This paper explores the significance of the ‘will of the universe’ for Kazuo Inamori’s philosophy. ‘Hearts in Harmony with the Will of the Universe’ is a well-known Inamori idea that appears at the very beginning of the Kyocera Philosophy. Although some people are uncomfortable with the idea, considering it superstitious or dubious, it is the basis that underpins the entire Inamori Philosophy.
The Inamori Philosophy is characterised, I would argue, by its emphasis on morality over economics. This should not be confused with a disregard for economics (profit); Inamori was extremely concerned with making a profit. But he never used morality as a means of making money. He attached more importance to morality than to economics.
In business, if a manager tries to implement the principle of ‘morality over economics’, he/she will inevitably face the worry that emphasising morality would prevent him/her from making sufficient profit. To eliminate this worry and uphold the principle, one must have deep confidence that economic success follows moral motives and actions, in other words, that if you think and do good things, you will get good results. It was the will of the universe that gave Inamori this confidence. If one acts in accordance with morality, one is in harmony with the will of the universe, and therefore, aided by the workings of the universe to evolve and develop everything, one’s actions will bring good results.
How did Inamori come across this idea, why did he become convinced of it, and how did he communicate his conviction to Kyocera employees and to the public in general? This paper examines these questions. Inamori came to this conviction around the mid-1980s, when he made several important decisions, including the establishment of Daini-Denden, and also experienced some unexpected predicaments. The significance of the fact that it was during this period that Inamori became convinced of the will of the universe is also discussed in this paper. It will also be argued that it is not a strange thing to discuss the question in philosophy of how human beings should live in relation to the workings of the universe.
稲盛哲学と聞いて我々が真っ先に思い浮かべる言葉は「利他」であろう。利他は稲盛哲学を特徴づける最も代表的な概念と言える。稲盛和夫自身、多くの機会で、「人のためによかれかし」と思って他を利するような「利他の経営」の大切さを説いた。
これに対しては、厳しい競争下にある企業が「利他」など標榜して本当に大丈夫か、といった見方もある。とはいえ、「利他の精神」それ自体にはたいていの人が共感するだろうし、「利他の経営」も実現できるものならしてみたいと思う経営者は少なくないはずである。日本のみならず、中国をはじめとした諸外国でも稲盛哲学が高い関心を集めているのは、企業経営を通じて利他を実践するという考え方に負うところ大であろう。
その「利他」とは別に、稲盛哲学を特徴づけると思われるもう一つの言葉がある。それが本稿の主題である「宇宙の意志」である。
我々の心/思いが「『宇宙の意志』と調和する」とき物事はうまくいき、不調和であればうまくいかない―稲盛はこのように主張する。市販の『京セラフィロソフィ』(サンマーク出版[稲盛、2014])では第1章の一番はじめに「『宇宙の意志』と調和する心」が掲げられている(稲盛、2014、49)。
●「宇宙の意志」と調和する心
世の中の現象を見ると、宇宙における物質の生成、生命の誕生、そしてその進化の過程は偶然の産物ではなく、そこには必然性があると考えざるを得ません。
この世には、すべてのものを進化発展させていく流れがあります。これは「宇宙の意志」というべきものです。この「宇宙の意志」は、愛と誠と調和に満ち満ちています。そして私たち一人一人の思いが発するエネルギーと、この「宇宙の意志」とが同調するのか、反発しあうのかによってその人の運命が決まってきます。
宇宙の流れと同調し、調和をするようなきれいな心で描く美しい思いをもつことによって、運命も明るくひらけていくのです。
「宇宙の意志」について稲盛が京セラ社内で初めて公言したのは、1984年4月の「創立満25周年記念講演」においてであったと考えられる。その講演のタイトルは、まさに「“宇宙の意志”と調和する心」であった(第3節で詳しく紹介する)。「『宇宙の意志』と調和する心」は、1994年に京セラ社内向けにまとめられた『京セラフィロソフィ手帳』にも、その内容を詳しく解説した『京セラフィロソフィを語る』(2001年)にも、また盛和塾向けに編纂された『京セラフィロソフィ』(盛和塾事務局編、2009年)にも明記されている(1)。そしてこの盛和塾限定の『京セラフィロソフィ』を元にして一般向けに刊行されたのが、サンマーク出版の『京セラフィロソフィ』(2014年)である。
その巻頭、正確に言えば、「第1章 すばらしい人生をおくるために」の(第1節である「1 心を高める」の中の)第1項が上で引用した「『宇宙の意志』と調和する心」なのである。もっとも、同書に先立つ『京セラフィロソフィを語る』、『京セラフィロソフィ手帳』、盛和塾用『京セラフィロソフィ』のいずれにおいても、「『宇宙の意志』と調和する心」を第1項とする「すばらしい人生をおくるために」という章は「第2章」に置かれていた。このあたりの事情について、京セラ社内では次のように説明されている(『京セラグループ社内報 敬天愛人』2023年9月号、16。〔 〕内は引用者)。
同書〔サンマーク版〕では、〔稲盛〕名誉会長本人の「人々を幸せにしたい」との願いから、『京セラフィロソフィを語る』の一章と二章を入れ替えています。これによって、「すばらしい人生をおくるために」の章を前面に出し、ビジネスマンはもちろん、一般の方々にとっても羅針盤になるようにと再構成しました。
稲盛がこの入れ替えを決めた現場に立ち会った元京セラ・粕谷昌志氏(現・鹿児島大学特任教授)の証言によれば、これは「『宇宙の意志』との調和」を巻頭に置くべきだという稲盛の明確な意思表示を受けてのものだったという(2)。「『宇宙の意志』との調和」を稲盛がいかに重くみていたかが窺われる。
