稲盛和夫研究
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論文
創業期京セラと外部人材
―杉浦正敏の役割―
沢井 実
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2023 年 2 巻 1 号 p. 1-20

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Translated Abstract

Masatoshi Sugiura graduated from ceramics department of Tokyo Institute of Technology in 1939, then entered Nippon Electric Company (NEC). In postwar years he transferred to Kunitoyo Leather Company in 1948, again transferred to Nagoya National Industrial Research Institute (NNIRI) in 1953, entered Kyocera as a research director in 1963. He became managing director in 1964, then executive managing director in 1972, and retired from the company in 1975.

The purpose of this paper is to trace the trajectory of Sugiura from the 1930s to the 1970s, through which to consider his contribution to the technological development of Kyocera.

The launch pad by which Kyocera could grow from a ceramic standalone manufacturer to a globally famous ceramic applied products firm was success of the mass production of IC package for electric calculators. Research and development activities on ceramic materials led by Sugiura and researches on precision processing of materials for electronic parts demonstrated by Yuzo Arai who was also an external talent came from research institute of electrical communication of Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation, largely contributed to the development of new product, IC package by Kyocera which was also supported by the accumulation of production technology at the workshops and absorption of imported technology.

Expansion and deepening of in-house technologies by invitation of excellent external personnel was one of the technology strategies of Kyocera in its founding period. The first example of such a technology strategy was Sugiura’s entry in 1963. Kyocera’s patent application activities was accelerated from 1963. Of the 17 patent applications filed in the 1960s, in 13 cases Kazuo Inamori was the first name of inventors, and in eight cases we can confirm Sugiura’s name as a co-inventor. From this fact we can know the role of Sugiura in R & D activities and patent applications in Kyocera in the 1960s.

1. はじめに

1913年11月14日生まれの杉浦正敏は39年3月に東京工業大学窯業学科を卒業し、翌4月に日本電気に入社した。戦後の48年11月に国豊皮革に転じ、53年11月には工業技術院名古屋工業技術試験所に入所した。63年4月に京都セラミック(82年10月に京セラに改称)に研究部長として入社し、翌5月に常務取締役に就任した。72年11月に専務取締役、73年11月に取締役相談役に就任、75年5月に退任した(京都セラミック、1974b京都セラミック、1975京セラ40周年社史編纂委員会編、2000、51、394)。88年1月14日、杉浦は74歳にて永眠する。晩年の杉浦は伊豆美術祭実行委員長を連続6期務め、さらに池田美術館評議員も務めた(「杉浦正敏氏死去」、1988)。

大学卒業後、日本電気、国豊皮革、工業技術院名古屋工業技術試験所を経て京都セラミックに研究部長として入社した杉浦は電子管用フォルステライト磁器の製造方法に関する第一人者であり、1960年代前半にはステアタイト、フォルステライト、チタン、アルミナ磁器など無機絶縁材料の応用について民間企業を指導した。

一方京都セラミックでは1960年7月に本社の増改築がなったのを機に小さな研究室を設け、技術的・理論的問題は稲盛和夫が担当し、現場で生起したさまざまな問題については伊藤謙介(56年倉敷工業高校卒)や徳永秀雄(57年鹿児島大学工学部卒)らが取り組んでいた。研究用設備はまだほとんどなく、分析機器などは京都工芸繊維大学や京都市工芸所(66年に京都市工業試験場に改称)から借用した。京都セラミックにおいて研究部門が確立するのは、63年4月に工業技術院名古屋工業技術試験所第5部第2課の杉浦正敏課長を研究部長に招聘して以降であった(京セラ40周年社史編纂委員会編、2000、51)。

本論文では1940年代から70年代にかけての杉浦の研究活動の軌跡をたどり、杉浦の入社が京都セラミックの技術発展にいかなる意義を有したのかを検討してみたい。

2. 戦時中

1940年に発表された、釜萢善一との共同論文「ステアタイト系高周波絶縁物(テイソン一号絶縁物)の研究に就いて」において、杉浦は滑石を主成分として焼成されたセラミックスであるステアタイト(Steatite)が高周波用の碍子などに有用であるにもかかわらず、焼成温度範囲が狭いという制約があったため、その制約を緩和する方法について検討した。具体的には金属酸化物その他の添加量を種々変えることによって、焼成温度範囲の拡大に成功した。論文末尾に杉浦は「常時御懇篤なる御指導御鞭撻を賜はる丹羽保次郎、小林正次両博士に深謝し併せて筆者等と共にこの研究に従事せられ熱心に努力された現在名古屋帝国大学助教授小野満雄氏に謝意を表する」としている(釜萢・杉浦、1940、32)。

一方、酸化チタンを主成分とする磁器を誘電体とした蓄電器(酸化チタン蓄電器)は、誘電率が大きいこと、誘電体損失が僅少であること、高圧に耐え得ることなど、さまざまな利点を有しており、しかも原料が国内に豊富に存することから注目されていた。1941年発表の釜萢善一との共同論文「酸化チタン蓄電器に就いて」において、杉浦は酸化チタン蓄電器の諸特性の測定結果を報告した(釜萢・杉浦、1941、1–3)。

その後も杉浦のステアタイト絶縁物に関する研究は続いた。真空管内部用絶縁物としてステアタイトを使用すると、絶縁物自身のガス放出のためにその排気に長時間を要し、真空管製作当初の真空度が次第に劣化するなどの問題があった。そこで杉浦は各種の絶縁体を使用した場合における真空管の排気速度を比較測定し、その結果多孔質絶縁体が排気速度に好影響を与えることを確認した(釜萢・杉浦・清川、1941、42)。

3. 名古屋工業技術試験所時代

杉浦が戦時中に精力的に推進した酸化チタン・酸化亜鉛系磁器誘電体に関する研究の成果は、「酸化チタン・酸化亜鉛系磁器誘電体の研究(第1報)~(第11報)」として戦後になって11本の論文に結実した(杉浦・池田、1947~1949)1。本研究において杉浦は、誘電体損失、誘電率、絶縁抵抗、絶縁破壊電圧、機械的熱的強度など高周波用酸化チタン蓄電器誘電体としての要求事項を詳細に検討した(杉浦・池田、1949、70)。

