2024 Volume 40 Issue 2 Pages 108-131
Abstract: This paper focusses moralistic concept, mental-physical exercise and settlement development, and their impacts of altruistic social thoughts for mutually beneficially in 1910-1940 in Japan, especially practices by the “Seijo” proposed by Dr. Akiyoshi Bessho in Osaka. Studies of social symbiosis or multi-cultural in urban sociology as typically in Chicago schools in 1930s had been little referred in terms of practical social policy in Japan society prior to world-war-Ⅱ, though knowledge of biological symbiosis had been widely introduced in research and education even in early Meiji era. The idea and concept “kyousei” appear popular in Japan in the mid-80s later than the age of social conflicts of severe environmental-disruption so-called Kogai, notwithstanding sharp discourse of deep ecology beyond human-centered self-fulfillment in the developed western societies started in 70s. The oriental alternative philosophies transformed in various streams of Buddhism and native religions have produced social actions so-called Seiza, Itto, Kyousei, Seijo, Kosei-in and others in Japan early modern era (1910-1940). The Seijo association to advocate mutual benefits in terms of physio-psychological exercise in forest-garden, had indicated simplified lifestyles harmony with nature, by cultivation, natural food nutrition, meditation, education, lodging, and settlement in exploited areas more than 80 thousand square meters.
1.はじめに
日本環境共生学会は,その定款で人間生活を取り巻く自然環境・居住環境の共生に関する基礎的研究及び応用研究を行うとある.その学会名は“Human and Environmental Symbiosis”とあり,共生とは何かを常に問うことを宣言している.
環境共生は自然生態系における主体が相互の支えあう関係としての「共生=Symbiosis」を語ることから発した.さらに,国内外ともに,その概念は人間の社会関係の相互の支えあいに拡張された.日本国内では,人と人との関係をSymbiosisの翻訳ではなく,宗教観をともなった「とも生き」として捉える源流があった.
著しい公害で対立の極みとなった社会を超えたい願望を含み,日本国内では共生(きょうせい)の概念は1980 年代に広がり,望ましい環境の目標像として環境省が自然共生型社会を掲げたことによって,環境政策にも広く用いられた.
日本社会の環境研究は,1970年頃までは公害と環境破壊の現象と原因を対象とする研究に偏したが,ようやく生活様式や産業,さらに都市,文化のあり方をも視野に入れる総合性,包括性をもつようになっていた.その際に近代科学の立場で用いた言辞は,学際的(inter-disciplinary)や超学的(trans-disciplinary)であった.
他方で,根源的問いを発して,近代を超え,脱構築を信条とする立場からは,人間の奢りや人間中心主義を咎めて,生きとし生けるものすべてに意味(山川草木悉皆成仏)を認め, しばしば非西欧の思想と倫理に拠り所を求めた.多様性(diversity),民族性(ethnicity),少数独自性(minority)等の人間界の有り様にも橋渡しをし得る「相互依存の関係性」としてのエコロジに「より深い=Deeperな含蓄」を与えるべく,Deep Ecologyを探求した.
21世紀には, 経済からの拡張で主流となったEcosystem servicesの概念のように,人間に間接的にも恵みを与える自然を近代科学が分析・評価し経済勘定に内部化する制度設計が急がれた.しかし,人間に恵みを与えるかどうかにかかわりなく存在する自然,人間の意識や関与の外にありながら影響を受け,同時に効果を与える自然が人間を超えた存在だと言い続けるDeep Ecologyの立場は揺るがない.
本研究では,戦時体制に入った1940年頃以前の学術と社会行動に焦点を当てて,環境共生の源流を探る試みについて報告する.20世紀の始めから西欧の近代の学術で発展させられたSymbiosisの枠組みは,生物主体の周りとの関係を示す共棲の概念(Heinrich Anton de Bary1), Albert Bernhard Frank2))から発し,棲息場を人間にも当てはめて拡張されてきた.人口集団を観察したシカゴ学派社会学では人間界にも Symbiosisを見いだし,Robert E Park3)らは1930年代にその特徴を論じた.
明治時代に共生の訳が地衣類の現象4)に用いられ,小学の教育指導で「一枝の桜花も蜂蝶等の媒虫に関係し又は蟻と蜜腺との関係の如き皆一として此共生の法則を示さざるはなし」5)と示され,自然界の「共生」は認識された.国内ではその拡張で「社会共生」や「人間共生」(‥極端なる利己主義となり人間共生の平和と敵となる可し‥)6)が深く展開された形跡はない.
他方で,国内の仏教指導者,宗教者,導師が約一世紀前に掲げた利他や「とも生き」は,良き生き方を探るものであり,人々の生活条件と生活の仕方を尋ねるものであった.椎尾弁筐7)の共生や別所彰善8)の相助と簡素な生活(レーベンと称す)の社会思潮は,その当時に悩む人に響いたものであった.
具体的には,大正期に盛んとなった思想と実践で生れた心身統一の修養である静座法や共生会,精常会,興生院をとりあげてその社会的意義を論じる.これらは宗教や倫理志向の影響を受けながら,助け合い自己を高め,精力主義で相助け,調和と共存を目指すものであった.
これらの動きは,霊やこころ,精神を呪術や迷信から解き放つ態度を伴う初期の精神医学の源流と重なる.本研究では自然観と生活の仕方としての修行,集団の運営法に注目していく.とりわけ,学術報告が乏しい精常会・精常興生院の15年間に注目し考察した結果を考察する.
物質消費が曲がり角を迎えた1980年代に,共生や共助,SymbiosisやEcologyは再び形を変えて蘇った.ただし,その表現で意味するところは,1980年代に更に茫洋となる多義性を呈した.現在に至るまでメタな共生の「下位の共生の定義」をめぐって論争は続く.Arne Naess9) らのDeep EcologyやDavid H. Barlow10)らのCognitive Behavior Therapyを通し,「現代社会の精神世界」はマインドフルネス空間にまで滲み出している.自然は物質世界や人間の社会的関係の対象のみならず,精神世界としても扱われている.
日本語の自然共生は,国際的には“Living in harmony with nature11)”の語彙で表現されるが,これをSymbiosisの本来の訳語の共生と同一視するのは誤解を生む恐れがある.欧米流の語彙で表現される環境関係の国連総会の決議やIPBES等の主要報告にみるSymbiosisの使い方では,その記述は極めて狭く抑制されている.
21世紀に入って,日本国内では哲学,倫理,介護,民族文化,等に関して広く多様な共存を認め合う社会動向が徐々に高まってきた.とりわけ国連での持続可能な発展の目標を国連総会でSDGsを採択した潮流が日本国内でも国と地方政府の政策や企業等に反映し始めている.
その基礎をなす哲学や倫理,社会学等の人文社会科学では,排除から多様性(diversity)に向きあう社会包摂(social inclusion)を訴え,覇権を握る民族と国家の支配から脱する多文化共生(multicultural, multi-culturalism,minority policy)を推進した.その際に英語圏では新たな包括的な用語で曖昧に表現するのを避けたが,日本語では評論家やジャーナリズムは新しい「共生」と称する傾向があり,厳密さを欠いた.
加えて,1970年頃にイワン・イリッチ(Ivan Illich, 1926-2002)の提起した「商品化する産業社会に絡めとられない自立的関係性」のconviviality12)に注目し,「陽気な共宴」より古典の源に戻り,viviere(ラテン語,イタリア語で生活する)に接頭語conをつけた共生の意義を人と人の関係性に求める論調も生まれた.
このことから生物と生態系の共生を自然科学としてSymbiosisと言い,社会的な人と人の関係を敢えてConviviality として区別する思潮も生まれたが.国際潮流では社会政策にまで原語Convivialityが使われるほどではない.国内の哲学や倫理,評論家のインテリが主にConvivialityを区別して高尚なものとして強調する.
それだけに,地球の危機を迎えてあくまで物質的リアリティを保って生態系の関係性を強調する環境(人間と環境の関係性)の共生論と,人間の他者や他の文化との関係に「ともに存在し,ともに生き,ともに関係を持つ」人間科学の共生論との間に橋を架けるべく,現代の「共生」を取り上げることは喫緊の課題である.
このように,現代の共生を論及することの必要性を十分に理解した上で,本報告ではあくまで1940年頃までの「共に生きる相助=利他の修養」の源流に焦点をあてて論じる.
時代背景に制限され,未熟で誤りもあったが,自己と他者,身体と精神の間をつなぎ,分かち合い譲り合い,ときに統合を試み,ときに違いと多義のままに共存し,自然の中での修行を通して主体としての自己を鍛え,高めようとした.調和と共存を目指して,一生を通して働きかけるオープンでリベラルな精神を涵養し,育んでいくコミュニティを形成,継承していく源流の一つにもなっているからである.
2.他者や社会との関係を解釈する共生の学術が西欧で二つの波で発展
人間の社会的関係として,共に生活することをも“Symbiotic”として探索することは,欧米で1980 年代に盛んとなるが,その半世紀前から人間居住にも“social symbiosis”が登場していた.もちろん,個の確立,個人主義を前提としての西欧の流れである.また,1940 年頃にはエドワード・ハスキルによって人間界を含めて主体行動の相互関係を統合する野心的な試みも開始されていた.即ち,第一の波は1930年代に当時の「新世界」の米国で明確に生じていた.