「利他」なら、稲盛ならずともこれを説く経営者は少なからずいる。しかし「宇宙の意志」やこれに類することを堂々と持ち出すのは、著名な経営者としては稲盛の他には松下幸之助ぐらいであろう。例えば、稲盛が亡くなって間もなく、2022年9月9日の『日経ビジネス』電子版に掲載された「松下幸之助と稲盛和夫 経営の神様が信仰した『宇宙の意志』」という記事のリード文では、稲盛は松下同様に「どこか神がかり的な雰囲気をまとって」おり、どちらも「精神世界に傾倒し」「人知を超えた『宇宙の意志』を信じていた」と紹介している(https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00030/090700420/)。
この記事はPHP研究所の川上恒雄氏に対するインタビューで構成されたもので、中立的な観点から松下と稲盛の「精神世界」を紹介している。しかし中には、こうした要素をもって稲盛(や松下)の哲学を「怪しい」ものとして批判的に論じる向きがあるのも事実である。稲盛哲学が時に敬遠されたり、警戒されたりするのは、この「宇宙の意志」への言及ゆえと言ってよいだろう。京セラフィロソフィを代表する「利他」や「人間として正しいこと」が人々をして稲盛哲学に近づかしめるのに対して、「宇宙の意志」はこれから遠ざからしめる。
「宇宙の意志」なる言葉が人々に警戒心や反発心を抱かせうることは、稲盛自身も十分に自覚していた。例えば、日本航空(JAL)の再建を実現した後、2012年7月の盛和塾世界大会における塾長講話で、稲盛はJAL再建を導いた「真の要因」について語っている。その「真の要因」とは、宇宙の意志と同調した懸命な努力によって「サムシング・グレート」が応援してくれたことである。そのことを「私は固く信じています」と述べた上で、盛和塾の塾生たちに向けて次のように自らの真情を明かしている(稲盛、2016a、298、300)。
ただ、こういうことを新聞や雑誌のインタビューなどで話してみても、世間はすぐに「なんだ。あいつは宗教がかったことを言っている(3)。新興宗教ではないか」などと言い出しますので、「日本航空の再建はフィロソフィとアメーバ経営によるものだ」と言わなければならないのです。
それも紛れもない事実なのですが、そういうすばらしいフィロソフィとアメーバ経営の力に、さらにもっと大きく強い力が加わって、想像もしない、すばらしい成果を得ることができたのです。今日は、このことをよく理解してくださる盛和塾の皆さんが聞いておられるだけに、改めて申し上げた次第です。
稲盛が「もっと大きく強い力」と言っているのは、宇宙の意志との同調がもたらした「サムシング・グレート」による力に他ならない。
稲盛は「宇宙の意志」を表に出すことにためらいを感じてはいた。しかしそれでもなお、多くの人々にこのことの大切さを伝えたいという強い思いをもっていたと思われる。稲盛はどのような経緯で「宇宙の意志」あるいはそれとの調和ということに想到し、なぜそれを重んじたのか。このことを稲盛哲学との関連において検討するのが、「稲盛哲学にとっての『宇宙の意志』」と題する本稿の目的である。そのため、「宇宙の意志」の意味については、稲盛自身による一般向けの説明(例えば、先に引用した『京セラフィロソフィ』におけるそれ)のみで基本的には十分とみなす。稲盛が言う「宇宙の意志」とはそもそも何かについて(一般向けの説明以上に)立ち入って考察したり、他の思想・哲学にみられる「宇宙」論(例えば中村天風のそれ)との関係を吟味したりすることが目的ではない。「宇宙の意志」の稲盛哲学における意義―稲盛哲学の理解と実践にとってどのような意味をもつのか―に焦点を当てて考えていく。
議論を先取りするなら、それ自体フィロソフィの構成要素の一つである「『宇宙の意志』との調和」は、(他の諸々の項目から構成される)全体としてのフィロソフィなり稲盛哲学なりを実践していく、その根底を支えるもの、足場となるものである。稲盛哲学が単なる思惟にとどまることを許さず、その実践を必須としたことを考えれば、「稲盛哲学の実践の根底を支える」ということの重さは、容易にわかるであろう。そうであれば、「『宇宙の意志』との調和」は、稲盛哲学を稲盛哲学たらしめるもの―フィロソフィ中のフィロソフィ―とさえ言えるかもしれない。
稲盛自身は自らの哲学における「宇宙の意志」の位置づけを、そのようなものと必ずしも明示的には発言しなかったであろう。しかし先述の「入れ替え」の一件のみならず、次節で述べる稲盛哲学の特質に照らして考えても、「宇宙の意志」との調和をそのように位置づけることが可能だと思われる。もし仮に稲盛はそこまで考えていなかったとしても、稲盛亡き後、その哲学を継承し、その実践を志す人々にとって、宇宙の意志との調和がそれを支えるものであることを知ること、そしてなぜそうであるのかを知ること、は十分に意味のあることだと思う。
以下、第2節では、「先義後利」という切り口によって、稲盛哲学の特質を「義と利を高次元で両立させる」ことと捉え、それを実践するためには「義を行えば利はついてくる(善因は善果を生む)」ことへの確信が不可欠であることを論ずる。稲盛にその確信を与えたのが、他ならぬ「宇宙の意志」との調和であった。稲盛がこの考え方にどのようにして出合い、なぜそれを確信するに至り、その確信をどのように発信したのか。これらの経緯を跡づけるのが第3節である。稲盛がそうした確信を得た1980年代半ば前後は、折しも経営者・稲盛が第二電電設立などいくつかの大きな意思決定を下し、また思いがけぬ困難に見舞われもした時期であった。第4節では、この時期の稲盛にとって「宇宙の意志」への確信を得たことがもった意義を検討する。第5節では、本稿の議論全体をまとめると共に、「宇宙の意志」を引き合いに出す哲学を「怪しい」とみることの是非について考える。
前節では「稲盛哲学」という言葉を明確な定義なしに使ったが、本稿においては「稲盛和夫の経営哲学」のことを「稲盛哲学」と呼ぶ。経営哲学とは、経営とは何か(経営観)、事業活動は何のためか(目的)、いかに行動すべきか(規範)といった経営の根本的な問題に関する、その経営者の―価値観と不可分の―考え方を言う。
「(京セラ)フィロソフィ」はもちろん稲盛の「経営哲学」の柱となるものだが、フィロソフィだけが稲盛哲学ではない。そもそもフィロソフィだけでは「経営」は成り立たない。「フィロソフィとアメーバ経営を車の両輪として経営する」―これもまた稲盛の経営哲学である。「フィロソフィ」よりも一段高い次元から「経営」の在り方全体を規定したものである。
逆に「フィロソフィ」の中身に降りていき、それについて稲盛が敷衍・注釈することによって「経営」の在り方(としての経営哲学)が明確にされることもある。例えばフィロソフィを代表する「利他の経営」(4)について、稲盛は次のような注釈をしている(稲盛、2015、14)。
しかし、ここで皆さんにご注意をいただきたいのは、「利他の経営」を、「私は利益が要りませんから、他の方が利益をとってください」というような、会社の利益を軽視するような経営だと誤解しないようにしていただきたいということです。私の言う「利他の経営」とは、決してそのような経営を意味しているわけではありません。
我々が市場経済の中で生きていくには、自分の会社を守るために、懸命に働いて利益をあげる必要があります。「利他の心」で経営する場合であっても、当然、企業間競争があるわけですから、我々は必死になって働き、利益をあげて、生存競争に生き残っていかなければなりません。
「利他の心」は倫理・道徳として追求してしかるべきものだが、「経営」においてそれを実践する場合「自己の利益」を無視してはいけない、単なる「利他」ではなく「利他と自利の両立」を図らねばならない、と言うのである。
利他は人として為すべきことであるから「義」と言い換えることができよう。そうした「義」と自らの「利」とをどちらも全うする。このことは、じつは「フィロソフィとアメーバ経営を両輪として経営する」にも当てはまる。「人間として何が正しいのか」「人間として正しいと思うことを貫く」というフィロソフィはまさに「義」である。これに対してアメーバ経営では「各アメーバは自分の食い扶持を自分で稼ぎ、自分を守ろうとするエゴを発揮しなければ生き残れない」(稲盛、2010、75)というほど、強烈な「利」の追求が求められる。しかしこれに続けて稲盛は言う(稲盛、2010、75。〔 〕内は引用者)。
だが、一方で会社全体の視点で、トータルの利益を最大にすることが〔各アメーバの〕本来の使命である。個の利益と全体の利益のあいだで対立が起こると、葛藤が絶えない。その葛藤を克服するには、個としての自部門を守ると同時に、立場の違いを超えて、より高い次元で物事を考え、判断することができる経営哲学、フィロソフィを備える必要がある。
「個の利益」を図るという「利」の追求と同時に、それぞれの個はフィロソフィに基づき、「本来の使命」である「全体の利益」という「義」を追求するのである(5)。
