稲盛和夫研究
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論文
創業直後期京都セラミックの営業実態
沢井 実
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2024 年 3 巻 1 号 p. 1-15

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Translated Abstract

In later years, Kazuo Inamori recalled the founding period of Kyocera, “we took on the ‘impossible’ and said ‘We can do it,’ and kept on doing it until we actually could do it. It may be a reckless ‘stretching’ to create the possible from the impossible. However, it was this reckless ‘stretching’ that led to the development of Kyocera’s technological capabilities, the creation of achievements, and the paving of the road to success”. The conditions regulated the ‘stretching’ which make the impossible into the possible should be examined in much broader context.

It was Kazuo Inamori and Masaji Aoyama, who were at the forefront of the sales activities, who carefully determined if it was ‘feasible impossible’ or not. Their ‘instincts’ as engineers must have supported their careful judgment. Naturally, they did not take on everything, and there were times of business negotiation when they immediately refused. Inamori and his team developed their sales activities while carefully examining the potential of Kyocera, in other words, the room for growth.

The potential to achieve goals is not something that is fostered only within the company. The Japanese electronics industry itself was an emerging industry in the 1960s, and unsolved problems existed everywhere. There were many counterparts in the trading network with whom to work on technological issues. Kyocera was nurtured within this trading network. Mentors for learning technology were not only in the trading network, but also in universities, academic societies, and the place like the Telecommunications Research Institute of Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation.

1. はじめに

創業直後期の京都セラミックの営業実態について、稲盛和夫自身が10数年後に「『こんなものがあったら助かるんだがなあ、といった品物はございませんか』―会社設立のころ、稲盛さんはこんな調子でこれと目をつけた会社を歩き回った。製品のセールスなんていうものではない。ご用聞きである。『注文が出たら絶対断わらない。技術的な裏付けがハッキリしていなくても“やりましょう”と引き受けて来る。会社に信用がないから断わったらそれで縁が切れる。だから引き受ける。引き受ければやらざるをえない。ダメでしたではもう相手にしてくれない。必死に技術開発をし、納品する。ダメだったのは一つだけ』。わが国有数の電子工業会社の新方式のカラーテレビ用ブラウン管の支持絶縁物を一手に引き受けるようになった時もこんな調子だった」(三石、1973、113)と回顧した。

「34年春、発足当時はスタッフも含めて28人。単なるセールスではどこでも門前払い。そんな苦労の中で編み出したのが“ご用聞き”だ。このご用聞き商法で自らを窮地に追い込み、全力投球ではい出し、はい上がる。そこに新しい技術が生まれ、確固たる信用という資産が積み重なる」(三石、1973、113)と評された。表1にあるように創業期の京都セラミックの業績は順調に推移したように見える。こうした業績をもたらした営業の実態はいかなるものであったのか。不可能を可能にするような“ご用聞き”商法の実態はどのようなものであったのか。小論では稲盛が記した『直筆手帳』の記録を手がかりにして創業直後期の京都セラミックの営業実態を検討してみたい。

表1 

創業期京都セラミックの経営業績

(万円、人)
期別 売上高 経常利益 当期利益 従業員数
1960年3月期 2,627 324 187 36
61年3月期 4,987 791 382 56
62年3月期 8,073 1,125 479 87
63年3月期 11,913 2,325 1,129 105
64年3月期 16,136 1,841 1,056 160

[出所]京セラ40周年社史編纂委員会編(2000、38)。

(注)従業員数は期末現在。

2. 創業直後期の主要顧客と市場開拓

1959年4月1日創立の京都セラミックの初期の市場基盤について、青山政次1は次のように証言している。

稲盛は松風時代に松下電子より受注していたテレビのブラウン管部品ケルシマを、どうしても松下が毎月発注している半分をもらわなくてはならないと考えた。そこで新会社をつくることを松下電子の購買主任にうちあけて、ぜひ協力して欲しいと申し入れた。そのときすでに松下は毎月四十万本発注していたので、その半分二十万本を、松風での単価十円を九円に下げて、発注してもらえる確約を取りつけたのである(青山、1987、33)。

松下電子工業からのU字ケルシマ2毎月20万本、180万円があったため京都セラミックは最初の月から利益を上げることができた。さらに翌5月になって松下電子工業からカソードチューブ(陰極管)3の製作依頼があった。アルミナ100%のチューブであり、毎月5~10万本発注するという商談であった。稲盛は小さなモリブデン炉を苦労して作り上げ、従来からのフィリップス社製の輸入品を代替することができた(青山、1987、41–42、46)。

青山によると「創業から半年くらいは、松下電子のケルシマとカソードチューブが主体で、他にヤギシタ電機のホーロー抵抗器用櫛型と、チューブくらいのものであった。しかし更に受注を拡大するために、関西・関東の電子メーカーに見本をさげて、大抵稲盛と二人で売り込みに出かけ、一社より、五千円、一万円という小さな注文をもらって、受注を拡大していった」。さらに1959年10月の東京出張の折、ソニーに出かけると技術課長から「君の所はアルミナ磁器が出来るのかと言われ、アルミナディスクの直径七ミリで厚さ〇・六ミリ、小さな穴四つ、中央にスリット、縁に切り込みのある、難しそうな製品を簡単に三千個発注すると言われた。ただし、納期二カ月、将来大量に必要となるので、単価十円以下でないと流せない、と言われた。即座に単価九円八十銭、金型代を入れて四万円で受注した。(中略)松下とヤギシタ以外で初めてとった注文を、天下のソニーからもらったので天にも昇る気持であった」という。この製品も苦心惨憺のうえ納入できたためソニーの信用を得ることができ、以後ソニーは従来からの取引先を止め、京都セラミック一辺倒となったという(青山、1987、46–48)。

