2020 Volume 40 Pages 369-377
目的:糖尿病足病変入院患者と看護師との関係で何が起こっているのかを,足病変患者の様々な状況にその都度応じる看護師の日常から記述する.
方法:Merleau-Pontyの身体論を参考にした現象学的研究方法を用い,看護師が足病変患者を看護する場面の参与観察及び個別面接のデータから,記述した.
結果:参加者Cさんは,検温時のやり取りから患者の「ぽやっと」した感じを捉えた.それは,糖尿病療養の緩くマイペースな態度であり,それに促され患者のこれまでの生活情報を得るのであった.参加者Eさんは,足病変の処置をしている患者の息遣いに,表情を歪めて痛みを捉えると手を患者の腕に当てた.このEさんの痛みの分有を契機に,患者は毎日の処置時の恐怖を表出したのであった.
結論:看護師は,患者の症状や苦痛の表現に看護の重要な点を知覚し関与していく.看護師の知覚は,患者と身体の交流から生起するために主観ではないのであり,関係を展開する鍵になっている.
Purpose: This study describes the experiences of nurses in interactions with inpatients with diabetic foot lesions, focusing on daily occurring situations where ward nurses respond in situations involving patients with foot lesions.
Methods: Using a phenomenological approach based on the body-theory of Merleau-Ponty, and data collected through field observations and interviews with individual nurses, we describe situations where nurses provided care for patients with foot lesions.
Results: Participant nurse C perceived an “absent-minded” feeling of a patient during the interaction when checking physical conditions of the patient. It was manifested in a slow and self-paced attitude unique to patients in diabetes treatment from which nurses gain information about the life of the patient before hospitalization. When participant nurse E perceived that the patient felt pain from the way of breathing and distorted facial expression during the foot lesion care, she put her hand on the arm of the patient. Reacting to this attitude of the nurse showing awareness of the pain, the patient developed fears during the daily care.
Conclusion: Nurses perceive important points for the nursing from the symptoms and distress expressed by patients. The perceptions of nurses are not subjective because they arise from the interactions with patients through the physical involvement, but are a key element to develop the relationship with patients.
近年,糖尿病の罹患期間の長期化・合併症の進行を背景に,糖尿病足病変(以下,足病変とする)患者が増加している(河野,2009).日本では高齢や透析による動脈硬化から重症虚血足病変が増えたことでその成因が変化し,予防的フットケアや治療の限界も考えられている(河野,2016).そのため足病変患者は,切断を免れない可能性があり,今後は入院時の看護の拡充が求められる.
在宅看護が進む諸外国では,足病変患者看護のガイドライン実施による看護師の認識(Ritchie & Prentice, 2011)や,足病変患者看護におけるIT(information technology)支援システムの構築(Schaarup et al., 2017)の研究が行われ,科学的な実践を目指し,その効果を示している.しかし,Rasmussen et al.(2015)は,ITを用いて足病変患者をケアする看護師の中には,患者が疾患を管理する責任や能力が低いままであることや,看護師がITを介した医療者への相談に終始し,患者と関与していないと感じていると報告している.これより,それらが患者の利益に繋がらない場合もあり,また患者不在のケアになることを不本意に感じている看護師の心情も読み取れる.加えてRibu & Wahl(2004)は,足病変患者は看護師から非人間的ケアを受けていると感じ,個人として理解し関わり合うことを理想としていることを明らかにした.指針や技術を用いた科学的な看護が発展していく近年の動向は,患者と看護師の本意を遂げることを難しくさせる可能性があると考える.佐藤(2014)も,「看護という行為が科学化を指向するあまり,素朴な“からだ”の実感を削いでしまうことへの“畏れ”」と「強引に心身二元論的に割りきろうとすることへの恐れ(問題意識)」がある.そこで,患者との関係において看護師が,自身のからだの感じ(リアリティ)に
筆者は,臨床で足病変入院患者を看護していた.その看護で印象的であったことは,足病変を見ると自分の身体が「ゾビゾビ」と冷たく疼くのを感じ,患者に痛みが伴っているだろうと気にかけてしまうことであった.栩川(2017)は,看護師は足病変患者の生活や治療状況を身体で理解しており,思考することとは別様の身体から応答していることを明らかにしていた.これは,筆者が経験していたような,身体からの応答が患者との関係のキーとなっている可能性を示唆していると考える.阿保(2015)は,「看護技術の『適用』の背後には,患者の身体と看護師の身体との交信が隠されている.それがなければ適用は機械的な『あてはめ』でしかなく,看護の『実践』とは呼べない.」(p. 78)と述べる.看護は,身体の交信という関係が成り立っていることで,それとして成立するのである.ならば,背後で機能している,看護師と患者との身体からの関係の内実を明らかにすることが求められると考える.