以上のことから、フィロソフィをベースとした稲盛経営は、「利他の経営」であれ「アメーバ経営」であれ、「義と利を両立させる」経営だと言えよう。前者は「利他という義のみでなく自利という利も蔑ろにしない」のであり、後者は「各アメーバの利益という利にとどまらず、会社全体の利益という義を実現させる」のである。しかも「義」の根拠となるフィロソフィは頭でわかっているだけではダメで、どんなときでもその実践を貫き通すことを求め、「利」に関してはただ採算が合えばよいのではなく高収益企業を目指す。「義と利を高い次元で両立させる」ことが稲盛哲学の特質と言えよう。
稲盛の言うアメーバ経営における「個の利益と全体の利益の調和」は、その表れの一つである。稲盛はまた「自利利他」という仏教の言葉も折に触れて持ち出したが、これもまた「義と利の両立」を言っている。稲盛自身は「義と利」という言葉の対比を使って自らの哲学を語ることはなかったと思われる。しかし「義と利の高次元での両立」という見方によって、稲盛哲学に対する理解を深め、さらにその背後にある稲盛の真意を読み解きやすくなると筆者は考えている。
(2) 先義後利の稲盛経営「義と利を(高次元で)両立させること」が稲盛哲学の特質だと言っても、実際の経営において義と利の間には強い緊張関係がある。放っておけば自動的に両立するなどというわけにはいかない。では、どうすれば両立させることができるのだろうか。
「義と利を両立させる」ということで言えば、稲盛よりも100年前の実業家、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の「論語と算盤」「道徳経済合一」という経営哲学も同じであった。その渋沢にとって、義と利を両立させるための要訣は、儒学で言うところの「先義後利」(義を先にして利を後にす)というスタンスであった。このことは拙著(2024)で詳しく論じたところである。そして(同書の中でもたびたび指摘したように)稲盛もまた先義後利で経営にあたる経営者であったと言える。「どうすれば義と利を両立させることができるか」という問いに対する稲盛の答えもまた(稲盛自身はそうは表現しなかったものの)「先義後利」であったと考えられる。その根拠をこれから示していくが、その前に先義後利という言葉の意味について、誤解のないよう概説しておきたい。
「先」と「後」には2つの意味合いがある。一つは、読んで字の如く時間的な前後関係である。「まず義を行ってその後で利を得る」のが先義後利である。もう一つは価値的な軽重の関係である。「先」には時間的な順序だけではなく、尊ぶ、重んじるという意味もある。つまり「義を重んじて利を相対的には軽んじる」のが先義後利である。ここで敢えて「相対的には」という限定句をつけたのは、単に「利を軽んじる」と言ってしまうと「利などどうでもよい」(稲盛の言葉を借りれば「私は利益が要りませんから、他の方が利益をとってください」)と受け取られかねないからである。稲盛や渋沢の説く所は決してそうではない(元来の「先義後利」も「利を捨てろ」とは言っていないと解することができる)。利も大切なのだが、それよりも義の方を重んじるのである。それゆえ価値的な軽重としての先義後利は、「利(も重んじるがそれ)よりも義を(一層)重んじる」と表現した方がより紛れがないだろう。「後利」を「利の軽視」と誤解しないように留意されたい。
稲盛経営にはこのような先義後利のスタンスを見て取ることができる。それによって実現を期する「義と利の両立」に相当する稲盛の言葉の一つが、先にも挙げた「自利利他」である。これについて稲盛は次のように述べている(稲盛、2015、13–14)。
(……)仏教の世界では、自分と同時に相手のことも考えて行動することを「自利・利他」という言葉で表しています。「自利」とは自分の利益のこと、「利他」とは他人の利益を考えることであります。
つまり「自利・利他」とは、自分が利益を得たいと思って行うことは、同時に他人の利益にもつながるべきだということです。相手が儲かるようにすれば、自分も儲かる。そのことを「自利・利他」という言葉で説いているのです。
ただ、この説明だけでは利他(義)と自利(利)のどちらが「先」であるかがはっきりしない。「自分が利益を得たいと思って行うことは、同時に他人の利益にもつながるべきだ」では、義と利のどちらが「先」とは言っていないし、「相手が儲かるようにすれば、自分も儲かる」では、見方によっては「相手を儲けさせるのは、自分が儲かるための手段」という、いわば「先利後義」と解することさえできる。「自利利他」という言葉に対する一般的な理解も、たいていは前者のような「無差別」あるいは後者のような「損得ずく」(それゆえ、自分が損をするかもしれないようなことまでして相手を儲けさせる、などというお人好しなことはしない)の域を出ないであろう。
しかし、稲盛が考える自利と利他の関係は、そのいずれでもなかった。たとえ自分には不利になっても(損をするかもしれなくても)まずは利他が先にあって、その上で自利も得られるように必死に努力していく―それが稲盛にとっての「自利利他」である。つまり先義後利なのである。
例えば「『自利利他』の精神で中国に進出する」という講演(2002年6月)で、京セラが生産委託方式で中国進出を始めたときのことを、稲盛は次のように振り返っている(稲盛、2016b、466。〔 〕内は引用者)。
生産委託をした瞬間から、中国側は〔京セラに対する〕ビル賃貸の利益と、〔京セラからの〕人材派遣の利益の両方が保証される。そしてリスクはまったくない。逆に、われわれ京セラ側には、〔賃借した建物に〕機械をもち込み、設置をし、そこで〔人材も派遣して〕運営をしてものをつくる、それをまた世界中に販売するというリスクが発生するわけですが、まずは中国側に利益を確保してもらおう、われわれの利益はその後の努力で追求していけばいい、そう思って中国に出て行きました。
この講演では、その後、合弁方式で中国に大規模進出したときのことにも触れ、立ち上げ当初から、できあがった製品を原価に5%の利益を上乗せして京セラが引き取ることにしたことを紹介している。初期段階からこんなことをすればむろんこちらは赤字になるだろうが、「日本側にも利益が十分残るように早急に改善を図る。それがわれわれ京セラ側の責任だと考えました」と述べている(稲盛、2016b、468)。
生産委託にせよ、合弁にせよ、相手方には確実に利をとらせて、自分の方がリスクをかぶるという(いわば「お人好し」な)やり方で、しかし自利もきちんととれるように最善を尽くす。稲盛は、中国でのこのような企業経営のやり方が「まさに、(……)『自利利他』ということです」と同講演の中で明言している(稲盛、2016b、466)。稲盛において「自利利他」という利と義の関係が、「無差別」でもなく損得ずくの「先利後義」でもなく、「先義後利」に他ならないことは明らかである。
このスタンスは、中国進出に限らず、稲盛経営の至る所に見て取れる。例えば、京セラの企業成長においては、サイバネット工業(1982年)、ヤシカ(1983年)、米AVX(1990年)、三田工業(2000年)などのM&Aは大きな役割を果たした。ただし、こうしたM&Aと企業成長の関係について、稲盛は2000年11月の京セラグループ国際経営会議で次のように語っている(稲盛、2000、259。〔 〕内は引用者)。
ジャーナリストは、京セラが常にM&A戦略によって事業を拡大してきたととらえようとしますが、私は創業以来一貫して、今日話をしてきたように、「善きこと」を重ねてきた会社だと思っています。〔サイバネット工業、ヤシカ、三田工業はいずれも形式的には合併や子会社化だったが、実質的には、救済を求めてきたこれら企業のために〕人助けをしてあげたその結果が、よい結果を招いただけのことです。幹部の皆さんも、このことをよく理解してください。
ただしAVXは〔救済とは異なり、実質的な〕買収です。しかしそのやり方も、相手のためによくしてあげようという思いに基づいています。(……)
打算や損得勘定をベースにしたことは、1回もありません。私は創業以来41年たった今も京セラが成長し続けているベースは、そこにあると思います。戦略戦術がよいから成長し続けられるのではないことを、あらためて考えていただきたいと思います。
つまり、京セラのM&Aは「利を先」とした「戦略」として行ったのではなく、「義を先」とした「利他」として行ったのであり、しかもその結果として、企業の成長という「利」も得られている、と言うのである。これもまた先義後利のことである。そしてこの先義後利こそが「京セラが成長し続けているベース」だと言うのである。
ところで義は「相手をよくする」だけではない。「相手を損なわない」ことも義である。自分の利を優先して、相手に理不尽な目に遭わせるのは先義後利に反する。そんなことをするぐらいなら、敢えて自分の利を手放す―これも先義後利に他ならない。稲盛経営におけるその一例が、日本航空(JAL)再建時のアライアンス問題―JALがアメリカン航空と主導してきたワンワールドから、デルタ航空が主導するスカイチームに移るかどうか―に関する対応である。再建が急務のJALにとってスカイチームに移籍した方が明らかに有利であることは、社内外の一致した見方であった。ところが稲盛は移籍を良しとしなかった(6)。理由の一つは、顧客がこれまでためたワンワールドの特典が使えなくなることだった。稲盛曰く「JALに乗ってくださっているお客様は、JALがこんなことになって、それでも乗ってくれているお客様じゃないか。そのお客様にメリットのないことをすべきではないだろう」(大西、2013、127)。もう一つの大きな理由が、アメリカン航空に理不尽な損害を与えるからであった。稲盛の考えはこうである(大西、2013、127、128。〔 〕内は引用者)。