一方U字ケルシマがマルチフォームガラス4に切り替わることを見越して、京都セラミックでは1960年3月にアメリカのマルチフォームガラスを入手して分析し、研究を始めた。61年1月にマルチフォームガラスが出来上がり、U字ケルシマを納めていた関係から、松下電子工業では京都セラミックのマルチフォームガラスに切り替えた。松下電子工業および三菱電機からのマルチフォームガラスの発注が増加すると、自社のルツボ炉では賄いきれず、京都セラミックは大阪のガラス工場の溶融炉を借りてカレットを製造した。そんな折、日本電気硝子からの申し出を受けて、同社と京都セラミックとの間で62年1月に、(1)製造は京都セラミックが担当し、販売は原則として日本電気硝子が担当するが、松下電子工業と三菱電機については今まで通り京都セラミックが販売を担当する、(2)カレットは日本電気硝子が京都セラミックに支給するという内容の協定書が締結された。しかし63年2月には両社協議の結果、マルチフォームガラス全量を京都セラミックが販売することになった。その結果、松下電子工業、三菱電機だけでなく、関東の日立製作所、東芝、コロンビア、ソニーにも販売するようになり、一時は国内需要の85%以上を京都セラミックが独占することになった(青山、1987、70–72、106–108)。

「ニューセラミックの用途が、今後どの方面に伸びるものか、まだまだ見当のつかない五里霧中の時代である。つくってくれと頼まれれば、何でもつくるという主義でやってきている」なかで、大阪の河野紡機(紡機とともに糸道ガイドを販売)からアルミナ磁器の糸道ガイドの製作依頼があった。東京の古川商事からも糸道ガイドの発注があり、さらに東洋レーヨン、倉敷レイヨン、三菱レイヨン等からも糸道ガイドの発注があった。京都セラミックでは一時この部門を本格的に拡大させようと考えたが、電子工業用セラミックが多忙になったため、積極化することはなかった(青山、1987、55–56)。

また看板であるフォルステライト磁器の特徴(高い絶縁抵抗、大きい膨張係数)を生かして、京都セラミックでは抵抗器メーカーへの営業を強化した。1959年7月に東京の高級抵抗器メーカーである多摩電気工業を訪問してフォルステライト磁器を推奨した結果、試作注文からはじまり、次第に発注数量が増加した(青山、1987、67)。次に京都の東洋電具製作所(現ローム)からトランジスタラジオ用抵抗器コアのロッド5の注文が入り、フォルステライト磁器で納入したところ試験結果がよく、次に単価1円50銭、50万本で受注し、さらに単価を70銭に下げて100万本を受注した。しかし、トランジスタラジオ用抵抗器としてより安価なもので間に合うとのことでその後の発注は伸びなかった(青山、1987、67–68)。

稲盛と青山は抵抗器用にフォルステライト磁器を使ってもらうため、日本抵抗器製作所、理研電具製造、富士産業、興亜電工、朝日オーム、島田理化工業などの抵抗器メーカーを回ったが、性能は抜群によいものの、価格が合わないとされた。そうしたなか1960年7月に青山が炭素皮膜抵抗器で有名な北陸電気工業を訪問してフォルステライト磁器を推奨したところ、試作注文を受け、試験結果が抜群であったため、毎月200万円以上を出すが、同社以外に素地を販売しないという条件付き提案があった。京都セラミックは多摩電気工業や東洋電具製作所に納入しているためその条件は飲めないが、できるだけ他社には販売しないようにするとの約束を交わした。その後北陸電気工業からはフォルステライト素地のおかげでMIL規格最高級試験に合格する抵抗器が出来たと感謝された(青山、1987、68–69)。

創業から1年後の1960年4月に宮木電機製作所の東京出張所(営業マン2名と事務員1名)の一角に京都セラミックの東京出張所が開設され、岡川健一6が赴任し、2年間で東京営業所の基礎を築いた。なお東京営業所はその後62年2月、66年10月、67年8月、71年4月、81年1月と規模拡大とともに移転を重ねた(青山、1987、65–67)。

3. 松下電子工業との関係強化

創業時点でU字ケルシマ毎月20万本の納入が約束されていたとはいえ、それは松下電子工業と京都セラミックの関係が平穏に推移したことを意味するものではなかった。製品品質に関して松下電子工業はきわめて厳しい購買者であり、京都セラミックは同社に対する信用を常に維持強化していく必要があった。また購入量の半数は依然として松風工業から調達しており、京都セラミックにとってライバルである松風工業の動向は常に気になるところであった。

以下では稲盛和夫によって日々記された「稲盛和夫直筆手帳」を手がかりに創業期京都セラミックの営業の実態を見ていこう。

1959年4月1日の創業の直前、3月19日に「松下電子工業の取引の問題」として「3月23日奥森氏へ電話して先方にて会ふか当方へ来てもらふかして今后どのくらいの発注をしてくれるのか 発注してもらわなければいけない。それでなければ我々の仕事の準備が出来ないからと云って決定する事」とある。ここでも松下電子工業からの発注量が決定的に重要であったことがわかる。4月17日には「松下との技術会議の時 定期技術会を開く事を議題にする」とあり、稲盛が関係強化のため恒常的な技術交流の場を設定することを望んでいたことがわかる。しかし4月22日には「U字形の生産開始に当り 高さ不良、曲り不良、ピンホールが多く 不良大 至急対策を立てる事 総合80%以上の良品率を確保する事」とあり、良品率の向上が課題となっていた(「稲盛和夫直筆手帳」1959年3月19日、4月17日、4月22日)。

翌23日には「オランダのもの(フィリップス社製―引用者注)を1日3000本使用、国産4000本の予定 この4000本を松風と分ける事になる」、25日には「来月より松風と半半に頂く」とあり、京都セラミックにとってフィリップス社および松風工業が常に念頭におく必要のある競争相手であった。一方5月22日には「神戸工業、三菱電機共にU字型ケルシマの売込に全力をつくす事、三菱はカソードチューブも行ふ コロンビヤも同じ様に強力にアタックする事」とあり、創業直後から京都セラミックはU字ケルシマの販路拡大、取引相手の増加に意欲的であった(「稲盛和夫直筆手帳」1959年4月23日、4月25日、5月22日)。