1948年から53年の国豊皮革2時代には杉浦の研究成果を確認することはできないが、53年11月に工業技術院名古屋工業技術試験所・瀬戸分室に転じると、杉浦の研究活動はふたたび活発化した。杉浦は56年から57年にかけて「高周波絶縁物用合成透輝石磁器(1)~(3)」(杉浦ほか、1956~1957)、さらに57年から64年にかけて「高周波絶縁材料としてのホルステライト磁器」に関する一連の研究成果を『名古屋工業技術試験所報告』および『窯業協会誌』に相次いで発表した3

高周波電気絶縁用磁器としては従来からステアタイトが主であり、その原料は輸入に依存していた。そこで「高周波絶縁物用合成透輝石磁器」研究では、国内で簡単に入手でき、また品質を自由に調整できる合成透輝石をもってステアタイトを代替することを目的とした。透輝石の合成に当たっては、硅石、石灰石、海水マグネシアを主原料に、低火度で安定な鉱物を得るための鉱化剤の研究を行い、ステアタイトと比較して遜色のない製品が作られる可能性をつかむことができた(名古屋工業技術試験所二十五年史編集委員会編、1978、183)。1957年には「高周波絶縁物としては従来使用されているステアタイトの原料面よりの欠点と超高周波に対する特性、高温における絶縁性能の改善を目的として海水マグネシアを利用した透輝石の合成を行い、その成果が期待されている」(名古屋工業技術試験所編、1952、31)と評価された。しかし、合成透輝石磁器の作製には良好な結果を得たものの、焼成温度範囲が狭いという制約を突破することができなかった。ただし本研究は、同じ国産原料のみで製造でき、しかも高周波電気絶縁性に優れ、磁器化の容易なフォルステライト磁器研究への先駆的役割を果たすことになった(名古屋工業技術試験所二十五年史編集委員会編、1978、183)。

本研究の成果は、杉浦、石井英一、尾関光雄、加藤昌和の連名で「透輝石系高周波絶縁物用磁器の製造法」(特許番号225767号、1956年6月30日公告)として特許取得された。なお57年時点で杉浦は第6部(陶磁器)第2課(特殊陶磁器)長であった(名古屋工業技術試験所二十五年史編集委員会編、1978、5、100)。

ステアタイト磁器は原料タルクを輸入に依存し、品質管理も難しかった。一方、合成樹脂による絶縁材料の進歩にもかかわらず、高周波用セラミック絶縁材料に対する需要は大きく、そうしたなかで新しいセラミック絶縁材料の研究も現れてきていた。フォルステライト(Forsterite)に関する研究もそうした流れの一環であり、「高周波絶縁材料としてのフォルステライト磁器」に関する研究は、杉浦(58年7月から名古屋工業技術試験所第5部第2課長)を中心にして同工業技術試験所合成・珪酸塩研究室の佐野資郎、石井英一、平井道雄技官が共同研究として行ったものであった。また電子管としての実用試験は日本電気の電子管工業部の池田浤一らの協力によるものであった(杉浦、1958、34–41)。杉浦は実用化試験に関してはかつての共同研究者である池田の協力を仰いでいたのである。

1958年時点で杉浦は「フォルステライト磁器の問題点をすべて解決するためには従来の窯業製品について試みられた単なるtrial and error方式のみに依存せず、構成する結晶とそれらが集合して形成する微組織を深く掘り下げて探求しなければならないと信ずる。筆者らの研究はフォルステライト磁器が電子管用に供するときに遭遇するいろいろの困難を解決することを第一の目的として行っているものであるが、まだ未解決のものが山積して前途遼遠を痛感している」(杉浦、1958、40)とした。

しかしその後もマイクロ波技術の発展にともなってマイクロ波高出力管の開発要請がさらに高まるなかで、杉浦は電子管外囲器用としてのフォルステライト磁器の開発を精力的に推進し、佐野、石井、平井とともに実験を繰り返し行った。その過程で電子管外囲器用としてフォルステライトを用いる場合の絶対必要条件であるメタライズ性と微構造の関連が明らかにされた(名古屋工業技術試験所二十五年史編集委員会編、1978、183–184)。杉浦、平井、石井、佐野の共同研究はさらに進展し、その成果は前述の『名古屋工業技術試験所報告』および『窯業協会誌』掲載論文に結実した4

こうした研究の成果をまとめて、杉浦は博士論文「ホルステライト磁器の基礎的研究」を母校の東京工業大学に提出し、1961年12月15日に工学博士号を授与された(杉浦、1961)。

杉浦、平井、石井、佐野は共同研究を通して「出発原料の種類、原料組成比、添加物の種類及び量、合成温度、焼成条件等、さらに熱膨張係数の制御、熱衝撃抵抗の増大等用途に適した高周波絶縁材料としてのホルステライト磁器の製造条件を確立し、関係業界への指導も多く行」ったのである(名古屋工業技術試験所二十五年史編集委員会編、1978、184)。

いまこの時期の高周波絶縁材料に関する杉浦の民間企業に対する技術指導の内容を『工業技術院年報』から拾い出してみると以下の通りである。1960年7月から61年6月にかけて、杉浦は鳴海製陶に対して「ステアタイト、ホルステライト、チタン磁器等の製造方法を指導した。ステアタイトはタルク―バリウム―石灰系、ホルステライトは当所(名古屋工業技術試験所―引用者注)独自の合成法、チタン磁器はチタン―亜鉛系を指導した」。同社では「いずれも製品化し“ナルミット”という商品名で発売中」であった(工業技術院編、1962、57)。

また杉浦は1960年10月から61年4月に丸和合資会社に「高圧ガイシ、高周波用絶縁材料の製造方法を指導した」。続いて60年11月から61年5月にかけて杉浦・佐野・石井・平井、および野口長次の5名は松下電工・瀬戸工場に対して「ホルステライト焼結体につき、その製造方法を指導中」であり、同社では「松下関係の製品に採用する予定で試作中である。アメリカよりこれに関し、特許公告中のものがあり、これに触れない組成のものを製品化する予定であ」った(工業技術院編、1962、58)。

さらに杉浦は1961年6月から62年5月に鳴海製陶に対して「ホルステライト磁器、アルミナ磁器等高周波絶縁材料に関する一切の製造技術とくに金属との封着、メタライズについて指導」し、同社では製品として販売し、収益を上げていた(工業技術院編、1963、289)。また杉浦と野口は62年4月から63年3月に「松風陶業」に対して、「ホルステライト磁器の製造にさいし、海水マグネシア、けい石を原料として合成する場合の諸条件について指導」し、その結果同社では「電気的、機械的に安定でしかも均質なホルステライト磁器製品をえた」(工業技術院編、1964、291)。