我々がスカイチームに移れば、太平洋路線ではデルタが圧倒的に有利になる。JALにとっても悪い話ではない。一方のアメリカンは、片方の翼をもぎ取られるようなダメージを受ける。しかし、この件に関してアメリカンに落ち度はない。移籍はあくまで我々の都合です。
デルタの提案は確かに魅力的でしたが、そのために落ち度のないアメリカンを見捨てるというのは、理〔経済合理性=利〕にはかなっていても信義〔=義〕にもとる。
結果的に、JALはワンワールドにとどまった。しかしそのような「不利な」選択をしながらも、JALはV字回復を遂げたのである。ここにも先義後利がある。
稲盛のアメーバ経営からして、アメーバは「トータルの利益を最大にすることが本来の使命」(義)であり、それを前提として個々のアメーバが自らの採算をあげていかねばならない(利)、その意味でやはり先義後利である(7)。日々月々のアメーバ経営から、何年かに一度の経営判断となる企業買収や企業連合に至るまで、稲盛経営のベースには先義後利がある。
(3) 〔規範〕の実践に不可欠な〔真理〕への確信稲盛哲学の特質は「義と利を(高次元で)両立させる」ことであり、稲盛は「先義後利」というスタンスをとることによってそれを実現させてきた。これが本節のここまでで述べてきたことである。じつはその「先義後利」には―稲盛の場合に限らず、一般に―2つの意味がある。一つは「利よりも義を重んじる」、もう一つは「義を行えば利はついてくる」である。前者を〔規範〕としての先義後利、後者を〔真理〕としての先義後利と呼ぶ(8)。
まずは「利よりも義を重んじる」という〔規範〕としての先義後利について。上述したように「先」には時間的な「前」(↔後)と価値的な「重」(↔軽)の2つ意味合いがある。「先義後利」を読み下せば「義を先にして利を後にす」となる。ただ、これは「後で利益を得るための便宜上、義を先にやっておく」といったような損得ずくの“規範”(というよりは「策略」だが)を言っているのではない。例えば「正直は最良の策(Honesty is the best policy.)」なる諺に従って、「自分の評判を高めて儲けたいがために、便宜上、正直に振る舞っておく」のは先利後義であって先義後利ではない。正直という義はそれ自体が大切だから(たとえ自分には不利だとしても)正直に振る舞い、しかしその上で、自らの利を得るように努めるのが先義後利である。つまり〔規範〕としての先義後利の主眼は、時間的な前後関係よりも価値的な軽重関係にこそある。利よりも義を価値的に重んじれば、義を(たいていのケースでは)時間的に先にもすることになる。上で紹介したいくつかの事例のいずれもが、稲盛による〔規範〕としての先義後利の実践であった。
一方、先義後利には「義を(先に)行えば利は(後から)ついてくる」という〔真理〕としての意味合いもある。先義後利の代表的な典拠として「義を先にして利を後にする者には栄あり、利を先にして義を後にする者は辱あり」(『荀子』[栄辱篇])がしばしば挙げられる。義を先に行えば「栄」という利がついてくるのであり、逆に利を先にしたのでは利が得られるどころか「辱」を被ることになる。ここでの「先」「後」はもっぱら時間的な前後であり、義を行うことを「原因」とし、利を得ることを「結果」とする、時間的な因果関係の事実を言っている。この義と利の間の因果に基づく事実関係を、ここでは〔真理〕としての先義後利と呼ぶのである。
「真理」といっても、もとより「義を先にしさえれば、利は後から自動的についてくる」などという安易なことを言っているのではない。真理であっても、そこには懸命な努力(稲盛流に言えば「誰にも負けない努力」)が必要である(9)。「そうした懸命な努力をしつつ義を実践していれば、利は後からついてくる」のである。先のM&Aに関する話の中で、打算や損得勘定ではなく「善きこと」を重ねてきたことの結果として京セラが成長し続けている、という稲盛の発言は、〔真理〕としての先義後利に対する認識を言表した一例である。
ここまで述べてきた〔規範〕(としての先義後利)と〔真理〕(としての先義後利)との間の関係について考えてみよう。〔規範〕は判断や行為にあたっての主観的動機に関わるのに対して、〔真理〕は客観的事実に関わる。そして、個々の経営者の立場に立てば、①経営において〔規範〕の実践を重ねることで〔真理〕が成就する。例えば「利他」の精神に基づいて他社を救済したり買収したりする(その上で、利益があがるように努力する)のを積み重ねることで、その企業が成長し続ける。
いまこの関係(下線部①)を〔規範〕→〔真理〕と表現するなら、じつは両者の間には〔真理〕→〔規範〕という逆の関係も見出すことができる。その場合の両者の関係とは、②〔真理〕への確信があってこそ、経営において〔規範〕の実践を徹底できる、というものである。ここでは、義など端から重んじる気のない、いわば「道徳心の低い」経営者のことは措くとして、「自分も先義後利の経営をしたい」という志のある「道徳心の高い」経営者(むろん稲盛もここに属する)のことを考えよう。義と利の間に緊張関係がある以上、こうした経営者にとってさえ、先義後利の〔規範〕の実践は必ずしも容易ではない。「利を優先したい」という欲求に負けそうになることもあるだろうが、ここで問題にすべきはむしろ「義を優先して本当に大丈夫か?」という不安の方である。経営者にとって利は「得たい」という欲求の対象であるだけでなく、「得なければならない」という責任の対象でもある。その責任を全うできるのか―「義を優先したはいいが、その結果、会社は潰れてしまいました(潰れはしなくても、あまり業績があがりませんでした)」などということになりはしないか―という不安である。
この不安は、〔規範〕としての先義後利の実践を妨げるであろう。利益をあげなければという(責任上の)プレッシャーや焦りにおされて、先義が不徹底になってしまいかねない。〔規範〕としての先義後利の実践を徹底するためには、この不安を払拭しなければならない。そのためには「義を行えば利は後からついてくる」という〔真理〕としての先義後利に対する「確信」が必要なはずである。
この確信をどのようにして得るか。それは経営者ごとに様々であろう。渋沢栄一の確信を支えたのは儒学であった。そして稲盛にとって、その確信の源泉だったのが、他ならぬ「宇宙の意志」だったと考えられるのである。
先述のように「義を行えば利はついてくる」という〔真理〕としての先義後利は、義を行うことを「原因」とし、利を得ることを「結果」とする、時間的な因果関係の事実を言っている。言うまでも無く、これは稲盛がしばしば言及した「因果の法則」(稲盛は「因果応報の法則」とも呼ぶが、ここでは「因果の法則」で統一する)、すなわち「善きことを思い・行えばよい結果が生まれ、悪いことを思い・行えば、悪い結果が生まれる」というのと、言わんとするところは同じである。
稲盛は「因果の法則」という考え方に、安岡正篤著『運命と立命』という本で出合った。出合った当初は心から信じることはできなかったが、やがて確信を得るに至る。それは、宇宙物理学者からビッグバンに始まる宇宙生成の話を聞いたことによってであった。稲盛はその科学的な事実を認識して初めて「因果の法則」―〔真理〕としての先義後利―に心から納得がいったのである。
この間の経緯について稲盛がある程度まとまった形で述べたものの一つに、2008年10月にニューヨークで行われた市民フォーラムにおける講演(稲盛、2009)がある(10)。ここでは主としてその内容を元に、確信を得るまでのプロセスを振り返ってみよう。
稲盛は人生というものを、自分に元から定められている「運命」という縦糸と自分の思いや行動が作用する「因果の法則」という横糸とで織りなされたものであって、「因果の法則」によって「運命」を変えることが可能である(前者の方が後者よりも「若干強い」[稲盛、2016c、387])、と観じていた。稲盛によれば、そうした人生観をもつきっかけになったのが「経営に悩みに悩んでおりました若い頃に出合った、安岡正篤さんの『運命と立命』という本でした」(稲盛、2009、5)。
『運命と立命:陰騭録の研究』は、漢学者・安岡正篤が1968~69年に関西師友協会主催の先哲講座で行った講義に基づく書物であり(安岡、1990、2、230)、1978年11月に同協会から出版された(現在は、『立命の書『陰騭録』を読む』[安岡、1990]というタイトルで致知出版社から刊行されている)。稲盛が具体的にいつこの本に出合ったかは定かではないが、ここではさしあたり出版後まもない1979年頃と想定しておこう。同書は、中国明末の学者・袁了凡が著した『陰騭録』を安岡が解説したものである。「陰騭」は『書経』(洪範)の「天、下民を陰騭し(天が、人民を覆い定め)」に由来し(加藤、1983、148)、「人は天意に随って行動すれば安定な生活ができる」ということを一般に含意する(石川、2011、9)(11)。安岡は、『陰騭録』の説く所を踏まえて、「自然の支配する法則〔運命〕を、人間の探究によって得た法則に従って変化させてゆく〔立命〕、これが陰騭であり」「陰騭録はこの原理・原則を解明しておるわけであります」と述べている(安岡、1990、15、16。〔 〕内は引用者)。詳細は割愛するが、このような所説から、稲盛は「運命」と「因果の法則」とから成る人生観を得たわけである。