6月11日には「ケルシマの耐電圧を松風の円板と当方の円板とで宮木でテストして松下電子へ報告する」とあるように、宮木電機製作所の支援も受けながら松下電子工業との関係強化に努めていた。13日には「松下電器産業中央研究所にてドイツ シュバック社のものと同程度の表面燃焼バーナーの試作及び説明に来てくれとの事。これも試作を完全に行ってぜひ完成し度いと考へている。(試作品を作つて)(先方の研究の態度其の他を充分に調査して見る必要あり)」とあり、松下電子工業だけでなく、松下電器産業本体との関係拡大にも意欲を燃やしていたことがうかがわれる。7月13日には「松下電子CRT.11°偏光ブラウン管にケルシマを使用させる様に充分配慮し手を打つべきである」として松下電子工業内部においてもケルシマの用途拡大を展望していた(「稲盛和夫直筆手帳」1959年6月11日、6月13日、7月13日)。

U字ケルシマの納入がいつも平穏であった訳ではない。11月10日には「松下電子要氏より電話あり。U字型折れの実験を行ったがあまり良い結果が出なかった ピンを入れた実験をやってくれないかとの事。(今度再度あのデーターとピンを入れた実験をしようと思ふ)これをもって行く事」とあり、品質向上に対する要請は常にあり、京都セラミックはそれへの対応を重ねることで信用を築き上げるしかなかった。また同日には「カソードtubeは強度1.2kg以上で肉厚は薄いものが良いとの事を云っていた。今度規格改正については当方からも行って協議し度いと云っておいた」との記載もある。指示された規格を遵守するだけでなく、規格改正に際して納入者として意見をいうという京都セラミックの矜持が感じられる記述である。さらに11月16日には「松風は現在日立茂原を開拓中との事である。我々は日本電気等日立も同じ様に行ふ事。其の他の場所も行ふ事」とあり、松風工業との競争は多方面で続いていた(「稲盛和夫直筆手帳」1959年11月10日、11月16日)。

11月25日には松下電子工業から厳しい連絡が届く。「松下電子要氏より電話あり 先日の見積書はどうなったのですか? 未だ出していない様子。それから現在ケルシマの折れていない理由 どの様にして折れない事を保証しているのか? どの様な事でそれを管理しているのか? それを課長に聞かれて返事が出来なかった。この点をおしへてくれ 松風と同一のものであって一方折れ当方は折れなかったりする原因を知らせてくれ これを知らせてもらへば後は何も聞きません この点を28日迄に連絡してくれとの事である。これは会社の秘密事項であるので云へない事である」(「稲盛和夫直筆手帳」1959年11月25日)。松下電子工業とは製品品質の向上に関する利害を共有すると同時に、京都セラミックには独立企業としての自立心があった。このことを創業期の京都セラミックが相手に納得させることは至難であったと推測される。

12月3日の業務課営業方針打合せ会議ではさまざまな議題が登場している。「(a)松下関係 映像管部、ケルシマ、カソードの対策 ケルシマ、実績を低下させない事。状況判断をまちがわない事。(後略)(b)糸道関係の強力な売込 Sampleが必要(後略) (c)東洋電具プレートの試作を作●件(●は判読不能)(𫝊票) (d)松下電工抵抗器工場のプレートの件。 (e)松下電工吉屋氏のマーキユリーを推す事。 (f)三菱電機ビード支柱の件(青山専ム同道の事) (g)同上●P.C.C.の件。 (h)神戸工業のカソードスリーブの件 (i)理研電具へもって行く事。 (j)松下中央研究所、燃焼板の件。 (k)松下機械の三原氏のネックリングの件。 (l)東芝、三洋、シャープ等及三菱電工(関東方面) (1)精電舎スプール及RWの件。 (2)ソニーの結果の件。 (3)東洋無線。 (4)東芝半導体工場。 (5)日立製作所 (6)日本電気 (7)日本無線。 (8)東芝。 (9)バリコン及ソケット屋 (10)東光ラヂオコイル。株式会社東京機械商事 輸出関係 強力に輸出を展開させる件。(中略) (4)青山 北大路7 岡川 松下電子行き  U字型…200,000ケ/月 カソード…100,000ケ/月 確約した。(後略)」(「稲盛和夫直筆手帳」1959年12月3日)。営業開拓先の拡がりが確認できるが、松下電子工業向けU字ケルシマ、カソードチューブが最重要品であることに変わりはなかった。

1960年に入って早々の1月6日には「松下CRT(cathode ray tube、陰極線管―引用者注)のカソードチューブの発注が停止する件。誠に言語道断である。2月より〇(ゼロ―引用者注)になる由、なんとしても最底ママ50000個は納入する様に今后、交渉を進める事にする U字ケルシマについては1月度、170000個が2月より150000に減少する由これも全くケシカランそれで2月迄170000個の線を確保し3月度から先方使用量が40000ケ増すのでその分の20000ケはぜひ当方が引受ける事にする。190000ケで8月迄行き9月度にて先方使用量が増加するので其の分は大半当方が引受けて行くとの強い線を打出し明后日より強力な交渉を行ふものとする」(「稲盛和夫直筆手帳」1960年1月6日)とある。カソードチューブの突然の発注削減に対して、京都セラミックは断固たる態度で交渉に臨むつもりであった。

さらにもう一つ難しい問題があった。1960年1月19日には「U字型を他社へ売った場合に松下が如何なる反応を示めすかどうか? この点充分に慎重に行ふ事。松下の値下交渉を一月下旬より行ひ(3月度分より)その結果、松風を遂放ママしてからならば他社へ売込んでも大いして問題にならないと思ふ。他社へ現在売出しても松下ママりへ判明するのは、3月以降になると思ふので別に問題はないと思ふ」とあり、稲盛は強気であった。これまで松下電子工業からの発注を折半してきた松風工業を追い出し、京都セラミックが独占的供給者になれば、松下電子工業以外の同業他社へのU字ケルシマの販売について松下電子工業は文句をいうまいという読みであった。1月26日にも「松下に対してU字型の値下げ交渉をし同時に他社へ売る事の内々の承認をとる事」「松下電気ママ産業をもう少し開発する事」といった記述がある(「稲盛和夫直筆手帳」1960年1月19日、1月26日)。