杉浦、石井、佐野、平井の4名の共同研究の成果は、「耐熱性ホルステライト磁器の製造法」(特許番号413106号、63年5月15日公告)および「電子管用ホルステライト磁器の製造方法」(特許番号413108号、63年5月31日公告)といった二つの特許取得に結び付いた(名古屋工業技術試験所二十五年史編集委員会編、1978、329)5

フォルステライト磁器は熱膨張係数が大きく、電子管に使用される鉄ニッケルなどの合金の値に近似しているため金属との封着に都合がよく、さらに誘電体損失係数、高温での絶縁抵抗が他の磁器と比較して格段に優れているため、1958年現在で外国だけでなく、日本国内でも後述のように京都セラミックはじめ数社が製造あるいは試作を開始していた(杉浦、1958、36;佐野・杉浦・石井・平井、1963b、141)。

フォルステライト磁器に関する杉浦らの共同研究は、この分野における先端的な位置に立っていた。さらに陶磁器で利用する金線、銀線の技術(金、銀を用いた陶磁器の加飾、転写技法)を踏まえつつ、杉浦らはIC基板にセラミックスを使用することを提案した。彼らの呼びかけに応じたのは、愛知県の地元企業では日本特殊陶業と鳴海製陶であり、地元以外では京都セラミックがあった。参加した企業には名古屋工業技術試験所が指導員を派遣した。さらに1963年頃になると伝熱性のよいアルミナを使ったセラミック基板が実用化されていった(独立行政法人産業技術総合研究所中部センター・日本特殊陶業)。

こうした杉浦らの精力的な研究活動に注目したのが稲盛和夫であった6。稲盛がフォルステライト磁器の合成と製造技術の開発に見通しを得たのは1956年7月であったが、「窯業協会誌に工業技術院名古屋工業技術試験所(現・名古屋工業技術研究所)の杉浦正敏課長がフォルステライト磁器の合成に成功したという論文が載っているのを目にして驚いた」稲盛は、さっそく論文発表の当日、名古屋の会場に駆けつけ、自らの合成方法とは異なることを確認するとともに、これを機に約20歳年長の杉浦と知り合うことになった(京セラ40周年社史編纂委員会編、2000、25)7

1970年代に稲盛はフォルステライトの開発状況について、「1954年GE社のNavisが電子管外囲器用セラミック材料としてのホルステライトに関する製造実験結果を発表した。わが国においては、名古屋工業試験所のニューセラミックの研究グループ(杉浦等)が、1957~63年にわたり詳細な研究結果を発表し、別に京都セラミックK.K.が、独創的製造技術を打立てて量産体制を確立し、その用途も指導的に展開させた」(稲盛、1970、204)と指摘している。次に見るように63年の杉浦正敏の京都セラミックへの入社によって、フォルステライトをめぐる理論研究と量産化技術が合流することになるのである。

4. 京都セラミック時代

その後杉浦と稲盛は親交を深め、稲盛は「三顧の礼」をもって1963年4月に杉浦を研究部長に迎え入れ、翌5月に杉浦は常務取締役に就任した。さらに翌64年には名古屋工業技術試験所時代の杉浦の共同研究者であった平井道雄も京都セラミックに入社した(芝崎、11)8。杉浦と平井は京都セラミック入社後、主にセラミックIC基板の開発研究に従事し、セラミックIC基板が同社の主軸商品となる上で大きな役割を果たしたのである(産総研中部センター、中部センターバーチャルミュージアム)。

杉浦正敏の入社の意義は大きく、「セラミックスの開発に関する最先端の技術とノウハウを導入できたばかりか、体系立った理論によるアプローチも、稲盛と二人三脚で進められるようになった」。1964年1月、杉浦の発案で京都セラミックは、電子工業用マグネシア磁器を研究テーマにして、通商産業省鉱工業技術試験研究補助金および工業化試験補助金に申請し、64年度に550万円の補助金の交付を受けることができた。有名会社に伍しての補助金獲得が、京都セラミックの研究開発を加速することになったのである(京セラ40周年社史編纂委員会編、2000、51–52)9

なおこの時期の高周波絶縁用セラミック材料については、耕山菊郎「高周波絶縁材料と誘電体材料」が、ステアタイト磁器、フォルステライト磁器、アルミナ磁器、ベリリア磁器、マグネシア磁器の諸特性を解説していて有用である(耕山、1964、C217–C220)。京都セラミックの同業他社のうち日本特殊陶業がアルミナ技術で先行しており、その他はステアタイト一本槍といった状態だったため、後発の京都セラミックはステアタイトを避けてフォルステライト、アルミナ、ジルコンに注力した(青山、1987、44、51)。

杉浦は研究部長の地位に長くとどまった訳ではない。表1にあるように稲盛和夫の鹿児島大学工学部の二期後輩の徳永秀雄が65年4月に研究部長に就任しており(このとき徳永は31歳もしくは32歳)、杉浦の研究部長在任期間は2年間であった。1966年4月に京都セラミックはIBM向けIC用アルミナサブストレート(集積回路用基板)2,500万個を受注するが、このサブストレートが組み込まれるのがIBM社の大ヒット商品となった大型汎用コンピュータ「システム/360」であった。この難しい注文に対応するため京都セラミックは自動プレス機30台、大形電気炉2基、精度測定用万能投影機などを導入し、稲盛は「原料の調合から焼き上がり品の検査まで現場の仕事一切を監督し、特性を左右する素地に関しては杉浦が担当した」(青山、1987、185–186)。同年5月に34歳で社長に就任した稲盛は滋賀工場に泊まり込んで指揮をとったが、滋賀工場の寮の二段ベッドの上に稲盛が就寝し、「下段にはやはり京都に家があるはずの杉浦正敏常務が住み込んでいた」といった状況であった。研究部長職を離れた後の杉浦は滋賀工場で稲盛とともにサブストレートの生産に邁進した(稲盛、2004、102–104)。このサブストレートの生産は難しく、規格寸法通りの製品をIBMに納品したところ、素地が黄色味を帯びているためフォトトランジスタ(自動判別機)が反応せず合否判別ができないとのことであった。そこで「早速素地の担当者杉浦が研究し、調合をごろっと変えて、白色の素地に改め」、11月になってやっとIBMから合格の通知が届いた(青山、1987、189)。