本書と出合ったのは、稲盛が「経営に悩み」「一寸先がみえない人生を、どう渡っていけばよいか悩んでいた」ときであった(稲盛、2009、9)。
私にはどういう運命が待ち構えているのか、私には知る由もありません。運命の命ずるままに生きていく中で、いろんなことに遭遇するでしょう。しかしその中で、私は少なくとも善いことを思い、善いことを実行するような人生を送っていこう。この本に出合って、私はそう思ったのです(12)。
ところが、これで悩み解消とはいかなかった。稲盛は続けて言う。「しかし、そうは真剣に思ってはみても、まだ若い私です」「(……)善いことを思い、善いことをすれば、人生はよい結果の方向へ変わっていくのだということを信じようと思っても、なかなか簡単には信じられなかったのです」(稲盛、2009、9、10)。因果の法則を心の底から信じることはできなかった、というのである。信じられなかった理由は、単に若かったからだけではない。稲盛が挙げた理由を大別すれば2つある(13)。
第一に、稲盛の「合理主義」が妨げになったからである。「理工系の大学を出て、技術屋としてセラミックスの研究開発を行ってきた」「合理的で理屈っぽい」自分であるがゆえに、因果の法則などというものを簡単には信じ切れなかったと稲盛は言う。その背景として、「〔運命や因果の法則のような〕論理的、科学的でないもの、証明できないものは迷信だとして否定」(〔 〕内は引用者)する近代以降の学校教育の影響にも言及している。
第二に、現実をみると、因果の法則が本当に成り立つのか疑わしいケースが散見されるからである。善いことをしても善い結果が生じない、それどころか悪い結果に見舞われる人もいる。逆に悪いことをしても悪い結果が生じない、それどころか善い結果さえ享受している者もいる。稲盛は後に、1年や2年の短いタイムスパンでみればこうした不規則性があるにせよ、30年、40年といった長いタイムスパンでみれば因果の法則は必ず成り立つと理解するようになるのだが、いずれにせよ原因に応じた結果が出るまでに時間がかかること自体が、因果の法則への確信を妨げるものであった。
(2) 宇宙物理学からの気づき:「因果の法則」の確信因果の法則を強く意識するようになったものの、未だそれに確信がもてずにいた稲盛だったが、重要な変化が訪れた(稲盛、2009、9)。
そのことをわかろう、理解しよう、信じようとして、必死に悩み、考えていましたとき、ひとつ気づいたことがありました。それは友人であり、京都大学で天文物理を専門としている先生から聞いた話の中にありました。現代物理学の宇宙生成の理論の話です。この気づきによって、理屈っぽい技術屋である私は因果の法則の存在を心から信じるようになったのです。
稲盛の理解と気づきは概略次のようなものであった(14)。宇宙は130億年前、ひと握りの高温の素粒子のかたまりであった。それがビッグバンと呼ばれる爆発的な膨張によって、まずは水素原子が、それからヘリウムなど様々な原子が生まれた。そして原子が分子をつくり、分子が高分子をつくり、やがてDNAをもつ生命体が誕生し、それが進化に進化を重ねて人類にまで至っている。
稲盛は「これが現在の地球の姿であり、宇宙の発展の姿なのです」として、次のように述べている(稲盛、2009、13–14)。
(……)宇宙は、素粒子を素粒子のままにしておきませんでした。一瞬たりとも放置することなく、それらを次から次へと成長発展、進歩発展させていったのです。(……)そうして(……)今日の宇宙をつくってきたわけです。
そういうことを考えれば、この宇宙には森羅万象あらゆるものを生成発展させていく法則があると言ってもよいと思うのです。あるいは、宇宙には、無機物、有機物、すべのものを慈しみ、育て、よい方向へよい方向へと進めていくような気が流れていると言ってもよいのかもしれません。または、宇宙にはすべてのものを愛し慈しみ、よい方向へと流していくような愛が充満している、宇宙にはすべてのものを慈しみ育てていくような意志があるというふうにいってもよいのかもしれません。
稲盛が「宇宙生成の理論」の話を聞いた「天文物理を専門としている先生」とは、京都大学基礎物理学研究所・教授(当時)の佐藤文隆である(15)。稲盛はいつどのような機会にこの話を聞いたかまでは語っていないと思われるが、公開の席で聞いたとすれば、恐らく1983年11月9日に開催された京都会議第19回例会で佐藤が行った「ビッグバンと宇宙物理学」と題する基調講演であろう(16)。もっとも、この基調講演の記録(佐藤、1984)を読む限り、素粒子に始まる物質の生成に触れた部分はごくわずかである(17)。まして、佐藤は生命や人類の誕生にまでは言及していない。また、この基調講演の内容から「宇宙に森羅万象を生成発展させる『法則』がある」という着想は十分得られるようには思われるが、それを「気の流れ」や「宇宙の意志」とみることは、稲盛独自の思考展開である(18)。『稲盛和夫の哲学』で、稲盛は「無機質的な法則というよりは、宇宙にはすべてのものを生成発展させ、進化させていく『意志』が存在するというふうに考えたほうがよいと思うのです」と述べた上で、「これは、多くの人たちに理解してもらいやすくするために、擬人法的な手法でいっていますが、そういう捉え方が嫌いな人は、宇宙にはそういう法則があると理解されてもよいと思います」と注釈をつけている(稲盛、2003、23)。
ここで重要なことは、宇宙がもつ素粒子レベルから人類にまで及ぶ生成発展の「働き」―それを法則と呼ぶにせよ、意志と呼ぶにせよ―に稲盛が気づいたことであり、その気づきの発端になったのが宇宙物理学という「科学」の知見だったということである。この気づきの内容―その発端から稲盛の結論に至るまでの間―には「科学」としての濃淡にグラデーションがあるとはいえ、稲盛にとっては、この気づきは「科学」に根差したものであった(19)。だからこそ、「技術屋の理屈っぽい私」が因果の法則に得心する助けになったのである。
とはいえ、宇宙に万物を生成発展させる法則/意志があるという科学的な気づきによって、なぜ「善き(悪い)ことを思い・行えば、よい(悪い)結果が生まれる」という人間の世界における道徳的な「因果の法則」に得心できたのか。稲盛の考えはこうである(ニューヨーク市民フォーラムでの発言[稲盛、2009、14–15。〔 〕内は引用者])。
そういう〔生成発展の法則/意志のある〕宇宙に我々は住んでいます。(……)すべてのものを愛し、すべてのものを慈しみ、すべてのものによかれかしと思うような「善い想念」を我々が抱いたとき、その想念は宇宙の波長と合います。人生が好転していくのは、宇宙の波長、宇宙の想念、宇宙の意志に合うからなのだと思って、私はうなずいたのです。
『陰騭録』で言われている因果の法則は単なる迷信ではない。科学的に考えても、これは宇宙の意志に合う。だからうまくいくのだ、と私は理解をしました。
人間の善き想念は宇宙の意志と調和するから、(いわば宇宙の意志に助けられて)その人の行為はよい結果を得られる。因果の法則が実現するのである。
ここでは、「(a)宇宙の働き」と「(b)人間の思念・行動」が―すなわち「(a)宇宙における生成発展の法則」と「(b)人間界における因果の法則」が―関連づけられている。(a)は濃淡のグラデーションこそあれ《科学》だとしても、(a)から(b)への架橋(関連づけ)には論理上の跳躍がある。この跳躍による架橋に、稲盛の《哲学》がある。宇宙物理学という《科学》と地続きとは言わないとしても、《科学》から橋渡しされた《哲学》としての「宇宙論」がここにある。そしてこの宇宙論こそ稲盛哲学を特徴づけるものに他ならない。ただし、宇宙の働きと人間の営みを関連づける《哲学》としての宇宙論は、決して稲盛だけの特異な―もっと言えば「怪しい」―ものではない。これについては最終節で論じる。
(3) 「宇宙の意志」論の社内外への発信「宇宙の意志との調和」という論拠によって、稲盛は人間界の因果の法則に確信をもつようになった。それを導いたのが、1983年11月京都会議例会での佐藤文隆講演だとすると、稲盛はそれからほとんど月日をおかずに、その確信を京セラ社内に発信したことになる。第1節で触れたように、稲盛は1984年4月の「創立満25周年記念講演」で「宇宙の意志」に言及したのである(20)。単に言及したどころではない。「“宇宙の意志”と調和する心」が講演のタイトルであった。『京セラフィロソフィ』巻頭第1項はここに淵源をもつのである。