米国社会学雑誌上で,パーク(Robert E. Park(1939)13))は共生と人間社会関係の準拠基準を約一世紀前に論じている. 人間社会でも競争と共有という二つの相互作用があるが,人間社会ではモラルの秩序が習慣や伝統になって社会関係が安定化することで競争が限定的になりつつあるとした.集団意識が形成され,相互理解や集団行動ができ,新規参入者もそれに同調していく.シカゴ学派の活躍した時代に,移民が居住する社会との間に違和感を覚え,同調し,時に反発し,共存していく過程を社会学が扱っていた.民族的文化的な属性の異なる人々が共に生きる関係には,権力的な支配関係と重なりつつも多様な状況があることを見いだしている.
都市での犯罪の増加の要因を探る社会学者も,生物学やエコロジの概念を応用しようとしていた.当時,最大の都市として成長しつつあったシカゴには職と活躍の場を求めて黒人や外国人,移民が集まり,その集積する街区では貧困,犯罪,スラム等多くの社会問題が生じていた.犯罪の理論に関するStephen G. Tibbetts and Craig Hemmens(2009)14)の789頁もの大著の6 章には,シカゴ学派の犯罪論が生態学を人間社会に応用した理論として19 世紀末から20 世紀の初頭にかけて大都市シカゴを対象に発展してきたことを精査している.
そこでは,野生生物に対して用いられてきた生態学の手法を用い,人間が都市に住み行動する様相にパーク(Robert E. Park (1936)) 15)が,モデルとして適用したこと,都市の市民とグループが互いに関係を持ちながら一種の統合された複雑な有機体として現れる類型があることを主張したことを明記している.
さらに,共生の原理“the ecological principle of symbiosis”をパークが応用して,一致協力してより良い暮らしを皆が得ているような支えあう市民の一団の振る舞いを説明したという.都市には,自ずとできる塊の空間が区別され,それ自身が有機体で生きた様相を示すようになるが,民族的な出自を持つ人々の近隣の住まいから発している事例が多いという.
その上で,犯罪学の戦前の到達点として,Clifford Shaw(1942)とHenry D. McKay(1942)16)が示す青年犯罪の要因の連鎖を引用し,深刻な貧困,文化的な異質混合,建物崩壊と廃墟化,居住者の高い流動性,高い幼児死亡率と病症率等の社会の病によって,社会的な崩壊が生じ,犯罪の多発につながるという.こうした当時の社会学のモデルと調査内容に関しては,学術と社会認識の発展により,その後に問題点が指摘され,批評されている.
ハスキル(Edward Haskell)は学術論文で名をあげた学者ではなく,むしろ学術と教育との統合,社会現実への関与と学術調査との統合をめざして新たな協会組織(Council for Unified Research and Education)を創設し,実践を尊んだ.ハスキルの貢献は,在野の立場から狭いアカデミズムに飽き足らず,戦前の1930年代の激動の体験と思索を抱えて1970年代に爆発する既成概念打破の社会革新に結びつけたことである.
ハスキルの著作の多くは未だ公刊されていない.その独創性は当時一般的でなかった表現“Multicultural”を使って,自らも移民であった出自に重なるある人物Lance(本名Lancelot Tenorton)の伝記小説“Lance: A Novel of Multicultural Men (1941) 17)”を描いた鋭い視座にあると思われる.米国で年代ごとの文芸のクロノグラフを作成する試み18)で,1941年の代表的文芸として取り上げられている.
また,近年のSarah M. Ilernの学位論文19)での多文化教育の米国の歴史を語る論考でも,社会的公正,リベラリズム,ポストモダニズムの3つの潮流を受けているとする.とりわけ,1930年代の源流として,Everett V. StonequistとEdward Haskellの著作に注目している.
社会学者Everett V. Stonequistのシカゴ大学に提出した学位論文20)で明らかにされた第三の型としての“Living and working together in a shared community”における“Cultural pluralism”とともに“Multicultural”の第一の型としてベネディクト(Ruth Benedict)21)らの言及した“Cosmopolitan folkways”と第二の型の“High culture of fine arts をも主人公Lanceの姿は示している.
戦後の学術発展期に,ハスキルが分類した主体行動(co-action)の分類は,ポジティブ,ネガティブ,中立の関係でシナジ作用,反対作用,中立作用の掛け算の9種としたが,それは生物界にも人間社会にも共通した行動の概念として提案され,やがて生物学では相互関係(interaction)として一般化され,Symbiosis の重要な概念として活用されていく.1972年初版の“Full Circle22)”は長く入手が困難であったが,2024年に再版が公表された.
ハスキルが狭いアカデミズムに拘泥せずに,1940年代から“Council for Unified Research and Education”で同志を募って,社会関係を独自に究めた動きは,1970年代により拡張され,開かれた“integral”や “unified”,“alternative”,“holistic”な特性を帯びた社会運動に合流した.1970 年代にアメリカでも隆盛を見せていたエコロジのうちでも,ディープな世界はZEN(禅)と結びついた環境共同体に似た側面があった.1972年のストックホルムでの人間環境会議に並行して,西欧のローカルな社会には,“Living together with nature”と“Multicultural”とを結ぶ社会運動があった.
Gary J. Coates(1981)が編集した『エネルギ,エコロジ,コミュニティの視点からアメリカに住み直す』23)は,生活の見直し=エコライフの詳細を語る名著であった.現在でも電子図書として利用可能であり,時代を画するものである.
Coates は前書きで,この本の内容の多くは数年前(70 年代半ば)にCornell 大学のキャンパスの人間生態(Human Ecology)のカレッジで,Symbiotic Community の調査研究と称する集会を開いたことに由来すると明記する.彼の頻繁に用いたキーワードはcultural transformation (sustainable culture), local self-reliance(地域で自立), sacredness of the earth, sanctity(個人の高潔なくらし) of the person, autonomous house(自立住居) 等である.かれらの追求するのは,“Symbiotic community”で,その原理は現代にも通じる“Living together ”であった.
1970年代に生まれたもう一つの共生の明確な担い手は欧州の哲学者ネスである.当時,眼前の公害と環境汚染を見ていた主流のアカデミアを超えて,冷静な精神で俯瞰的な視座に立つ先人は,すでにもう一つの流れが生じていたことに気づいていた.それは,自由と平等(Liberalism and egalitarianism)の視線を人間だけでなく,あらゆる生物と生命・生活に注ぐことであり,眼に見える汚染や資源枯渇を扱う当時の主流のエコロジの概念を超え“diversity, complexity, autonomy, decentralization, symbiosis, egalitarianism, and classlessness (Arne Naess, 1973)”などを扱うディープなエコロジに立脚した社会運動と哲学・倫理であった.
アルネ・ネスの1972年の第3回世界未来リサーチ会議での講演では,人間中心の環境観を排して,様々の生物の“Relational total-field image”を強調し,後の出版物ではさらに“Bio-spherical egalitarianism”, “Principles of diversity and of symbiosis”, “Anti-class posture”, “Fight against pollution and resource depletion”, “Complexity-not-complication principle, Local autonomy and decentralization” の7点24)を明確にした.
しかも,限られた科学的方法に基づく生態学よりも,基本事項にも論義を重ね,理性による「あるべき」に限定せず人知を超えた「あるがまま」の解釈も汲み上げて,衆議で産みだすこととし,エコソフィア(eco-sophia)を目指すとした.ネスのいうエコソフィアとは,あらゆる分野にわたる“a philosophy of ecological harmony or equilibrium”である.
その後もディープなエコロジは,哲学,フェミニズム,政治,文明論等の社会の広い範囲に及び,近代の根本的な批判の様相を帯び,西洋の知から,東洋の仏教,ヒンズー,道教等の宗教哲学をも取り込んで展開した.代表的な後継者であるセッションは共著(Bill Devall and George Sessions(1985)25)で,次の事項をディープなエコロジの思潮と運動の特徴とした.
1)The well-being of human and nonhuman life on earth is of intrinsic value irrespective of its value to humans.
2)The diversity of life-forms is part of this value.
Humans have no right to reduce this diversity except to satisfy vital human needs.
3)The flourishing of human and nonhuman life is compatible with a substantial decrease in human population.
4)Humans have interfered with nature to a critical level already, and interference is worsening.
5)Policies must be changed, affecting current economic, technological, and ideological structures.
6)This ideological change should focus on an appreciation of the quality of life rather than adhering to an increasingly high standard of living.
7)All those who agree with the above tenets have an obligation to implement them.
ただし,米国で自然と共にある暮らしや自然エネルギの範囲での充足を実践する運動の指導者であったMurray Bookchin26)は,当時のディープなエコロジを悲観主義に陥り,人間の知性や社会変革の可能性を一切認めていないと批判していたことにも注意しておく.同時にGeorge Sessionsは系統的なレビュ27)をおこなって後世に歴史を遺した.欧米の人と自然,人と人との“Symbiosis”の70-80年代は再来の波であった.