足病変患者を看護する看護師の身体の応答は,それを触発するような足病変患者の急性期的特徴である壊死や疼痛などの身体症状に依拠していると考える.しかし,足病変患者を看護する看護師の経験の研究(Walsh & Gethie, 2009;栩川,2017)は,看護師に面接しデータを収集することが多く,患者の状況が明確ではない.Kolltveit et al.(2017)は,ITを用いて足病変患者を看護する現場の観察と面接を実施した.その研究は,援助場面を絵や文章で示し,ITをいかに用いているかを明らかにしていたが,患者の身体症状やその場の文脈から生起する患者との関係は焦点にしていない.そのため,足病変患者の在り様に看護師がいかに応じているのか,看護師の応答を触発するような急性期にある足病変患者が入院している現場の文脈から明らかにする必要がある.
そこで本研究の目的は,急性期足病変入院患者と看護師との関係で何が起こっているのかを,患者の様々な状況にそのつど応じる病棟看護師の日常の現場から記述することである.そこから,足病変患者と看護師の関係の生起と,入院治療を要する足病変患者の看護を考察する.
本研究は,「いつも既に私たちが経験していることへ立ち帰り,そこから事象の成り立ちを捉え直す」(西村,2018)現象学的研究をデザインにした.足病変患者と看護師の関係で何が起こっているのかを,その現場の文脈における偶然の出来事を,看護師の身体の次元から記述することでその内実に迫っていく.田口(2014)は,「通常は『隠れた』豊かな前提次元に眼を向けようとするのが現象学の営みである.」と述べる.本研究では,意識的な行為ではなく,主題化されずそれとなく働いている身体という次元から生起する日常の関係を記述する.Merleau-Ponty(1945/1967)は,「身体こそがみずから示し,身体こそがみずから語る」(p. 323)と述べるように,身体は解剖学的に対象化されるものではない.我々の経験は,自らの身体を基点として,身の回りの世界が意味を帯びて現われる身体の志向性が機能している(榊原,2018)のである.このようなMerleau-Pontyの考えを視点にすることで,身体の前提次元からの関係をつまびらかに記述できると考え,現象学を手掛かりにした.
2. 研究参加者研究協力施設は,地域医療の中核を担う急性期病院である.入院治療を要する足病変患者は,研究協力施設では形成・整形外科病棟に常に複数名入院している.そのため研究参加者の条件は,その病棟に勤務して2年目以上かつ足病変患者の看護の経験がある看護師とし,同意を得た看護師は5名であった.
3. データ収集方法2017年8月から2018年3月まで,参与観察と個別面接によるデータ収集を実施した.患者との関係は,足病変患者の変化していく身体・治療状況や,看護師の日々重ねる関与が影響していると考え,継続してデータ収集をした.参与観察は,参加者の日勤時に実施した.Goffman(1989/2000)は,研究者の観察の核心は,「彼らが被っているのと同じ仕打ちを被って」いることと示す.研究者は,足病変患者の気がかりを参加者と話し合い,必要時にはケアの介助に入り,その場に入り込むようにした.参加者の経験は,研究者と共に作られたものとなっているため,フィールドノーツでは,研究者の言動も記載した.さらに参与観察の出来事が,参加者にとっていかに経験されていたのかを問うために,後日個別面接を実施した.参加者の日勤時,業務に差支えない時間帯に15分を目安に研究協力施設内の個室で実施し,承諾を得てICレコーダーに録音し逐語録を作成した.面接では,参与観察で研究者が気になった場面で参加者がどのように感じていたのかを問いかけ,その後は会話の流れに沿った.