この講演を含む京セラの創立満25周年記念行事は、社員旅行も兼ねて東京で実施された。1984年4月14~27日の14日間に、グループ社員を含む11,115名が10団体(それぞれ4日間の日程)に分かれて参加した大規模な行事であった。当時社長だった稲盛による記念講演は、新高輪プリンスホテル「飛天の間」で記念式典と共に行われた(21)。稲盛はその講演を10団体それぞれに対して行った。つまり同じ講演を計10回行ったのである。それによって「“宇宙の意志”と調和する心」を、参加した1万人あまりの社員全員に直接語りかけた。稲盛は自分が得た確信を語るに速やかだっただけでなく、徹底してもいたのである。
この講演の内容は、1頁2段組で17頁に及ぶ講演記録(稲盛、1984)として残っている。全体で17の節に分かれているが、「宇宙の意志」が出てくるのは第14節「生きとし生けるものを発展させていく“宇宙の意志”」以降である(それ以前の話も「宇宙の意志」と無関係ではなく、むしろその土台となるような内容も含まれるが、本稿では立ち入らない)。これまでに紹介した発言と重複するが、稲盛が最初に「宇宙の意志」に触れた講演での発言として、核心部分のみ引用しておこう(稲盛、1984、16)。
宇宙そのものは、すべてのものを生成発展させよう、という方向に流れていますから、それと逆行するような、人を恨んだり、妬んだり、自分だけ良ければいいという、私利私欲の心、つまり、森羅万象のすべてを生かそうとする宇宙の意志、神の導きに逆行するような念波を出しますと、その瞬間に運命は変わるのではないかと思うのです。
反して宇宙の流れと同調し、調和するような心、きれいな心で描く美しい思いというのは、宇宙の意志と同じ方向をたどっているわけですから、先々の運命も、良くなっていくのではないかと考えます。
これに続く稲盛の次の発言に注目したい(稲盛、1984、16)。
京セラフィロソフィにおいて、われわれはどう生きるべきか、ということを言い続けてきたことは、ここまで考えを深めてきた現在、決してまちがいではなかったと、思います。また、人生の結果は考え方×熱意×能力、であると言い続けてきましたが、考え方というのは本当に大事なことであったのだと、改めて今そう思います。
「人生の結果・仕事の結果=考え方×熱意×能力」という稲盛の「人生方程式」は、現在でもよく知られている。その起源は古く、1967年1月15日付の稲盛の直筆メモに記された「京セラ精神」の中でも、それを元に制定された京セラ「社員手帳」(第1版は1968年発行)所収の「京セラ精神について」の第4節3.にも、この方程式が記されている(22)。
稲盛は3要素の中で「考え方」を比較的早い段階から最重要と位置づけてきた。それは熱意や能力は0点から100点までだが、考え方はマイナス100点からプラス100点まであり、「考え方次第で人生や仕事の結果は180度変わってくる」からである(稲盛、2014、330)。マイナスもありうる「考え方」の重要性は、例えば1973年3月の「大卒新入社員入社式講話」でも語られている(稲盛、1973、31)。
この「考え方」こそ因果の「因」としての「何を思うか」であり、それがプラスであれば結果もプラスとなり、それがマイナスであれば結果もマイナスとなる。この方程式は稲盛がいわば経験則として編み出したものであったが、それが正しいことを(稲盛がいまや確信するに至った)「因果の法則」が裏付けてくれたわけである。さらに言えば、この発言からは、因果の法則という〔真理〕(への確信)が、「われわれはどう生きるべきか」という〔規範〕(に従って行為すること)を保証するものと稲盛が実感していることが窺える。因果の法則という〔真理〕がある以上、「利他の経営」や「人間として正しいことを貫き通す」というフィロソフィの〔規範〕を自信をもって実行できる。
このことは、「宇宙の意志」論に基づく因果の法則への確信が、さらには稲盛自身のフィロソフィそのものへの確信をももたらしたことを意味する。先に引用した稲盛の発言、「京セラフィロソフィにおいて、われわれはどう生きるべきか、ということを言い続けてきたことは、ここまで考えを深めてきた現在、決してまちがいではなかった」がそれを如実に物語っている。その意味で、フィロソフィの第1項目「『宇宙の意志』と調和する心」はフィロソフィ全体を支える根底なのである。
「宇宙の意志」論を京セラ社内には早くから発信した稲盛だったが、これを社外の一般向けに公言するようになるのは、現段階までの筆者の調査によれば、2000年代に入ってからである。稲盛の最初の著作で、今も広く読まれている『心を高める、経営を伸ばす』(PHP研究所、1989年)にも、その続編ともいうべき『成功への情熱』(PHP研究所、1996年)(23)にも出てこない。『敬天愛人―私の経営を支えたもの―』(PHP研究所、1997年)では、「宇宙の摂理」という言葉で、1984年に端を発する「宇宙の意志」論が初めて紹介される(24)。
「宇宙の意志」が稲盛の一般向けの著作にあらわれるようになったのは、2001年に単行本が刊行された『稲盛和夫の哲学』からである。同書の「第二章 宇宙について」で、「宇宙の意志」が事実上初出し(25)、上で紹介したような稲盛の理解が披瀝されている。その後2004年に刊行された『生き方』(サンマーク出版、2004年)によって、稲盛の「宇宙の意志」論は広く世の中に知られるようになったと言えよう。1984年に稲盛が京セラ社内で初めて公言してから、じつに20年がたっている。こうしたプロセスは、「宇宙の意志」という言葉で一般向けに語ることに、稲盛自身も慎重であったことを窺わせる。
前節で指摘したように、「宇宙の意志」論に基づく因果の法則への確信は、稲盛自身のフィロソフィそのものへの確信をももたらした。これは第2節の先義後利論に即して言えば、〔真理〕としての先義後利を確信することによって、〔規範〕としての先義後利を迷いなく、力強く、実践できるようになった、ということを意味する。
稲盛は〔真理〕を確信したから〔規範〕を実践するようになったのではない。第一に、「宇宙の意志」で因果の法則を確信したことがきっかけで改心したわけではない。すなわち、それまで散々人を恨んだり妬んだり、私欲に駆られたりしていたのが、「そんなことをすると悪い結果が起きる(バチがあたる)からやめておこう」と反省して態度を改めたのではない。第二に、「宇宙の意志」で因果の法則を確信したことによって啓発(enlighten)されたわけでもない。すなわち、それまで自分や自社のことだけ考えてもっぱら利己心で経営していたのが、「利他の心をもって宇宙の意志と同調すると確実に儲かる」とわかった(啓発された)から「利他の経営」を言い始めたのではない。
そもそも「全従業員の物心両面の幸福を追求し(……)」という京セラの経営理念からして、そのきっかけは―「因果の法則」を確信した1983年ではなく―創業3年目の1961年に起きた「従業員の思わぬ反乱」であり、この理念が正式に制定されたのは1967年である(京セラ株式会社、2010、644)。「人間は如何にあるべきか」を問う京セラフィロソフィ(当初は「京セラ精神」)が明文化されたのも同じ時期である。
〔真理〕の確信から稲盛が得たのは、〔規範〕たるフィロソフィへの改心でも啓発でもなく、いままで追求してきたフィロソフィという道を辿っていく(その〔規範〕を実践していく)ので間違いない、という自信であったはずである。自信という語はありきたりではあるが、これを得た1980年代前半という時期のことを考えると、そのことが稲盛にとってどれほど重要だったかを窺い知ることができる。
(2) 「宇宙の意志」で〔真理〕を確信した前後の経営者・稲盛稲盛が佐藤文隆の宇宙生成理論に関する講演を聴いた1983年11月を境として、その前後数年間の稲盛の経営や社会活動を手短に振り返ってみよう。
経営難に陥っていたサイバネット工業・友納春樹社長からの依頼で、同社を救済すべく京セラグループ入りさせたのが1979年9月である。「一度傾きかけた会社を再建することは、容易なことではないが、倒産寸前の会社経営のなかで、なんとか従業員を助けて欲しいという友納社長の思いには心を打たれた」(稲盛、2002、157)、「京セラは当時、電子機器を製造していなかったが、窮地に陥って助けを求めるものを見捨てるわけにもいかず、同社を支援することに決めた」(稲盛「私の履歴書」[日本経済新聞2001年3月21日付])と稲盛は振り返っている。そして1982年10月、京都セラミック(株)は同社を含む4社を吸収合併して、社名も京セラ(株)に改めた。
翌1983年初めにはカメラ業界のかつての名門・ヤシカの遠藤良三社長からも救済の依頼を受けた稲盛は、「当初はあまりに業種が違うと断った」ものの、同社の技術者や生産ラインの従業員のひたむきさに接して、「この人たちを何としても救って上げたいと引き受けた」(稲盛「私の履歴書」[日本経済新聞2001年3月21日付])。ヤシカを吸収合併したのは1983年10月である。