2月1日には「徳永8 松下電子要氏訪問の結果」として「U字型の場合の寸法管理の検査、合否の基準を1ケ月后に変更し度いとの事。従来の計数管理を計量管理に移行し度いとの事。最初に、当社測定値と松下測定値の一致を見い出し其の后松下の検査は行はない それで管理図に依つて管理して行き度い(計量管理図に依って)」とある。京都セラミックのデータを信頼し、松下側では検査を行わないことを想定するようになっていたのである。しかしその後も製品品質について気を抜くことはできなかった。4月2日には「松下電子要氏訪問(徳[=徳永―引用者注]) LotNo. 19を現在使用しているが曲りが問題である 検査及焼成の点について充分に対策を立てる事」、6月19日に「製造技術に関する件 31m/mケルシマの曲り改良の件について浜本君9の方で原料のねかしについて粘性を多くする実験を行っていたがこれは実験をして完全に工程管理を行ふ事」、7月6日に「松下電子 明日持って行くU字型にて最終であるので充分に慎重に行って不良を出さない様にする事」と続き、7月9日にはついに「松下電子訪問犬飼氏。最近のケルシマが折れ不良にて非常に問題を出しているがこの様な事では当社の技術管理を全く信用出来ないと云われたので過去に色々と松下から云はれさんざん引張り廻されたのであって当社の技術は全く良いと話した。11日に技術的なデーター及これは良いと云ふSampleをもって行くのでそれで結論を出してくれと話しておいた」とある。松下電子工業の担当者と稲盛の間で相当に厳しいやりとりがあり、その結果を踏まえて7月12日に「本日からU字型の生産を再開した(毎日20000ケの生産予定である)」。7月13日には「松風工業ケルシマは全部〇(ゼロ―引用者注)である」との記述もある(「稲盛和夫直筆手帳」1960年2月1日、4月2日、6月19日、7月6日、7月9日、7月12日、7月13日)。

7月19日には「松下電子奥森氏より電話あり 在庫がなくなって来たので松風へ発注し度いとの事 それで21日迄待ってくれと返事した」とある。松下電子工業における京都セラミックと松風工業の扱い方が前者に傾斜したものになっていることがうかがえる。8月1日には「松下電子カソードチューブ7月50000ケ、8月50000ケ受注と決定(北大路)」とあり、カソードチューブについても安定した受注が見込まれるようになった。12月3日には「松下電子(角本氏)の話し 松風のカソードホルダーは研磨した為に1000°Cで水素処理した所黒くなったとの事である 当社のものについても注意する事」とあり、松下電子工業からさまざまな技術情報が寄せられるようになっていた。しかし一方で12月9日には「松下電子(専ム有賀氏)訪問 当社マルチフオームの融点が高いので低くしてくれとの事」との要請があった(「稲盛和夫直筆手帳」1960年7月19日、8月1日、12月3日、12月9日)。

以上のように最重要顧客である松下電子工業からのさまざまな要請には最大限に対応しつつ、京都セラミックは良品率の向上に努めた。技術会議や規格制定への参画を希望し、松下電子工業だけでなく、松下電器産業への販路拡大も志向しつつ、自らが松下電子工業にとって不可欠の存在になれば、同業他社への販売拡大も認めざるを得ないだろうとの展望を抱くようになっていたのである。

後年、稲盛は創業初期における松下電子工業との関係について以下のように回顧している(稲盛、2009、124–125)。

京セラのはじめてのお客様は、先にもお話しした松下電子工業でしたが、私たちは他の松下電器産業グループの会社も含め、「松下さん」と呼んでいました。

受注した当時は、「松下さんのおかげで京セラは順調なスタートが切れた」と感謝の気持ちでいっぱいでした。しかしその後、価格、品質や納期など、すべての面にわたっていただく要求は、どれもこれもたいへん厳しいものでした。

とくに、値段については、松下さんの購買部からは、毎年のように大幅な値下げ要求をいただきました。仕事をもらえるありがたさの半面、その値下げ要求をこなすことは、並たいていではありませんでした。(中略)私もあまりの要求の厳しさに、購買担当の方とケンカしたこともあるくらいでした(後略)。

しかし私は同時に、「鍛えていただいている」という感謝の思いも強く持っていました。厳しい要求は、やっと歩き始めた自分の会社の足腰を鍛える、絶好の研鑽の機会と考えたのです。

購買担当とケンカしたというのは先に見た1960年7月9日のことであったのだろうか。同年1月6日の突然の発注削減の知らせも稲盛には耐えがたいものであっただろう。稲盛は耐えるだけの下請業者ではなかった。創業当初から1社依存のリスクをよく認識して販路の拡大に努力し、取引相手の増加が今度は松下電子工業との交渉力強化につながることも見通していた。その意味で稲盛は当初からタフ・ネゴシエイターであった。その稲盛が後年感謝を込めて松下電子工業に鍛えられたと総括しているのである。

4. 電子工業企業への販路拡大の試み

先に見たようにソニーや三菱電機も松下電子工業に続く重要顧客であった。1959年11月17日に「三菱電機(岡川君よりの電話) U字型ケルシマについては月曜日装置一式持って試験をしに行く事。コストの件。ガタの件。耐圧の件いづれも解決可能である」、11月25日に「三菱電機へ北大路、岡川、伊藤10三名 ケルシマの実験に行った。成功を祈る」とある。さらに12月14日には「ソニー株式会社 半導体技術 住吉氏より(中略) 下記の如き寸法のアルミナ又はメタライズ(金属との封着―引用者注)加工の可能な磁器について在庫の有無、或は至急製作の可能なものについて伺います」との連絡を受けた京都セラミックであったが、仕様は厳しく、3種類のパイプについて「厚さ0.6m/mのもの 但し両面研磨出来るだけ平行なもの 厚さの精度±0.05」を求められた。しかし稲盛は「厚さの精度±0.05」の後に赤字で「(無理だ)±0.1~±0.2欲しい」と記入せざるを得なかった(「稲盛和夫直筆手帳」1959年11月17日、11月25日、12月14日)。