その後の自然保護の運動と社会思潮を系統的に解釈することは,別の機会に譲る.注目すべきは,今だ,人間生活の豊かさを求める開発や事業を是認する従来型の人間中心主義(Anthropogenic)が主流になっている現状に対しては,ディープなエコロジを継承する立場からは強い批判がなされていることである.
既に,アルネ・ネスが1972年に“Ecological egalitarianism”, “Diversity and symbiosis” と共に明示した“Anti-class posture” は経済発展の著しい格差,抑圧された民族と文化の解消を掲げる原則であったが,格差は拡大し続け,その後の半世紀の社会の動向は一進一退である.
2015年の持続可能な社会を目指す国連総会決議以降の世界の動きには前進があるものの,経済格差の拡大と深刻な課題に公衆の関心と関与を避ける封じ込めと遮蔽が進行し,排外のポピュリズム思想の浸透や民主主義への攻撃等で,社会連帯にはいっそう困難がともなっている.
気候正義につながる源流の一つになっているジョン・ロールズの正義論28)(A Theory of Justice, 1971)を始め,哲学や倫理では半世紀前に提案された人類智を超える基本的視点を現代人は生み出しえ得たかを見つめ直す必要を感じている.
3.国内でも一世紀前に利他と共生きを探索
20 世紀初めの日本でも,利他の生き方を探索する潮流が顕在化した.明治末期は,自由民権運動,人道的社会思想,文芸革新等の動きが混じった変革期であった.産業と経済が興隆し格差が拡大し,都市に人口が増え新たに貧民街も生まれた.自らの生き方を尋ねる利己に併せ,利他と相助の生き方を探る動きが各地で生じた.
賀川豊彦29)の「イエス団」の活動から始まる広範な奉仕と救済の社会活動は典型例であり,文芸界では武者小路実篤らの「白樺」や「新しき村」30)は文学・芸術関係者の引率するところとなった.この中には近代の自由,平等,博愛のような思想と社会の発展を日本社会で徹底するリベラリズムとともに,西欧の普遍を語る思想に反発する日本精神や東洋文化を貴ぶ流れ,さらに急速に進む近代への反発から復古主義や浪漫主義的立場も生まれた.
他方で,労働運動,社会事業,文芸等を主たる舞台としつつ,アナーキズム,社会主義,コミュニズムの影響は20世紀の初め学術,思想,政治等に及んだ.戦時体制と軍国主義に日本社会が転げ落ちる直前の1920年代は,いまだ大正デモクラシの残影が残されていた.過酷な時代は忘却の対象となり,熊野の地で試みられた「黎明ヶ丘」31)等,その人間生態的な解釈がなされていない事例も少なくない.
悩める人が外界に働きかけていく関係性や社会制度を問うのか,それとも悩める人の内面のこころを問うのか,それともその両方を問うのか,このことは何時の世も同じく選択を迫られる.一世紀前にも,この選択の内で,まずはこころのあり方を訊ねようとする試みが宗教的要素を帯びながら展開された.
魂の内面すなわち,人の道(倫理)と主体の確立を優先しつつ,社会活動に拡がった代表的な例として,一燈園,静坐会,精常会,共生会等がある.これらの多くは和や東洋の思想に傾斜する傾向をもち,戦前の国家主義への同調,あるいは妥協的な側面があったために,戦後民主主義を論じるに盛んな時代には顧みられることもなく,西欧の自由,平等,博愛とは異質の概念として無視されることも少なくなかった.
修行や呪術,音曲,踊りなどの要素を帯びた利他・捨我・勤行の実践行為に対して,人の外界への働きかけの典型として,冷静な観察とリアルな解釈を注ぐことは,拘りを排した現代学術の人間環境システム論として意義あることだ.未だ呪術や迷信に委ねる人が少なくない20世紀初めの土俗的状況にあって,科学的アプローチを社会・人文科学に適用した日本国内の先人の歩みに広く光をあてて学んで良いと思う.
このなかで,仏教指導者であり哲学者でもある椎尾弁匡が1922 年に共生会を組織し,雑誌「共生」を発刊して,「共生講壇32)(1925)」,「共生の基調33)(1929)」,「共生教本:共生講壇抄34)(1938)」等を次々と著していたのは,環境共生の概念を振り返る際にも注目すべきである.椎尾弁匡は1876 年生まれの浄土宗の出身であるが,宗派を超えて生活の仕方を共生の思想として普及する活動の中心人物となった.
この「生活の仕方」は,20 世紀末に前田惠學35)が要約したところでは,「清掃・体操・音楽・静座・念仏・礼拝・教本読誦」等を意味する.この共生は「きょうせい」と読み下す場合も「ともいき」と読み下す場合もあり,あくまで人の行為すなわち倫理を表わす概念である.
ただし,「心身一如」や「自他一如」を言う仏教の教えでは「忘己利他」,「自利利他」や「山川草木悉皆成仏」が広く伝えられていて,「ともにいきる」はときに他者の益をも求めることも含まれる.単に共存しているわけではない.
日本では1987年に建築家の黒川紀章が「共生の思想」36)を著し,その後に「共生」を語ることが社会の流行現象になった.この時に,大学研究者等の学術界がやや遅れてその解釈に反応し,「共生」は広く評論や随想の主題となったために,接頭語や接尾語が氾濫して言葉に反発する反作用も生まれた.
21世紀の始めには,椎尾弁匡を見直す論文が仏教学で,神谷正義37),斎藤蒙光38)等により多く報じられた.とりわけ,斎藤蒙光は浄土教における共生の語彙の系統的な解釈39)を行っている. 同時に,社会学の分野でも,庄司興吉の共生社会の文化戦略40)やハーバーマスの枠組みを援用した小内透のシステム共生と生活共生41)等も提案された.しかし,学術分野間の交流は豊かとは言えない.
黒川紀章は椎尾弁匡が教えていた東海学園で学んだために,その思想形成の過程で椎尾らの共生会の教えを吸収していたと本人も語っている.黒川は中間領域の設定やメタボリズム建築等で建築・まちづくりで内外に影響を与えた.ただし,現代の共生の思想の源流に,黒川を通して椎尾弁匡の共生会の存在を強調し過ぎる意見は短絡的である.
椎尾弁匡の「生活の仕方」だけが独立して生まれたわけではない.著者の見方では,明治末から大正期の当時の時代背景こそが,生活や身体を見つめ直す志向や潮流を生み,それが1970 年代に形を変えて復活し,新たな時代の「共生の概念」を生んだものと解釈できる.
大正期の利他と相助の学びの場に教育組織を伴って「園」もしくは「苑(実践地)」で構築していくのは,大正期から昭和の初めに実践された社会事業・社会活動に共通の現象であった.このような実践は,東洋大学の創立者である井上円了が哲学堂42)を精神修養的な公園かつ「社会教育の道場,哲学実行化の趣旨」にしようと敷地を寄付した遺産の例もあるが,多くの社会活動の実践地はその後の波に洗われ,現在では営みを伝えるリアルな遺構も少なくなっている.
4.大正期に拡がった一燈園,静坐会,精常興生院では利他の生き方を探る
明治末から大正期に生じた心身と生活を見直す動きのなかで,関西に拠点を置く代表的な例に限定しても一燈園,静坐会,そして,精常会・精常興生院があった.この3 つの動きには人的にもつながりを認めることができ,内容にも重なるところがある.まず,一燈園や静座会,それにつながった精神修養と療法について先に紹介する.自己を見つめ直し,広義の利他的な行動を社会的に実践しようとしたものである.
英語の利他(altruistic)は,社会学者コント(Auguste Comte)の生み出した語彙43)とされる.日本語の利他は利己(self-interest)にも資するという円環的な効果をもたらすと考えている点で,人の道としての共生きを問う倫理であり,修行を伴うがゆえに心身一致の理を謳っている.
一燈園は,長浜に生まれ北海道開拓での軋轢を経験した宗教家西田天香44)(1872-1968)が1913 年に京都鹿ケ谷に開園したのを最初とし,時代と社会に悩みを持つ知識人を多く迎えた.和辻哲郎,安倍能成,谷口雅春,倉田百三等も参座した.一燈園での経験をもとにした倉田百三の「出家とその弟子(1917 年)」や,理想を求め白樺を創刊した有島武郎の「小さき者へ,生れ出づる悩み(1918 年)」等がベストセラーになった時代に,多くの賛同者を得た.
「懺悔の生活」の著作のなかで,西田天香は岡田虎二郎の静座にも言及し,「二宮尊徳の四得を為さんとして,推譲(将来に向けて,余った財力を子孫や社会に貯めておくこと)が労働者と資本家の間で北海道開拓の現場で両立しないときの自らの行動に悩んだ若き日の体験で今の自分がある」と述懐する.推譲も自己や子孫に備える自譲と他者や社会のための他譲の二つからなり,西田が悩んだのは他譲の実践であった.
1933 年に燈影尋常小学校を開校し,教育にも取り組み,懺悔と奉仕を謳い,中核の同人は無所有の共同体として生活を共にした.修養,簡素な生活と奉仕は「こころの豊かさ」に不可欠になっている.現在の学園は文科省の教育課程特例校の制度下にある.現世利益を追う世相や物質経済の発展の中で運営に困難も遭遇したが,現在も改めて始祖の西田天香の資料のとりまとめを行っている45).