一方、稲盛が「世のために」と思って意欲を燃やしていた―しかし「動機善なりや、私心なかりしか」と半年ほども悩み続けた―電気通信事業への進出を最終的に決断し、京セラ取締役会に諮って手持ち資金1,500億円のうち1,000億円を使うことの了承を取り付けたのが1983年7月である。同じ月には、京都青年会議所の若い経営者たちから「いかに経営をすべきか教えてほしい」と稲盛が頼まれて、「盛友塾」(1989年4月からは盛和塾。以下、本稿では盛友塾だった時期も含めて「盛和塾」と呼ぶ)が発足している。
そうした中、1983年11月(ヤシカ吸収合併の翌月)、稲盛は京都会議第19回例会で佐藤文隆教授による基調講演「ビッグバンと宇宙物理学」を聴くことになる。「“宇宙の意志”と調和する心」と題する創立満25周年記念の社長講演は、その5ヶ月後の1984年4月であった。なお、同月には、稲盛の社会貢献事業を代表する「財団法人 稲盛財団」が、稲盛の私財200億円の提供(及び京セラの5億円の出捐)により設立された(京セラ株式会社、2010、238)。
その翌月、1984年5月には第二電電設立パーティーが開かれ(26)、6月、第二電電企画(株)(後の第二電電(株))が設立された。
第二電電(DDI)が正式な許可を受けて開業に向けて本格的な準備を始めたのは1985年6月だが、この年、稲盛は思いがけない大きな試練を経験することになった。同年2月から、国会である野党議員が京セラの(今日で言うところの)コンプライアンス上の疑念を相次いで追及し、稲盛と京セラはマスコミから強烈な批判を浴びたのである。週刊誌には「社員がボロボロ辞めていく『京セラ』稲盛イズムの落し穴」(『週刊文春』1985年5月2日号)、「問題多発の京セラ・稲盛社長が沈黙を破って『全反論』」(『サンデー毎日』1985年8月4日号)などといった見出しが躍った。京セラに脇の甘さがあったことは事実であり、その点について稲盛も反省と謝罪を表明している。一方、国会でこれらの問題を追及した野党議員の所属する政党がNTT分割に強く反対しており、「そんな彼らにとって、身の程知らずにも新電電に手を挙げ、NTT分割を声高に主張する稲盛は憎んでもあまりある相手だった」(北、2019、351)といった政治的な背景があったのも事実のようである(27)。
以上のように、「宇宙の意志」論で因果の法則という〔真理〕を確信した前後というのは、稲盛にとって重要な出来事が多発した時期だったのである。
(3) 困難・不安に立ち向かう支えに助けを求めてきた企業を救済するという目的で行ったサイバネット工業とヤシカの合併、そして日本の長距離電話料金を安くして社会に貢献しようとしたDDIの設立―この時期に行われた稲盛の経営上の大きな意思決定は、「宇宙の意志」で「因果の法則」という〔真理〕を確信したから行ったことではない。意思決定はそれより前に済んでおり、すでに着手・実行もしていた。しかしそれを実行し、成果をあげていくにあたっては、当然ながら困難や不安が伴った。そうした中、〔真理〕への確信は、それに立ち向かっていく稲盛に自信を与える大きな働きをしたと考えられる。
DDI設立について言えば、有名な「動機善なりや、私心なかりしか」という自問自答は、時期的にみて明らかに「宇宙の意志」論より前の話である。とはいえ、動機に邪なところはないと確信して電気通信事業に進出したからといって、畑違いの壮大な事業を、強大な電電公社(NTT)を相手に進めようというのである。先行き本当に成功するかどうか、稲盛に不安がなかったはずはない。その稲盛の支えになったのが、「宇宙の意志」による〔真理〕への確信だったのではないか。
創立満25周年記念講演「“宇宙の意志”と調和する心」の中で、稲盛は第二電電進出について言及している。全体で17の節に分かれているこの講演の第16節「第二電電進出について」で次のように述べている(稲盛、1984、17。〔 〕内は引用者)。
電話料金を下げることは、国民のためになることですので、私が名乗りをあげた次第です。
第二電電進出を決意したときの、強い願望、強い意志は持っていますが、宇宙の意志に逆らってまで、押し通す気はありません。(……)宇宙の意志に素直に従っていけば、成功するだろうし、無理して進めれば失敗するだろうと思っています。ですから、私は第二電電については、少しも心配しておりません。
このような大事業に乗り出すことを決心したのも、今まで〔「“宇宙の意志”と調和する心」と題するこの講演で〕述べてきたことを、私は人生において実際に体験し、確信しているからです。
第二電電に比べれば、サイバネット工業やヤシカの方がまだしも見通しは立ちやすかったかもしれない。そうだとしても、再建が容易でないことは明らかだし、とりわけサイバネット工業の場合、稲盛は独特の困難を抱えることにもなってしまっていた。それは同社の急進的な労働組合による“抗議活動”によるものである。彼らが稲盛の自宅周辺や京都の目抜き通りに街宣車を繰り出し、近所の電柱にビラを貼りめぐらせて、「悪徳経営者、稲盛和夫」と触れてまわったのである。稲盛は2001年12月の盛和塾での講話で、当時を次のように振り返っている(稲盛、2016c、405)。
数年間、私は耐えに耐え続けました。(……)その連中が会社を去り、会社が正常に戻るまでに、結局7~8年かかりました。10年ほど前まで週刊誌や新聞などで書かれていたような、京セラに対する悪いイメージは、当時のこのことが原因なのです。そのために、京セラは回復しきれないほどの大きなダメージを受けました。しかしそれでも、われわれはただひたすらに耐えてがんばり続け、今日があるわけです。
正常化するまでに7~8年かかったのであれば(仮にそれより2~3年短かったとしても)、「宇宙の意志」による〔真理〕への確信はその困難の最中だったことになる。利他で始めた救済である以上、やがてはよい結果に至るのだという自信が、「耐えに耐え続ける」稲盛を支えたのではないだろうか(28)。
そして苦難を乗り切るということで言えば、電気通信事業に進出した直後の1985年、稲盛と京セラがマスコミから強烈な批判を浴びた時期においても、そうであろう。実際、1986年1月の経営方針発表会で、稲盛は改めて「宇宙の意識と調和する美しい心」に言及し、最後を次のように締めくくっている(稲盛、1986、15)。
冒頭にもう一度戻りますが、ジャーナリストの激しい攻撃にあっても、我々はひたすら耐えてきました。(……)邪なことをして儲けようという考えを私たちは決してもっていません。人のため世のために良かれと思って日々の業務に当たっているはずです。このような生き方は、決して間違っていません。(……)
昨年の衝撃的な一連の事件を経験して、信念が揺らいだ方もいるかもしれません。決してそうであってはなりません。我々はすばらしい生き様を示してきましたし、今後も示し続けることを再確認して、今年もがんばっていきたいと思います(29)。
ところで、先の2001年12月盛和塾講話(稲盛、2016c)は、前月に出版した『稲盛和夫の哲学』の内容、とりわけ(同書で一般向けに初めて発信した)「宇宙の意志」に裏打ちされた因果の法則について、それが決して絵空事ではなく、稲盛自身の経験に基づくものであることを力説するものであった。稲盛は3つの実例を挙げて、それぞれを詳しく紹介している(30)。その一つがサイバネット工業に関わるものである。京セラが1989年8月に支援表明した三田工業の再建のために派遣された京セラ役員が、元サイバネット工業の工場長であり、その彼の下で三田工業は京セラミタとして立派に再生した。これについて稲盛は「かつてサイバネット工業を助けるという善行をした京セラに、そのことが原因となって、売上高1200億円という立派に収益を上げる京セラミタが仲間入りするという、よき結果が返ってきたのです」と述べている(稲盛、2016c、407–408)。もう一つの実例がヤシカの救済である。稲盛がその後電気通信事業に進出した際、DDIが全国に展開する支店に配置する営業人材として、ヤシカ出身者が活躍することになった。「ヤシカを救済してあげたときも、大変な苦労をしました。けれども、そのヤシカの人たちが、第二電電の事業展開にあたって大きな力となり、逆に私を助けてくれたのです。そして、それが第二電電の成功につながっていきました」と稲盛は振り返っている(稲盛、2016c、411)。
こうした振り返りは、見方を変えれば、京セラミタや第二電電の成功を「宇宙の意志」に裏打ちされた「因果の法則」の成就として、稲盛が謙虚に捉えていることも示唆している。これらの成功に稲盛をはじめ関係者の「熱意」と「能力」が大いに作用したのはもちろんだが、それだけではない(「考え方」が生んだところの)何らかの力が働いた余地がある、という感覚である。そうした感覚を稲盛は年と共に深めていったのではなかろうか。その端的な表れが、第1節で紹介したJALの再建についての発言、「(……)すばらしいフィロソフィとアメーバ経営の力に、さらにもっと大きく強い力が加わって、想像もしない、すばらしい成果を得ることができたのです」(2012年盛和塾世界大会)ではなかったか。そうであれば、〔真理〕への確信は稲盛に自信に加えて謙虚さをも与えたと言うことができる。