表1  京都セラミックの役員一覧(1974年6月28日現在)
(1,000株)
氏名 役職名 生年 略歴 所有
株式数
稲盛和夫 代表取締役社長 1932 1955年鹿児島大学工学部卒、同年4月松風工業入社、59年4月京都セラミック取締役 5,639
上西阿沙 専務取締役 1921 1948年京都大学経済学部卒、同年松風工業入社、63年10月京都セラミック入社、貿易部長
66年5月同社取締役、68年2月京セラインターナショナル副社長、70年5月京都セラミック取締役
111
西田富三郎 常務取締役
総務経理担当
1925 1944年同志社経済専門学校卒、46年1月宮木電機製作所入社、61年1月京都セラミック入社、63年5月総務部長、66年5月取締役 119
安城欽寿 常務取締役
営業担当
1934 1960年東京経済大学経済学部卒、同年4月京都セラミック入社、69年8月京セラ商事取締役営業部長、70年10月京都セラミック営業部長、71年5月取締役 290
浜野義光 常務取締役
技術担当
1931 1953年金沢大学工学部卒、同年4月工業技術院大阪工業技術試験所入所、70年11月京都セラミック入社、中央研究所部長、72年6月商品開発研究所部長、同年11月取締役 6
稲盛利則 取締役
川内工場長
1929 1950年鹿児島実業高校卒、52年6月中塚実商店入社、55年4月同社専務取締役、69年2月京都セラミック入社、71年4月鹿児島工場長代理、72年4月鹿児島工場長、同年11月取締役 37
樋渡真明 取締役
川内工場長代理
1933 1957年鹿児島大学工学部卒、同年4月平安伸銅工業入社、59年4月京都セラミック入社、旧事業本部部長、71年5月取締役 192
山本正之 取締役
滋賀工場長
1935 1957年立命館大学理工学部卒、同年4月理研電具製造入社、62年10月京都セラミック入社、67年10月滋賀工場第2製造部長、70年4月滋賀工場電子部品事業部長、72年11月取締役 54
岡川健一 取締役
本社資材部長
1934 1958年高知大学文理学部卒、同年8月松風工業入社、59年4月京都セラミック入社、65年4月東京営業所営業部長、71年12月本社資材部長、72年11月取締役 177
青山令道 取締役 1932 1960年3月大阪大学工学部卒、同年4月京都セラミック入社、66年4月滋賀工場電子部品事業部長、71年1月フェルトミューレ京セラヨーロッパ電子部品(有)取締役、72年11月取締役 122
永井立昇 取締役 1931 1955年慶応義塾大学文学部卒、同年4月極東貿易入社、66年8月Far East Mercantile Corp.ロスアンゼルス駐在員、73年3月京都セラミック入社、京セラインターナショナル副社長、73年11月取締役 9
斎藤明夫 取締役
経理部長
1916 1938年和歌山高商卒、同年10月寿工業入社、67年5月京都セラミック入社、経理部長、71年1月滋賀工場長代理、同年9月経理部長、73年11月取締役 11
徳永秀雄 取締役
滋賀工場長代理
1933 1957年鹿児島大学工学部卒、59年4月京都セラミック入社、65年4月研究部長、70年4月滋賀工場総務部長、71年1月滋賀工場長代理、73年11月取締役 159
小山倭郎 取締役
国分工場長代理
1943 1965年姫路工業大学卒、同年4月京都セラミック入社、69年6月鹿児島工場セラミック事業部課長、73年4月国分工場長代理、同年11月取締役 20
杉浦正敏 取締役
相談役
1913 1939年東京工業大学卒、同年4月日本電気入社、48年11月国豊皮革入社、53年12月工業技術院入所、63年4月京都セラミック入社、常務取締役、72年11月専務取締役、73年11月取締役相談役 154
堀清彦 監査役 1916 1933年第一新港商業卒、同年4月藤本ビルブローカー証券入社、57年11月大和証券取締役、70年11月取締役副社長、71年11月京都セラミック監査役 46
青山政次 監査役 1902 1928年京都帝国大学工学部卒、同年4月松風工業入社、59年4月京都セラミック専務取締役、64年5月代表取締役社長、66年5月代表取締役会長、71年11月取締役相談役、73年11月監査役 229

[出所] 京都セラミック(1974a、5–7)。

1967年になると杉浦は京都セラミックにおける研究開発活動を統括する立場にいた。67年1月16日に行われた初めての経営方針発表会において、稲盛は「7日は研究会議です。これには1日費やします。議長は杉浦常務に担当していただきます。今後は非常に大きなウエイトを置いて研究を展開していきます」と述べた。さらに稲盛は「研究の中にはどうしても根本的に儲からない、基礎的な研究もあります。しかし、そうした研究は会社にとっては必要ですので、その扱いをどうするかという問題については、別途考えていきたいと思います。今まで製造では時間当りを出してきましたが、研究部門でも時間当りを出そうと思います」と抱負を述べた(「昭和42年度 経営方針発表会―月産2億円、時間当り1500円達成へ向けて」、12–13)。

一方で杉浦の研究活動は続き、共同論文(井田・新井・福田・鈴木・稲盛・杉浦・徳永、1967a)、(井田・新井・福田・鈴木・稲盛・杉浦・徳永、1967b)、(井田・新井・福田・稲盛・杉浦、1968)を相次いで発表した。このうち前者の2本の論文は日本電信電話公社電気通信研究所の研究者4名と京都セラミックの3名の共同論文であるが、執筆者順序は井田一郎(日本電信電話公社電気通信研究所)・新井湧三(同左)・福田満利(同左)・鈴木誠(同左)・稲盛和夫(京都セラミック)・杉浦正敏(同左)・徳永秀雄(同左)となっていた。64年8月から京都セラミックは日本電信電話公社電気通信研究所との間でセラミックスの鏡面研削についての共同研究を開始していたが(京セラ40周年社史編纂委員会編、2000、433)、上の3論文はその成果であった。

「セラミックの焼成温度と構造特性の関係(第1報)」論文の冒頭に、「成形後高温で焼成されるセラミックの寸法や材質の管理は一般に困難である。これは原料や粉末化、成形、焼成等の製造履歴に著しく支配されるからである。したがって回路部品等に用いるセラミックの精密加工技術を確立するにあたっては、1次加工に起因する材料の諸特性を明らかにした上で、2次加工条件を規定する必要がある。そこで、代表的な回路部品用セラミックであるステアタイト、フォルステライト、アルミナ(『高、低』)およびムライト(中略)を選び、焼成温度の変化に伴う材料組織・物理的、機械的性質の差、さらに2次加工に直接関与する微視的構造のちがいについて検討した」(井田・新井・福田・鈴木・稲盛・杉浦・徳永、1967a、19)として、回路部品等に用いるセラミックスの精密加工技術に関する基礎研究の意義が強調されている。