精神修養を求めて,この時代にいくつかの静座法が実践された.藤田霊斉の息心調和法や東大で感染病を扱う二木謙三教授の複式呼吸法等がある中で,岡田式が特に身体技法として隆盛を見せた(小堀哲郎46))という.明治末に岡田式静座法として世に迎えられ,「質素の極み」,「自然と同化する生活」,「修養の極致,真空的人格」,「日常の呼吸と不断の腹力充実の用意」,「重心の安定と精力の集中」等を実践する道場を各地に造った.
岡田虎二郎(1872-1920)の口述を記者がわかりやすくまとめた本(実業之日本社,1912 年)47)の表紙には,次のようなキーワードが並べられている.「大本を確立し,精神を修養し,精力を充実し,肉体を整美し,人格を完成することで,霊肉の煩悶を同時に解決し,心身の健康を一挙に両得する.」精力主義と心身統一を謳っている.
「心身一如」に通じるこの岡田式静座法を「信」と「行」の近代の動向として論じた学位論文(栗田英彦,2014)48)は,宗教の信の世界で行が疎かになる傾向に反して,俗世の教えにむしろ行が強化されていると1910 年代の日本社会を評している.
京都の東寺境内にあった真言宗の慈善病院「済世病院」の院長小林参三郎49)(1863-1926)は,この岡田式静座法を治療に応用した.済世病院は民間の病院として多くの医師が医療に従事した.1928年に済世病院の顧問に就任した真下俊一(京大教授,原爆投下で救援の陸軍大野病院で山津波に遭難)は日本循環器学会(1935年‐)の創立者として有名だが,17年間にわたる顧問の役を通して医療の近代化(西欧医学重視)を推進したので,八木高秀(2020)50)によれば,小林の死後に修養的な要素は希薄になった.
小林参三郎の死後には,妻信子により設立された静坐社に活動の中心が移り,そこには宗教家,教育者,文学者等が集い,吉田神社近くの京大静座会には学生の参加も多かった(八木高秀,2019)51)という.
この静座会の中に居た横山慧悟(1930-)は日本初で世界に通用するに至った森田療法をこの静座法と併用して,心身症・神経症の治療法として自身の病院で実践した.静座療法52)という図書も著している.
小林参三郎の蔵書は高野山大学の所蔵に移ったが,小林の妻信子らが運営した静座社の蔵書は子息の手で守られ,その旧宅を訪ねた吉永進一と栗田英彦を介して,国際日本文化研究センターに寄贈され,公開されることになった53).
5.森田療法:「あるがまま」で心身一致の理
森田正馬(1874-1938)は精神科医であり,フロイドの精神分析とは対極的な療法とこころの解釈を行った人物である.土佐の生まれで,東京帝大医学校精神科を専攻し,森田療法を開発した.東京帝国大医学校精神科呉秀三教授に教えを受けた森田が1922 年に呉教授在籍25 年論文集で書いた「神経質の本態及び療法」54)を蝶矢とする.巣鴨病院,根岸病院,そして森田が教授として赴任した慈恵医科大学で実践され,体系化されてきた心身症・神経症の実践的治療法が森田療法である.それを専門とする学会も生まれ,多くの識者によって紹介されている日本発の稀有な医術・療法である.
不安は常人に在り,こころに特段の異常が区別されるのではなく,普通のこころが「不安へのこだわり」と「囚われ」で病むのだと解釈する.それは森田の自らの経験をもとにした療法であり,神経症を明らかに描き出した執筆55)には,悩み深い現代人も生き方を学ぶことが多い.
一般書の森田療法(岩井寛,1986年)56)や森田正馬の15の提言(帚木蓬生,2013年)57)も示唆が豊かで,師と仰いだ多くの関係者が生涯をかけて森田の思想と人物に肉薄している.
東福寺境内にあった三聖病院では,禅僧であり医師であった宇佐玄雄(1886-1957)58)が慈恵医科大の森田正馬の研究室で学んだあとに1922年から禅と結びついた森田療法を実施してきた.宇佐晋一によって,その説話集59)が刊行された.
三聖病院等の医療現場に居て,かつ大学教育にも従事し,かつ自主的な民間団体(京都森田療法研究会)の活動を続ける岡本重慶は次のように,悩める人にメッセージ60)を送っている.
1)悩める葦:神経質者は考える一茎の葦であり悩める葦だ.神経質者は悩みにより成長する.
2)弱さを生きる:弱い自分のまま,しかたなく行動するとき事態が突破され,「窮して通ず」.
3)森田も弱くなり切ることを勧め,正岡子規の仰臥の運命に堪え忍ばず泣いて文筆で運命を切り拓いたこと(第25回 形外会,森田正馬全集 第五巻,p. 261)を引用し,次の二例を加えた.「気に入らぬ風もあろうに柳かな」(仙厓義梵) “You Have to Be Strong Enough to Be Weak” by Jon Kabat-Zinn
この森田療法の発展に影響を与えた人に,恩師の東大呉秀三教授は当然として,禅の面では在家の宇佐玄雄を通して吸収したものが多いと岡本重慶は説き,哲学では井上円了の影響が大きいと中山和彦(2001)61)は言う.
井上円了(1858-1919)は妖怪博士とも称され,異色の宗教家であり,哲学者として,明治20 年代から「心理摘要」(1887 年),「哲学館」(1887 年),妖怪学講義(1896 年),「心理療法」(1904 年))等の著作群62)を世に問うていた.
また,精神学会を通して中村古峡との交流の効果も大きいと中山和彦(2002)63)は言う.時代背景と交友を重視した考察の結果である.医師であり心理学を究めた中村古峡(1881-1952)は,「変態心理の研究」大同館書店(1919),「少年不良化の経路と教育」日本精神医学会(1921),「自殺及情死の研究 」日本精神医学会(1922),「変態心理と犯罪」武侠社(1929),「神経衰弱はどうすれば全治するか」主婦之友社(1930)等の著作群に加え,文芸64)でも精神の変調を正面から取り上げた.
加えて,こころを病む人に治療と療養の場を提供した.中村古峡が文学青年の姿勢を転換し,医学を学び直して医の現場で実践を続けたのは,こころを病んだ弟への想いに根差すとされる.中村古峡が千葉に開いた診療所は中村古峡記念病院65)に継承され,遺された資料や図書は戦前の民間精神病院の所作を語る.橋本明(2022)66)はその考察の一端を報告している.
森田療法の原点は神経質な森田自身の幼少期の体験にあるとされたが,先人の思索を追体験し,真摯な医療と社会活動を学んだことで,森田正馬は進む道を見つけた.1904 年に森田は「精神病の惑染」,「土佐ニ於ケル犬神就イテ」を神経学雑誌に投稿した,迷信に惑わされるなという井上円了の教えの学習の上にあるという.
中山和彦は井上円了の「心理療法」の次文を引用している.「一切の疾患は,心身相関の上に現れるが,その原因は身体から生じるものと心から生じるものがある.・・・身体からの治療を生理療法,心のほうからの治療を「心的療法」,「心理療法」という・・・」 中山和彦(2012)67)は,井上円了の果たした役割を人道主義の社会精神医学の誕生と表現し,明治期の「迷信と邪教の廃絶」と,「科学的自由研究」という明治,大正時代の近代化が後押ししていたと強調する.
明治維新後の西洋思考偏重のなか,フロイドの精神分析も流行した.東洋思想の根源に立脚して不安の病理を追求した森田療法にあって,森田もその先人である井上円了も「民衆の無意識の心の中に抑圧されている感情として,急速な欧風文化流入に対して,ポジティブな意味での自己固有の文化への回帰の衝動・・・を感じている」と中山は指摘した.「同時に神話解放に内包する自己破壊的,非現実的なものを求める」ような『無意識の世界の厄』を超えるために,あくまで「生きている今を問題にする,さらには目に見えるものを事実として認識するという形で成熟」していったと中山は言う.
井上の名付けた「哲学堂」(東洋大学の前身)や,森田の「あるがまま」は,妖怪や変態心理に陥りやすい人々に授けた思想であり,倫理であった.現代に至り,森田療法は国際的にも高く評価されている.臨床心理の分野でヘイズによってマインドフルネスを含むACT 療法(Acceptance and Commitment Therapy)68)が提案された直後にも,ホフマン(Stefan G. Hofmann, 2008)69)はすでに森田療法があるので,その差異に注目せよと指摘している.
森田正馬に関する著作や継承者は多い.高良武久(1899-1996)は九州大学から転じ,森田正馬に師事して森田療法を継承した.「性格学」三省堂(1931),「神経質並に神経衰弱の性格治療」三省堂(1933),「子供の精神衛生」厚徳書院(1942)等の著作70)も多く,1937 年に森田の後を継いで東京慈恵会医科大学教授となった.
自ら入院患者のために1940 年に高良興生院を設立し,森田療法による神経症の治療を行う実践家であった.こころを病んで失った娘の境遇を抱えつつ,死ぬまで高良興生院での治療を続けた.この時代に,こころと体を見つめて,生き方を自ら見直す人々が「興生院」を名乗る傾向を認めることができる.
