巻頭言
SDGsや大阪万博など現代を象徴する場面で,「誰ひとり取り残さない」あるいは「命輝く」といった,個の多様さにフォーカスした表現が大々的に用いられている.また,「インクルーシブ」という用語が社会の様々な場面で見られるようになってきた.さらに,このような個の重視は,我々人間にとどまらず,国際的には動物福祉に対する配慮の要請,我が国では動物愛護に対する多様な価値観の議論といった側面でも見られるようになってきた.
このような個の重視という社会的な傾向は,「人類」あるいは「社会」といった,我々人間自身を大きな区分や個の集合として捉えることに対する問題意識や反省に起因していると考えられる.また思想や価値観の変化だけでなく,ビッグデータの蓄積やAIを介した処理能力の向上といった技術的な進歩も,このような個の重視の在り方を推進することに大きく貢献していると考えられる.
環境共生学が,このような個の重視の社会的な流れに対してどのような貢献ができるのかを議論していく必要がある.本号は,ウェルビーイングについての特集号である.ウェルビーイングは医学的な健康にとどまらない包括的な個人の在り方を表す用語ともいえる.この概念を通して,複雑で不確実なシステムの中での個人の捉え方や,個々人に由来する豊富な情報に基づく理論構築やシステムの最適化について,議論する機会になることを期待する.
環境共生学におけるシステム思考の特徴の一つは,社会システムや経済システムといった既存のシステムを統合して,例えば社会-生態システムのように,より包括的あるいは上位のシステムとして捉えなおして分析するものである.深刻な地球環境問題や不安定な政治状況のもとでは,システムとして様々な事象を捉えることこそが,その場しのぎでない問題の理解や解決に向けて必要不可欠なアプローチである.しかしながら,大きなシステムに依存することによる個人の想像力や問題対応能力の低下が指摘されたり,大きなシステムに適応できない,あるいは,そこからこぼれおちてしまう個の包摂の要請もながらく存在している.このような指摘に応えるため,システム崩壊への対応あるいはティッピングポイントの予見に関する学術的知見の蓄積や,個人の対話データに基づき自ら適応していくLLMの構築など,様々な取り組みが行われている.オーダーメイド医療の発展は,個の重視に対する医学理論の適応という視点で,分かりやすい社会的な変化といえる.
環境共生学でも,例えば,社会・環境・経済といった異なる視点の統合や接触領域の開拓がこれまで以上に求められるようになっている.システム思考がはらむ限界を,個の重視という視点でどのように理解し,さらに,乗り越えていくことができるのか議論が必要である.深い人間理解を実践してきた人文学分野との,より密な協働が必要である.個にフォーカスする文脈や過程依存的な知見と,多様な個人を統合的に捉える一般理論の構築とをどのように融合していくかが問われている.
最後に,ガタリ著『三つのエコロジー』(初版1989年)を,ここまでの議論における一つの補助線として挙げたい.本著では,既存の精神分析の枠を超えることを目指すガタリが,精神のエコロジー,環境のエコロジー,社会のエコロジーを美的・倫理的に統合させることで生まれる知「エコゾフィー」の重要性を述べている.ここでいう美的な統合というのは,単なる芸術美ということでなく,芸術活動のような創作,自ら創り出すことの重要性を意味しており,倫理的な統合というのは,中立でバランスが取れた立場をとることでなく,ある方向に突出することの重要性を示唆している.さらに,この中で,個々人の「主観性」についても独立して存在するものでなく,様々なものごとの組み合わせで成り立ち,当然社会と深く関係していることを強調している.社会と独立した個の重視は多くの問題を生み出しうる.私たち個々人が生きる世界は,複雑な関係性の塊であり,あるいは,包括的なシステムでありながら,なお,それらにからめとられることなく,常に開かれたものであることを意識することが重要である.