稲盛が〔真理〕への確信から得たは自信は、稲盛自身の経営活動を支えただけではない。これは想像の域を出ないけれども、稲盛が盛和塾でその経営哲学を中堅・中小企業の経営者たちに責任をもって伝授する上でも不可欠だったのではないだろうか。盛和塾は、稲盛が単に自分の成功譚を塾生に語って聞かせるだけの場ではない。それぞれの会社の経営に即しつつ、稲盛の経営哲学を指導し、その実践を迫る学びの場である(31)。その経営哲学は、損得よりもまずは「人間として正しいことは何か」をベースにおき、しかもその上で高収益を目指して経営すること―本稿で言う先義後利―に核心がある。なるほど稲盛自身はこれによって成功してきたであろう。しかし、それはたまたま運が良かっただけだったのではないか。そんな「まぐれ」の実績を振りかざして、中堅・中小企業の経営者にも「損得よりも、まずは人間として正しいことを」などと指導して本当に大丈夫なのか。そんな「迂遠」な教えに従って経営して、もし塾生の会社が傾いたらどうするのか。京セラが傾いたのなら、その報いは稲盛自身が受けるのだし(32)、責任は自分が負えばよい。しかし、よその中堅・中小企業の場合はそうはいかない。「人間として正しいこと」をベースにした経営を、誰にも負けない努力をしつつ行えば、必ず成功する。それは「迂遠」でも「まぐれ」でもなく、「宇宙の意志」に裏打ちされた因果の法則が働くことによって起こる真理である―このように確信できたからこそ、稲盛は自信をもって盛和塾生に自らの哲学を伝授できたのではないだろうか(33)。
本稿の主張を、第2節で展開した先義後利論に即して手短にまとめてみよう。
稲盛哲学の特質は「義と利を高次元で両立させる」ことであり、稲盛は京セラ創業期から、それを「利よりも義を重んずべし」という〔規範〕としての先義後利のスタンスに拠りつつ実現してきた。ただ、どんな経営者であれ、企業経営の厳しい現実の中でこの〔規範〕を徹底し続けるためには、「義を行えば利は後からついてくる」という〔真理〕としての先義後利への確信がなければならないはずである。稲盛はその確信を「宇宙の意志」への気づきによって得た―①宇宙には万物を成長発展させようという意志(法則)がある、②人が善き思いをもって義を為せば、その宇宙の意志と調和するがゆえに(その働きに助けられて)、善き結果としての利がついてくる。稲盛は、物理学者から聞いた宇宙生成の理論という自然界における《科学》(①)を起点として、人間にとっての《哲学》(②)を確立した。この「宇宙の意志との調和」という《哲学》―〔真理〕としての先義後利―こそ、フィロソフィに代表される稲盛哲学―〔規範〕としての先義後利―の実践の根底を支えるものと言える。この確信を稲盛は1983年の終わり頃に得たと思われるが、折しもその前後は、経営者・稲盛がいくつかの大きな意思決定を下し、また思いがけぬ試練に見舞われもした時期であった。
こうした先義後利論に基づく主張は、むろん稲盛哲学に対する筆者としての見立てであって、これをそのまま稲盛自身の所説と同一視することは控えなければならない。稲盛はそもそも「先義後利」という概念を使って自らの哲学を語ったことはないと思われる。とはいえ、先義後利という「補助線」を引くことによって、稲盛哲学の特質や核心がみやすくなるのではないか。そしてそれによって、稲盛哲学を相対化しつつ、その真価をより大きな「経営哲学」の文脈の中で示していくことができるのではないか。その意味で、この補助線は稲盛哲学の研究にとって有用であると思われる。それだけではない。稲盛哲学を継承する実務家が、自らの経営においてこれを実践する上でも、もっと言えば、稲盛哲学を誤りなく受け継いでいくためにも、この補助線を役立てることができるのではないだろうか。
最後に、冒頭でとりあげた問題に触れて本稿を締めくくることにしよう。フィロソフィの実践を支える〔真理〕としての先義後利への確信を稲盛に与えたのは、「宇宙の意志」という考え方であった。確信を与えたものが別のもっと穏当なものだったら、稲盛が哲学を語る上での苦労も少なかったのかもしれない。しかし「宇宙の意志」だったのである。その起点は《科学》にあるとしても、それを人間界の「法則」に拡張した稲盛の《哲学》は「怪しい」のだろうか。自然科学とは異なる領域で宇宙を持ち出す怪しい話が世の中にありうることは確かだとしても、哲学において、人の生き方を宇宙と関連づけて論じること自体は必ずしも奇異なことではない。それどころか、洋の東西を問わず常識の類いに属すると言ってもよいだろう。例えばストア派哲学における「宇宙の摂理」しかり、儒学における「天」もしかりある。
後期ストア派のセネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスらの名によってよく知られる古代ストア派哲学に対しては、近年、欧米でも日本でも再び関心が高まりつつあり、多くの出版物が刊行されている。また、現代の精神医学における認知行動療法(CBT)の歴史的・哲学的起源は、ストア派の哲学的治療にあるとも言われる(ロバートソン、2022)。そのストア派は「宇宙の摂理」に従うべきことを説いているが、だからといってこれを怪しみ批判する議論は寡聞にして聞かない(34)。
一方、儒学の四書の一つである『中庸』には「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」とある。天とは宇宙である。天は一定の道理にはずれることなく正確に運行し、生成発展を繰り返している。それが天の誠であって、これを自分の生き方において実践し、地上に誠を実現するのが人間の道である―幕末の志士たちにも強い影響を与えたこの「誠」や「天」と稲盛哲学との関係については、中国思想史家・溝口雄三(当時、東京大学名誉教授)が2000年代初頭の盛和塾での講演において夙に詳しく指摘している(溝口、2001;2002)。
自らも幕末の志士であった日本資本主義の父・渋沢栄一も、「天」について「宇宙間における無匹無比の力である」「これを西洋でいえば『造物主』のごときものであろう」と述べ、さらに「余は昔から宗教と名のつくものは一切嫌いである」と断言した上で、「余は真の安心立命は天にあると信じておる」と言う(渋沢、2010、22、20、25、26)。その渋沢が、あるとき扁額に「士魂商才」と揮毫してくれるよう頼まれたが、それよりもこちらの言葉にしてはどうかと示したのが、『中庸』を元にした「至誠以賛天地之化育」(至誠もって天地の化育を
古代のギリシャ・ローマは言うに及ばず幕末・明治の日本においても、「宇宙」との調和は、人の生き方を考える哲学と密接不可分の関係にあった。この常識が薄れ、自然科学以外の領域で「宇宙」と聞けばある種の拒絶反応を起こすようになったのが現代の我々である。そこには、稲盛が言ったように「論理的、科学的でないもの、証明できないものは迷信だとして否定」する近代以降の学校教育の影響もあるのかもしれない。とはいえ、それは近代以降に限った話でもなさそうである。
16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者・モンテーニュ(1533~1592)は、主著『エセー』の中でこんなことを語っている―自分もかつては、霊魂とか予言とか魔術とか、自分が承服できない話を聞くと、こうした馬鹿げたことに騙されている人々をあわれんだものだった、と。ところがそれに続けてモンテーニュは言う。「しかし、いまにして思えば自分もやはり彼らと同じくらい、あわれむべきものだったのである」(モンテーニュ、1965、348)。なぜなら、理性が彼に次のように教えてくれたからである(モンテーニュ、1965、348)。
そんなふうにきっぱりとある事柄を偽りだとか、あり得ないことだときめつけてしまうことは、自分だけが神の意志と、われわれの母なる自然の能力の限界を知る特別な力をもっていると自負することだ。また、その限界をわれわれの能力や才能の尺度に合わせてはかることはこの上なく愚かなことだ。
近代科学が確立するよりも前に語られた言葉だが、現代でもなお耳を傾けるに値すると思う。
「『宇宙の意志』との調和」なる考え方を自らの生き方=哲学や経営哲学の中に受け入れるか否かは、もちろん個々人の自由である。ただ、我々は未知なるものに対して、単に「怪しい」と拒否し切り捨ててよいのだろうか。むしろ、モンテーニュに倣ってこう考えるべきではないか。「承服できない場合には、われわれは、少なくともそれを未決のままにしておかねばならない」(モンテーニュ、1965、348)。
京都会議は1980年12月に「人類の明日を築く世界の叡智を結集し、時代の混迷を克服するための新しい哲学と価値を求めて」(京都会議設立趣意書)発足し、京都に縁のある経済人や学者らがメンバーとなっていた。経済界からは稲盛を含めて、榊田喜四夫(京都信用金庫)、村田純一(村田機械)、立石孝雄(立石電機)、湯淺暉久(湯浅電池)ほか、学界からは佐藤を含めて、江崎玲於奈(物理学)、岡本道雄(医学)、広中平祐(数学)、福井謙一(化学)、田中美知太郎、藤沢令夫(共に哲学)、河合隼雄(心理学)、矢野暢(政治学)ほか、が参加していた(『京都会議』Forum Report 1989年10月2日発行)。