新宿区の跡地の一部に高良武久・森田療法関連資料保存会71)が資料を継承した.2023年には約20年間のニュースレターを合本し発行している.慈恵医科大教授(1957-67 年)の野村章恒の森田正馬伝72)にも多くの関係者が登場する.彼らの生き方は人の道を示す.プログラム化された病棟内の作業療法よりも,食べ,耕し,歩くくらしの現実を重視した.その姿勢は,次の別所彰善の所作と重なる.
6.心身に悩みつつ別所彰善が探った生き方
この森田療法とほぼ時期を同じく,著者が注目する別所彰善(1877-1940)は,1911 年(明治44 年)に生き方をともに考える精常会を大阪市内に設立していた.森田と別所の直接の交流は,別所の発刊した雑誌「精常」に森田が寄稿していること,また,別所の著作に,次のような引用がある程度ではあったが,互いに関係者のネットワークを通してその存在を意識していた.
「すなわち,その神経衰弱と言うのは,こういう病にかかり易い素質を父母から遺伝されているものでありまして,後天的外因の有無などは,本症の発生に余り大した影響はないと言ってよい位であります.――それで,森田(正馬)博士などは,後天的な外因性の神経衰弱と区別するため,その体質性のものをとくに神経質と呼び,後天性の神経衰弱は,むしろ身体衰弱と称すべきもののように言っておられます――別所彰善(1924)73)」
図書で赤裸々にされた別所彰善が語る自らの神経症の様相は次のとおりであった.「医学を志して生理や衛生の講義を聞き,疾患の臨床講義を聞き,日々の食物選択から食事の制限,衣服の適否等に注意を払い始めたころから,消化不良を覚え,・・・気管支炎を・・・ついに肺炎を続発し,・・・外科医院に出勤後,ついに胃拡張,胃アトニーの病名を下され,・・・咽頭炎,慢性扁桃腺肥大,・・・そして脚気,・・・ついに神経衰弱,肋膜炎で悲観絶望の淵に沈んでいたのは実に明治42 年の春でありました.・・・かくて悲観絶望の極,一時は非常な厭世思想に耽り,遁世を企図したこと・・・のであります.別所彰善(1925)74)」
ここから別所が脱出して,修養の悟り(本人は悟りと言わず)を得たのは次のようである.「何年経っても人並みの食事をするというような胃になれそうな希望がないので,遂にあるとき自暴自棄となり,どうせ治らぬ程なら,只の一度でもよいから好きな物を食べてみたいものだと,試みに自分が生来の好物たる牡丹餅を,三度の食事代わりに五個ずつ都合一日に十五個食べてきました,が,やはり何の異状も起こりませぬ.」森田も語る「窮して通ず」の体験だ.
「個人的特異の消化力があるという事を自覚したお陰で,漸く在来の画一式,杓子定規的養生法,特に肉食万能の迷夢から覚め,追々精神の肉体に及ぼす影響の偉大なる事実を知る従い,人間の個性殊に遺伝的気質・感情・性格等個人的特性の権威を認めずには居られなくなり種々個性の研究に身を委ねました結果,此に始めて医学も,修養も,経済も個性問題を離れては,折角の努力も多く徒労に属するという事を知りました.」森田も死の直前に唯心論を語る(神経質10巻3号pp.2-3,1939).
「されば個性自覚の問題は精常的修養の根底であり,・・・是非とも此の個人的特異律と普遍的一般律との調和を取らねばならぬ.即ち知的滋養と情的滋養の調和―普遍的法則と個人的特異性との調和を計るべき必要があり,此処に『調和的活動養生』―『相助的精力主義』の必要が起って来るのであります.別所彰善(1925)75)」
奇妙なスピリチュアリティやオカルトは今も人びとに取りつく.パーソナリティ心理学が発展した現在でもある,別所彰善の患った神経症は,抑圧と差別の著しい現代においても形を変えて顕在化している.現代の文芸ではこれらの「こころの病」を取り上げるものが多い.
この様相を敷衍すると,森田正馬や別所彰善が「ありのままに」,「常に精力を高める」ことを勧めたにもかかわらず,「神経症」,「解離性障害」,「転換性障害」の症候群は,文化・習俗・信仰に抑圧と同化圧力が高まり矛盾が激化する現代社会にあって,より質的に変化し拡大しているようだ.環境の矛盾は内面世界に反射する.
7.自然の中で心身を修養し相助を貴ぶ精常
別所彰善は修養の理想を精神的精力主義で達成しようとした.別所彰善が得た「精常」の自覚と実践を語る講演録を,始めは活人社からやがては精常院から出版し,健康な生活をおくりたいという人の欲求に応じ教授していった.精常の精は,精力主義の「精」からとったと別所は言い,「精神的精力主義あるいは仏者のいわゆる精進波羅蜜という意と大差はない」と述べた.
また,常とは,生活上,是非とも人間が到達せねばならない「あらゆる修養,衛生,処世上の理想の極致を表わさんが為,特に自分が選定した文字でもある」と由来を示している.精神的,肉体的,社交的,財産的な生活の理想を「心身健康の理想郷,即ち正常強健なる身體と中正安康なる精神」の標的として描いている(別所彰善(1925)76)).
「人間の病健苦楽は主として精神と肉体との相関的作用から成立するものであって,健康なるものは肉体と精神との調和を得たる状態を指すものでありまして,お互いがいつもニコニコ気分で愉快に活動している場合には,肉体の作用は精神の機能を助け精神の機能はまた肉体細胞の機能を助けていくという風に,心身互いの相助的作用によって健康が増進せらるるのであります.」
「人間は社会を離れて独りぼっちでは幸福も健康も庶幾しうべき道理はないのでありますから,吾々は,先ず『自他のため』すなわち『相助』ということを修養即養生上の標語に冠し,その実行を期しつつある次第であります.別所彰善(1925)77)」
「精力主義で心身統一(を図り),寛容主義で個性自覚(を進め,即ち),気を元に活動し,急がず身を修め,同情で調和(を進め),気を養う.(そのための核は)自治,自活,自信,自療,自習,自済,自強,自営,自足にあって自助と自律(を獲得し),天然,餘澤,信愛,協力,相伝,偕楽,共済,共養,共存で相助と他律(を獲得し),衛生と修養と経済(を同時に達成する)常なる生き方(を探る).」
「その要約は『相助(調機と調和)』,『質実(簡易と開放)』,『展眉(矯癖と去我)』,『寛大(錬膽と迎苦)』,『常歓(愛想と同情)』の五項に帰納することができ,・・・自他のために,体裁はらず,眉のばし,腹をひろげて,いつもにこにこ,ということになるのであります.別所彰善(1925)78)」
別所彰善は,著作では共生の語彙を用いていないが,「相助」と「調和」には特別の重点をおいていた.別所彰善の精常会の事業は,四段階で発展していった.大阪市東区唐物町に事務局を置き(1911-),各地の公会堂や学校を借りて精常会の講演会を開催した時期(1916-),有馬の愛宕山の中腹の自然の中で開催した納涼修養会が好評であったために郊外の森林の中で静座や散歩を行う園地を開発した時期(1922-),さらに園地内に滞在し居住する精常興生院を本格的に運営する時期(1927-)を区分することができる.
四段階で理想とする修養の共同体を造った別所彰善には,それぞれの時期に社会活動を推進する有力な応援者・支援者が居たことが特徴的である.別所彰善自身は医師であったが,精常会には,医師免許を持った医師(嘱託医一人だけ)を除き,積極的に多く配置するような事業を展開することはなかった.
むしろ,別所の修養や積極的な活養を実践して健康を得た知識人や事業家が役員となって会員の交流会や普及の会合を運営していく開かれた組織の運営をとった.現在の共益的な社会事業と共通する会員の主体性や一般社会への働きかけ重視の姿勢は,とくに第三期ぐらいまでは強かった.
外に働きかける揺籃期の精常会の運営にあたっては,別所彰善が代表であっても,自ら虚弱体質であった弱みを公衆に見せ,絶対的権威の教祖像とは遠い指導者として臨んでいる.また,指定された経典や教義を必携することが強要されているわけではない.強い結束力とタテ型の組織運営を誇る宗教団体とは違うルーズさと参加者の多様性を見ることができる.
ただし,神経症の診察の観察記録は精常院病癖録の番号付きで記録されているので,医師として診察を行っていた時期(北摂の花屋敷に開発した精常興生院から大阪市内に診療に出かけていた時期を含む)には,病癖録(別所彰善(1925)79)に診療記録を残していたが,その総覧は今には遺されていない.
8.天王寺公会堂の精常講演会を盛会に導く
精常会の発足したその翌年の1912 年に,別所彰善は36 歳で,精常会の機関誌として「精常」1 号を発刊した.精常会の会員向けの雑誌として,精常の教えを会員が学ぶ記事が掲載されていた.精常会の講演会は公会堂や学校で開催され,やがて,1916 年5 月の大規模な修養即衛生講演会を開催するに至る.天王寺公会堂で開催された大公開講演会と第三回精常会総会と懇親会である.