続いて12月17日にソニー向け「Alumina Deskマ マは当社の仕事の優劣を決定すべき重要なものであるから充分に配慮し優秀なものを納入する必要あり。当社が今后Sonyに強力に入り込むか如何の大きな問題である」とあり、1960年に入ると1月6日に「ソニーより電話ありアルミナ リング10000ケ注文書を出した由」、1月19日に「ソニーKK住吉氏 デスクは3月頃2~3万個必要である。リングは5月頃に10万個必要になる。註)デスク、リング共にメタライズするので出荷の前に完全に洗浄して900°Cくらいで焼いて出荷する事(中略)U字型3000ケ程、2月中旬頃迄に納入してくれとの事。日本特殊陶業が入っている。デスクを作っている様である コストが高いようだ」とあり、競争相手である日本特殊陶業の情報が入っている。2月22日に「ソニー デスクの100個の見本を出して良かったら10000個注文するとの事。26ϕ × 0.6 200枚作ってくれとの事(アルミナ)注文書が来る事になる、着手する事」と地道な活動が続いていた(「稲盛和夫直筆手帳」1959年12月17日、1960年1月6日、1月19日、2月22日)。

しかし5月2日には「岡川君より電話あり ソニーアルミナデイスクの納入品は不良が多くて先方で半分ほど選別しあとは返却されるとの事です(不良とは穴のつまつているものや面に段のついている物のことである) 全工程について慎重にやつてもらはなければだめである」と厳しい内容の報告が届いている。翌3日にも「ソニーのアルミナデイスクの不良原因を充分に求明ママし至急に次のlot5000ケを納入する事」とあり、不良品の原因究明が急がれていた。一方5月27日には「ソニーよりカソードチューブと同一のもので外圣1ϕ~1.4ϕ内圣0.76ϕ~1.2ϕ 長さ4m/mのものが出来るかどうか返事してくれと連絡があった どの様なものでも出来ると返事した」とあり、たしかに「どの様なものでも出来る」としたうえで開発に取り掛かる姿勢がここでも確認することができる(「稲盛和夫直筆手帳」1960年5月2日、5月3日、5月27日)。

10月7日には「ソニー三浦氏竹島氏来社」し、「デイスクの角穴のカケ其の他を充分に注意する事 穴位置の公差を少し今后共キビシクしてくれとの事」(「稲盛和夫直筆手帳」1960年10月7日)との要請を受けた。ここでもアルミナディスクの受注を確実なものにするためには品質に関する不断の対応が求められたことがわかる。

一方三菱電機については、1960年1月9日に「岡川三菱電機訪問 a.吸収板の新しいものを500枚注文をもらって来た。 b.酸ベリリウム●スペーサーを作ってくれないかとの事でSampleと図面をもらって来た。 C.U字型ケルシマの試験を1月中旬にするとの事 この時にpushする事 新工場稼動は4月末である その時はブラウン管30000ケ生産の予定」とあり、新工場稼働にともなう需要に期待していた。1月26日には「三菱電機訪問(青山、稲、岡川)ビード支柱については500本分作ってくれとの事。(60m/mのものについて)マルチフオームとの件は6:4で現在、不利な状態である。今后三菱のものは値段を下げる必要あり」として前途を楽観していなかった。同日には「三菱電機の他の部門へも積極的に売込む事」、「三菱のアルミナについては立派なものを納入する事。送信管用の三ケ組のRingについては平均一個400円程度で作る事。現在の24ϕのRingアルミナは200円にてとる事にしようと思ふ これは半導体の方に使用する由。今后数量が増加して1000ケ/月になると云つていた」とあり、京都セラミックが三菱電機向け販売に注力している様子がうかがわれる(「稲盛和夫直筆手帳」1960年1月9日、1月26日)。

2月4日には「三菱電機 柳瀬氏より電話あり、7.5ϕ × 250m/m Alumina95%以上のものは作れないかとの事。このものについて作れないとしてことわった」とある。しかし2月8日になると「三菱電機研究所 柳瀬氏 アンテナ用(航空機用) アルミナ棒、アルミナ95%以上。7.5ϕ0+0.1 × 250m/m ±1.2曲り0.5以内の試作依頼があった 一度試作しようと思ふ 各2本(2種類)計4本。見積も出す事。先方は5~6000円でどうかとの事」とあり、いったん断った試作依頼を結局引き受けている。2月18日にはU字型と比較して「同じ性能であればマルチホームを使ふ事になるとの事。結論を出すのには后1ケ月半くらいかかる。マルチホームが6:4で優勢である。(中略)マルチホームの設備を50%程度もう発注した由」とのU字ケルシマからマルチフォームガラスへの転換に関する重要な情報に接している(「稲盛和夫直筆手帳」1960年2月4日、2月8日、2月18日)。

5月23日には「三菱電機貴志氏 マルチフォームを渡した。次には正規の寸法のものを頂き度いとの事である」とあり、マルチフォームガラスの商談が動き始めた。6月17日に「三菱電機貴志氏訪問マルチフオームを提出25本三菱向来週中に結果を出しておくとの事であった 来週再度訪問の事」、6月24日に「三菱泰氏、及貴志を攻める事」、6月28日には「三菱電機貴志氏訪問 未だ試験がしてないので今週一杯ですむとの事。電極はもうすんでいるが耐圧試験等を行ふとの事である」といった交渉を経て8月1日には「三菱電機よりマルチフオームの20万個の見積が来た」。8月10日には「三菱電気マママルチフオーム90000ケ受注 内30000ケ8月中納入の事」とあり、12月5日にも「三菱電機(北大路) マルチフオーム10000ケの受注、第2回試作品は大体良好であるので10000ケ流す」とある。三菱電機向けマルチフォームガラス販売が軌道に乗りつつあったのである(「稲盛和夫直筆手帳」1960年5月23日、6月17日、6月24日、6月28日、8月1日、8月10日、12月5日)。