4. データ分析方法本研究は,足病変入院患者の身体症状や治療など文脈における看護師との関係を分析するにあたり,現象学の特徴的な見方である「相関」を基盤にした.鷲田(2004)は,「あらゆる事態はそれをみる,それについて考える,それに関わっていくまなざしのあり方と相関的なものだ」と述べる.看護の事象も,看護師が患者を志向する相関からその営みが生まれていると考える.西村(2013)も,看護師の関与の仕方や能力,あるいは患者の応答の状態を区別する二元論の枠組みの見方が,看護の事象の理解を難しくさせると述べている.そのため,患者と看護師を分ける見方を棚上げし,相関の視点で分析した.
分析は,西村(2014)を参照し,参加者ごとに以下のように実施した.
① データを何度も読み,その場面の全体の意味を捉える.
② 参加者が足病変患者とのやり取りしている前後の文脈も含め,参加者の動作や,何度も繰り返される言葉,参加者の言動が動機づけられる患者の在り様にチェックを入れた.
③ チェックした箇所を視点に,関係がいかに生起していくのかを記述し,文脈ごとにテーマを決めた.
本研究では,研究会や大学院のゼミで哲学や看護の専門家から分析に対する意見交換を行い,分析の精度を高め,また研究者の先入見を問う機会を得た.
5. 倫理的配慮本研究は,2016年首都大学東京荒川キャンパス研究安全倫理委員会の承認を得て実施した(承認番号16051).参加者には,研究の趣旨,匿名性の担保,研究辞退によって不利益を被らないことを口頭と文書で説明し,同意を得た.参加者が担当する足病変患者には,研究目的・方法,カルテ閲覧はせず個人情報の保護に努めることを口頭で説明し同意を得た.患者の診療部長へも研究の説明を行った.分析終了後,参加者にデータと分析内容の確認を得た.
本著では,糖尿病療養中に足病変を発症し緊急入院した患者と,治癒遅延のため足病変に特有である洗浄治療を受ける患者という,急性期足病変患者の入院時の特徴的な状況に対応した2名の参加者の看護場面を示す.
データには,記録番号を記載した.例えば「FW-Z6 場面8」であれば,参加者Zさん参与観察6回目の8場面目を示している.「IN-Z6, p. 1」とあれば,Zさん個別面接6回目の逐語録1ページ目を表している.データはゴシック体で表記し,下線は分析の視点である.研究者は「私」と示し,【 】は理解を促すために筆者が追記したものである.なお足病変患者の個人情報は,文脈に影響しない限りで簡略化した.
1. Cさんのかかわりの分析参加者は,20歳代女性,新人で当該病棟に配属になり勤続5年目の看護師Cさんである.Cさんが担当するのは,足病変で外科的処置のため数日前に入院してきた老齢期の女性の東野さん(仮名)である.
1) テーマ1 患者を感じ,働き出すCさんは,朝の申し送りが終わると,私に東野さんのことを「昨日,転棟してきて,初めて会います.ぽやっとしているようです」とだけ伝えた.その後,チームショートカンファレンスでCさんは,東野さんについてHbA1cの値を報告していた.それが終了し,Cさんと私が東野さんのHbA1cの値のことで話をしていると,医師が「僕の患者のことだねー」と声をかけてきた.
次のデータは,Cさんが東野さんの検温に訪れた血圧測定後である.
(1) FW-C2 場面4Cさんは,「東野さん,おうちでは誰がご飯作っているの?」と聞く.Cさんは,東野さんに視線を向け続ける.東野さんは,「お父さん※」と答える.続けてCさんが食事について質問すると,食事は不規則であると東野さんが答える.Cさんは「あー,そういうことね」と,HbA1cの値が東野さんの食事に起因することとつながったような返事であったと私は感じた.