この時の記録は年末に,図書「精常階梯―心身健康増進の栞(別所彰善(1916)80))」として発刊されていて,その文面からその時期の精常会の活動の実態を知ることができる.会員への通知を担う精常餘瀝によれば,大正元年2 月に第1 号が発刊された「精常」は,大正4 年6 月までに18 号が発刊された.前期新入会員は606 人と旧会員551 名と併せて1157 人を数え,月次の活養ならびに修養例会には110ないし746 人が参加し,大正4 年4 月から5 年5 月までに合計10 回の公開講演会と18 回の出張講演会を開催している.極めて精力的に会合を重ね,その熱気が1916 年5 月21 日の修養即衛生講演会につながった.
天王寺公会堂での講演会の様子は,新聞にも報じられ,会場は二千数百人と超満員の様子であった.挨拶の後で演壇に登ったのは,経験談を語る会員の二人で,精常の教えを学んで胃腸病・感冒,肺カタル等を克服した小学校校長の堤定次郎と郵便局職員で「自惚れと病疾を退治」した重根麓泉(忠三郎)であった.続いて,「修養と養生」と題して菊池米太郎医師,「精神の肉体に及ぼす影響」と題して松下禎二教授(京都帝大衛生学初代担当)が講演した後に,別所が予定の二題(精力増進について,神経衰弱の語を葬れ)の話題提供を,一括して話している.
「神経衰弱は,ともかくも悲観が一番この病の禍根で・・・,何等かの方法で本人の心機を転換し,その悲観を楽観に導かねばならぬ,実に心機転換策は神経衰弱の要訣であります.・・・妙薬の五剤は,相助丹,質実散,展眉膏,寛容錠,莞爾(にこにこ)水.・・・」と具体的に相助と質実の生活の仕方を教えている.
「私の標榜するところの精常すなわち心身摂養自然の常道なるものは,あらゆる体的ならびに心身の病者はもちろん,広く一般の健康者―富者―成功者にも欠くべからざる人生必須の理法でありまして,・・・広く自他の心身健康を増進し,体格の改善と共に品格趣味をも向上せしめ,理想の健康すなわち体格と品格との渾成を庶幾はんとするものであります.」
まず,「活養―求心的修養法としては肉体的調和と体癖の矯正とによりて,健実―正常なる身体を形づくり,その結果を求心的に中心脳神経に影響せしめて精神の作用を中正安康なる常態に導こうとするもので,・・・.」即ち,身体を健やかとしてその効果を神経系に及ぼすという.
さらに「自覚養性=遠心的養生法を講し,・・・生得的ならびに習性的気癖の自覚反省を促して潜在精神内界に蟠屈せる種々の心的病理を芟除し,稟賦特性的長所の涵養により各人の性情を中正安康に導き,やがてその良果を遠心的に末梢肉体に作用せしめて,健常の肉体を得せしめんとつとめている・・・」即ち,こころを健やかにしてその効果を肉体に及ぼすという.
こうして,「活動と養性すなわち求心的修養と遠心的修養とあいまって,ここに心身調和一致したる健康の増進を企図するのが精常=心身摂養自然の常道の実行手段の要綱・・・」と訴えている.最後は国民福祉に及ぶと,次のように説く.「さらに修養の過程を進めて,個人的稟賦性情の自覚から,国民的―社会的の大自覚を遂げ,己が天与の特性を発揮し,自己満足の常楽境に安住して,自他共に共益共楽の実を挙げ,直接自己の生命を延長すると共に相率いて国利民福を増進せられんことを希望いたします.」
講演会と総会の準備にあたったメンバーには,当時の社会の指導層や知識人が含まれる.盛文館(1912 年初版)から発行していた別所彰善の著作「自然の薬石」7版(別所彰善(1916)81))の題字は軍事参事官陸軍大将の一戸兵衛が揮毫し,序は松下禎二と和辻春次が表している.精常会総会の総顧問は龍村平蔵,近藤榮次郎,相談役は阪田転平,山本顧弥太,揚大三郎であり,講演会の運営に要する費用(552 円,うち4 回の新聞広告費は約60 円)に充てるために多額の寄付(15 円以上)を行ったのは21 人である.
これらの人物には,大阪・関西の当時の社会を代表する人々が含まれている.修養即衛生講演会の会場は満席であり,男性が主の来客は和服姿で手に帽子をもつ姿が見える.講演会の後での第三回精常総会に集まった会員の記念撮影がなされ,115 人が整列する写真が残され,写る会員のうち女性は23 人であった.懇親会の参加者80 名分の会費160 円が徴収されている.
9.林間実修で自然の中で散策し思索する
1922 年の夏に,それまで大阪市内で開催されていた精常の講演会を郊外の林間で開催することになった. 1 か月にわたる事業の報告を兼ねた図書「有馬開放生活の思い出―精常林間講習会実修記念,活人社,1923 年,樫尾長右衛門編輯(1923)82)」の前書きで,心身の健康に自然の中での生活を優先した背景を,別所彰善は次のように述べている.
「・・・当夏は実に20 年来の高温で,急性諸病者は都市の上下に満ち,確かに西瓜と医者との当たり年であった.然るに独り,我が精常院は,強いて,その門戸を閉鎖して収入の途を杜絶し,所詮収支の侵すべき見込みのない夏を講習及び実修のため,職員一同に半日の休養も与えず.舌を燗らし皮膚を焦がし,粗食を寓して,あらゆる心身的精力を傾注し,・・・己が脚力をもって如何なる高峰にも分け入り,いかなる粗食をも消化吸収し,いかなる浮世の難局をも奇抜しうべき心身的活力を具有してこそ,初めて真の自由を得られるのであって.一杯の飯にもジアスターゼを借り,籠かきをやとわねばわずか六甲山位にも登り得ぬようでは,決して自由も幸福もありませぬ.」
こうして,有馬愛宕山の公会堂を借り,秀吉所縁の旧蹟を訪ね,旅館角の坊の主人の協力を得て,その経営する霊泉旅館や三棟の別荘を借りて,知行合一式心身改造の実演を行うことになった.8 月1 日より,34 名の幹事の手により,1 か月にわたる林間実修が始まった.
別所彰善は,万物相助共存の理より,共同生活上における寛容感謝の尊さを力説し,ブルガリアでの国民強制労働の新制度に対する批評をおこなって,時事へも強い関心をも示して,1 時間半の講話を行っている.6 日に開催された懇親会以降はとみに来会者が増え,94 人中,31 人が20日以上も行事に参加した.
懇親会前後に姿を現した著名人は,帝国技芸員龍村平蔵,須磨に住む鐘紡重役望月栄作,福井県代議士高嶋七郎右衛門,京都の染色業杉本徳次郎,東京美術学校校長正木直彦,大阪の南画家の菅楯彦画伯夫妻,関西で活躍する建築家の武田五一工学博士夫妻等である.また,様々の活動の詳細は,越前の事業家で精常に関心の深かった樫尾長右衛門(雛山)が代表をつとめる活人社から活人第一増刊号として発刊された.
別所は,訓示の中で心身活養を目指す参加者を励ました.「大苦は小苦を駆逐する(8 月20 日活養講話)」,あるいは「古今東西の美を盡した殿堂も,肝腎の棟梁が白蟻に喰われて居ては,到底永持は望まれませぬ.我らは仮の改造や解放を叫び,妄りに現制度の破壊を能事とするが如き所謂新人の轍に倣うものではないが,堂の中に家を建てられませぬ.」
六甲登り,生瀬街道の裸足突破,妙見山登り,遊園地のラジウム冷泉での水泳,播磨清水寺と御嶽登山,有馬富士登山,愛宕山頂での茶話会等を行い,8 月30 日に有馬瑞宝寺で別所彰善が閉会の辞を述べた.簡素な生活と積極的な活養に参加者は感謝している.活養講話会でも,改めて「精常の本義は体験にあり」と別所彰善は強調した.
福井県選出の代議士高嶋七郎右衛門も,「今までの消極的な療病であったのを反省し積極的活動方針へ」と感想を述べている.また,会員ではないと断りつつ,作家で俳人でもあった斎藤溪舟(大阪毎日新聞第七代社会部長)は10 年前に玄米握り飯2 つをいただいた簡素で常なる生活を振り返り,「懸ケ樋のしたたり」の文中で,「(有馬開放生活の座では),龍村さんは肥えていて坐っていても痛むらしい.示導のオルガンの音に呼吸を合わせ,(瞑想しても)おしりの下の足が痛む」と観察していた.弁護士岩田豊行も70 日間も野尻湖湖畔で避暑を経験した優雅さと比較し,簡素な有馬開放生活を褒めている.
富裕層こそ簡素な生活が新鮮な刺激であり,別所彰善もその基本方針に自信を深めた.この有馬夏期林間講習実修会の成功が,川西市と宝塚市(当時は長尾村)の境界に開発されつつあった雲雀丘・花屋敷の開発地の最上部の土地を別所が購入して,自然の中で心身健康の生活を営む簡素なコミュニティを創ろうとする独自の試みに乗り出すことを後押ししたに違いない.