本論文の共同執筆者の井田一郎と新井湧三は日本電信電話公社電気通信研究所工作研究室において長年にわたって電子部品用材料の精密加工、高精度仕上加工の研究を推進してきた研究者であったが、新井は1967年に電気通信研究所の部品材料研究部材料加工研究室研究主任から京都セラミックに転じた(新井・井田・福田・鈴木、1967、20;新井・井田・古本、1967、187)。杉浦正敏、平井道雄に続いて新井が入社することによって、京都セラミックはセラミック材料および電子部品用材料の精密加工に関する先端技術を獲得することができたのである。69年7月7日現在の中央研究所の幹部は青山よしみち(政次の子息、前掲表1参照)、新井湧三、平井道雄の3名であり、杉浦はマーケティング、社長室担当であったが、10月28日付で杉浦は機械加工事業本部担当、青山は電子部品事業部担当に変わった。急成長を続ける京都セラミックの組織改編は激しく、杉浦もさまざまな業務を担当した(青山、1987、333–334)。

また稲盛和夫の卒業論文「入来粘土の基礎的研究」の指導教官であった島田欣二(稲盛、2004、52)の「低誘電体損ワラストナイト磁器の研究:第1報 低温焼成ワラストナイト磁器の性質」論文は、エレクトロニクス分野で要望されていた超低誘電体材料の開発を目的として、ワラストナイトを主要鉱物とする高周波絶縁材料磁器に関する基礎研究であった(島田、1965)。論文末尾で、島田は「貴重な助言をいただいた本学部(鹿児島大学工学部―引用者注)川畑清忠先生、京都セラミックKK杉浦正敏研究部長に深甚の謝意を表します」(島田、1965、92)と記した。

表2は1967年時点の無機絶縁材料メーカーを一覧したものである。このなかでも電子工業用無機絶縁材料にもっとも注力していたのは京都セラミック、鳴海製陶、日本ステアタイト、日本特殊陶業の4社であったが、先に見たように日本ステアタイトを除く3社は杉浦ら名古屋工業技術試験所の研究者の指導を受けた企業であった。点火プラグという主軸商品を有する日本特殊陶業、食器生産から出発した鳴海製陶とは異なり、京都セラミックは正しく表2に表掲された各種セラミックスの応用可能性を拡大することに社業すべての将来をかけていたのである。69年頃の状況について「セラミックの分野では京セラより先行していた同業他社、たとえば村田製作所や日本特殊陶業などが、当時それぞれの業容の中心であったコンデンサなどの電子部品、あるいは自動車用の点火プラグの生産に忙しく、LSI用パッケージ分野、特に米国市場の変化に疎かったことが京セラに幸いした。これに対し京セラは、企業も若く日本ではその実力をあまり認められていなかったため、先端市場である米国での実績づくりに熱心であった(中略)米国での半導体メーカーをつかんだことにより、米国より四~五年遅れて半導体の開発、生産が盛り上がってきた日本の半導体メーカーにも比較的スムーズに納入が認められ、ここでも他社に先行してシェアを確保できた」のである(「半導体産業 影の主役たち 京都セラミック」、1982、93)。

表2  電子材料・無機絶縁材料(1967年)
社名 材料・用途
京都セラミック アルミナ磁器:能動素子ヘッダ、薄膜回路用サブストレート、集積回路パッケージ、電子管外囲器、シリコン整流器ケース、ハーメチックの端子
フォルステライト磁器:薄膜回路用サブストレート、集積回路パッケージ、電子管ステムおよび支持板、被膜抵抗用コア
ステアタイト磁器:電子管用ソケット、ベース、コイルボビン、端子類、光導電体用セルベース
ジルコン磁器:巻線抵抗ボビン、光導電体用セルベース、被膜抵抗用コア、耐熱絶縁物
マグネシア磁器:シーズピース、ナトリウムランプ、高温用絶縁物、電子管用絶縁物、半導体用絶縁物
ベリリア磁器:パワートランジスタ用基板、薄膜回路用サブストレート、集積回路パッケージ、高周波管用ウインド
コージライト磁器:耐熱性絶縁物
ムライト磁器:炭素被膜抵抗用コア(ち密)、高温治具(特殊組成)、耐熱材料
マルチフォームガラス:ブラウン管用サポート
三笠電機製作所 ステアタイト磁器、アルミナ磁器の各種ベース、端子板、碍子、ソケット、真空管用インシュレータ、ボビンなどの素体、金属加工部品など。
村田製作所 ステアタイト:ブッシング、ソケット、ボビン、端子、ベースなどに使用。
鳴海製陶 アルミナ、フォルステライト、ステアタイト、コージライト、マグネシア、スピネル磁器などセラミック全般を生産。電子管部品、高周波絶縁物、集積回路、トランジスタなどのパッケージ・ステムなど。
日本ステアタイト アルミナ磁器:各種絶縁物
フォルステライト磁器:電子部品用、各種絶縁物用、回路部基体用
ステアタイト磁器:各種絶縁物用
コージライト磁器:耐熱衝撃用
マグネシア磁器:高温絶縁物用
ジルコン磁器:高周波用、耐摩耗用
日本特殊陶業 高アルミナ磁器およびメタライズ加工を施したセラミックシール部品、ジルコンコージライト磁器
日本碍子 グラスセラミック、ベリリア磁器、アルミナ磁器、ステアタイト磁器、碍子、コージライト磁器、ジルコン磁器
沖電気工業 碍子、無機絶縁用セラミック
理化電子工業 各種セラミックスの指定基板または支給基板の平行平面研摩・穴あけ加工
東京芝浦電気 マイカレックス
友玉園製陶所 アルミナ、ステアタイト、フォルステライトなど各種高周波絶縁用碍子

[出所] 「電子材料・無機絶縁材料」(1967、142–143)。

1971年4月に杉浦は業績題目「電子工業用精密セラミックスの研究開発」によって日本セラミックス協会技術賞を受賞し、続いて75年5月に稲盛が「精密セラミックスの製造に対する技術的貢献」で同賞を受賞した(「日本セラミックス協会技術賞受賞者一覧」)。