(省略 夕食について質問)
Cさんが東野さんを見て,「インスリンは誰が打っていたの」と尋ねると,東野さんは,「お父さん」と返す.Cさんは,血糖測定について質問をしていくと,東野さんは自分で測定しておらず,自分の値を知らなかった.Cさんが朝の内服薬が入っていた箱を下げようとしたところ,「2つ薬が残っているよ」と伝え,箱を逆さ向けると,空になった袋と2粒薬が出てくる.東野さんは「あら」と言って起き上がり,ベッドに長座位になり「お水がない」と言う.Cさんは,洗面所で水を入れ床頭台に置く.Cさんは,東野さんが薬をシートから出して内服するところを見ている.「また来ますね」と声をかけ部屋を出た.Cさんは,廊下で私に「やっぱり,ぽやっとしていますね」と言った.
※「お父さん」とは,東野さんの夫のことである.
Cさんは,東野さんに初めて会う私に足病変の具体的状況ではなく,「ぽやっとしているよう」であることをまず伝えたことから,他者から伝達された事が特別気になっていたことが分かる.Cさんは,それを,検温後に「やっぱり」と実感していた.Cさんは,それをいかに実感したのであろうか.
Cさんは,東野さんに食事の準備をしていた人を問うと,「お父さん」と答え,自分で食事管理をしていなかったことを知った.HbA1cの値は,厳密な食事管理をしていなかった背景があったことが分かり,Cさんに「そういうことね」と言わせたのである.さらに,インスリン注射や血糖測定も「お父さん」が行っており,糖尿病療養を他者に任せきりであったことで,Cさんには東野さんの糖尿病療養への緩い態度が際立つのである.東野さんは,内服薬の飲み残しの指摘に,「あら」と焦ることなく「お水がない」と言ってそれとなく水の準備を依頼した.Cさんは,東野さんが内服するところを見ていることから,確実に内服することに注意を払っている.しかし,それを意に介さないような東野さんのマイペースな態度が,Cさんに際立って捉えられる.Cさんには,検温時の東野さんの言動から,緩くマイペースな糖尿病療養の態度が捉えられる.それが「やっぱり」と言わせたのであり,伝え聞いていた「ぽやっと」であると納得したのである.ここでCさんは,東野さんとの直接的なやり取りから,「ぽやっと」を引き継ぐことができた.伝言された患者の捉えは,その言葉が示す患者の状況を実感するなかで理解できたのである.
その後Cさんは一旦スタッフステーションに戻った際,東野さんの「ぽやっと」を,主治医に確認をしていた.次は,その場面である.
(2) FW-C2 場面5東野さんの主治医※が,パソコンの前にいる.Cさんが,「先生,あんな感じの方なの?」と話しかけると,主治医は「そうだよ.カルテにも旦那さんもあんな感じって書いてあった」と言う.
(省略 東野さんの部屋に排泄観察用紙を置きに行き,戻ってくる)
Cさんは,主治医との並びのパソコンで,東野さんの情報を得る.Cさんが,「お子さんも,病状の理解が乏しいと書いてある」と言うと,主治医が近くに来て「家族みんなの時間がゆっくりなんだね」と言って去っていった.
※東野さんの主治医は,整形外科医であり,入院前は他科が担っていた.
ショートカンファレンス後に東野さんのHbA1cの値について話をしていた時に声をかけてきた主治医とCさんは,東野さんと名指すことなく話を進めていた.しかも,Cさんが「あんな感じ」と問うだけで主治医は応じることができていた.二人は,それをどのように捉えていたのであろうか.