農村部に造った新しい村や宗教色の濃厚な一燈園と違って,大都市近郊で生まれつつあった郊外住宅地のそばに積極的な修養の舞台を求めた.郊外電車(阪急電車で半時間)の交通を利用でき,流行が始まっていた田園都市開発との間で理解者の獲得で競合しつつも,あくまで精神性の高い簡素で身体を鍛錬する生活を実修する開放的な場をつくることになった.
別所彰善はレーベンのアトリエと呼び,コミュニティと言わず,山林精常園とか精常興生院と名付けた.しかも,先立つ経費の支払いは別所彰善が負担し,土地開発で生れる利益を費用に充てるという仕組みと運用の経済(キャピタルゲイン)には無縁であり,高級邸宅街を志向する田園都市開発のビジネスとは大いに違ったのである.
10.花屋敷の林間に精常興生院を運営
精常興生院の様子については,宝塚市史には次のように短く要約されて紹介されている.「昭和2 年にこの会社から約26000 坪を購入した人がいる.大阪市東区の精常院長別所彰善であった.彼は都会の密集生活をさけ,恵まれた自然のなかになるべく質素な家屋を建て,四季寒暑を通して開放生活を実行し,玄米を食し生水を飲み,山登りをいとわず,自ら働いて自給肥料で野菜を作りながら,協同生活ができるようにするのが精常生活であり,このような生活方法を実行しひろめるため,修養・感化・療病・興健の諸事業をおこなう財団法人山林精常園の建設を志し,精常園債を募集して資金を集めこの地を求めたのであった.」
「彼は,この土地を上・下に二分し,上部に山林精常園の夏期林間講習体験会用の講堂や宿舎・共同作業場・図書館・共同浴場などの諸施設や会員の精常生活用の貸住宅などを建て,下方約8000 坪はおよそ200 坪に区画して分譲地とした.」(宝塚市史第3巻83))
このように,山林精常園は簡素(Simple life),修養(Spiritual practice),自然調和(Harmony with nature),利他相助(Altruism in working together)等を原則として運営された.精神性を高めた環境共生のコミュニティ形成の先駆をなすと言ってもよい.
精常興生院の開設の様子に関しては,精常会の事務局を務めた春日保の「開園当時の思い出」と称する手記(別所彰,別所浩次編「精常の思い出」(1938)84)所収)に鮮やかに示されている.春日は1925年に伯父の紹介で唐物町にあった精常院で初めて公開講演会を聞き,卒業後就職難で事務手伝いに入ったという.その目で見ても.まずは資金集めが難題であった.
「1927 年に精常興生院建設募債委員が選ばれ,2 万円を大阪貯蓄に預けた.銀行が倒れる不景気の中でも,満額が集まったので資金面の課題が解決された.建物の建設が急がれ,7 月に揚先生が引率した登山の際には,林間講堂の骨格はできあがり,・・・小高いところで休息し,練膽常息した.赤土と松の山の眺望は良かった.」
「8 月5 日披露会,8 月7 日に開堂式を開催した.講師には三宅雪嶺,永井潜博士が来校され,別所彰善は『レーベンのアトリエ』と称する2 時間の講話を行った.」「山には開園直前から尾崎さん一家だけが昭和寮に来ておられ,それを一時の仮事務所として開拓を進めていた.別所彰善師は四人前主義で精力を集中し,10 数万円の借金を抱えて独力の働きであった.」
1928年の活動は次のようであったと春日保は回顧している.「元旦には,日輪観,試膽会を開催し,仏暁山に20 名の会員が集まった.3 月4 日にはお山(不思議とお山と呼ぶ習慣はこの地域で広まる)で最初の前期講習会が催された.初日のみ大阪本院で開催し,2 日目より花屋敷に移動した.梅田駅に集合し,(阪急の)特別電車で花屋敷駅に向かう.精常の旗を持って,行燈で迎え,参加者は林間講堂へと向かっていた.3 か月後には,お山には養気楼が建ち,健兒荘,黎明寮,自強寮,そして,先生の独創になる蠻雅楼(二間×四間の十六畳一間と縁側,約40 ㎡)ができ上っていた.」
春日保の回顧は続く.「やがて,この広縁付きの広間は健康学塾として活用され,精常園のシンボルとなる.この蠻雅楼は,平等の共同生活の場であり,共同蚊帳の下で元美術院院長の正木直彦先生も一緒に過ごした.体験会の名物は掲げられている江中無牛翁の「信道斯有恒」の扁額であった.」 山林の中で簡素な生活を志向している様子が理解できる.
1928 年と言えば,既にその麓の雲雀丘,花屋敷の郊外住宅地には高所得者の洋風住宅,和風住宅が建設され始めていた.国登録有形文化財の現正司泰一郎邸(洋館および和館,旧徳田彌七邸,1919 年竣工),宝塚市都市景観形成建築物の旧安田辰治郎邸(1921 年竣工,延床面積277 ㎡,宝塚市に寄贈)等の特色ある建築群数棟が姿を現していた.
これらのお山の下のモダン・ライフの洋館群と対比され,簡素な寮や修行道場に似た建物群がお山の上に見られた.唐物町の建物を移築した談古楼,精神倶楽部,菜根楼等を含めて,戦前の寮や御堂は,旧学校教員住宅と旧興健荘と伝わる建物以外は全て除却されたが.宝塚市史にも掲載される「精常の思い出」に紹介された遠景風景は当時の意気込みを語る.
11.精常会に集い交流した人々の想い
精常興生院の事業は順調に発展していく.1928 年に活養と修養を扱う雑誌「精常餘瀝」を再び刊行し,会員への情報提供を強化した.有馬開放林間講演会の成功に倣って,夏季開放興健修練会を開催し,納涼修養会を花屋敷の林間講堂で催している.さらに1930 年4 月には第30 回の精常修養大会を開催するとともに,精常園内に小学校が開校し,居住と交流に加えて,子弟の教育が開始された.また,付属幼稚園が1936 年4 月に開校し,10 名余の新入園者を迎えたジャングルジムの写真が残されている.
大阪市内を始め,公開講演会の開催は止まるところを知らず,ついに1935 年4 月5 日には第二百回記念公開講演会を御堂筋の名物建築の大阪ガスビルで開催している.1933 年には雲雀丘に新しい小学校校舎が誕生し,その廊下で一緒に共同食事をしているのも,共食を教育とする基本を貫いた実践である.プールでの水泳,学芸会,遠足(見学会)等だけでなく,健康学塾(蠻雅楼)での修養と学習も含まれ,鋤や鍬を振るう開拓作業,林間の野外学習等多彩な教育の様子の写真もある.1936 年2 月4 日の珍しい雪の日に約30名の児童と教職員が雪だるまをつくっている学園の風景には共に理想郷をつくろうとする熱意が感じられる.塾長,塾母,塾生徒の一同仲良く朝食をとる部屋に「正義」と書かれた文字が見えるのも,精常の生活の仕方を児童に伝える設えであった.
この精常園(興生院)内の小学校の開設と教育は,近年に至って,心身を育む面で新しい取り組みを行ったと評価されるようになった.例えば,発達障害の神経心理学を発展させ,「自閉症とマインド・ブラインドネス」を著わした長畑正道(1928-2009)はわが国における小児を対象とした心身症に備えた健康増進を開始していることを評価している(長畑正道(1992)85)).
日本育療学会は1994 年に創立されたが,養護教員の桐山直人はその学会誌で精常院の取り組みに注目している(桐山直人(2004)86)).さらに,特殊教育から特別支援教育への転換が急がれている記念の学会誌50 号を前に,わが国の病弱教育通史の試み(桐山直人ら(2011)87))を,長谷川千恵美,西牧健吾(当時の学会長)とともに行っている.
この通史では,1927 年に別所彰善の林間精常園,1923 年に大阪市の御津尋常小と汎愛尋常高等小学校の郊外学舎,林間学舎の記事を載せ,1927 年には大阪市立六甲郊外学舎を載せる.これらの先進的取り組みを展開する関西の学舎の関係者が別所の精常園に集っていたことから,これらのいわゆる虚弱児童への教育にとって別所のいう活養即衛生の理念と実践は新鮮であったと思われる.別所は実践者に注目された.
大阪の郷土史家として有名な南木芳太郎の日記(南木芳太郎(2009)88))の1930 年10 月17 日の記事に,「別所彰善氏より案内,松茸狩」がある.様子を抜き出してみよう.「朝8 時半 宅を出て 阪急電車にて花屋敷,同駅より下り,四,五丁上る処に精常興生院あり.海抜七,八百尺の山内に無数の病療舎を建て,精神的に治療を施さんとする.一風変ったる病舎なり.会するもの田中香涯,今井貫一,竹内奏次,山岡千太郎,龍村平蔵,飯田吉太郎,岩田豊行,杉本徳次郎,田村精(ママ)と小生及び別所彰善の十一人.・・・別所院長の挨拶及び精常園の趣旨を述べられ,玄米飯の握り飯を供せられ,後園内の山道を迂回して晴嵐頂に登り,中腹の観月台にて松茸のスキ焼にて・・・」
南木から紹介されている9 人のうちで,田中香涯は医師,今井貫一は大阪府立図書館館長,山岡千太郎は様々の支援を行った実業家,龍村平蔵は五十歳半ばの機織業主で帝国技芸員として活躍していた.飯田吉太郎は大阪市立汎愛尋常高等小学校校長,田村靖は小学校教員,岩田豊行は弁護士,杉本徳次郎は杉本練染会社社長であり,竹内奏次は三越大阪支店長であった.