「新しく行っているベータアルミナハンディ。実は常務(杉浦―引用者注)に2、3社回っていただいて、少量でありますが、日本電池、松下から注文が入っているようです」(「昭和47年度経営方針発表会―月商10億円を達成してハワイへ行こう」、53)といったように1971年の杉浦はトップセールスを行っていた。また72年度の経営方針発表会において、稲盛は「今回、私と杉浦、浜野(70年11月に工業技術院大阪工業技術試験所から入社―前掲表1参照)、この3人が持っているセラミックの技術を使って、営業第1開発グループを私、第2開発グループを浜野、第3開発グループを杉浦、その下に一般の開発グループがつきます。これで今後の新しいアプリケーションを行っていきますが、これはまだ、私達だけの技術力では遠く及ばないと思います。我々が目指す市場はより奥の深いもので、より広い範囲になりますので、今後、例えば機械のエンジニア、化学装置のエンジニアなど、より幅の広い技術屋を結集して、営業の販売戦略の一環として、応用技術の開発に取り組まなければならないと思います」として、稲盛、浜野義光、杉浦を中心とした、営業に直結した応用研究の強化、セラミック以外の分野への展開を展望した(「昭和47年度経営方針発表会―月商10億円を達成してハワイへ行こう」、61)。

1970年代に入ると杉浦は研究開発の第一線からは次第に離れ、トップセールスの一翼を担ったり、稲盛、浜野とともに営業に直結した開発グループを統括する業務に従事した。しかしその一方で74年には共同論文「高アルミナ スレッドガイド」を発表している(杉浦・吉田、1974)。紡績、織布など繊維加工全般にわたって重要な役割を担う高アルミナ・セラミックのスレッドガイドの諸特性について解説した後、「セラミック製品の製造については、その使用原料及びいろいろの工程について、厳密な管理を行うことが、きわめて重要であり、常にミクロ的な視野で高度の測定技術を駆使することが重要である」(杉浦・吉田、1974、52)と結んでいる。

1972年11月に専務取締役、73年11月に取締役相談役に就任した杉浦は75年5月に京都セラミックを退任する。前掲表1にあるように74年6月時点での杉浦の持株数は15万4,000株に達していた。役員のなかで稲盛和夫を除けば、安城欽寿、青山政次、樋渡真明、岡川健一、徳永秀雄に次ぐ持株数であった。74年2月に東証第2部、大証第2部からの指定替えによって京都セラミックは各第1部への上場を果たした。75年9月23日京都セラミックの株価は2,990円を記録し、76年3月には5,470円をつけた(京セラ40周年社史編纂委員会編、2000、126)。杉浦の京セラ在職期間は12年余であったが、同社は杉浦の貢献に対して十分に酬いたといえよう。青山政次によれば独立心旺盛でプライドの高い杉浦について入社当初は20歳年下の稲盛も「よう使っていけない」とこぼすこともあったというが、先に見たように65年3月にはふたりが滋賀工場の寮の同室に泊まり込み、IBM向けサブストレートの生産に邁進する経験を共有するなかで、杉浦は「稲盛を無条件で信頼し死に場所を得たと喜び、働きがいを感じ」るようになったという(青山、1987、229)。

京セラインターナショナル・インク(Kyocera International Inc. 1969年7月設立)の長谷川桂祐(67年7月京都セラミック入社)らによると、「京都セラミックは、創立時TV部品メーカーであったが、社長の方針によりセラミックの成長性に着目、6~7年前(68~69年―引用者注)に一世を風びしたフェアチャイルドのセラミックトランジスター技術を導入、これに京セラのセラミックとメタルの接合技術を加え、さらにアメリカから、アルミナ粉末のテープ状成型技術を導入、ラミネーション技術(積層技術)を自社開発し、1970年にLayerパッケージを開発、業界での地位を確固たるものとした」(通産省産業資金課、1975、187)。

稲盛和夫によると、セラミック多層パッケージの製造工程は、(1)セラミックスのテープ成形、(2)導電パターンの印刷、(3)重ね合わせ、焼成、(4)鑞付け、金メッキからなり、京都セラミックでは「テープ成形技術は全く未開拓であったため、成形装置の開発、有機質結合剤の開発、副次添加物と溶剤の選択に膨大な基礎研究が必要であった」(稲盛、1972、74)。ここではテープ成形技術が自社で開発されたことが強調されている。こうした努力の後、1972年2月、京都セラミックは初の応募で「大規模集積回路用セラミック多層パッケージの開発」によって大河内記念生産特賞を受賞した(京セラ40周年社史編纂委員会編、2000、102)。

1968年10月にフェアチャイルド社から「セラミックパッケージの製造およびその応用に関する技術」(サーディップパッケージのグレーズ[ガラス塗布]技術)を導入し、サーディップパッケージの量産化に着手した京都セラミックは翌69年に同社からLSI用のマルチレイヤー型パッケージの開発依頼を受けた。36歳の青山令道ら3名の技術者が打合せのために同社に派遣され、畳2畳分くらいの大きさの図面を渡された。5月には青山をチーフにして20・30代の7~8人のチームが編成され、3カ月後の8月に製品化を実現した。同月に京都セラミックはアメリカン・マイクロシステムズ社(American Microsystems, Inc.)から電卓用ICのマルチレイヤーパッケージ(フラットタイプ)を受注した(京セラ40周年社史編纂委員会編、2000、97–99、434–435;加藤、1979、253)。ICパッケージはアルミニウムの酸化物であるアルミナを薄く延ばし、その表面に導電のパターンを印刷して焼結したものであったが、何枚か重ねて焼いたものが多層(積層)パッケージであり、このICパッケージが1970年代の京都セラミックの主軸商品に成長するのである10

しかし当初はIC用マルチレイヤーパッケージの生産は困難を極めた。1970年1月から鹿児島(川内)工場で量産を開始したものの返品が続き、電子部品事業部だけで毎月2,000万円、3,000万円の赤字が続いた。杉浦常務からは「こんなに皆が一生懸命頑張っても出来ないし、欠損欠損では、やるだけ無駄だからあきらめたらどうですか」という意見が出されたという。しかし稲盛はあきらめず、発破をかけ続けた。担当者が青山令道から浜本昭市に替わり、70年後半に好転の兆しが見え、次に樋渡真明に替わって71年度には赤字を脱却することができた(青山、1987、343–347)。