Cさんは記録用紙を取りにステーションに来たのだが,主治医を発見すると直ちに,東野さんについて「あんな感じの方」と問う.「あんな」とは,先の検温でCさんが東野さんの糖尿病療養の緩い態度やマイペースと捉えた「ぽやっと」と称されることであろう.Cさんは,主治医が居たことを契機に,東野さんのことを確認するが,そのような行為に移させるほど東野さんの「ぽやっと」した「感じ」が際立ち気にかかるのである.ここでCさんは「感じ」と言うように,東野さんの在り様は,言葉ではっきりと表現できるほどの理解ではなく,感覚として捉えていたのである.続けてCさんは,自分の捉えた感覚を主治医に確認していたことから,医療を提供していくためにはメンバーと共有すべき重要な視点としても際立っていたのである.主治医は,Cさんに「あんな感じ」としか問われていないにもかかわらず,「そうだよ」と答えた.主治医は,入院時よりすでに東野さんとやり取りをしており,その「感じ」を捉えていたため,Cさんの問いを肯定することができたのである.ここで主治医は,「旦那さんもあんな感じって書いてあった」と伝える.「書いてあった」と言うことより,カルテには「あんな感じ」を示す言動や態度の記載があったのであろう.Cさんは,主治医を追うようにカルテを確認し「お子さんも,病状の理解が乏しいと書いてある」と言い,さらに主治医は「家族みんなの時間がゆっくりなんだね」と言い添えてきた.東野さんの「ぽやっと」した「感じ」が,家族成員の糖尿病の理解や生活の在り様から生じていたことを明らかにしていくのであった.Cさんや主治医,さらにCさんへ申し送った他者も含め,東野さんの特徴を「感じ」で捉えていた.それは,東野さんとの直接的やり取りを通して身体で捉えていたのである.
さらに,Cさんは,「ぽやっと」の体感に促され,主治医にその「感じ」を直ちに確認し,カルテから情報を得た.Cさんは,「ぽやっと」という他者からの伝言をきっかけにして,身体で捉えると同時に,東野さんの療養について理解したり,メンバーと情報共有したりと,次なる行為へと働き出していく.Cさんは,東野さんのやり取りから医療上の重要な視点を身体で捉えると共に,次なる行為へと導かれていたのである.
2. Eさんのかかわりの分析参加者は,30歳代女性,当該病棟勤務5年目の看護師Eさんである.Eさんが担当するのは,両足の足趾から足背にかけての足病変で,外科的処置を実施するために入院になった,老齢期にある女性の川辺さん(仮名)である.
1) テーマ2-1 自分の身体で患者に応じる川辺さんが入院し,約1ヶ月が過ぎた.壊死した足趾は切断し改善していたが,足背の壊死部分の治癒に時間がかかり,ベッド上の生活が続いていた.以下は,Eさんが川辺さんの足病変を処置する医師の介助に付いた場面である.
(1) FW- E5 場面4①Eさんが他の患者の検温後に川辺さんのもとへ行くと,医師が足病変の処置をしていた.川辺さんは,「しーっ,しー」と息を吸い,表情を歪め左側にあるテレビに顔を向けていた.テレビの音が漏れ出ているので,私はイヤホンが外れているのかと思った.医師は,水をかけつつ右足を綿棒でこすりながら洗浄していた.右足背部は,広範囲に不良肉芽が除去してあった.Eさんは,川辺さんの足元で処置する医師の近くに待機しながら,川辺さんの顔を見ている.そこに専任の介助看護師が加わったことで,Eさんは川辺さんのベッド右側に移動する.川辺さんはテレビの方を向いているのだが,「しーっ,しー」と息を吸い,Eさんは「大丈夫」と言いのぞき込んでいく.Eさんは時折処置の方にも視線を向けていた.Eさんは,川辺さんの方を向き,顔を歪めた.川辺さんは,正面を向き,歯を食いしばっていた.Eさんは,川辺さんの右腕に手を当てた.「しーっ,しー」の川辺さんの息づかいが続いた.
Eさんは,処置中の川辺さんを見て顔を歪め,川辺さんの腕に自分の手を当てていた.このEさんの行為は,いかに成されたのだろうか.
Eさんは,処置の介助のため足元にいながらも,川辺さんの表情を確認していた.川辺さんは,テレビの方を向いていながらも,「しーっ,しー」という息づかいをしており,Eさんには痛みに耐えるため気を紛らわす川辺さんの態度が見て取れる.川辺さんの態度やその息づかいは,Eさんに「大丈夫」と声をかけさせのぞき込ませていく.川辺さんが歯を食いしばる表情をみせた時,Eさんは顔を歪めて,川辺さんの腕に手を当てた.川辺さんは痛みがあることを言葉で一切発していない.しかしEさんは,体勢や息づかいなどの川辺さんが示す身体の表現から痛みを捉えるために,応じざるを得ないのであった.ここでEさんが手を当てているが,これは川辺さんの痛みを受け止めていることを川辺さんに伝え返すことになっていたのである.この痛みの分有は,その後のやり取りに繋がれていたが,それは次のテーマで述べる.
