑視されているように思われる。行きすぎたコンプライアンス対応などに見られるように、「虚」をいたずらに排する(ことをあちこちから求められる)傾向が、虚を実にして「言を成す」という営みを萎縮させているのかもしれない。だからこそ、萎縮しないだけの〈勇気〉と〈誠実さ〉を備えた経営者が今日益々必要になっているとも言える。
本稿では、京セラ草創期に稲盛が経験した「注文取りのエピソード」を材料に、〈誠実さ〉のありようを考えてきた。このエピソードについて、本稿ではもっぱら『京セラフィロソフィ』(稲盛、2014)の記述に則して議論を展開してきた。そこには「首をひねった」とか「できると思います」といった表現が、そのときの対応を描くものとして用いられている。これがこのエピソードにおいて「過去・現在についての虚言」を為したかどうかの検討の鍵になった。
しかし盛和塾の塾長講話では、出来るかもしれません程度では断られてしまうので、出来ますと言わざるを得なかったと語っている(『盛和塾』33号、2000年1月、36–37)。できると断言した(「厳密に解釈すれば虚偽でないが、人を誤解させる言明」ではなかった)、というのが実際だったのかもしれない。それどころか、塾長講話では(このエピソードに限った話ではないが)次のような発言もある(『盛和塾』31号、1999年10月、68)。
昔の京セラには、技術もなければ立派な設備もありません。それなのに、お客さんには「何でもできます」と大ぼらを吹き続けてきました。
「ウチには素晴らしい技術があるのです。新しい真空管を作るために必要な絶縁材料は、どんなものだって作れます」
「立派なメーカーでもできなかったものを、本当にあんたの会社にできるのか」
「いや、そういうものこそ、ウチの得意分野なのです」
もうウソばっかり。設備も技術もないわけですから、作れるわけがありません。
これは京セラフィロソフィの「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」のうちの「楽観的に構想する」ことについて語っている中での発言なので、その点は割り引いて考える必要があるだろうが、『京セラフィロソフィ』の記述から判断されるところと比べれば、「未来についての虚言」の度合いは実際には強かったのかもしれない。そこでいったん「損なわれた」〈誠実さ〉を、しかしすさまじい執念で「言を成す」ことによって結果的に取り返すというところに、生身の稲盛の未来に向けた〈誠実さ〉の貫き方の特徴があると言えそうである。こうして(その時点では)実力以上の仕事を取ってきて、その虚を必死になって実にすることが、京セラの活力と独創性の源となったのである。
しかしこのあたりのことに関する生身の稲盛の言行の是非を論じるのが本稿の目的ではないことは第3節の最後でお断りした通りである。本稿では、『京セラフィロソフィ』の記述における登場人物としての稲盛に焦点を定めたからこそ、〈誠実さ〉について多面的に考察することができたと考えている。
〈誠実さ〉といういわばとらえどころのない問題を扱うのに、具体的な事例を題材とし、しかも(その事例がまとう複雑な実態はある程度捨象して)「焦点を定める」ことは重要である。これは〈利他〉でも〈勇気〉でも変わらない。これらの倫理的な徳目は、具体的事実を足場にして考えてこそ、現実に適用しうる力強い「哲学」となるであろう。
とはいえ、現実の事例ならば何でもよいというわけではない。〈誠実さ〉なら誠実さについて真剣に考えたり、それを信条とし実行に努めている人、言い換えれば〈誠実さ〉と切り結んできた人が関与している事例であることが、有効な議論を引き出しやすいように思われる。その意味で稲盛和夫と彼が行ってきた経営は、〈誠実さ〉はもとより〈利他〉や〈勇気〉等々、徳と結びついた経営哲学の研究にとって優れた素材になるはずである。
稲盛の経営哲学を研究することと、経営哲学(経営における倫理的徳目)を稲盛の哲学・言行を考拠として研究すること。稲盛和夫研究会・経営哲学研究分科会の役割はこの両面にあると言えるだろう。