1974年時点で電子部品用材料であり、ニューセラミックスの主流であったアルミナ磁器において京都セラミックは圧倒的なシェアを有した。電子工業用の高級アルミナ磁器を生産している企業としては、京都セラミック、日本碍子、日本特殊陶業、鳴海製陶の4社があったが、京都セラミックの国内シェアは約70%といわれた。日立製作所、日本電気、東芝などの大手電子機器メーカーはかつては自社生産を行っていたが、高級品は採算が取れないため外部購入に切り替えており、この分野での京都セラミックの存在感は大きかった(「競争時代到来で試される京都セラミックの超高収益力」、1974、84)。60年代の京都セラミックは前掲表2で見たようにセラミック単体の販売が主流であったが、70年代に入ると製品の金属加工度を高める方向が定着し、応用製品が主体となった。その中心となったICパッケージは上で見たように生産開始当初は赤字続きであったが、大手ICメーカーが電卓のIC化需要をバネに飛躍を遂げるとそれが追い風となった。そうしたなかで輸出が急増し、京都セラミックの輸出比率は70年9月期20%弱から74年3月期には60%に急上昇した(「競争時代到来で試される京都セラミックの超高収益力」、1974、84–85)11

1971年1月発表の「昭和46年度経営方針」において、稲盛は「当社には、不況下にも引続き受注の増大を期待できるLSIパッケージがあります。鹿児島工場で一年がかりで量産化に成功し、不況の直前に間に合ったことをみなさんとともに喜びたいと思います。みなさんの苦心の成果が、この不況を乗り切る強力な武器になってくれることを確信しています」と述べた(『敬天愛人』、1971)。京都セラミックがセラミック単体メーカーからセラミック応用製品企業へと飛躍するうえでICパッケージの果たした役割はきわめて大きかった。

杉浦正敏や平井道雄のセラミック材料やメタライズに関する研究、新井湧三の電子部品用材料の精密加工に関する研究は、京都セラミックが基礎技術を蓄積し、導入技術を消化しつつ自社技術、工場での製造技術を蓄積して画期的な新商品・ICパッケージを開発していくうえで大きな役割を果たした。優秀な外部の技術者を招聘することによって自社技術の拡大深化を図ることは、その後も京都セラミックの技術戦略の一つであった。1970年度の経営方針発表会において、稲盛は「本年は、新しくプラスチック事業部を発足させます。住友ベークライトの徳永係長が新しく入社されます。増崎君と一緒になってプラスチック部門を結成し、プラスチックの工業化へ進もうと思います。私自身が直接担当していきます」と期待を語っている(「昭和45年度経営方針発表会―永続的に発展していくための3つの条件」、1970、34)。

前掲表1にあるように1953年に金沢大学工学部を卒業後、工業技術院大阪工業技術試験所に入ってアルミナ研究などでさまざまな業績を上げた浜野義光が70年11月に入社し、中央研究所部長に就任し、72年6月には商品開発研究所部長に就任した(専務取締役退任は91年6月)。さらに58年に北海道大学理学部卒業後、東芝、日本電子を経て74年7月に入社した丸山哲男は77年6月に取締役に就任した(専務取締役退任は81年8月)。また46年に東京大学工学部を卒業後、真崎産業、富士通を経て77年3月に入社した古橋隆之は同年6月に常務取締役(技術担当)に就任した(常務取締役退任は85年6月)(京都セラミック、1980、5;京セラ40周年社史編纂委員会編、2000、394–395)。

1959年設立の京都セラミックは若い企業であり、企業規模の急拡大が続くなかで技術人材の不足は否めなかった。外部人材を取り込み、自社技術の拡大深化を図ることは京都セラミックの技術戦略の一支柱であり、そうした戦略展開の最初のケースが杉浦正敏の63年4月の入社であったといえるだろう。

最後に1960年代における京都セラミックの特許出願状況を見ると、表3の通りである。京都セラミックの最初の特許出願は「ガラス焼結体の製造方法」(63年7月6日出願)であり、発明者は稲盛和夫、徳永秀雄、伊藤謙介の3名であった。59年4月の会社設立からこの時期まで京都セラミックは安定した生産体制の構築に追われ、技術開発の成果を特許出願につなげる活動は63年以降であった。表3からは、第1に17件の出願特許のうち発明者の筆頭に稲盛和夫がくるものが13件、第2に「半導体装置用セラミックステムの製造法」(63年10月16日出願)以降「電子部品用着色セラミックス」(68年10月8日出願)までの8件の共同発明者に杉浦正敏が入っていること、第3に杉浦と並ぶ8件の特許の共同発明者が平林正也(稲盛が松風工業に入社したときの研究課長、京都大学卒、後に京都セラミック入社[加藤、1979、129])であったこと、第4に70年代に主力製品に成長する集積回路用パッケージの発明者が稲盛和夫、その製造法の発明者が稲盛、青山、酒井一成の3名であり、杉浦は関与していないことが確認できる。以上のように63年4月の入社以来、68年にかけて杉浦は草創期の京都セラミックの技術開発を主導し、その成果を特許出願につなげていったのである。

表3  1960年代の特許出願(京都セラミック)
特許 出願日 発明者
ガラス焼結体の製造方法 1963年7月6日 稲盛和夫、徳永秀雄、伊藤謙介
半導体装置用セラミックステムの製造法 1963年10月16日 稲盛和夫、杉浦正敏、徳永秀雄
高周波絶縁材料 1964年1月16日 稲盛和夫、杉浦正敏、西郷功
高熱伝導性磁器 1964年9月16日 稲盛和夫、杉浦正敏、徳永秀雄、白井清英
セラミック表面処理方法 1964年12月30日 稲盛和夫、杉浦正敏、西郷功
トランジスタ用ヘッダ及びその製造方法 1965年8月6日 稲盛和夫、平林正也、青山令道
鋳造用中子 1965年10月18日 稲盛和夫、杉浦正敏、西郷功
自釉化磁器 1965年12月2日 稲盛和夫、平林正也
鋳造用中子 1966年4月2日 杉浦正敏、平林正也
抄紙機用支持機構 1967年7月22日 稲盛和夫、杉浦正敏
電子部品用着色セラミックス 1968年10月8日 杉浦正敏、平林正也、後藤純正
精密鋳造用中子 1968年10月18日 稲盛和夫、平林正也、北大路季正、井前文宏、岡田健
集積回路用パッケージ 1968年11月6日 稲盛和夫
鋳造用中子 1969年2月22日 平林正也、柴田武夫
セラミックフィルタ 1969年5月6日 大林博、平林正也
鋳造用セラミック中子 1969年9月19日 稲盛和夫、平林正也、井前文宏
集積回路用パッケージの製造法 1969年10月31日 稲盛和夫、青山令道、酒井一成