この場面でEさんは,川辺さんの表現に,表情を歪めてのぞき込み,手を当てていた.これは,痛みをアセスメントし軽減させようと意識的に行うというより,身体がそのように応答をさせていたのである.Eさんの身体の応答には,能動性が伴っており,身体が自ら行為を作り出したのである.
2) テーマ2-2 相手から自分の状況が分かる次のデータは,先の場面の処置終了直後である.
(1) FW- E5 場面4②処置が終わり,尖足予防のために東野さんの足を固定してから,医師が回診車を持ってベッドから離れた.Eさんがベッド右側,介助看護師がベッド左側から顔元にさっと移動し,囲むようにして川辺さんの顔を見た.二人の看護師がそれぞれ「終わったねー」と声をかけた.川辺さんは,「あはははぁ」と大きな声で歯を見せて笑う.Eさんが,「痛いの終わりー」と言うと,川辺さんは,「そうだよ,朝が来る※のが恐怖」と答えるが,表情は笑顔だった.介助看護師は,「テレビ見て休もう.布団は?」と声をかけた.
※足病変患者の処置は,午前中に行われることが多い.
この場面では,川辺さんが「朝が来るのが恐怖」と自分の思いを話していた.川辺さんは,いかにして話すことができたのであろうか.
Eさんと介助看護師は,処置が終わるとまず川辺さんの顔元に来て,左右から囲むようにして川辺さんの顔を見た.川辺さんは,処置の痛みを表情や息づかいで現していたように,それに引き寄せられEさんたちは顔元へ向かう.その際,処置が「終わった」ことを伝え合い,「ねー」とその場のみんなが同感していた.この処置では,川辺さんだけでなく,Eさんたちも痛みを分有しており,終了したことへ安堵を現わすのである.川辺さんの笑いから,痛みに区切りが付いたと理解できた看護師たちは,「痛いの終わりー」の宣言や,テレビを見ている川辺さんのいつもに戻していく.このEさんの処置への区切りの声かけから,川辺さんは,この処置が特別な出来事であったことが現れてくる.川辺さんは,「そうだよ」とその特別さを自覚的に捉えることができ,「朝が来るのが恐怖」と,処置に臨む自分のあり様を話すことができたのである.川辺さんは,Eさんの応答から自分の状況を理解したのであった.このようなことは,Eさんにも起こっていたため,続けて示す.
この日の川辺さんは,自分の足についてEさんに質問する場面があった.私は,以前他の参加者の参与観察をした時より川辺さんが快活であったと感じたことをEさんに伝えた.Eさんは,「【担当が】私だからかなぁ」とおどけつつも,「手術してこの先が見えたような安心感とか,入院に慣れた,とかでしょうか.でも確かに,今日も,朝が来るのが恐怖なんていうことを話すようになりましたね」と答えた.このことについて,後日個別面接をした.次は,このやりとりで,Eさんがどう感じていたのかを問い,それに答えた場面である.
(2) IN- E3, p. 4Eさん:そのー,痛み止めを我慢していた時に,我慢しなくてもいいんだよって,痛み止めを初めて使ったのが,あのへんから,結構川辺さんも顔を見ると,「おぅ」みたいな,反応があったりするんで,たぶん覚えてくれたのか,痛み止めを使ってくれた看護師さんみたいな,感じで覚えてくれたのかなーって,それから会話が,あるような気がします.
私:あーでも,あの時だっていう感じがあるんですか,なんか,それをきっかけに川辺さんがなんか結構いろいろお話してくれるようになったとか.