このうち,山岡千太郎と杉本徳次郎は西田天香を支援していた点で共通する.山岡千太郎(1871-1943)は久原鉱業の会計担当役員であったが,若くして実業界の現役を退き御影郡家に住み,河井寛次郎の陶芸家としての自立を支援し,山泉,挙春園の号で雪舟の写しを精力的に行い,戦況に向かう社会に背を向け陶芸,水墨画,盆栽などの芸術と趣味の晩年を過ごした.
特に興味深いのは,飯田吉太郎が欧米を1 年間視察し,建築家安井武雄と協力して,その見聞で得た最新の建築で汎愛尋常高等小学校の建築設備を更新したという(飯田吉太郎(1928)89)).飯田吉太郎は1916 年の修養即衛生講演会にも汎愛小学校の校長として来賓として来場していて,同じ来賓の泉原大江小学校長や鈴木枚方保養院長,丹羽井上病院副院長,稲葉天満病院長等と懇談しているところから,すでに精常園は医師や病院,学校の関係者には広く知られていた.
大阪市立六甲郊外学園(黒岩重吾が五年生で滞在,苦楽園,1929-)など1920 年代後半は林間学舎が各地につくられる時代であった.大気汚染が激化する中で虚弱児童対策と養護教育が始まるのもこの時代である.また,橋詰せみ郎が提唱し,設置した(家族制度と家屋という2 つの「家」から子どもを自由にする)「家なき幼稚園」の多くも,自然の豊かな雲雀丘を挟んで池田室町から宝塚の間に立地した(志垣寛(1924)90)).経済成長を遂げる大都市から脱出して「自然とともにある生活文化(living with nature)」を実践する動きは,こうして様々の形をとって戦前にも伝播していたのである.
別所彰善の精常興生院の事業は,1935 年の別所彰善還暦記念祝賀会とその3 年後の記念出版「精常の思い出,pp.1-348,1938」までは順調に発展した.戦時体制が強化され,自由な言論や結社,労働運動などが抑圧されつつあったが,1936 年5 月には生成幼稚園が開園し,7 月には精常大阪興健会を創立し,さらに,1937 年には東京交詢社で興健講演会を開き,人間医学を語った.
経営が縮小され困難に陥ったのは,精常園(精常興生院)の指導者である別所彰善が,重大な被害を各地にもたらした阪神大水害(1938 年7 月)の2 か月後に脳溢血で倒れ,回復したものの,1940 年に死去したからである.「精常の思い出,別所彰,別所浩次編(1938)91)」の原稿を依頼した際には元気であった別所彰善を慕って,「精常の思い出」には,約50 人が文章を寄せている.
このうちで,武田五一と並ぶ形で本の前半に祝辞を寄せているのは,北里闌,石川貞吉,石川武美,田中香涯,松本容吉である.北里闌(1870-1960)はドイツ語を大阪医科大で教授したが,日本語の起源を熱心に研究した.石川貞吉は医師,石川武美は出版業の「主婦の友」の社主,田中香涯は伊丹居住の医師,松本容吉は工学博士(機械工学)である.
武田五一が1922 年の有馬開放林間講習会に家族で参加し,精常興生院の林間講堂を設計したこと,田中香涯が1930 年の精常園での松茸狩りに参加したこと等に比較し,石川貞吉,石川武美,松本容吉,北里闌が花屋敷の精常興生院の事業に共感した実相や日常的な参加の様子を示す資料は無い.長年のつきあった龍村平蔵と直木正彦の「精常の思い出」への寄稿がなく,彼らの齢の寿と祝祭は別に92)為されている.
田中香涯(1874–1944)は本名祐吉.医師であると同時に性をオープンに語る当時としては変わり人であった.70 冊もの性の書物(大衆書を含む)の影響は,翻訳され中国大陸にも及んだ(揚(2018)93))という.伊丹に住み,儒教的倫理や国粋主義が強化される中で発禁処分を受けかねない発信をしながら,近くで精常興生院の盛衰を眺めていた田中の鋭い批評は「精常の思い出」に遺されている.
「一言率直に申し上げたいことは精常の世にあらわれてよりすでに30 年近くなるにもかかわらず,未だ一般多数の民衆に普及せず,わずかに少数の有産階級においてのみその篤信と実行者を見るに過ぎないことである.」
「何といっても先き立つものは金であるから,今日の所未だ経済的幸運に恵まれないで十何万という莫大な負債を背負っている精常園が,主としてブルジョア階級の聴講料や寄捨金等に寄らねばならぬのは必定の傾向であると思われる.精常園の経営方針を新たにして従来の負債を能うだけ速く償却する方法を講じて経済的にも後顧の憂いなからしめ,貧しい勤労階級の人たちも尊い精常の福音を自由に聴かれることのできるようにお願いする次第である.」
12.結語
欧米の学術では,既に18 世紀末から19 世紀半ばには,植物や微生物等の観察や民族や人種の都市での生き様の観察から,ともに生活する様相に,相利的な関係を見いだし,生物の関係性をエコロジの学問として発展させていた.
個々の種や個体の棲息だけでなく同じ空間や場での相互の関係の意味を拡大し差異化して類型化して概念整理を図った近代生物学とシカゴ学派の社会学に共通する概念として,Symbiosis があった.その上で,共に暮らす上で益と害を伴う様相に差異を認めて,“Living together for mutual benefit”を志向している.
「共生」が日本の環境政策で用いられた1980 年代に共生概念が流布されたが,情緒的にあいまいな使い方もなされた.メタボリズム建築や脱構築の思潮のキーワードにもされて「共生」は消費された.社会課題を広く扱って普及啓発を急いだ反面で,この時代の扱いには学術的な定義の厳密さや論述の検証の丁寧さを欠く.
黒川紀章の「共生の思想」の源流にあるとされた椎尾弁匡の「共生会」の教えが広まった大正期から昭和20年までの時代には,生活の仕方を見直す簡素なくらし,心身修養を希求する複数の流れが生まれていた.大正デモクラシの隆盛にあわせた思想と文芸に影響を受けつつ,西欧の科学的認識や学術の消化と活用を伴って,迷信や呪術を超えた精神世界と物的世界の交流を図る社会活動が展開された.心身健康や利他への精力を進めた活動は,主体の覚醒や修養,時に行を求め,東洋の思想や宗教を帯び,経済勘定を超えた強靭さや結束の強さをもった.
医療の中で東洋医学が最も典型的に有していた精神不調・疾患への対処における魂や気,霊への所作を説明可能な形で開発した森田正馬の「あるがまま」で「囚われの心を解放する」心身療法は,最大の成功例である.しかも,森田正馬の営みは,単独で行われたのではなく,先行する井上円了,中村古峡らの思想と実践と交流する形で展開され,静坐法による修行と魂と外界との静かな対話を組み入れた横山慧悟,高良興生院の高良武久らの試みにつながっている.
本研究のもう一つの焦点は,大阪郊外の北摂の地に精常会,精常興生院を開設した医師であり,心身統合の師である別所彰善の講話と実践を始めて具体的に論究して,その共助の概念を考察したことである.別所彰善の教えの根本は,「自他,相助,共益」にあり,遺されている図書と記録,それに現地踏査によって,精常の実践が簡素,修養,自然調和,利他相助の4点にあったことを結論付けている.
ともに生活する中で心身の健やかさを得ようとした森田療法研究所,高良興生院,中村古峡医院などと同様に,自らの財力と家族,知識,縁(ネットワーク)のすべてを投入して実現しようとした別所彰善の精常の試みは1911 年から約30 年間続いた.それは現代の環境共生にとっても意義のある“simple living harmony with nature”の色彩を強く帯び,“mutually beneficially living with active health of mind and body in communities”を顕わにした.
その言説の端々にある国粋志向,他民族蔑視の排外性には注意しつつも,開拓,耕作,静座,黙想,日想観,野山散策,聖地往還,共卓での食事,読書,学習等を精常興生院の寮や堂,学塾や診療所,山林と園地で行うコミュニティを運営したことは,注目されてよい.
当時の日本社会は,マイノリティや多様性,包括性等への認識が極端に弱く,排外的ナショナリティに抵抗力が乏しいという弱点は,現在の拡大された倫理や価値をもって反省材料とすればよい.共生の概念を深め将来世代に活用する上で,先行する自然と共にある生活,互いに益を与え合う生活の有り様の源流に学びその批判的継承を図る上で,1910-1940 年の間の別所彰善とその協力者の精常会の試みは先駆的な所作として正当に評価しておきたい.
「常な態で=ありのままに=let it be」を「質実に=簡素と開放=simplicity」で進めた社会思想は,1970-80 年代に「共生」のブームとして復活した.とすれば,プラネッタリバウンダリ(planetary boundary)がより一層現実化する2030 年代に,欲を制し多様な主体の精力を込めて改めて「共生」が再興されるに違いない.
著者連絡先
盛岡 通
E-mail: tmorioka@kansai-u.ac.jp
2024年8月21日受付