さらに表3には「鋳造用中子」、「精密鋳造用中子」、「鋳造用セラミック中子」が合計5件登場する。複雑な形状の鋳造に不可欠な中子についてくり返し特許出願されており、製造技術、現場技術の核心の一つが中子にあったことを物語っていたといえよう。

5. おわりに

1971年1月17日に開催された「昭和46年度経営方針発表会」において、稲盛はマルチレイヤーパッケージをめぐる同業他社の動向について触れたうえで「マルチレイヤーパッケージは、京セラだけが独自の技術で開発して、国産をやり遂げました。現在、マルチレイヤーパッケージは、日本特殊陶業が米国の会社から技術を導入して開発、企画をしています。同じく、富士通の子会社の新光電気も海外から技術導入して国産化を図っています。(中略)鳴海製陶もアメリカラバ社から技術導入していて、山口県に工場を造っています。どの会社も、膨大なお金を使って米国から技術導入しています。我々だけが国産技術で完成させ、いち早く国内で量産に成功しました」(「昭和46年度経営方針発表会―目標完遂への情熱を燃やす」、1971、39)とマルチレイヤーパッケージ量産化の意義を強調した。

たしかにフェアチャイルド社からの図面提供などを別にすれば、京都セラミックはマルチレイヤーパッケージの量産化を自力で達成した。この自社技術、国産技術の開発は青山令道らのグループが先鞭をつけたとはいえ、同時に量産化移行後の不安定な製品品質を安定化させた工場レベルでの製造技術の蓄積も見逃せない。しかし自社技術、製造技術の蓄積の前提条件として、杉浦正敏や平井道雄のセラミック材料に関する長年にわたる研究、新井湧三の電子部品用材料の精密加工に関する研究があったことを忘れるわけにはいかない。京都セラミックは継続的に外部から技術者を招聘することを通して自社技術の拡大深化を図ってきたのである。

1975年5月に京都セラミックを離れた杉浦は78年に「今から約40年前、学校を卒業してから、電子工業会社、国立試験所、そしてセラミック専門メーカーなどで、冷たく、硬く、そして欠陥のない、いわば陶磁器の優等生ともいうべき、ファインセラミックス―ニューセラミックス―との取り組みが私のすべての仕事であり、情熱であった」と述べたうえで、「深く掘り下げた研究と、最善と思われる設備と、更にこれを管理し、あるいは製造にたずさわる人間の高い感受性と綿密な注意力による産物がファインセラミックスである」と指摘した(杉浦、1978、400)。研究開発、生産設備、現場の製造技術、この三者の協働の産物がファインセラミックスであるという確信、これが40年にわたるセラミックスとの格闘のなかから得た杉浦の結論であった。

その杉浦が「ファインセラミックス業界の第一線から徐々に後退しかけた頃から」、「母なる陶器の世界に無性に引き寄せられたのは、不均一、欠陥の美しさをもつ、温かく、軟らかい“やきもの”への郷愁にほかならな」かった。61歳で京都セラミックの取締役相談役を退任すると、杉浦は本格的に陶器の世界に没入していった。名古屋工業技術試験所時代に窯業技術連絡会議があったため、杉浦は国内の窯場をほとんど見ていたが、それらを再訪した(杉浦、1978、400–401)。

作陶に関して、最初は京都のマンションのなかで小型電気炉を使って焼いたりしたが、その後思い切って伊豆の伊東に土地を求め、陶房を建てた(杉浦、1978、401)。冒頭に見たように晩年の杉浦は伊豆美術祭実行委員長を連続6期務め、さらに池田美術館評議員も務め、美術、陶器の世界と向かい合った。

(1)  本研究は1946年10月19日に一括して受け付けられ、47年から49年にかけて分割して『窯業協会雑誌』に掲載された。

(2)  詳細は不明であるが、国豊皮革産業は1949年現在で東京都南多摩郡元八王子村に所在し、従業者規模は4~49人層に属する中小企業であった(商工省編、1949、化学工業55)。

(4)  そのなかの前掲(佐野・杉浦・石井・平井、1963b)の内容の一部は、1961年11月の化学関係学協会連合秋季研究発表大会において発表され(佐野・杉浦・石井・平井、1963b、129)、前掲(佐野・石井・平井・杉浦、1963)の内容は、62年6月の窯業協会大阪支部学術講演会において発表された(佐野・石井・平井・杉浦、1963、236)。

(5)  この2件の特許取得の前に、4名は「高周波絶縁用マグネシア―シリカ系磁器の製造法」(特許番号291987号、1961年9月18日公告)の特許も取得した(名古屋工業技術試験所二十五年史編集委員会編、1978、329)。

(6)  (稲盛、1958)において、稲盛はアルミナの焼成温度の引き下げ、それを可能にする原料粒度の微小化に関する実験を紹介した(稲盛、1958、25–26)。

(7)  稲盛が注目した論文には『窯業協会誌』に掲載された前述の諸論文だけでなく、『名古屋工業技術試験所報告』に掲載された前掲論文14本が含まれていたものと思われる。

(8)  昭和30年代に名古屋工業技術試験所から産業界に転出した研究者は17名に上り、そのなかで複数の研究者を迎え入れたのは豊田中央研究所3名、京都セラミック2名であった(芝崎、7–8)。

(9)  杉浦、平井が転出した後の名古屋工業技術試験所においても、佐野資郎、石井英一らはマグネシア磁器の研究を進めた(佐野・加藤・石井・伊賀、1964)。

(10)  セラミックパッケージにはサーディップ型とマルチレイヤー型(積層型、ラミネート型)があり、前者は組立が比較的簡単で量産しやすく単価も安いのに対して、後者は「セラミックを薄いテープ状に成型し、これに直接回路をメタライズ印刷し、これを複数枚数積層後に一体焼結して内部配線と外部配線を形成、これに外部リード線と金属ロー付けした後、中央部のシリコンチップを載せる部分に金メッキをほどこしたもの」であった(「半導体産業 影の主役たち 京都セラミック」、1982、92)。

(11)  京都セラミックの従業員数は1969年の850名が70年には1,260名に増加するが、うち350名は川内工場のパッケージ生産のための要員であった(加藤、1979、252)。

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