Eさん:あった,はい,とか,本当に,【その日の】担当じゃなくても,ごはん準備とかでお部屋入ると「あ,お,いたのー」みたいな顔をされる時があるので,たぶん名前は覚えていないんでしょうけど,一人の看護師として顔を覚えてもらえたかなって思ったりは,しますねー.
私:なんかちょっと,う,嬉しい.
Eさん:嬉しいです.
Eさんはこの面接で,鎮痛剤の使用を勧めたことで,川辺さんが自分に出会う度に「おぅ」「いたのー」と応じ,自分のことを「痛み止めを使ってくれた」「一人の看護師」として覚えてもらっていたことを自覚した.Eさんは,看護師としての自分の存在を川辺さんの応答から理解しているのであった.Eさんは,私から東野さんの変化を伝えられ,また面接の場で問いかけられたことで,患者から自分がどのように見られていたのかを自覚したように,常に意識しているわけではない.そのため,それを改めて理解した時に,「嬉しい」気分が引き出されたのである.このようにEさんと川辺さんは,相手の応答に自分が映し出され,自分の状況が分かることが起こっていた.これは,Eさんが川辺さんにケアを提供するという一方向の関与ではなく,川辺さんからも関心が向けられていたのであり,円環のつながりが生まれていたのであった.
ここでは,主題化されることがない身体の次元で生起する看護師の知覚を焦点にして足病変患者との隠れた関係を考察し,入院時の看護への示唆を示す.
1. 看護師の知覚が関係を導くテーマ1「患者を感じ,働き出す」で,看護師は糖尿病療養の緩くマイペースな患者の態度を,「ぽやっと」という「感じ」で捉え,医師に確認し,カルテから情報を得て患者の理解を深めていた.また,テーマ2-1「自分の身体で患者に応じる」では,看護師は患者の痛みを,身体に反映させて捉えていた.看護師は,患者の生活や苦痛を,自身の身体で捉えるのであった.阿保(2015)は,「人間が対象に注意を向け感覚諸器官が動き出して対象的な関係が始まる一歩手前」を前意識的な身体の層と示し,そのような身体の次元の交流から「意識に先立つ体感の形容」(p. 108)が現われると述べる.看護師が患者のあり様を身体で捉えることは,意識的に患者を対象化する手前で,自分と患者とが区別ができない未分化な状態で身体交流をしていたことの証なのである.
加えてこの捉えは,患者の療養スタイルや苦痛といった看護や医療の重要な視点を含んでいた.この捉えとは,看護師の知覚であると考える.Merleau-Ponty(1945/1967)は,「知覚上の〈或る物〉は,いつも他の物のただなかにあって,いつも一つの〈領野〉(champ)の一部分となっている.」(p. 30)と述べる.われわれが知覚するものには,地としての背景が,抜きん出た図を把握することを支えている,図と地の関係がある.これは,医療者と家族では専門性や立場による志向性の違いから,同じ患者を見ていても捉える内容が異なることがあるように,患者が現わす表現を物理的刺激として誰もが同じように知覚するのではないことを示している.看護師は,足病変患者から支援すべきことを知覚から捉えているのである.看護では,患者が話したことや看護師が観察した情報から推論し計画的・系統的に看護師らしく考える(Alfaro-LeFevre, 2010/2012)看護過程の思考を用いることを教育されている.この場合,科学的合理的な問題解決に向け,看護師の感じる知覚を扱うことはない.しかし患者との身体交流から生起する看護師の知覚は,単なる主観ではなく,実際の現場では主題的に扱われており,看護的関係を展開するキーになっているのである.
さらに看護師の知覚は,患者理解のための情報収集や,苦痛を分け合うために手を当てるという次なる行為を促していた.Merleau-Ponty(1945/1974)は,「人間の身体は,そのまわりに或る人間的環境を描き出すようなその習慣をもっており,世界そのものへと向かう運動によって貫かれている」(p. 181)と述べる.看護師は,足病変患者の療養態度や苦痛といった人間的環境を知覚として身体に映し出すために,世界である患者へと向かわせ,行為を繋ぐのである.これは,患者の問題をアセスメントし意識的に介入しているのではなく,身体の方がそのように差し向けていく.看護師は,患者を映し出す身体の習慣に動機づけられて看護的な行為をしていくのであり,看護師の知覚には,患者へ歩み寄せる身体の動機を発動させる力が備わっているのである.