5. 化繊企業の糸道需要

京都セラミックは電子工業関連分野だけではなく化繊企業への販路拡大も図った。1959年10月8日には「倉敷レイヨン訪問 現在の最良のものですぐに型にして最短コースで納入してくれ前の4m/mのBarの試験は良好であった由、至急に作る事」、「倉敷レイヨンの原型は木型で行く事。明日木型屋をさがし至急に行ふ」とある。11月9日には「河野紡機訪問 奥田氏 糸道として売る場合、検査、送賃を含む場合15% 直送の場合10% セットに入れる場合25%upさせてもらふ」とあり、さらに「東洋紡、旭化成、東洋レイヨン、倉敷レイヨン、帝国人絹、日本レイヨン、玉島レイヨン、上記へ出入している機械メーカーより来る場合があるのでこの場合も値段を統一する。化繊7社についてはアルミナ磁器は全部受注する自信をもつている」とある。メーカーへの直納、代理販売を含めて価格設定に留意したうえで化繊7社についてアルミナ磁器はすべて受注する自信があるとしているところが京都セラミックらしい(「稲盛和夫直筆手帳」1959年10月8日、11月9日)。

その後も12月3日の業務課営業方針打合せ会議では「糸道関係の強力な売込 Sampleが必要」とされ、1960年に入っても1月8日には青山と北大路が東洋レイヨンを訪問し、「糸道は人絹に多く使ふ 比較して使ってみて良ければ使ふだらうと考へられる(現場の人と話した) 試作品は圣6ϕ ±0.2 × 100m/m程度のRodを10本、出してくれとの事。これを使って見て新しい型のものを使って見度いとの事」との返答を得ていた。同日には「倉敷レイヨンについては新しいSampleを作る事。これで再度提出して試験をしてもらふ事。各種、2種類各10~20本至急に提出する事」、「帝人の見積依頼の図面をもらって来てこれで正式にSampleを作る事」とある(「稲盛和夫直筆手帳」1959年12月3日、1960年1月8日)。

6. 新技術獲得の努力

京都セラミックは1960年7月に東芝トランジスタからアルミナディスクを受注するが、これはセラミックに金メッキをしていた。当時セラミックに金メッキを出来る技術を有しているのは大阪の大研化学のみといわれ、三菱電機や東芝も金メッキは大研化学に依頼しているといわれていた。将来を考えるとセラミックにメタライズは必須の技術であり、当初は京都セラミックが大研化学に対してセラミックを供給し、同社においてメタライズする内容の協定書締結が想定されたものの、メタライズ技術の取り込みを望む稲盛はこの協定は締結せず、自社開発の道を選択した。「それからは、独自でメタライズ技術の開発に努力し、担当者も次々と入れ替わったが、他より何ら技術援助を受けないで、立派にメタライズ技術を習得した」といわれた(青山、1987、94–95)。

しかし自社にないメタライズ技術の習得は容易なことではなかった。1959年12月7日に「東京工大精密工学研究所西巻研究室古川氏」から電話でフォルステライト板20枚を発注されるが、12月17日には「東京工大精密工学研究所 真空管、試作工場 今后色々と接渉をもち色々と協力する事を約束した。非常に感じの良い人であった。色々と交渉して良いと思われる」とある。さらに翌18日には「東工大浅場先生11」について「この先生にCeramic―metal Sealの研究をしてもらい度いと申出て、Ceramicは当社で供給し其の他の実験研究費は実費支拂をし先生の研究費として別に5000円~10000円/月出す事で先生と話し合ふ事」とある(「稲盛和夫直筆手帳」1959年12月7日、12月17日、12月18日)。

1960年1月19日になると「東京工大の浅場先生にメタライズ法について知っている事を充分に聞いて 先生がメタライズをされるならば充分な手伝を致しますといふ事を申出る予定」、「深瀬氏12に(通研[日本電信電話公社電気通信研究所―引用者注])会って来月来社の件を聞き、メタライズの方法について 板垣氏等を通じて聞く事。それから東芝の砂町の人に紹介してもらふ事」、1月21日には「通研深瀬氏 メタライズの文献を借用した。来月かへす事に決定」とあり、外部の専門家へのアプローチを試みようとしていた(「稲盛和夫直筆手帳」1960年1月19日、1月21日)。

2月4日には「ソニー来社の時、住吉氏 メタライズした場合、他社にくらべてMoだけでは良く乗りにくい様である。メタライズして穴に金属を入れてドリルで穴を開けるので割れてしまふ様である。対策MnO2(二酸化マンガン―引用者注)を少し入れて 真空土練機にて作って納入すれば良いとの事」といったようにソニーの技術者から貴重な情報がもたらされた。さらに同日には「Desk及Ring共に両面を若干、研磨したらどうかと思ふ これでメタライズは完全になるはずである」として改善策も記されていた。3月14日には東洋電機技術研究課から「フオルステライト、ヂルコン、アルミナのSampleを送ってくれとの事。又当社でメタライズ及Niの蝋着迄してくれないかとの事」との依頼も届いていた(「稲盛和夫直筆手帳」1960年2月4日、3月14日)。

6月28日に稲盛は通研の深瀬氏を訪問し、「FZ-20リングをメタライズしてNiSO4(硫酸ニッケル―引用者注)に入れたら●●色に変色した。これはなぜか NiSO4が悪いと思ふ」と意見交換し、8月18日には「メタライズを完成する事 (伊藤)」、9月25日にも「今后の推進事項」として「セラミツクメタライズの完成」が挙げられており、伊藤謙介を中心にメタライズの研究が進められていた。10月18日になると東芝トランジスターから3ϕリングについて、「メタライズをしてくれれば多量に使用する由、その為に当社にてメタライズしたものを20ケ程作って提出する事とする(堂園君が準備する事となっている)」とある。このころまでに京都セラミックは一定のメタライズ技術を有するようになっていたのである。同日には「通研林氏より3ϕアルミナリングに両面メタライズしてこれに低温半田でNi板を接着してくれとの事であったので堂園君の方で試験をする」との記述もある(「稲盛和夫直筆手帳」1960年6月28日、8月18日、9月25日、10月18日)。

10月31日にはソニーを訪問して住吉氏に対して「リングのメタライズの件について 純度を下げたサンプルを出す、又当社にてメタライズしたもの及両面研磨したものを提出致します それで総合的に判定してもらへる事」(「稲盛和夫直筆手帳」1960年10月31日)とあり、メタライズ技術についてはソニーの協力も得られていたことがわかる。

「1960年から、西ノ京原町の1階原料室横の狭い部屋で伊藤らが研究を開始した」、「当初は、担当者が本を見ながら見よう見まねで始め、やがて、モリマン(モリブデンマンガン―引用者注)のペーストを職人技で細かく塗布するなど技術力を高めていくとともに、水素炉など必要な設備も順次買いそろえていった」(京セラ40周年社史編纂委員会編、2000、47)といったプロセスを経て、京都セラミックはメタライズ技術を習得していったのであり、1960年秋の時点で完成したものではなかった。

京都セラミックはメタライズ技術に詳しい名古屋工業技術試験所の杉浦正敏を1963年4月に、同工業技術試験所で杉浦の共同研究者であった平井道雄を64年に迎え入れたが、こうした外部人材の招聘もメタライズ技術の高度化に貢献したものと思われる。

7. おわりに

後年、稲盛は創業期を回顧して「『できないもの』を『できる』と引き受けて、実際に『できる』までやり続ける―不可能から可能を生み出そうという、無茶な『背伸び』かもしれません。しかし、その無茶な『背伸び』が、京セラの技術力を伸ばし、実績をつくり、成功への道筋をつくってくれたのです」(稲盛、2009、115)とのべている。しかし不可能を可能にする「背伸び」を支えた諸条件はより広い文脈のなかで語られるべきだろう。突破するのが可能か否かを慎重に瀬踏みしたのは営業活動の先頭に立つ稲盛や青山であり、彼らの技術者としての「カン」がその判断を支えていただろう。当然のことながらすべてを引き受けた訳ではなく、即座に断る場合もあり、稲盛は京都セラミックの潜在能力、換言すれば「背伸び」の伸びしろを慎重に吟味しつつ営業活動を展開した。社内にもたらされた注文を顧客が満足する製品に実現していったのは、稲盛を中心とする、青山政次、伊藤謙介、浜本昭市、徳永秀雄、岡川健一、堂園保夫、畔川正勝といった松風工業を辞めて京都セラミックの創業に参加した人びとであり、彼らに北大路季正(松風工業の営業課長から入社)、樋渡眞明(平安伸銅から入社)、牧文男を加えた設立当初の幹部職員たちであった(青山、1987、23、25;加藤、1979、150、162)。稲盛を中心とする20代の技術者たち(founding fathers)がそれぞれの役割を分担しつつ困難な課題を一つひとつ乗り越えていったのである。

しかし当然のことながら目標を達成する潜在能力は数十名規模の社内のみで育まれたものではない。厳しい課題を突き付ける松下電子工業のような発注者は製品仕様を伝えてその出来上がりを待つだけの存在ではなく、問題解決のためには何をすべきか時には一緒になって考え、納品された部品を繰り返し使っては改善点を指摘する厳しいメンターでもあった。さらにいえば日本の電子工業自体が新興産業であり、未解決な問題は随所にあった。大小さまざまな課題をともに考える相手は取引ネットワークのさまざまな場所に存在し、輸入代替、国産化という課題を共有する競争者であり同時に協働者でもあった。生まれたばかりの京都セラミックはこうした取引ネットワークのなかで育てられたのである。その意味では同業他社も競争者であると同時に切磋琢磨する仲間でありメンターであったともいえよう。

技術を学ぶメンターは取引ネットワークのなかだけでなく、大学や学会、日本電信電話公社電気通信研究所のような所にもいた。さまざまな産業に属する発注者や納品業者、設備業者、さらに下請工場13が織りなす取引ネットワークのなかで育まれ、鍛えられていった京都セラミックは、取引ネットワークの外部に存在するメンターからも技術情報を貪欲に吸収していった。さまざまな方向から集まった技術情報は稲盛を中心とする凝集力のきわめて高い組織のなかで継続的な製品開発を支える力となっていったのである。

(1)  1928年京都帝国大学工学部卒業、松風工業に入り、54年1月に取締役に就任、稲盛とともに同社を離れ、59年4月に京都セラミックを設立、専務取締役に就任し、64年5月に取締役社長となった(青山、1987、奥付)。

(2)  「ブラウン管の電子銃の電極を支持する絶縁部品。(中略)国産テレビの初期はケルシマ管と呼ばれるU字形のフォルステライト管に粉末ガラスを詰め、溶融した部品が使用された」(産業技術史資料情報センター、京セラファインセラミック館、HITNET[ヒットネット]産業技術史資料共通データベース[https://sts.kahaku.go.jp/hitnet/result.php?m=1064])。

(3)  「ブラウン管の電子銃の組み立てに使用された絶縁管。(中略)成形が困難な上に、純アルミナは耐熱性が高く、従来フォルステライトを焼成した炉では焼結しないため、Mo線を発熱体にした水素雰囲気炉を組み立て、焼結できるようにした」(同上データベース)。