2. 関係の中で足病変患者と看護師が共に現実に新たな意味を開くテーマ2-1で示したように,看護師が患者の痛みの表現に表情を歪め,手を当てるという痛みを知覚し分有する行為は,テーマ2-2「相手から自分の状況が分かる」で示したように,円環のつながりを生んでいた.池川(1991)は,「われわれは患者に問いかけると同時に,相手からも問いかけられるというたゆみない相互性のなかで,自己の現実を新たな意味に満ちたものとして形成してゆくことが出来る」と述べる.これは,関係の中で自分の状況を理解していく看護師と患者の在り様を示しているのである.Merleau-Ponty(1945/1974)も,「他者の身体と私の身体もただ一つの全体をなし,ただ一つの現象の表裏となる.」(p. 218)と述べる.他者である患者の身体と看護師の身体が一つになって司り,円環の現象を作るのである.患者と看護師が関係の中で意味を見出すことは,身体存在という人間の根源を基盤にしたつながりから生まれるのである.この場合の看護師は,客体として患者から距離を置くのではなく自分の身を挺して向き合っている.看護師はいかに患者に向かうのか,その仕方を問わなくては,患者が現状に意味を見出すような人間的な看護の営みは起こらないのである.急性期足病変入院患者は,足切断の恐怖や疼痛といった苦痛を感じながら入院をしている.患者は,看護師との関係の中で,現状の恐怖や苦痛に意味付けながら,入院治療を乗り越えているのである.
3. 看護への示唆本研究では,足病変患者との身体交流を基にした看護師の知覚が契機になり,関係を展開していくことを明らかにした.IT活用が進む中,その一例に,訪問看護師が足病変の画像を撮影し,遠方の専門家とそれを共有し助言を得てケアを行っている.看護師は,創傷だけでなく患者全体を捉えられるようになったと報告している(Kolltveit et al., 2017).撮影時に生起する看護師の知覚が,詳細な観察や質問など次なる行為を促すために,患者全体を捉えることになっていたと考える.技術活用の背後に,患者との身体の交信という関係が隠されており,それらを活用すること自体が看護師の知覚を生起させる呼び水になっていたのである.一方で先に述べたが,看護師がITを用いることで,患者と直接関与しないと感じていた(Rasmussen et al., 2015).有用な手法も,それを用いる看護師の患者への向かい方次第で,看護の様相が変わるのである.急性期足病変入院患者は,切断の恐怖や症状・治療による苦痛を有し,看護師の知覚から展開される関係の中で,現実を意味付けていく.その時その場で生起する,身体存在である人間との生きた関係が必要なのである.今後も,指標や技術を用いる科学的看護が求められることは疑いの余地はない.そこで看護師は,科学だけを拠り所にするのではなく,自身の身体から患者へ向かわなくてはならない.足病変患者に触発されるリアルに感じる自身の知覚に拘らなければ,患者を見失い非人間的な看護しかできなくなるのである.
本研究は,足病変のために身体の見た目の変化や行動制限が伴っている患者と看護師との関係の成り立ちを明らかにした.そのため,症状など身体に変化が伴っていない患者の看護に,本結果を参照するには検討が必要である.近年,糖尿病患者への予防的フットケアが実施され,その効果が示されているが,それが単なる技術のあてはめではないからであると考える.今後の課題は,身体変化が伴わない糖尿病患者に,看護師がフットケアを行う背後で,いかに関係を成り立たせているのか,その内実を明らかにすることである.
付記:本稿は,首都大学東京大学院に提出した博士論文の一部に加筆修正をしたものであり,一部を第39回日本看護科学学会学術集会において発表した.
謝辞:本研究にご協力いただきました協力施設,参加者の皆様に感謝いたします.また,ご指導いただきました東京都立大学西村ユミ教授,ご意見をいただきました臨床実践の現象学会の研究会の皆様に感謝いたします.
利益相反:本研究における利益相反はない.