(4)  「U字ケルシマに代替して使われるようになったガラス製絶縁部品。(中略)クラックの進行を止めるために独立気孔をたくさん残して焼結させることが特徴」(同上データベース)。マルチフォームガラスの要求特性は、「①電極にかかる高電圧に対して絶縁性が高い。②電極の温度変化に対し、熱膨張係数が小さい。③高温加熱に対し、粘性変動(変化量)が少ない」などであり、電極脚部とマルチフォームガラスのなじみが悪いと破損につながるため、「④電極金属に対し、なじみ(濡れ)が良い。⑤真空中でガスの放出がない、変質しない。⑥自由に形状を成型しやすい。⑦顔料による着色が可能である」の特性がさらに求められる。またマルチフォームガラスは溶融ガラスを直接成型するのではなく、粉体を成型、焼成する焼結ガラス法で製造される(岸川、2006、759–760)。

(5)  抵抗芯体(コア、ロッド)は「皮膜抵抗の基板や芯体として利用されたフォルステライト部品。(中略)当時一般的であった磁器芯体に比べて抵抗値の安定性が高く、これを用いた固定抵抗器が各種家電製品や通信機器用途を中心に多く生産された」(前掲、産業技術史資料共通データベース)。

(6)  岡川は1958年3月に高知大学文理学部を卒業、松風工業に入社、稲盛の京都セラミック創設に参加し、65年4月に東京営業所営業部長、71年12月に本社資材部長、72年11月に取締役に就任した(京都セラミック、1973a、7)。

(7)  北大路季正、創業時からの幹部社員(青山、1987、28、35)。

(8)  徳永秀雄は1957年3月に鹿児島大学工学部を卒業、59年4月に京都セラミックに入社、65年4月に研究部長、70年4月に滋賀工場総務部長、71年1月に同工場長代理、73年11月に取締役に就任した(京都セラミック、1973b、7)。

(9)  浜本昭市は1954年3月に鳥取工業高校を卒業、松風工業を経て京都セラミック創業に参加し、67年12月に第二技術部長補佐、75年3月に有機材料事業本部長、同年5月にセラミック材料事業本部長、取締役に就任した(京都セラミック、1976、6)。

(10)  伊藤謙介も創業期メンバーの一人であり、1974年11月に滋賀工場長代理、75年3月に電子部品事業本部長、同年5月に取締役に就任した(京都セラミック、1976、6)。「最初の頃、このケルシマに亀裂が入り、良品率が低く、非常に困った。その時研究係長であった伊藤が、亀裂の原因を発見し、良品率を高くしてくれた」ため、59年5月22日に京都セラミックの表彰状第1号として表彰された(青山、1987、56)。稲盛の直筆手帳にも「伊藤君、ケルシマの耐熱性について新しい事実を発見した」(「稲盛和夫直筆手帳」1959年5月20日)とある。

(11)  1958年度現在で「浅場友次郎」は精密工学研究所の3人いる文部技官の一人であり、教官ではない(東京工業大学編、1959、128)。浅場は51年にすでに同大学電気科学研究所の技官であった(東京工業大学編、1951、153)。浅場には、森田・小山・浅場(1948)などの論文がある。

(12)  深瀬雅彦は1964年時点で電気通信研究所金属材料技術研究室研究主任であった。同(1964)などの論文がある。

(13)  創業期京都セラミックと下請工場の関係については別途検討が必要であるが、1959年5月19日「洛陶精機 スプール等の下請工場として育成の件」、60年2月24日「京立精機へカツチングマシンを発注した。54000円 今后、当社金型を専門に仕事させる事にする その具体的な話しを后日する事にした」、7月27日「下請の問題 二九、藤沢を大至急に生産を上げさせる事」、11月4日「全下請を一度呼んで色々と打合せをしたらどうか?」といった記述が続く(「稲盛和夫直筆手帳」1959年5月19日、1960年2月24日、7月27日、11月4日)。ここに登場する京立精機(南区西九条島町)は50年創業、資本金100万円、従業者規模5~29人、真空管、電球、製造機械製作、機械加工などを行う工場であり、二九製作所(南区唐橋高田町)も従業者規模5~29人であった(京都市商工局編、1959、129、150)。

文献・資料一覧
  • 青山政次(1987)『心の京セラ二十年』自費出版。
  • 稲盛和夫(2009)『働き方』三笠書房。
  • 加藤勝美(1979)『ある少年の夢 京セラの奇蹟』現代創造社。
  •  岸川 浩彦(2006)「CRT絶縁体(マルチフォームガラス)(1856年頃~現在)」、『セラミック』第41巻第9号、759–760頁。
  • 京セラ40周年社史編纂委員会編(2000)『果てしない未来への挑戦―京セラ 心の経営40年―』。
  • 京都市商工局編(1959)『京都市機械金属工場名簿』1959年版、1957年7月1日現在。
  • 京都セラミック(1973a)『有価証券報告書』第17期(1972年下期)。
  • 京都セラミック(1973b)『有価証券報告書』第18期(1973年上期)。
  • 京都セラミック(1976)『有価証券報告書』第22期(1975年度)。
  • 東京工業大学編(1951)『東京工業大学一覧』昭和25年度。
  • 東京工業大学編(1959)『東京工業大学一覧』自昭和32年度至昭和33年度。
  •  深瀬 雅彦(1964)「高周波絶縁物としてのフォルステライト磁器におよぼす添加物の影響」、『電気通信研究所研究実用化報告』第13巻第7号、1013–1038頁。
  • 三石賢太郎(1973)「技術開発ご用聞きに不可能はない」、『日経ビジネス』7月9日号、113–114頁。
  • 森田清・小山次郎・浅場友次郎(1948)「毛細管式超短波電力計」、学術研究会議超短波測定研究特別委員会編『超短波測定の進歩』コロナ社。
  • 「稲盛和夫直筆手帳」昭和34年・35年(稲盛ライブラリー所蔵)。
 
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